機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
函館市/函館市地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 113件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 3ページ
恵山町史
(湯の川・戸井間に乗合馬車定期運行(明治43年より))
湯の川
・戸井間に乗合馬車定期運行(明治43年より) 明治43年11月17日、道庁・函館土木派出所の手,この工事の進捗については、同44年1月12日付の函館毎日新聞に「
湯の川
・尻岸内間の道路開削工事は昨年中,函館より
湯の川
迄の馬車賃………10銭
湯の川
より古武井迄の馬車賃……70銭 古武井宿泊料1,26銭、蕎麦(もり・かけ)4銭5厘、豆腐1丁3銭、牛肉400グラム28銭、外米1升23銭などと比較し、
湯の
,
川
・古武井間の馬車賃70銭は相当高額である。 /
湯の川
・戸井間に乗合馬車定期運行(明治43年より)
恵山町史
([湯川・椴法華間の乗合自動車の運行])
そして、
湯の川
・椴法華間の全線にバスが運行したのは、昭和8年(1933)6月20日、下海岸道路に乗合自動車,
川
・戸井間乗合自動車運行(車両二両)」〈発車〉湯川電車終点・下
湯の川
・志苔・古川尻・石崎・釜谷・弁才澗,
川
・戸井間乗合自動車五往復運行(発着時間改正)」 大正十一年四月二十三日 「
湯の川
・戸井間乗合自動車運行再開,大正十四年十月五日 「
湯の川
・戸井間乗合自動車運行時間改正」〈
湯の川
発〉八時・十時三十分・十三時・,・−・十三時 〈
湯の川
着〉十時四十分・〈十六時十分〉・十八時五十分(料金)
湯の川
温泉から古武井まで片道一円九十銭
函館市史 銭亀沢編
(温泉)
温泉 根崎温泉ハ大正二年一月以降ノ掘鑿ニ係ルモノニシテ本村ノ西端、
湯ノ川
村ニ隣接ス。,
湯ノ川
村ノ繁盛ニハ及ブベクモアラザレドモ、将来比較的俗化セザルノ地トシテ却ツテ千客萬来ヲ叫ブニ至ランカ
椴法華村史
(湯川・戸井間改良工事)
湯川・戸井間改良工事 明治四十三年から乗合馬車、大正十年から乗合自動車が運行されていた
湯の川
・戸井間,大正十二年十月十二日 函館毎日新聞
湯の川
から戸井に至る新道路工事竣工 下海岸の産業に,下海岸
湯の川
・戸井間の交通には、馬車があるが、道路が険悪なのでこの道路の修理開鑿は多年同海岸住民に希望,同道路の完成の暁は
湯の川
より戸井までは平坦なる道路と変るべく下海岸の産業上大いに成績挙るべしと期待される
椴法華村史
(明治時代末の下海岸交通)
明治時代末の下海岸交通 明治四十三年、北海道庁によって
湯の川
・戸井村字弁才澗間の道路が改良整備され、,馬車の通行が可能となり、この年十二月から
湯の川
村山川丑太郎により、
湯の川
・戸井間に毎日一往復の乗合馬車,このように
湯の川
村・戸井村間に乗合馬車や荷馬車の通行が可能になったのであるが、この当時の工事は現在のような
椴法華村史
(椴法華出港観音丸の難破)
青森縣三戸郡湊村長谷川藤太郎氏所有當地工藤海運部扱ひ滊船第十觀音丸(六五噸)十七日午前〇時卅分椴法華より生鱈及び雜貨を積載し當地へ向け航行中下
湯の
,
川
字
湯の川
尻沖合百五十間の箇處にて風浪烈しき爲め船体動搖し積荷片寄りたるより船体著しく傾斜し航行不能に
椴法華村史
(湯川・戸井間乗合自動車)
戸井間乗合自動車 下海岸に初めて乗合自動車の運行が行われたのは大正十年八月二十日のことであり、経営者は中宮亀吉で
湯の
,
川
と戸井を結ぶものであった。,(昭和三年中止)またこれとは別に
湯の川
・戸井間の同じコースで昭和十年ごろから一年ぐらいの間、水上利四郎,下海岸にはこれより一年前の大正八年、中宮亀吉という人が会社を設立して許可をとり、
湯の川
・戸井間の乗合自動車
南茅部町史 下巻
(【資料二-③】 明治九年九月一八日 函館郵便局課より札幌本庁駅逓課御中 北海道郵便出発定日 日割表)
函館ヨリ根田内迄 二 七ノ日 根田内ヨリ函館迄 四 九ノ日 下
湯ノ
,
川
ヨリ川汲迄 二 七ノ日 但シ午前八時 川汲ヨリ下湯川迄 ,宗谷ヨリ毎月七日二七日紋別江向出発 紋別ヨリ毎月一二日二七日宗谷へ向出発 川汲下
湯ノ
,
川
出発ヲ除キ外一般午前六時出発之事 厚別ヨリ紋別迄 六ノ日 別海ヨリ国後迄
函館市史 銭亀沢編
(釜谷鉄道敷設の動向)
この調査によると、沿線町村の戸口は、
湯ノ川
村戸数一〇二〇戸、人口五六〇七人、銭亀沢村戸数九九四戸、人口六二二三人,また、沿線の生産物およびその主要品目の調査結果を挙げ、その取引関係として「
湯の川
村には函館より電車の便,イ、旅客
湯の川
迄は電車、自動車の便ありて至極便利なるも、其の他は多く陸路徒歩に依り稀に不定期の船便に,依るものあり交通頗る不便なり ロ、貨物
湯の川
迄は電車と自動車或は車馬に依り甚だ便利なるも、其の他
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田警察分署の改革と所轄地域)
明治二十五年北海道亀田上磯茅部山越郡統計概表』にはその所轄区域が亀田 鍛冶 神山 赤川 桔梗 石川 下
湯の
,
川
上
湯の川
亀尾 根崎 志苔 銭亀沢 石崎の十三か村と記されている。
南茅部町史 下巻
(定期乗合自動車)
定期乗合自動車 運転区間 距離 運賃 所要時間
湯の川
川汲 三一
函館市史 銭亀沢編
(下海岸における乗合自動車の運転)
中宮亀吉が設立したこの会社は、後述する大正十四年六月二十七日付け「函館新聞」の記事から「戸井
湯の川
乗合自動車合資会社,藤野自動車家屋と所有車両(『函館バス20年のあゆみ』)
湯の川
戸井間乗合自動車発着表(大正10,当時の藤野自動車について『函館バス二十年のあゆみ』に、「
湯の川
戸井間を一日二往復、運行時間は天気の良い
函館市史 別巻 亀田市編
(大正十四年の加入状況)
亀田村字村内 一六 ○亀田村字札幌通 三 ○亀田村字赤川通 一 ○亀田村字田家 三 ○亀田村字
湯の
,
川
通 六 計四〇 現在も変らない電話番号は亀田小学校の旧三三七〇が(41)三三七〇
函館市史 通説編 第二巻
(会社合併と路線拡張)
住宅と人口が急増し、市街地が函館山麓から亀田、五稜郭、
湯の川
へと拡張するのは、当時の函館市の経済力から,それと、明治20年5月、
湯の川
への新道ができた(今の電車道路)。湯川温泉との3点連絡である。
戸井町史
([戸井の冷泉])
戸井の東方恵山周辺に数ケ所に温泉があり、西方には根崎、
湯の川
にも温泉があり、北方の陰海岸では川汲、磯谷,又南方は津軽海峡を隔てた下北半島の下風呂、薬研、恐山、
湯の川
などにも昔から温泉が湧出している。
南茅部町史 下巻
(昭和一〇年 川汲温泉絵葉書)
川汲温泉の案内 交通の便は、函館
湯の川
間は電車二〇分、賃金一〇銭で、
湯の川
・川汲温泉の間は自動車一時間二
南茅部町史 下巻
(駄馬の運送)
戦後まで、亀尾、
湯の川
の駄付馬がきていたともいう(小中多三郎翁談)。
函館市史 別巻 亀田市編
(大正七年の加入状況)
大正七年の加入状況 普通加入区域は函館区一円とされていたが、亀田郡亀田村大字亀田村と亀田郡
湯の川
村および
函館市史 別巻 亀田市編
(小頭)
吉郎右衛門」と記され、更に同書の安永八(一七七九)年の記事には「村々小頭 箱館 孫四郎、有川吉左衛門、
湯ノ
,
川
善次郎、かぢ村 勘次郎、上山 長四郎、大野 太十郎、七重 仁八、濁川 宇兵衛、石崎 与兵衛、戸切地
南茅部町史 上巻
([土方隊、川汲峠進攻])
土方隊は砂原鹿部の海岸沿いに進み、川汲山道を越えて野田部、上
湯の川
村へでて、五稜郭を背後から攻略する。
函館市史 通説編 第二巻
(弁天岬台場降伏と中島三郎助の抵抗)
またこの日までに、戦線を離脱して上
湯ノ川
村などに在った衝鋒隊、見国隊、砲兵隊などの340人余も、神山の,なかでも日頃最も過激の論をはいていたという渋沢成一郎は、ここでも小彰義隊を率いて
湯ノ川
村へ遁走してしまっている
函館市史 別巻 亀田市編
(村道)
字本町五三番地先 一二七〇・八 赤川通中道線 富岡一七〇先 字中道一八四番地先 八八三・八 中道
湯の
,
川
通線 鍛治三五先 本通四〇〇番地先 一九六七・四
湯の川
通 尻鮫在所線 鍛治一九三先 本通二八五番地先,鍛治五二番地先 八八二・〇 函館通屋敷付線 本通一四先 本通四四番地先 四〇五・〇 七五郎沢蕨野線 村中
湯の
,
川
通線東山分岐点 東山一七番地 一二六三・六 神川横道線 鍛治七二番地先 陣川二四番地 一〇八〇・〇
椴法華村史
(明徳丸の恵山沖破船)
急速沖之口御番所江可訴出若隠し置後日於相顯は可為曲事条可觸知もの也、 沖口御番所 箱館町ゟ
湯ノ
,
川
村夫ゟ 山越内村迠 右同断 役人
南茅部町史 下巻
(鱒川峠越え)
前川牧場に出て上
湯の川
におりる道筋であった。この道を道産馬で物資を輸送した。
函館市史 銭亀沢編
(函館軽便鉄道株式会社)
を敷設し以て郡邑の交通をして敏活ならしめんとす」ることを目的に出願されたもので、「函館区を起点とし、
湯の
,
川
村、銭亀沢村を経て戸井村に至る軽便鉄道敷設の件は予て平出喜三郎、若松忠次郎、長田薫、佐分利一嗣氏等有力,、敷設計画については、同紙に掲載されている趣意書に「函館軽便鉄道は、北海道函館区を起点とし、同亀田郡
湯の
,
川
村及び銭亀沢村を経て戸井村に至る二十哩七十鎖の線路を敷設」と約三四キロメートル余りの線路を函館、戸井間
南茅部町史 下巻
(〔温泉〕)
宝暦五年生・一七五五)は、「蝦夷草紙」上巻 巻之二 産物の事の項に、 温泉 知内
湯の
,
川
乙部 見布 平田内 湯の台 大沢 カツクミ(河汲) 床部(鹿部) 留めの湯 ヱサン(恵山)の
南茅部町史 上巻
(上湯川)
上湯川 上
湯の川
に出て宿陣した。
函館市史 銭亀沢編
(釜谷鉄道の着工と建設状況)
工事が開始された釜谷鉄道は、第一期工区の五稜郭、湯川間で「東五稜郭」、「
湯の川
」の二か所の駅を設置することを,昭和十三年四月二十九日付けの「函館新聞」は釜谷線が十四年三月に湯川町までの鉄路敷設が完了する見込みで、同線
湯の
,
川
駅となる湯川小学校裏手まで市電線の延長を要望する声が湯川町より出ていることを伝えている。
函館市史 銭亀沢編
(函湯鉄道株式会社)
また、「創立願」の文面から函湯鉄道は、函館区内と温泉地として活況を呈してきた下
湯ノ川
村までを結ぶ交通利便,を第一の敷設目的に掲げ、さらに下
湯ノ川
村から続く沿岸漁場などの貨物輸送にも考慮した鉄道であることが読み
函館市史 通説編 第一巻
(寛文の蝦夷乱と亀田・箱館)
あり 一 弁才天 一 亀田崎 一 しりさっぷ 小船澗あり 家七軒 一 大森 家十軒 但から家あり 一
湯の
,
川
小川有 家八軒 一 しのり 澗あり 家二十四、五軒 から家有 一 黒岩 家七軒 一 塩泊 川有 狄,「しりさっぷ」は尻沢辺でいまの住吉町付近に当り、大森浜や
湯の川
にも漁家があり、志海苔は、さすがに多く和人
恵山町史
(師範学校受験のため徒歩で函館へ)
日浦のトンネルの辺りでは、怒濤の飛沫が飛び交う合間を走り抜けたりして、夕方の四時頃、やっと
湯の川
にたどり
函館市史 通説編 第一巻
(駒ヶ岳の噴火)
その後噴火の勢いが次第に衰えたが、9月1日北東風で降灰は上
湯の川
、亀尾辺にもあり、同月中駒ヶ岳付近は震動
南茅部町史 上巻
([蝦夷行程記])
開あ里し地なり 西の山乃方に 文月 ニゴリ 川などいへる村ゝあり 海岸の通りハ 升形より 大森
湯の
,
川
川尻ハ砂川にて ぬかり 渡り難し 志のり人家卅軒余 銭瓶(ぜにがめ)沢人家五十軒余 この辺 より,あり 河汲村人家卅軒許 此 上廿丁程のぼりて温泉(いでゆ)有 鶴の湯といふ 箱館 よりこゝに来るに
湯の
,
川
より上
湯の川
へ出(いで)河汲 峠をこえて湯本へ出る 一日路(いちにちぢ)なり イタキ人 家あり
函館市史 別巻 亀田市編
(製氷業者の増加)
〃 山崎 藤七 二、七二七 二、七二四 二、七二四 九五五 一、二二七 五〇 湯川村大字下
湯ノ
,
川
村字戸倉七番地 生 駒 鹿 蔵 〃 〃 二、〇一七 二、〇一二 二、〇一二 六五,#160;鉄太郎 〃 〃 一、九三六 三、九三六 三、八一四 一、八〇〇 二、〇〇〇 五二〇 亀田郡
湯ノ
,
川
村大字下
湯ノ川
村字滝ノ沢 斉藤 於佑武 〃 六五〇 八四六 一四五 一三〇 〃 永田
函館市史 別巻 亀田市編
(榎本軍の占領と防備体制)
亀田周辺でも榎本軍の本営である五稜郭および弁天台場の本格的要塞を中心として、軍事上の拠点と思われる
湯の
,
川
、四稜郭、千代が岡などには台場が構築されており、戦闘が箱館に近づくにつれて、このほかにも急ごしらえの
南茅部町史 下巻
(【資料二-①】 明治九年ヨリ十五年ニ至ル 郵便 駅逓 川渡守人名録)
五等七等 渡島萱部砂原 ○ 白勢重蔵 金三拾五銭 五等七等 渡島亀田下
湯ノ
,
川
○ 松倉十右ヱ門 金三拾銭 五等七等 渡島萱部戸井 ○ 池田彦九郎
椴法華村史
(バスの開通と恵山の宣伝)
(椴法華村、函館
湯の川
間の普通料金は二円二十五銭) ○七、八月函館の新聞社や亀田水産会、その他によって
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田)
このころの亀田の位置について『津軽一統志』によれば、あるう川、亀田、箱館、弁才天、亀田崎、しりさつふ、大森、
湯の
,
川
、しのりなどの地名があり、その記述順序から見て、現在の函館港に近い位置にあって一村をなしていたところと,箱館、弁才天、亀田崎、しりさつふは函館山のふもとで海岸に面していたが、更に大森、
湯の川
、しのりと函館の,
湯の川
小川有、家八軒。しのり 澗あり、家二十四、五軒、から家有。」
南茅部町史 上巻
(村の予算)
〇、六六六・八八三 茂 別 七、六三七・八七五 六、八六八・三六七
湯の
,
川
七、四八五・〇一〇 七、三三三・五八〇 亀 尾 九、八八五・一〇三
南茅部町史 下巻
(音頭と小唄)
粋な黒潮 昆布唄 チョイトネ 三 見たか湯の郷 あの鶴の湯をよ のぼりや
湯の
,
川
函館港 谷で清水が おいでと招く 粋な紅葉の 粋な紅葉の 頰染めて チョイトネ,(うら)の尾札部 魚の寶庫(おくら) 昆布 するめに 鶴の湯泉(いでゆ) 謎の
湯の
,
川
七里旅 二、西に川汲 東にや古部 恵山お山の煙にかげる あやに瀧なす
南茅部町史 下巻
(看護移送)
湯の川
から大森浜に出ると、砂浜道がつづく。疲れた足が砂にとられて先に進まず苦労したものだという。
南茅部町史 上巻
(五稜郭進発)
土方は全軍の五稜郭進発を督したので額兵隊も上
湯の川
村を出発し、下湯川に至って民家を探索させると官軍の小銃一
戸井町史
([下海岸の交通の変遷])
①函館から下
湯ノ川
まで、一里二十八町余、砂地 ②下
湯ノ川
から志海苔、銭亀沢、石崎諸村を経て小安村まで,この道路改修後、
湯ノ川
、戸井間に客馬車が運行するようになった。,一、明治四十三年十二月戸井、
湯の川
間道路開さく工事竣工に付亀田郡
湯の川
村大字下
湯の川
字寺野二千六番地山川丑太郎,乗合馬車営業を開業し、
湯の川
戸井間を毎日一回往復するに至り稍々交通の便を開けり。 ,この道添えには殆んど人家はなく、細道は
湯の川
まで続いている。
恵山町史
(貨物自動車の運行)
当時の貨物陸上輸送の大半は馬車輸送であったが、その組織、
湯の川
・戸井間乗合馬車連合組合は翌15年3月、
椴法華村史
(昭和十八年の村行政)
元椴法華村長 伊藤國平 椴法華村長谷内久吉殿 引継演説書 (一) 椴法華村
湯ノ
,
川
ニ至ル鉄道省営バス運行方ノ件 本件ハ從来其筋ニ陳情シタルモ最近社會状勢ノ関係上中絶ノ状態ニアルモ
恵山町史
((5)円筒土器文化の崩壊)
海岸部に位置したこの時期の遺跡は貝塚を伴うことが多く、函館市の旧海岸線沿いに分布した天佑寺貝塚、
湯ノ川
貝塚
函館市史 銭亀沢編
([地勢])
本村ハソノ廣狭部ノ中間ナル
湯ノ川
台地ノ海浜低原ニ劃セラレタル地方ナレバ、村内一ノ山岳アルナク又坦々タル
南茅部町史 上巻
(附記)
両方とも上
湯の川
道といへども、右の方は上
湯の川
に出、シノリ村に到る。,左りは上
湯の川
より川汲温泉道なり。此辺虎杖多し。行て川有。歩行渡り。,上
湯の川
村より三里と云り。茶屋一軒、春の末より秋の末まで出張す。酒と煙草、わらんじを売るのみなり。
戸井町史
((5)明治三十二年の所得税調査員当選者と四郡の選挙人名)
松代孫兵衛 亀田郡石崎村 三十点 田中正右衛門 函館区天神町七十五番地 二十九点 中村修 亀田郡下
湯ノ
,
川
村 三代孫兵衛である 二十四点 相馬哲平 函館区弁天町三十九番地 十六点 山本門兵衛 上磯郡木古内村
函館市史 銭亀沢編
(釜谷鉄道の概況)
概要とともに釜谷鉄道を「釜谷線と一口に言い習はせているが事実は戸井線という方がほんとうである、亀田郡の
湯の
,
川
、銭亀沢、古川尻、石崎を経て釜谷村に至る最初の建設計画……それは地方民の勝手な計画だつた……がこの線
/ 3ページ