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函館市史 通説編 第一巻
(町役所・町会所)
町
役
所
・
町
会
所
箱館もしだいに戸口の増加に従い、
町
政を司る
所
として
町
役
所
が置かれるようになった。,
町
役
所
も後には
町
会
所
と改められ、その
役
人は
町
年寄・名主、および
町
代といい、その下に組合頭があって5人組,前の松前藩の時代には名主を主席とし、
町
年寄はその下に立ったが、幕府直轄時代からこれが転倒して、
町
年寄を /
町
役
所
・
町
会
所
函館市史 通説編 第一巻
(町役所の事務)
町
役
所
の事務
町
役
所
には、
町
年寄、名主は毎日出勤し、
町
代は用事のある時だけ出勤して事務を処理した。, 一 法令の伝達 奉行
所
から布告される諸規則は、
町
役
所
から
町
代、
町
代から組合頭に下付し,
町
役
所
から発する触書もまた同じである。,地
所
に関しては
町
役
所
に沽券台帳を備えて置き、異動あるごとにこれを加除する。,一 家屋新築の検分 住民が家屋を建築する場合は、先ず土台を据えるに当り
町
役
所
に届出させ、
町
役
人並びに隣家 /
町
役
所
の事務
函館市史 別巻 亀田市編
(郡役所と町村名の改定)
郡
役
所
と
町
村名の改定 明治十一年七月二十二日大政官により「郡区
町
村編成法」が制定され、これに基づき明治十二年七月大小区画,が廃止となり、新たに郡区
町
村制が発足することになった。,すなわち明治十二年七月亀田上磯郡
役
所
が亀田村に、茅部山越郡
役
所
が森村に設置される運びとなり、両
所
共に明治十三年一月,その後明治二十一年三月の行政改革により、前記四郡
役
所
を合併し、その
役
所
を七飯村に設置して亀田外三郡
役
所
,なお、郡
役
所
は明治三十年十一月廃止され、同月郡
役
所
の業務を引き継ぐ亀田支庁が七飯村に設置され、更に明治三十二年十月 / 郡
役
所
と
町
村名の改定
恵山町史
([亀田郡役所])
恵山
町
史 / 函館区(函館区
役
所
、
所
在地−函館、区長−龍岡信熊) 松前郡(松前郡
役
所
、
所
在地−福山、郡長−山内久内,) 亀田・上磯郡(亀田上磯郡
役
所
、
所
在地−亀田、郡長−広田千秋) 茅部・山越郡(茅部山越郡
役
所
,、
所
在地−森、郡長−中村修) ・明治21年(1888年)3月、茅部・山越郡
役
所
を亀田・上磯郡
役
所
に合併,し亀田外3郡
役
所
と改称し郡長に茅部・山越郡長の中村修を転補、4月1日に郡
役
所
を七飯村に開庁する。,、
所
在地が亀田・七飯
町
であったので特に不便はなかった。 / [亀田郡
役
所
]
恵山町史
(〈町長・助役・収入役〉)
恵山
町
史 / 〈
町
長・助
役
・収入
役
〉 第3代
町
長 野呂桂司(任昭和56年7月6日~退昭和58年2月15日) 3,私のいる
町
役
場も、
町
民のために
町
民にサービスする“プロ”が集まって仕事をしている
所
だと思っている。,戦時中の昭和16年、尻岸内村立古武井尋常高等小学校を卒業、昭和18年3月から2年間、日本製鋼室蘭製鉄
所
に,33年4月北海道立自治講習
所
で1年間の研修を積み、翌34年3月修了、同年4月1日には書記に任じられ以降,まれ、昭和14年3月尻岸内尋常高等小学校を卒業、翌15年札幌鉄道局函館駅勤務、翌16年3月札幌鉄道教習
所
電信科入
所
/ 〈
町
長・助
役
・収入
役
〉
恵山町史
(〈町長・助役・収入役〉)
恵山
町
史 / 〈
町
長・助
役
・収入
役
〉 第5代
町
長 山田 忠昭(任平成7年4月24日~退14年4月25日) 5代目
町
長,この期間、57年より3か年計画で
町
内4漁協管轄の浅海漁場調査を実施したが、これは道立函館水産試験場・渡島南部水産技術普及指導
所
,・
町
内4漁協・恵山
町
水産課が合同で行った組織的・専門的な調査で、この詳細な報告と
所
見は調査に参加した経験,広報「えさん」2002年8月号より 「……さて、今定例会に当たって、
町
政執行について私の
所
信を申し,尻岸内村事務吏員となったのは昭和36年3月1日、尻岸内村国保第2直営診療
所
が振出しである。 / 〈
町
長・助
役
・収入
役
〉
恵山町史
(〈村長・町長・助役・収入役〉)
恵山
町
史 / 大正9年、
役
場吏員をめざし渡島斯民会主催の
町
村吏員養成講習
所
で学び、大正10年6月尻岸内村
役
場に勤務する,として
役
場入り、その後北海道自治講習
所
で研修・修了後、教育・兵事・戸籍の主任を務め、昭和13年から1年間,翌4月、渡辺文作とともに村長選に立候補、互いに
所
信と抱負を
町
民に訴え選挙に臨んだが、三好の30余年にわたる,しながらも、健康に優れなかった伊藤を支え援け、戦後の
所
得税(国税)納税促進のための調査協力機構の発足整備,太平洋戦争が熾烈を極めた昭和18年1月から、民間防空・函館防空監視隊大澗監視
所
副哨長、後哨長として哨員 / 〈村長・
町
長・助
役
・収入
役
〉
椴法華村史
(郡役所の設置)
郡
役
所
の設置 明治十一年七月二十二日付太政官布告により「郡区
町
村編制法」が制定され、北海道でもこれを,受けて明治十二年七月に大小区制が廃止され、代って郡区
町
村制が施行されることになった。 ,すなわち明治十二年七月茅部山越郡
役
所
は、森村に、亀田上磯郡
役
所
は亀田村に開設されることになり、数ヵ月の,なお明治三十年十一月に廃止された亀田外三郡
役
所
を引き継ぐ
役
所
として、同月亀田支庁が七飯村に設置され、更,亀田上磯郡
役
所
印(明治13年) 亀田上磯茅部郡
役
所
印(明治21年) / 郡
役
所
の設置
恵山町史
([郡区町村制と戸長役場])
恵山
町
史 / [郡区
町
村制と戸長
役
場] 郡区
町
村編制法の制定 明治5年の戸籍編成法に伴う大小区画制(渡島国4郡,さらに、津軽・福島郡
役
所
(2郡)、桧山・爾志郡
役
所
(2郡)、久遠郡
役
所
(4郡)、寿都郡
役
所
(4郡)を設置,<郡長の職務> 三新法『郡区
町
村編制法』の郡は、行政区画として置かれたもので、郡
役
所
は開拓使の下部行政機関,戸長
役
場の開設 明治12年7月23日の開拓使長官黒田清隆の布達により、
町
村に新たに戸長
役
場が設置され,関係
町
村史の記述と
町
所
有の書類の精査、併せて当時の函館新聞の記事等を参考に補遺し記すこととする。 / [郡区
町
村制と戸長
役
場]
函館市史 通説編 第二巻
(御役所の建設)
御
役
所
の建設 箱館御
役
所
の建設工事は、3つの五稜郭関係工事のうち最も遅く着手された。,御
役
所
は五稜郭内に建設されるものであり、五稜郭それ自体の築造工事が御
役
所
の建設に支障のない程度まで進捗,・鍛冶方・石方請負人中川(伊勢屋)傳蔵(江戸浅草橋場
町
住・家持)に行なわせ、「入札之模様ニ寄リ、請負等,安政3年に予定した御
役
所
・
役
宅等の普請費は、2万5000両であったから、御
役
所
の普請費のみで、上記の予算,なお、先にも記したように、工事中は「亀田御
役
所
」と称したが、竣工後の新
役
所
は、正式には「箱館御
役
所
」と / 御
役
所
の建設
函館市史 通説編 第二巻
(函館区役所の開庁)
を持たないままの郡区
町
村編制法の適用は、郡区
役
所
を官治的な地方行政区画維持機関としての面ばかりが目立つ,
町
政を担当してきた
町
会
所
もその業務を区
役
所
に引き継ぐこととなった。,、大小区の廃止で区務
所
の廃止が確認できるが、
町
会
所
を廃止したという布達はなく、
町
会
所
という名称はしばらく,次いで8月18日、区
役
所
開庁までは区務
所
が元区務
所
の名で事務取扱いを継続することが達せられ(『郡区改正,明治13年1月5日、函館区
役
所
の実務が開始され区務
所
の事務を引継いだ。 / 函館区
役
所
の開庁
恵山町史
(2、2級町村制発足時(明治年間)の尻岸内村役場三役)
恵山
町
史 / 1909年)7月30日、尻岸内村長を命ぜられ赴任した堀は、鹿児島県旧薩摩藩士族の出で、振出しは東京市浅草区
役
所
, 武石が上席書記に任命されたのは明治39年4月1日であるが、明治37年(1904年)5月1日、函館区
役
所
,武石は秋田県大館の士族出身、秋田郡
役
所
、函館病院・函館支庁・函館区
役
所
に勤務、行政職としては豊富な経験,1901年)江良
町
(現松前
町
)戸長
役
場を振出しに根部田村(現松前
町
)戸長
役
場・福山
町
(現松前
町
)
役
場を,明治21年(1888年)教壇を去り下十川登記
所
を経て南津軽郡
役
所
に奉職する。 / 2、2級
町
村制発足時(明治年間)の尻岸内村
役
場三
役
函館市史 通説編 第一巻
(町役人手当)
町
役
人手当
町
年寄の手当は享和3年1か年3人扶持に定められ、名主は文化7年の請取書によれば、1か年手当金,しかし
町
代の手当は不明である。,このほかに、住民から盆と暮の2期に寄贈する樽代、地
所
売買ならびに百姓入りの際当人から寄贈する謝礼などがあり /
町
役
人手当
函館市史 通説編 第二巻
(役所・役宅の新築・移転と防備)
役
所
・
役
宅の新築・移転と防備 箱館奉行が再置されるや、箱館御
役
所
及び支配向
役
宅の増改築ないしは新築・,(松前藩の箱館奉行詰
役
所
で、箱館及び箱館付在々の支配と箱館沖の口番
所
支配の拠点)、及び旧家臣
役
宅を増改築,堀の見解の要点は、(1)箱館は、「孤山之麓ニ市廛稠密ニ櫛比致し、同
所
町
外れ桝形と申
所
より亀田村迄ニ沙地凡二十
町
程有,」で「死地同様之場
所
」故、「亀田村江別ニ一郭を御設ケ、築地柵門等御取建、郭内へ御
役
所
并地
役
住居向等取建,」とし、「御
役
所
四方土壘」を設け、「万一之節ハ、筒配リ」をし、「右一郭内江御
役
所
并支配向御
役
宅等」を建 /
役
所
・
役
宅の新築・移転と防備
函館市史 通説編 第二巻
(函館郵便役所の設置)
函館郵便
役
所
の設置 明治4年8月の通達で、郵便
役
所
開設地へ打合せのための官員派遣を決めていた駅逓寮は,函館に着いた彼らは、郵便
役
所
庁舎の選定、その庁舎勤務の駅逓寮職員の人選、函館出張開拓使庁内に郵便事務担当者,郵便
役
所
庁舎は「郵便
役
所
御取設ケ相成場
所
差向無之候ニ付、当分仮
役
所
ノ積ヲ以海関
所
ノ内間仕切イタシ郵便
役
所
御取開,ノ都合取計申度」ということに落ち着き、海関
所
の一隅(現大
町
13)が仮郵便
役
所
となり、6月22日引渡された,毎月五六度宛往復ノ郵便相開、右往還筋近傍ノ市村ヘモ夫々往復相成候条、従前ノ規則相心得、信書等各地郵便
役
所
及 / 函館郵便
役
所
の設置
函館市史 通説編 第二巻
(北海道庁函館支庁函館区役所から北海道庁函館区役所へ)
北海道庁函館支庁函館区
役
所
から北海道庁函館区
役
所
へ 函館区
役
所
も北海道庁が設置された時、函館県函館区
役
所
,この時、箱館奉行時代以来函館の
役
所
が直轄区域としてきたところは、函館を除く亀田郡と上磯郡が1つの郡
役
所
,(亀田郡外1郡
役
所
)、茅部郡と山越郡が1つの郡
役
所
(茅部郡外1郡
役
所
)担当となっていたが、21年3月3,日には全域を1つの郡
役
所
(亀田外3郡
役
所
…郡
役
所
は七飯村に置かれる)が担当することとなった。,、出納科、勧業科、庶務科の5科のままで、函館県時代に船見
町
に移転していた庁舎を元
町
の函館支庁跡に移して / 北海道庁函館支庁函館区
役
所
から北海道庁函館区
役
所
へ
戸井町史
((3)戸井村を訪れた亀田郡役所、函館支庁の主な役人)
戸井
町
史 / (3)戸井村を訪れた亀田郡
役
所
、函館支庁の主な
役
人 (3)戸井村を訪れた亀田郡
役
所
、函館支庁の主な
役
人 / (3)戸井村を訪れた亀田郡
役
所
、函館支庁の主な
役
人
函館市史 通説編 第二巻
(町会所開設の新聞縦覧所)
町
会
所
開設の新聞縦覧
所
明治の初期、新聞はどのようにして一般の人々へ普及していったのだろうか。,施設は各地に造られるようになり新聞普及の大きな
役
割を担った。,して進んで新聞を購読してもらい、それによって函館の人々の開明化を図っていこうという意図のもとに、6年
町
会
所
,こうして翌月19日には、3坪ほどの小さな新聞縦覧
所
が人通りの多い内澗
町
の基坂近くに開設されたのである(,こうして函館でもそれまでは
役
人をはじめとする極一部の人たちだけの読み物でしかなかった新聞が、縦覧
所
を媒介 /
町
会
所
開設の新聞縦覧
所
函館市史 通説編 第二巻
(町会所蓄積金)
町
会
所
蓄積金
町
会
所
には
町
会
所
が管理運用していた
町
会
所
蓄積金と呼ばれる市民共有の財産があった。,
町
役
所
触書中ニ、与内金・四半敷(
役
銭)ハ是迄ノ通上納可致トアリ」とあるので、19世紀初頭幕府が蝦夷地の,また同書には古老談として「往時東蝦夷地請負人ヨリ運上金高ノ二歩方ヲ取立、之ヲ与内ト称シ、
町
役
所
ニテ管守,この
町
会
所
蓄積金のほかに
町
会
所
には備蓄米が存在した。,このほか
町
会
所
は
町
会
所
持ちの共有地を
所
有し、地代金家賃が蓄積されていた。 /
町
会
所
蓄積金
南茅部町史 上巻
(村役人)
南茅部
町
史 上巻 / 村
役
人 村並による自治は、村
役
人によってすすめられた。, 熊泊 磯谷 常路 嘉永七年 六ケ場
所
村
役
人, 頭取 文 作 小頭 太郎兵衛 野田追 小頭 吉兵衛門
町
内各神社,万延二年の小川文書に、六箇場
所
宿 市五郎とある。,六箇場
所
の世話掛的
役
目としての六箇場
所
宿が、箱館におかれていた記録は他にもある。 / 村
役
人
南茅部町史 上巻
(尾札部村役場)
南茅部
町
史 上巻 / 尾札部村
役
場 明治のはじめ尾札部村用事務
所
は、飯田屋の住居に棟続きであった旧会
所
の建物があてられた。,明治二〇年ごろ字尾札部六五番地(四九九)に尾札部村戸長
役
場を建築して移転した。 ,支庁まで八里二七
町
五九間、室蘭まで海上六二海里、道庁まで六三里二〇
町
、村内海岸線四里七
町
四九間と記されている,明治三九年四月、二級
町
村制の施行により尾札部村
役
場として継続して使用された。 / 尾札部村
役
場
南茅部町史 上巻
(臼尻村役場)
南茅部
町
史 上巻 / 臼尻村
役
場 臼尻村のほか一カ村戸長
役
場は、明治一三年開設当時は、臼尻六〇番地(昭和八年以後、臼尻郵便局,)にあった臼尻会
所
の建物があてられた。 ,のち村用事務
所
と呼ばれ、昭和のはじめまで漁業組合の事務
所
があった。 ,明治二四年、臼尻二九四番地、現臼尻一一九番地(昭和五〇年以後の産業会館のところ)に位置を移し、戸長
役
場,明治三九年四月、二級
町
村制が施行されると臼尻村
役
場に引き継がれ、昭和八年改築までながく使われた。 / 臼尻村
役
場
函館市史 通説編 第二巻
(郵便役所設置前の函館事情)
郵便
役
所
設置前の函館事情 幕末期箱館奉行は江戸との連絡のために定期飛脚便(定便という)を月数度往復させていたが,十一月十五日 西洋形ノ船見懸次第可申旨ノ触書、市在三通
町
役
人ヘ相渡 十一月十六日 奉行衆ヨリ御用状亀田五稜郭内大鳥圭介,10月に箱館を制圧した旧幕府脱走軍の運上
所
掛の事務日誌で、箱館府諸
役
人は青森へ逃れた後引き続いて書き継,運上
所
が脱走軍首脳から逓送を依頼された手紙は、
町
会
所
を通じて(
町
会
所
からは請書を取る)且つ遠隔地は郷村継,たまたま脱走軍関係の史料でしか確認できなかったが、為政者の信書は
町
会
所
および郷村継ぎの範囲では、
町
村
役
人 / 郵便
役
所
設置前の函館事情
戸井町史
(三、戸長役場時代)
戸井
町
史 / 明治十二年(一八七九)七月大小区画制を廃止し、郡区
町
村を編成し、郡
役
所
を石狩外十八
所
におき、函館、札幌,を区とし、それぞれ区
役
所
をおいた。 ,明治二十一年(一八八八)四月一日、茅部、山越郡
役
所
を廃止し、亀田外三郡
役
所
を七飯村においた。,戸井村に郡
役
所
の出張
所
がおかれた。この年桜井郁郎が四代戸長に任命された。 ,明治三十五年(一九〇二)二級
町
村制が公布された。 / 三、戸長
役
場時代
南茅部町史 上巻
([戸長役場設置])
南茅部
町
史 上巻 / [戸長
役
場設置] 明治一二年七月、太政官により郡区
町
民編成法が制定され、北海道大小区画を廃して郡区
町
村制,このときをもって各
町
村は、
町
村の開基としているものが多い。 ,尾札部村と同様、郡
役
所
通達や届出記録については未確認である。 ,北海道
所
蔵 函館県「履歴録」イノ部(明治一八年) 飯田与五左衛門 尾札部村九五番地 ,昭和九年一月から臼尻郵便局のところ(旧会
所
、村用
役
所
、村立病院、部落会事務
所
、臼尻漁業組合のあった位置 / [戸長
役
場設置]
南茅部町史 上巻
(浦役場)
南茅部
町
史 上巻 / 浦
役
場 浦
役
場は戸長
役
場に置かれた。浦
役
人は戸長と吏員が兼務した。 ,浦
役
場業務は船舶海事に関する一切の事務をとる
役
所
であった。 , 難破浦証文の発行付与 船舶の出入の許可 水産物の検査・売買 明治一五年「茅部郡
役
所
伺届,茅部郡
役
所
伺届 (北海道
所
蔵) 地第壱号 浦
役
人進退之儀上申,
所
轄内浦
役
場設置并浦
役
人兼務之儀従前開拓使ニ於テ施行ノ振々ニ準拠シ各戸長
役
場ヲ以テ代用別紙各戸長等 / 浦
役
場
恵山町史
(歴代の上席書記・助役)
恵山
町
史 / は逓信業務を志して、明治40年通信伝習生養成
所
へ入
所
したが卒業後、大正3年瀬棚郡利別村
役
場に奉職、同4,になることをめざし、大正7年「
町
村吏員養成
所
」に入
所
して実務学科を修得した人である。,2級
町
村の区別が撤廃され、2級
町
村の「上席書記」の制度が廃止となり、これまでの1級
町
村と同様「助
役
」が,杉谷は茅部郡尾札部村の出身、
役
場職員を志し大正8年「
町
村吏員養成
所
」を卒業、郷里の尾札部村
役
場に奉職、,前田は大正9年「
町
村吏員養成
所
」を卒業、同10年6月郷里尻岸内
役
場に奉職、戸籍・兵事・教育・庶務等の事務 / 歴代の上席書記・助
役
南茅部町史 下巻
(季節保育所)
南茅部
町
史 下巻 / 一三〇名余りの幼児を三名の未資格の保母さんと、婦人会の
役
員の奉仕での運営である。 ,子ども達に一番人気のあったのは、婦人会の
役
員で毎日おやつを袋につめて背負って来るおやつのおばさん佐藤縫子,昭和四五年、古部児童館が落成し、春から保育
所
が
町
内会(会長前野松蔵)、婦人会(会長山川ヨシエ)による自主運営,保母も有資格者をという声が高まり、婦人会だけの力による保育
所
の運営は
町
内会の協力、むしろ
町
内会運営への,
町
は施設の整備、保育料の
町
内同一額、有資格保母の確保などを計画的にとりあげることになった。 / 季節保育
所
函館市史 通説編 第二巻
(町会所蓄積金から函館区共有金へ)
次いで明治13年1月、函館区
役
所
が誕生すると、区
役
所
は
町
会
所
蓄積金の出納事務を
町
区総代人の手に委ね、区
役
所
,
町
区総代人は協議の結果、共有物取扱人を置くことに決し、区
役
所
はこれを受入れ取扱人として退任した前戸長伊藤重兵衛,出納表に「(出納内容を)詳細閲覧致族ハ函館区
役
所
内
町
会
所
ヘ出頭帳簿閲覧」とある通り、
町
会
所
は区
役
所
内に,出されたこの計算表は「細目承知致度向ハ
町
会
所
ヘ出頭帳簿閲覧」とあり、区務
所
が
町
会
所
内に置かれる形をとっていたのが,、逆に区
役
所
内に
町
会
所
が置かれたのである。 /
町
会
所
蓄積金から函館区共有金へ
函館市史 通説編 第二巻
(役所の設置法令と実務の実体)
役
所
の設置法令と実務の実体 表1-2 「政体書」体制首脳表 太政官 氏名 ,日本近代史辞典』より作成 これらの混乱は、中央における法的な措置と、箱館で実際に
役
所
, 以上 箱館府
町
会
所
下湯川村より,五稜郭と唱へ候様
町
役
共へ申送候由」(函館戦史料「胸中記」『函館毎日新聞』)と脱走軍が「裁判
所
」を「五稜郭,、裁判
所
、議事局、庶務局、刑法局、外国局、会計局、
町
会
所
、場
所
御
役
所
、病院、学校等が上げられ、真っ先に /
役
所
の設置法令と実務の実体
戸井町史
(二、会所時代)
戸井
町
史 / 会
所
時代は寛政十一年(一七九九)から明治十一年(一八七八)に戸長
役
場がおかれるまでの間で、約八十年間続,戸井会
所
跡(〓谷藤家のところ) 会
所
時代の村
役
人は嘉永時代までは頭取、小頭、百姓代などと称していたが,会
所
時代の戸井の村
役
人を神社の棟札で調べて見ると、 ○文政六年(一八二三)戸井村頭取・石田半治郎,記録のない
町
村の歴史を調べる根本資料の一つは神社の棟札である。 ,会
所
時代の村
役
人は、松前藩や幕府の指示、命令を受けてもろもろの村行政を司(つかさ)どっていたのである。 / 二、会
所
時代
南茅部町史 上巻
(米田町長略歴)
南茅部
町
史 上巻 / 同四月広島市
役
所
勤務。 ,昭和一二年六月函館市
役
所
勤務、一六年七月北海道漁業協同組合連合会勤務。 ,一九年道漁連日高支
所
長、二四年道漁連函館支
所
長、二八年道漁連札幌本
所
事業部長を歴任、三一年四月に北海道漁業公社函館支社次長,三四年公社系列順洋漁業株式会社設立、取締
役
就任。 ,南茅部
町
役
場 本庁 / 米田
町
長略歴
南茅部町史 上巻
(町村制度の沿革)
南茅部
町
史 上巻 / 一〇月二五日 榎本軍の侵攻にあい青森へ移転 明治 二年 五月一九日 戦争終結により
役
所
,が発足 した 渡島は亀田・上磯郡
役
所
を亀田村に,、茅部山越郡
役
所
を森村に設置した 同年開拓使達をもって戸長職務の概目が定められ,官選による戸長制度が確立され た 明治一三年 一月 茅部山越郡
役
所
開庁,ヲ同郡森ニ置ク 三月 三日 行政改革ニヨリ亀田・上磯・茅部・山越四郡
役
所
ヲ合併シ、
役
所
/
町
村制度の沿革
恵山町史
(大正期の歴代上席書記(助役))
恵山
町
史 / として赴任した渋谷勘太郎は、青森県西津軽郡柏村の出身、日清戦争に従軍し除隊後、明治31年2月西津軽郡
役
所
,に奉職、同34年5月木造
町
助
役
に当選したが、翌35年7月退職、日露戦争に従軍第3軍に加わり大陸に転戦、,のあった渋谷上席書記の後を受けて赴任した細田甚之助は秋田県山本郡藤琴村出身、明治31年6月根室地方裁判
所
に,勤務、同35年2月同裁判
所
を辞し、上川郡熊牛村外四ケ村戸長
役
場に奉職、以来、釧路
町
・亀田村・砂原村・鹿部村,嶋谷藤吉書記(大正13年7月31日~昭和3年4月11日) 嶋谷藤吉は留萌郡留萌
町
の出身、大正2年12 / 大正期の歴代上席書記(助
役
)
恵山町史
([役場庁舎の移転・新築])
恵山
町
史 / [
役
場庁舎の移転・新築] 昭和の世となり、第2次
町
村制度の改正と同じ年、
役
場にとっての一大事業であり,当時の
役
場庁舎は、明治36年(1903年)、戸長
役
場時代に尻岸内村武井泊・現在の字豊浦から古武井・現在,
所
有者については明記されていないが、当時、開山した古武井硫黄鉱山(山懸か押野)のものと推察する。,の山田長平より同人の
所
有地『字古武井一五七番地の一及び二の三百四十九坪』の寄付申し出があったことを村会,名主・年寄・百姓代時代の
役
所
「会
所
」跡に残る“いちい”の老木 明治36年(1903)戸長
役
場庁舎 / [
役
場庁舎の移転・新築]
恵山町史
(大正期の歴代収入役(含む代理者))
恵山
町
史 / 明治36年4月知内巡査駐在
所
勤務を最後に退職し松前支庁第2課地理係に勤務、同年9月松前郡大沢村外三ケ村戸長
役
場,はじめ郵政職員を目指し明治41年通信伝習生養成
所
へ入
所
修了後、椴法華・古武井郵便局・黒松内駅電信掛・尾札部郵便局勤務,
町
村ニ
町
村長・書記・収入
役
、ソノ他必要ノ附属員ヲ置キ有給トス 収入
役
ハ
町
村会ノ推薦ニ依リ北海道庁支庁長之,ヲ任命シ、任期ハ四ケ年トス 収入
役
ノ保証金ニツイテハ
町
村規定ヲ以テ之ヲ定ム ・収入
役
は恰も
町
村,に於ける金庫なるを以て公金保管に関し最も重責あり、之を以て収入
役
は
町
村規定の定める
所
に従い必ず保証金を / 大正期の歴代収入
役
(含む代理者)
南茅部町史 上巻
(役場火災)
南茅部
町
史 上巻 /
役
場火災 昭和二七年五月二七日午後一一時すぎ、尾札部村
役
場出火。,の村民は燃えあがる炎をめあてにあわててかけつけたが、すでに火は室内に広がり、隣接していた警察部長駐在
所
宅 /
役
場火災
恵山町史
(3、六ケ場所、南部藩が警備)
恵山
町
史 / なお、箱館・室蘭の陣屋、砂原・長万部の屯
所
の陣容については、砂原
町
史(荒木恵吾編集長)に詳細に記述されているので,、改
役
一人、締
役
扱
役
兼二人医師一人、村夫一八人、 右え(その他)諸職人従僕共、都合二〇〇人、内
所
々勤番人数組立,ケ
所
分 <砂原(屯
所
)詰> 使番一騎、小奉行一人、火業師三人、火業御手傳六人、鐵鑓武者五人、,螺
役
一人、太鼓
役
一人、締
役
一人、村夫五人、 右え(その他)従僕共五〇人、 <オシャマンペ(屯
所
,東蝦夷地南部藩砂原陣屋見取図 砂原
町
史より(盛岡市立中央公民館
所
蔵) / 3、六ケ場
所
、南部藩が警備
恵山町史
(会所・宿泊所の掟・きまり)
恵山
町
史 / 会
所
・宿泊
所
の掟・きまり 会
所
・宿泊
所
の掟・きまりについて、箱館奉行羽太正養の公務日誌『休明光記遺稿,『寛政十二年申三月、休明光記遺稿』より 蝦夷地会
所
掟
所
竝箱館会
所
掟書之事 斯而、東蝦夷地場
所
々々,おゐて会
所
を造り建られて、蝦夷人と交易の場となし、又は旅人之宿
所
となりぬ、依て会
所
掟書を定めらる。,一、御
役
人中様御通行被レ遊候節、不禮不レ仕候様、入念相慎可レ申候。 ,以上 申三月 会
所
/ 会
所
・宿泊
所
の掟・きまり
戸井町史
(六、むじなのよく出た場所)
戸井
町
史 / 六、むじなのよく出た場
所
昔戸井でむじなのよく出た
所
は、ゴッコ澗の崎(
役
場庁舎のある
所
の崎)シスンの,崎(泊
町
と弁才
町
の境の崎)弁才
町
川尻の崖のあたり、瀬田来の〓石田の家の建っていたあたりだという。 ,或る晩常太郎が〓へ遊びに行き、弁才
町
の店へ酒を買いに行きむじなにだまされて酒をとられたという。 / 六、むじなのよく出た場
所
函館市史 別巻 亀田市編
(村役人)
村
役
人 文政五(一八二二)年松前藩は蝦夷地へ復領し、福山に
町
奉行
所
と沖の口
役
所
、箱館および江差にそれぞれ,奉行
役
所
と沖の口番
所
を設置したが、亀田諸村はこの時箱館奉行
所
の管轄下に入り、主として在方掛より行政指導,この奉行
所
の指示に従い、亀田の村々を治める村
役
人は、各村ごとに名主、年寄、百姓代がおり、枝郷には頭取がいた,『天保九戌正月吉日 御用書留 鍛冶邑名主
所
』(巻末史料(一)
所
収)には、次のように記されている。 ,壱番寅蔵 弐番平次 三嘉右衛門 四乗会
所
、五平蔵 六石五郎、七番三太郎 右者清次郎弐軒分 八六郎右者久助次左衛門 / 村
役
人
南茅部町史 下巻
(乾繭所)
南茅部
町
史 下巻 / 乾繭
所
昭和七年九月三〇日、字熊泊九〇番地(字大船二三四)に乾繭
所
(かんけんじょ)(三二・七五坪)を,昭和一〇年度臼尻村勢要覧には「殺蛹乾繭
所
」と記されている。 ,繭の荷受には臼尻村は運上書記、鹿部村から棟方書記、尾札部村後木書記らが立会して看貫(かんかん)
役
をつとめた,乾繭
所
の跡地には、〓中村家が新築された。,熊泊村乾繭
所
開
所
式 村上元三郎提供 乾繭
所
の
役
職者 村上元三郎提供 表彰状 同 / 乾繭
所
南茅部町史 上巻
(村から町へ)
南茅部
町
史 上巻 / 村から
町
へ 昭和三〇年の臼尻村と昭和三三年の尾札部村の機構は、水道と造船
所
のほかはほぼ同じ分掌で、昭和三四年,南茅部
町
助
役
大 滝 政 吉 昭和三四年 五月 ~三八年五月二四日 小 鹿 清次郎,九月 四日~五四年九月二二日 秋 本 明 敏 五四年一一月一五日~現 南茅部
町
収入
役
,民生課は
町
民課と改称。のち
町
民相談室を設ける。 昭和四八年、新たに福祉部を設けて三部制とする。,籍 係 統 計 係 統 計 係 国 保 係 国 保 係 水 道 係 造船
所
係 / 村から
町
へ
南茅部町史 下巻
(森町の記録)
南茅部
町
史 下巻 / 森
町
の記録 六月一七日 砂原方面から森
町
へ避難する人たちも陸続と増し、森停車場前は混乱を極めた。,森
町
では
役
場が婦人会の応援を得て焚出し活動したが、仮収容
所
への握飯配給一二名の人夫と
役
場職員が当たった,停車場前黒田カフェーを借り受け、焚出しの配給
所
として救援活動に力めたが、果てしなく限りなく避難民が増しつづけるので,森
町
役
場の記録 六月一七日 12時30分 軽石流駒ノ背を越え、ただちに止る。,14時0分 森
町
土橋からみると、三条の軽石流れ下るも大流とならず。 / 森
町
の記録
南茅部町史 上巻
(佐藤町長略歴)
南茅部
町
史 上巻 / 佐藤
町
長略歴 三代南茅部
町
長佐藤貞勝は、大正一五年九月一五日生まれで、南茅部
町
字木直(ポン木直)の出身,昭和一六年四月、海軍航空技術養成
所
に入学、二〇年八月修了。 ,昭和四二年六月、南茅部
町
助
役
に就任。四六年六月、助
役
に再任された。,七月、ばんだい号の遭難に際し米田
町
長の捜索を指揮。,七月六日、
町
長職務代理者となり、
町
長選に立候補して昭和四六年八月二一日
町
長に就任した。 / 佐藤
町
長略歴
恵山町史
(3、奉行所の設置)
恵山
町
史 / 3、奉行
所
の設置 東蝦夷地の直轄を決めた幕府は、寛政10年以来おいていた蝦夷地取締御用係を廃止、1802,1807年(文化4年)3月、幕府は蝦夷地全域を直轄とすると、10月には奉行本営を箱館から福山(松前
町
),なお、奉行職は
役
高2千石、
役
料1千500俵、在勤中手当て700両で格付は芙蓉間詰(ふようのまづめ)、遠国奉行,させ、1812年(文化9年)には東蝦夷地の直捌制を廃止し、場
所
請負制度を復活させている。,この期間、箱館六ケ場
所
は蝦夷・箱館奉行、松前奉行の管轄下に置かれたことはいうまでもない。 / 3、奉行
所
の設置
恵山町史
(〈役場事務機構の改正、参事・主幹制の導入〉)
恵山
町
史 / 〈
役
場事務機構の改正、参事・主幹制の導入〉 山田は
町
長就任1年後の平成8年4月1日、
役
場事務機構の大幅,を「環境整備課」に改め、農商観光課を廃止、日ノ浜保育
所
を休
所
とする。 ,・戸籍住民台帳・国民年金・住民相談・職業斡旋 ・生活保護・社会福祉に関する事項 保 育
所
,・大澗保育
所
恵山保育
所
総務財政課 ・職員の身分・職員の福利に関する事項・予算・地方交付税,さない事項
町
史編纂室 ・
町
史編纂に関する事項 企画観光課 ・
町
の重要施策・総合企画・総合調整 / 〈
役
場事務機構の改正、参事・主幹制の導入〉
函館市史 別巻 亀田市編
(役場機構の改正)
日付) ○ 昭和三十四年九月一日付機構改革は、第五回臨時村議会において民生課設置が議決され、本
町
支
所
,は総務課より独立し、
役
場の機構は五課一四係、一支
所
となった。 ,○昭和四十年機構改正 昭和三十七年
町
制施行後、人口増加にともない
役
場事務量も増大し、昭和四十年四月一日現在,そして
役
場機構は七課一八係に改革され、
役
場支
所
は公民館(字富岡)内に設置されていた。 ,○昭和四十六機構改正 昭和四十六年七月臨時第三回
町
議会において「亀田
町
部課設置条例の一部を改正する /
役
場機構の改正
南茅部町史 上巻
(臼尻村役場庁舎改築)
南茅部
町
史 上巻 / 臼尻村
役
場庁舎改築 昭和八年、臼尻村花輪村長の村政下、懸案の
役
場庁舎の改築の村会議決を得て一〇月二四日上棟式,臼尻村
役
場 臼尻村
役
場平面図 北越家
所
蔵の昭和一〇年代の写真によれば、新築当初の臼尻村
役
場庁舎,臼尻村
役
場名残りの桜の名木である。 ,臼尻村
役
場改築棟札 臼尻村
役
場庁舎改築 二階建上棟 臼尻村
役
場改築棟札 臼尻村
役
場庁舎改築 ,二階建上棟 尾札部村長(大正3年) 臼尻村長(大正12年) 亀谷供次郎(熊次郎襲名) 函館 亀谷昴
所
蔵 / 臼尻村
役
場庁舎改築
南茅部町史 下巻
(〔七重勧業所の沿革〕)
南茅部
町
史 下巻 / 〔七重勧業
所
の沿革〕 官業・民営による明治期の産業開発に指導的
役
割を果たしたのが官立の七重勧業
所
であった,明治六年末、植物園七〇
町
歩(一八四・六)牧場一・九
町
歩(二八四・六)樹林一九・三
町
歩(八 ,九四二
町
歩六(その他計一、二五五・二)。,第三試験場を御苑に加え宮内省に交付して東京 官園はその
役
割を終えた。 ,(資料 七飯
町
史) / 〔七重勧業
所
の沿革〕
/ 18ページ