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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (江戸系商人)

江戸系商人 しかるに、この近世初期以来永く続いた近江商人団による流通独占体制は、宝暦前期を最後にその,それには色々な原因が考えられるが、その主なるものを挙げると、まず第一に、近江商人と全く系譜の異なる主に江戸系商人,が進出し成長しはじめたこと、第二にこれら江戸系商人は、蝦夷地の広大な良漁場を請負い、産物も自営船を利用,栖原角兵衛、陸奥の伊達林右衛門、飛騨の飛騨屋武川久兵衛などであり、村山伝兵衛を除き、すべて渡道以前に江戸,を足場に活躍した経歴を持つ商人たちで、栖原、伊達は松前に進出後も依然として江戸に店を持っていた。 / 江戸系商人
南茅部町史 上巻 (新鱈の江戸送り)

新鱈の江戸送り 箱館の高田屋は、鱈場所から買い集めた新鱈を、江戸の正月にむけて年の暮れに幾艘もの船を,また、帆走故に順風ならば三昼夜で江戸に入港したことも稀れにあったという。,箱館から銚子まで二百里、銚子より江戸まで三六里といわれた。,高田屋嘉兵衛申上書 一 最上の鱈□□は江戸へ差船有之候間ニ不合義多く有之候よし   是は全く入用を,と云ふ 鱈場所より極順風にて昼夜走く候時は三日三夜にてハ江戸にも乗込候よし也 一 松前箱館江差の三湊 / 新鱈の江戸送り
函館市史 通説編 第二巻 (江戸城引渡交渉)

江戸城引渡交渉 鳥羽伏見の戦いの敗北を見て、大坂城から旧幕府海軍の旗艦開陽で江戸へ逃げ帰った前将軍徳川慶喜,会津藩主松平容保、最後の京都所司代で容保の実弟である桑名藩主松平定敬、元老中の備中松山藩主板倉勝静らは江戸,を去ることとなり、江戸城中は恭順論が大勢となっていった。,西郷は、勝の嘆願条件の検討を約束し、とりあえず江戸総攻撃の中止を指示した。,第二箇条 城明渡シ尾張藩へ可相渡ノ事(勝は江戸城を田安慶頼預かりとすることを嘆願していた。) / 江戸城引渡交渉
椴法華村史 (〔江戸時代の海難〕)

〔江戸時代の海難〕 船は大海の中の木の葉のようなものであり、世間ではよく『板子一枚下の世界は地獄などという,こんな危険があっても、江戸時代の水主(かこ)(船乗)達は海上の航路を開き、文化の伝播・商品の流通に生きた / 〔江戸時代の海難〕
南茅部町史 上巻 ([江戸時代の出稼ぎ])

[江戸時代の出稼ぎ] 沿岸漁家にとって、地元での漁業収入だけでは経済的に不安定なため、古くは江戸時代 / [江戸時代の出稼ぎ]
函館市史 通説編 第一巻 (江戸期の生業(なりわい))

江戸期の生業(なりわい) コシャマインなどのアイヌ騒乱によって、和人の生活には空白の一時期を生じたが,、江戸期に入ると亀田地帯が栄え、農業が生まれた。,箱館は漁民が住む程度であったが、江戸中期になると本州方面から商船も多く入港し、問屋も出現した。 / 江戸期の生業(なりわい)
函館市史 通説編 第一巻 (江戸時代の用語)

江戸時代の用語 明治23年の「博物場陳列品其他越品調書」「函館博物場列品目録歴史之部」によると、″太古,矢板石、天狗のメシカヒ、雷斧石、雷鎚という名称は江戸時代から明治にかけて普通一般に用いられていた呼称である / 江戸時代の用語
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

5、江戸時代の鱈漁 <鱈の漁場、恵山沖> 文化14丑年(1817)12月、『新鱈儀定證文之事』より,を江戸に出す」と記されている。,因みに、鰻のかば焼きも伝統的に、商人の町大阪は腹開き武士の町江戸は背開きといわれている。,新鱈の江戸送り  鱈漁・新鱈は大消費地である江戸へ、しかも正月に送られることによって成り立つ商(あきな,江戸時代の鱈加工品については、この外「鱈油」「鱈〆粕」が上げられる。   / 5、江戸時代の鱈漁
函館市史 通説編 第一巻 (江戸交易と東回り航路の発達)

江戸交易と東回り航路の発達 以上にみたようにこの時代の商品流通上の最も大きな特徴は、幕府自ら流通ルート,その結果、江戸・大坂間の流通が著しく発展した。,江戸との関係は宝暦、天明ころから次第に発達しつつあったが、松前藩の再生産構造の特殊性からそれ程発展し得,ところが幕府直轄によって、従来の流通ルートは大幅に変化し、江戸との交易が非常に盛んになったばかりか、いわゆる / 江戸交易と東回り航路の発達
恵山町史 ([江戸時代の漁業])

[江戸時代の漁業] 昭和36年 中目雅博氏撮影 昭和36年 中目雅博氏撮影 平成,については、縄文人の時代から知られ観察され、そして、乗り切ってきたわけであるが、和人が知るようになったのは江戸中期以降 / [江戸時代の漁業]
恵山町史 ([江戸時代の農業])

[江戸時代の農業] 海を渡ってきた人々は、当然の事ながら、食料は自給自足しなければならなかった。 / [江戸時代の農業]
恵山町史 (4、江戸時代の昆布漁)

4、江戸時代の昆布漁 前記の『蝦夷商賈聞書』『松前国中記』『箱館六ケ場所調べ』等に見るように、また、,ここでは、江戸時代、郷土に繁栄をもたらした昆布について取り立てて述べてみたい。   / 4、江戸時代の昆布漁
恵山町史 (江戸時代から明治にかけての耕地の実態 『明治六年 畑反別書上小前連印帳より』)

江戸時代から明治にかけての耕地の実態 『明治六年 畑反別書上小前連印帳より』 この畑反別書上小前連印帳,従って、これは、江戸末期から明治にかけての農耕地の所在をかなり正確に示しているものと推察されるので、全文 / 江戸時代から明治にかけての耕地の実態 『明治六年 畑反別書上小前連印帳より』
函館市史 通説編 第二巻 (松前藩への幕府の達)

松前藩への幕府の達 安政元年3月2日、松前藩江戸屋敷の留守居が急遽老中松平忠優より呼び出され、次のように,当時江戸市中は、黒船の話で持ち切りであったから、松前藩も江戸藩邸を通じてその情報を入手していたことはいうまでもない,事実同年正月江戸藩邸にあった用人遠藤又衛門は、ペリー艦隊の江戸湾来航から2日後の正月18日、「弐駄早便,」で江戸を発ち、2月15日に城下松前に着いている(伊達家文書「江戸状書扣」道図蔵)。,それだけに、江戸藩邸詰の重臣たちは、この老中の達に大きな戸惑いを感じたにちがいない。
恵山町史 (蝦夷地の航路を開く)

で江戸から厚岸までの航路の測定を行なっている。,月、江戸に帰り、航海日記・長器論・渡海新法の著書を残している。  ,〈箱館・江戸航路〉  箱館を根拠地としている嘉兵衛は、箱館・江戸の航路も開いた。  ,コンブ・俵物や冬の鱈など蝦夷地の物産を、直接大消費地江戸へ運び大いに利益を得た。,箱館・江戸航路の開設により、気仙沼・石巻・仙台辺りから江戸までの東回り航路が、西回り航路・北回りと繋がり
南茅部町史 上巻 (ヲサツベの新鱈)

とくに六箇場所のヲサツベ場所、椴法花・尾札部・臼尻産のものが最上といわれて、寛政の初めに江戸に送り出された,最上徳内はその著「松前史略」の寛政元年(一七八九)の条に、「東部ヲサツベ初(はじめ)て塩鱈を江戸に出す,まだ幕府直轄以前であったが、東回り江戸への航路もひらけて、東蝦夷ヲサツベ場所は有名になった。,ひと塩ものの鱈が年の暮れに送られて、江戸の新年の用に供され、新鱈といわれて珍重された。,ひと塩ものは、江戸までの冬の航海日数にも充分貯蔵に耐え、程よい味と正月への鮮魚としても似合い、何よりも
函館市史 通説編 第一巻 (産物取扱方)

産物取扱方 場所の産物は、産地から江戸に直送するものもあったが、多くはいったん箱館に集荷されたうえ各地,落札額の最も多いのは箱館で、次いで江戸、その他は少なかったという。,こうして箱館商人の手に渡った産物は、彼らの手を経て更に大坂や江戸などに送られたのであるが、文化6年、7,年、8年の3か年における1か年の平均払下代金は、箱館が3万1102両3分余、江戸ならびに上方回しが合わせて
函館市史 通説編 第二巻 (明治以前の倉庫)

政治的軍事的理由から、馬車による大量遠距離輸送を禁止された近世の封建制時代、商業は大阪、江戸、京都(淀川,全国300に近い諸侯は、江戸屋敷を置き、毎年、金と米その他生活物資を江戸に送る必要に迫られた。,『日本倉庫業史』は、大阪と江戸の倉屋敷を重大視し、それらを倉庫の中心と認めたのは当然であろう。  ,問屋は江戸時代、分化して仕入問屋、委託問屋、加工問屋に分れる。,両替屋は江戸時代発達した金融機関である。
函館市史 通説編 第一巻 (商取引)

また東回りの取引は、それほど増大したとはいえないが、東蝦夷地各場所産の秋味鮭の多くは、各場所から直接江戸,その他、塩鰤、新鱈、昆布、鯣、鰯粕なども江戸に送られるようになっているが、なかでも箱館六箇場所の生産力,の増大と相まって、この期には新鱈の江戸送りが頻繁になってくるのが注目される。,江戸からは呉服類、小間物類、下駄、傘などが移入されるようになった。  
函館市史 通説編 第一巻 (鱈漁)

これも従来は乾燥して干鱈で江戸に輸出したが、寛政の初めころから塩鱈で輸出するようになった。,塩鱈の製法は腹を割かずに腸(はらわた)を抜き、これをツボヌキといって塩に漬け、その年内に早く江戸に送り
南茅部町史 上巻 (文化文政の新鱈約定)

ひと塩ものの新鱈を江戸に船送りするために、船人たちは命がけで航海をしたのである。,また、文政一〇年(一八二七)に江戸へ送る臼尻の新鱈を、荷の送り主から佐井浦の富繁丸船主などに、同浦問屋, 富繁丸 一 五百石積     但 運賃江戸附百石ニ付金三拾五両定      此運賃 金百七拾五両, 御渡被下候筈 御約定       仕候    残     金八拾七両弐分       右者江戸着岸,は鱈場所から箱館の高田屋によって買い集められて、慶祥丸と同じように、多くは下北の船主船頭らによって、江戸
函館市史 通説編 第一巻 (会所の設置地)

前幕府直轄時代の産物会所の例に準じ、2、3年試みようという指示を与えて発足したが、会所は、箱館、松前のほか江戸,、大坂、京都、兵庫、堺、敦賀、下関、新潟に設置され、江戸の会所は新大橋際植物場内に、大坂は劒先町、兵庫
椴法華村史 (北前船の航行)

北前船の航行 一六〇三年に江戸幕府が開設され、江戸が政治・経済・文化の中心になったことにより、以前よりあった,京都・大阪を中心としていた海運のほかに、新たに江戸~大阪間の海運が開かれ、次いで「西廻り航路」と「東廻,西廻り航路と同じく河村瑞賢によって一六七〇年に開かれた航路で、はじめ石巻・気仙沼などの奥羽南部諸港から江戸,に向かう航路で、後に日本海側の奥羽地方から出航し、津軽海峡を過ぎて太平洋に出て江戸に至るようになったものである,これに対して東廻り航路は、太平洋側の江戸以北では産業もあまり発達せず都市もあまり無いこと、黒潮が外洋に
函館市史 通説編 第一巻 (奉行の増員)

奉行の増員 箱館奉行は前述のごとく当初は2人で、江戸と箱館とに交互に在勤したが、安政3年7月28日、,更に1名を増員し、村垣範正をこれに補し、淡路守に任じそして1人は江戸にあり、1人は箱館に在勤、1人は蝦夷地
函館市史 通説編 第二巻 (奉行配下の吏僚)

安政2年3月27日現在の箱館奉行(竹内・堀)配下の手付以上の吏僚は、支配組頭2名(箱館1、江戸1)、調役,2名(箱館)、調役並4名(箱館3、江戸1)、調役下役14名(箱館11、江戸3)、手付5名(江戸)の27,名(箱館17、江戸10)のみにすぎなかったが(秋田藩「蝦夷地御警固御記録」)、安政5年には表序-5にみる,安政3年7月28日、従来の竹内・堀に加え新たに村垣與三郎が同奉行に任じられるとともに、3名のうち箱館・江戸,』15-54)、とりあえず箱館〈2〉、江戸〈1〉とし、箱館、江戸の計にともにこの数を含めた。
恵山町史 (航路の進歩と官営の廃止)

航路の進歩と官営の廃止 蝦夷地と江戸との航路はこの時代、画期的な進歩を遂げ、特に東蝦夷地の莫大な産物,塩鱈以外の産物は、他国に直移出することを許されなかったが、この時代に入ってからは根室・国後・択捉等の塩鮭を江戸,このことは直捌(官営)が廃止された後も、請負人(商人)の出願により根室・国後・択捉等の鮭を江戸に直送することが
恵山町史 (駅制から飛脚まで)

徳川の世になると、江戸を中心に五街道が整備され「宿場」「飛脚」が設けられ、通信は著しい発展を見せた。,江戸時代の「飛脚」はウマを用いず足(脚)で飛ぶように走った。,因みに江戸から京都まで通常90時間、至急便は60時間で達したという。,17世紀も後半(元祿時代)になると商業の目覚ましい発達に促され、江戸・京都・大阪の商人達が相談し合い3,料金はきわめて高額であったが、江戸時代の後期、19世紀にはほぼ全国に渡ってこの民営郵便制度は普及し、飛脚
南茅部町史 下巻 (上磯式 奴振り)

そもそも奴道中とは、江戸時代、諸大名が参勤交替の折に用いられた大名行列の供揃いの様式に由来するものである,② 赤坂奴(あかさかやっこ)   広辞苑    江戸の旗本に勤めた若党・中間(ちゅうげん)。,江戸赤坂辺に住んだ者からその名が出たとも、また、それらが現在の愛知県宝飯(ほい)郡章羽町の一部の赤坂から,江戸に出て居住していたから江戸赤坂、現在の港区の地名が生じたともいう。    ,江差  笹山奴 江戸中期より。   
恵山町史 (定雇船頭高田屋嘉兵衛)

さらに官船15艘を江戸・箱館運航用とし、定雇船頭の高田屋嘉兵衛に引き受けさせた。,金一四両)  沙流より三石迄(金一三両) 虻田より室蘭迄(金一〇両)  箱館より大阪上り(金二〇両) 江戸,より箱館迄(金八両)  箱館より夏荷物江戸上り(金二五両)  根室・国後より秋味積仙台行(金三三両,) 同銚子行(金四〇両)  根室・国後より秋味積江戸上がり(金四三両)
函館市史 通説編 第一巻 (箱館洋学所)

安政3年、箱館奉行支配調役下役格で来た名村五八郎は、江戸で英学を修めた名通詞で、長崎のオランダ通詞の家,やがて五八郎は江戸へ転出したが、英語教育を最も必要とした箱館は、その後任として慶応元年6月、江戸開成所
南茅部町史 上巻 (扶持加増の書付)

□   御加都合壹両砂壹匁弐人扶持 被成下候證文遣候也                    表江戸,               楢山 帯刀 印                楢山 河内 印             表江戸藤枝
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の警備)

箱館の警備 この飛報が江戸に達すると、9月22日幕府は津軽藩に命じ、一隊の兵を出して箱館を守らせ、同月,25日藩主章広は参勤のために福山を出発したが、途中仙台領水沢で江戸留守居役尾見蔵多が老中からの命令書を
函館市史 通説編 第二巻 (徳川宗家の処遇)

美作津山藩主松平斉民(11代将軍家斉の第16子)を亀之助後見人とするという朝旨が、このために関東監察使として江戸,に出て来た三条実美(議定で行政官輔相)から、江戸城において亀之助の代理人一橋茂栄へ伝えられた(「イギリス,)と、江戸を東京と改称して天皇政府の東の拠点とすることを宣言した。,徳川家のお膝元「江戸」は、新政府の東京となったのである。  ,8月9日、徳川亀之助一行は榎本手配の旧幕府海軍の船に乗って江戸を出発、15日無事駿府城に入った。
恵山町史 ([大政奉還と戊辰戦争])

15代将軍徳川慶喜、在位1年足らずにして最後の将軍となり、264年も続いた江戸時代に終わりを告げる。,鳥羽・伏見の戦い  慶応3年12月25日、武力倒幕派の横行に業を煮やした幕府が、江戸の薩摩藩邸を襲撃,江戸城の明け渡し  朝廷は、慶喜追討の体制が整うと有栖川宮熾仁(たるひと)親王を大将軍に任じ、薩摩・,長州・土佐藩を中心に22藩の兵による新政府軍を編成し、江戸城をめざし進軍を開始させた。,集まり江戸市中や関東の各地で反政府の戦闘を開始した。
函館市史 通説編 第一巻 (松前藩への通達)

尤食料等遣し候品並に謝義として異人より差出候品共、委細書面を以て申立、追て其品をも江戸え相廻し、差出候様致,一 其節若し地所借受其外の儀申出候とも、都て伊豆守より江戸表え伺の上ならでは、何れととも挨拶及び難き旨申断,   松前藩江戸藩邸からの通報と、右の達書を受けた国元福山の驚きはひとかたならず、その応接掛
函館市史 通説編 第二巻 (ペリーの再来と幕府の回答)

ペリーの再来と幕府の回答 安政元年1月14日、ペリー艦隊は江戸湾外に姿を現わし、次いで16日には浦賀沖,からさらに縦列をつくって江戸湾を溯航し、前年彼等が″アメリカ碇泊所″と名付けた小柴沖に投錨した。,しかも、その渡来が予定より2か月も早かっただけでなく、江戸湾内の小柴沖まで隊を組んで侵入してきたのである,しかしペリーは、これらの要求と提示を全面的に拒否し、応接場所を江戸ないしは江戸に近い場所にすることを強,く要求するとともに、もしこれらの要求がうけ入れられない場合は、艦隊を更に北上させ、必要な場合は江戸まで
椴法華村史 (レザノフの来朝)

レザノフ来航の目的を知った長崎奉行は、直ちにこれを江戸に伝えた。,この報に接した江戸幕府は協議の結果、文化二年(一八〇五)通商は国禁であることを伝え、すみやかに退去することを
函館市史 通説編 第二巻 (徳川幕府の倒壊)

だが武力討幕派の江戸撹乱策に乗せられた幕府の強硬派は、12月25日、庄内藩を主力部隊として江戸の薩摩藩邸,一々朝廷ノ御真意ニ無之、全ク松平修理大夫(薩摩藩主島津忠義)奸臣共陰謀ヨリ出候ハ天下ノ共ニ所知、殊ニ江戸,は慌てて大坂から開陽丸で老中板倉伊賀守勝静、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬(容保の実弟)らと共に江戸,江戸へ逃げ帰った慶喜は、その後も親幕府勢力やフランスの力を背景に勢力の挽回を策したが、新政府の優位は動,かし難く、ついに2月11日恭順の意を諭達し、翌12日に江戸城を出て東叡山寛永寺に謹慎し(4月11日水戸
函館市史 通説編 第二巻 (遊歩区域をめぐって)

通詞名村五八郎の2名が未だ箱館に到着していないこと、箱館の遊歩区域については、同地を視察したうえ決定する旨「江戸,し松前勘解由は、箱館の遊歩区域は、同地を視察したうえで決定する旨林大学頭と協議したというのであれば、江戸,江戸に聞き、而して後これを回答す」(同前、原漢文)と返答した。  ,もし、それができないならば、江戸に行って林大学頭と談判せねばならぬ。,まず第一に、ペリーは「江戸」で林と協議した如く主張しているが、ペリーは江戸には行っていない。
函館市史 通説編 第一巻 (鮭漁)

しかし東蝦夷地産出の鮭が箱館港に集荷され、江戸に輸出されるようになった。
函館市史 通説編 第一巻 (産物会所の設置)

精確につかめず、かつ、外国船が来航するので、船手の密貿易も行われる心配があったので、これを取締るため江戸,他諸国の要地に箱館奉行付属の会所を設け、役人を置いて、その地の問屋などのうち相応の人物を選んで用達とし、江戸
函館市史 通説編 第一巻 (箱館会所の所務)

年ころの例をとれば、会所の総仕入高は、およそ2万3、4000両といわれ、仕入金額の最も多いは大坂で、江戸,つまり大坂、江戸が供給地として重要な役割を果たしていた。
函館市史 通説編 第一巻 (娯楽)

江戸角力も時々来る。,これらはみな江戸歌舞伎であるが、万延元年以来大坂の俳優佐野川咲之助が来て、永く留まったこともあった。
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の西蝦夷地視察)

同年冬、景晋は松前に到着したが、定行は途中病気にかかり、いったん江戸に帰り、改めて翌3年松前に至り、共,に西蝦夷地を宗谷まで巡検して8月江戸に帰って復命した。
椴法華村史 (鱈請負の制度)

以上のようなことから江戸時代初期に始められた鱈漁業が江戸時代末頃に至って非常に盛んになってきていることが
函館市史 通説編 第一巻 (近江商人の排除)

すなわち、寛政11(1799)年仮直轄になると、会所を箱館ならびに江戸(当初は伊勢崎町、のち霊厳島に会所,御用扱商人として、寛政11年、同12年には、箱館では栖原庄兵衛、伊達林右衛門、阿部屋伝兵衛、平岩屋平八、江戸
函館市史 通説編 第一巻 (修好通商条約の締結)

これよりさき安政3年7月、アメリカ総領事ハリスが下田に来り、巧妙機敏な手腕をもってわが官吏を説き伏せ、4年江戸,、フランスもまたこれにならい、いずれも同様の条約を結び、下田、箱館のほかに神奈川、長崎、新潟、兵庫、江戸
函館市史 通説編 第二巻 (戸籍法の制定)

戸籍法の制定 明治政府が動き出しても地方制度は江戸時代のままで、人別改めも寺院の掌握に心を砕いた江戸幕府
函館市史 通説編 第二巻 (杉浦兵庫頭の決断)

杉浦兵庫頭の決断 最後の箱館奉行 杉浦兵庫頭 杉浦俊介蔵  ところが3月20日ロシアの蒸気船で江戸,其方始付属役々引纏一旦帰府候様」(前掲「橋本悌蔵箱館行御用留」)と、蝦夷地警衛の諸藩へ箱館での所置を任せて、兎に角江戸表,触書をだして、民情の安堵を図ること、(3)同心足軽の不安を取り除くこと、(4)これ以上箱館にある穀物を江戸,輸送しないこと、(5)政事は1日たりとも止めることは出来ないこと等を再確認、3度目の上申書を書き上げ、江戸,「慶応四年伊達林右衛門店行司御用留」(河野常吉資料 道図蔵)の3月1日の記事に、江戸からの急飛脚(江戸発
函館市史 通説編 第二巻 (商業、金融資本との分化)

を担保に金融の道を購じ、あるいはその保管商品そのものを、保管したままの形で売買する荷為替なる形態が、江戸時代,北海道のような危険の多い和船航海の場合は、江戸時代、船手(オペレーター兼商人)から荷主へ身元証拠金の形,また江戸時代の北海道では、出入貨物の倉入れは問屋の取扱で、荷主または船手の希望によっては、原価の7分以内,江戸時代の問屋制度は、明治維新によって廃止、商業が自由化したが、差当たり倉庫は、旧問屋を含め、商人資本
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