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函館市史 銭亀沢編
(石崎村)
石
崎
村 銭亀沢地域の東部、現在の戸井町と境を接するのが
石
崎
村である。,字白
石
、
崎
は宅地の背後がすぐ崖地となっており、また、銭亀沢村寄りの字
石
崎
は海岸線から宮の川沿いに宅地が,中村、
崎
、
石
崎
の宅地はすべて三等から五等である(表1・4・9)。 ,表1・4・9
石
崎
村宅地等級別筆数(明治11年) (単位:筆) 「地位等級調」(北海道立文書館蔵 ,
石
崎
村の漁場は字
崎
(三筆)、沢(一筆)、白
石
(一筆)、六本
崎
(一筆)にあり、その割渡年次は文化三(一八 /
石
崎
村
函館市史 銭亀沢編
(〈石崎〉)
〈
石
崎
〉
石
崎
村は、銭亀沢村境より、字小鳥澗、字
崎
、
石
崎
宮の川を挟んで字
石
崎
、寺の川を挟んで字中村、,字
石
崎
は
石
崎
宮の川と寺の川に挟まれた間口約一八〇メートル、奥行四〇メートル足らずの狭い地域である。,字
石
崎
の西境は
石
崎
宮の川で、対岸に字
石
崎
の地番を持つ
石
崎
八幡神社が旧道に面して位置する。,
石
崎
八幡神社は一五世紀創建といわれる古社で、明和八(一七七一)年に旧道に面した場所に設置された。,字
石
崎
、字中村、字白
石
では、浜側の干場がすべて宅地化しており、字
石
崎
の人口の増大による宅地開発がうかがえる / 〈
石
崎
〉
函館市史 銭亀沢編
(石崎共同墓地)
石
崎
共同墓地 銭亀沢の共同墓地を市立函館保健所の資料からまとめたのが表4・5・2である。,表によると
石
崎
の墓地は明治四十一年と地域内では遅れて許可になっているが、これは現墓地へ通じる坂下の勝願寺,昭和四十七、八年頃に戸井から
石
崎
にかけての山中に祀られていた西国三十三観音を境内(現駐車場)に移したとき,墓域は土手に囲まれ、北東部には昭和六十一年に廃止された
石
崎
火葬場の建物が残っている。,表4・5・3
石
崎
共同墓地内建立年別墓
石
数 /
石
崎
共同墓地
函館市史 銭亀沢編
(石崎火葬場)
石
崎
火葬場 戦前の記録が残っていないので正確なことは判らないが、古老からの聞き取りによると、
石
崎
では /
石
崎
火葬場
函館市史 銭亀沢編
(大字石崎村)
大字
石
崎
村 凡ソ七百年前、一ノ漁場ヲ開キタルヨリ漸次移住者アリテ一部落ヲ形勢シ、當亀田海岸中屈指ノ一大部落 / 大字
石
崎
村
函館市史 銭亀沢編
(八幡神社(石崎町))
八幡神社(
石
崎
町)
石
崎
宮の川の西岸の丘陵上に社殿が建っており、社地より
石
崎
の集落を一望することができる,それ以前は現在の参道階段下の旧道が
石
崎
宮の川にかかる橋の脇に位置し、段丘を背負って建っていた。 ,「鰐口」については、明治八年に
石
崎
村副戸長・
崎
野佐太郎によって記された来歴がある。,それによると、
石
崎
村脇沢に古来より山神社があったが、七、八〇年前に村民が亀尾村へ移動し山神社を遷座させた,八幡神社(
石
崎
町) 八幡神社配置図 八幡神社平面図 八幡神社立体図 / 八幡神社(
石
崎
町)
函館市史 銭亀沢編
(石崎町の二つの講)
石
崎
町の二つの講 「明神講」は、一般に「女性の正月」といわれる旧暦一月十五日の「小正月」に、女性だけが,神主を招いて、
石
崎
八幡社に集まり、会食・雑談をする。,この観音講は、前の勝願寺のところで確認した昭和六年の二三三名にのぼる「西国丗三番
石
像観音尊芳名帳」と全 /
石
崎
町の二つの講
函館市史 銭亀沢編
(石崎八幡宮の場合)
石
崎
八幡宮の場合 恒例の春夏の神楽は、明治の頃から現在まで大きな変化はなく、二月十七日の「春神楽」と,
石
崎
町の祭礼(藤本忠一提供) 春神楽の獅子神楽行列は、獅子頭を持つ奉讃会役員と四二歳の男性厄年,一方の「秋祈祷」は、十一月から十二月に、奉讃会役員が伊勢神宮と
石
崎
八幡神社のお札を戸別配付するもので、,、たとえば、今日の建国記念の日、みどりの日、勤労感謝の日(かつての新嘗祭)に、銭亀沢八幡社の神主が、
石
崎
,-古川-新湊-銭亀沢-志海苔-根
崎
と回礼している。 /
石
崎
八幡宮の場合
函館市史 銭亀沢編
(〈石崎農業協同組合〉)
〈
石
崎
農業協同組合〉 銭亀沢村字
石
崎
の住民が共有する森林を管理することを第一の目的で設立されたものである,第二次世界大戦前は、
石
崎
漁業組合が共有森林の管理をおこなっていたが、地区住民は必ずしも漁業協同組合の組合員 / 〈
石
崎
農業協同組合〉
戸井町史
(「附」石崎、箱館の松代家系図)
「附」
石
崎
、箱館の松代家系図 「附」
石
崎
、箱館の松代家系図 / 「附」
石
崎
、箱館の松代家系図
函館市史 銭亀沢編
(石崎漁業協同組合の村づくり運動)
石
崎
漁業協同組合の村づくり運動 昭和三十七年に、出稼ぎを少なくし、経済的に安定した漁村に脱皮することを,
石
崎
地区では、
石
崎
漁業協同組合が主体となって、昭和三十六年より関係諸機関と村づくり推進のための協議がおこなわれ,まず昭和三十七年七月六日には、当時の銭亀沢村村長を委員長に「
石
崎
漁協地区村づくり推進委員会」が設立された,
石
崎
地区は、市街地を除けば、一八〇町歩の背面地、八〇町歩の専農地、二〇〇町歩の牧場と一二三八町歩の植林地,表3・3・9 「
石
崎
漁協地区村づくり推進委員会」の構成員(昭和37年現在) /
石
崎
漁業協同組合の村づくり運動
函館市史 銭亀沢編
(武井家煉瓦倉庫 [ボウジョウ] 石崎町 22)
武井家煉瓦倉庫 [ボウジョウ]
石
崎
町 22 武井家の先祖は新潟県から青森県に移住し、安永二(一七七三,)年には蓬田村で高持百姓だったが、天保飢饉ののち渡道し、明治二十年代以降、
石
崎
で鰯漁場を営んだという。,武井家は本家
石
崎
武井家のほか、泊、茅沼にも鰊漁場を営む分家があり、また積丹・古宇の鰊漁業家田中家とも姻戚関係,
石
崎
が鰯漁で繁栄した時期の良質な煉瓦造倉庫で、貴重な遺構である。 / 武井家煉瓦倉庫 [ボウジョウ]
石
崎
町 22
戸井町史
([石崎まで来た巡見使])
[
石
崎
まで来た巡見使] 徳川三代将軍家光の時代から諸国に巡見使を派遣して、諸藩の行政を視察させて、諸藩,巡見使は戸井までは来なかったが
石
崎
まで来ているので、下海岸の当時の状況を推定出来るような記録がある。,
石
崎
は小安の隣りなので、いろいろな影響を与えたものと思われる。 ,松前藩の巡視範囲は、西は福山から江差、乙部、茂内まで、東は福山から知内、木古内、亀田を経て、潮泊、
石
崎
,東部の
石
崎
村や、西部の乙部村の役人は、巡見使に謁見(えっけん)するアイヌの代表をきめ、アイヌの演芸の代表 / [
石
崎
まで来た巡見使]
椴法華村史
(長崎俵物の買入れ)
長
崎
俵物の買入れ 長
崎
俵物の買入れは、天保九年(一八三九)から普請役が会所役人に替わって行ったが、成績不良,箱館では長
崎
屋(佐藤)半兵衛が長
崎
俵物問屋を務めている。 ,長
崎
俵物として買い入れられる昆布は、文化十年まで一か年定弐買入、志苔昆布三千
石
であったが、翌年より五か,年間同地産長折昆布千
石
、駄昆布千
石
、計二千
石
となった。,いにより、文政三年から長折昆布五百
石
、三
石
昆布五百
石
、駄昆布千
石
を買い上げることに決めた。 / 長
崎
俵物の買入れ
函館市史 通説編 第一巻
(蠣崎氏の松前進出)
蠣
崎
氏の松前進出 このような東部アイヌのたびたびの抗争により、次第に和人は繁栄を誇ったこの地帯から駆逐,この間、蠣
崎
信広は蝦夷地統一への触手を伸ばし始め、上ノ国の天ノ川、
石
崎
川、厚沢部川の豊富な鮭や、
石
崎
川,統一者は、依然として出羽檜山の安東氏の系譜に連なる、譜代ともいうべき松前の大館の下国氏にあって、外様の蠣
崎
氏 / 蠣
崎
氏の松前進出
函館市史 銭亀沢編
(根崎川濯神社の場合)
根
崎
川濯神社の場合 現在の神社は、昭和十二年に再建し、昭和四十二年に現在地へ移転した。,夏神楽は八月十五日から十六日におこなわれ、道路が舗装される以前は、前の
石
崎
八幡神社と同じく、神官らの通,根
崎
町の春祈祷は、おおむね四月二十日頃であり、祭主は亀田八幡宮の宮司三人が戸別に訪問し、神棚に家内安全,皇室にかかわる年中行事についての祈祷も亀田八幡宮宮司によって執行される点を除けば、他は前述の
石
崎
八幡神社 / 根
崎
川濯神社の場合
椴法華村史
(五十浦丸と川崎船の衝突)
五十浦丸と川
崎
船の衝突 大正五年十月二十日、恵山沖で烏賊釣中の亀田郡
石
崎
村の川
崎
船に航行中の汽船五十浦丸,が衝突し川
崎
船を粉砕したが乗組員四名は幸いにして付近の船に救助される。 / 五十浦丸と川
崎
船の衝突
椴法華村史
(古部出港川崎船の遭難)
古部出港川
崎
船の遭難 大正十二年一月二十日 函館毎日新聞 川
崎
船、水船となる ,辛うじて當港へ入港 市内タナゴマ町二番地大問惣太郎所有川
崎
船三十五
石
積は今十九日午前三時頃茅部郡古邊,處折柄の波浪に航行不能となったが折柄無名の發動機船の航行を認め曳船方を依頼せるが同發動機船は十數隻の川
崎
船,が曳船され居るため止むなく船舷に引網を以てせるが激浪と發動船の震動により同川
崎
船は船底を破壊し水船となり / 古部出港川
崎
船の遭難
函館市史 銭亀沢編
(経石塚碑)
経
石
塚碑 裏面 経
石
塚在奥州松前
石
崎
村、昔日持尊者埋自書妙経
石
処也、尊者諱日持號蓮華阿闍梨、駿州松野村人,
石
崎
瀕海上人專事舟揖毎患風波之害、今也土人能知尊者之功徳、具香火致敬祷則庶幾其霊必有冥護黙想以免覆溺之難者是日朋上人所以立碑之意也,箱館惣檀中 両側 吾蓮華阿闍梨日持尊者、救済異域教化夷狄晩到宇賀嶋第示滅、傳聞持尊之書写妙経一
石
一字,、人呼名後世塚、予遥聞之堀一処深三尺余経
石
感嘆余記傳之。 / 経
石
塚碑
函館市史 銭亀沢編
(根崎温泉地区の函館市編入)
名 氏名 職業 氏名 職業 氏名 職業 氏名 職業 津山喜一 太田勝也 漁業 太田勝也 漁業 木村
石
次郎,漁業 木村
石
次郎 漁業 柴田梅太郎 柴田梅太郎 漁業 柴田梅太郎 漁業 柴田梅太郎 漁業 柴田梅太郎,漁業 福沢兵蔵 漁業 沢田倉松 松岡菊蔵 漁業 沢田倉松 漁業 沢田倉松 漁業 倉部勇太郎 漁業
石
田岩夫,農業 堀 新 農業 堀 新 農業 川村弘 川村弘 農業 川村弘 漁業 川村弘 漁業 川村弘 漁業
石
田時得,
石
田時得 農業
石
田時得 晨業 小関吉雄 商業 高橋豊 農業 高橋豊 農業 高橋豊 農業 高橋豊 / 根
崎
温泉地区の函館市編入
戸井町史
(二、〓吉崎家(瀬田来))
二、〓吉
崎
家(瀬田来) 〓吉
崎
家は、〓吉
崎
家、〓吉
崎
家などの総本家であり、〓若松家、〓桜井家などはその,〓吉
崎
家の先祖は七五郎といい、本州から瀬田来に移住して漁業を営んでいた。,力松の妻ソヨは
石
崎
村の網元武井弥四郎兵衛の長女で、吉
崎
家に嫁して以来、七五郎、タマに孝養を尽し、三人の,〓吉
崎
家 七五郎の二男岩吉は文久元年生れで、分家して〓を家号とした。,〓吉
崎
家 初代岩吉の長女マツに三五郎を聟養子に迎え〓吉
崎
家を立てさせた。 / 二、〓吉
崎
家(瀬田来)
恵山町史
((1)ナイフ型石器)
(1)ナイフ型
石
器 これまで北海道で最も古いとされてきたのが、後期旧
石
器文化に含まれる約2万1千年前頃,のナイフ形
石
器である。,千歳市祝梅三角山遺跡や丸子山遺跡などの古砂丘上で発掘された、黒曜
石
の剥片からつくられたナイフ形
石
器(第,吉
崎
(1994)は、ナイフ形
石
器を特徴とする文化は本州日本海沿岸地域で発見されている初期のナイフ形
石
器,第4図 ナイフ形
石
器(千歳市三角山遺跡) 吉
崎
昌一ほか『祝梅三角山地点』1974 / (1)ナイフ型
石
器
戸井町史
(三 蠣崎の錦帯城趾の伝説(川内町))
三 蠣
崎
の錦帯城趾の伝説(川内町) 享徳、康正の昔、下北郡川内町大字蠣
崎
に、蠣
崎
蔵人信純の居城錦帯城,蠣
崎
信純は松前藩の始祖蠣
崎
信広といわれている人物である。 ,(きたべおうけ)五代義純のたてこもっている鶴
崎
山順法寺城(北の御本城と称した。,思われるので、松前家の先祖の発祥地は下北郡川内町大字蠣
崎
である。 ,蠣
崎
地区の長浜海岸一帯に錦
石
(にしきいし)といわれる名物の
石
がある。 / 三 蠣
崎
の錦帯城趾の伝説(川内町)
函館市史 通説編 第一巻
(巨石文化)
巨
石
文化 ヨーロッパなどで新
石
器時代になると巨
石
文化と呼ばれる文化が現われる。,これを巨
石
記念物とも呼ぶが、巨
石
記念物には種類があって玄室を巨
石
で構築した机形のドルメン、巨大な立
石
の,すなわち(1)ストーン・サークル(忍路・三笠山、地鎮山)、(2)環状列
石
墓(余市・西
崎
山、狩太・北栄など,)、(3)立
石
構造(余市西
崎
山西及び南など)である。,日時計型は中央に大きな立
石
があって周囲を細長い
石
などで放射線状に配
石
し、更に円形に
石
囲いしている。 / 巨
石
文化
函館市史 通説編 第二巻
(訓盲院長篠崎清次の社会活動)
篠
崎
清次であり、後には彼が実質的なリーダー的存在であった。 ,篠
崎
清次は函館訓盲院長で、北海道盲唖教育の先覚者と称される人である。,社会的弱者に心血を注いだ篠
崎
は社会運動の実践家でもあった。,その中心人物が篠
崎
清次であった。,明治40年5月5日、
石
川啄木が渋民村から来函した時には、函館平民倶楽部の活動はほとんど停止状態であった / 訓盲院長篠
崎
清次の社会活動
戸井町史
(二 石神(いしがみ)神社の由来(脇野沢村))
二
石
神(いしがみ)神社の由来(脇野沢村) 脇野沢村の松ケ
崎
というところに、
石
神神社という社(やしろ,松ケ
崎
といって、木々の覆い茂り合っていて、おもしろい風景の所である。 ,脇野沢村字辰内、通称松ヶ
崎
に
石
神神社がある。 ,この神社の由来は、延宝の昔(一六七三―一六八〇)、この土地の漁師が、松ケ
崎
の沖合にナマコ曳(ひ)きに出,それを松ケ
崎
に祀(まつ)るようにしてくれ」という御告げがあったので、今朝からここで待っていたのだ。 / 二
石
神(いしがみ)神社の由来(脇野沢村)
戸井町史
([シロイ浜の硯石と最上徳内])
の二「産物の事」という項に、 「一、硯
石
箱館村の
石
崎
村、シロイの浜という所に一円,最上徳内が「シロイの浜」と書いている場所は、
石
崎
村ではなく、釜谷と汐首の間の昔から「シロイ浜」と呼ばれているところである,徳内の書いている硯
石
がこの岩
石
だとすれば、シロイ浜やヌルイ川よりも、汐首岬から瀬田来、戸井川の流域にはこの,意図があったものと思われるが、戸井に硯
石
があるということを村人は知らない。 ,この時の一行は御普請役田辺安蔵、大塚唯一、御小人目付和田兵太夫、高
崎
助四郎、豊田源八郎等であった。 / [シロイ浜の硯
石
と最上徳内]
函館市史 通説編 第一巻
(石刀と紡錘車)
石
刀と紡錘車
石
刀の柄頭文様(女名沢遺跡出土)(市立函館博物館蔵) 女名沢遺跡の紡錘車(市立函館博物館蔵,
石
刀は磨製で
石
質は粘板岩や片岩で、大きさは普通長さが30ないし40センチメートルほどで、小形のものは10,昭和29年11月に山形県の西北部で県境に近い三
崎
山から青銅製刀子が発見されて話題になったことがある。,紡錘車と考えられる有孔円盤は、
石
製と土製があり、泥岩や粗面岩の
石
製品には片面または両面に文様が彫り刻まれているものがある,円形に周縁を打ち欠いて研磨し、中央部は
石
製品と同様に
石
錐で穴をあけている。 /
石
刀と紡錘車
戸井町史
((二)戸井の地質構造と岩石)
戸井の
石
器時代の遺跡から出土する、
石
鏃(せきぞく)、
石
槍(せきそう)、
石
匙(せきひ)、
石
錐(せきすい),第三紀層には、頁岩類の層の外に、砂質粘土層、凝灰岩(ぎょうかいがん)層が各所に分布し、小安から
石
崎
にかけては,ロ、小安、
石
崎
の境附近 古生層の片状岩を基底として噴出した岩
石
で、乳房状(にゅうぼうじょう)の,ロ、根
崎
から
石
崎
の間 この間の海岸段丘の地層には、古生代の変成岩や火成岩の露出は見られず、第三紀層,ハ、小安と
石
崎
の間 小安附近の海岸段丘の地層は、最下層に古生代の変成岩があって、それが浪打際 / (二)戸井の地質構造と岩
石
函館市史 通説編 第一巻
(前期旧石器時代)
前期旧
石
器時代 日本における
石
器時代文化の上限は、前期旧
石
器時代にさかのぼる。,この時代の
石
器が出土しているのは、山形県上屋地、栃木県星野、大久保、山口県磯上、大分県早水台、宮
崎
県出羽洞穴,の第11文化層から前期旧
石
器が現われ、日本旧
石
器群の編年を、より確実なものとした。,りに出る有舌尖頭(ゆうぜつせんとう)器を主とする
石
器群包含層で、旧
石
器時代の終りから中
石
器時代の1万2000,第3文化層から第11文化層までは珪(けい)岩製
石
器群の出土層で、これらの
石
器は形態や製作技術から、中国 / 前期旧
石
器時代
函館市史 銭亀沢編
([カワサキセン(川崎船)の来航とイカ釣り技術の伝播])
[カワサキセン(川
崎
船)の来航とイカ釣り技術の伝播] 津軽海峡はイカの好漁場でもあった。,彼らが使用した漁船は、帆走性能に優れたものでカワサキセン(川
崎
船)と呼ばれ、彼らをカワサキ衆ともいった,イカ針はカワサキ衆が得意先で、注文は
石
川県の船が一番多かった。,
石
川県のカワサキセンは入舟町、福井県のカワサキセンは海岸町に入港した。 / [カワサキセン(川
崎
船)の来航とイカ釣り技術の伝播]
南茅部町史 上巻
(ニシン場の雇(豊崎・二本柳文平談・明治二一年生))
ニシン場の雇(豊
崎
・二本柳文平談・明治二一年生) 二月から五月まで古平(ふるびら)・岩内(いわない),一六歳のとき(明治四三年春)二百
石
も鰊を大漁して、勘定五〇円と手当五円ももらった。 / ニシン場の雇(豊
崎
・二本柳文平談・明治二一年生)
函館市史 銭亀沢編
([図版])
) (平成7年・
石
崎
町) (平成8年・志海苔町) (平成8年・
石
崎
町),(平成9年・根
崎
町)
石
崎
八幡神社祭礼-海上パレードと神楽の舞-(平成9年・
石
崎
町),(平成9年・
石
崎
町) (平成9年・
石
崎
町) (平成9年・
石
崎
町),9年・古川町) (平成9年・
石
崎
町) (平成9年・古川町) (平成9年・,
石
崎
漁港(平成9年・
石
崎
町)
函館市史 銭亀沢編
([ファインダーからみた銭亀沢の記憶])
[ファインダーからみた銭亀沢の記憶] 昭和四十二年夏、古川町と
石
崎
町へ写真撮影に訪れたのが、銭亀沢地域,ちょうどこの日は、
石
崎
八幡神社の祭典の日で、幟や大漁旗を飾りつけた船による海上パレードには、町内の漁民,賑う(昭和44年・
石
崎
町) 昆布採りには、家族総出で協力する(昭和44年・
石
崎
町),・
石
崎
町) 生育の良い昆布を身にまとい、豊漁を喜ぶ婦人(昭和44年・
石
崎
町) 昆布採,と人びと(昭和44年・古川町)
石
崎
八幡神社祭礼当日の
石
崎
町(昭和42年・
石
崎
町)
函館市史 銭亀沢編
(墓地と火葬場)
の裏の墓地のようにお寺が管理する墓地のほかに、銭亀・志海苔共同墓地、新湊町共同墓地、古川町共同墓地、
石
崎
共同墓地,以前はこの四か所の共同墓地にそれぞれ火葬場があったが、現在、火葬場が残されているのは
石
崎
共同墓地のみである,
石
崎
火葬場は、明治四十一(一九〇八)年に設置され当初から
石
崎
町会で経営されていた。,その
石
崎
火葬場も昭和六十一年にはその業務を終え、平成六(一九九四)年に廃止、現在はその建物だけが残されている,
石
崎
火葬場
石
崎
火葬場平面図
石
崎
火葬場立面図
函館市史 銭亀沢編
(森林組合)
ここでは
石
崎
の場合を紹介してみたい。 ,銭亀沢村大字
石
崎
の住民に一一〇〇町歩の森林が北海道庁から払い下げられ、大正二年五月二十二日に
石
崎
植林組合,その後、
石
崎
の共有森林の管理は、
石
崎
漁業協同組合が、そして昭和十九年からは銭亀沢漁業会
石
崎
実行組合が受,け持ち、戦後は、再び
石
崎
漁業協同組合が引き継いだ(前述)。,鶴野は、昭和七年に
石
崎
村から分村したが、専業農家の多い鶴野と漁家の多い
石
崎
で共有林を分割した。
函館市史 銭亀沢編
(北海道一級町村制の施行)
なお、廃止された小字で新しい字に採用されなかった字名は、大字
石
崎
村では、谷地町、中村、目名町、中鶴澗など, 谷地町 松井菊松
石
崎
松井菊松 松井菊松 川島仙蔵 川島仙蔵 瀬川寅吉 根
崎
村 寒坂 寺谷勇平,九島喜代吉 湊 九島喜代吉 九島喜代吉 高井豊作 高井豊作 高井豊作
石
崎
村
石
崎
川島邦彦
石
崎
,川島邦彦 川島邦彦 中村長兵衛 中村長兵衛 中村長兵衛
石
崎
村 白
石
阿部雄蔵
石
崎
山田徳五郎,山田徳五郎 沢田松之進 沢田松之進 沢田松之進
石
崎
村
石
崎
沢田松之進
石
崎
沢田松之進 沢田義三郎
函館市史 銭亀沢編
(郵便電信)
郵便電信
石
崎
郵便局、銭亀澤郵便局ノ二アリ。銭亀澤局ハ無集配局ナリ。,
石
崎
郵便局ノ配達区域ハ大字
石
崎
村一円及字古川尻及湯川村大字亀尾村ニシテ、銭亀沢村ハ(
石
崎
、古川尻ヲ除ク
函館市史 銭亀沢編
(評議員会)
その組織と内容について、
石
崎
町を事例としながら、聞き取り(倉部善太郎談)に基づいて紹介する。 ,銭亀沢村大字
石
崎
は、
崎
(戦後は
崎
と
崎
野の二つに分れた)、
石
崎
、中村、白
石
、目名松、谷地(戦後は谷地一・,
石
崎
評議員会は、委員長一名、評議委員一二名および専任の書記一名から構成されていた。,事務所は、現在の
石
崎
町会集会所(
石
崎
二八三)にあり、老人の書記が常駐していた。
函館市史 銭亀沢編
(ののしりことば)
ののしりことば かつて古川の子どもたちは、隣の
石
崎
の子どもとけんかしたとき、「
石
崎
まんじゅう、砂糖はいらじ,今でもしまり屋すぎる
石
崎
町の人を陰でいうときに、「
石
崎
まんじゅうだもな」という。
函館市史 銭亀沢編
([教化])
ナカリシガ、開拓使ノ奨励勧誘ニヨリ部内一時ニ小學校ノ設立ヲ見、明治十三年ニ本村大字銭亀澤村ニ銭亀學校、
石
崎
,ニ
石
崎
學校字古川尻ニ古川尻學校大字志苔村ニ志苔學校ノ四學校仝拾七年ニ大字根
崎
村ニ設立ノ根
崎
學校アルニ至,其後廢合行ハレ、現時銭亀尋常高等小學校、宇賀尋常小學校、
石
崎
尋常小學校ノ三學校アリ。
戸井町史
((附)昔の戸主名(明治十三年以降))
館山喜兵衛 佐藤竹松 南坪喜代松 吉
崎
七五郎 小柳吉蔵 滝谷庄次兵衛
石
田
石
松 西
崎
勘吉 後藤又右衛門,伊藤与七 金沢竹五郎 宇美繁蔵 山
崎
清蔵 伊藤藤松 金沢音吉 山
崎
多治郎 日苗文次郎 山
崎
石
蔵 水戸兼吉,
石
田玉蔵 吉
崎
力松
石
田栄八 池田浅次郎 吉
崎
岩吉
石
田勇太郎 高田庄太郎 小柳一正 池田栄八 伊藤菊治,吉
崎
岩吉 吉
崎
松三郎 宇美第吉
石
田玉蔵 金沢音吉 宇美昌造 池田六助 池田栄吉 金沢藤吉 高田幸吉,谷藤岩太郎 谷藤熊蔵
石
田由蔵 伊藤倉次郎 小柳栄作 沢田万吉 蠣
崎
徳次郎 中村啓治 山谷惣太郎
石
田亀雄
函館市史 銭亀沢編
(漁民戸数と漁民の状態)
漁民戸数と漁民の状態 明治十六年末の村落別漁業戸数は、表3・1・1にみられるように、
石
崎
村が一二二戸,と最も多く、次いで銭亀沢村が一一五戸、志苔村七〇戸、根
崎
村五二戸である。,村落別の漁人すなわち漁業従事者数は、
石
崎
村四八四人、銭亀沢村一五八人、根
崎
村一二五人、志苔村九二人で、,一戸当たり家族従事者は、
石
崎
村で三・九人、根
崎
村で二・四人と他地区に比べて多いのが目立っている。,また、根
崎
以外の各村落では多数の漁期雇人を雇用しているが、主に鰯(いわし)漁業に従事する入稼者とみられる
戸井町史
(五、公選町村長時代)
酒井力蔵 水戸敬蔵 岩船治太郎
石
田勇蔵 芝本愛三 伊藤実 伊藤喜一郎 森富蔵 吉
崎
岩吉 吉田富二郎,(二九、六、一七死亡) 村田よしゑ 酒井力蔵 水戸忠太郎 館山悦三郎 島本
石
太郎 岩館兵吉 西
崎
吉太郎,成田長太郎 村田よしゑ 酒井力蔵 水戸忠太郎 館山悦三郎 島本
石
太郎 岩館兵吉 西
崎
吉太郎 境銀市, 至昭和四十二年四月二十二日 丹羽和八(長) 吉
崎
仁三郎(副) 酒井力蔵 吉
崎
岩吉
石
亀喜代治 森繁雄,(長) 吉田馨(副) 吉田勇一郎 佐藤可也 奥野喜好 山田三郎 山
崎
要
石
亀喜代治 宇美金松 池田秋男
南茅部町史 上巻
([地名のうつり変わり])
テウシ
崎
神鬼(カムイ)(
石
神(シュマカムイ)) ヒカタトマリ ヒカタトマリ ウノトマリ,(キナヲシノサキ) キナウシ
崎
クロイワ 黒
石
サキ キナヲシ ホロキナウシ キナウシ,(サハラ) 内浦岳 砂
崎
スナサキ 砂
崎
砂サキ モンベサハラ,字葉
石
浜 支古部 字古部 木直 字割
石
字大梶浜 字高岩浜 字白川浜,字白川 字白川 字寄浜 字好浜 字大
石
浜 字大
石
浜 字ソイクチ浜
函館市史 銭亀沢編
(短冊状地割と境界について)
、志苔村字志苔、銭亀沢村字本村、字湊と字古川尻の一部、
石
崎
村字
石
崎
、字中村、字白
石
と目名町の一部にみられる,
石
崎
より東側の小安は、以降和人居住が進み、村並となったが、法制的には
石
崎
が東境であった(榎森進「和人地,そして黒岩村観音堂が
石
崎
八幡宮に継承されていることから、再び東境が
石
崎
付近に移動したと考えられる。,また
石
崎
に日持上人が庵を結んだという一二世紀末期や、
石
崎
宮の沢の「鰐口」から、一五世紀中期にも
石
崎
に和人領域,次に
石
崎
村の小字をみてみると、川を境界に西より字
石
崎
、字中村、字白
石
、目名町、谷地町と並んでいる。
函館市史 銭亀沢編
(學校沿革)
仝拾九年簡易科トナリ仝廿三年根
崎
學校ト併合宇賀小學校トナル。,根
崎
小學校ハ明治十七年二月創立、小學初等科ヲ置ク。,△
石
崎
尋常小學校 明治十三年四月創立、
石
崎
學校ト稱シ変則小學ヲ置ク。,仝拾七年地ヲ
石
崎
村字白
石
ニ相シ校舎新築ス。仝廿年學制改正ニヨリ小學簡易科、修業年限三ケ年トナル。,仝四拾弐年
石
崎
村字
石
崎
野ニ新築移轉ス。此坪数百八十坪六二五ニシテ建築費五千三百五拾円也。
戸井町史
((参考)康正三年(一四五七)の下北地方豪族配置図)
大杭員)」「鬼沢(サンタン、大杭桂)」「八森、鬼フカ、狐森(原藤右衛門)」「車返宿(
石
堂丹後)「「桧川,蛇沼 蠣
崎
主説 秋田外記、久城三郎兵衛 兵糧一八二、〇〇〇
石
湯野沢 蠣
崎
主税領、北川突呂賢 一二,、〇〇〇
石
木
石
原田舎人(とねり) 佐井 サンタン牛一、五〇〇頭 矢越 矢越十郎 遠望観 シヨウコン,寺 葛西 三〇、〇〇〇
石
福浦 佐々木茂作 五〇〇人 鬼門(きもん)
崎
鬼兜修理(おにかぶとしゅり),殿
崎
蠣
崎
蠣
崎
蔵人信純 錦帯城 車返宿
石
堂丹後 宿野辺一二〇〇人 桧川 桧川弾正 内桧川
函館市史 通説編 第一巻
(下海岸方面の社寺)
下海岸方面の社寺 志海苔八幡神社は天正年間(1573 1591)、銭亀沢八幡神社は正保元(1644)年、根
崎
川濯,(かわそそぎ)神社は寛文4(1664)年、古川尻川濯神社は明和元(1764)年、
石
崎
八幡神社は明和8年,なお、
石
崎
八幡社は永享の鰐口があるので、永享年間を草創時としているが、鰐口は文化年間の出土品で関係がないように,
石
崎
の勝願寺(浄土宗称名寺末)は明暦2年に、僧求道が建て求道庵といい(大正9年寺号)、銭亀沢の大願寺(
函館市史 銭亀沢編
(銭亀沢地域の産物)
年にまとめられた「松前地竝東蝦夷地明細記」(北海道立文書館蔵 旧記一一九四)には、志苔村、銭亀沢村、
石
崎
村,銭亀沢では農業によって生計をたてる戸数と漁業によるものが半分ずつ、志苔は七割が漁業で農業は約二割、
石
崎
,ただし、漁業が九割を占める
石
崎
村では農産物の換金はあるが、わずかである。 ,「亀田郡各村物産表」によれば、
石
崎
、下湯川村の概況欄に「漁業ハ現今、至テ薄漁ナリ」「漁業ハ薄漁ナリ」〈,さらに
石
崎
村の概況欄に「当村民ノ如キハ農漁両業ヲ兼営ノ仕来タリニテ農ニ未熟ニシテ漁ニ長セリ、故ニ農ニ疎
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