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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (樺太漁業)

樺太漁業 松川弁之助  樺太漁業は当時なお微々たるものであったが、箱館とは密接な関係があった。,樺太の開発は他日箱館繁栄の一要困となるものであるが、その創成期はこのような人々の苦心が積み重ねられたものである / 樺太漁業
函館市史 銭亀沢編 (松田家と樺太)

松田家と樺太 先にふれた松田作蔵の子孫たちは、樺太への出稼ぎを続けていた。,作蔵の息子の作太郎は、樺太西海岸で畑木仁三吉が所有する漁場で長く大船頭として働いてきたのだという。,畑木はもともと小樽の商人であったらしいが、樺太でも取引をおこなうようになり、それが契機で漁場経営にも進出,戦前の樺太を知る人びとは、誰しも水産物の豊かさを感嘆する。,船頭として樺太へ出かけ鰊漁に携わり、銭亀沢に帰って来ると鰯漁の親方をしていたわけである。 / 松田家と樺太
函館市史 銭亀沢編 (樺太の漁業制度)

樺太の漁業制度 日露戦争の勝利によって、サハリン島は北緯五〇度以南が日本領となった。,当時、これらの人びとは樺太漁業家と呼ばれ、函館に根拠地をおき、長年にわたって経営を続けているものが大半,樺太漁業の将来性は高く評価されていたので、これまで漁場経営などに無縁だった人たちも、投機を目的に入札に,さらにこの漁業権は財産権として法律上の保証が与えられることになったのである(鈴木太代治『樺太水産団体大観 / 樺太の漁業制度
函館市史 銭亀沢編 (工藤福松と樺太)

工藤福松と樺太 工藤の漁場は名目上はロシア人名になっていたから、日本領となった時、おそらく優先権は与,明治四十年に「樺太西海岸特許漁業者大会」が真岡で開かれたが、二九名の来会者のなかに工藤福松の名前があがっているのである,図1・5・2 樺太南部の地図 (『樺太連盟四十年史』所収「樺太全図」より作成)    最初に,大正三年の営業方針は前年同様で、樺太西海岸の仕込漁場も三か所とされている。,これ以降、工藤の樺太における活動は不詳である。   / 工藤福松と樺太
函館市史 銭亀沢編 (中宮家の樺太進出)

中宮家の樺太進出 志海苔の中宮家は、初代亀吉(天保十二年生まれ)が行商の傍ら呉服店を開き基礎を築いた,明治二十三年から漁業にも着手したが、ここでは樺太とのかかわりを述べる。  ,日露戦争後、樺太の優先漁場以外は競売にかけられたことは前にふれたが、これを機に中宮家も樺太へ進出した。,これには、樺太の漁場の収支が記載されており、経営状況を知ることができる。,なお、中宮亀吉は大正六年から樺太建網漁業水産組合連合会の評議員をつとめ、また大正十年から十二年まで樺太亜庭湾建網水産漁業組合 / 中宮家の樺太進出
函館市史 通説編 第一巻 (ロシアの樺太・択捉侵寇)

ロシアの樺太・択捉侵寇 ロシア船が樺太を襲撃した知らせを箱館奉行が受けたのは、あたかも幕府が西蝦夷地,すなわち、それは前年9月11日、ロシアの露米商会員フォストフが、樺太のオフイトマリに上陸して蝦夷の小児,を捕え、更に我が国樺太東部経営の根拠地クシュンコタンに至り、番人富五郎ら4人を捕え、米・酒・煙草・木綿,その書札には新たに樺太島をロシアの領土とし、住民をロシア皇帝の保護下に置くという意味のことが記されてあった,樺太のこの事件は漁場を引上げた後であり、番人のうち3人は逃れたが、船は焼かれてしまったので、松前に通報 / ロシアの樺太・択捉侵寇
函館市史 銭亀沢編 (樺太のミケタ一家のこと)

樺太のミケタ一家のこと しかしこの団助沢での結婚生活もつかのまであった。,というのは、ナスちゃん夫婦とその家族が、樺太へ移住することになったからである。,「聟さんの土地の樺太で暮らした方が、シベリヤ気分がするだらう」(大正八年四月二日付「函新」)ということで,さて、これからあとのミケタ一家の様子は、樺太庁が昭和二年九月に報告した「南樺太居住外国人ノ状況」(市立函館図書館蔵,エヒモフ一家の信仰についてだが、これは『樺太時報』十月号(昭和十五年)と『樺太』十一月号(昭和十五年) / 樺太のミケタ一家のこと
函館市史 銭亀沢編 (樺太の旧教徒との結婚)

樺太の旧教徒との結婚 前にかかげた地図(図1・5・3)でみるとおり、中宮の漁場の近くに荒栗[ヴィセルキ,日露戦争後も南樺太に「残留露人」といわれる人びとが住んでいたのだが、その中には旧教徒もいたのである。,しかし肝心のナスちゃんがミケタを気に入り、樺太には帰したくないというので、髭はいずれのびるものだからと,話がまとまり、ミケタの父親だけが樺太にもどることになった(大正七年十一月三十日付「函新」)。 / 樺太の旧教徒との結婚
函館市史 通説編 第二巻 ([2 樺太出漁の状況])

[2 樺太出漁の状況] 日本漁民の出漁をロシアがどうみていたかを物語るコルサコフ領事久世原の談話がある / [2 樺太出漁の状況]
函館市史 銭亀沢編 (樺太(サハリン)のニシン場)

樺太(サハリン)のニシン場 樺太のニシン場では主に建網に従事した。,函館から汽船で直接樺太まで行った。,樺太の地元から購入するのは菓子類だけで、あとは味噌、醤油、砂糖(樽に入った黒砂糖)、米に至るまですべて,樺太ではニシンの来るのは、早くて五月の五日、六日か五月十日前後が盛漁期になった。   / 樺太(サハリン)のニシン場
南茅部町史 上巻 (鰊場の歩方(ぶかた)(川汲・小板与三郎談・明治二八年生))

    七    八 尾札部村       二六六  二四七   九八  三一五  三七一    樺太,    四月  道内 北千島     五月  樺太   △漁業労働者  一二、五二九人(男一一,、五五〇人 女九七三人)     一月  北千島(鱈)     二月  道内 樺太 北千島(鰊・蟹,)     三月  道内 樺太 北千島(鰊・鮭・鱒・蟹)     四月  道内 樺太 北千島 カムサッカ,(鰊・鮭・鱒・蟹工船・鰮)     五月  道内 樺太 北千島 カムサッカ(鮭・鱒・蟹工船・鰊)
函館市史 通説編 第二巻 (雑領期)

雑領期 明治初年から明治8年に千島樺太交換条約が締結される時期までは、樺太は日本とロシア両国の雑領地,旧請負人の伊達・栖原は樺太の南部西海岸およびアニワ湾の漁場に、それ以外の漁民はシスカ(静河)地方の漁場,また樺太開拓使は現地人の救済のため、明治3年より官営漁業を数か所に開設しているが、漁獲の薄い漁場が多いため
南茅部町史 上巻 (漁民の出稼ぎで薪炭払底か)

明治二〇年代からは樺太、千島への漁業進出にともなって出稼ぎ地も北へと進んでいった。,で一時中断はするものの明治の末から大正にかけて、日本の漁業資本は、カムチャツカからアラスカへ、そして樺太,出稼先 明治四〇年  六〇人  利尻   四一年  九五人  利尻・岩内   四二年  五九人  樺太,・岩内   四三年  九三人  森・岩内   四四年  九三人  樺太・利尻 すべて鰊建網の漁夫
函館市史 銭亀沢編 ([明治期のサハリン島への出稼ぎ])

[明治期のサハリン島への出稼ぎ] 函館港を基地とした樺太(サハリン)漁業家たちの活躍ぶりは、『函館市史,聞き取り調査では、昭和期には「このあたりは、みんな樺太の漁場へ行った」といわれるほどで、昭和八(一九三三,なお、サハリン・樺太の地名については、日露戦争前も含めて明治三十八年七月の地名改正による漢字表記とし、,現在名がわかるものは[ ]内に記した(西村いわお『南樺太』一九九四 などを参照した)。
南茅部町史 上巻 (鰊漁場経営)

(一)飯田屋の樺太進出  明治二〇年代、樺太の南部の漁場はほとんど解放され、日本人の漁場経営は二六〇,箇所に及び、樺太鰊の産額が増大した。  ,この頃、飯田屋は樺太に鰊漁場を経営した。  ,戦争が終結して三八年八月、樺太仮規則によって樺太漁業が再開される気運となる。,乗船し、日露戦争が終わってまもない、硝煙消えやらぬ樺太の地に渡った。  
南茅部町史 上巻 (昆布市場視察)

次いで二等品を用い、品切れのところを利尻、樺太湾内、臼尻産を代用する。             ,販売 尾ノ道市 三好昆布問屋         神戸に同じ                青森・樺太,京都市 伊勢久荒木昆布製造販売店   尾札部産は一部で、主に尻岸内・椴法華・戸井・石崎・日高産なり 樺太産,               上納量は年に約三〇貫匁位 沢昆布問屋          下海岸・利尻・樺太湾内,(一梱一六貫)位のみ 東京市 石井製造販売店        「だし・とろろ」に下海岸・利尻または樺太
函館市史 通説編 第一巻 (シュミット・ライン)

黒松内低地帯  フリードリッヒ・シュミット(Fridrich Schmidt)は、ロシア地学協会の要請により樺太,(からふと)の地質調査(1869~71)をし、その報文「樺太島とアムール地方旅行記」(Reisen im,亜寒帯の境界とし、シュミット・ラインと呼称することを、オーストリア植物学雑誌昭和2年刊に、「北日本と樺太
函館市史 通説編 第二巻 (ロシア語科の新設)

3年開拓次官に就任、樺太専務を命じられて樺太を見聞した黒田清隆は、雑居地である樺太の統治にはロシア語に,  北海道及び樺太開拓ニ付テハ、樺太ノ儀魯人雑居ノ地にも有之、魯語不相開候テハ往々不都合
南茅部町史 上巻 (海産商)

道内一円・千島・樺太の海産が函館港に集散し船の出入に賑わった。  , 一九・八〇   九〇〇 川 端 商 店 川 端 石太郎   〃 明治二四年 海産物一般米穀 本道樺太択捉, 八・八〇   四〇〇 時 田 商 店 時 田 義 雄   〃 大正 元年 塩乾魚筋子 内地本道樺太,本道一円  一三・二〇   六〇〇 赤 塚 商 店 赤 塚 仁 助   〃 昭和 八年 乾魚海草 地場樺太,    佐 藤 商 店 佐 藤 十五郎   〃 明治一五年 塩乾魚貿易品 内地本道樺太  三八・六四
函館市史 通説編 第二巻 (函館出張開拓使庁から函館支庁へ)

この間、4年8月8日には分離されていた樺太開拓使が再び北海道開拓使に合併され、東久世長官が10月15日,に侍従長に転出、樺太専務であった黒田次官が次官(7年8月2日長官に昇任)のまま開拓使を掌握し、使庁、出張使庁体制,支庁とすることとし、函館、根室、宗谷(6年2月に留萌支庁とし、8年3月廃止)、浦河(7年5月廃止)、樺太,(千島樺太交換条約により8年11月廃止)の5か所に支庁が置かれた。
函館市史 銭亀沢編 (新聞に報道されたロシア人旧教徒)

 はこだて』一七号の中村喜和論文(「銭亀沢にユートピアを求めたロシア人たち」)に詳しいが、ここでは、樺太,その婿探しに一役買ったのが、樺太に漁に行く人で、その漁場の近くに住むロシア人村長の三男が候補者であった,そして樺太からわざわざその村長と息子がやってきたのである。,   さて、樺太に出漁するというこの月下氷人こそは、中宮亀吉なのであった。
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使の誕生)

なお、この日より10日ほど前の9月10日、箱館裁判所の時と同様に樺太の主任官に任命された岡本監輔開拓判官,は、イギリス商船ヤンシー号で樺太へ向かっている。,その後樺太開拓については、東久世長官が3年1月22日に参内して樺太開拓使分離を進言したこともあり、同年,2月13日に樺太開拓使が分離された(北海道担当は北海道開拓使と呼ばれる)が、翌4年8月8日には再び合併,この間、後に開拓長官となる黒田清隆が3年5月9日に開拓次官に就任し、樺太専務を命じられている。
南茅部町史 下巻 (【資料三】 逓信省発行 記念絵葉書)

戦争が終わったとはいえ硝煙未(いま)だ消えぬ樺太の地へ出かけた気概を知らせる証である。,飯田家は沿岸屈指の漁場主であり、このとき飯田局長は、戦後の樺太漁場開発に出かけたときの音信に、記念絵葉書,第一野戦局   一五 樺太(コルサコーフ) 港ニテ (九・二二) 小生義十四日午後一時半頃無事着致候間御安心,ヒ下 度先ハ御報迄デ草々敬白 イ便     一七 樺太大泊日本(、、)町 (九・二一) 無事安心アレ,一〇・三〇) 小生義二十九日海上無事後七時三十分安着仕候間御 安心ヒ下度願上候也 三九・四・一五 樺太嶋西海岸
恵山町史 ((2)サンフランシスコ講和会議)

ソ連は北方領土問題について、日本の侵略主義を非難攻撃し、南樺太や千島列島までが、日本の侵略を被ったごとき,千島列島並びに南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連の主張には承服致しかねます。,ただウルッブ以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人の混住の地でありました。,名は代償でありますが、実は樺太南部を譲渡して交渉の妥協をはかったものであります。,その後、樺太南部は一九〇五年九月五日、ルーズベルト米合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約
函館市史 通説編 第二巻 (第1期は無税)

ロシアの地方官は時々更迭があり、この時期の樺太は地方分遣隊の長官が行政官を兼務しており、交換条約の内容,ともあれ、この無税という有利な条件の下で樺太漁業の原初的蓄積が雑領地時代に引続き進行するのである。
函館市史 通説編 第二巻 (移出海産物の取引)

鰊肥料の函館への移入は、樺太産が圧倒的に多い。,鰊締粕では、樺太からの移入が159万円にのぼり、函館近海、江差、稚内および網走が各10万円であった。,鰮粕の産地は函館近海から大津にいたる東海岸で、特に大津が多く、その他粕類は、樺太産を第一とし、江差、大津,、樺太が日本領になっても、その地位に変化はみられなかった。  ,樺太産魚肥の函館への搬入は、専ら樺太漁業家の手でおこなわれた。
函館市史 銭亀沢編 ([ニシン場への出稼ぎ])

戦前は樺太(サハリン)方面が主体であったが、戦後は利尻、礼文や留萌、増毛方面が主な出稼ぎ先であった(本章第一節参照,磯谷にニシンが来なくなってからは、下海岸の漁師の出稼ぎ先は樺太(サハリン)が中心となった。
函館市史 銭亀沢編 (コラム(女の仕事4))

樺太方面の出稼人である。,樺太行きに稍々遅れて沿海洲方面へ行く。向ふでは鰊、鱒獲りをする。,樺太の出稼人が歸る頃になれば、そろそろオホーツク海カムチャッカ方面に出掛ける。,それでは出稼人一箇所に何人行くかと言へば、左の表の通りで最も多く行く所は樺太で、樺太行が行ってしまふと,[北海道図] [南樺太図] [出稼地]  今此處に六年生の卒業生として方々に
函館市史 銭亀沢編 (〈ニシンの糠漬け〉)

〈ニシンの糠漬け〉 樺太の出稼ぎの帰りには、ニシンの塩漬けを樽に入れて持ってきた。
函館市史 通説編 第一巻 (八田三郎の研究)

めながらも、半島説および境界を論ずるならば、移動の全く困難な、は虫類や両生類の資料に基づくべきであるとして、樺太,北海道には産せず、逆に北海道に産するアオダイショウ、マムシ、シマヘビ、トカゲ、カナヘビ、アマガエルなどは樺太
函館市史 銭亀沢編 (漁や出稼ぎの時の弁当)

五月から八月末にかけて男たちは北千島や樺太に出稼ぎ(建網漁)に行った。,樺太行きの時は、船が小樽から出るので、小樽までの汽車のなかで食べる弁当と、船で食べる弁当の二つを持った
函館市史 通説編 第一巻 (ブラキストン・ライン)

について、シベリア大陸系と東亜温帯系の日本列島内における境界線を津軽海峡とし、過去における構想を総括して樺太蝦夷半島説
函館市史 通説編 第一巻 (ブラキストン論文)

しているうちに着目していた本州と北海道の動物相の相違について、最終的に既発表の論文を整理し、いわゆる「樺太蝦夷半島説,オオカミ、エゾヒグマなどの哺乳類が海峡を越えて本州に及んでいないという事実を挙げて、北海道は過去において樺太,と陸続きの樺太蝦夷半島として大陸と接続し、津軽海峡をはさんで本州と対峙(じ)していた時代があった、というのがその
函館市史 通説編 第一巻 (松浦武四郎の記録)

松浦武四郎は弘化2(1845)年28歳の時江差、函館を訪れて以来14年間蝦夷各地を調査し、蝦夷(北海道)、樺太,此の法を樺太(カハフト)タコイ土人に審(タヽス)にさして陸(睦)ケ敷事ならず、其沙の質に依て切るにも磨,此砥石今樺太には往々見ゆ。
函館市史 通説編 第二巻 (販売市場と経営収支)

露国納入税金 530円10銭    総差引不足金損失 342円62銭 4厘   明治35年当時『樺太,と漁業』(樺太定置漁業水産組合)より引用    表9-67では、漁船、漁具等の固定資産を,と漁業』(樺太定置漁業水産組合)より引用.ただし上記数字に不突合があるが原表のまま掲載した.  ,以上のように、明治期の露領樺太漁業はロシアによる様々な圧迫があったにもかかわらず、鮭・鱒漁業、鰊漁業を,樺太地方漁場図  
南茅部町史 下巻 (命令航路)

一、逓信省命令航路   1、函館樺太線(日本郵船)               2、函ペトロパプロフスク,、函館下北甲線(橋谷回漕店)               5、函館下北乙線(奥佐運輸)   四、樺太庁命令航路
恵山町史 (2、開国・蝦夷地の再直轄)

同年八月、長崎奉行へ国書を手渡し、国交を求める事と、樺太、千島列島の境界画定(国境の取決め)についての,なお、択捉島については日本所属を主張、樺太境界については双方の実地見分を約束する。,・一八五四年(嘉永七年)一月、プチャーチン、択捉島の日本所属を認め、樺太については南端のアニア港のみを,ロシアと日露和親条約に調印、下田・長崎・箱館を開港、択捉(エトロフ)島・ウルップ島の間を国境と定め、樺太,同年9月には、目付の堀利煕、村垣範正に蝦夷地視察(樺太を含むロシアの進出状況)を命じた。  
函館市史 通説編 第二巻 (船に網と人をのせ)

船に網と人をのせ 「再歳、樺太地方に於て鱒漁をなすに日本船に網を積み人をのせ、数百里の大洋を経て漁業,をなせり、是れ他なし、無税なると且つ魚の多数なるに因るなり」と、明治11年9月5日の「函館新聞」は簡潔に樺太漁業,レモ二、三百石以上ノ船舶ニテ、且ツ年々莫大ノ利益モ之レ有ル趣ニ付キ」とあって、小さな漁船とは違うから、樺太航行大和船,30年代は汽船が主力となるが、樺太漁業のために特に建造されたものはなく、300トン内外が多かった。
函館市史 通説編 第一巻 (キタキツネ)

アカキツネの別名を持っているが、細かな亜種区分に基づくと、津軽海峡以南のものをホンドキツネ、北海道、南千島、樺太
函館市史 通説編 第二巻 (第3期は規制)

調査中とのことで、旧規則が1か年適用されるが、6月には営業税率の改定を布告し、この実施をみた32年には樺太島,日本側の抗議に対する回答は、「樺太島ニ於テ是レ迄日本漁業者ニ漁業ノ許可ヲ与ヘ来リシコトハ一ヵ年間ノ期限,日露開戦のため、明治37、8年の樺太出漁は休止された。
函館市史 通説編 第二巻 (第2期は課税)

第2期は課税 明治15年にロシアでは樺太島の官制改革があり、コルサコフ港には沿海州軍務知事の管轄に属,すでに出漁の準備を終り樺太へ渡航しはじめていた日本漁民は困難をきわめ、「二十四隻ノ風走船ハコルサコフ港
恵山町史 ([戦後の漁業])

のみならず、戦時中の乱獲、船舶・施設設備の不備、資材不足等による生産額が激減する最中(さなか)、樺太(,イワシの回游が途絶えニシンの回帰が北上するとともに、これらの漁師は、日本海西海岸や樺太の鰊漁場へ出稼ぎし
函館市史 通説編 第二巻 (交換条約と出漁)

断念した漁民も伊達・栖原を除いて熱心に出漁願を諸官庁へ提出し、ついに明治9年3月の太政官布告第25号「樺太島,これら漁民の系譜は、勝山藩・若狭藩関係者、加納藩関係者、松川弁之助一族、北蝦夷地出稼人・樺太御用達人にわけられる,付与を受け、露領となった漁場で明治9年より明治36年までの28年間、漁業を営んだのである(表9-53樺太島出稼漁業一覧表参照,   表9-53 樺太島出稼漁業一覧表 年代\事項 漁場主数 漁場数 投網数 積取船数
椴法華村史 (昭和二十三年)

八・一〇 樺太大泊からの避難者、発動機船等によって稚内及び付近海岸に殺到する。,当時樺太からの引揚数約八万人以後の脱出帰還者約二万。    ,昭和二一年    九・二六 十月以降シベリア及び樺太から日本人送還の用意ある旨ソ連当局が発表したと渉外局,引揚第一舟雲仙丸樺太より入港 昭和21年12月6日北海道新聞 昭和二二年    一・四 第二次引揚船間宮丸入港
椴法華村史 (昭和二年)

大正九年・十二年と続いた不景気のあたりから、椴法華村では以前より多数の村民が、樺太・千島及び道内の各地,(文中に後志支庁管内を主な出稼先としているが統計的には千島・樺太等への出稼も多数あった。)
函館市史 通説編 第一巻 (石狩低地帯(河野ライン))

館脇操は、森林樹種の分布から、石狩低地帯を境として北海道を大きく二分し、この地帯より北東部を、南樺太
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田村の煉瓦製造)

函館製瓦合資会社となり、明治四十五(大正元)年熊井工場が設立を見、これらの工場の製品は函館ばかりでなく、樺太
函館市史 銭亀沢編 ([風俗習慣])

サレド近来樺太「カムチヤツカ」ヲ初メ其他ノ漁場ニ出稼スルモノ漸ク多キヲ加フルト同時ニ往々巨万ノ富ヲ博スルモノモアレドモ
函館市史 銭亀沢編 (旧外崎菊一家住宅 [イチヤマボシ] 古川町 16)

大工は樺太(サハリン)豊原(ユジノサハリンスク)の高橋忠義で、当初は主屋東側に二階建瓦葺のゾウグラ(蔵倉
南茅部町史 下巻 (大正四年 函館港海運・回漕店)

                   第五日高丸  酒田行                    第二高運丸  樺太西海岸,                     江陽丸  室蘭ヨリ横濱行                      東成丸  樺太西海岸,                定航    隼丸  同所行  仲濱町一四番地  合資会社共同回漕店      樺太行命令定期,                   第三大亀丸  同所行 地形は「日本水路誌」大正8年「水路部」に拠る/地名は「北海道樺太南部沿岸水路誌
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