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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第二巻 (清国人職工)

清国人職工 明治8年従来の靴や馬具用を使途とする製革の製法のみでは需要に限度があるとの判断から毛皮のなめし,同年5月西村貞陽は清国に視察にでかけたが、その際に張尚有と王直金の2名をなめし皮の職工として雇用することにした,開拓使は、鹿皮の資源が北海道では豊富であるためそれに注目して10年11月曽根清(『殖民公報』第17号では清国人 / 清国人職工
椴法華村史 (昆布の清国輸出)

昆布の清国輸出 昆布は室町時代ごろからもっぱら内地に向け移出されていたが、元禄年間(一六八八-一七〇,四)に至り、少量ではあるが清国へ輸出されるようになり、その後徐々に輸出は増加しつつあった。,年、順風がなく船は箱館に繋がれ翌年ようやく長崎港に着船する)  このことを契機にして蝦夷地の昆布は清国向 / 昆布の清国輸出
函館市史 通説編 第二巻 (清国商人の登場)

清国商人の登場 以上のように函館の輸出貿易が欧米系商社によってなされていたものが、慶応から明治初年にかけて,、その担い手の主体は清国商人へと移行していった。,そのなかで長崎唐館内に在留の清国人は旧来のしきたりもありそのまま在留を認め、また条約締結国の外国人が清国人,を連れてきた場合は雇用しているという証書を携帯するように定めた(「米露丁葡清国外国史料」北大蔵)。,この達し以降清国人は条約締結国人の雇いであれば、自由に彼らと同様の商活動も可能になったわけである。 / 清国商人の登場
函館市史 通説編 第二巻 (西村貞陽の清国視察)

西村貞陽の清国視察 明治8年5月開拓使は中判官西村貞陽を清国に派遣した。,この派遣は、清国の貿易拡張のための市場調査を目的としたものであったが、前に述べたようにこれ以前にも開拓使,西村は清国視察にあたり笠野熊吉を随行させた。,同じ時期に内務省勧業寮と大蔵省租税寮の官史も清国視察を行っている。,同9年4月、これらの建言をふまえて、大隈大蔵卿は「清国通商拡張ノ義」と題する建議を三条太政大臣にあてて / 西村貞陽の清国視察
椴法華村史 (昆布の清国直輸出)

昆布の清国直輸出 昆布は元禄年間(一六八八-一七〇四)より少量清国に輸出され、その後天文五年(一七四,〇)ごろから長崎俵物として本格的に長崎を経由して清国に輸出されていたが、箱館が開港されるや箱館から直接輸出,昆布貿易は多額の利益を得るといわれており、清国商人は大量の昆布を箱館で買付け始め、このため蝦夷地産昆布 / 昆布の清国直輸出
函館市史 通説編 第二巻 (貿易策の建言と清国視察)

貿易策の建言と清国視察 5年1月長崎の満川成種(新三)は北海道海産物の清国貿易に関する建言を開拓使に,満川は前年日清通商条約締結の一行に随行して天津に渡り、清国の事情をつぶさに視察してきていた(『支那通商必携,これより先の4年4月に清国との条約交渉のための伊達宗城を全権大使とする清国行きの使節団に北海道の各種産物,しかしこうした動きからも開拓使が何らかの対清国貿易を意識していたことは間違いがない。  ,8月に開拓使は木村に清国輸出産物取り調べを下問している。 / 貿易策の建言と清国視察
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使用達と清国直輸商会)

開拓使用達と清国直輸商会 このように種々の建言のなか、北海道の海産物貿易の商権をわが国に奪回しようとする,、渡辺治郎左衛門、笠野熊吉、木村万平、林徳左衛門の10名が「北海道産物支那輸出国直輸ノ方法」を定めて清国,願書の前文で、北海道の産物の多くは清国輸出に適したものであり、特に昆布や煎海鼠、干鮑の輸出総量は莫大であり,しかしこれまでは外国人の手に渡り、彼らはそれを清国に転売して利益をあげているが、国民にとっては利するところ,ここで輸出機関として清国直輸商会という呼称を函館において取るが、実態的にはあくまで開拓使用達の共同事業 / 開拓使用達と清国直輸商会
函館市史 通説編 第二巻 (清国人民籍牌規則と董事職の設置)

として明治7年4月に「清国人民籍牌規則」を定めて各地方管轄庁に達した。,また函館では明治3年10月に開拓使が函館在留のポーターを雇い居留清国人の取締をさせた。,最初の籍牌登記の史料は現存していないようであるが、「函館在留清国人籍牌書類綴」や「清国官民文移集」(札学蔵,をしている(前掲「米露丁葡清国外国史料」)。,清国領事の函館駐在は明治25年まで待たねばならなかった。 / 清国人民籍牌規則と董事職の設置
函館市史 通説編 第二巻 (清国市場視察と昆布諮問会)

清国市場視察と昆布諮問会 こうした事態に対処するため、20年9月、北海道庁は、清国内の昆布市況視察のため,、根室支庁の勧業課赤壁二郎、函館の北海道共同商会会頭遠藤吉平、厚岸の昆布業経営者鹿島万兵衛らを清国に派遣,翌年帰国した視察団は復命書をまとめ道庁に提出しているが、その中で清国における昆布取引の実情と、昆布貿易不振,又買崩サレ遂ニ今日ノ如ク衰退ヲ来スニ至レリ」(同掲「昆布ニ関スル復命書」)と述べ、昆布市況不振の原因を清国,このように清国視察団による復命書の内容は、いわば、生産者本位の販売対策ともいうべきもので、復命書の取り / 清国市場視察と昆布諮問会
椴法華村史 (明治二十七年)

・六月七日 日本政府、朝鮮出兵を清国に通告。,・この年、駐清国公使兼駐朝鮮公使大鳥圭介東学党の乱や日清戦争の外交工作に大活躍する。,・八月一日 清国に宣戦を布告する。,・九月十七日 黄海において日本連合艦隊と清国北洋艦隊の海戦となり、連合艦隊は清国軍艦五隻を撃沈し制海権,また日清戦争の開始と同時に函館の清国海産物業者が帰国したため清国向け海産物貿易ができなくなり、昆布・するめ・いりこ・
函館市史 通説編 第二巻 (明治後期の昆布貿易)

明治後期の昆布貿易 このように、明治前期を通して、昆布などの清国向け海産物輸出に特化してきた函館港の,漁業貿易の進展で新たな展開をみせるようになったが、明治後期においても、昆布の輸出は首位を占め、昆布の清国輸出,   表6-33  本邦商人と清国商人の昆布取扱実績 年 次 本邦商人 清国商人 合,清国商人の業界支配の排除に成功したかにみられた。,こうして、昆布取引実権は再び清国商人の手中に帰し、20年頃には昆布輸出高の約90パーセントが清国商人の
函館市史 通説編 第二巻 (函館店開業と上海支店・開通洋行)

函館支庁に提出した書類には「清国直輸 開拓使御用達商会」とあり、また清国直輸のために函館港に帆船弘業丸,5月に用達田中治郎右衛門と笠野熊吉両名から清国店を開業するので商号を付与されるように願書が提出され、開拓使,また保任社・運漕社・清国直輸商会という3本柱の経営形態で始められたにもかかわらず7年5月に保任社の解散,この時期において他の邦商が輸出に取り組んだかどうかは不明であるが、おそらくこの輸出のほとんどが清国直輸商会
椴法華村史 (明治三十三年)

・五月十五日 北清事変・清国で義和団蜂起。 ・五月二十三日 函館要塞司令部設置。,・六月十五日 政府清国に派兵を決定する。,・六月二十一日 清国、北京に出兵した各国に対して宣戦を布告する。
函館市史 別巻 亀田市編 (牧羊場開設と飼養状況)

明治九年春、融雪を待ち、雌羊舎二棟、種羊舎一棟、その他事務所板蔵を建築し、東京開拓使二号官園から清国種六,なお、清国種は東京にて「ロツト」類似症にかかり移送中に次第に蔓(まん)延して斃(へい)死するものが多かった,なお、清国種は気候風土に適しないとして五五頭を売却し、雌雄合わせて二六頭、「サウスダウン」一〇頭を七重,明治十二年、米国より「スパニシメリノ」種二九頭、「コツウオルド」種六九頭を輸入し、七重牧場から清国種一一頭
函館市史 通説編 第二巻 (清商の組織)

前述したとおり清国人の来函は開港当初からあったが、いわゆる独立した商人階層としての来函は慶応年間まで下,それには23名の清国人が記載されている。しかしこの史料では、各々の結社状態は不明である。,清国商社名の資料上の初出は明治7年6月の籍牌規則施行時であり、それによれば成記、東順和、煥章、万順、東和,   表6-24 明治9年の清国商社とその構成 商社名 氏名 役職 備考 成記号 袁錦濤
椴法華村史 (明治十七年)

・八月二十六日 清国、フランスに宣戦を布告する。,このため清国向け海産物である昆布・いりこ・鯣等の値が下がり、下海岸地域住民の生活が心配される。,・九月 清国商人、昆布・鯣を買い集めはじめ、このため海産物の価格が上昇、三ツ石・浦川・様似産の昆布は百石
函館市史 通説編 第二巻 (刻昆布製造)

して鉋を以て削り、再び乾燥してできあがった製品50斤を木箱に詰めて梱包縄がけするのであるが、輸出先の清国,では緑色の製品を好むため青葉昆布で製造した上級品は清国へ、赤葉まじり昆布で製造した製品は国内向けで九州,製造高の8、9割が清国輸出であるため、着色および色止めにさまざまな方法が講じられ、明治期で3度におよぶ,ヲ傭入レ、現ニ三十余人ヲ使役シテ其業ニ従事」(広業商会『北海道紀行』)しはじめたが、製品の品質良好で清国人
函館市史 通説編 第一巻 (いか漁鰊漁)

しかし清国向けには南部・津軽産の品を混じて箱館鯣の名をもって輸出したが、南部産は箱館産よりも良品であったため
函館市史 通説編 第一巻 (食品加工)

ところが開港後はその産額が著しく増加し、万延元年には清国へ輸出したもの21万8,200余斤に達した。
函館市史 通説編 第二巻 (広業商会の開業)

したようであったが、「自然他ノ人民ニ対シ不都合ヲ醸成可致哉モ難計議論」が政府部内にあったため広業商会の業務を清国輸出品,その結果荷為替業務の国内での適用、荷為替の利用対象者に居留清国商も含める、委託販売の国内適用、そして広業商会独自,武富は明治8年に西村貞陽が清国視察をした時に笠野とともに同行しており(明治8年「東京出張所文移録」札学蔵
函館市史 通説編 第二巻 (主要輸出品の構成)

海産物は清国(上海・香港)に輸出された。,清国市場における昆布の用途に関し「清国民ハ昆布ハ炭毒ヲ消スノ効アリト称シ需用者ハ其大部清国ノ中流以下ノ,明治元年に函館で清国商人が大量に買い付けするようになって昆布の輸出量は2万石台へと増加する。,これらの清国向け商品は函館から上海に輸出され、上海から清国各地へと転輸された。  ,輸出先は大半がアメリカであるが、時には清国に輸出される場合もあった。
函館市史 通説編 第一巻 (長崎俵物の直貿易)

いの規制輸出品として指定するような措置をとらなかったにもかかわらず、依然として開港前の方針に従って、清国向,これに対し長崎奉行は、従来どおり長崎港の対清国向け独占輸出品であることを主張して譲らなかった。
函館市史 通説編 第二巻 (海産物貿易港)

これは11年の輸出で清国が凶作であったために在留清商が競って買収して米穀を輸出したこと(10万円余)や,それは函館の輸出は大半が清国向けのものであり、清国から当港に輸入すべき物産に乏しかったこと、また本道において,海産物を中心とし、かつその市場が清国に集中するという特性は開港以来、函館が持ってきたものであり、明治前期
函館市史 通説編 第二巻 (3県期の活動と広業商会の閉鎖)

また清国を襲った不況やそれに追い打ちをかけるような十六年末の清仏戦争を契機としての商業機構の縮小そしてそれにともなう,金融事情の圧迫などが清国市場での昆布不捌といったことももたらした(「商況統計表」道文蔵)。,ちなみに上海の広業商会は二十三年七月の時点で「今殆んと残務を取扱ふにすきす」(『清国通商綜覧』)といった,   表6-31 上海入荷昆布取り扱い個数 年 次 輸入総高 広業商会 清国商人 広業商会
函館市史 通説編 第二巻 (外国貿易の新たな展開)

それは、この間、専ら海産物の清国輸出によって維持されてきた函館港が、露領漁業の基地としての機能をもつようになったことである,そしてこれら海産物の主な輸出先は清国であり、函館港の海産物貿易は、明治後期においても清国向けの海産物、,ともあれ、25年以後における函館港の貿易は、昆布を主体とした対清国貿易と露領漁業による「漁業貿易」によって
函館市史 通説編 第二巻 (ブラキストン商会と証券発行)

中浜町(現在大町)に店舗をかまえて独立し、製材事業や清国および国内貿易をはじめた。,それに不良債権も多くかかえ、これまでのままの営業方針では経営が悪化すると予想されたので、新しく清国向けの
椴法華村史 (箱館の開港と昆布の暴騰)

より箱館港は貿易港として開港され、外国船が貿易のために入港するようになったのであるが、貿易品の大部分は清国向,次に入港せしは、英国帆船イリサメル号にして、同国商人アストン氏及び其番頭清国広東人陳玉松乗込来れり。,是れ箱館より昆布を清国に直輸せし嚆矢なり。
函館市史 通説編 第二巻 (日本昆布会社開業後の昆布取引)

こうして、従来函館の海産商や清国商人の支配下にあった道内の昆布流通は、昆布会社の登場によって一変し、道内産昆布,領事は、明治22年、横浜の同国公使宛の報告のなかで「昆布の総輸出の七分の六は日本人によって直接、残りは清国商人,これはつい最近まで、その大半は清国の商人によってなされていたものであった。」,と述べ、翌23年には、「それまでヨーロッパと清国の商人が昆布輸出ではかなりのシェアを占めていたが、昆布,現に、組合に加入することなく、函館の海産商や清国商人に販売するものも少なくなかったようである。
函館市史 通説編 第二巻 (日本昆布会社の設立と昆布生産者連合組合の結成)

又業務内容には、先の昆布の直輸出のほか、連合地区外の昆布と、鯣、鮑、煎海鼠、干鱈、刻昆布などの清国向け,頭取、あるいは総代と日本昆布会社社長、主任、重役らが協議決定し、協議不成立の際は日本昆布会社の委託し清国,   こうして連合組合の一元集荷と日本昆布会社の清国向け直輸出による昆布の一手販売が開始されるが,日本昆布会社は、従来函館の海産物商が、昆布の流通過程においてもっていた仕込み資本としての機能を一手に掌握して、清国商人
函館市史 通説編 第二巻 (清商商社の交替)

清国上海市場とこちらの価格差、それから諸経費を控除したものが利潤であるが、これに銀相場の国際的な変動があり,表6-29 明治前期の清国商社一覧 「各国官使文通録」「高田家文書」「検印録」「諸課文移録」「各国官使来翰検印録,」「籍牌書類綴」「饒石叢書」「清国官民文移録」「雑事編冊」より作成.  ,而来多少商況ノ消長アリト雖モ之ヲ要スルニ清国人昔日ノ手数ヲ逞フスル能ハザルガ故ニ今日ヲ以テ四、五年前ニ,   この調査はこれらの商社とは別個に6名の清国人を上げて海産物の「仲買様ノ事ヲ為シ生活ス
函館市史 通説編 第二巻 (日本昆布会社の解散)

このため昆布会社は清国への直輸出の能力を全く失い、「同会社ハ今春来最モ困難ノ域ニ沈淪シ貯蔵ノ品ハ之ヲ競売,この結果、昆布の生産者価格の維持、流通過程における清国商人の排除を目的に組織された日本昆布会社と連合組合,そして昆布輸出の商権は再び清国商人の手中に帰すことになったのである。
函館市史 通説編 第一巻 (製材)

986坪を借入れて工場を設け、箱館付近や対岸の下北半島から原木を買入れ、角材や厚材を生産して、主として清国
函館市史 通説編 第二巻 (勧商局と広業商会)

(1)開拓使収税品中、清国向けの輸出品である昆布、煎海鼠、干鮑、鯣の4品は勧商局が全て買取る。,こうして開拓使と勧商局の保護下で広業商会が清国商人や在来の函館の海産商に変わって函館における貿易-特に
函館市史 通説編 第二巻 (営業内容)

これは広業商会が単に貿易商社として清国貿易にかかわるのみならず、国内における流通業にも食指を伸ばしていることを,また輸出物品であっても国内支店網を生かして清国相場より国内相場が高い場合は輸出しないで国内で売却することもあった
函館市史 通説編 第二巻 (贋金・贋札の横行とその処理)

して、北海道は各藩の人員が多いので紙幣が輻輳してそれぞれを識別することに慣れていないこともあり、とくに清国人,が紙幣を偽造しているようなので、外国船舶が入港した際は綿密に検索し、清国人の銀舗を探偵することにした。
函館市史 通説編 第二巻 (刻昆布)

刻昆布 前期末には「年ヲ逐ツテ盛大ニ赴カントスル」と推測された刻昆布製造業は、20年をピークに清国向,清国への輸出港別の順位は、横浜、神戸に次ぐが、輸出数量合計に占める函館の割合は、29年度の9.9パーセント,他に依拠するものがないので、あえて引用した.    ところで、刻昆布製造業の実態は在函清国商人
函館市史 通説編 第二巻 (上海における日本昆布会社の営業)

営業状況をみると、初めて輸出する明治22年には、創業後間もなく資金手当の困難から集荷した昆布を、函館の清国商人,  (1)日本昆布会社は北海道で集荷した清国向け昆布総ての輸出取扱いを三井物産会社に委託
函館市史 通説編 第二巻 (鯣製造の展開と同業者組合の性格)

』第28号)によれば、函館における鯣製造法には2種類あり、1つは国内需要を目的とするもの、もう1つは清国輸出,清国向け製造費は、1梱当たり表9―50の通りである。, 計  1円5銭  計  35銭  『殖民公報』第28号より    表9-50 清国輸出向製造費,清国販売上の1斤は120目。,煎海鼠、干鮑と並んで鯣について「干燥ヲ充分ニシ且ツ雨鯣ヲ混入セザルヲ要ス」とし、さらに「以上三種ハ主ニ清国
椴法華村史 (昆布製法の改善)

昆布製法の改善 椴法華村や根田内村の昆布は、明治十七年以前、手繰昆布とされることが多く、これは清国向
函館市史 通説編 第二巻 (函館銀行の設立)

日清戦後に清国に対する本道海産物貿易の局面が一転し、函館は海産物集散港として一大発展を見ようとする折に
函館市史 通説編 第二巻 (明治10年・12年の流行)

明治10年に清国に流行したコレラが侵入して、西南戦争を終えて各地に帰還する兵士と共に全国へ広がっていったのである
椴法華村史 (明治七年)

清国輸出向けの刻昆布は緑色が非常に好まれたため、種々の方法で着色が試みられたがいずれも人身に害を及ぼすものが
函館市史 通説編 第二巻 (輸入貿易の特徴)

米穀は榎本軍の占拠により回米に不足がきたし、そのために清国から輸入された。,報告者である領事のユースデンは自分が来た3年前は日本米で1ピクルで15シリングであったものが、この年は清国米,砂糖やいくつかの雑貨は在函の清国商人が取り扱っている。
函館市史 通説編 第一巻 (外国貿易の開始)

次に入港せしは、英国帆船イリサメル号にして、同国商人アストン氏及び其番頭清国広東人陳玉松乗込来れり。,是れ箱館より昆布を清国に直輪せし嚆矢(こうし)なり。
椴法華村史 (明治二十九年)

日清戦争の軍事支出の増加により経済が膨張していた時、ちょうど戦争は勝利に終り、清国より日本国へ総額三億六千四百万円
南茅部町史 下巻 (〔戦没者〕)

               第七師団第三野戦病院付旅順・遼陽・奉天ノ大戦ニ参加     三八年六月一一日  清国盛京省奉天兵站病院
函館市史 通説編 第二巻 (共同運輸会社の成立)

それは清国や朝鮮の軍事的緊張を背景としていた。
函館市史 通説編 第二巻 (製革)

また松下は毛皮製革方法の改良に努め、特に染色方法では熟練した清国人を雇って研究を重ねた結果、華麗精巧な
恵山町史 (3、明治前期の昆布漁について)

<昆布の販路と相場> 販路  昆布が長崎俵物3品・諸色として、重要な中国(清国)への輸出物であったことは,入港する多数の外国船が清国向海産物を買い付け、昆布の価格も年々値上がりした。,相場  明治22年当時の相場は本道は百石単位で表し、清国は百斤(きん)単位で表していた。  ,(  同   〃二円〇八銭)   同      花折昆布 三二〇円(  同   〃一円二八銭) 清国相場, 約四六二円)   同      刻昆布  二円七〇銭(  同   〃六七五円)    なお、清国
椴法華村史 (明治十八年)

改良が行われた結果この年の椴法華産の昆布は、評判がよく従来に比較して清国商人達も大いに買入れるようになったといわれている
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