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函館市史 通説編 第二巻
(町会所の新築)
町
会所
の新築
町
会所
函館の
町
会所
は、幕末期には奉行所の表門に付属した長屋(門長屋という呼称,(第1大区4小区
会所
町
16番地)に新築移転したようである。,この
町
会所
、新築移転の時期や具体的内容を明確にすることはできなかったが、明治6年の大区割費の費途は「
町
会所
,・駅場・
町
用掛月給・
町
会所
取建拝借金納メ其外一切区入費大区割総合計」とあって、
町
会所
建設のために開拓使,戸長の執務場所が支庁内に移ったため、
会所
町
の
町
会所
は、旧
町
会所
となり空家となった。 /
町
会所
の新築
南茅部町史 上巻
(会所)
南茅部
町
史 上巻 /
会所
寛政一二年(一八〇〇)、東蝦夷地を幕府が上知して直捌制をおこなうにあたり、東蝦夷地の運上屋は以後
会所
/
会所
函館市史 通説編 第二巻
(町会所蓄積金)
町
会所
蓄積金
町
会所
には
町
会所
が管理運用していた
町
会所
蓄積金と呼ばれる市民共有の財産があった。,この
町
会所
積立金に関して、明治8年6月から明治10年10月までの「
町
会所
予備基本金出納月表」(道立文書館蔵,
町
会所
予備基本金というのは
町
会所
蓄積金の大きな部分を占めることは間違いないと思われるので参考として掲げておく,この
町
会所
蓄積金のほかに
町
会所
には備蓄米が存在した。,このほか
町
会所
は
町
会所
持ちの共有地を所有し、地代金家賃が蓄積されていた。 /
町
会所
蓄積金
函館市史 通説編 第一巻
(町役所・町会所)
町
役所・
町
会所
箱館もしだいに戸口の増加に従い、
町
政を司る所として
町
役所が置かれるようになった。,
町
役所も後には
町
会所
と改められ、その役人は
町
年寄・名主、および
町
代といい、その下に組合頭があって5人組,前の松前藩の時代には名主を主席とし、
町
年寄はその下に立ったが、幕府直轄時代からこれが転倒して、
町
年寄を /
町
役所・
町
会所
函館市史 通説編 第一巻
(町会所の埋立)
町
会所
の埋立 弁天岬台場から地蔵
町
に至る一帯の海岸は、箱館の発展に伴い埋立の必要が生じたので、
町
会所
/
町
会所
の埋立
函館市史 通説編 第二巻
(町会所の組織構成)
町
会所
の組織構成 前述の通り
町
会所
の責任者は、江戸時代の
町
年寄・名主が開拓使により明治2(1869),
町
会所
は区長・戸長・副戸長体制となったのである。,もっともこのときは、前年末の
町
会所
行革のあおりで戸長は罷免され1人もいなかった。,大区事務所である区務所にあって大区を統括するというのが大小区制の基本形であるが、函館にあっては、その事務を
町
会所
内, 表2-28
町
会所
事務分担表(明治12年中期) 事務内容 担当者 出納・用度・租税 /
町
会所
の組織構成
戸井町史
(二、会所時代)
戸井
町
史 / 二、
会所
時代 寛政十一年(一七九九)に、幕府はロシヤの南侵に備えるため、松前領の東蝦夷地を幕府の直轄,後には旧運上屋だけを
会所
と称し、宿泊所を旅宿又は通行屋と称した。,この時小安と戸井の運上屋はそのままの建物を
会所
とした。 ,戸井
会所
跡(〓谷藤家のところ)
会所
時代の村役人は嘉永時代までは頭取、小頭、百姓代などと称していたが,
会所
が廃止された。 / 二、
会所
時代
南茅部町史 下巻
(会所の頃)
南茅部
町
史 下巻 /
会所
の頃 往昔、蝦夷地の交通(道路や乗りもの)は未発達だった。,
会所
に通行屋を付属させて旅人の運搬や駅馬の用に当たらせた。 /
会所
の頃
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使の町会所監督強化)
開拓使の
町
会所
監督強化
町
会所
に自主的な
町
政運営を任せてきた開拓使も、官僚機構が整備されると、
町
政の,まず、明治5年12月函館支庁は次のような達書(『法規分類大全』租税門地方税)を出し、
町
会所
の権限で徴収, 区入費坪割銭ト唱、是迄
町
会所
并
町
用掛限取立来候処、以後相止メ候条、向後区入費坪割銭ハ,勿論祭事割合、瑣細ノ取立銭共、一箇年月或ハ半箇年且其時々総計割当計算済、当庁許可ノ上雛形ノ通金員払印
町
会所
,しかし、この時は民事課の主張が通り官費により積立てた
町
会所
予備金殻のみが会計課所管に変更された(「
町
会所
金穀出納評議留 / 開拓使の
町
会所
監督強化
函館市史 通説編 第一巻
(会所の設置地)
会所
の設置地 幕府は、ただちに箱館奉行の意見を受け入れ、前幕府直轄時代の産物
会所
の例に準じ、2、3年試,みようという指示を与えて発足したが、
会所
は、箱館、松前のほか江戸、大坂、京都、兵庫、堺、敦賀、下関、新潟,に設置され、江戸の
会所
は新大橋際植物場内に、大坂は劒先
町
、兵庫は北浜川崎
町
(後に鍛冶屋
町
)、堺は住吉橋西詰,に当る住吉橋通北2丁目、敦賀は中橋
町
に設けられた。 /
会所
の設置地
函館市史 通説編 第二巻
(町会所蓄積金の経理調査)
町
会所
蓄積金の経理調査 体制を整えた函館支庁は、ついに
町
会所
蓄積金の経理にメスを入れた。,ノ内ヨリ委員ヲ命ジ調査セシメ候処現在ノ金穀左ノ通ニ候」と、
町
会所
蓄積金調査結果を広告した。,また、この
町
会所
蓄積金調査完了祝賀会が11年1月5日に上大工
町
の協同館で開かれ、函館新聞の創刊号には次,の人事刷新と同時に、次の2点を改正して、
町
会所
経理の公正を期した。 ,1、
町
会所
の経理精算書を年2回(7月と12月)一般市民に公開縦覧すること。 /
町
会所
蓄積金の経理調査
函館市史 通説編 第二巻
(町会所蓄積金から函館区共有金へ)
出納表に「(出納内容を)詳細閲覧致族ハ函館区役所内
町
会所
ヘ出頭帳簿閲覧」とある通り、
町
会所
は区役所内に,出されたこの計算表は「細目承知致度向ハ
町
会所
ヘ出頭帳簿閲覧」とあり、区務所が
町
会所
内に置かれる形をとっていたのが,この時
町
会所
共有金から区内共有金へと名称が変わり、
町
会所
という名称も自然消滅となったようである。 ,この集
会所
に「穏当なる古称を復習し用ふる」ということで
町
会所
という名称が付けられ、19年4月に富岡
町
に,洋風2階建84坪(本屋)の
町
会所
の運営は
町
会所
取締(初代取締今井市右衛門、副平田兵五郎、同工藤弥兵衛) /
町
会所
蓄積金から函館区共有金へ
函館市史 通説編 第二巻
(産物会所の設置)
が様々にとられるが、安政3(1856)年の「通船改
会所
諸産物
会所
」構想(『幕外』14-201)も、そのような,箱館産物
会所
は、この構想の一環としてのものの実現という意味があったようである(永井信「箱館産物
会所
の機能,
会所
附仲買のもの以外は取引ができず従来、だれでも売買できていた時のように相場がすすまない、
会所
では現金取引,神奈川大学大学院経済学研究科『研究論集』第3号)より 松前の分のみ筆者の加筆 林家文書「文久二年番日記」(『松前
町
史,初年次のまとまった出資は大坂
会所
用達加嶋屋作治郎の1万両だけで、あとは、京都で募った4000両、江戸
会所
/ 産物
会所
の設置
恵山町史
(会所・宿泊所の掟・きまり)
恵山
町
史 /
会所
・宿泊所の掟・きまり
会所
・宿泊所の掟・きまりについて、箱館奉行羽太正養の公務日誌『休明光記遺稿,『寛政十二年申三月、休明光記遺稿』より 蝦夷地
会所
掟所竝箱館
会所
掟書之事 斯而、東蝦夷地場所々々,おゐて
会所
を造り建られて、蝦夷人と交易の場となし、又は旅人之宿所となりぬ、依て
会所
掟書を定めらる。,惣而諸人応対共叮嚀ニ心掛、兼々
会所
居合之モノ相互ニ可二申合一 候事、右之通平常急度相守可レ申候 /
会所
・宿泊所の掟・きまり
函館市史 通説編 第二巻
(町会所開設の新聞縦覧所)
町
会所
開設の新聞縦覧所 明治の初期、新聞はどのようにして一般の人々へ普及していったのだろうか。,して進んで新聞を購読してもらい、それによって函館の人々の開明化を図っていこうという意図のもとに、6年
町
会所
,こうして翌月19日には、3坪ほどの小さな新聞縦覧所が人通りの多い内澗
町
の基坂近くに開設されたのである( /
町
会所
開設の新聞縦覧所
函館市史 通説編 第二巻
(運上会所設置と海岸道路普請)
運上
会所
設置と海岸道路普請 東浜
町
海岸より税関を望む 北海道立文書館 これまでは、函館の都市形態,この運上
会所
が、産物
会所
とともに大
町
の御作事場に建設されることに決まったのが安政5(1858)年10月,万延元(1860)年7月1日運上所波止場が落成し、10月20日に全体で4551両をかけた運上
会所
産物
会所
建築工事,この頃になると、外国人居留地と運上
会所
あるいは
町
家地区と沖の口役所などを結ぶ海岸道路が必要となってきた,以上から、海岸道路の普請は開港後の安政期より個々の商人や
町
会所
などの埋立にはじまり、大
町
築出地や地蔵
町
築出地 / 運上
会所
設置と海岸道路普請
函館市史 通説編 第二巻
(初めての小学校・会所学校)
初めての小学校・
会所
学校 初めての小学校・
会所
学校の子どもたち 8年3月20,日、
会所
学校の開校が布達され、翌4月4日には、100名の児童を収容して函館で初めての小学校が開校した。,文部省の学則・教則に基づいて決められた
会所
学校の「校則」は次のとおりである。,一入学出願日ハ・・・月々二ノ日就学ハ其翌日ト相定 一入学出願ノ者ハ左ノ雛形(略)ノ通名札二葉ヲ製シ、
町
会所
,
会所
学校は開拓使費によって開設した開拓使立=官立の小学校である。 / 初めての小学校・
会所
学校
函館市史 通説編 第二巻
(町内入費)
坪割銭の徴収は年2回(5月と12月)で、
町
会所
発行の切符「札」をもって徴収した。,この坪割銭は、明治5年に大小区制が導入され、
町
会所
経費を大区費として整理されるまで続いた。 ,次に
町
会所
の事務費といえる「筆墨紙料」であるが、宗門改の時にその他の役銭と共に集められた。,この祭礼銭は明治5年に大小区制が導入された後も、
町
会所
が引き続いて徴収を続けたようであるが、明治10年,ただし、函館では後述する大区費小区費ともその内訳に祭礼費のような項目がなく、
町
会所
がどのような形で八幡宮 /
町
内入費
函館市史 通説編 第二巻
(町年寄・名主の廃止)
町
年寄・名主の廃止 江戸時代以来箱館の
町
政を担当してきたのは
町
会所
である。,この
町
会所
は、幕府による前直轄時代が始まる頃にはもうその存在が確認されている(「維新前
町
村制度考」『函館市史,つまり安政2年1月26日に出された「
町
年寄名主詰所ノ義、私領中
町
役所ニ唱来候得共、以来
町
会所
ト唱可申候,」と呼んでいたものを「
町
会所
」とする旨が明記されており、それ以後の触書では全て
町
会所
名が用られている。,
町
会所
の構成員である
町
年寄、名主、
町
代の
町
役人は、箱館奉行から箱館府へ組織、機能ともそのまま引継がれ、 /
町
年寄・名主の廃止
函館市史 通説編 第二巻
(町と町に準ずるもの)
内澗
町
、仲
町
、神明
町
、大黒
町
、山ノ上
町
、地蔵
町
の8
町
と、そのすぐ後に1
町
となった鰪澗
町
、文化11(1814,このほかに先の8
町
からは若干遅れて成立したと思われる古い
町
としては
会所
町
があったが、この
町
は「小役人・,の職務についての報告書には、中年寄の市中総
町
の担当区分ついて「市中八ヶ
町
を七人を以相勤、日々
町
会所
へ一同相詰,これは
町
政を担当していた
町
会所
では、函館の
町
について「8
町
」と認識し、その他の
町
はこの8
町
持ちと位置付,下新
町
大
町
上通 神明
町
内澗
町
豊川
町
合計 片
町
山背泊
町
会所
町
弁天
町
/
町
と
町
に準ずるもの
函館市史 通説編 第二巻
(元町学校)
元
町
学校 一方富岡学校の英語・数学科を合併した松蔭学校は、サルトフ死後、後任の責任者が不在のままだったが,このころ
会所
学校に続き新たに公立小学校を開校したいという動きが起きた。,官舎へ移し、校名を元
町
学校と改称した(明治8年「函館支庁日誌」道文蔵)。,その後元
町
学校は生徒が減少し、翌9年4月18日で廃校となった。,の教員の内、嵯峨寿安をはじめ外国語担当の教官はすべて職を去り、数学担当だった鈴木重直だけが教員として
会所
学校 / 元
町
学校
函館市史 通説編 第一巻
(鶴岡町海面埋立と蓬莱町排水)
鶴岡
町
海面埋立と蓬莱
町
排水 松川弁之助ら以下4筆の埋立地は、元治元年政府が外国人居留地の予定で上地を,そして一方には産物
会所
用達杉浦嘉七、山田寿兵衛外1名組合に換地を与えるため、鶴岡
町
の海面5,190余坪,を埋築し、また山上
町
遊女屋営業者が築島の内に移転する計画で、松川弁之助ら組合埋立地の一部を購入したのに,対し、その換地を与えるため、大工
町
地続き大森浜通り畑地約2万坪に、排水溝を掘削して石垣を設け、橋を架設 / 鶴岡
町
海面埋立と蓬莱
町
排水
南茅部町史 下巻
(〔搔き送り船(かきおくりぶね)〕)
南茅部
町
史 下巻 / 尻岸内の
会所
から椴法華へ、そして尾札部の
会所
と引き継ぐ。,椴法華から古部・木直・尾札部の往来をする船便は
会所
(以前は運上屋)の大事な役目であった。 ,寛政三年(一七九一)、菅江真澄はアイヌの舟に搔き送られて、尻岸内(恵山
町
)の運上屋から椴法華へ、そして,神清丸 茂辺地村清治郎船 長永丸 三蔵船 海運丸 長治郎 箱館の海産物商である弁天
町
イ
函館市史 別巻 亀田市編
(海岸町の函館組み込み)
海岸
町
の函館組み込み 『明治六年御達書留』(開拓使函館支庁)によれば、明治六年五月、
町
村大小区画設定,亀田郡亀田村地内 海 岸
町
右ハ函館区内え列候ニ付、以後三大区三小区え組込、取扱向等
町
会所
え申付候間,民 事 役 所 亀 田 村 え 以上によって、亀田村の海岸
町
は,官制により、亀田村はまず海岸
町
を割愛したわけである。 / 海岸
町
の函館組み込み
恵山町史
(7、名主事務所の開設)
恵山
町
史 / 7、名主事務所の開設 名主事務所の開設については、尻岸内
町
史年表に次のように記述されている。 ,この事については記述された文書によるものなのか、明治・大正の頃の聞取りなのか、定かではないが、『
町
村制度考,その前身である根田内の地蔵庵創建時の「棟札」が保存されており、これには、文化8年(1811年)尻岸内御
会所
, 村岡清九良(清九郎)と記され、名主事務所が
会所
(運上屋に併置)内にあったことが確かめられる。
函館市史 通説編 第二巻
(町屋敷経営の変容と職業構成)
町
屋敷経営の変容と職業構成 海岸道路の整備は、弁天
町
より地蔵
町
への交通の便を良くするだけでなく
町
家についても,つまり、それまでは弁天
町
通り、大
町
通りという具合に1本のメイン通りに面して
町
家が形成されていた。,(前掲「維新前
町
村制度考」、万延元年「内澗
町
、
会所
町
、大工
町
、人家并家業書上」北大蔵)。,、借家81パーセント、
会所
町
では地主家持3パーセント、家持20パーセント、借家77パーセント、大工
町
では,
会所
町
、大工
町
、人家并並家業方書上」)。 /
町
屋敷経営の変容と職業構成
恵山町史
([宿泊施設の独立])
恵山
町
史 / [宿泊施設の独立] 当初、この宿泊所は『
会所
』と呼んでいたが、後、旧運上屋(役人が駐在)だけを
会所
と,すなわち、『
会所
』は役人による公的な事務(行政)を扱い、旅人・輸送に関する実質的な業務は、専門業者による
南茅部町史 上巻
(尾札部村役場)
南茅部
町
史 上巻 / 尾札部村役場 明治のはじめ尾札部村用事務所は、飯田屋の住居に棟続きであった旧
会所
の建物があてられた。,支庁まで八里二七
町
五九間、室蘭まで海上六二海里、道庁まで六三里二〇
町
、村内海岸線四里七
町
四九間と記されている,明治三九年四月、二級
町
村制の施行により尾札部村役場として継続して使用された。
椴法華村史
(下海岸地域の浦役場)
民事課 駅逓掛 戸井分署印 浦役場ノ儀當分村
町
事務扱所ヲ以テ代用可致旨第廿二号御達,は浦役場ニ代用扱所之地名詳細取調至急可差出旨、今般甲弐十三号ヲ以御再達ニ相成奉畏候即チ當邨方村用扱所
会所
,開拓権少書記官柳田友郷殿 別記 茅部郡十八大区一小区 小安村十三番地
會所
, 飯田藤吉 同戸井村五十番地
會所
水戸忠吉 同尻岸内村三十八番地,
會所
増輪半兵衛 同椴法華村二十九番地
會所
佐々木弥三郎 右之通取調候所聊相違無御座候也
函館市史 通説編 第二巻
(函館の区入費)
「
町
用掛始番役小使駅場手代月給・薪炭筆墨紙其外
町
会所
諸入用」が当てられていた(「開公」5749)。,「杉野家文書」の明治7年の大区割費徴収資料によると、明治6年の区入費は2636円60銭9厘で「
町
会所
駅場
町
用掛月給
町
会所
取建拝借金納,徴収に先立って、
町
会所
から「大区割計算表」が市民に示され、「細目承知イタシ度モノハ
町
会所
ヘ罷出帳簿閲覧可致,この表は「払之部」として
町
会所
経費、
町
用掛月俸、駅場入費、戸籍費、道路掃除入費、消防費等が載せられ、「,「払之部」の費目については、明治10年末の
町
会所
経理調査の後(11年1月より6月の計算表から)、
町
会所
経費
戸井町史
(一、初代戸長 飯田東一郎)
戸井
町
史 / 初代戸長 飯田東一郎 飯田東一郎 明治十年まで、小安村、戸井村が独立の村であり、それぞれ、
会所
,小安村と戸井村を統治する戸長役場が置かれるようになり「戸井村外一村戸長役場」という長い名の役場が、戸井
町
館鼻,の旧
会所
の建物の中に設置された。 ,飯田東一郎は
会所
時代から戸長役場時代に切り替った時の初代戸長として、二十五年後に戸井村と小安村の合併の,草創期の戸井
町
の教育の基盤を築いたのは実に飯田東一郎であり、百年後の今日の戸井
町
の発展は飯田戸長の力に
函館市史 通説編 第一巻
(市街の拡張)
役所正門から海岸に向かって広い坂道が通り、貿易港としての表玄関である運上所、産物
会所
および交易
会所
につき,それを中心に海岸に沿って西に弁天
町
、大
町
、東に内澗
町
、地蔵
町
が一列に並んでいた。,弁天
町
は箱館湾を外海と分かつ岬の付近に展開し、外側に山背泊および鰪澗などの漁師、水夫らが住む場末
町
に続,それに続く大
町
は産物
会所
、交易
会所
から、内陸の旅人、商品の出入を取締まる沖ノ口役所および問屋、小宿、諸商人,内澗
町
に続く地蔵
町
は弁天
町
に対して
町
の内陸寄りのはずれに位し、小商人、蝦夷地出稼ぎを業とする場所出稼人
函館市史 通説編 第二巻
(郵便役所設置前の函館事情)
ヘ被差越候ニ付、右
町
会所
ヘ相達申候 但シ夜八ツ時過出ス 十二月五日 江差本陣荒井郁之助へ榎本釜次郎,ヨリ御用状一封差越候ニ付、
町
会所
へ差出 十二月十五日 テユス方ヨリ松平太郎殿封書二通差越、受取差出、,運上所が脱走軍首脳から逓送を依頼された手紙は、
町
会所
を通じて(
町
会所
からは請書を取る)且つ遠隔地は郷村継,これも手紙は
町
会所
を通じて相手方へ届けている。,たまたま脱走軍関係の史料でしか確認できなかったが、為政者の信書は
町
会所
および郷村継ぎの範囲では、
町
村役人
函館市史 通説編 第二巻
(書店魁文社の開店と新聞縦覧所)
#160; この新聞縦覧所の運営は、北海道の書店の先駆けともいうべき書店「魁文社」の開店により、
町
会所
,そして同時に、既設の
町
会所
管理の新聞縦覧所はこの魁文社内の新聞縦覧所へ合併され、施設の充実が図られたのである,ヲ備ひ一層展観の便ニ供ス」(「官許新聞誌縦覧書移転御触書」、( )内引用者)という御触書が
町
会所
から出,さらに翌9年には、施設の公共性より従来は
町
会所
が負担していた新聞の購入代金を、経営のめどが立ったとして,魁文社が総てを負担することになった(明治9年「
町
会所
金穀出納評議留」道文蔵)。
恵山町史
(3、尻岸内村の馬)
恵山
町
史 / 民話(第1集)より 恵山
町
ふるさと民話第1集(平成2年・恵山
町
ふるさと民話の会編)の『外人と村役人,の問答』には、尻岸内村の
会所
に馬を借りにきた3人のアメリカ人(ペリーの一行)と、村役の人々のやり取りが,三人のアメリカ人が、突然、尻岸内村の
会所
にやってきました。,その内に、もう一人のアメリカ人が、突然、
会所
前の地面に四つんばいになりました。,この話から、駅馬・馬引が準備されていたが、場所は
会所
と離れた所に設けられていたものと思われる。
函館市史 通説編 第二巻
(町区総代人制の導入)
町
区総代人制の導入
町
会所
蓄積金の経理の調査を担当した調査委員たちは、区戸長のみに
町
政を委ねていると,
町
総代人は1
町
(場合によって数
町
連合)から2名ずつ選出され、小区総代人は
町
総代人の互選により選出され、,函館の公共事業を協議できる体制の誕生ということで、函館
町
会所
は迅速に対応した。, 表2-43
町
区総代人名簿(明治11年8月) 小区名 選出
町
名
町
総代人名(○,
会所
○ 小林重吉 ○ 中村兵右衛門 中村右三郎 5小区 尻沢辺 住吉 /
町
区総代人制の導入
函館市史 通説編 第二巻
(町用扱所)
町
用扱所 当初、大区の事務を執る所として「
町
用扱所」を各大区に設置することを企画した。,明治6年4月16日に開拓使函館支庁の会議所(第1節参照)へ提出された議案中に「
町
用取扱所三大区ニ設ルノ,これとは別に、開拓大主典有竹裕と邏卒権検官山内久内が「答議」を提出、
町
用扱所の必要性を述べているが、有竹, 一 三大区中ヘ一ヶ所宛
町
用扱所ヲ置ベキ事 但東京ノ例ニ倣フテ邏卒屯所ニ接近スベシ 一,しかし函館では、開拓使官吏が意図した
町
用扱所は設けられず、市民の願伺届等の窓口は、
町
会所
対応のままであった /
町
用扱所
函館市史 通説編 第二巻
(設置の理由)
ついでこの
会所
を江戸、大阪、兵庫、下関、敦賀等に置いて、蝦夷地より廻送する荷物は
会所
の周旋を以て売却し,、また各地商人より蝦夷地物産元仕入として
会所
に供托する資金は、これを箱館
会所
に廻送して請負人、問屋、出稼人等,、箱館生産
会所
と改称された。,東京を始め諸国枢要の地に
会所
を置いた。,(靱北通3丁目)、函館(
会所
町
)の3か所に貸付
会所
を設置し、北海道税金、定額金、発行証券等支消の余りを
函館市史 通説編 第二巻
(富岡学校予科併設)
しかしその後、
会所
町
の官舎を利用して小学校(
会所
学校)を開校することとなり、富岡学校予科生もその小学校,等出仕 城谷成器 中里方精 坂本重勝 吉田元利 高橋済一 菊地卓平 鈴木重直 和田音次郎
会所
学校,
会所
学校
会所
学校
会所
学校
会所
学校 松蔭学校(英) 松蔭学校(数) 松蔭学校(数)
南茅部町史 上巻
(臼尻村役場)
南茅部
町
史 上巻 / 臼尻村のほか一カ村戸長役場は、明治一三年開設当時は、臼尻六〇番地(昭和八年以後、臼尻郵便局)にあった臼尻
会所
,明治三九年四月、二級
町
村制が施行されると臼尻村役場に引き継がれ、昭和八年改築までながく使われた。
南茅部町史 下巻
(尾札部空襲)
南茅部
町
史 下巻 / 尾札部空襲 尾札部船入澗に停泊中の漁業
会所
属千鳥丸が被爆、船員の堂前幸作(明治三九生、石川県小木
町
出身
椴法華村史
(オンコの木沢遺跡)
市立函館博物館所蔵 B B 縄文後期 椴法華遺跡出土 椴法華村教育委員
会所
蔵 C,C 縄文晩期 椴法華村教育委員
会所
蔵 D-1 D-1 縄文晩期 椴法華遺跡出土 椴法華村教育委員
会所
蔵,D-2 D-2、D-3 続縄文 恵山式土器、浜
町
砂丘遺跡出土 椴法華村教育委員
会所
蔵,D-3 E E 縄文晩期初め、椴法華遺跡 椴法華村教育委員
会所
蔵 [図],G 縄文晩期 椴法華遺跡 椴法華村教育委員
会所
蔵 [図]
恵山町史
(『福島屋文書』「取扱向大意心得帳」万延2年(1861)より (市立函館図書館所蔵))
恵山
町
史 / 箱館開港以来、外国人の需要により、箱館奉行所では近在の村々に五升芋の作付けを奨励し、箱館産物
会所
で買い,産物
会所
の記録(福島屋文書)によれば、万延二年の買い上げ見込みは凡そ八万俵である。,食料用三万俵、茂辺地村での焼酎味醂製造用一万俵、亀田村の水車場での澱粉製造に三万俵、尻沢辺村(函館市住吉
町
)
南茅部町史 上巻
([人別帳])
南茅部
町
史 上巻 / [人別帳] 明治の戸籍法以前、蝦夷地でも人別帳(にんべつちょう)、人別調(しら)べといって村や
町
の在住者,人別は、領主の達しによって家族しらべや信仰のしらべなどもされたが、多くは運上屋(
会所
)や神社、寺院が担当
戸井町史
((2)池田家(館町))
戸井
町
史 / (2)池田家(館
町
) ① 釧路国厚岸郡厚岸
町
小鰊搾粕 ,北海道亀田郡戸井村 池 田 栄 吉 北海道厚岸郡厚岸
町
役場庁舎新築費,北海道亀田郡戸井村 池 田 栄 吉 北海道厚岸郡厚岸
町
第三部消防組器械蔵置所壱棟並器具器械一式有志共同寄附候段奇特, 池 田 栄 吉 一金 拾円 本会ノ趣旨ヲ翼賛シ前記金員ヲ寄贈セラレタルニ付本
会所
定 / (2)池田家(館
町
)
恵山町史
(3、運上屋)
恵山
町
史 / 後に藩の役人の事務所も兼ね
会所
(現在の
町
役場)と改称され、文字通りその「場所」の経済と行政の拠点となった
函館市史 通説編 第二巻
(機能と業務形態)
機能と業務形態 「貸付
会所
仮規則」の最初の条項に、貸付金は北海道地方から輸出する産物ならびに北海道地方,貸付
会所
定款によると貸付
会所
の組織は、役員の最高が頭取で、ついで副頭取が検査、出納の2課を分掌し、支配人,貸付は一切を東京
会所
が管理し、役員を派遣して大阪、函館両所の事務を分掌せしめる。,の純益を積立てたものを第3類とした(貸付
会所
定款第14条)。,〔 五年〕 函館
会所
町
に貸付
会所
を設けた。
函館市史 通説編 第二巻
(大区扱所・小区扱所)
この大区扱所が、翌10年5月に「従来各
町
ニ取設有之大区扱所及ヒ
会所
等(函館
町
会所
ヲ除)ハ、自今開拓使第何大区区務所,しかし区務所となっても大区事務が函館
町
会所
において取扱われることには変わりなく、形式的には3つの区務所,が
町
会所
内という体制であった。,「小区扱所」は、小区内限りの事務を取扱う
町
用掛の事務所といえるものである。,この小区扱所には、事務担当責任者である
町
用掛1人と書記小使が適宜配置され、その小区の諸務を担当したのである
恵山町史
([駅逓制度のはじまり])
恵山
町
史 / すなわち、前松前時代に漁業経営の拠点であった運上屋を、
会所
と改め行政機関としての権力を強め、漁業経営を,支配下に置くとともに、場所請負人の便宜的な業務であった駅逓も、
会所
の仕事・官営とした。
函館市史 通説編 第二巻
(小学教科伝習所付属小学校)
小学教科伝習所附属小学校 北大図書館蔵北方資料室蔵 入学希望者が跡を断たない
会所
学校,は、9年に隣接の元
町
学校が廃されるとその校舎も使用して急場をしのいでいたが、11年4月、類焼した小学教科伝習所,そこで道路を挟んだ隣地(元
町
99)に新たに小学校を新設し、
会所
学校の児童を移すことになった。,この時期すでに師範学校の旨趣に基づき開拓使立の小学教科伝習所が開設していたこともあり、新設の
会所
学校を, 昨日は今度新築の元
町
伝習所付属小学校の開校式にてありしが、抑も該校の普請は洋風の製造
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