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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (町代)

町代 町代は初め町総代と称したが、後に町代と改められたもので、大抵1町内に2人を定員とし、その任免は,町年寄、名主の協議をもって申立て、官から任命された。,平日は自宅にあって事務を処理したが、町年寄の召喚その他人別調や役銭上納などの節は、羽織袴で町役所に出勤,、職務は町内住民の願届請証文などに連印する事、法令を町役所より受けて町民に伝達する事、宗門下調帳を作る,事、諸役銭及び町費を取立て町役所に差出す事など、多くは町年寄の下働きをする者であった。 / 町代
戸井町史 (五、公選町村長時代)

戸井町史 / 五、公選町村長時代 昭和二十二年(一九四七)地方自治法が公布され、五月三日から施行された。  ,昭和四十五年(一九七〇)町制施行第一回目の町長選挙には、中釜実が無競争で町長に当選した。  ,三、一三 多田作太郎 九ケ月 二級町村制が施行され、自然退職となり、 明治三五、四、一、初代戸井村長,2、歴代村長一覧(一級、二級町村時代) 代 氏名 就任 年月日 任期 摘要 退任 第一代 多田作太郎,年次 村(町)長 助役 収入役 第一代 自昭和二二、四、二三 至〃二六、四、二二 工藤健次郎 石黒武 / 五、公選町村長時代
南茅部町史 上巻 (歴代町議会議員)

南茅部町史 上巻 / 歴代町議会議員 昭和三四・五・二〇選(定員二六) 南茅部村議会議員(昭和三四・九・一町政施行)町議会議員 / 歴代町議会議員
戸井町史 (四、村役場時代(二級・一級町村時代))

戸井町史 / 四、村役場時代(二級・一級町村時代) 二級町村制施行に伴い、戸井村外一村戸長役場の管轄区域に、二級町村制,第十代戸長多田作太郎は自然退職となり、引続き初代村長に任命された。  ,明治三十五年(一九〇二)上野寛が二代村長に任命された。  ,大正八年(一九一九)四月一日、戸井村に一級町村制が施行された。  ,大正八年(一九一九)八月十九日、菊地庫太が一級町村の最初の村長に選ばれ、十一代村長に就任した。 / 四、村役場時代(二級・一級町村時代)
戸井町史 (八、弁才町の歴代警察官名(終戦後))

戸井町史 / 八、弁才町の歴代警察官名(終戦後) 八、弁才町の歴代警察官名(終戦後) / 八、弁才町の歴代警察官名(終戦後)
戸井町史 (九、小安町の歴代警察官名(終戦後))

戸井町史 / 九、小安町の歴代警察官名(終戦後) 九、小安町の歴代警察官名(終戦後) 小安警察官駐在所 / 九、小安町の歴代警察官名(終戦後)
函館市史 通説編 第二巻 (町区総代人制の導入)

町区総代人制の導入 町会所蓄積金の経理の調査を担当した調査委員たちは、区戸長のみに町政を委ねていると,      区町村総代人選定ノ儀ニ付伺 従来区町村総代ノ設ケ無之処、明治九年十月第百三十号公布,町総代人は1町(場合によって数町連合)から2名ずつ選出され、小区総代人は町総代人の互選により選出され、,   表2-43 町区総代人名簿(明治11年8月) 小区名 選出町名 町総代人名(○,」より作成  町総代人62名(内区総代人28名)  ☆印は2から3小区に分割されている町名及び選挙区分 / 町区総代人制の導入
恵山町史 ((3)恵山町の縄文時代早期の遺跡)

恵山町史 / (3)恵山町の縄文時代早期の遺跡 町内では中浜E遺跡(北海道埋蔵文化財センター、1985)、日の浜砂丘,式に類似する土器片(第12図1~5)、貝殻腹縁連続波状文や貝殻腹縁押引(おしび)き文が施文された住吉町遺跡,、貝殻条痕文が施文された大澗式の土器(第12図10~14)、貝殻腹縁圧痕文と波状沈線が施文された七飯町鳴川遺跡出土,第12図 中浜E遺跡から出土した早期の土器片(1~5、ノダップⅠ式、6~9、15~19、住吉町式、20,31、東釧路Ⅲ式、32~33、コッタロ式、34~39、中茶路式、39~44、東釧路Ⅳ式) 『尻岸内町中浜 / (3)恵山町の縄文時代早期の遺跡
恵山町史 ((2)恵山町内の縄文時代後期の遺跡)

恵山町史 / (2)恵山町内の縄文時代後期の遺跡 町内では後期の遺物が中浜E遺跡(北海道埋蔵文化財センター、1985,町内で発見される後期の遺跡はその初期の遺物を伴ったものに限られる。,つまみ付ナイフ、10、スクレーパー、11~12、敲石、13、砥石、14、磨石、15、石皿) 『尻岸内町中浜,住居跡、2、網目状撚糸文土器、3~4、スクレーパー、5、土壙1出土の石冠) 『古武井9遺跡』尻岸内町教育委員会 / (2)恵山町内の縄文時代後期の遺跡
恵山町史 ((6)恵山町内の縄文時代前・中期の遺跡)

恵山町史 / (6)恵山町内の縄文時代前・中期の遺跡 日の浜遺跡、川上遺跡、日の浜砂丘1遺跡、中浜E遺跡、古武井9,遺跡など、町内に分布する縄文時代の遺跡の大部分がこの時期の遺跡である。,覆土からは、胎土に若干の繊維を含み、底が尖り、押し引き刺突文、刺突文、縄文、ループ文が施文された春日町式,1遺跡出土の前期の遺物(1~6、春日町式・トドホッケ式、7~10、大木2a式、11~17、椴川式),『日の浜砂丘1遺跡』北海道恵山町教育委員会、1986 第27図 日の浜砂丘1遺跡出土の前期の / (6)恵山町内の縄文時代前・中期の遺跡
恵山町史 ((4)恵山町内の縄文時代晩期の遺跡)

恵山町史 / (4)恵山町内の縄文時代晩期の遺跡 晩期の遺物が6遺跡から採集されているが、概要がわかるのは日の浜遺跡,年、吉崎昌一撮影) 第43図 日の浜遺跡から出土した石刀 野村崇「北部日本における縄文時代晩期 / (4)恵山町内の縄文時代晩期の遺跡
戸井町史 (六、町章及び町民歌、町音頭の制定)

戸井町史 / 六、町章及び町民歌、町音頭の制定 昭和四十三年十月一日から町制を施行することが決定し、昭和四十三年三月,町章   松前郡福島町字吉岡  船木 俊夫   町民歌  亀田郡戸井町字館町  野呂  進(日新中学校長,)   町音頭  亀田郡戸井町字館町  野呂  進(日新中学校長)  昭和四十四年十月二十三日、戸井高等学校体育館,町章   新制定の町章の意義 ○戸井(とい)の頭文字「と」を図案化したもの。,全体として、新時代に躍進する雄々しさを象徴したものである。 / 六、町章及び町民歌、町音頭の制定
恵山町史 (大正期の歴代収入役(含む代理者))

恵山町史 / 大正期の歴代収入役(含む代理者) 小山 博(収入役職務代理)(大正2年6月19日~同年8月22日), 山田司収入役退職後、次期収入役選出までの期間、職務代理を務めた小山は宮城県本吉郡志津川町の出身、明治,収入役については『北海道二級町村制』、第2章 町村吏員、第1款 組織及選任の第5条に次のように規定されている,町村ニ町村長・書記・収入役、ソノ他必要ノ附属員ヲ置キ有給トス  収入役ハ町村会ノ推薦ニ依リ北海道庁支庁長之,ヲ任命シ、任期ハ四ケ年トス  収入役ノ保証金ニツイテハ町村規定ヲ以テ之ヲ定ム  ・収入役は恰も町村 / 大正期の歴代収入役(含む代理者)
恵山町史 ([歴代教育委員])

恵山町史 / 平成4年には第1次恵山町教育推進計画を策定、また“教育の実をあげるため教職員の和を大切に”と、町内の4,平成9年度の第2次恵山町教育推進計画策定・恵山賛歌制定も三好の時代である。,10代目加藤弘は恵山町では初めての学校長経験の教育長である。  ,14年恵山町教育委員会教育推進アドバイザーとして勤務、翌15年1月、第10代教育長に就任、加藤教育長への,そして、平成16年4月、町内の4小学校を統合し恵山町立えさん小学校を創立した。 / [歴代教育委員]
戸井町史 ([石器時代の戸井])

戸井町史 / [石器時代の戸井] 昔から戸井町の畑地の各所から石鏃(せきぞく)、石槍(せきそう)、石斧(せきふ)、,遺跡は町内各所に分布しているが、本格的な調査発掘は、昭和二十六年十一月六日、千代肇の指導による熊別坂の,発掘と昭和四十二年秋、千代肇の指導による西浜町〓金沢畑地の貝塚発掘、昭和四十三年夏、千代肇の指導による,道南では昭和四年に、函館市住吉町、春日町の早期尖底(せんてい)土器時代の石器土器が発掘され、その後桔梗石川野,戸井町も恵山式時代から擦文式時代に移り、蝦夷時代に移行したのである。 / [石器時代の戸井]
恵山町史 (総代人選挙法・総代人心得 (明治13年7月8日改定))

恵山町史 / 総代人選挙法・総代人心得 (明治13年7月8日改定) 総代人選挙法 第一条 各町村デ総代一名若クハ,二名ヲ置テ町村総代人トシ、各郡ニ総代人一名若クハ二名ヲ置テ郡総代人トス、尤郡町村ニ置イテハ定員ノ二名ヲ,第三条 町村総代人、町村協議ノ事項ヲ郡長ニ申開スルトキハ、郡総代人ノ加印ヲ請ケ、郡総代人ハ其部内町村総代人,第六条 町村総代人ハ、其町村ノ経費ヲ予算シ、及ビ其賦課法ヲ定ムベシ。,第九条 数郡町村同一ノ利害ニ係ル事項ハ、該郡町村総代人連合シテ協議措弁スベシ。 / 総代人選挙法・総代人心得 (明治13年7月8日改定)
南茅部町史 上巻 (総代人会議)

南茅部町史 上巻 / 総代人会議 戸長役場時代における村の重要案件の決定は、各部落より選出されていた総代によって議決された,戸長と総代会は、のちの町村長と村会・町村議会と同等の権限をもっていたようである。      ,明治三十五年尾札部村総代人会議事録  明治三十五年三月三十日磨光学校内ニ於テ左ノ議案ヲ議決スル為メ総代人会,提案とその決議の内容からみて、のちの町村議会と同じ決議権をもつものとしては、その事情の如何を問わず、この,明治三九年四月、二級町村制の施行ののちは、四部落は部とよばれて総代は部長となった。 / 総代人会議
戸井町史 (四、部落会、町内会)

戸井町史 / (イ)歴代町内会長   初代  本間 作太郎  自昭和三五年七月 至昭和四三年一二月   二代  ,(イ)歴代町内会長   初代  伊藤 賢一    自町内会設立時  至昭和三八年一二月   二代  ,(現会長 河村武男談)   (イ) 歴代町内会長   初代  丹羽 和八    自昭和三四年四月 ,(イ)歴代町内会長   初代  丹羽 和一    自昭和三八年二月 至昭和四三年一二月(三期歴任),(イ)歴代町内会長   初代  水戸 米次郎   自設立時     至昭和三一年一二月   二代   / 四、部落会、町内会
南茅部町史 上巻 (米田町長略歴)

南茅部町史 上巻 / 米田町長略歴 二代南茅部町長に当選した米田陽は、明治四三年四月一日生まれ。  ,三八年、懇請されて南茅部町長選に立候補し当選、五月一〇日二代町長に就任した。,米田町長は、体格もよく、会う人を魅了する話し方の人で、町民の輿望を担って町政に取り組んだ。,南茅部町役場 本庁 / 米田町長略歴
南茅部町史 上巻 (佐藤町長略歴)

南茅部町史 上巻 / 佐藤町長略歴 三代南茅部町長佐藤貞勝は、大正一五年九月一五日生まれで、南茅部町字木直(ポン木直)の出身,昭和四二年六月、南茅部町助役に就任。四六年六月、助役に再任された。,七月、ばんだい号の遭難に際し米田町長の捜索を指揮。,七月六日、町長職務代理者となり、町長選に立候補して昭和四六年八月二一日町長に就任した。  ,若さと情熱と行動力、能弁さをもって、会う人を魅きつけ精力的に町政を前進させた。 / 佐藤町長略歴
南茅部町史 上巻 ([先土器時代])

南茅部町史 上巻 / [先土器時代] 先土器時代の遺跡は南茅部町のみならず、北海道西南部の渡島半島においても、その数は少ないものである,南茅部町では、先土器時代の遺跡が二ヵ所発見されている(第一図)。  ,の遺跡はともに臼尻地区の段丘上にあるが、残念ながら発見されている遺物は二点の石器だけであり、正確な年代、 / [先土器時代]
南茅部町史 上巻 ([繩文時代])

南茅部町史 上巻 / [繩文時代] 南茅部町に存在する遺跡の大部分は、繩文時代に属するものであり、繩文時代はまた、その文化内容 / [繩文時代]
南茅部町史 上巻 (新しい町名)

南茅部町史 上巻 /  横津町  渡島町  道南町  北海町  工夷町  臼尻町  東海町  安浦町  弁天町, 栄岸町  美岸町   「美」が五  美和町  美和浜町  美楽町  美温町  深美町, 海和町  海栄町  海宝町  海原町  海山町  山海町  浜海町  内海町  , 新栄町  北栄町  漁栄町  共栄町  喜栄町  千代栄町  翼栄町   友和をあらわすもの, 磯島町  岩城町  畸 町  三崎町  潮 町  潮尻町  黒潮町  白波町  水青町 / 新しい町名
戸井町史 ([戸井町の文化財])

戸井町史 / [戸井町の文化財] 和人が始めて戸井に渡来したのは「戸井町の沿革」で述べたように、松前家の始祖蠣崎信広,室町時代に戸井館を中心として住み着いていた和人が、蝦夷の反乱によって滅び、その後和人無住時代が長い間続,然し草創の古い割には、経済的にも文化的にも貧しい地域であったため、古い時代の文化財の少ない地域である。,過去四回の町文化祭に出品された文化財及び六ヶ年に亘って調査した主な文化財は次の通りである。 / [戸井町の文化財]
南茅部町史 上巻 (飯田町長略歴)

南茅部町史 上巻 / 飯田町長略歴 四代町長飯田満は、昭和一一年八月二六日、字尾札部に生まれる。  ,同三四年、南茅部町職員となり、四五年総務課長、建設課長、水産課長、経済部長、地場産業振興センター長を歴任,昭和五八年八月、町長に当選就任した。 / 飯田町長略歴
戸井町史 (三、戸長役場時代)

戸井町史 / 初代戸長に飯田東一郎が任命された。  ,明治十二年(一八七九)七月大小区画制を廃止し、郡区町村を編成し、郡役所を石狩外十八所におき、函館、札幌,明治十八年(一八八五)松代孫兵衛が二代戸長に任命された。  ,この年桜井郁郎が四代戸長に任命された。  ,明治三十五年(一九〇二)二級町村制が公布された。 / 三、戸長役場時代
恵山町史 (歴代の収入役)

恵山町史 / 歴代の収入役 前田時太郎(昭和6年7月31日~同20年3月26日)  大正8年7月21日から昭和6,昭和5年の経済恐慌、続く6、7年の凶漁冷害に見舞われた苦しい村財政のやりくり、さらには1級町村制施行を,村財政の立て直し、戦時体制下での統制経済等々、辛苦を嘗めながら会計事務を担当し、斉藤・嶺・上達・井上ら歴代村長 / 歴代の収入役
戸井町史 (九、北海道時代の概観)

戸井町史 / 九、北海道時代の概観 この時代は昭和二十年(一九四五)日本政府が終戦を決定し、八月十五日、天皇がポツダム,稍々(やや)落付いた頃に、明治憲法に代る新憲法が公布され、それに基いて北海道知事、市町村長、市町村会議員,道庁時代の長官は代々政府が高位高官の者を任命して来たことに馴れていた道民は、無位無冠の田中知事の出現によって,され、三年制の新制中学校は、校舎も教材教具も机もなく、教師さえも不足な中で設置されることになり、道も市町村,戸井にも終戦後二十三年目に町制が施行され、「戸井町」として、新生戸井町の発展の第一歩を踏み出したのである / 九、北海道時代の概観
恵山町史 (〈町制施行〉)

恵山町史 / 公共施設については村も力を注ぎ、近代医療施設を持った国保病院を完成させ、近隣町村の患者の診療にも当たっている,教育についても児童生徒の増加に合せ近代的な校舎建築の校舎の完成など教育環境は年々向上している。  ,村議会は、これらの村の実態と「町としての要件に関する条例」を照らし、尻岸内村が町としての要件を十分に満,へ  道南の海の宝庫「恵山魚田」と「道立恵山自然公園」をかかえる尻岸内村は、発展一途の町勢から町制を,施行することになり、道に町制施行の申請を提出している。   / 〈町制施行〉
戸井町史 (二、法泉寺(館町))

戸井町史 / 二、法泉寺(館町) 館町の法泉寺は、曹洞宗の寺院で、函館高竜寺の末寺である。,歴代住職  初 代  佐 藤 大 雪    二 代  佐 藤 大 麟        三 代  佐 藤, 大 円    四 代  佐 藤 孝 順 法泉寺 / 二、法泉寺(館町)
南茅部町史 上巻 (歴代戸長)

南茅部町史 上巻 / 歴代戸長 歴代戸長  臼  尻  村  熊  泊  村  尾 札 部 村 明治6・9 厳島神社標札,吉 村用懸 赤石歓三郎 佐々木粂五郎   9・ 副戸長 菊池忠兵衛 菊池忠兵衛 副惣代 ,明治一五年      茅部郡役町伺届   庶務課 届第壱号  開廳ノ儀御届    「当役所本日開庁致候条此段御届仕候也,                   函館県茅部山越郡書記 佐藤宗正〓    函館県令 時任為基殿 代理,全道の町村の数八二六ケ村で戸長役場は一三六役場であった。 / 歴代戸長
戸井町史 (十、〓宇美家(東浜町))

戸井町史 / 十、〓宇美家(東浜町) 5代宇美第吉  〓宇美家の祖初代第吉(だいきち)は、享保年間若狭国小浜,、宅地一町五反九畝、山林二十町歩を買い、山には毎年杉やカラマツを植えた。  ,宮川神社改築の際には、母フメの名儀で、敷地一町三畝、宅地五十坪を寄附した。  ,藤蔵は函館商業学校を卒業し、現在は戸井町議、東戸井漁業協同組合長、戸井町消防団長等の要職についている。,現在戸井町で宇美姓を名乗っている者は、すべて〓宇美家の別れである。 / 十、〓宇美家(東浜町)
南茅部町史 上巻 ([二級町村])

南茅部町史 上巻 / [二級町村] 二級町村制は、一級町村制実施についで、明治三五年に施行された。,明治三九年四月一日、臼尻村と尾札部村に二級町村制が施行された。,尾札部村の初代村長には明治三五年以来、尾札部戸長だった中野嘉平が任命された。  ,臼尻村は、前年の明治三八年一〇月戸長に就任していた浅尾恒良が初代の村長に任命された。,初代 尾札部村長 中野嘉平(中野嘉弘提供)  歴代村長        臼尻村長                    / [二級町村]
戸井町史 (一、初代戸長 飯田東一郎)

戸井町史 / と戸井村を統治する戸長役場が置かれるようになり「戸井村外一村戸長役場」という長い名の役場が、戸井町館鼻,明治三十五年四月一日に二級町村制が施行されて、戸井村と小安村が合併し、戸井村大字戸井村字○○、戸井村大字小安村字,「町村百年の大計は教育にあり」ということばは為政者のよく口にすることばであるが、飯田東一郎が初代戸長に,草創期の戸井町の教育の基盤を築いたのは実に飯田東一郎であり、百年後の今日の戸井町の発展は飯田戸長の力に,戸井町郵便事業のパイオニヤは足達惣吉、健次郎父子であるが、飯田東一郎は郵便事業の発展にも戸長として絶大 / 一、初代戸長 飯田東一郎
南茅部町史 上巻 ([続繩文時代])

南茅部町史 上巻 / 繩文時代の伝統を強く残した続繩文文化が栄えた。,第49図 遺跡分布図(続繩文時代)  この文化の代表遺跡として恵山貝塚が著名であり、南茅部町においては,繩文時代は弥生時代に対応する時代であるが、まだ石器も使用しており、特徴的なものは太い柄のあるナイフ、片刃,り込みの中に、土器やナイフ、石鏃、玉、魚形石器などを副葬するものが一般的であるが、住居や墳墓は南茅部町での,第50図 続繩文時代の土器 第51図 続繩文時代の土器 第52図 続繩文時代の土器 / [続繩文時代]
戸井町史 (三、大隆寺(館町))

戸井町史 / 三、大隆寺(館町) 館町の大隆寺は浄土宗の寺院で、函館称名寺の末寺である。,その創建の由来は、初代住職になった菊崎隆乗和尚が来村して、字横泊の伊藤倉次郎宅並に、字浜中の佐々木倉蔵宅,歴代住職  初 代  菊 崎 隆 乗    二 代  吉 本 正 道        三代   横 島 / 三、大隆寺(館町)
戸井町史 ([町内墓地の概観])

戸井町史 / [町内墓地の概観] 広い平野の中にある農村では、水田や畑地の真中に点々として部落々々の墓地があり、山村,戸井町の墓地は東部から小安、釜谷、汐首、瀬田来、館町、鎌歌(二見)原木の七ケ所にあり、すべて高台にあり,全町の墓碑で明治、大正の年号の刻まれたものも極めて少ない。,又全国の市町村の墓地に見られるように、戸井町の墓地にも日支事変、太平洋戦争などの戦死者を供養するために,記録の少ない戸井町では、いろいろなことを物語っている墓碑銘は貴重な郷土史資料であると考え、町内七ケ所の / [町内墓地の概観]
南茅部町史 上巻 (町村制度の沿革)

南茅部町史 上巻 / 各開拓使出張所をそれぞれ出張開拓使庁と改称    五年 三月二八日  函館出張開拓使庁、大年寄・中年寄・町代,これまでの小頭・年寄・百姓代              を廃し、新たに村用掛(懸りとも書いている)を,             に応じすべて現品税賦課とする       六月     選挙による総代人制,を廃し郡区総代人を置く 明治一四年 七月 八日  熊泊村支トコロが鹿部村へ合併される(開拓使録事第四一号,市町村自治制度として現              代への原型ができていくうえで画期的な移行となった / 町村制度の沿革
南茅部町史 下巻 (南茅部町史に寄せて)

南茅部町史 下巻 / 南茅部町史に寄せて 南茅部町議会議長 佐藤政五郎 [図]  わたくしたちの郷土南茅部町は,、山陰(かげ)在と呼ばれた永い辺境の時代を経てきました。  ,漁業のほかに、農業、牧畜、鉱業など有望な時代もありました。  ,戦争という苦しい時代もありました。  歴史はそれぞれに多くの教訓を内に秘めているものです。  ,ここに永年にわたる研鑚の結晶として、南茅部町史上下二巻の完結をみ、発刊できたことを町民ともども心から喜 / 南茅部町史に寄せて
南茅部町史 上巻 (田代角左衛門)

南茅部町史 上巻 / 現在の岩手県下閉伊郡山田町船越字田の浜の人である。  ,角左衛門の発明した鮪の建網を田代網といい、沖の島を田代島とよんだという。  ,のち、角左衛門は陸前国桃生郡十五浜村(現在の雄勝町のうち)に漁場をうつし、雄勝湾の波板、分浜の側と白葉崎,立派な弁財天は祀られていたが、田代大明神のことは土地の人も漁業関係者も今は知らず、町教育委員会にもその,(資料協力 岩手県山田町 田 代 ひろ子)       (参考文献 宮城雄太郎著「日本漁民伝上巻 昭和三九 / 田代角左衛門
南茅部町史 上巻 ([その他の時代])

南茅部町史 上巻 / [その他の時代] 北海道において続繩文時代が終わると、本州から北上する日本文化の影響を受け、北海道独特,この時期の遺跡としての確かな例はまだ南茅部町内においては確認されておらず、噴火湾沿岸においては、八雲町,この文化はアイヌ文化の祖形と考えられ、その後、アイヌ民族は土器の代わりに、本州から移入された内耳土器や,南茅部町において、明治期までにアイヌ民族が生活していたことは記録により明らかであるが、それも江戸時代中期以前,擦文時代以後、近世までの歴史は記録もなく遺跡も少ないため暗黒時代とも呼ばれ、その実態はまだ解明されてはいないが / [その他の時代]
南茅部町史 下巻 (町の文化財指定)

南茅部町史 下巻 /           弁天島八千代橋の 図 南茅部町字臼尻,まで尾札部場所と並ぶ臼尻場所 が併置されていたものであり、本町の漁業を 代表する地である。,町の樹木の中で代表的な巨樹である。,町の樹木の中で代表的な巨樹である。,造林事業の歴史を語るものであ り、町の樹木の中で代表的な巨樹である。 / 町の文化財指定
南茅部町史 上巻 ([町政の方針])

南茅部町史 上巻 / [町政の方針] 飯田町長は、五つの柱を町政の方針として掲げた。  ,一、活力のある町づくりをめざして、生きがいのある漁業の振興  一、若者が希望と誇りをもてる郷土(まち,につとめ、生活環境の充実を図る  一村一品運動にみられる地場産業、いわゆる漁業に活力を求められる時代である,町の漁業の基盤づくりが飛躍を期待されている。 / [町政の方針]
戸井町史 (四、大宣寺(館町))

戸井町史 / 四、大宣寺(館町) 館町の大宣寺は真宗大谷派の寺院で、本山本願寺の末寺である。  ,大宣寺の敷地は四代宇美第吉、建物は金沢音吉が寄附したものである。  ,大正十三年(一九二四)五月十日、開基寺西大宣師が、六十五才で逝去し、寺西粂丸師が二代目住職を継承して現在,粂丸師の時代になってから幾度か、寺院及び附属建物の増改築を行った。    ,本  尊  阿弥陀如来  歴代住職  初 代  寺 西 大 宣    二 代  寺 西 粂 丸 / 四、大宣寺(館町)
戸井町史 ([戸井町の屋号調])

戸井町史 / し、代を重ねるにつれて、同姓の家が多くなって来る。,同じ戸井町でも、東西の交流の少なかった時代につけられた屋号は、東西で同じ屋号の家が若干ある。,船を遠くから識別するために帆印に使った屋号や、商品の商標として使われた屋号も、時代が変り、同姓の家が同一町村,然し五代も七代も代を重ねているうちに、親戚としての交際が薄くなり、先祖を同じくしていても、系統がわからなくなっている,戸井町だけでなく、他町村への移動の少ない町村では、年代を経るにつれて、同族同姓の家が町村内に増加し、町村内 / [戸井町の屋号調]
戸井町史 (八、〓池田家(館町))

戸井町史 / 八、〓池田家(館町) 初代池田栄吉は嘉永三年(一八五〇)一月七日、戸井村に生れ父を市五郎、母をアサ子,〇三)八月、千数百円を投じて、宏荘な住宅を新築し、明治三十七年頃は、漁場三ケ所、宅地四ケ所、山林十五町歩,鉄蔵は明治三十八年(一九〇五)十五才の時、庵原郡清川町の肥料問屋、山梨重太方に見習奉公をして、ここに四,又先代のやり残した植林事業を継続し、大正五年(一九一六)更に熊別川の流域の山地七十町歩を購入し、杉とカラマツ,を約八万本植林し、次いで六十町歩の山地を購入して、十ヶ年計画を立てて造林につとめた。   / 八、〓池田家(館町)
戸井町史 (二、会所時代)

戸井町史 / 八王子千人同心隊が蝦夷地警備のために渡島したのはこの時代である。  ,戸井会所跡(〓谷藤家のところ)  会所時代の村役人は嘉永時代までは頭取、小頭、百姓代などと称していたが,、それ以後明治十一年に戸長役場になるまでは名主、年寄、百姓代と称した。  ,・福治郎、    以上頭取、小頭時代と、名主、年寄、百姓代時代のものがある。,記録のない町村の歴史を調べる根本資料の一つは神社の棟札である。   / 二、会所時代
恵山町史 (〈シリーズ市町村合併 ~わが町の明日を考える~〉)

恵山町史 / 『函館市・戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町で市町村合併調査室を設置』  恵山町では、一昨年(平成13,『恵山町の方針』 5市町村の合併に対する恵山町の方針として、合併は1つの選択肢であり、町民の意向や町の,シリーズ⑤  7月15日、函館市・戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町の5市町村による任意合併協議会が,シリーズ⑦  恵山町『合併委協議委員』9月30日開催、地域代表が参加する。    , 地域代表  恵山町町内会連合会長    斉藤賢三  同     えさん漁業協同組合専務理事 二木進 / 〈シリーズ市町村合併 ~わが町の明日を考える~〉
南茅部町史 上巻 (総代)

南茅部町史 上巻 / 総代 明治九年四月一八日、大小区に初めて総代、副総代が任命された。  ,総代・副総代は村民の公選によって選出し、これを開拓使が任命する手順をとっている。  ,二、三小区総代 渡辺 政方  砂原 月給金五円   二小区 副総代 赤石歓三郎  臼尻  〃 三円,  三小区  〃  相木堯太郎  落部  〃 三円    「臼尻学校設立伺」には、人民総代という文言,明治一一年六月五日付乙第一九号により「総代人撰挙法及総代人心得」が布達されて、総代・副総代も小区「総代人 / 総代
戸井町史 (二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛)

戸井町史 / 二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛 松代孫兵衛  明治十八年(一八八五)に退任した初代戸長飯田東一郎,石崎松代家の五代目であり、孫兵衛としては三代目である。この時三代孫兵衛は四十一才であった。  ,両松代家に仏壇を納めた嘉永四年には、石崎松代孫兵衛は五十六才、箱館松代伊兵衛は四十三才、三代孫兵衛を襲名,この時代が両松代家の全盛時代であった。  ,箱館の二代松代伊兵衛に納めた同型の仏壇は、現在大野町に居住している伊兵衛直系の子孫の家に伝えられている / 二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛
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