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南茅部町史 下巻
(渡島商船)
渡
島
商船 大船では、
渡
島
商船の
渡
島
丸の艀を十鎌田菊次郎(明治三四生)が営業していた。,
渡
島
商船出帆広告 「北海道庁命令航路」
渡
島
丸 毎月 三日 六日 九日 一二日 一五日 ,目下船入澗築設計画中 函館市
渡
島
汽船株式会社 函青汽船株式会社 各村寄港,
渡
島
商船の旗(鎌田幸三所蔵) /
渡
島
商船
函館市史 通説編 第二巻
(渡島組設立)
渡
島
組設立 その発端は19年の
渡
島
組の設立であった。,
渡
島
組設立願 私共義当道諸貨物運搬及ビ行旅ヲ通ジ専ラ衆庶ノ便ヲ計ルヲ目的トシテ,有志輩協議ヲ遂ゲ資本金二万五千円ヲ以汽船
渡
島
丸ヲ構造シ則明治十八年五月以降回漕ニ従事罷在候処尚資本金ヲ,結社名を
渡
島
組としたのも
渡
島
丸にちなんだものであろう。,ところで願書には18年5月以降
渡
島
丸で回漕業を始めたとあるが、実はこの
渡
島
丸は東京で18年4月に建造された /
渡
島
組設立
南茅部町史 下巻
(渡島の港門)
渡
島
の港門 函館は綱知らずの良港として、昔から船舶の入津が多かった。,大きな湾口の東側には、弁天
島
と呼ばれる
島
嶼が連らなり、天然の船掛り澗として、最良の自然の条件を備えている,明治二三年八月、函館新聞に連載された「室蘭港へ
渡
船すべき
渡
島
國の港門臼尻港」開設の提唱がある。,提唱の内容は、当時、函館から北海道庁のある札幌への公式のルートは、函館から森に至り海路室蘭に
渡
り、千歳山道,弁天
島
中の
島
、沖の
島
の乾(いぬい)に当たる茂佐尻岬と二艘澗の間約一九丁、水深六、七尋ないし一二、三尋、 /
渡
島
の港門
函館市史 銭亀沢編
(渡島半島鉄道株式会社)
渡
島
半
島
鉄道株式会社
渡
島
半
島
鉄道株式会社は、東京府在住の工学博士で貴族院議員、秋田電気軌道株式会社取締役,出願書中にある「
渡
島
半
島
鉄道線路予測平面図」(前掲「鉄道省文書」)を見ると、五稜郭停車場から分岐して、,
渡
島
半
島
鉄道は、昭和十年九月二十六日付け北海道庁意見書に「本敷設申請区間内ニハ既免許自動車網アリ且発起人 /
渡
島
半
島
鉄道株式会社
恵山町史
([渡島半島の植物相と植生])
[
渡
島
半
島
の植物相と植生]
渡
島
半
島
の黒松内地方から以南の全域はそこに生育分布する植物種の様子から、,ブナの林は日本列
島
の冷温帯の指標群落であり、その構成種の組成によって日本海側のブナ−チシマザサ群団と太平洋側,のブナ−スズタケ群団のふたつに大別されているが、
渡
島
半
島
のブナ林はすべてブナ−チシマザサ群団であり、日本海植物,このように、恵山町のある
渡
島
半
島
の南部は、本州要素の植物とくに東北北部と共通する植物種を多くもつ地域である / [
渡
島
半
島
の植物相と植生]
恵山町史
(渡島半島の地震・津波被害)
渡
島
半
島
の地震・津波被害 道南の
渡
島
半
島
は、道東・道央の太平洋沿岸に次ぐ地震・津波災害地域である。,とくに、1993年(平成5年)7月12日発生した「北海道南西沖地震」による、日本海上の奥尻
島
および
渡
島
半
島
西岸,
渡
島
半
島
でも大きな震度を示すのは、長万部から八雲海岸の泥炭地や函館平野のような、更新世末期〜完新世初頭,
渡
島
半
島
の内陸または周辺の海底で発生する特徴的な地震に、いわゆる「群発(ぐんぱつ)地震」がある。,1955年(昭和30年)以降に観測された
渡
島
半
島
の群発(ぐんぱつ)地震は次のようなものがある。 /
渡
島
半
島
の地震・津波被害
恵山町史
([渡島半島と亀田半島])
[
渡
島
半
島
と亀田半
島
] 本町を含む
渡
島
半
島
全域は、地質的に、北海道西南部や東北地方に発達するグリーンタフ,図1.5 北海道西南部の新第三系区分(高橋功 原図) 亀田半
島
は、森町と函館市を結んだ線の東側地域,この方向は、亀田半
島
に分布する先第三紀系のドーム構造や中新世黒松内期(約1,500〜500万年前)の集塊岩類,なお、これらの地質構成は、津軽海峡を隔てた対岸の下北半
島
に、非常によく似ている。,亀田半
島
南東部にあたる本町の地形をみると、大部分は標高100〜600メートルの山地によって構成され、平坦 / [
渡
島
半
島
と亀田半
島
]
椴法華村史
(渡島汽船と〓工藤海運部)
渡
島
汽船と〓工藤海運部 明治末ごろより、椴法華から熊泊方面の定期船路は、函館の〓(ヤマサンギ)工藤海運部,
渡
島
汽船株式会社の設立 大正十年十月二十五日 創立総会開催 社長 小川幸一郎 所在地, 函館市東浜町十五番地 株式数 三千株 こうして
渡
島
汽船株式会社により椴法華から熊泊,すなわち、〓工藤海運部は、春日丸、鳳至丸の二隻を、
渡
島
汽船株式会社は、西久丸、一二丸、西海丸を投入して,その後、
渡
島
汽船株式会社は、大正十五年十月一日、北海道道庁命令航路の指定を受け、函館・森間に芸陽丸、函館 /
渡
島
汽船と〓工藤海運部
南茅部町史 下巻
(渡島汽船株式会社)
渡
島
汽船株式会社 大正一〇年、臼尻・尾札部でも回漕店の設立を望む声が高まった。 ,大正一〇年一〇月二五日、創立総会を開き、社長に小川幸一郎を選任して
渡
島
汽船株式会社が創業した。,大正一一年一月六日 函館新聞 堀差丸 大湊 七日後十時 ○
渡
島
汽船株式会社,合名会社 ※回漕部 荷受所仲濱町日魯会社横通り 大正一五年一〇月一日
渡
島
汽船株式会社,板木 臼尻 熊泊 磯谷 毎日 末広町一四番地 電話一三三四 荷捌所 仲浜町スコット倉庫
渡
島
汽船株式会社 /
渡
島
汽船株式会社
恵山町史
([渡島半島“みち”のはじめ])
[
渡
島
半
島
“みち”のはじめ] 函館から東
渡
島
の海岸線を津軽海峡沿いに恵山岬を経て、噴火湾へ回り茅部郡森町,和人が組織的に
渡
来したのは15世紀半ばである。,
渡
来。,この『中野路』は木古内から上ノ国に至る山みちで、当時は
渡
島
半
島
唯一の横断路であったが「仏法僧(ぶっぽうそう,そして、亀田以東の内浦湾・襟裳岬・根室半
島
、国後・択捉
島
を加え知床岬までを「東蝦夷地」、熊石以北宗谷から / [
渡
島
半
島
“みち”のはじめ]
函館市史 銭亀沢編
(増起伏運動を強めてきた渡島半島)
増起伏運動を強めてきた
渡
島
半
島
現段階での研究者たちの理解では、道南の地は第四紀が始まる約一八〇万年前,ところが、東北日本弧の北部にあたる
渡
島
半
島
は、とくに第四紀の半ば頃になってから、日本列
島
のほかの
島
弧(,たとえば西南日本弧、琉球弧など)と同じく、プレートの
島
弧への潜り込みが強まったため、東西圧縮の力が強まり,現在、
渡
島
半
島
の主軸山脈(遊楽部岳一二七七メートル、乙部岳一〇一七メートル)や、そこから分岐した亀田半
島
,(一一六七メートル)および松前半
島
(大千軒岳一〇七二メートル)がいずれも一〇〇〇メートル以上の高度を持 / 増起伏運動を強めてきた
渡
島
半
島
恵山町史
([渡島半島の植生と気候の概要])
[
渡
島
半
島
の植生と気候の概要] ガンコウランとイソツツジの叢 イソツツジ(花),) エゾシャクナゲ(林床に生える低木) 恵山山塊部の現存植生図 恵山町は
渡
島
半
島
南部,の亀田半
島
に位置している。,そのため恵山町の植物相とその植生は、
渡
島
半
島
地域の植物相とその植生のもつ特質、また
渡
島
半
島
部の恵山町を / [
渡
島
半
島
の植生と気候の概要]
南茅部町史 下巻
(室蘭港へ渡航すべき渡島国の港門 臼尻港)
室蘭港へ
渡
航すべき
渡
島
国の港門 臼尻港 明治23年8月6日函館新聞 ,
渡
島
国より室蘭に航すべき港門にして森より勝りたるもの無からしめば則ち止まん荀も然らずんば
渡
船場の任を他,抑も
渡
島
の東岸より室蘭に
渡
航すべき港門ハ森・砂原・臼尻の三港とす。 ,然らば則ち臼尻港は
渡
島
国より室蘭に
渡
航すべき港湾中の第一位に居るものと謂はざる可らず。 ,すべき
渡
島
東岸の
渡
船場を臼尻湾と定むる方大に全体の利益なるべしと信ずるなり。 / 室蘭港へ
渡
航すべき
渡
島
国の港門 臼尻港
函館市史 通説編 第一巻
(渡島半島のストーン・サークル)
渡
島
半
島
のストーン・サークル 臼尻遺跡のストーン・サークル
渡
島
半
島
でストーン・サークルが発見,函館の日吉遺跡との比較上から臼尻遺跡の概要を述べると、この遺跡のある南茅部町は
渡
島
半
島
南東部にあって噴火湾 /
渡
島
半
島
のストーン・サークル
函館市史 通説編 第二巻
(渡島国を7大区とする企画)
が管轄する区域は、前記の各郡の外に後志国の磯谷、歌棄、久遠、奥尻、太櫓、瀬棚、
島
牧、寿都の8郡と
渡
島
国, 表2-26
渡
島
国大小区更正表
渡
島
国亀田郡第1大区 1小区 2小区 3小区,13所、支村1所
渡
島
国檜山郡第6大区(1~9小区) 町数24町、村数21所
渡
島
国爾志郡第7大区,)1~4小区 8村 第10大区(
渡
島
国檜山郡)1~9小区 20村と27町 第11大区(
渡
島
南津軽郡,)1~17小区 13村と33町 第12大区(
渡
島
国福
島
郡)1~3小区 6村 第13大区(
渡
島
国上磯郡 /
渡
島
国を7大区とする企画
南茅部町史 下巻
(〔渡島東部消防署〕)
〔
渡
島
東部消防署〕 広域消防設置に伴い、亀田郡戸井町・尻岸内(恵山)町・椴法華村、茅部郡南茅部町・鹿部村,昭和四九年四月、関係町村は町村議会の議決を得て、
渡
島
東部消防事務組合を設置、本部を南茅部町に置く。 / 〔
渡
島
東部消防署〕
函館市史 別巻 亀田市編
(渡島地方・亀田村の稲作被害)
渡
島
地方・亀田村の稲作被害 昭和六年の
渡
島
地方の予想収穫高は一万九、一九九石で、反当収量は三六八合である,は割合) 米作被害反別 畑作被害反別 最低は十勝支庁管内の二割六分二厘で、
渡
島
支庁管内 /
渡
島
地方・亀田村の稲作被害
函館市史 別巻 亀田市編
(渡島平野土地改良区新設)
渡
島
平野土地改良区新設 亀田土地改良区は、昭和二十九年土地改良法に基づき発足して以来十年間、土地改良区,ではむしろ良いとの結論に達したため、このことが各単位改良区で慎重審議された上、総代会において合併の決議をし「
渡
島
平野土地改良区,
渡
島
平野土地改良区総代選挙は九月十八日実施されることになっていたが、亀田町総代一八名の選出は、選挙を待,伊藤円次郎 高瀬 茂雄 瓜谷 石蔵 関本 政蔵 亀谷 正 片桐 藤吾 笠井清四郎 水
島
辰三郎 /
渡
島
平野土地改良区新設
椴法華村史
(渡島東部消防事務組合の設立)
渡
島
東部消防事務組合の設立 下海岸地域の消防団は相互応援体制をとっていたことは、前にも記したとおりであるが,このような気運の中で、遂に昭和四十九年四月一日、「
渡
島
東部消防事務組合」が設立された。 ,構成町村(砂原町・鹿部村・南茅部町・椴法華村・尻岸内町・戸井町)
渡
島
東部消防事務組合機構 /
渡
島
東部消防事務組合の設立
函館市史 別巻 亀田市編
(明治二十九年渡島地方調査)
明治二十九年
渡
島
地方調査 明治初期の小作制度については現在資料が乏しくその様子を明らかにすることができない,しかし、時代は下がるが、主として明治二十九年九月、北海道庁殖民課事業手高畑冝一の調査および『
渡
島
国状況報文,高畑の『
渡
島
地方調査』より抜粋すると、 小作部 (一)
渡
島
国亀田郡亀田村小作状況,且ツ畑地明ケ
渡
之儀ハ当明治廿八年十二月限リ無二異論一明ケ
渡
可レ申候。, 佐々市三郎 □ 借地証書
渡
島
国亀田郡亀田村字札幌通 / 明治二十九年
渡
島
地方調査
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田村並びに渡島地区共進会)
亀田村並びに
渡
島
地区共進会 ○
渡
島
二才馬連合共進会 昭和二十九年七月二十日、
渡
島
二才馬連合共進会は村役場裏広場, 一等 伊藤 保 一等 逢坂 セツ 二等 福
島
隆栄, 昭和 雨塚 タカ タカ号 〃 〃 昭和 田原吉三郎 ○第一回
渡
島
中部畜牛共進会,の部 富岡 柏 松太郎 村有貸付短角牛の部 中道 亀谷 正 ○第二回
渡
島
中部畜牛共進会, 亀田村字昭和 鈴木勇所有 新栄号 二等賞 また、同十月十五日七飯町家畜市場において開催の第九回
渡
島
二歳馬共進会 / 亀田村並びに
渡
島
地区共進会
函館市史 銭亀沢編
(函館風松前神楽(渡島神楽))
函館風松前神楽(
渡
島
神楽) この地域で演じられている神道と関係の深い神事芸能は雅楽と神楽(かぐら)である,そのうち舞楽は豊栄の舞その他数番演じられている」という(石崎地主海神社の創立者川
島
ゆき子談)。,また、ここで奉奏されている松前神楽を
渡
島
神楽や函館風松前神楽と呼んでいた時代があった。,これらの資料に使用されている用語を考えると現在の福
島
町や松前町、江差町に残されている江戸末期や明治期の,これらによって江戸時代から明治期までの松前町や福
島
町、江差町などの
渡
島
半
島
各地の神楽文化との交流史と函館風松前神楽 / 函館風松前神楽(
渡
島
神楽)
南茅部町史 上巻
(渡り・移動)
渡
り・移動 鳥類の種類は確認された種だけで三八科、三亜科、一一五種(森口鳥類目録・昭和五十六年)その,中で留
島
のエゾライチョウ、キジ、クマゲラ、アカゲラ、コゲラ、スズメ、ハシブトガラス、ハシボソガラスなどが,鳥は
渡
りあるいは移動の方法により、繁殖のために飛来する夏鳥、春秋の
渡
りのときに立ち寄る旅鳥、越冬のためなどに,移動や
渡
りも分け方が困難な場合もある。,多くの
渡
り鳥は
渡
島
半
島
周辺を通過する場合が多く、南茅部町はその
渡
りのコースの中にある。 /
渡
り・移動
戸井町史
((一)渡島山脈の地質構造と岩石の概要)
(一)
渡
島
山脈の地質構造と岩石の概要
渡
島
山脈は、尻岸内町の恵山(620米)を起点にして北西に走り、 / (一)
渡
島
山脈の地質構造と岩石の概要
函館市史 銭亀沢編
(志苔館と渡党)
、吉岡康暢氏が指摘するように、どちらかといえば、一四三〇年から四〇年代(永享三~嘉吉三)の安藤康季の
渡
島
,、あるいは安藤政季の
渡
島
に、館成立の現実的整理を求めてきた。,『今昔物語集』の安倍頼時の
渡
島
を引き合いに出すまでもなく、道南から北奥地域に展開した擦文文化(八~一三世紀,その意味で、この古代末期における
渡
島
者は、原「
渡
党」といえなくもなく、かかる「
渡
党」の人びとの
渡
島
は年,小林氏も、良景の祖父重弘の代に上野国(現群馬県)から
渡
島
してきた「
渡
党」であったというのである。 / 志苔館と
渡
党
戸井町史
(三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃))
三、道南の館主と政季、信広の
渡
島
(新羅之記録抜萃) 『新羅之記録(しんらのきろく)』に享徳三年(○○,○○)(一四五四)入
島
した安東政季が、同族である。,1、信広の
渡
島
「新羅之記録」に蠣崎信広が
渡
島
する時に佐々木繁綱、工藤祐長の外に、蠣崎の土豪、酒井七内,2、安東政季の
渡
島
「伊駒政季朝臣は、十三之湊盛季の舎弟安東四郎道貞の息男潮湯四郎重季の嫡男なり。,
渡
るなり。」 / 三、道南の館主と政季、信広の
渡
島
(新羅之記録抜萃)
南茅部町史 下巻
(〔渡辺章三〕)
〔
渡
辺章三〕 明治一〇年一月、技術開発のために東京から赴任した
渡
辺章三は、開拓使函館支庁御用係として,同年四月、函館在勤を命ぜられ、函館着任早々五月に千
島
国へ出張している。,用向きは詳らかでないが、千
島
から函館に帰ると東京へ出張している。,当時の船便のことであるから、かなりの月日を要した長途の旅行であり、千
島
の報告のため東京に出向いたものと,御用有之茅部郡臼尻村出張申付候事 同上 同年 六月一〇日 鱈肝油製造トシテ
渡
島
国茅部郡 / 〔
渡
辺章三〕
函館市史 通説編 第一巻
(蝦夷が島)
蝦夷が
島
北海道は古くは
渡
島
(わたりしま)、あるいは越
渡
島
(こしのわたりしま)ともいわれていた所である,ここに住む民族は蝦夷と呼ばれていたところから、近世に至っては蝦夷地とか、または蝦夷が
島
と称され、自らを / 蝦夷が
島
戸井町史
(一、和人渡来の始め)
「文治五年草創」という妄説を書いた者は、義経の一行が文治五年に平泉から逃れて
渡
島
(ととう)したとか、義経,和人が道南に来た(
渡
島
)と思われる事蹟を年代順に列挙して見ると ①文治五年(一一八九)四月二十九日,伝説 大体以上の事蹟や伝説ぐらいのもので、文治五年は、日持上人が
渡
島
したという伝説のある永仁四年よりも,又日持上人
渡
島
伝説の永仁四年(一二九六)は南北朝時代の始まる広弘二年(一三三二)より四十七年前なので、,日持上人
渡
島
の頃も戸井に和人の館があったということは考えられない。 / 一、和人
渡
来の始め
函館市史 通説編 第二巻
(茶屋渡世の公認)
茶屋
渡
世の公認 享和3(1802)年、茶屋
渡
世(営業)の者19名が株仲間を組織し営業の公認を願い出た,文政元(1818)年には地蔵町の築
島
(古築
島
、後の船場町)への出店も許され公認の茶屋も31軒と増加したが,遊女屋同様の所業をしている者や安易に淫らな所業に就く女たちへは「是迄ノ心得違ハ不及沙汰候間、以後正路ノ
渡
世可致 / 茶屋
渡
世の公認
函館市史 通説編 第一巻
(良忍上人の渡来説)
良忍上人の
渡
来説 『蝦夷実地検考録』に、「神職旧記に云う。,大治年中(一一二六~一一三〇)大原の良忍上人、融通念佛を弘めん為に、此
島
へ
渡
り、杖を息めし時、観音の霊跡有,りといいしことあるにより、保延元乙卯年一宇を建てたり」と、融通念佛宗の開祖良忍上人の布教の為の
渡
来が記 / 良忍上人の
渡
来説
函館市史 通説編 第一巻
(安東政季らの渡海)
安東政季らの
渡
海 盛季が南部氏に破れて十三湊を放棄した時、盛季の弟安東四郎道貞の子、潮潟四郎重季(しげすえ,、河野加賀右衛門尉(又は加賀守)政通(まさみち)らが、ひそかに計って政季を擁し、大畑から船出して蝦夷
島
に,
渡
った。 ,政季が蝦夷地を去るにあたり、弟の下国八郎式部太輔家政を茂別館(上磯町茂辺地)に置き、蝦夷
島
支配の地位を,このほか当時いまの
渡
島
半
島
沿岸には、志海苔館(函館市志海苔町)、中野館(木古内町中野)、脇本館(知内町涌元 / 安東政季らの
渡
海
函館市史 通説編 第二巻
(黒船渡来)
黒船
渡
来 ともあれ、こうして松前藩は、アメリカ船の箱館
渡
来に備え、藩兵を箱館市中のみならず汐首岬から,この異国船の
渡
来が箱館の住民に大きな動揺をもたらしたことはいうまでもない。,さて、2艘の異国船が山背泊沖に停泊するや、応接方代
嶋
剛平・蛯子次郎・稲川仁平外足軽が1番入津の船へ派遣,が弁天崎台場沖へ碇泊したので、再び応接方(新たに藤原主馬・関央が加わる)を同船に派遣したところ、先の
渡
来船,3艘が碇泊するや、ただちに応接方藤原主馬・関央・代
嶋
剛平・蛯子次郎が橋船でポーハタン号に赴き、ペリー付通訳 / 黒船
渡
来
函館市史 通説編 第一巻
(和人渡来と蝦夷の歌枕)
和人
渡
来と蝦夷の歌枕 その後、和人の
渡
来もいよいよ多く、ことに延暦年間(782~805)以降、天喜、,康平、文治における奥羽兵乱の際、戦いに破れてのがれ
渡
るものや、北陸道の辺りから、産物交易に通い、後永住,した者もあったと伝え(『蝦夷
島
奇観』)、しだいに和人との接触がはげしくなると、辺境の蝦夷の風聞が京の文人,久寿2(1155)年66歳で没したといわれる、藤原顕輔の歌にも、 あさましや 千
島
のえぞが,73歳で寂滅した、西行法師にも、 いたけるも あま見る時に なりにけり えぞが千
島
を / 和人
渡
来と蝦夷の歌枕
函館市史 通説編 第一巻
(円空・空念の渡来)
円空・空念の
渡
来 河野政通の供養碑(称名寺境内)と「円空仏」 根崎町川濯神社蔵(渋谷道夫撮影), 寛文年間に
渡
来し、各地に木彫仏を残したことで有名な円空が、函館地方に来とする積極的な資料を持たないが,これまでに
渡
島
管内では所々に発見されているが、函館で発見されたのは、これが始めてである。 ,また、宝永元(1704)年に
渡
来して、道南の寺社に納経して歩いた越前の禅僧空念は、同年4月亀田に来て、 / 円空・空念の
渡
来
南茅部町史 下巻
(〔厳島社〕)
〔厳
島
社〕 厳
島
神社は、古来海中の岩
島
に海上安全、漁事豊漁を願って祀られた神社で、弁天社、弁天さまとして,宝暦年間(一七五三)安芸の宮
島
に至り、大社より勧請(かんじょう)したと伝えられる。 ,海岸から開かれたので道内諸社中、厳
島
社は漁村や船人の関係で、松前、江差、箱館には早くから勧請されて鎮座,村の南のはしより舟ニ而
渡
る 周廻 弐丁斗 ,
島
の周廻 布海苔 紫海苔 ムイ 東海婦人等多し / 〔厳
島
社〕
函館市史 通説編 第一巻
(安東盛季の渡来)
安東盛季の
渡
来 しかるに安東盛季の十三湊放棄の時点については、永享4(1432)年説と嘉吉3(1443,奥の下国与二南部一弓矢事に付て、下国弓矢に取負、えぞが
島
へ没落云々。,山名、赤松は重可レ被二仰遣一条、尤宜存云々 とあって、この年、安東氏が蝦夷
島
へのがれ,同三年十二月十日狄の
島
に北(にげ)
渡
らんと欲するの処、冬天たれば順風吹かず難儀に及べり、粤(ここ)に道明法師天,唐川の城も焼失して戦雲はいよいよ暗く、わずかに小泊の柴崎城(柴館)の攻防を最後に、嘉吉3年安倍一族は
渡
嶋
/ 安東盛季の
渡
来
南茅部町史 下巻
(【資料二-①】 明治九年ヨリ十五年ニ至ル 郵便 駅逓 川渡守人名録)
五等七等
渡
島
萱部砂原 ○ 白勢重蔵 金三拾五銭 五等七等
渡
島
亀田下湯ノ川, 金五十銭 三拾銭 五等七等
渡
島
萱部根田内 ○ 広
島
萬兵ヱ 金三拾五銭 五等七等,
渡
島
萱部川汲 ○ 岩花与兵ヱ 金三拾銭 五等七等
渡
島
萱部尾札部 ○ , 五等七等
渡
島
上磯有川 ● 小杉六兵ヱ 金弐拾銭 五等七等
渡
島
上磯茂辺地,五等七等
渡
島
萱部知内 ● 福井太郎兵ヱ 金三拾銭 五等七等
渡
島
萱部福
島
/ 【資料二-①】 明治九年ヨリ十五年ニ至ル 郵便 駅逓 川
渡
守人名録
函館市史 銭亀沢編
(安藤康季の渡道と「道南の十二館」)
を「日ノ本将軍」としてリードしていた安藤康季が、南部氏との抗争の末、蝦夷
島
に逃れたのは、永享四(一四三二,しかし文安三(一四四六)年、康季は、ライバルの南部氏を蝦夷
島
より旧津軽へ攻め
渡
ったものの、あえなく引根城,享徳三(一四五四)年、安藤政季は晴れて武田信広・相原政胤・河野政通らを従え、南部大畑より、蝦夷
島
に
渡
った,の地に、享徳三年の安藤政季の
渡
海を一大契機に、安藤氏支配下の土豪層が波状的に
渡
島
してくる。,
渡
党」によって商業都市的地位を獲得していた。 / 安藤康季の
渡
道と「道南の十二館」
恵山町史
(渡島国亀田郡恵山取調書)
渡
島
国亀田郡恵山取調書 ○歴来 一、恵山の硫黄は古来より人の口に膾炙(かいしゃ)する所にして、其開採 /
渡
島
国亀田郡恵山取調書
函館市史 通説編 第二巻
(江戸城引渡交渉)
江戸城引
渡
交渉 鳥羽伏見の戦いの敗北を見て、大坂城から旧幕府海軍の旗艦開陽で江戸へ逃げ帰った前将軍徳川慶喜,K4.1.28 川勝備後守広運 向山隼人正一履 石川河内守 菊池丹後守隆吉 平岡和泉守準 成
島
大隅守惟弘,矢田掘讃岐守(鴻)[景蔵] 榎本和泉守(武揚)[釜次郎・梁川] 会計 大久保越中守(忠覚)[一翁] 成
島
大隅守,第二箇条 城明
渡
シ尾張藩へ可相
渡
ノ事(勝は江戸城を田安慶頼預かりとすることを嘆願していた。),第三箇条 軍艦銃砲引
渡
可申、追テ相当可被差返事(当初案には追て以下の付帯条件はない。) / 江戸城引
渡
交渉
函館市史 銭亀沢編
(標識鳥の渡りと生息環境)
標識鳥の
渡
りと生息環境 個々の鳥類の特徴をまとめた表2・4・5を参考にしながら、標識鳥の
渡
りとその生息環境,また、
渡
り鳥の移動のモデルを図2・4・4に示した。 ,途中に立ち寄るだけの
渡
り鳥)である。,つまり、アオジだけが秋の
渡
り期にはいる前から記録されるのである。,ちなみに、当地では平成二(一九九〇)年二月十日に静岡県沼津市原一本松女鹿塚浮
島
沼で放鳥した個体が同年八月三十日 / 標識鳥の
渡
りと生息環境
椴法華村史
(大正十二年島泊の大火)
大正十二年
島
泊の大火 大正十二年五月二日午前三時、
島
泊中村理髪店から出火したが、当時村内には少数の手動,ポンプがあるのみで、折からの風に煽られ
島
泊現在の川森旅館から〓福永商店の付近までの両側一帯、三十六戸が,が八万円 原因は七輪の火から 去る三日の椴法華村大火は既報の如くなるが同村より
渡
島
支庁 / 大正十二年
島
泊の大火
函館市史 通説編 第一巻
(掘割および築島)
掘割および築
島
しかるに箱館港の施設はこれに応じ得なかった。,、その浜手の寄洲を埋立て造船所を設置する計画をたて、官民協力してこの工事を進めるため、名主らに左の申
渡
をした, 当所の儀はいまだ田作もこれ無く、離
島
の事ゆえ、これでは助命も相成りがたく、入船は当所第一,『蝦夷
島
奇観』、『蝦夷雑記』、『箱館夜話草』などに、松右衛門や松右衛門
島
などのことが築
島
に関係して所見,知られているが、箱館の築
島
について、どのようなかかわり合いもったものか今のところ明らかでない。 / 掘割および築
島
戸井町史
([下北半島の景勝地と伝説])
[下北半
島
の景勝地と伝説] 津軽海峡を夾(はさ)んで、一衣帯水(いちいたいすい)の間にある、下海岸地方,昭和四十六年(一九七一)七月一日から、津軽海峡の最短距離である下海岸の戸井町と、下北半
島
の大間町との間,を結ぶ、東日本海運株式会社のフェリーボートが就航し、約一時間で津軽海峡を
渡
って対岸に達することができるようになった,下北半
島
の略図 北海道の和人の歴史の始りは、下国安東盛季やその肉親、親戚、従臣等の
渡
島
からであり,近世になって、恐山、楽研(やげん)温泉、湯野川温泉を中心とした地域及び下北半
島
西海岸の仏ケ浦を中心とした / [下北半
島
の景勝地と伝説]
函館市史 銭亀沢編
(福島における海産干場)
福
島
における海産干場 また、松前郡の隣の福
島
郡宮歌村、白符村でも清部村同様海産干場の一村持ちを願い出,基盤となり労働組織が形成されることが多く、網元以外は家族員を中心に漁がおこなわれるということである(「
渡
島
管内福
島
町白符 / 福
島
における海産干場
戸井町史
(一、武井の島の伝説)
と相対するように、全
島
玄武岩で構成された岩
島
が浮かんでいる。,この岩
島
はマンジュウ形の小さな岩
島
と、直角三角形をした大きな岩
島
を連(つら)ねたような形で、
島
の周囲は,この
島
は、遠い蝦夷地の昔からムイノシマと呼ばれ、「無意の
島
」「武委の
島
」などという漢字の当てられた時代,、
島
にまつわる伝説と共に、戸井町のシンボルとされている
島
である。 ,の岩の南西即ち沖に面した方は、切り立ったような絶壁になっており、この岩壁は海鵜のねぐらになり、海鵜の
渡
来 / 一、武井の
島
の伝説
恵山町史
([函館と亀田半島の気候特性])
ところで、
渡
島
半
島
南東部にあたる亀田半
島
は、北海道の気候区分から「太平洋側西部」の気候に属するが、地形的,千
島
列
島
より南下する寒流の親潮と、上記の対馬暖流は、とくに夏期において交会し、多量の水蒸気が凝結して濃霧,一方、津軽海峡を挟んで、対岸の青森県下北半
島
の気候と、亀田半
島
西端の函館の気候を比較すると、表2.1(,日本列
島
の気温図表(例えば井上・羽多野、1983)からみると、北海道南部の亀田半
島
・松前半
島
と本州北端,以上のような亀田半
島
と下北半
島
の気候の類似性が、江戸期から現代に至る両半
島
地域の歴史・居住・産業(とくに / [函館と亀田半
島
の気候特性]
恵山町史
(渡嶋国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書)
渡
嶋
国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書 一、古武井沢は「シリキシナイ」村領に属する周囲四里 /
渡
嶋
国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書
南茅部町史 下巻
(【資料二-②】 郵便局等級手当人名表)
根田内
渡
島
茅部 ○ 五等七等 三拾銭 広
島
萬兵衛 川汲
渡
島
茅部 ○,
渡
島
茅部 ● 五等七等 三拾銭 平田佐吉 掛間
渡
島
茅部 ● , 有川
渡
島
上磯 ● 五等七等 三拾銭 小杉六兵衛 茂辺地
渡
島
上磯,知内
渡
島
福
島
○ 五等七等 三拾銭 福井太郎兵衛 福
島
渡
島
福
島
,● 五等七等 三拾銭 八木沢吉之丞 吉岡
渡
島
福
島
● 五等七等 三拾銭
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