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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭築造の内容)

運びとなり、安政三年十一月、組頭河津三郎太郎祐邦、調役並鈴木孫四郎、下役元締山口勇之進、諸術調所教授武田斐三郎成章,かくて設計監督は諸術調所教授武田斐三郎、土工工事担当松川弁之助、石垣工事担当初代井上喜三郎、庁舎及び役宅建築担当中川源左衛門
恵山町史 (②古武井熔鉱炉に関する研究 幕末期蝦夷地開拓と外国技術)

奉行は蘭学者武田斐三郎に対し、箱館に入港する外国船の乗組員から、艦船の製造・砲台の築造・熔鉱炉の建造等々,について尋ねさせ、外国技術の吸収に努めさせるとともに、安政3年(1856)諸術調所を設置して武田斐三郎,本稿は武田斐三郎が残した数々の業績の中で、古武井(現亀田郡尻岸内町)に建設された古武井熔鉱炉を通して、,たまたま「功者之者」として、蘭学者武田斐三郎が選ばれたが、これは決して偶然のことではなく、彼の経歴がこの,更に長崎からの帰途、佐賀に立ち寄り反射炉を見学した時、「武田斐三郎は川路君の命に、鋳場の反射炉、諸機盤等
恵山町史 ([五稜郭と古武井熔鉱炉])

そして、これらの設計に当たったのが蘭学者であり諸術調所教授役の武田斐三郎である。  ,武田斐三郎はこの設計・構築を進めるとともに、これらに装備する大砲(砲身)の鋳造、あるいは軍艦装甲の鉄板,当初の五稜郭の築造プラン(設計者は蘭学者で諸術調所教授役の武田斐三郎)は、西洋の「塁営台場」を模倣し、,年版の「渡島の史跡と景勝」という観光パンフレットには、熔鉱炉跡の写真が添えられ「箱館奉行諸術調所教授役武田斐三郎,(成章)安政三年古武井に地を相し煉瓦製造所及び仮溶鉱炉を設け、同年溶鉱炉及び反射炉の建築に着手し砂鉄を
恵山町史 (③幕末蝦夷地の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:古武井の高炉)

この感懐は翌日、市立函館図書館で「新撰北海道史」に収められた諸資料、武田斐三郎の書いたアムール旅行の写本,その最高責任者が蘭学者武田斐三郎成章(以下斐三郎と略す)であった。,武田斐三郎は同書の翻訳者たちとともに伊東玄朴の門人であり、また佐賀の反射炉を手がけた杉谷雍助、水戸反射炉,(『道史』2巻 787~788p)  これらの産業近代化もさることながら、武田斐三郎を教授,武田斐三郎の人間像  文政10年(1827)8月15日、伊予国大州藩士の次男として生まれた。
函館市史 通説編 第一巻 (諸術調所)

その教授には伊予大洲藩士武田斐三郎成章を登用したが、同人は「蘭学の儀は当時有数比類なく、且漢学にも長じ
恵山町史 (銅・鉛・亜鉛・硫化鉄・アンチモニー)

くから知られ江戸末期の安政2年(1855年)に、箱館奉行竹内下野守(保徳)の命によって、諸術調所教授役武田斐三郎,(成章)が、古武井の砂鉄を検分している。
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