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函館市史 通説編 第一巻
(町代)
町
代
町
代
は初め
町
総
代
と称したが、後に
町
代
と改められたもので、大抵1
町
内に2人を定員とし、その任免は,
町
年寄、名主の協議をもって申立て、官から任命された。,平日は自宅にあって事務を処理したが、
町
年寄の召喚その他人別調や役銭上納などの節は、羽織袴で
町
役所に出勤,、職務は
町
内住民の願届請証文などに連印する事、法令を
町
役所より受けて
町
民に伝達する事、宗門下調帳を作る,事、諸役銭及び
町
費を取立て
町
役所に差出す事など、多くは
町
年寄の下働きをする者であった。 /
町
代
戸井町史
(五、公選町村長時代)
戸井
町
史 / 五、公選
町
村長時
代
昭和二十二年(一九四七)地方自治法が公布され、五月三日から施行された。 ,昭和四十五年(一九七〇)
町
制施行第一回目の
町
長選挙には、中釜実が無競争で
町
長に当選した。 ,三、一三 多田作太郎 九ケ月 二級
町
村制が施行され、自然退職となり、 明治三五、四、一、初
代
戸井村長,2、歴
代
村長一覧(一級、二級
町
村時
代
)
代
氏名 就任 年月日 任期 摘要 退任 第一
代
多田作太郎,年次 村(
町
)長 助役 収入役 第一
代
自昭和二二、四、二三 至〃二六、四、二二 工藤健次郎 石黒武 / 五、公選
町
村長時
代
南茅部町史 上巻
(歴代町議会議員)
南茅部
町
史 上巻 / 歴
代
町
議会議員 昭和三四・五・二〇選(定員二六) 南茅部村議会議員(昭和三四・九・一
町
政施行)
町
議会議員 / 歴
代
町
議会議員
戸井町史
(四、村役場時代(二級・一級町村時代))
戸井
町
史 / 四、村役場時
代
(二級・一級
町
村時
代
) 二級
町
村制施行に伴い、戸井村外一村戸長役場の管轄区域に、二級
町
村制,第十
代
戸長多田作太郎は自然退職となり、引続き初
代
村長に任命された。 ,明治三十五年(一九〇二)上野寛が二
代
村長に任命された。 ,大正八年(一九一九)四月一日、戸井村に一級
町
村制が施行された。 ,大正八年(一九一九)八月十九日、菊地庫太が一級
町
村の最初の村長に選ばれ、十一
代
村長に就任した。 / 四、村役場時
代
(二級・一級
町
村時
代
)
戸井町史
(八、弁才町の歴代警察官名(終戦後))
戸井
町
史 / 八、弁才
町
の歴
代
警察官名(終戦後) 八、弁才
町
の歴
代
警察官名(終戦後) / 八、弁才
町
の歴
代
警察官名(終戦後)
戸井町史
(九、小安町の歴代警察官名(終戦後))
戸井
町
史 / 九、小安
町
の歴
代
警察官名(終戦後) 九、小安
町
の歴
代
警察官名(終戦後) 小安警察官駐在所 / 九、小安
町
の歴
代
警察官名(終戦後)
函館市史 通説編 第二巻
(町区総代人制の導入)
町
区総
代
人制の導入
町
会所蓄積金の経理の調査を担当した調査委員たちは、区戸長のみに
町
政を委ねていると, 区
町
村総
代
人選定ノ儀ニ付伺 従来区
町
村総
代
ノ設ケ無之処、明治九年十月第百三十号公布,
町
総
代
人は1
町
(場合によって数
町
連合)から2名ずつ選出され、小区総
代
人は
町
総
代
人の互選により選出され、, 表2-43
町
区総
代
人名簿(明治11年8月) 小区名 選出
町
名
町
総
代
人名(○,」より作成
町
総
代
人62名(内区総
代
人28名) ☆印は2から3小区に分割されている
町
名及び選挙区分 /
町
区総
代
人制の導入
恵山町史
((3)恵山町の縄文時代早期の遺跡)
恵山
町
史 / (3)恵山
町
の縄文時
代
早期の遺跡
町
内では中浜E遺跡(北海道埋蔵文化財センター、1985)、日の浜砂丘,式に類似する土器片(第12図1~5)、貝殻腹縁連続波状文や貝殻腹縁押引(おしび)き文が施文された住吉
町
遺跡,、貝殻条痕文が施文された大澗式の土器(第12図10~14)、貝殻腹縁圧痕文と波状沈線が施文された七飯
町
鳴川遺跡出土,第12図 中浜E遺跡から出土した早期の土器片(1~5、ノダップⅠ式、6~9、15~19、住吉
町
式、20,31、東釧路Ⅲ式、32~33、コッタロ式、34~39、中茶路式、39~44、東釧路Ⅳ式) 『尻岸内
町
中浜 / (3)恵山
町
の縄文時
代
早期の遺跡
恵山町史
((2)恵山町内の縄文時代後期の遺跡)
恵山
町
史 / (2)恵山
町
内の縄文時
代
後期の遺跡
町
内では後期の遺物が中浜E遺跡(北海道埋蔵文化財センター、1985,
町
内で発見される後期の遺跡はその初期の遺物を伴ったものに限られる。,つまみ付ナイフ、10、スクレーパー、11~12、敲石、13、砥石、14、磨石、15、石皿) 『尻岸内
町
中浜,住居跡、2、網目状撚糸文土器、3~4、スクレーパー、5、土壙1出土の石冠) 『古武井9遺跡』尻岸内
町
教育委員会 / (2)恵山
町
内の縄文時
代
後期の遺跡
恵山町史
((6)恵山町内の縄文時代前・中期の遺跡)
恵山
町
史 / (6)恵山
町
内の縄文時
代
前・中期の遺跡 日の浜遺跡、川上遺跡、日の浜砂丘1遺跡、中浜E遺跡、古武井9,遺跡など、
町
内に分布する縄文時
代
の遺跡の大部分がこの時期の遺跡である。,覆土からは、胎土に若干の繊維を含み、底が尖り、押し引き刺突文、刺突文、縄文、ループ文が施文された春日
町
式,1遺跡出土の前期の遺物(1~6、春日
町
式・トドホッケ式、7~10、大木2a式、11~17、椴川式),『日の浜砂丘1遺跡』北海道恵山
町
教育委員会、1986 第27図 日の浜砂丘1遺跡出土の前期の / (6)恵山
町
内の縄文時
代
前・中期の遺跡
恵山町史
((4)恵山町内の縄文時代晩期の遺跡)
恵山
町
史 / (4)恵山
町
内の縄文時
代
晩期の遺跡 晩期の遺物が6遺跡から採集されているが、概要がわかるのは日の浜遺跡,年、吉崎昌一撮影) 第43図 日の浜遺跡から出土した石刀 野村崇「北部日本における縄文時
代
晩期 / (4)恵山
町
内の縄文時
代
晩期の遺跡
戸井町史
(六、町章及び町民歌、町音頭の制定)
戸井
町
史 / 六、
町
章及び
町
民歌、
町
音頭の制定 昭和四十三年十月一日から
町
制を施行することが決定し、昭和四十三年三月,
町
章 松前郡福島
町
字吉岡 船木 俊夫
町
民歌 亀田郡戸井
町
字館
町
野呂 進(日新中学校長,)
町
音頭 亀田郡戸井
町
字館
町
野呂 進(日新中学校長) 昭和四十四年十月二十三日、戸井高等学校体育館,
町
章 新制定の
町
章の意義 ○戸井(とい)の頭文字「と」を図案化したもの。,全体として、新時
代
に躍進する雄々しさを象徴したものである。 / 六、
町
章及び
町
民歌、
町
音頭の制定
恵山町史
(大正期の歴代収入役(含む代理者))
恵山
町
史 / 大正期の歴
代
収入役(含む
代
理者) 小山 博(収入役職務
代
理)(大正2年6月19日~同年8月22日), 山田司収入役退職後、次期収入役選出までの期間、職務
代
理を務めた小山は宮城県本吉郡志津川
町
の出身、明治,収入役については『北海道二級
町
村制』、第2章
町
村吏員、第1款 組織及選任の第5条に次のように規定されている,
町
村ニ
町
村長・書記・収入役、ソノ他必要ノ附属員ヲ置キ有給トス 収入役ハ
町
村会ノ推薦ニ依リ北海道庁支庁長之,ヲ任命シ、任期ハ四ケ年トス 収入役ノ保証金ニツイテハ
町
村規定ヲ以テ之ヲ定ム ・収入役は恰も
町
村 / 大正期の歴
代
収入役(含む
代
理者)
恵山町史
([歴代教育委員])
恵山
町
史 / 平成4年には第1次恵山
町
教育推進計画を策定、また“教育の実をあげるため教職員の和を大切に”と、
町
内の4,平成9年度の第2次恵山
町
教育推進計画策定・恵山賛歌制定も三好の時
代
である。,10
代
目加藤弘は恵山
町
では初めての学校長経験の教育長である。 ,14年恵山
町
教育委員会教育推進アドバイザーとして勤務、翌15年1月、第10
代
教育長に就任、加藤教育長への,そして、平成16年4月、
町
内の4小学校を統合し恵山
町
立えさん小学校を創立した。 / [歴
代
教育委員]
戸井町史
([石器時代の戸井])
戸井
町
史 / [石器時
代
の戸井] 昔から戸井
町
の畑地の各所から石鏃(せきぞく)、石槍(せきそう)、石斧(せきふ)、,遺跡は
町
内各所に分布しているが、本格的な調査発掘は、昭和二十六年十一月六日、千
代
肇の指導による熊別坂の,発掘と昭和四十二年秋、千
代
肇の指導による西浜
町
〓金沢畑地の貝塚発掘、昭和四十三年夏、千
代
肇の指導による,道南では昭和四年に、函館市住吉
町
、春日
町
の早期尖底(せんてい)土器時
代
の石器土器が発掘され、その後桔梗石川野,戸井
町
も恵山式時
代
から擦文式時
代
に移り、蝦夷時
代
に移行したのである。 / [石器時
代
の戸井]
恵山町史
(総代人選挙法・総代人心得 (明治13年7月8日改定))
恵山
町
史 / 総
代
人選挙法・総
代
人心得 (明治13年7月8日改定) 総
代
人選挙法 第一条 各
町
村デ総
代
一名若クハ,二名ヲ置テ
町
村総
代
人トシ、各郡ニ総
代
人一名若クハ二名ヲ置テ郡総
代
人トス、尤郡
町
村ニ置イテハ定員ノ二名ヲ,第三条
町
村総
代
人、
町
村協議ノ事項ヲ郡長ニ申開スルトキハ、郡総
代
人ノ加印ヲ請ケ、郡総
代
人ハ其部内
町
村総
代
人,第六条
町
村総
代
人ハ、其
町
村ノ経費ヲ予算シ、及ビ其賦課法ヲ定ムベシ。,第九条 数郡
町
村同一ノ利害ニ係ル事項ハ、該郡
町
村総
代
人連合シテ協議措弁スベシ。 / 総
代
人選挙法・総
代
人心得 (明治13年7月8日改定)
南茅部町史 上巻
(総代人会議)
南茅部
町
史 上巻 / 総
代
人会議 戸長役場時
代
における村の重要案件の決定は、各部落より選出されていた総
代
によって議決された,戸長と総
代
会は、のちの
町
村長と村会・
町
村議会と同等の権限をもっていたようである。 ,明治三十五年尾札部村総
代
人会議事録 明治三十五年三月三十日磨光学校内ニ於テ左ノ議案ヲ議決スル為メ総
代
人会,提案とその決議の内容からみて、のちの
町
村議会と同じ決議権をもつものとしては、その事情の如何を問わず、この,明治三九年四月、二級
町
村制の施行ののちは、四部落は部とよばれて総
代
は部長となった。 / 総
代
人会議
戸井町史
(四、部落会、町内会)
戸井
町
史 / (イ)歴
代
町
内会長 初
代
本間 作太郎 自昭和三五年七月 至昭和四三年一二月 二
代
,(イ)歴
代
町
内会長 初
代
伊藤 賢一 自
町
内会設立時 至昭和三八年一二月 二
代
,(現会長 河村武男談) (イ) 歴
代
町
内会長 初
代
丹羽 和八 自昭和三四年四月 ,(イ)歴
代
町
内会長 初
代
丹羽 和一 自昭和三八年二月 至昭和四三年一二月(三期歴任),(イ)歴
代
町
内会長 初
代
水戸 米次郎 自設立時 至昭和三一年一二月 二
代
/ 四、部落会、
町
内会
南茅部町史 上巻
(米田町長略歴)
南茅部
町
史 上巻 / 米田
町
長略歴 二
代
南茅部
町
長に当選した米田陽は、明治四三年四月一日生まれ。 ,三八年、懇請されて南茅部
町
長選に立候補し当選、五月一〇日二
代
町
長に就任した。,米田
町
長は、体格もよく、会う人を魅了する話し方の人で、
町
民の輿望を担って
町
政に取り組んだ。,南茅部
町
役場 本庁 / 米田
町
長略歴
南茅部町史 上巻
(佐藤町長略歴)
南茅部
町
史 上巻 / 佐藤
町
長略歴 三
代
南茅部
町
長佐藤貞勝は、大正一五年九月一五日生まれで、南茅部
町
字木直(ポン木直)の出身,昭和四二年六月、南茅部
町
助役に就任。四六年六月、助役に再任された。,七月、ばんだい号の遭難に際し米田
町
長の捜索を指揮。,七月六日、
町
長職務
代
理者となり、
町
長選に立候補して昭和四六年八月二一日
町
長に就任した。 ,若さと情熱と行動力、能弁さをもって、会う人を魅きつけ精力的に
町
政を前進させた。 / 佐藤
町
長略歴
南茅部町史 上巻
([先土器時代])
南茅部
町
史 上巻 / [先土器時
代
] 先土器時
代
の遺跡は南茅部
町
のみならず、北海道西南部の渡島半島においても、その数は少ないものである,南茅部
町
では、先土器時
代
の遺跡が二ヵ所発見されている(第一図)。 ,の遺跡はともに臼尻地区の段丘上にあるが、残念ながら発見されている遺物は二点の石器だけであり、正確な年
代
、 / [先土器時
代
]
南茅部町史 上巻
([繩文時代])
南茅部
町
史 上巻 / [繩文時
代
] 南茅部
町
に存在する遺跡の大部分は、繩文時
代
に属するものであり、繩文時
代
はまた、その文化内容 / [繩文時
代
]
南茅部町史 上巻
(新しい町名)
南茅部
町
史 上巻 / 横津
町
渡島
町
道南
町
北海
町
工夷
町
臼尻
町
東海
町
安浦
町
弁天
町
, 栄岸
町
美岸
町
「美」が五 美和
町
美和浜
町
美楽
町
美温
町
深美
町
, 海和
町
海栄
町
海宝
町
海原
町
海山
町
山海
町
浜海
町
内海
町
, 新栄
町
北栄
町
漁栄
町
共栄
町
喜栄
町
千
代
栄
町
翼栄
町
友和をあらわすもの, 磯島
町
岩城
町
畸
町
三崎
町
潮
町
潮尻
町
黒潮
町
白波
町
水青
町
/ 新しい
町
名
戸井町史
([戸井町の文化財])
戸井
町
史 / [戸井
町
の文化財] 和人が始めて戸井に渡来したのは「戸井
町
の沿革」で述べたように、松前家の始祖蠣崎信広,室
町
時
代
に戸井館を中心として住み着いていた和人が、蝦夷の反乱によって滅び、その後和人無住時
代
が長い間続,然し草創の古い割には、経済的にも文化的にも貧しい地域であったため、古い時
代
の文化財の少ない地域である。,過去四回の
町
文化祭に出品された文化財及び六ヶ年に亘って調査した主な文化財は次の通りである。 / [戸井
町
の文化財]
南茅部町史 上巻
(飯田町長略歴)
南茅部
町
史 上巻 / 飯田
町
長略歴 四
代
町
長飯田満は、昭和一一年八月二六日、字尾札部に生まれる。 ,同三四年、南茅部
町
職員となり、四五年総務課長、建設課長、水産課長、経済部長、地場産業振興センター長を歴任,昭和五八年八月、
町
長に当選就任した。 / 飯田
町
長略歴
戸井町史
(三、戸長役場時代)
戸井
町
史 / 初
代
戸長に飯田東一郎が任命された。 ,明治十二年(一八七九)七月大小区画制を廃止し、郡区
町
村を編成し、郡役所を石狩外十八所におき、函館、札幌,明治十八年(一八八五)松
代
孫兵衛が二
代
戸長に任命された。 ,この年桜井郁郎が四
代
戸長に任命された。 ,明治三十五年(一九〇二)二級
町
村制が公布された。 / 三、戸長役場時
代
恵山町史
(歴代の収入役)
恵山
町
史 / 歴
代
の収入役 前田時太郎(昭和6年7月31日~同20年3月26日) 大正8年7月21日から昭和6,昭和5年の経済恐慌、続く6、7年の凶漁冷害に見舞われた苦しい村財政のやりくり、さらには1級
町
村制施行を,村財政の立て直し、戦時体制下での統制経済等々、辛苦を嘗めながら会計事務を担当し、斉藤・嶺・上達・井上ら歴
代
村長 / 歴
代
の収入役
戸井町史
(九、北海道時代の概観)
戸井
町
史 / 九、北海道時
代
の概観 この時
代
は昭和二十年(一九四五)日本政府が終戦を決定し、八月十五日、天皇がポツダム,稍々(やや)落付いた頃に、明治憲法に
代
る新憲法が公布され、それに基いて北海道知事、市
町
村長、市
町
村会議員,道庁時
代
の長官は
代
々政府が高位高官の者を任命して来たことに馴れていた道民は、無位無冠の田中知事の出現によって,され、三年制の新制中学校は、校舎も教材教具も机もなく、教師さえも不足な中で設置されることになり、道も市
町
村,戸井にも終戦後二十三年目に
町
制が施行され、「戸井
町
」として、新生戸井
町
の発展の第一歩を踏み出したのである / 九、北海道時
代
の概観
恵山町史
(〈町制施行〉)
恵山
町
史 / 公共施設については村も力を注ぎ、近
代
医療施設を持った国保病院を完成させ、近隣
町
村の患者の診療にも当たっている,教育についても児童生徒の増加に合せ近
代
的な校舎建築の校舎の完成など教育環境は年々向上している。 ,村議会は、これらの村の実態と「
町
としての要件に関する条例」を照らし、尻岸内村が
町
としての要件を十分に満,へ 道南の海の宝庫「恵山魚田」と「道立恵山自然公園」をかかえる尻岸内村は、発展一途の
町
勢から
町
制を,施行することになり、道に
町
制施行の申請を提出している。 / 〈
町
制施行〉
戸井町史
(二、法泉寺(館町))
戸井
町
史 / 二、法泉寺(館
町
) 館
町
の法泉寺は、曹洞宗の寺院で、函館高竜寺の末寺である。,歴
代
住職 初
代
佐 藤 大 雪 二
代
佐 藤 大 麟 三
代
佐 藤, 大 円 四
代
佐 藤 孝 順 法泉寺 / 二、法泉寺(館
町
)
南茅部町史 上巻
(歴代戸長)
南茅部
町
史 上巻 / 歴
代
戸長 歴
代
戸長 臼 尻 村 熊 泊 村 尾 札 部 村 明治6・9 厳島神社標札,吉 村用懸 赤石歓三郎 佐々木粂五郎 9・ 副戸長 菊池忠兵衛 菊池忠兵衛 副惣
代
,明治一五年 茅部郡役
町
伺届 庶務課 届第壱号 開廳ノ儀御届 「当役所本日開庁致候条此段御届仕候也, 函館県茅部山越郡書記 佐藤宗正〓 函館県令 時任為基殿
代
理,全道の
町
村の数八二六ケ村で戸長役場は一三六役場であった。 / 歴
代
戸長
戸井町史
(十、〓宇美家(東浜町))
戸井
町
史 / 十、〓宇美家(東浜
町
) 5
代
宇美第吉 〓宇美家の祖初
代
第吉(だいきち)は、享保年間若狭国小浜,、宅地一
町
五反九畝、山林二十
町
歩を買い、山には毎年杉やカラマツを植えた。 ,宮川神社改築の際には、母フメの名儀で、敷地一
町
三畝、宅地五十坪を寄附した。 ,藤蔵は函館商業学校を卒業し、現在は戸井
町
議、東戸井漁業協同組合長、戸井
町
消防団長等の要職についている。,現在戸井
町
で宇美姓を名乗っている者は、すべて〓宇美家の別れである。 / 十、〓宇美家(東浜
町
)
南茅部町史 上巻
([二級町村])
南茅部
町
史 上巻 / [二級
町
村] 二級
町
村制は、一級
町
村制実施についで、明治三五年に施行された。,明治三九年四月一日、臼尻村と尾札部村に二級
町
村制が施行された。,尾札部村の初
代
村長には明治三五年以来、尾札部戸長だった中野嘉平が任命された。 ,臼尻村は、前年の明治三八年一〇月戸長に就任していた浅尾恒良が初
代
の村長に任命された。,初
代
尾札部村長 中野嘉平(中野嘉弘提供) 歴
代
村長 臼尻村長 / [二級
町
村]
戸井町史
(一、初代戸長 飯田東一郎)
戸井
町
史 / と戸井村を統治する戸長役場が置かれるようになり「戸井村外一村戸長役場」という長い名の役場が、戸井
町
館鼻,明治三十五年四月一日に二級
町
村制が施行されて、戸井村と小安村が合併し、戸井村大字戸井村字○○、戸井村大字小安村字,「
町
村百年の大計は教育にあり」ということばは為政者のよく口にすることばであるが、飯田東一郎が初
代
戸長に,草創期の戸井
町
の教育の基盤を築いたのは実に飯田東一郎であり、百年後の今日の戸井
町
の発展は飯田戸長の力に,戸井
町
郵便事業のパイオニヤは足達惣吉、健次郎父子であるが、飯田東一郎は郵便事業の発展にも戸長として絶大 / 一、初
代
戸長 飯田東一郎
南茅部町史 上巻
([続繩文時代])
南茅部
町
史 上巻 / 繩文時
代
の伝統を強く残した続繩文文化が栄えた。,第49図 遺跡分布図(続繩文時
代
) この文化の
代
表遺跡として恵山貝塚が著名であり、南茅部
町
においては,繩文時
代
は弥生時
代
に対応する時
代
であるが、まだ石器も使用しており、特徴的なものは太い柄のあるナイフ、片刃,り込みの中に、土器やナイフ、石鏃、玉、魚形石器などを副葬するものが一般的であるが、住居や墳墓は南茅部
町
での,第50図 続繩文時
代
の土器 第51図 続繩文時
代
の土器 第52図 続繩文時
代
の土器 / [続繩文時
代
]
戸井町史
(三、大隆寺(館町))
戸井
町
史 / 三、大隆寺(館
町
) 館
町
の大隆寺は浄土宗の寺院で、函館称名寺の末寺である。,その創建の由来は、初
代
住職になった菊崎隆乗和尚が来村して、字横泊の伊藤倉次郎宅並に、字浜中の佐々木倉蔵宅,歴
代
住職 初
代
菊 崎 隆 乗 二
代
吉 本 正 道 三
代
横 島 / 三、大隆寺(館
町
)
戸井町史
([町内墓地の概観])
戸井
町
史 / [
町
内墓地の概観] 広い平野の中にある農村では、水田や畑地の真中に点々として部落々々の墓地があり、山村,戸井
町
の墓地は東部から小安、釜谷、汐首、瀬田来、館
町
、鎌歌(二見)原木の七ケ所にあり、すべて高台にあり,全
町
の墓碑で明治、大正の年号の刻まれたものも極めて少ない。,又全国の市
町
村の墓地に見られるように、戸井
町
の墓地にも日支事変、太平洋戦争などの戦死者を供養するために,記録の少ない戸井
町
では、いろいろなことを物語っている墓碑銘は貴重な郷土史資料であると考え、
町
内七ケ所の / [
町
内墓地の概観]
南茅部町史 上巻
(町村制度の沿革)
南茅部
町
史 上巻 / 各開拓使出張所をそれぞれ出張開拓使庁と改称 五年 三月二八日 函館出張開拓使庁、大年寄・中年寄・
町
代
,これまでの小頭・年寄・百姓
代
を廃し、新たに村用掛(懸りとも書いている)を, に応じすべて現品税賦課とする 六月 選挙による総
代
人制,を廃し郡区総
代
人を置く 明治一四年 七月 八日 熊泊村支トコロが鹿部村へ合併される(開拓使録事第四一号,市
町
村自治制度として現
代
への原型ができていくうえで画期的な移行となった /
町
村制度の沿革
南茅部町史 下巻
(南茅部町史に寄せて)
南茅部
町
史 下巻 / 南茅部
町
史に寄せて 南茅部
町
議会議長 佐藤政五郎 [図] わたくしたちの郷土南茅部
町
は,、山陰(かげ)在と呼ばれた永い辺境の時
代
を経てきました。 ,漁業のほかに、農業、牧畜、鉱業など有望な時
代
もありました。 ,戦争という苦しい時
代
もありました。 歴史はそれぞれに多くの教訓を内に秘めているものです。 ,ここに永年にわたる研鑚の結晶として、南茅部
町
史上下二巻の完結をみ、発刊できたことを
町
民ともども心から喜 / 南茅部
町
史に寄せて
南茅部町史 上巻
(田代角左衛門)
南茅部
町
史 上巻 / 現在の岩手県下閉伊郡山田
町
船越字田の浜の人である。 ,角左衛門の発明した鮪の建網を田
代
網といい、沖の島を田
代
島とよんだという。 ,のち、角左衛門は陸前国桃生郡十五浜村(現在の雄勝
町
のうち)に漁場をうつし、雄勝湾の波板、分浜の側と白葉崎,立派な弁財天は祀られていたが、田
代
大明神のことは土地の人も漁業関係者も今は知らず、
町
教育委員会にもその,(資料協力 岩手県山田
町
田
代
ひろ子) (参考文献 宮城雄太郎著「日本漁民伝上巻 昭和三九 / 田
代
角左衛門
南茅部町史 上巻
([その他の時代])
南茅部
町
史 上巻 / [その他の時
代
] 北海道において続繩文時
代
が終わると、本州から北上する日本文化の影響を受け、北海道独特,この時期の遺跡としての確かな例はまだ南茅部
町
内においては確認されておらず、噴火湾沿岸においては、八雲
町
,この文化はアイヌ文化の祖形と考えられ、その後、アイヌ民族は土器の
代
わりに、本州から移入された内耳土器や,南茅部
町
において、明治期までにアイヌ民族が生活していたことは記録により明らかであるが、それも江戸時
代
中期以前,擦文時
代
以後、近世までの歴史は記録もなく遺跡も少ないため暗黒時
代
とも呼ばれ、その実態はまだ解明されてはいないが / [その他の時
代
]
南茅部町史 下巻
(町の文化財指定)
南茅部
町
史 下巻 / 弁天島八千
代
橋の 図 南茅部
町
字臼尻,まで尾札部場所と並ぶ臼尻場所 が併置されていたものであり、本
町
の漁業を
代
表する地である。,
町
の樹木の中で
代
表的な巨樹である。,
町
の樹木の中で
代
表的な巨樹である。,造林事業の歴史を語るものであ り、
町
の樹木の中で
代
表的な巨樹である。 /
町
の文化財指定
南茅部町史 上巻
([町政の方針])
南茅部
町
史 上巻 / [
町
政の方針] 飯田
町
長は、五つの柱を
町
政の方針として掲げた。 ,一、活力のある
町
づくりをめざして、生きがいのある漁業の振興 一、若者が希望と誇りをもてる郷土(まち,につとめ、生活環境の充実を図る 一村一品運動にみられる地場産業、いわゆる漁業に活力を求められる時
代
である,
町
の漁業の基盤づくりが飛躍を期待されている。 / [
町
政の方針]
戸井町史
(四、大宣寺(館町))
戸井
町
史 / 四、大宣寺(館
町
) 館
町
の大宣寺は真宗大谷派の寺院で、本山本願寺の末寺である。 ,大宣寺の敷地は四
代
宇美第吉、建物は金沢音吉が寄附したものである。 ,大正十三年(一九二四)五月十日、開基寺西大宣師が、六十五才で逝去し、寺西粂丸師が二
代
目住職を継承して現在,粂丸師の時
代
になってから幾度か、寺院及び附属建物の増改築を行った。 ,本 尊 阿弥陀如来 歴
代
住職 初
代
寺 西 大 宣 二
代
寺 西 粂 丸 / 四、大宣寺(館
町
)
戸井町史
([戸井町の屋号調])
戸井
町
史 / し、
代
を重ねるにつれて、同姓の家が多くなって来る。,同じ戸井
町
でも、東西の交流の少なかった時
代
につけられた屋号は、東西で同じ屋号の家が若干ある。,船を遠くから識別するために帆印に使った屋号や、商品の商標として使われた屋号も、時
代
が変り、同姓の家が同一
町
村,然し五
代
も七
代
も
代
を重ねているうちに、親戚としての交際が薄くなり、先祖を同じくしていても、系統がわからなくなっている,戸井
町
だけでなく、他
町
村への移動の少ない
町
村では、年
代
を経るにつれて、同族同姓の家が
町
村内に増加し、
町
村内 / [戸井
町
の屋号調]
戸井町史
(八、〓池田家(館町))
戸井
町
史 / 八、〓池田家(館
町
) 初
代
池田栄吉は嘉永三年(一八五〇)一月七日、戸井村に生れ父を市五郎、母をアサ子,〇三)八月、千数百円を投じて、宏荘な住宅を新築し、明治三十七年頃は、漁場三ケ所、宅地四ケ所、山林十五
町
歩,鉄蔵は明治三十八年(一九〇五)十五才の時、庵原郡清川
町
の肥料問屋、山梨重太方に見習奉公をして、ここに四,又先
代
のやり残した植林事業を継続し、大正五年(一九一六)更に熊別川の流域の山地七十
町
歩を購入し、杉とカラマツ,を約八万本植林し、次いで六十
町
歩の山地を購入して、十ヶ年計画を立てて造林につとめた。 / 八、〓池田家(館
町
)
戸井町史
(二、会所時代)
戸井
町
史 / 八王子千人同心隊が蝦夷地警備のために渡島したのはこの時
代
である。 ,戸井会所跡(〓谷藤家のところ) 会所時
代
の村役人は嘉永時
代
までは頭取、小頭、百姓
代
などと称していたが,、それ以後明治十一年に戸長役場になるまでは名主、年寄、百姓
代
と称した。 ,・福治郎、 以上頭取、小頭時
代
と、名主、年寄、百姓
代
時
代
のものがある。,記録のない
町
村の歴史を調べる根本資料の一つは神社の棟札である。 / 二、会所時
代
恵山町史
(〈シリーズ市町村合併 ~わが町の明日を考える~〉)
恵山
町
史 / 『函館市・戸井
町
・恵山
町
・椴法華村・南茅部
町
で市
町
村合併調査室を設置』 恵山
町
では、一昨年(平成13,『恵山
町
の方針』 5市
町
村の合併に対する恵山
町
の方針として、合併は1つの選択肢であり、
町
民の意向や
町
の,シリーズ⑤ 7月15日、函館市・戸井
町
・恵山
町
・椴法華村・南茅部
町
の5市
町
村による任意合併協議会が,シリーズ⑦ 恵山
町
『合併委協議委員』9月30日開催、地域
代
表が参加する。 , 地域
代
表 恵山
町
町
内会連合会長 斉藤賢三 同 えさん漁業協同組合専務理事 二木進 / 〈シリーズ市
町
村合併 ~わが
町
の明日を考える~〉
南茅部町史 上巻
(総代)
南茅部
町
史 上巻 / 総
代
明治九年四月一八日、大小区に初めて総
代
、副総
代
が任命された。 ,総
代
・副総
代
は村民の公選によって選出し、これを開拓使が任命する手順をとっている。 ,二、三小区総
代
渡辺 政方 砂原 月給金五円 二小区 副総
代
赤石歓三郎 臼尻 〃 三円, 三小区 〃 相木堯太郎 落部 〃 三円 「臼尻学校設立伺」には、人民総
代
という文言,明治一一年六月五日付乙第一九号により「総
代
人撰挙法及総
代
人心得」が布達されて、総
代
・副総
代
も小区「総
代
人 / 総
代
戸井町史
(二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛)
戸井
町
史 / 二、二
代
戸長 松
代
(まつしろ)孫兵衛 松
代
孫兵衛 明治十八年(一八八五)に退任した初
代
戸長飯田東一郎,石崎松
代
家の五
代
目であり、孫兵衛としては三
代
目である。この時三
代
孫兵衛は四十一才であった。 ,両松
代
家に仏壇を納めた嘉永四年には、石崎松
代
孫兵衛は五十六才、箱館松
代
伊兵衛は四十三才、三
代
孫兵衛を襲名,この時
代
が両松
代
家の全盛時
代
であった。 ,箱館の二
代
松
代
伊兵衛に納めた同型の仏壇は、現在大野
町
に居住している伊兵衛直系の子孫の家に伝えられている / 二、二
代
戸長 松
代
(まつしろ)孫兵衛
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