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函館市史 通説編 第一巻
(コシャマインの乱)
松前氏祖
武田信広
しかも越えて翌長禄元(1457)年5月、東部の酋長コシャマインを陣頭に、いよいよ,時に花沢館の蠣崎季繁の客将
武田信広
は、敗走した諸館軍を整えて七重浜に戦い、苦戦のすえ
武田信広
の強弓でコシャマイン
函館市史 銭亀沢編
(館主たちの支配版図)
それぞれ「下之国守護」に弟の下国家政、「松前之守護」に下国定季、「上之国之守護」に蠣崎季繁(原文では
武田信広
,補任し、その守護職を補佐する者として、それぞれ「下之国」に河野政通、「松前」に相原政胤、「上之国」に
武田信広
恵山町史
([渡島半島“みち”のはじめ])
これに対して和人豪族側は、上ノ国花沢館の客将
武田信廣
を総指揮官に、態勢を立て直し反撃に移り、長祿元年(,
武田信廣
は、その後上ノ国蠣崎家を継ぎ事実上諸豪族の指導者の地位に着き、第2代光廣は本拠地を大館・松前に,いわゆる“はりみち”も、かって下國家政が
武田信廣
に会いに行くため通った踏み分け道・木古内山道を、文化年間
函館市史 別巻 亀田市編
(蝦夷蜂起)
はかろうじて茂別(現上磯町字茂辺地)と花沢(上ノ国町)の二館を残すのみとなったが、この時花沢館にいた
武田信広
椴法華村史
(康正二年、長禄元年の乱)
この時アイヌ人を鎮圧した
武田信広
は、蠣崎季繁の嗣子となり、上の国に州崎の館を構築し、次第に諸館の館主達
戸井町史
(二、和人の館)
⑤康正三年(一四五七) 下北蠣崎の錦帯域主蠣崎蔵人信純(後の
武田信広
といわれる人物)が、北部王家,このことから安東政季、蠣崎信純(後の
武田信広
)等の渡島は、康正三年五月十四日以前ということが推定される
戸井町史
(一、蝦夷時代の概観)
松前家の祖、
武田信広
が渡島直後に起った道南の大事件コシャマインの乱すら、蝦夷の伝えたものでは何一つうかがい,『松前年代記』は『福山秘府』の資料の一つになった文献であるが、これは松前藩の始祖
武田信広
時代から寛文七年
戸井町史
(三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃))
武田信広
は蠣崎蔵人信純であることを隠すための作為が、松前史を書いた者によってなされたことは明らかである
南茅部町史 上巻
(志海苔で古銭の大甕出土)
(新北海道史) 享徳三年(一四五四)になると松前家の祖となる
武田信広
がのちの箱館の館主河野政通らと
恵山町史
(恵山に登った菅江真澄)
1454年(享徳3)松前氏の祖、
武田信広
が、この地に上陸して地元民の崇敬に倣い祈ったという。
函館市史 銭亀沢編
(コシャマインの戦い)
長禄元年の最大規模の民族戦は、前引のように、
武田信広
が総大将となり「狄の酋長胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人
戸井町史
((参考)康正三年(一四五七)の下北地方豪族配置図)
丁丑は「康正三年」で、蠣崎蔵人信純(後の
武田信広
といわれている人物)の居城、錦帯城(きんたいじょう)、
函館市史 銭亀沢編
(安藤康季の渡道と「道南の十二館」)
享徳三(一四五四)年、安藤政季は晴れて
武田信広
・相原政胤・河野政通らを従え、南部大畑より、蝦夷島に渡った
戸井町史
([蝦夷地と馬])
安東盛季や蠣崎信純(
武田信広
)などは、戦(いくさ)に敗れて命からがら渡海したので、馬を船に積んでくるなどという
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