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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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戸井町史 ([菅江真澄の戸井紀行(寛政元・三年)])

戸井町史 / [菅江真澄の戸井紀行(寛政元・三年)] 今から百八十年も昔に、菅江真澄くらい戸井のことをくわしく書いた,戸井の文化財「板碑」発見の契機(けいき)の一つが真澄の紀行文であったのである。,菅江真澄の肖像  菅江真澄は寛政元年(一七八九)七月、福山を出発し、下海岸を通って恵山まで往復し,内田武志が『松前と菅江真澄』(昭和二十五年刊)に『ひろめかり』の継缺(だんけつ)文を発見したと書いている,前後三度戸井を通っているが、寛政元年七月十二日から五日間も戸井の運上屋に滞在した時の日記や紀行文が散逸 / [菅江真澄の戸井紀行(寛政元・三年)]
函館市史 通説編 第一巻 (江戸系商人)

江戸系商人 しかるに、この近世初期以来永く続いた近江商人団による流通独占体制は、宝暦前期を最後にその,と全く系譜の異なる主に江戸系商人が進出し成長しはじめたこと、第二にこれら江戸系商人は、蝦夷地の広大な良漁場,の鰊の不漁が、近江商人の経済的基盤に大きな打撃を与えたことなどが挙げられる。  ,栖原角兵衛、陸奥の伊達林右衛門、飛騨の飛騨屋武川久兵衛などであり、村山伝兵衛を除き、すべて渡道以前に江戸,を足場に活躍した経歴を持つ商人たちで、栖原、伊達は松前に進出後も依然として江戸に店を持っていた。 / 江戸系商人
南茅部町史 上巻 (新鱈の江戸送り)

新鱈の江戸送り 箱館の高田屋は、鱈場所から買い集めた新鱈を、江戸の正月にむけて年の暮れに幾艘もの船を,また、帆走故に順風ならば三昼夜で江戸に入港したことも稀れにあったという。,箱館から銚子まで二百里、銚子より江戸まで三六里といわれた。,高田屋嘉兵衛申上書 一 最上の鱈□□は江戸へ差船有之候間ニ不合義多く有之候よし   是は全く入用を,と云ふ 鱈場所より極順風にて昼夜走く候時は三日三夜にてハ江戸にも乗込候よし也 一 松前箱館江差の三湊 / 新鱈の江戸送り
函館市史 通説編 第二巻 (江戸城引渡交渉)

江戸城引渡交渉 鳥羽伏見の戦いの敗北を見て、大坂城から旧幕府海軍の旗艦開陽で江戸へ逃げ帰った前将軍徳川慶喜,会津藩主松平容保、最後の京都所司代で容保の実弟である桑名藩主松平定敬、元老中の備中松山藩主板倉勝静らは江戸,を去ることとなり、江戸城中は恭順論が大勢となっていった。,西郷は、勝の嘆願条件の検討を約束し、とりあえず江戸総攻撃の中止を指示した。,第二箇条 城明渡シ尾張藩へ可相渡ノ事(勝は江戸城を田安慶頼預かりとすることを嘆願していた。) / 江戸城引渡交渉
戸井町史 (三、戸井に移住した人々)

戸井町史 / 三、戸井に移住した人々 現在戸井に居住している人々は、何代か前に本州或は道南各地から移住した人々の子孫,この外近江の国から来たので近江屋と称した〓宇美家、水戸の国から来たので水戸屋と称した水戸家、九州から来,○天明五年八月十九日、菅江真澄が目撃したことを書いた『外が浜風』に 「浜路を行ってうとうまいのかけけ橋,○寛政五年五月一日、菅江真澄が『奧の浦々』に「宿野辺(すくのべ)から川を渡り、広い野を過ぎて桧川(ひかわ,大体以上の事情や動機で戸井に定住し、その子孫が戸井に繁殖したのである。   / 三、戸井に移住した人々
戸井町史 ([戸井の魚の根について])

戸井町史 / 戸井で魚をとるための目標の山は「丸山」である。,函館山の陰から姿を表わす山を戸井の漁師は「ダラダラ山」「笠山」「江差山」と称している。,戸井沖の根を西の方からいうと、丸山の頂上と汐首岬を結んだ線と「江差山出し」(漁師はこのように呼んでいる,この根の江差山出しのフケ岸にドンコ根がある。  ,これらの根は、戸井の漁師が長年に亘ってさぐり当てたものである。 戸井沖の魚の根の略図 / [戸井の魚の根について]
戸井町史 ([戸井地方の風と天候])

戸井町史 / ○ 急激にヒカタの突風に襲われた場合は、多少遠くても西方に山や岬を負っている入江に避難すべきである。,⑤しけの場合の安全な避難場所   ア イ(北東)=西方の入江、又は東方に山や岬を負うている入江   ,ヤマセ(南東)=東方に山や岬を負うている入江   ヒカタ(南西)=西方に山や岬を負うている入江  ,思い切って日浦の入江や、大澗漁港に避難した人々は全部難を免れた。    ,戸井地方で昔海岸の岩の上で、シャクデという長い木の竿でブリを釣ったり、戸井の浜中の沿岸にブリの大群が打 / [戸井地方の風と天候]
戸井町史 ([戸井の地名考])

戸井町史 / 武井の島の対岸の入江コブタ(小歌)に戸井漁港がつくられ、昭和46年7月1日から、戸井漁港から、下北半島,コブタ戸井漁港の入江の浜につけられた名で、近世になって小歌という漢字が当てられている。,場所は昔の〓宇美家の三号漁場のあった入江、現在の戸井郵便局の前の入江につけられたものであろう。,カワシリの入江につけられた名で「弁才船の碇泊(ていはく)する入江」という意味で、各地でこの名のある入江,コロドマリトマリは「入江」の意味なので、岬の入江につけられた名であろう。 / [戸井の地名考]
戸井町史 ([戸井の医療機関の沿革])

戸井町史 / 貫之堂医院(長谷川医院)跡    5 江藤医院  日大医学部出身の江藤孝作が、大正六年二十七才,江藤医師の死去後、某医師がこの建物で診療に従事していたが、事情により江藤医院を出、その近くで開業したが,本間医院跡    11 釜谷の村立病院  小安の江藤医院が廃業してから、西部の住民が医療に不便,片平は生前仙台の鈴木碧、天江富弥、石川善助、佐藤長助、花巻の宮沢賢治などと親交があった。  ,片平の死後十七年を経た昭和四十六年九月十八日、鈴木磐(へき)、天江富弥等の友人知己が、片平の詩碑を建立 / [戸井の医療機関の沿革]
戸井町史 (一、戸井の館とその伝説)

戸井町史 / 伝説のあるあたりに館鼻という地名がつけられ、館のあったという場所の近くの入江がオカベトノマ、オカベトマリ,この入江の名は現在残っていないし、古老も知らない。,〓宇美家が近江国から鎌歌に移住して来たのは、亨保年間と推定されるが、鎌歌から浜中に住居を移したのが明治二十七年,菅江真澄が寛政元年(一七八九)七月十七日このあたりを通った時の紀行文には、神社のことを全然書いておらず,右トイというところに、岡部の澗といって、小舟がかりの入江がある。陸には岡部館というところがある。 / 一、戸井の館とその伝説
椴法華村史 (〔江戸時代の海難〕)

〔江戸時代の海難〕 船は大海の中の木の葉のようなものであり、世間ではよく『板子一枚下の世界は地獄などという,こんな危険があっても、江戸時代の水主(かこ)(船乗)達は海上の航路を開き、文化の伝播・商品の流通に生きた / 〔江戸時代の海難〕
函館市史 通説編 第一巻 (江戸時代の用語)

江戸時代の用語 明治23年の「博物場陳列品其他越品調書」「函館博物場列品目録歴史之部」によると、″太古,矢板石、天狗のメシカヒ、雷斧石、雷鎚という名称は江戸時代から明治にかけて普通一般に用いられていた呼称である,『雲根志』(今井功訳注解説・昭44)にある江差の村上八十兵衛の話によれば、安永6年から8年に熊石に落雷 / 江戸時代の用語
南茅部町史 上巻 ([江戸時代の出稼ぎ])

[江戸時代の出稼ぎ] 沿岸漁家にとって、地元での漁業収入だけでは経済的に不安定なため、古くは江戸時代 / [江戸時代の出稼ぎ]
戸井町史 (戸井町史の発刊にあたって)

戸井町史 / 戸井町史の発刊にあたって 戸井町教育委員会教育長(町史編纂事務局長)堀田久善 戸井町史の発刊にあたって,  戸井町教育委員会教育長(町史編纂事務局長)堀田久善  郷土の歴史を知り、先人の遺業を偲んで、戸井町,それにしても戸井町は、北海道でも松前、江差、箱館地方を除けば草創の古い方ですが、古記録、文献に乏しく、,(稿)」第一集から第四集および「戸井町史年表(稿)」を発刊されたのでした。  ,野呂先生の資料調査探訪中に発見された、汐首地区の円空仏あるいは戸井館附近の板碑等の貴重な文化財。 / 戸井町史の発刊にあたって
戸井町史 (六、東戸井漁業協同組合)

戸井町史 / 、戸井漁業協同組合と原木漁業協同組合とが合併して、新しく東戸井漁業協同組合を設立することになった。,事務所は本所を戸井町字館町二一番地(旧戸井漁業協同組合)に、支所を戸井町字原木一四番地(旧原木漁業協同組合,昭和四〇、 五、 一  東戸井漁業協同組合規約並びに東戸井漁業協同組合定款が定められ、この日より施行された,昭和四五、一二、一四  東戸井漁協、戸井西部漁協たこ入会操業協議会。,竹松    事務局長 斉藤 政雄  漁業権管理委員    委員長  大江 栄作    副委員長 / 六、東戸井漁業協同組合
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

5、江戸時代の鱈漁 <鱈の漁場、恵山沖> 文化14丑年(1817)12月、『新鱈儀定證文之事』より,を江戸に出す」と記されている。,因みに、鰻のかば焼きも伝統的に、商人の町大阪は腹開き武士の町江戸は背開きといわれている。,新鱈の江戸送り  鱈漁・新鱈は大消費地である江戸へ、しかも正月に送られることによって成り立つ商(あきな,江戸時代の鱈加工品については、この外「鱈油」「鱈〆粕」が上げられる。   / 5、江戸時代の鱈漁
戸井町史 ([戸井の鳥類])

戸井町史 / 春から秋まで植物採集に、戸井の山野を歩き廻ると、こんな珍らしい鳥も戸井にいるのかと思う位、いろいろな鳥,戸井で繁殖し、戸井附近より移動しない留鳥(りゅうちょう)、戸井で栄巣(えいそう)して繁殖(はんしょく),「門(かど)を叩くクイナ」は、昔の物語や随筆や和歌などに出て来る鳥であるが、菅江真澄の道南紀行の中に「,戸井近海でこの鳥を見るのはこの頃である。  ,戸井の鳥類の分類(留鳥45種、渡り鳥113種 計168種) 戸井の鳥類の分類(1) 戸井 / [戸井の鳥類]
戸井町史 (一、戸井の商業の変遷)

戸井町史 / 一、戸井の商業の変遷 下海岸の商業の変遷といっても、蝦夷時代から明治時代までの数百年は、交通の便も悪,しかし、江戸時代の末期ともなると、松前を中心に蝦夷地産物の流通機構は徐々にではあるが成立して来ており、,この頃、戸井村の汽船扱店として字館鼻に金沢回漕部、谷藤回漕部の二店があり、回漕店と呼ばれていた。   / 一、戸井の商業の変遷
戸井町史 (二、戸井の板碑(いたび)と発見の経緯)

戸井町史 / 「管江真澄が寛政元年『十七日、上風というが吹きて、空の晴れたれば、此の運上屋を出たつ。,(3) 館の伝説のある附近の入江の名(オカベトノマ)  トイという地名の記録されている最も古い文献は,岡部某が戸井に館を築いていた時代に、附近の蝦夷は岡郎殿と称し、附近の入江を岡部殿澗と名づけ、館が滅びた,松前志と松前国中記では、オカベトノマとトイの順序が逆になっているが、オカベトノマは館のあった附近の入江につけられたものであり,同じ地域の海岸の入江と崖につけられた名であるので、松前志と松前国中記の何れが正しいとは言われない。 / 二、戸井の板碑(いたび)と発見の経緯
函館市史 通説編 第一巻 (江戸期の生業(なりわい))

江戸期の生業(なりわい) コシャマインなどのアイヌ騒乱によって、和人の生活には空白の一時期を生じたが,、江戸期に入ると亀田地帯が栄え、農業が生まれた。,箱館は漁民が住む程度であったが、江戸中期になると本州方面から商船も多く入港し、問屋も出現した。 / 江戸期の生業(なりわい)
戸井町史 ([戸井の鰮漁の沿革])

戸井町史 / [戸井の鰮漁の沿革] 戸井の鰮の豊漁は、明治三十三年(一九〇〇)から大正時代を経て、昭和十四年(一九三九,「鰮といいば戸井、戸井といいば鰮」と戸井の名が鰮の代名詞のように、全国に喧伝(けんでん)されたのである,「江差の五月は江戸にもない」というのは、鰊大漁時代に生れたことばであるが、鰊景気に湧いた福山、江差の鰊,及びもないが、せめて歌棄(うたすつ)、磯谷(いそや)まで」と追分節に歌われた後志(しりべし)地方は、江差,、松前の鰊がとれなくなってからの鰊漁場で、江差、松前、下海岸、蔭海岸の漁民がたくさん出稼ぎに行った。 / [戸井の鰮漁の沿革]
戸井町史 ([戸井と近隣の変遷])

戸井町史 / 津軽藩は江戸表にあった藩主信政に急報し、信政は幕府の許可を得て、取敢えず藩士杉山八兵衛に一隊の兵を率いさせ,細大もらさず弘前(ひろさき)に報告し、その報告を受けた津軽藩は、飛脚(ひきゃく)を頻繁(ひんぱん)に江戸,入江(オカベトマリ)の近くにおわします観音菩薩のそばの草の中に、転んでいる石文があった。,寛政元年七月に、菅江真澄は戸井の運上屋に五泊もしているので、「戸井館の伝説」などもくわしく採録したものと,江差の港のすぐ近くにある小山観音は、あらはばきの神である。 / [戸井と近隣の変遷]
戸井町史 (四、戸井から六万枚の古銭と宝物出土(文政四年))

戸井町史 / 戸井村ではその処置に困り、当時の村役人であった頭取石田半治郎、戸井の小頭藤七(伊勢屋)鎌歌の小頭与八、,世話人である戸井の藤吉(金沢)茂八、鎌歌の第吉(近江屋―後の宇美)等が協議の上、場所支配人であった箱館村,戸井の館跡附近から出土した古銭(文化4年)  古銭などの出土した場所は、岡部の澗という入江(現在,の戸井郵便局の前の入江)のある小沢(宮川)で、この近くの高台に岡部館と呼ばれている所がある。,又戸井の入江にオカベトノマ、オカベマ、オカベトマリと名づけられてその名が伝承されて来たことも事実である / 四、戸井から六万枚の古銭と宝物出土(文政四年)
戸井町史 (八、戸井西部漁業協同組合)

戸井町史 / 八、戸井西部漁業協同組合 戸井漁業会の解散により、昭和二四年七月一日、戸井村字釜谷、戸井村字汐首、戸井村字瀬田来,の三部落をもって戸井西部漁業協業組合が設立された。  ,当時の組合員は三五〇名で、当初は戸井村字小安の部落をも含め、釜谷・汐首・瀬田来の四部落をもって戸井西部漁業協同組合設立,事務所は戸井村字釜谷に本所を置き、戸井村字汐首と戸井村字瀬田来の二ケ所に支所を設置した。  ,昭和三六、 八、一五  江良からの種アワビ二〇、〇〇〇個を放流した。 / 八、戸井西部漁業協同組合
戸井町史 (二、戸井無限責任漁業協同組合(漁業会も含む))

戸井町史 / 戸井に於いては、北海道条例にもとづいて昭和八年八月二〇日に戸井無限責任漁業協同組合が設立された。  ,の設立総会は、戸井村字弁才澗にある日新小学校体育館を会場として開催された。  ,事務所は戸井漁業組合より引続き戸井村役場庁舎の一隅にあったが、昭和一六年に根崎にあった亀田郡水産会の建物,を購入し、解体して戸井町字館町二一番地に移転し事務所にあてた。,は戸井から鰊漁場(函館、江差、岩内、小樽、留萌、天塩方面)に出稼ぎする漁夫によってもたらされたものであり / 二、戸井無限責任漁業協同組合(漁業会も含む)
函館市史 通説編 第一巻 (江戸交易と東回り航路の発達)

江戸交易と東回り航路の発達 以上にみたようにこの時代の商品流通上の最も大きな特徴は、幕府自ら流通ルート,その結果、江戸・大坂間の流通が著しく発展した。,江戸との関係は宝暦、天明ころから次第に発達しつつあったが、松前藩の再生産構造の特殊性からそれ程発展し得,ところが幕府直轄によって、従来の流通ルートは大幅に変化し、江戸との交易が非常に盛んになったばかりか、いわゆる / 江戸交易と東回り航路の発達
恵山町史 ([江戸時代の漁業])

[江戸時代の漁業] 昭和36年 中目雅博氏撮影 昭和36年 中目雅博氏撮影 平成,爾来、来住者漸次増加し天保年間(1830~43)より慶応三年(1867)に及び、戸数優に一八二戸を算出,し、その後戸数の増加を来しつつ今日に至れり。,については、縄文人の時代から知られ観察され、そして、乗り切ってきたわけであるが、和人が知るようになったのは江戸中期以降,また、これらの直接的な商いは当時日本の商業界で卓越した活躍をしていた近江商人であった。   / [江戸時代の漁業]
戸井町史 ((附)昔の戸主名(明治十三年以降))

戸井町史 / この調査表は戸井と全然関係のない人々には興味はないだろうが、戸井で生れ、戸井で育ち、戸井で生活している,明治十三年時代の戸主は殆んどこの世にないだろうし、明治三十五年時代の戸主でも生きている人は少ないだろう,戸井町の行政史、産業史等に名を残していない多くの人々こそ、戸井町発展の基盤であり、原動力であったことを,このような観点から、他町村の人々には関係も興味もない昔の戸主名を載せることは、「戸井町の過去の発展を支,水戸忠治 伊藤留蔵 干場藤太郎 田中作次郎 米田甚五郎 佐々木兼太郎 池田八重太郎 大江鉄太郎 松代要造 / (附)昔の戸主名(明治十三年以降)
恵山町史 (4、江戸時代の昆布漁)

4、江戸時代の昆布漁 前記の『蝦夷商賈聞書』『松前国中記』『箱館六ケ場所調べ』等に見るように、また、,ここでは、江戸時代、郷土に繁栄をもたらした昆布について取り立てて述べてみたい。  ,亀田地方(東在)の「村民1戸につき、元昆布13駄と定められ、このなかの半駄は献上用の赤昆布。,尻沢部(函館住吉町)より小安(戸井)まで  浜 役 七駄  (文化年間より金納を許す・一駄に付 銭一,〇〇文)  家 役 一三駄半(同  ・同銭 八〇文)  菓子昆布 一駄 瀬田来(戸井)より鹿部まで / 4、江戸時代の昆布漁
恵山町史 ([江戸時代の農業])

[江戸時代の農業] 海を渡ってきた人々は、当然の事ながら、食料は自給自足しなければならなかった。,なお、この蝦夷日誌、戸井村の項では、「畑少し有。,をなし、傍ら山稼をするよし」とあり、土産に「野菜もの・薪・炭を多く焼出すよし」と記述されていることから、戸井村 / [江戸時代の農業]
戸井町史 ([シロイ浜の硯石と最上徳内])

戸井町史 / 硯石     箱館村の石崎村、シロイの浜という所に一円にあり、又この山陰にヌルイ川という所にあり、江戸細工人,変成岩が厚大な層をなして露出しているので、徳内は汐首岬を船で越えて戸井の運上屋に来たものと思う。,徳内が「日本への運送安し」と書いているところから察すれば「この石を江戸に輸送して硯を造らせよう」という,意図があったものと思われるが、戸井に硯石があるということを村人は知らない。  ,寛政二年十月御普請役下役に取り立てられ、十二月には御普請役に昇進し、直ちに蝦夷地派遣の幕命を受け、翌寛政三年正月江戸
戸井町史 (六、むじなのよく出た場所)

戸井町史 / 六、むじなのよく出た場所 昔戸井でむじなのよく出た所は、ゴッコ澗の崎(役場庁舎のある所の崎)シスンの,〓石田松太郎と浜中の大江常太郎は若い頃仲がよかったので、常太郎が時々〓へ遊びに行っていた。,(大江栄作談)
函館市史 通説編 第一巻 (三港の戸口比較)

三港の戸口比較 嘉永3年におけるいわゆる蝦夷三港の福山、江差、箱館の戸口を比較すると第2表の通りで、,箱館市中の戸口はいまだ福山には及ばないが、すでに江差を凌駕し、付近の村々を合わせた人口では第1位に躍進,  第2表 三港の戸口比較 地名 戸数 人口 男 女 福山 市中 3,575 14,133,1,668 7,746 4,079 3,667 計 5,243 21,879 11,586 10,293 江差,22,383 11,637 10,746 備考 福山村々は知内より小砂子に至る21か村    江差村々 / 三港の戸口比較
戸井町史 (一、運上屋時代(場所請負時代))

戸井町史 / 早くから和人の住み着いた江差、福山(松前)地方は和人が大半を占め、江差、福山から遠ざかるにつれて、和夷雑居,現在の戸井町は、ベルリンの壁ならぬ「汐首岬」で東西に区分されたのである。,この時代に小安、釜谷、汐首が一場所として、小安に運上屋がおかれ戸井、鎌歌、原木が一場所として、戸井に運上屋,運上屋は小安、戸井の外に尻岸内、尾札部、茅部、野田追におかれ東蝦夷地の六場所といわれた。  ,菅江真澄の紀行文の、寛政元年(一七八九)に書いた『ひろめかり』、寛政三年に書いた『えぞのてぶり』の随所
戸井町史 (九、体育・文化行事)

戸井町史 / 戸井町文化祭に出陳された文化財・民俗資料 番号   名     称 所 有 者 住 所 1 北海道文化財指定,有馬頼寧書    〃  〃 96 起信院釈栄相書    〃  〃 97 菅原在正書    〃  〃 98 江戸時代,   〃  〃 120 茶釜    〃  〃 121 書 高橋泥舟 吉田勇一郎 釜谷町 122 絵画 江亭画,金沢 ツナ  〃 131 茶釜    〃  〃 132 書 蘇崇阿 伊藤 鶴松 小安町 133 通貨 江戸時代金,   〃  〃 147 静音筆 山水 千家 義治 館 町 148 泰山書    〃  〃 149 江戸時代金
戸井町史 (凡例)

戸井町史 / 又菅江真澄(すがえますみ)や松浦武四郎などの書いた日記、紀行文は、当時の状態を知ることのできる誠に詳細,で貴重な文献であるので、戸井の分だけでなく、下海岸や蔭海岸の分も採録した。,四、巻末に参考文献を掲げたが、これは歴史、地誌関係の分野の文献に限り、そのうちでも戸井町及び近隣町村の,六、戸井町史編纂の過程で、歴史的にも文化的にも戸井は津軽海峡を隔てた対岸下北地方と関連が深いことを知り,戸井の古い歴史を調べるには、南部と称されていた下北地方の歴史を調べる必要がある。
戸井町史 (二、弁天さんの由来)

戸井町史 / 弁才天の祠・武井の島(2)  武井の島のマンジュウ形の岩の頂上に、小さな祠(ほこら)があり、戸井町,この弁天さんの例祭は六月二十五日で、例祭には戸井町や近村の漁船が、大漁旗などで満船飾(まんせんしょく),をしていた、慶応三年頃(一八六七)、持船第二宝永丸に、鮭を満載して、年の暮も近い頃、石狩川の川口の入江を,ところが武井の島沖に来たら、潮も風も浪もウソのようにおさまり、日浦の入江に漂着し、船も破損せず、船組員,戸井漁港から、恵山までの海岸風景は、観光客の讃歎する天下の絶景である。  
函館市史 通説編 第二巻 (戸籍法の制定)

戸籍法の制定 明治政府が動き出しても地方制度は江戸時代のままで、人別改めも寺院の掌握に心を砕いた江戸幕府,10月の6、7、8日に昨年の下調べ帳との照合を行い、16、17、18日に各戸筆頭者(百姓帳頭)を呼び出,を制定(明治4年4月4日太政官布告第170号、明治5年2月1日実施のいわゆる「壬申戸籍」)した。,この戸籍法では、これまでの戸籍体制では遺漏が生じるので、すべての臣民(全国民)を漏れなく、住居地毎にその,戸数人員生死出入等を把握することとし、そのための「戸籍区」を設定し、戸籍吏としての戸長、副戸長を置くこととした / 戸籍法の制定
函館市史 通説編 第一巻 (近江商人の排除)

近江商人の排除 その具体的な方法として、住民の動揺を考え、場所における支配人・通詞・番人などは、おのおの,にまかせ、これまでの通り使用することにしているが、監督を厳重にして特に監督を厳重にして松前藩と直結した近江商人団,すなわち、寛政11(1799)年仮直轄になると、会所を箱館ならびに江戸(当初は伊勢崎町、のち霊厳島に会所,御用扱商人として、寛政11年、同12年には、箱館では栖原庄兵衛、伊達林右衛門、阿部屋伝兵衛、平岩屋平八、江戸 / 近江商人の排除
戸井町史 (十、〓宇美家(東浜町))

戸井町史 / 出身国近江の名をとって「近江屋」を家号としていた。  ,採った昆布を製品にし、秋に小廻船に積んで箱館に運んで近江商人に売ったり、なぎのよい日を選んで対岸下北に,明治四十年以来、戸井の鰮漁やマグロ漁が終るとエトロフの鮭漁に行き、それが終ると戸井に帰って鰮やマグロ漁,明治三十四年(一九〇一)戸井、尻岸内、椴法華の有志で恵山汽船共同組合設立の際は、戸井村内の有志の株主を,藤蔵は函館商業学校を卒業し、現在は戸井町議、東戸井漁業協同組合長、戸井町消防団長等の要職についている。
戸井町史 (三、各神社の棟札(むなふだ))

戸井町史 / られて文字なし)   ② 奉再建宮川大明神  御本社一宇              願 主  戸井村,                          世話人  音 松                      出勤方  沢 辺 近江正,     年々鰤鰮大漁     元治元歳(一八六四)甲子七月二十八日       願 主  戸井村産子中,  原 友 三 郎           鈴 木 清 六  滝山田 梅之助      弐 区  瀬 戸 ,昭和二十三年(一九四八)六月九日建之               発起人  田 村 重次郎  大 江 
戸井町史 ([法泉寺の伝大蓮作仏像])

戸井町史 / [法泉寺の伝大蓮作仏像] 地蔵菩薩像 伝大蓮作釈迦如束像  戸井町館町の法泉寺に二体,それによれば、昭和二十八年、江差で発行された「史蹟と観光」というパンフレットに「寛文二、三年間目定上(,江差附近の九体の仏像というのは円空作の仏像である。  ,美術家は戸井町法泉寺の釈迦如来像を「目定(大蓮の誤)の作品のうちでは一番まとまっていて面白い。,戸井町内では法泉寺の外に、弁才町の〓梅原家、泊町の〓伊藤家、浜町の〓新山家などに作者不明の木像仏が祀られている
南茅部町史 上巻 ([郷土の戸口])

[郷土の戸口] 郷土の戸口(戸数と人口)の変遷は、まさに郷土発展の過程を示す数値であるともいえる。,郷土の民俗を伝えるもっとも古い著書である菅江真澄の「えぞのてぶり」にも、郷土の家数や人口は記録されていない,すでにこの海岸の冬の鱈釣りも始まっていて、大量な漁獲の積荷を弁財船が積んで江戸へも送り出した。,寛政以後の郷土の戸口表  原書原文の掲載は、前項の記述に引用しているので、ここでは戸口の数字的な,記述を挙げて、簡単な表にまとめ戸口の変遷をみる。 / [郷土の戸口]
戸井町史 (年表の序)

戸井町史 / っていた和人が、蝦夷の襲撃を受けて全滅し、それ以来和人無住の年月が長く続いたが、和人渡来の歴史は、松前、江差地方,比内で河田次郎のために殺され、その残党が戸井に住んだのが、戸井への和人居住の始まりだ」とあるのは根拠のない,明治十一年(一八七八)汐首岬によって区分されていた小安村と戸井村を合わせて戸長役場が置かれたことが二村合併,このことから戸井町の沿革や事蹟を列挙するだけでは管見的になることを考え、戸井町の沿革や事蹟に直接的に或,などの地名が館の存在した附近の入江に名づけられていたということ、更に室町時代に建立されたものと推定される
南茅部町史 下巻 (菅江真澄の歌)

菅江真澄の歌 寛政三年の旧六月、海路アイヌの舟に案内されて文化のさきがけともいえる香りを届け、その紀行,とともに今にその歌を残してくれたのは紀行家菅江真澄である。,寛政三年旧六月  菅江真澄が詠んだ歌  十三首   恵山    あら磯のいはほにぬるゝわしの羽に妙なる,いましほひるかはまひさし尚きし高くあらはれにけり   尾札部   夜ふかしと〓(くいな)は叩く真木の戸をあけむとかけの / 菅江真澄の歌
戸井町史 (五、公選町村長時代)

戸井町史 / 1、歴代戸長一覧 代 就任 年月日 氏名 任期 摘要 退任 初代 自明治一一年 至〃一八年 飯田東一郎,伊東保之 二年三ケ月 七飯村長に転任 七代 自〃三〇、四 至〃三〇、六 蒲原利和 二ケ月 尻岸内戸長兼任,、死亡退職 第四代 清水暉元 〃四〇、一〇、三一 〃四二、三、二七 一年五ケ月 松前郡大沢村外三村戸長,宇美義蔵 第六代 自〃四一、三、二五 至〃四五、三、二四 中釜実 (昭和四三、一〇、一町制施行) 江刺家郁朗,宇美義蔵 小畑定夫 第七代 自〃四五、三、二五 至〃現在 中釜実 江刺家郁朗 小畑定夫  
戸井町史 (四、汐首観音堂の大鐘皷(しょうご))

戸井町史 / 下北、大畑町の心光寺に、延命地蔵尊像が安置されているが、この仏像に「元文三年 江戸西村和泉作」と刻まれている,西村和泉守という人は江戸の住人で、仏像も鋳造したことがわかる。
戸井町史 ([神社の沿革])

戸井町史 / の創建は明和二年(一七六五)となっているが、それから二十四、五年後の寛政元年(一七八九)に書かれた菅江真澄,原木神社    現在戸井町内には六社あり、各社とも創建以来幾度も改築されて現在に至っている。,昔は函館山ノ上大神宮の宮司が、戸井の各神社の宮司を兼務していた時代もあったが、近世になってからは宮川神社,松前神楽の〆引舞に使用する日本刀は戸井の浜町在住の刀工芳賀国賀(くによし)(本名竹松)が鍛造、研磨したものである
戸井町史 (二、魚類以外の海棲動物)

戸井町史 / 二、魚類以外の海棲動物 魚類以外の戸井でとれる海棲動物の主なものは次のようなものである。  ,ガゼもノナも禁漁期間を設け、戸井では三、四月に一斉にとる。,菅江真澄の南部(下北)紀行の中にもホヤのことが書かれている。,戸井、大間間(かん)のフェリーボートが就航してから、戸井の人々は、下北へ行く度に、魚屋をさがしてホヤを,武井の島沖のホヤ根のアカボヤも戸井の人たちに食われる時代が来るものと思われる。  
椴法華村史 (副戸長と村用掛)

副戸長と村用掛 この大小区画制の実施に伴い、従来あった各村の名主は副戸長に任ぜられ、年寄・百姓代又は,小頭は村用掛と改められ、これらの副戸長・村用掛は、江戸時代の村方三役のいわゆる慣習的な法規に基づいて村行政,・上磯郡・茅部郡・山越郡右四郡    今般別紙之通大小区画相定、就而ハ名主ノ名義ヲ廃シ候間、自今副戸長 / 副戸長と村用掛
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