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南茅部町史 下巻
(渡島商船)
渡島
商船 大船では、
渡島
商船の
渡島
丸の艀を十鎌田菊次郎(明治三四生)が営業していた。,
渡島
商船出帆広告 「北海道庁命令航路」
渡島
丸 毎月 三日 六日 九日 一二日 一五日 ,目下船入澗築設計画中 函館市
渡島
汽船株式会社 函青汽船株式会社 各村寄港,
渡島
商船の旗(鎌田幸三所蔵) /
渡島
商船
函館市史 通説編 第二巻
(渡島組設立)
渡島
組設立 その発端は19年の
渡島
組の設立であった。,
渡島
組設立願 私共義当道諸貨物運搬及ビ行旅ヲ通ジ専ラ衆庶ノ便ヲ計ルヲ目的トシテ,有志輩協議ヲ遂ゲ資本金二万五千円ヲ以汽船
渡島
丸ヲ構造シ則明治十八年五月以降回漕ニ従事罷在候処尚資本金ヲ,結社名を
渡島
組としたのも
渡島
丸にちなんだものであろう。,ところで願書には18年5月以降
渡島
丸で回漕業を始めたとあるが、実はこの
渡島
丸は東京で18年4月に建造された /
渡島
組設立
椴法華村史
(渡島汽船と〓工藤海運部)
渡島
汽船と〓工藤海運部 明治末ごろより、椴法華から熊泊方面の定期船路は、函館の〓(ヤマサンギ)工藤海運部,
渡島
汽船株式会社の設立 大正十年十月二十五日 創立総会開催 社長 小川幸一郎 所在地, 函館市東浜町十五番地 株式数 三千株 こうして
渡島
汽船株式会社により椴法華から熊泊,すなわち、〓工藤海運部は、春日丸、鳳至丸の二隻を、
渡島
汽船株式会社は、西久丸、一二丸、西海丸を投入して,その後、
渡島
汽船株式会社は、大正十五年十月一日、北海道道庁命令航路の指定を受け、函館・森間に芸陽丸、函館 /
渡島
汽船と〓工藤海運部
南茅部町史 下巻
(渡島の港門)
渡島
の港門 函館は綱知らずの良港として、昔から船舶の入津が多かった。,明治二三年八月、函館新聞に連載された「室蘭港へ渡船すべき
渡島
國の港門臼尻港」開設の提唱がある。 /
渡島
の港門
南茅部町史 下巻
(渡島汽船株式会社)
渡島
汽船株式会社 大正一〇年、臼尻・尾札部でも回漕店の設立を望む声が高まった。 ,大正一〇年一〇月二五日、創立総会を開き、社長に小川幸一郎を選任して
渡島
汽船株式会社が創業した。,大正一一年一月六日 函館新聞 堀差丸 大湊 七日後十時 ○
渡島
汽船株式会社,合名会社 ※回漕部 荷受所仲濱町日魯会社横通り 大正一五年一〇月一日
渡島
汽船株式会社,板木 臼尻 熊泊 磯谷 毎日 末広町一四番地 電話一三三四 荷捌所 仲浜町スコット倉庫
渡島
汽船株式会社 /
渡島
汽船株式会社
函館市史 銭亀沢編
(渡島半島鉄道株式会社)
渡島
半島鉄道株式会社
渡島
半島鉄道株式会社は、東京府在住の工学博士で貴族院議員、秋田電気軌道株式会社取締役,出願書中にある「
渡島
半島鉄道線路予測平面図」(前掲「鉄道省文書」)を見ると、五稜郭停車場から分岐して、,
渡島
半島鉄道は、昭和十年九月二十六日付け北海道庁意見書に「本敷設申請区間内ニハ既免許自動車網アリ且発起人 /
渡島
半島鉄道株式会社
函館市史 通説編 第二巻
(渡島国を7大区とする企画)
渡島
国を7大区とする企画 亀田上磯茅部の3郡及び胆振の山越郡に大小区制が導入されたとき、開拓使函館支庁, 表2-26
渡島
国大小区更正表
渡島
国亀田郡第1大区 1小区 2小区 3小区,13所、支村1所
渡島
国檜山郡第6大区(1~9小区) 町数24町、村数21所
渡島
国爾志郡第7大区,)1~4小区 8村 第10大区(
渡島
国檜山郡)1~9小区 20村と27町 第11大区(
渡島
南津軽郡,)1~17小区 13村と33町 第12大区(
渡島
国福島郡)1~3小区 6村 第13大区(
渡島
国上磯郡 /
渡島
国を7大区とする企画
南茅部町史 下巻
(〔渡島東部消防署〕)
〔
渡島
東部消防署〕 広域消防設置に伴い、亀田郡戸井町・尻岸内(恵山)町・椴法華村、茅部郡南茅部町・鹿部村,昭和四九年四月、関係町村は町村議会の議決を得て、
渡島
東部消防事務組合を設置、本部を南茅部町に置く。 / 〔
渡島
東部消防署〕
函館市史 別巻 亀田市編
(渡島地方・亀田村の稲作被害)
渡島
地方・亀田村の稲作被害 昭和六年の
渡島
地方の予想収穫高は一万九、一九九石で、反当収量は三六八合である,は割合) 米作被害反別 畑作被害反別 最低は十勝支庁管内の二割六分二厘で、
渡島
支庁管内 /
渡島
地方・亀田村の稲作被害
恵山町史
([渡島半島の植物相と植生])
[
渡島
半島の植物相と植生]
渡島
半島の黒松内地方から以南の全域はそこに生育分布する植物種の様子から、,組成によって日本海側のブナ−チシマザサ群団と太平洋側のブナ−スズタケ群団のふたつに大別されているが、
渡島
半島,このように、恵山町のある
渡島
半島の南部は、本州要素の植物とくに東北北部と共通する植物種を多くもつ地域である / [
渡島
半島の植物相と植生]
恵山町史
(渡島半島の地震・津波被害)
渡島
半島の地震・津波被害 道南の
渡島
半島は、道東・道央の太平洋沿岸に次ぐ地震・津波災害地域である。,とくに、1993年(平成5年)7月12日発生した「北海道南西沖地震」による、日本海上の奥尻島および
渡島
半島西岸,
渡島
半島でも大きな震度を示すのは、長万部から八雲海岸の泥炭地や函館平野のような、更新世末期〜完新世初頭,
渡島
半島の内陸または周辺の海底で発生する特徴的な地震に、いわゆる「群発(ぐんぱつ)地震」がある。,1955年(昭和30年)以降に観測された
渡島
半島の群発(ぐんぱつ)地震は次のようなものがある。 /
渡島
半島の地震・津波被害
函館市史 別巻 亀田市編
(渡島平野土地改良区新設)
渡島
平野土地改良区新設 亀田土地改良区は、昭和二十九年土地改良法に基づき発足して以来十年間、土地改良区,ではむしろ良いとの結論に達したため、このことが各単位改良区で慎重審議された上、総代会において合併の決議をし「
渡島
平野土地改良区,
渡島
平野土地改良区総代選挙は九月十八日実施されることになっていたが、亀田町総代一八名の選出は、選挙を待 /
渡島
平野土地改良区新設
椴法華村史
(渡島東部消防事務組合の設立)
渡島
東部消防事務組合の設立 下海岸地域の消防団は相互応援体制をとっていたことは、前にも記したとおりであるが,このような気運の中で、遂に昭和四十九年四月一日、「
渡島
東部消防事務組合」が設立された。 ,構成町村(砂原町・鹿部村・南茅部町・椴法華村・尻岸内町・戸井町)
渡島
東部消防事務組合機構 /
渡島
東部消防事務組合の設立
恵山町史
([渡島半島の植生と気候の概要])
[
渡島
半島の植生と気候の概要] ガンコウランとイソツツジの叢 イソツツジ(花),) エゾシャクナゲ(林床に生える低木) 恵山山塊部の現存植生図 恵山町は
渡島
半島南部,そのため恵山町の植物相とその植生は、
渡島
半島地域の植物相とその植生のもつ特質、また
渡島
半島部の恵山町を / [
渡島
半島の植生と気候の概要]
函館市史 銭亀沢編
(増起伏運動を強めてきた渡島半島)
増起伏運動を強めてきた
渡島
半島 現段階での研究者たちの理解では、道南の地は第四紀が始まる約一八〇万年前,ところが、東北日本弧の北部にあたる
渡島
半島は、とくに第四紀の半ば頃になってから、日本列島のほかの島弧(,現在、
渡島
半島の主軸山脈(遊楽部岳一二七七メートル、乙部岳一〇一七メートル)や、そこから分岐した亀田半島 / 増起伏運動を強めてきた
渡島
半島
函館市史 通説編 第一巻
(渡島半島のストーン・サークル)
渡島
半島のストーン・サークル 臼尻遺跡のストーン・サークル
渡島
半島でストーン・サークルが発見,函館の日吉遺跡との比較上から臼尻遺跡の概要を述べると、この遺跡のある南茅部町は
渡島
半島南東部にあって噴火湾 /
渡島
半島のストーン・サークル
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田村並びに渡島地区共進会)
亀田村並びに
渡島
地区共進会 ○
渡島
二才馬連合共進会 昭和二十九年七月二十日、
渡島
二才馬連合共進会は村役場裏広場, 昭和 雨塚 タカ タカ号 〃 〃 昭和 田原吉三郎 ○第一回
渡島
中部畜牛共進会,の部 富岡 柏 松太郎 村有貸付短角牛の部 中道 亀谷 正 ○第二回
渡島
中部畜牛共進会, 亀田村字昭和 鈴木勇所有 新栄号 二等賞 また、同十月十五日七飯町家畜市場において開催の第九回
渡島
二歳馬共進会 / 亀田村並びに
渡島
地区共進会
函館市史 別巻 亀田市編
(明治二十九年渡島地方調査)
明治二十九年
渡島
地方調査 明治初期の小作制度については現在資料が乏しくその様子を明らかにすることができない,しかし、時代は下がるが、主として明治二十九年九月、北海道庁殖民課事業手高畑冝一の調査および『
渡島
国状況報文,高畑の『
渡島
地方調査』より抜粋すると、 小作部 (一)
渡島
国亀田郡亀田村小作状況, 佐々市三郎 □ 借地証書
渡島
国亀田郡亀田村字札幌通 / 明治二十九年
渡島
地方調査
南茅部町史 下巻
(室蘭港へ渡航すべき渡島国の港門 臼尻港)
室蘭港へ渡航すべき
渡島
国の港門 臼尻港 明治23年8月6日函館新聞 ,然らば則ち
渡島
国就中函館方面より室蘭に向ふべき港門を撰ぶは最も必要の事と言ふべきなり。 ,而して現今に於て右の役目を有するものは、則ち
渡島
国森港とす。 ,而して余輩ハ
渡島
国臼尻港を以て森より勝りたる港門なりと為すものなり。 ,抑も
渡島
の東岸より室蘭に渡航すべき港門ハ森・砂原・臼尻の三港とす。 / 室蘭港へ渡航すべき
渡島
国の港門 臼尻港
戸井町史
((一)渡島山脈の地質構造と岩石の概要)
(一)
渡島
山脈の地質構造と岩石の概要
渡島
山脈は、尻岸内町の恵山(620米)を起点にして北西に走り、 / (一)
渡島
山脈の地質構造と岩石の概要
恵山町史
([渡島半島と亀田半島])
[
渡島
半島と亀田半島] 本町を含む
渡島
半島全域は、地質的に、北海道西南部や東北地方に発達するグリーンタフ / [
渡島
半島と亀田半島]
恵山町史
([渡島半島“みち”のはじめ])
[
渡島
半島“みち”のはじめ] 函館から東
渡島
の海岸線を津軽海峡沿いに恵山岬を経て、噴火湾へ回り茅部郡森町,この『中野路』は木古内から上ノ国に至る山みちで、当時は
渡島
半島唯一の横断路であったが「仏法僧(ぶっぽうそう / [
渡島
半島“みち”のはじめ]
函館市史 銭亀沢編
(函館風松前神楽(渡島神楽))
函館風松前神楽(
渡島
神楽) この地域で演じられている神道と関係の深い神事芸能は雅楽と神楽(かぐら)である,また、ここで奉奏されている松前神楽を
渡島
神楽や函館風松前神楽と呼んでいた時代があった。,これらによって江戸時代から明治期までの松前町や福島町、江差町などの
渡島
半島各地の神楽文化との交流史と函館風松前神楽 / 函館風松前神楽(
渡島
神楽)
戸井町史
(三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃))
三、道南の館主と政季、信広の
渡島
(新羅之記録抜萃) 『新羅之記録(しんらのきろく)』に享徳三年(○○,1、信広の
渡島
「新羅之記録」に蠣崎信広が
渡島
する時に佐々木繁綱、工藤祐長の外に、蠣崎の土豪、酒井七内,2、安東政季の
渡島
「伊駒政季朝臣は、十三之湊盛季の舎弟安東四郎道貞の息男潮湯四郎重季の嫡男なり。 / 三、道南の館主と政季、信広の
渡島
(新羅之記録抜萃)
恵山町史
(渡島国亀田郡恵山取調書)
渡島
国亀田郡恵山取調書 ○歴来 一、恵山の硫黄は古来より人の口に膾炙(かいしゃ)する所にして、其開採 /
渡島
国亀田郡恵山取調書
南茅部町史 下巻
(【資料二-②】 郵便局等級手当人名表)
○ 一等 ● 七重
渡島
亀田 ○ ,根田内
渡島
茅部 ○ 五等七等 三拾銭 広島萬兵衛 川汲
渡島
茅部 ○,
渡島
茅部 ● 五等七等 三拾銭 平田佐吉 掛間
渡島
茅部 ● , 有川
渡島
上磯 ● 五等七等 三拾銭 小杉六兵衛 茂辺地
渡島
上磯,知内
渡島
福島 ○ 五等七等 三拾銭 福井太郎兵衛 福島
渡島
福島
南茅部町史 下巻
(【資料二-①】 明治九年ヨリ十五年ニ至ル 郵便 駅逓 川渡守人名録)
○ 吉田宇右ヱ門 金弐拾銭 五等七等
渡島
亀田大野 ○ 清水篤三郎,五等七等
渡島
萱部砂原 ○ 白勢重蔵 金三拾五銭 五等七等
渡島
亀田下湯ノ川,
渡島
萱部川汲 ○ 岩花与兵ヱ 金三拾銭 五等七等
渡島
萱部尾札部 ○ , 五等七等
渡島
上磯有川 ● 小杉六兵ヱ 金弐拾銭 五等七等
渡島
上磯茂辺地,五等七等
渡島
萱部知内 ● 福井太郎兵ヱ 金三拾銭 五等七等
渡島
萱部福島
椴法華村史
(明治八年椴法華近海の難破船)
郡函館 細渕和助 四人
渡島
國茅部郡 尻岸内村 九月廿七日,無之 無之 無之 住吉丸 仝 五拾六石
渡島
國上磯 郡札苅村,関口 定兵衛 四人
渡島
國茅部郡 尻岸内村 九月廿七日 無之 無之,郡函館 濱田由松 四人
渡島
國茅部郡 尾札部村 十一月一日,無之 無之 無之 永宝丸 四拾 石
渡島
國亀田 郡函館
南茅部町史 上巻
(海区漁業調整委員会名簿)
海区漁業調整委員会名簿 ●茅部郡南部 茅部郡南部 ●
渡島
北部
渡島
北部, 河村 鶴松 鈴木 良一
渡島
北部,
渡島
北部 ●
渡島
海区
渡島
海区 昭和三三年八月 昭和三五年八月, 一五名
渡島
海区,
渡島
海区
渡島
海区
渡島
海区 昭和四三年八月
函館市史 別巻 亀田市編
(体育協会の行事)
体育協会の行事 亀田村体育協会は、昭和二十四年秋、住民の体位向上を目指し、
渡島
管内町村でトップを切って,オリンピック聖火継走出場 昭和三九年九月一五日 二 対外競技大会出場 第二回
渡島
町村陸上競技大会, 昭和二八年 七月一九日 第一回
渡島
町村相撲大会 〃 二八,(大野町) 昭和三〇年 九月 四日
渡島
町村対抗卓球大会(木古内) 〃 ,三〇・一二・ 四日 第二回函館・
渡島
・檜山対抗陸上競技大会(八雲町)〃三一・ 五・ 八日 第四回南
渡島
青年体育大会
恵山町史
(渡嶋国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書)
渡嶋
国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書 一、古武井沢は「シリキシナイ」村領に属する周囲四里 /
渡嶋
国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書
函館市史 別巻 亀田市編
(弁論大会)
イ 第一〇回亀田村青年弁論大会 昭和三〇年一月一五日 本大会一位入賞の工藤常彦は、
渡島
青年弁論大会に,ウ 第一一回亀田村青年弁論大会 昭和三一年一月一五日 本大会一位入賞江良ミツエは、
渡島
青年弁論大会に代表出場決定,イ 第四回
渡島
青年弁論大会 昭和三〇年一月二三日 本大会は大野町において開催された。,ウ 第六回
渡島
青年弁論大会 昭和三二年一月二七日 本大会は鹿部村において開催された。,エ 第九回
渡島
青年弁論大会 昭和三五年一月二四日 本大会は知内町において開催された。
戸井町史
(二、和人の館)
、盛季
渡島
前後の事蹟から嘉吉三年説は誤りであると思う。,季繁が若狭国から
渡島
したというのは誤りであろう。,嘉吉三年
渡島
ということも信じられない。,蠣崎信純等が
渡島
してから三ケ月後にコシャマインの乱が起ったことになる。,「康正三年二月二十五日
渡島
」ということは信じていいようだ。
函館市史 別巻 亀田市編
(研究実践の歩み)
協力校として、教育実習生の指導に当っていたことなど、伝統的な研究実践の中学校として、亀田小学校とともに
渡島
管内,研究会などの開催のあらまし 昭和二三年 六月
渡島
管内新採用教員講習会開催 〃二四年 六月
渡島
管内新採用教員講習会開催,)開催 全道に公開 講師和光学園小島忠治 〃二七年一一月 北海道教育研究所
渡島
教育研究所共催,の実験 学校研究発表大会開催 〃二八年一一月 第一回
渡島
管内綜合教育研究会開催,昭和二九年 五月
渡島
管内助教諭講習会開催 〃三〇年 九月 第三次教育課程全道公開研究会開催
戸井町史
((1)宇美家(東浜町))
宮 内 省 ③ 北海道
渡島
国亀田郡戸井村, 字 美 第 吉(四代) 明治十九年十一月中
渡島
国亀田郡戸井村外一村衛生費,定 一 宇美第吉の表彰状 ⑨ 表 彰 状
渡島
国亀田郡戸井村大字戸井村, 仍テ菓子器ヲ贈リ茲ニ其ノ善行ヲ表彰ス 大正四年十一月十四日
渡島
斯民会長正六位勲六等, 河 毛 三 郎
渡島
教育会長正六位勲六等 河 毛 三 郎 ⑩ 表
函館市史 通説編 第二巻
(漁業生産の増大)
明治20年代における
渡島
国が北海道のなかで高い割合を占める主な漁業生産物は、生では鰊、鰤、鮪、製造品では,数量 価格 数量 価格 数量 価格 数量 価格 数量 価格 数量 価格 数量 価格 生鰊 全道
渡島
,369 8,651 8,264 716 13,012 12,149 544 生鮭 全道
渡島
,全道
渡島
函館区 … … 2,300 … … 460 368 364 32,、函館区共に不明につき略 明治34、35年函館区不明 函館区の数字は
渡島
の外数 函館区が不明で
渡島
函館市史 通説編 第一巻
(阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫)
阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫 そもそも蝦夷地が
渡島
の名で日本の国史の上にあらわれてくるのは、7世紀の中葉,その後も律令国家による征討がくりかえされ、持統天皇10(696)年3月の条に、越
渡島
の蝦夷伊奈理武志(,また養老2(718)年8月には、出羽および
渡島
の蝦夷86人が上京し、馬千疋(10匹の誤りか)を通貢した,記録が見られるが、古代
渡島
の蝦夷に馬を飼育した形跡がないから、おそらく出羽産のものであろうといわれている,次いで『続日本紀』の、養老4年正月の条によると「
渡島
津軽の津司従七位上、諸君鞍男等六人靺鞨(まかつ)国
椴法華村史
(昆布の主な生産地)
二十四年ごろまでを記す) まこんぶ (製品は元揃昆布、折昆布) 着生分布区域は
渡島
国白神崎,みついしこんぶ (製品はみついし長切及び
渡島
みついし長切通称
渡島
塩干昆布ともいう) 着生分布区域,は
渡島
国白神岬から函館恵山岬を経て日高沿岸、襟裳岬を過ぎ十勝国白糠までとされている。 ,
渡島
産みついし長切は別名塩干(しおぼし)昆布とも呼ばれ、恵山岬から函館までの沿岸で「まこんぶ」の産地とだいたい
恵山町史
(1、尻岸内中学校)
プレハブ仮校舎落成、移転、授業開始 新校舎建築工事着工 7
渡島
中学校,バスケットボール大会主管 10 焼却炉設置 11
渡島
管内教育研究集会開催, 7 中体連
渡島
支庁大会柔道大会団体及び個人78キログラム超級優勝 ,7 中体連
渡島
支庁大会女子バレーボール大会準優勝 8 中体連全道大会柔道大会(,サッカー大会新人戦 優勝 平成11・ 6 中体連東
渡島
地区サッカー大会 優勝
南茅部町史 上巻
(村界・郡界の変更)
第四十八号 当庁管下
渡島
国各郡村ノ内左ノ通分割組替候条此旨布達候事。 ,明治十四年七月二十九日 函館支庁 開拓権少書記官 有 竹 裕
渡島
国茅部郡小安村,、戸井村、尻岸内村、椴法華村 右四ケ村
渡島
国亀田郡へ編入。
函館市史 通説編 第二巻
(北海道における近代寺院の造立と函館)
石狩・札幌 後志・歌棄 後志・美国 根室・根室 石狩・浜益
渡島
・爾志 後志・小樽,胆振・有珠 天塩・苫前 胆振・室蘭
渡島
・上磯 日高・浦河 日高・幌泉 天塩・増毛 後志,・古平 胆振・有珠 根室・根室 後志・小樽
渡島
・茅部 後志・古平
渡島
・函館 釧路・釧路,
渡島
・茅部 後志・久遠 後志・積丹 石狩・空知 石狩・札幌 釧路・厚岸 後志・小樽,根室・標津 石狩・札幌
渡島
・茅部 後志・小樽 後志・高島 石狩・空知
渡島
・爾志
渡島
南茅部町史 下巻
(〔昭和の海運〕)
〔昭和の海運〕 村を二分した貨物の競争のなかで、
渡島
汽船(株)の株の出資回収は捗らず、五年余にして昭和二年,昭和五年一〇月一日 函館新聞 〇函館線森
渡島
丸 毎月三日、六日、一〇日、一三日、一六日、,同所行 隔日 午後一二時出帆 ○函館日高線 ○函館三厩青森線
渡島
汽船
戸井町史
([地質構造と岩石])
[地質構造と岩石] 戸井は
渡島
山脈の一部として、連続している地域なので、戸井の地質構造や岩石を調べるには,、
渡島
山脈の地質構造や岩石の概要を知らなければならない。
南茅部町史 上巻
(古第三紀層)
古第三紀層 「
渡島
半島は、いわゆる古生層を堆積した後、その上に直接新第三紀層をのせており」(橋本亘・,二〇万分の一北海道地質図)、その間、
渡島
半島は陸地であったと思われる。,までは陸地であり、新第三紀中新世前期(一九〇〇万年前)から新第三紀中新世末期(六〇〇万年前)までは、
渡島
半島,今から六五〇〇万年前から四五〇〇万年前の古第三紀、始新世前期の頃の
渡島
半島は、東北地方の青森県、岩手県,その結果、
渡島
半島の一部は海底下に没することになった。
恵山町史
([神道国教策以後の郷土の神社])
壬申八月巡回御用神社調』(明治政府・開拓使による神社調べ)以降の郷土の神社の実態については、明治12年6月調の文書、『
渡島
国亀田,開拓使函館支庁管下
渡島
国亀田郡尻岸内村字澗五三番地の一 , 一、管轄庁距離 九里三十壹町 以上 開拓使函館支庁管下
渡島
国亀田郡尻岸内村支日浦五九番地, 一、管轄庁距離 九里余 以上 開拓使函館支庁管下
渡島
国亀田郡尻岸内村支古武井四三番地, 一、管轄庁距離 九里余 以上 以上、この文書(『
渡島
国亀田
函館市史 通説編 第一巻
(函館市の位置)
魚の″えい″にその形が似ているといわれるように、特異な形をしている北海道は、北海道本島と南西部の
渡島
半島,
渡島
半島は更に南部で亀田半島と松前半島とに分れており、その分岐点にあって津軽海峡に面した位置を占めるのが
函館市史 別巻 亀田市編
(本州との交流)
日本書紀の斉明紀によると、斉明天皇四(六五八)年、阿倍臣が船師一八〇艘を率いて蝦夷を伐つとあり、有間浜に
渡嶋
蝦夷,“
渡嶋
蝦夷”は、持統十(六九六)年、養老二(七一八)年の条にも現われてくるが、津田左右吉のように
渡嶋
蝦夷,の“
渡嶋
”を津軽か秋田であろうとする論考もある。
恵山町史
(5、恵山町の簡易郵便局)
女那川簡易郵便局
渡島
御崎簡易郵便局(古武井郵便局監督) ・町議会設置決議 昭和40,
渡島
御崎簡易郵便局
渡島
御崎簡易郵便局 大澗簡易郵便局(尻岸内郵便局監督) , 前頁の(註)昭和26年(1951)の規則により、日浦・女那川・大澗の簡易郵便局もこの辞令(
渡島
御崎簡易郵便局
函館市史 通説編 第一巻
(行政)
管轄区域別にこれをみると、函館税関など全道あるいは東北地方を管轄区域とするものが4機関、
渡島
・檜山の2,支庁管内地区以上の管轄区域をもつもの30、
渡島
支庁管内だけのもの6、函館市周辺を管轄するもの4機関があり
南茅部町史 上巻
(早期)
この時代は
渡島
半島を中心として沈線貝殻文を持つ尖底土器のグループが知られており、他の地域においては平底土器,尖底土器のグループは関東以北
渡島
半島までの全域に広く分布しており、南茅部町でも大船遺跡、臼尻B遺跡、八木遺跡,これらの土器文化の住居はよく知られておらず、
渡島
半島においては僅かに、函館空港中野A遺跡において検出されているのみであり
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