機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
函館市/函館市地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 757件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 16ページ
南茅部町史 上巻
(熊泊)
熊
泊
明治六年三月、臼尻村より熊
泊
を分割して熊
泊
村は一か村となる。 ,のち明治一二年二月、熊
泊
村に属した。 ,所呂(常路)は、さらに明治一四年七月八日、熊
泊
村から分割して鹿部村へ編入された。 / 熊
泊
椴法華村史
(島泊)
島
泊
「シュマ」はアイヌ語で石、「トマリ」は日本語で船をつなぎやすい所という意味である。 / 島
泊
函館市史 通説編 第一巻
(汐泊川層)
汐
泊
川層 汐
泊
川層は長谷川 鈴木(1964)、及び鈴木 長谷川(1963)によると、函館地方において,その後鈴木守ら(1969)も川汲層を汐
泊
川層の一部層として取扱い、この累層を含めて汐
泊
川層を次の4つの / 汐
泊
川層
函館市史 通説編 第一巻
(汐泊川チャシ)
汐
泊
川チャシ 函館にはハクチャシ、蝦夷館山と呼ばれていたところがある。,汐
泊
チャシの遠景 汐
泊
川チャシは古川町と亀尾町の中間地点で、汐
泊
川流域にあり、川口から約1500,このチャシは山城の形態をもっていて北と西、南が汐
泊
川に囲まれている。,山頂からの展望は南の汐
泊
川河口や海岸線、西は対岸の段丘崖全体が見渡され、更に北の亀尾など汐
泊
川上流域まで,汐
泊
川チャシの性格は、汐
泊
川に溯上する鮭、鱒を対象とした拠点とも考えられるが、その構造が山城的で、武器 / 汐
泊
川チャシ
南茅部町史 下巻
(熊泊小学校の記録)
熊
泊
小学校の記録 六月一七日、熊
泊
小学校では午後零時半ごろから降石をみたので、学校付近の児童を急いで,その夜は磯谷の児童は学校に宿
泊
して、翌朝、危険のなくなったころ迎えに来ていた父兄とともに帰宅させた。,六月一七日、熊
泊
消防組は、隣村鹿部村の災変を知るとともに、直ちに救援隊を組織して鹿部村に向けて出発したが, 一五〇名余り熊
泊
稲荷神社及び民家へ約五〇名余り 六月一八日朝 前夜、熊
泊
小学校に収容した鹿部小学校児童二八名,熊
泊
小学校・稲荷神社・熊
泊
説教所境内の降灰石排除のため、大字熊
泊
各戸より村民四〇三名出動し、救援隊を組織 / 熊
泊
小学校の記録
南茅部町史 下巻
(熊泊村消防 歴代組頭)
熊
泊
村消防 歴代組頭 明治32 熊
泊
村消防組創設 初代組頭 磯野太三郎 (明治三九年四月一日,、臼尻村と熊
泊
村を合わせ臼尻村となり、二級町村制が施行され、臼尻・熊
泊
消防組は、臼尻村消防組と改組となる / 熊
泊
村消防 歴代組頭
南茅部町史 下巻
((3)熊泊学校)
(3)熊
泊
学校 明治十三年 學校設立伺 學務係 公立小學校設立伺 一 學校位置 渡島國茅部郡熊
泊
村十壱番地,建家坪数 十六坪ノ内八坪半余 右在來之畫圖及其費用ニ係ル寄附金別冊之通 一 校名 熊
泊
学校, 前条之通當村内協議之上教則校則等ハ御規則ヲ遵守設立仕度此段奉伺候也 渡島國茅部郡熊
泊
村 / (3)熊
泊
学校
南茅部町史 下巻
(熊泊鉱山の概況)
熊
泊
鉱山の概況 (1)鉱床 鉱床は層状鉱床と鉱染鉱床の二種類あって、層状鉱床が主要を占めるもので,(7)鉱山の環境 艀の荷役は、熊
泊
(大船)の鎌田家が請負っていた。 ,(8)熊
泊
鉱山の戸数 鉱山の盛衰はその要因はいろいろだが、経営の変遷は戸数の動きでわかる。,熊
泊
鉱山 熊
泊
村 大正七 九一戸 三八二戸 八 八九 三八〇,大正硫黄株式会社熊
泊
鉱山の図/大正7~12年の頃 田代久三記録 / 熊
泊
鉱山の概況
南茅部町史 下巻
(熊泊學校附属地拝借願)
熊
泊
學校附属地拝借願 抑當熊
泊
學校之儀ハ明治十三年十二月中開業仕替校舎ノ経費ノ支払維持ノ為メ海産有税品賣捌高等,収人可仕候間何卒特別之御詮儀ヲ以願之趣御聞届被成下度依之略圖相添村総代連署ヲ以此段奉願候也 熊
泊
學校,明治十四年 學事取締 川内 林三郎 印 一月廿日 茅部郡熊
泊
村,願之趣聞届候事 明治十四年四月十八日 秣苅採高調書 茅部郡熊
泊
村字,此代價 金拾五円也 合□金三拾円也 右之通御座候也 熊
泊
學校 / 熊
泊
學校附属地拝借願
恵山町史
([宿泊施設の独立])
[宿
泊
施設の独立] 当初、この宿
泊
所は『会所』と呼んでいたが、後、旧運上屋(役人が駐在)だけを会所と,呼び、宿
泊
する施設は『旅宿』または『通行屋』と呼び区別するようになった。 / [宿
泊
施設の独立]
函館市史 銭亀沢編
(汐泊川河口沖の噴出源)
汐
泊
川河口沖の噴出源 さらに興味深いことには、この時の噴火口が次のように推定された(山縣ほか1989,一方、その軸に沿う軽石分布の西側の限界は、汐
泊
川河口付近となる。,このようにして、銭亀沢には厚い火砕流堆積物が覆っていることが明らかにされたばかりでなく、汐
泊
川の河口沖,それによれば、確かに汐
泊
川の真南二・五キロメートルの深度五四メートルを最深部として、東西三キロメートル,図2・1・9 汐
泊
川沖合いの浅海底凹地 汐
泊
川河口の南、2.5キロメートルのところに、南縁を切 / 汐
泊
川河口沖の噴出源
南茅部町史 下巻
(〔熊泊硫黄鉱山〕)
〔熊
泊
硫黄鉱山〕 袴腰山(一、〇七六メートル)に源を発する磯谷川の上流にあり、磯谷市街より南西に約五, 面積 一、八六〇、〇九〇坪 九七四、〇〇〇坪 明治三六年二月頃、熊
泊
村松田松治,渡島国亀田半島鉱山分布図 渡島國熊
泊
硫黄鑛山 北海道大学附属図書館所蔵 / 〔熊
泊
硫黄鉱山〕
椴法華村史
(大正十二年島泊の大火)
大正十二年島
泊
の大火 大正十二年五月二日午前三時、島
泊
中村理髪店から出火したが、当時村内には少数の手動,ポンプがあるのみで、折からの風に煽られ島
泊
現在の川森旅館から〓福永商店の付近までの両側一帯、三十六戸が / 大正十二年島
泊
の大火
函館市史 銭亀沢編
(狭い海岸低地と汐泊川沖積地)
狭い海岸低地と汐
泊
川沖積地 海岸低地は、海食崖であった台地下の崖錐(崖から落ちた堆積物の高まり)あるいは,汐
泊
川の河口にある古川町の家並みの多くは、他と異なり標高三、四メートルの砂州の上にある。 ,銭亀沢の低地としては、もう一つ汐
泊
川の沖積低地がある。,河口付近や谷底平野の湿地、また蛇行河道跡など、当時の汐
泊
川は自然のままの状態を色濃く止めている。 / 狭い海岸低地と汐
泊
川沖積地
恵山町史
(会所・宿泊所の掟・きまり)
会所・宿
泊
所の掟・きまり 会所・宿
泊
所の掟・きまりについて、箱館奉行羽太正養の公務日誌『休明光記遺稿 / 会所・宿
泊
所の掟・きまり
南茅部町史 下巻
(熊泊鉱山崩壊の原因)
熊
泊
鉱山崩壊の原因 鉱物採掘によって地層の陥落を招いたことと、山麓の自然林を坑木・燃料のために伐材したので / 熊
泊
鉱山崩壊の原因
戸井町史
(五、〓池田家(泊町))
五、〓池田家(
泊
町) 〓池田家は、〓池田家の分家である。,明治十三年(一八八〇)年、八五郎の弟叶次郎が三十七才の時、戸井村字横
泊
に分家し、〓を家号とした。 / 五、〓池田家(
泊
町)
南茅部町史 下巻
(〔熊泊鉱山大雪崩(なだれ)事故〕)
〔熊
泊
鉱山大雪崩(なだれ)事故〕 明治四二年三月、磯谷川上流の山中にあった熊
泊
鉱山の住宅街を襲った大雪崩,明治四二年三月三〇日、函館毎日新聞に「熊
泊
鉱山崩壊--長屋破壊し死傷あり」と報じられる。 ,明治四二年三月二九日、午前零時四〇分ごろ、熊
泊
鉱山の鉱区に土石の大崩壊が発生した。 ,熊
泊
硫黄鉱山は、磯谷川の上流泣面山の麓海抜一、三〇〇尺にあり、明治三六、七年に試掘され、本格的な採掘とその / 〔熊
泊
鉱山大雪崩(なだれ)事故〕
南茅部町史 下巻
(熊泊村養蚕実行組合 臼尻村養蚕実行組合)
熊
泊
村養蚕実行組合 臼尻村養蚕実行組合 熊
泊
村養蚕実行組合 臼尻村養蚕実行組合 組合 組合員,四三名 三二戸 五五五g 一四一貫 四五五円 臼尻一七 白繭種 ― ― 熊
泊
二六 / 熊
泊
村養蚕実行組合 臼尻村養蚕実行組合
戸井町史
(十四、椴法華、島泊の大火(大正十二年))
十四、椴法華、島
泊
の大火(大正十二年) 大正十二年五月二日午前三時、椴法華村字島
泊
、中村幸次郎(理髪職 / 十四、椴法華、島
泊
の大火(大正十二年)
戸井町史
(七、〓金沢家(泊町))
七、〓金沢家(
泊
町) 鰮大漁時代に栄えた〓金沢家の先祖は、下北郡川内村から戸井に移住し、現在まで七代続 / 七、〓金沢家(
泊
町)
恵山町史
(日浦・武井泊(豊浦)間開通(昭和5年3月))
日浦・武井
泊
(豊浦)間開通(昭和5年3月) 函館・椴法華間準地方費道、最大の難関である日浦・武井
泊
(,このように函館椴法華準地方費道路の改良工事は、最大の難所の戸井村原木から尻岸内村日浦さらに武井
泊
まで開通,昭和5年3月 日浦・武井
泊
間開通 区間には1~7号のトンネル(素掘)が掘られた 日浦海岸・ / 日浦・武井
泊
(豊浦)間開通(昭和5年3月)
椴法華村史
(松前より宗谷まで人馬継立)
下之処ハ 茂辺地
泊
未ノ年壬二月御役所候 ゟ御 成之上 松前城下ゟ御返之事,ゟ
泊
場所迠 継立申候 , 己しの木
泊
福嶋村ゟ知内村 , 通行之節ハ
泊
村ゟ
泊
村迠継立 又少人数之節ハ泉沢村當別村之拾弐町 六里半 ( ヲサルヘツ休, 〆百九拾壱里三拾町 貳拾七
泊
南茅部町史 上巻
(菅江真澄紀行)
二七日 同じ舟で尻岸内に着き、ここからアイヌの舟で根田内にゆき
泊
る。,六月四日 ヲシヤマンベに
泊
る。 ,五日、六日 滞留 七日 舟で出発、アブタのコタンに
泊
る。 ,一六日 ヤムオホロシナイより舟でオトシベに
泊
る。,六月二九日 銭亀沢にゆき、七月四日志苔から箱館に出て
泊
る。
椴法華村史
(〔字地名地番改正による地名〕)
・元椴法華・水無・水ナシ野・中浜・恵山岬・ニツ岩 元 村 日影浜・中浜・元椴法華・水ナシ・中浜・島
泊
・,金堀沢・矢尻野 恵 山 冷水・深井沢・深沢・矢尻浜・古武井・石倉・恵山・水無野 富 脯 島
泊
・日影浜,・元椴法華 島
泊
島
泊
八幡町 矢尻浜・八幡前・島
泊
・矢尻野・深井沢 浜 町 矢尻浜・矢尻野 銚, 子 銚子の澗・赤井川・相
泊
・矢尻浜 絵紙山 赤井川・冷水・絵紙山・矢尻野・矢尻浜・二股 椴法華村名起源便覧,カケノハマ トドホッケ 八幡町・島
泊
・富浦
南茅部町史 下巻
(鉱山の内部対立)
鉱山の内部対立 開鉱した熊
泊
硫黄鉱山は、初期において銀主服部半左衛門と鉱主小橋栄太郎との利益配当や増資問題,また、硫黄鉱山開業のために当初から好意をもって協力した熊
泊
村とも感情的な対立をひきおこし、その後、鉱主,の交替があったが、鉱山と熊
泊
村民との対立が永く続いたため、鉱区長は鉱産の成果よりも部落問題で腐心する余,鉱主遠藤は、熊
泊
硫黄鉱山の経営をハウル社長ジンエイ・ウィルソンに一任した。 ,この間、鉱山事務所では、地元熊
泊
部落との融和を願って度々地元の臼尻村役場をたずね、加藤、浅野戸長は両者
南茅部町史 上巻
([臼尻村漁業組合創立])
尾札部村漁業組合にくらべて、その設立年月日が四、五年おくれているのは、二級町村制施行前は、明治一三年から熊
泊
村,しかし、熊
泊
村漁業組合のほかに、明治三五年、茅部山越水産組合の発足時、板木(安浦)地区が昆布採収権の独立,暴力事件などがあり、その後、両地域の漁民相互に長く感情的な対立があったので、新組合に統合するために熊
泊
と, 源 蔵 同 同 板木一四番地 加賀谷 和 市 同 熊
泊
村字熊
泊
五六番地
南茅部町史 下巻
(官林境界踏査図)
黒羽尻官林 イタヤ 黒羽尻川 八五町五反 ●熊
泊
村学校林,ナラ 太夫川 ブナ カクチョ川 3熊
泊
官林, ブナ 熊
泊
臼尻官林六二町歩 ナラ 大舟川 4臼尻官林,木直川 ブナ ブナ 相
泊
川, 百弐拾九町五反歩 内甲四四丁乙八五丁五反 三、熊
泊
村熊
泊
臼尻村臼尻官林 六拾弐町歩
椴法華村史
(椴法華村の電話開通)
△電話呼出地域 尻岸内字古武井
泊
・同大澗・同メナ川・同メノコナイ 尻岸内村字古武井・同山背
泊
,・同根田内・椴法華村字嶋
泊
・同矢尻濱・同崎・同相
泊
・同元椴法華 加入区域外通話区域通常電話料
南茅部町史 上巻
(人別帳にみる出稼)
用事有之 立帰リ候 亥九月・日(辛亥嘉永四・一八五一) 一 御城下迄用事有之・立帰リ候 熊
泊
リ,子五月迄(朱書)子九月十九日切手書替 靏 松 壱人 一 イワナイ御場所江 熊
泊
リ,シツチ 御場所出稼ゟ帰リ 臼尻多之助忰 松 蔵 子九月 一 江差江用事有之・・ 候・ 熊
泊
リ,印参ニ而 箱館沖口江切手ヲ・・上仕候 丑九月十五日 一 ヲタシチ江用事有之 熊
泊
リ,勘五郎妹 一 箱館江 出稼 婦(ぶ)ん 壱人 一 箱館江 出稼 熊
泊
リ治 家内
南茅部町史 下巻
(分教場開設)
正式名称は熊
泊
尋常小学校万畳敷特別教授場といわれ、函館商船学校出身の芳賀芳輝が勤務した。 ,熊
泊
校や臼尻校の春秋の遠足も熊
泊
鉱山や、万畳敷への遠足もえらばれている。 ,白井川農耕地の子ども達は、多くは熊
泊
尋常小学校に通った。臼尻校の高等科に通った人もいた。 ,昭和三年夏、茂佐尻岬の海岸沿いの道ができ開削工事が完成して、尾札部熊
泊
間に乗合自動車が走るようになる。
恵山町史
([町有文書に記された海難事故])
善清丸 8.67 伊藤清之吉 荒天 船体破損 9.23 山北日
泊
港 大新丸 18.84,川村権之蔵 荒天 船体破損 9.23 山背
泊
港 第1須磨丸 5.70 坂本忠五郎 荒天 ,大破 9.23 山背
泊
港 永運丸 14.23 山内大次郎 荒天 大破 9.23 豊浦海岸,山背
泊
港 第3八幡丸 11.16 荒木 太作 荒天 大破 10.12 山背
泊
港 長栄丸 , 大破 28.1.5 山背
泊
港 千代丸 11.19 清水 正雄 荒天 大破 1.15 山背
泊
港
南茅部町史 上巻
(土地連絡図の作成)
一二二筆 大 船 五二筆 浜 中 四六筆 冷 水 四四筆 茂佐尻野 三七筆 大凧
泊
,べ坂 二筆 中ノ島 二筆 板木冷水野 一筆 浜中野 一筆 チサンケ 一筆 大イカ
泊
,一筆 垣ノ島沢 一筆 大字熊
泊
村 小字四五字 一、三六八筆 熊
泊
地区 小字三二字 九八一筆, 磯谷地区 小字匸二字 三八七筆 熊
泊
二一三筆 磯 谷 二〇六筆 歌 浜, 一八八筆 ビロ
泊
九九筆 前 山 九七筆 金兵衛崎 六七筆 太夫川
南茅部町史 下巻
(〔郷土の神社の沿革〕)
川汲・加我金左衛門移住、能登国七尾稲荷を勧請 安永年間(一七七二~八一) 熊
泊
稲荷大明神創建, 熊
泊
・高田屋彦右衛門、江差笹山稲荷大明神を勧請 安永年間 ,三木茂左衛門、庭内神祀る 寛政二年(一七九〇) 古部開村 寛政四年(一七九二) 熊
泊
稲荷大明神社殿創建, 熊
泊
村民協議のうえ高田家の稲荷社を熊
泊
村氏神とした 寛政五年
椴法華村史
(昭和二十四年の船賃)
板木 八五 二八〇 臼尻 八九 三〇〇 熊
泊
, 板木 三九 一三〇 臼尻 四三 一四〇 熊
泊
, 板木 三一 一〇〇 臼尻 三五 一二〇 熊
泊
, 板木 二二 七五 臼尻 二六 八〇 熊
泊
南茅部町史 下巻
(古武井鉱山雪崩事故)
古武井鉱山雪崩事故 熊
泊
鉱山崩壊事故の前年、明治四一年三月八日に熊
泊
の近在、現恵山町古武井川上流の鉱山,この事故につづく翌年の熊
泊
鉱山の同じような大惨事は、関係者に大衝撃を与えた。
南茅部町史 上巻
(考察2)
この頃、江差から熊
泊
に昆布刈に入稼ぎする者が多くなった。 ,天明四年(一七八四) 江差の人高田彦右衛門が熊
泊
にはじめて移住して昆布刈や鱈釣りをした。 ,文政三年(一八二〇)七月 熊
泊
が臼尻の支村となった。 ,明治六年三月 熊
泊
を臼尻村より分割して熊
泊
村とした。 ,明治一二年二月 所呂、蹴勝浜を熊
泊
村に属した。
南茅部町史 下巻
(乾繭所)
乾繭所 昭和七年九月三〇日、字熊
泊
九〇番地(字大船二三四)に乾繭所(かんけんじょ)(三二・七五坪)を,臼尻村内はもちろん、尾札部村、鹿部村から熊
泊
乾繭所に繭が集荷された。,乾繭所の作業は、熊
泊
(大船)の婦人や女子青年等二〇名余りが、豊浦から講師を招いて技術指導をうけ作業に従事,熊
泊
(大船)では、一戸当たりの収繭量は四、五〇貫ぐらい生産されたというから、相当の規模の飼育があったと,臼尻・熊
泊
・鹿部についても若干の資料がある。
椴法華村史
(常駐の椴法華巡査駐在所)
名称 椴法華巡査駐在所(戸井分署管轄下) 所在地 椴法華村字島
泊
区町村名 亀田郡椴法華村, 字名 水無・元椴法華・島
泊
・矢尻濱・相
泊
・赤井川・冷水・恵山・武奈岱 戸数 二百九十四
南茅部町史 下巻
(耕作面積の拡大)
全戸数 宅地所有 畑所有 畑面積 熊
泊
村 六二戸 四七戸 三五戸 二町三反三畝, 五畝二八歩 磯谷 四戸 五戸 四反六畝〇三歩 熊
泊
(, 六町〇反〇畝二一歩 古部 六戸 六戸 三反六畝〇六歩 熊
泊
・
椴法華村史
(一七〇〇年代の椴法華近海の海運)
二十五日 荒谷村を出発陸路レヒゲ浦 二十六日 黒岩から昆布取り船に便乗し吉岡・宮のうた・白府・山背
泊
・,、鎌うた・原木・檜浦・鴉(からす)がうた・シリキシナイに着き、別の蝦夷船にてコブイ・ネタナイに着き宿
泊
,むまもなく舟に乗り、蝦夷の家七八軒ある矢尻浜をすぎ、銚子の碕・フルベ大滝・ピルカ浜・尾札部に着き運上屋に
泊
す,
泊
で休み、また船に乗りトコロで休み、サルイシ・シュシュベツ・シカリベツ(鹿部)に宿
泊
このように,昆布取り船に便乗して福山を出発し、海が荒れると陸路を蝦夷地に入っては蝦夷船に乗って民家や運上屋・番屋等に
泊
まり
南茅部町史 下巻
(〔勧請之書〕)
また、熊
泊
稲荷神社に伝わる文化九年(一八一二)稲荷大明神「神号吹挙」は、神祇官領長土家と認められていて,同じく木直稲荷神社の天保一一年(一八四〇)「神号所申調」には、熊
泊
の書付と同様、神祇管領長上家と記されている,また、熊
泊
小田濱(歌浜)村は安政四年(一八五七)で、尾札部稲荷神社の「安鎮之事」と同じ書式で認められ、,文化六年(一八〇九)と安政四年(一八五七)、約五〇年を距てて書式同じく「安鎮之事」としてあり、木直と熊
泊
の,また、木直は明和五年(一七六八)の創建に対し、天保一一年(一八四〇)の「神号所申調」の書付、熊
泊
は安永二年
南茅部町史 下巻
(畑反別書上小前連印帳)
明治四年の「上磯茅部二郡二九ケ邨(村)一面表」によれば、椴法花(明治九年まで尾札部村枝郷)から熊
泊
(,熊
泊
村(大船)畑所有者 一八名 一町〇反一畝〇四分(歩) 臼尻村 臼尻 二五名, 二名 一反四畝 六分 椴法花 二八名 一〇町八反三畝 分 熊
泊
村,四十二番地同嶋
泊
村中 一 四畝貳歩 白苻又右ヱ門印 同并ビ通り 四十三番地同嶋
泊
,五十弐番地字嶋
泊
り 一 五畝五歩 藤枝 覚蔵印 同并ヒ通り 五十三番地字嶋
泊
函館市史 通説編 第一巻
(川汲層)
川汲層 川汲層は鈴木 長谷川(1963)によると青味がかった淡緑色の凝灰岩であり、汐
泊
川層の下部にあるものと,考えられたが、その後、鈴木守ら(1969)により川汲層は汐
泊
川層の一部として取扱われている。
椴法華村史
(大正三年の海運広告(椴法華来航の船))
椴法華古部木直 廿四日後十時 見日尾札部川汲 板木臼尻熊
泊
鹿部本別行,金比羅丸 日浦尻岸内女那 川元椴法華椴法華 隔日夜半 島
泊
行,椴法華古部木直 廿五日后拾時 見日尾札部板木 川汲臼尻熊
泊
磯谷行
函館市史 通説編 第一巻
(地蔵堂)
地蔵堂 前記高竜寺持の地蔵堂のほか、尻沢辺(一説に享和2年創立のもの)、山背
泊
(文化のころから存在した,特に山背
泊
には天保10年銘の木像大地蔵がある。
恵山町史
(湯の川・戸井間に乗合馬車定期運行(明治43年より))
明治44年8月31日付『函館日々新聞』の記事「恵山景勝探訪」の中に、当時の交通費・宿
泊
費が載っているので,函館より湯の川迄の馬車賃………10銭 湯の川より古武井迄の馬車賃……70銭 古武井宿
泊
料1,
泊
2食付…………60銭 磯谷温泉宿
泊
料1
泊
2食付………60銭 当時の諸物価、札幌・函館間汽車
南茅部町史 上巻
(創立期の役職者)
村総代並 漁業取締 今津甚蔵 仝 仝副取締小田原幸作 仝 仝小板久兵衛 (尾札部村) 臼尻村・熊
泊
村,臼尻村) 副取締 小助川平次郎 仝蛯谷直吉 総代 大坂金七 (臼尻村) (熊
泊
村,) 茅部第三組 熊
泊
村 〃 総代成田 市助 副取締人 金沢友吉 総代 金沢今吉 (,熊
泊
村) 鹿部村 戸長高橋松之助 茅部第四組 鹿部村 〃 取締 伊藤源吾 副取締 秋田栄七
函館市史 通説編 第一巻
(かんらん石玄武岩)
かんらん石玄武岩 かんらん石玄武岩は鈴木・長谷川(1963)によると、汐
泊
川流域の亀尾町付近で汐
泊
川層
南茅部町史 下巻
(〔造林功労〕)
臼尻村、熊
泊
村は次の七名の事蹟が紹介されている。,臼尻村 小川幸吉 小川幸一郎 篠田順 二本柳庄三郎 東出源藏 熊
泊
村 成田吉太郎 中村市藏
/ 16ページ