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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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南茅部町史 上巻 ([津軽一統志])

[津軽一統志] 寛文九年(一六六九)から同一二年(一六七二)にかけて、蝦夷地におきたアイヌの和人への,この記録を、のちに津軽藩史といわれる「津軽一統志」の巻第十に編述した。  ,津軽一統志は、蝦夷地とくに郷土の沿岸の地名を記した最古の記録である。   / [津軽一統志]
椴法華村史 (津軽一統志とアイヌ人)

津軽一統志とアイヌ人 次に『津軽一統志』の寛文十年(一六七〇)の記録から、和人とアイヌ人の関係について / 津軽一統志とアイヌ人
恵山町史 (1、津軽一統志にみる郷土の地名・ようす)

1、津軽一統志にみる郷土の地名・ようす 郷土の地名や集落のようすが記されている現存する最も古い記録は,、津軽藩史の『津軽一統志』である。,「津軽一統志」にはこれらの情報が、シャクシャインの乱と共に記されており、蝦夷地を知る上で貴重な文献となっている,ここには津軽一統志より、郷土沿岸一帯、小安(戸井町)から野田追(八雲町)までの地域(箱館六ケ場所と呼ばれるようになった,<津軽一統志に記された郷土沿岸一帯のようす> (地名)   (集落)    (船入澗・地形)   ( / 1、津軽一統志にみる郷土の地名・ようす
函館市史 別巻 亀田市編 (館の存在)

館の存在 津軽一統志の地図 弘前市立図書館蔵(岩見文庫)  亀田に館(城)が存在していたことは,『津軽一統志』寛文十(一六七〇)年の記事中に「一 亀田 川有 澗あり 古城有 一重塀(堀)あり」と記され
戸井町史 (一、明治以前)

一、明治以前 ○寛文十年(一六七〇) 『津軽一統志』   石崎(十軒)やちまき(あき家十三軒)、たか,戸井の戸口は、寛文十年に『津軽一統志』に書かれた時代と、それより二〇〇年後の安政年間の戸口とを、比較して
恵山町史 (1、古い記録にみる、郷土のようす)

1、古い記録にみる、郷土のようす 1670年頃(寛文10年頃)『津軽一統志』  郷土の地名や集落のようすが,記されている最も古い記録は、『津軽一統志』である。  ,津軽一統志は文字通り『津軽藩史』であり、この巻第10にシャクシャインの乱に関する内容が収められていて、,<津軽一統志に記された郷土沿岸のようす>  これによると、当時小安(戸井町)から野田追(八雲町)までの,『津軽一統志』には、のたあい(のたへ)を、新井田権之助の商場(あきないば)と記述されており、この時代、
椴法華村史 (干鱈と新鱈)

この時代漁獲された鱈の大部分は、干鱈(ひだら)(別名乾鱈・棒鱈ともいう)に加工されており、『津軽一統志
椴法華村史 (〔字地名地番改正による地名〕)

・相泊・矢尻浜 絵紙山 赤井川・冷水・絵紙山・矢尻野・矢尻浜・二股 椴法華村名起源便覧 地域 津軽一統志
函館市史 別巻 亀田市編 (はじめのころの林業)

内地からの杣人(そまびと)がいつころから蝦夷地南部に入って来たかつまびらかではないが、『津軽一統志』寛文九年
椴法華村史 (前松前藩時代)

『津軽一統志』の寛文十年(一六七〇)の記録によれば「やしろの浜(やしろ浜と記すものもある)能澗有」の記事
椴法華村史 (恵山八幡宮(椴法華八幡神社))

社地五間二拾間、起元不分明    なお八幡神社のことを示すものかどうかは明確ではないが、参考として記すと、『津軽一統志,『津軽一統志』の古い写本では、たいてい「やしろ」となっていることから考え、「やしろ」から「やじり」に変化
恵山町史 (1、商場)

「商場」の地名が記録に残る一番古いものは、前述、津軽一統志、1669年(寛文9年)頃で、のたあい(野田追
函館市史 別巻 亀田市編 (シコツと亀田)

亀田の地名が最初に見られる文献は、寛文十(一六七〇)年の『津軽一統志』の記事で、前記したように「一 亀田
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田)

亀田 日本の歴史が江戸時代を迎えると、『福山秘府』、『津軽一統志』などそのころの記録文書の中に亀田邑,このころの亀田の位置について『津軽一統志』によれば、あるう川、亀田、箱館、弁才天、亀田崎、しりさつふ、
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田港の発展)

順調に発展をとげ、寛文十(一六七〇)年シャクシャインとの戦いの時には箱館はわずかに「から屋あり」と『津軽一統志
函館市史 銭亀沢編 (銭亀沢周辺の地名)

銭亀沢周辺の地名 銭亀沢周辺の地名が初めて見聞記録として登場するのは江戸時代になってからで、「津軽一統志
函館市史 通説編 第一巻 (寛文の蝦夷乱と亀田・箱館)

間、隠密牧只右衛門、秋元六左衛門の2人に命じて各地に派遣し、蝦夷地の実情を探索して書きつづったのが『津軽一統志
椴法華村史 (口絵)

村の花(つつじ) 恵山岬上空より椴法華市街地(北海道アート社提供) 津軽一統志
函館市史 銭亀沢編 (アイヌの存在形態)

この時期には、「一、塩泊川有、狄おとなコトニ、但ちゃし有、家十軒」(『津軽一統志』巻第十所収「松前より
函館市史 通説編 第一巻 (神社)

#160; 弁財天社(現厳島神社) 亀田八幡宮の神職が漁期に来て豊漁祈願したのが始まりといわれ、『津軽一統志
恵山町史 (4、(恵山)厳島神社)

この弁才天の初見は『津軽一統志・寛文九年』(1669)頃である。
函館市史 別巻 亀田市編 (位置と地勢)

『津軽一統志』に書かれたころから川口や流域に戸数が増えて、亀田の発展に大きな役割を果してきた。
椴法華村史 (場所請負人)

いつ頃から知行制度や場所請負制度が始められたのであろうか、さきにも記したように、寛文十年(一六七〇)の津軽一統志
恵山町史 (1、郷土の起源・集落の形成)

ない・ゑきしない・こふい・ねたない」と呼ばれ、アイヌ集落のあるところ、船入澗がある漁場として和人に知られていたことは津軽一統志
恵山町史 ([蝦夷地の馬])

・寛文9年(1669年)のシャクシャインの乱を、津軽藩主に報告した『津軽一統志』の記録に、蝦夷地には津軽
戸井町史 (二、戸井への和人の定着)

その理由は寛文十年に書かれた『津軽一統志』に、「おやす十五戸、塩くび六、七戸」と記録されていることと、
戸井町史 ([戸井と近隣の変遷])

①寛文十年(一六七〇)『津軽一統志』  津軽一志は、寛文九年六月シブチャリの酋長シャクシャインが蜂起,享保十六年(一七三一)津軽藩史『津軽一統志』が編纂された。,家五軒  一、おしゃまんへ是まで一里、川あり、狄おとな(○○○)、アマリ  家五、六軒    『津軽一統志,『津軽一統志』より三十年後のものである。  ,寛文十年の『津軽一統志』時代と安政三年(一八五六)の『蝦夷行程記』時代の戸数を比較して見ても二百年後の
戸井町史 ([蝦夷地と馬])

寛文九年(一六六九)のシャクシャインの乱の時に、蝦夷地の状況を津軽藩主に報告した『津軽一統志』に、津軽
戸井町史 ([戸井の地名考])

原木川附近の地名ハラキ(原木)寛文10年(1670)に書かれた「津軽一統志」に「にともない」とある地名,「津軽一統志」には「にともない、家五軒、乙名(おとな)(アイヌの酋長)よた犬(丶丶丶)」とある。,①寛文10年(1670)津軽一統志「塩くび崎」②元禄13年(1700)松前島郷帳「汐くび村」③〃 (〃,年代順に並べて見ると①寛文十年(一六七〇)の『津軽一統志』に「おやす(丶丶丶)空家十五、乙名(おとな),タカヤシキ寛文十年(一六七〇)の『津軽一統志』に「たか屋敷、空家(あきや)七」とあり、又同書に「松前中
恵山町史 ([江戸時代の漁業])

寛文9年(1669)のシャクシャインの乱当時の見聞といわれる『津軽一統志』(後述)には、次のように記述
恵山町史 ([編集後記])

尻岸内の初見は、寛文9~12年(1969~72)頃か、その後、編纂されたといわれている津軽藩史『津軽一統志
南茅部町史 上巻 (南茅部町史 上巻 目次)

  郷土の開基   第二節 史書に記された郷土(その一)………………………………一八一     津軽一統志
恵山町史 (2、箱館六ケ場所の成立)

前述『津軽一統志』によれば1669年(寛文9)頃、野田追が「商場」と記されており、また、1695年(元禄
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

恵山沖の鱈漁の記録は、『津軽一統志』寛文9年(1669)の条に、松前下口(東蝦夷地)の産物、干鮭(からさけ
恵山町史 (目次)

の起源・集落の形成   第2節 元禄から享保のころの郷土 ……………………… 361    1、津軽一統志
椴法華村史 (目次)

……………………………………………………316      松前藩の対蝦夷政策/アイヌ人勢力の実態/津軽一統志
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