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函館市史 銭亀沢編
(石崎村)
石崎
村 銭亀沢地域の東部、現在の戸井町と境を接するのが
石崎
村である。,字白石、崎は宅地の背後がすぐ崖地となっており、また、銭亀沢村寄りの字
石崎
は海岸線から宮の川沿いに宅地が,条件によるのであろうが、谷地町、目名町の宅地は等級一等、二等が圧倒的に多いのに対して、白石、中村、崎、
石崎
,表1・4・9
石崎
村宅地等級別筆数(明治11年) (単位:筆) 「地位等級調」(北海道立文書館蔵 ,簿書番号2832)により作成
石崎
村居住者が所有する耕地は村内および亀尾村に全部で一九三筆 /
石崎
村
函館市史 銭亀沢編
(〈石崎〉)
〈
石崎
〉
石崎
村は、銭亀沢村境より、字小鳥澗、字崎、
石崎
宮の川を挟んで字
石崎
、寺の川を挟んで字中村、,字
石崎
は
石崎
宮の川と寺の川に挟まれた間口約一八〇メートル、奥行四〇メートル足らずの狭い地域である。,字
石崎
の西境は
石崎
宮の川で、対岸に字
石崎
の地番を持つ
石崎
八幡神社が旧道に面して位置する。,
石崎
八幡神社は一五世紀創建といわれる古社で、明和八(一七七一)年に旧道に面した場所に設置された。,字
石崎
、字中村、字白石では、浜側の干場がすべて宅地化しており、字
石崎
の人口の増大による宅地開発がうかがえる / 〈
石崎
〉
函館市史 銭亀沢編
(石崎共同墓地)
石崎
共同墓地 銭亀沢の共同墓地を市立函館保健所の資料からまとめたのが表4・5・2である。,表によると
石崎
の墓地は明治四十一年と地域内では遅れて許可になっているが、これは現墓地へ通じる坂下の勝願寺,昭和四十七、八年頃に戸井から
石崎
にかけての山中に祀られていた西国三十三観音を境内(現駐車場)に移したとき,墓域は土手に囲まれ、北東部には昭和六十一年に廃止された
石崎
火葬場の建物が残っている。,表4・5・3
石崎
共同墓地内建立年別墓石数 /
石崎
共同墓地
函館市史 銭亀沢編
(石崎火葬場)
石崎
火葬場 戦前の記録が残っていないので正確なことは判らないが、古老からの聞き取りによると、
石崎
では /
石崎
火葬場
函館市史 銭亀沢編
(八幡神社(石崎町))
八幡神社(
石崎
町)
石崎
宮の川の西岸の丘陵上に社殿が建っており、社地より
石崎
の集落を一望することができる,それ以前は現在の参道階段下の旧道が
石崎
宮の川にかかる橋の脇に位置し、段丘を背負って建っていた。 ,「鰐口」については、明治八年に
石崎
村副戸長・崎野佐太郎によって記された来歴がある。,それによると、
石崎
村脇沢に古来より山神社があったが、七、八〇年前に村民が亀尾村へ移動し山神社を遷座させた,八幡神社(
石崎
町) 八幡神社配置図 八幡神社平面図 八幡神社立体図 / 八幡神社(
石崎
町)
函館市史 銭亀沢編
(大字石崎村)
大字
石崎
村 凡ソ七百年前、一ノ漁場ヲ開キタルヨリ漸次移住者アリテ一部落ヲ形勢シ、當亀田海岸中屈指ノ一大部落 / 大字
石崎
村
函館市史 銭亀沢編
(石崎町の二つの講)
石崎
町の二つの講 「明神講」は、一般に「女性の正月」といわれる旧暦一月十五日の「小正月」に、女性だけが,神主を招いて、
石崎
八幡社に集まり、会食・雑談をする。 /
石崎
町の二つの講
函館市史 銭亀沢編
(石崎八幡宮の場合)
石崎
八幡宮の場合 恒例の春夏の神楽は、明治の頃から現在まで大きな変化はなく、二月十七日の「春神楽」と,
石崎
町の祭礼(藤本忠一提供) 春神楽の獅子神楽行列は、獅子頭を持つ奉讃会役員と四二歳の男性厄年,一方の「秋祈祷」は、十一月から十二月に、奉讃会役員が伊勢神宮と
石崎
八幡神社のお札を戸別配付するもので、,、たとえば、今日の建国記念の日、みどりの日、勤労感謝の日(かつての新嘗祭)に、銭亀沢八幡社の神主が、
石崎
/
石崎
八幡宮の場合
函館市史 銭亀沢編
(〈石崎農業協同組合〉)
〈
石崎
農業協同組合〉 銭亀沢村字
石崎
の住民が共有する森林を管理することを第一の目的で設立されたものである,第二次世界大戦前は、
石崎
漁業組合が共有森林の管理をおこなっていたが、地区住民は必ずしも漁業協同組合の組合員 / 〈
石崎
農業協同組合〉
戸井町史
(「附」石崎、箱館の松代家系図)
「附」
石崎
、箱館の松代家系図 「附」
石崎
、箱館の松代家系図 / 「附」
石崎
、箱館の松代家系図
函館市史 銭亀沢編
(石崎漁業協同組合の村づくり運動)
石崎
漁業協同組合の村づくり運動 昭和三十七年に、出稼ぎを少なくし、経済的に安定した漁村に脱皮することを,
石崎
地区では、
石崎
漁業協同組合が主体となって、昭和三十六年より関係諸機関と村づくり推進のための協議がおこなわれ,まず昭和三十七年七月六日には、当時の銭亀沢村村長を委員長に「
石崎
漁協地区村づくり推進委員会」が設立された,
石崎
地区は、市街地を除けば、一八〇町歩の背面地、八〇町歩の専農地、二〇〇町歩の牧場と一二三八町歩の植林地,表3・3・9 「
石崎
漁協地区村づくり推進委員会」の構成員(昭和37年現在) /
石崎
漁業協同組合の村づくり運動
函館市史 銭亀沢編
(武井家煉瓦倉庫 [ボウジョウ] 石崎町 22)
武井家煉瓦倉庫 [ボウジョウ]
石崎
町 22 武井家の先祖は新潟県から青森県に移住し、安永二(一七七三,)年には蓬田村で高持百姓だったが、天保飢饉ののち渡道し、明治二十年代以降、
石崎
で鰯漁場を営んだという。,武井家は本家
石崎
武井家のほか、泊、茅沼にも鰊漁場を営む分家があり、また積丹・古宇の鰊漁業家田中家とも姻戚関係,
石崎
が鰯漁で繁栄した時期の良質な煉瓦造倉庫で、貴重な遺構である。 / 武井家煉瓦倉庫 [ボウジョウ]
石崎
町 22
戸井町史
([石崎まで来た巡見使])
[
石崎
まで来た巡見使] 徳川三代将軍家光の時代から諸国に巡見使を派遣して、諸藩の行政を視察させて、諸藩,巡見使は戸井までは来なかったが
石崎
まで来ているので、下海岸の当時の状況を推定出来るような記録がある。,
石崎
は小安の隣りなので、いろいろな影響を与えたものと思われる。 ,松前藩の巡視範囲は、西は福山から江差、乙部、茂内まで、東は福山から知内、木古内、亀田を経て、潮泊、
石崎
,東部の
石崎
村や、西部の乙部村の役人は、巡見使に謁見(えっけん)するアイヌの代表をきめ、アイヌの演芸の代表 / [
石崎
まで来た巡見使]
函館市史 銭亀沢編
([図版])
) (平成7年・
石崎
町) (平成8年・志海苔町) (平成8年・
石崎
町),(平成9年・根崎町)
石崎
八幡神社祭礼-海上パレードと神楽の舞-(平成9年・
石崎
町),(平成9年・
石崎
町) (平成9年・
石崎
町) (平成9年・
石崎
町),9年・古川町) (平成9年・
石崎
町) (平成9年・古川町) (平成9年・,
石崎
漁港(平成9年・
石崎
町)
函館市史 銭亀沢編
(墓地と火葬場)
の裏の墓地のようにお寺が管理する墓地のほかに、銭亀・志海苔共同墓地、新湊町共同墓地、古川町共同墓地、
石崎
共同墓地,以前はこの四か所の共同墓地にそれぞれ火葬場があったが、現在、火葬場が残されているのは
石崎
共同墓地のみである,
石崎
火葬場は、明治四十一(一九〇八)年に設置され当初から
石崎
町会で経営されていた。,その
石崎
火葬場も昭和六十一年にはその業務を終え、平成六(一九九四)年に廃止、現在はその建物だけが残されている,
石崎
火葬場
石崎
火葬場平面図
石崎
火葬場立面図
函館市史 銭亀沢編
([ファインダーからみた銭亀沢の記憶])
[ファインダーからみた銭亀沢の記憶] 昭和四十二年夏、古川町と
石崎
町へ写真撮影に訪れたのが、銭亀沢地域,ちょうどこの日は、
石崎
八幡神社の祭典の日で、幟や大漁旗を飾りつけた船による海上パレードには、町内の漁民,賑う(昭和44年・
石崎
町) 昆布採りには、家族総出で協力する(昭和44年・
石崎
町),・
石崎
町) 生育の良い昆布を身にまとい、豊漁を喜ぶ婦人(昭和44年・
石崎
町) 昆布採,と人びと(昭和44年・古川町)
石崎
八幡神社祭礼当日の
石崎
町(昭和42年・
石崎
町)
函館市史 銭亀沢編
(森林組合)
ここでは
石崎
の場合を紹介してみたい。 ,銭亀沢村大字
石崎
の住民に一一〇〇町歩の森林が北海道庁から払い下げられ、大正二年五月二十二日に
石崎
植林組合,その後、
石崎
の共有森林の管理は、
石崎
漁業協同組合が、そして昭和十九年からは銭亀沢漁業会
石崎
実行組合が受,け持ち、戦後は、再び
石崎
漁業協同組合が引き継いだ(前述)。,鶴野は、昭和七年に
石崎
村から分村したが、専業農家の多い鶴野と漁家の多い
石崎
で共有林を分割した。
函館市史 銭亀沢編
(郵便電信)
郵便電信
石崎
郵便局、銭亀澤郵便局ノ二アリ。銭亀澤局ハ無集配局ナリ。,
石崎
郵便局ノ配達区域ハ大字
石崎
村一円及字古川尻及湯川村大字亀尾村ニシテ、銭亀沢村ハ(
石崎
、古川尻ヲ除ク
函館市史 銭亀沢編
(ののしりことば)
ののしりことば かつて古川の子どもたちは、隣の
石崎
の子どもとけんかしたとき、「
石崎
まんじゅう、砂糖はいらじ,今でもしまり屋すぎる
石崎
町の人を陰でいうときに、「
石崎
まんじゅうだもな」という。
函館市史 銭亀沢編
(評議員会)
その組織と内容について、
石崎
町を事例としながら、聞き取り(倉部善太郎談)に基づいて紹介する。 ,銭亀沢村大字
石崎
は、崎(戦後は崎と崎野の二つに分れた)、
石崎
、中村、白石、目名松、谷地(戦後は谷地一・,
石崎
評議員会は、委員長一名、評議委員一二名および専任の書記一名から構成されていた。,事務所は、現在の
石崎
町会集会所(
石崎
二八三)にあり、老人の書記が常駐していた。
函館市史 銭亀沢編
(北海道一級町村制の施行)
なお、廃止された小字で新しい字に採用されなかった字名は、大字
石崎
村では、谷地町、中村、目名町、中鶴澗など, 谷地町 松井菊松
石崎
松井菊松 松井菊松 川島仙蔵 川島仙蔵 瀬川寅吉 根崎村 寒坂 寺谷勇平,
石崎
川島邦彦
石崎
川島邦彦 川島邦彦 中村長兵衛 中村長兵衛 中村長兵衛
石崎
村 白石 阿部雄蔵,
石崎
山田徳五郎 山田徳五郎 沢田松之進 沢田松之進 沢田松之進
石崎
村
石崎
沢田松之進
石崎
,沢田松之進 沢田義三郎 菊地初太郎 菊地初太郎 森川盛
石崎
村 中鶴澗 森川盛 鶴野 川村沢蔵
函館市史 銭亀沢編
([教化])
ナカリシガ、開拓使ノ奨励勧誘ニヨリ部内一時ニ小學校ノ設立ヲ見、明治十三年ニ本村大字銭亀澤村ニ銭亀學校、
石崎
,ニ
石崎
學校字古川尻ニ古川尻學校大字志苔村ニ志苔學校ノ四學校仝拾七年ニ大字根崎村ニ設立ノ根崎學校アルニ至,其後廢合行ハレ、現時銭亀尋常高等小學校、宇賀尋常小學校、
石崎
尋常小學校ノ三學校アリ。
函館市史 銭亀沢編
(銭亀沢地域の産物)
年にまとめられた「松前地竝東蝦夷地明細記」(北海道立文書館蔵 旧記一一九四)には、志苔村、銭亀沢村、
石崎
村,銭亀沢では農業によって生計をたてる戸数と漁業によるものが半分ずつ、志苔は七割が漁業で農業は約二割、
石崎
,ただし、漁業が九割を占める
石崎
村では農産物の換金はあるが、わずかである。 ,「亀田郡各村物産表」によれば、
石崎
、下湯川村の概況欄に「漁業ハ現今、至テ薄漁ナリ」「漁業ハ薄漁ナリ」〈,さらに
石崎
村の概況欄に「当村民ノ如キハ農漁両業ヲ兼営ノ仕来タリニテ農ニ未熟ニシテ漁ニ長セリ、故ニ農ニ疎
戸井町史
(二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛)
石崎
松代家の五代目であり、孫兵衛としては三代目である。この時三代孫兵衛は四十一才であった。 ,市蔵は幼ない時から学問を好み、七才の時から七ヶ年間、
石崎
村の小林左右平(さうへい)の寺子屋に学んだ。,代島剛平の学塾を卒えて、
石崎
に帰った市蔵は、村人たちに懇望されて、自宅で寺子屋を開いた。,松代家の祖先は長野県松代の出身といわれ、故あって下北の佐井に移住し、
石崎
松代家の祖金沢屋孫兵衛は
石崎
に,この家屋と仏壇は、現在松代脩也の所有となり
石崎
にある。
函館市史 銭亀沢編
(戦時下の漁業会)
これによって銭亀沢村では、従来の銭亀沢、宇賀、
石崎
の三つの漁業協同組合が合併して、昭和十九年六月十五日, 銭亀沢漁業会の設立総会は十五日午前十時より同村国民学校に招集された宇賀、
石崎
両協同漁業組合, 会長九島喜代吉(元銭亀沢漁組合長) 理事和泉亀之助(宇賀) 同川村沢蔵(銭亀沢) 同川村弘(元
石崎
漁組合長,) 同中宮徳次郎(宇賀) 同蛯子綱太郎(銭亀沢) 同笠原三太郎(
石崎
) 専務理事松代一郎(元
石崎
主事), 監事中宮亀吉(宇賀漁組合長) 同岩田久次郎(銭亀沢) 同亀田金助(
石崎
)
函館市史 銭亀沢編
(戦時下の寺院)
165 旧6月1日 真宗大谷派 觀 意 寺 字
石崎
120 - 曹 洞 宗 善 寶 寺 字
石崎
,110 - 浄 土 宗 勝 願 寺 字
石崎
230 - 浄 土 宗 大 願 寺 字銭亀,この
石崎
説教所(今日の西願寺の前身)が、大正九年から昭和九年の間に
石崎
地区に進出していたことになる。,これによって、地内の六か寺の仏教寺院のうち、五か寺が
石崎
地区に集中していたことがわかった。,
石崎
地域は、あたかも「宗教ゾーン」のようである。
函館市史 銭亀沢編
(短冊状地割と境界について)
集落配置断面図 短冊状地割は根崎村字根崎、志苔村字志苔、銭亀沢村字本村、字湊と字古川尻の一部、
石崎
村字
石崎
,
石崎
より東側の小安は、以降和人居住が進み、村並となったが、法制的には
石崎
が東境であった(榎森進「和人地,そして黒岩村観音堂が
石崎
八幡宮に継承されていることから、再び東境が
石崎
付近に移動したと考えられる。,また
石崎
に日持上人が庵を結んだという一二世紀末期や、
石崎
宮の沢の「鰐口」から、一五世紀中期にも
石崎
に和人領域,次に
石崎
村の小字をみてみると、川を境界に西より字
石崎
、字中村、字白石、目名町、谷地町と並んでいる。
函館市史 通説編 第一巻
(下海岸方面の社寺)
1644)年、根崎川濯(かわそそぎ)神社は寛文4(1664)年、古川尻川濯神社は明和元(1764)年、
石崎
八幡神社,なお、
石崎
八幡社は永享の鰐口があるので、永享年間を草創時としているが、鰐口は文化年間の出土品で関係がないように,
石崎
の勝願寺(浄土宗称名寺末)は明暦2年に、僧求道が建て求道庵といい(大正9年寺号)、銭亀沢の大願寺(
函館市史 銭亀沢編
(漁民戸数と漁民の状態)
漁民戸数と漁民の状態 明治十六年末の村落別漁業戸数は、表3・1・1にみられるように、
石崎
村が一二二戸,村落別の漁人すなわち漁業従事者数は、
石崎
村四八四人、銭亀沢村一五八人、根崎村一二五人、志苔村九二人で、,一戸当たり家族従事者は、
石崎
村で三・九人、根崎村で二・四人と他地区に比べて多いのが目立っている。
函館市史 銭亀沢編
(青年會)
青年會
石崎
青年團 大字
石崎
村ニアリ。
函館市史 銭亀沢編
(大字銭亀沢村)
大字銭亀沢村 凡ソ五百年前
石崎
村ノ移住者中分離シテ一部落ヲナシ、現今湯川村大字亀尾村ヲ包有シテ、明治,明治十三年戸長役場ヲ置カレ、同十六年
石崎
村戸長役場ト合併シ、明治丗五年四月二日二級町村制ヲ施行セラレテ
函館市史 銭亀沢編
(祭典行事)
祭典行事 宵宮・翌日の本祭当日には、たくさんの人が「みこし」を担ぎ(古川町)、「子供みこし」も出る(
石崎
町,
石崎
町の船パレードは、八月十四日(祭典・第一日め)の日、晴天で、波穏やかなときおこなわれる。,最近は参加する船が四〇数隻で、
石崎
漁港に待機する。,日章旗・大漁旗を掲揚し、
石崎
八幡神社下の沖合に集結する。午前八時、花火の合図で開始される。,
石崎
町の船パレード・昭和44年(俵谷次男提供) 船上での安全祈願は昭和四十二年から、漁業協同組合主催
函館市史 銭亀沢編
(學校沿革)
△
石崎
尋常小學校 明治十三年四月創立、
石崎
學校ト稱シ変則小學ヲ置ク。,仝拾七年地ヲ
石崎
村字白石ニ相シ校舎新築ス。仝廿年學制改正ニヨリ小學簡易科、修業年限三ケ年トナル。,仝四拾弐年
石崎
村字
石崎
野ニ新築移轉ス。此坪数百八十坪六二五ニシテ建築費五千三百五拾円也。
戸井町史
(三 書画)
小安武井常太郎所蔵 ⑨高橋泥舟書 釜谷〓吉田家所蔵 ⑩松前章広書
石崎
松代家所蔵,水墨山水双幅 小安伊藤栄八所蔵 ④尾形光琳画 小安〓渡辺家所蔵 ⑤谷文晁画
石崎
松代家
函館市史 銭亀沢編
(戸数と集落)
戸数と集落 銭亀沢地区の集落の変遷については、年代については伝承の域をでないが、一三世紀にまず
石崎
と,志苔に集落が形成され、それより数百年おくれて、
石崎
村の移住者が分離し字本村・字湊・字古川尻の三部落を形成,
石崎
村は一八世紀の中頃に集落規模が拡大し、一九世紀にも増大期がある。,いずれも漁村集落であるが、志苔村・銭亀沢村字本村・
石崎
村は昆布を主軸にした沿岸漁業で、字湊・字古川尻は,それに先立つ一八世紀中頃に発展した
石崎
村や上湯川村・下湯川村は、北前船流通の全国展開の下地を形成した地場産業
函館市史 銭亀沢編
(婚姻による伝播)
石崎
の中村ともえの祖母は秋田、
石崎
の武井ちよみ、新湊の河越サキ本人と姑は津軽、古川の松代ヨサ子の母イセ,
石崎
には津軽から来た嫁さんは多いけれどみんな土地になじもうとしている。
函館市史 銭亀沢編
(消防団)
大正期の銭亀沢村の消防組合は、大字根崎村、大字銭亀沢村、大字
石崎
村などの三部に分かれており(大正七年『,たとえば、
石崎
分団は、部長一名、小頭(こがしら)五名、消防手四〇名余りからなっていた。,昭和三十年代、村の消防団は、根崎分団、志海苔分団、湊分団、銭亀沢分団、古川町分団、豊原分団と
石崎
分団の,
石崎
分団の組織は、分団長一名、副分団長二名、班長五、六名、部長四名および隊員四〇名余りであった。,部長は、
石崎
内の地区を代表するように選出された。班長は、分団長、副分団長と部長が集まって決めた。
函館市史 別巻 亀田市編
([十月])
箱 館 御 役 所 箱館より下湯川村
石崎
村夫,以上 十月十一日 在 方 掛 鍛治村
石崎
村右村々役人中, 覚 鍛次村 六郎
石崎
村 孫兵衛 以二御用状一申達候。,在 方 掛 一ノ渡村より峠下村迄 夫より上山村 赤川村 鍛次村 夫より下湯川村迄 夫より
石崎
村迄
函館市史 銭亀沢編
(道路割・屋敷割の復原的考察)
それでは、近世期からの集落である志苔村字志苔、銭亀沢村字本村、字湊、字古川尻および
石崎
村字
石崎
について,また、字
石崎
が拡張する過程で形成されたと思われる例の一つとして字白石を取り上げる。
函館市史 銭亀沢編
(安藤康季の渡道と「道南の十二館」)
の「宮の沢」を指すので、「澤山神」なる神社が
石崎
に存在していたことは間違いない。,またアイヌと居住空間を接する
石崎
には、もう一つの宗教的施設が、小林良景-良定の世に整えられていたように,人によっては、志苔館と
石崎
の地理的距離から、「館神」のこと、この「経石庵」を志苔館ないし小林氏に結び付,既述した志苔館を茂別館・中野館の広域ゾーンで捉えると同様に、東部の
石崎
も志苔館-
石崎
のゾーンで考えてみてはどうであろうか,アイヌと隣接する
石崎
地区は、志苔館にとって、戸井館亡き跡の一種の「宗教ゾーン」であったように思われる。
函館市史 銭亀沢編
(子どもを守る会)
昭和四十年代に活動が活発であった
石崎
町子どもを守る会の場合をみてみる。 ,
石崎
には、七つの分団、すなわち崎分団、
石崎
分団、中村分団、白石分団、目名町分団、谷地分団および鶴野分団,ただし、函館市との合併後、鶴野は
石崎
から分れている。,
石崎
の子どもを守る会は、指導者の高齢化が進んできたうえに、当初は協議会が全体の事業をおこなっていたが、
函館市史 通説編 第一巻
(永享の鰐口)
永享の鰐口 永享の鰐口(
石崎
八幡宮) 更に北海道における最も古い金石文として、本市銭亀沢町の,
石崎
八幡宮に残される鰐口がある。
函館市史 銭亀沢編
(漁獲高の推移と漁業構造の変化)
魚種の内容は、
石崎
漁業協同組合の事例を表1・7・3にまとめた。,各漁業協同組合別水産物取扱高の推移 各『漁業協同組合業務報告書』より作成 表1・7・3
石崎
漁業協同組合,の水産物取扱高推移 各年次『
石崎
漁業協同組合業務報告書』より作成,48年度) 共同種苗供給センターによる促成こんぶの成育状況(昭和49年度) 第2回
石崎
産養殖,わかめ即売会(昭和51年度)
石崎
漁港第6次整備完了(昭和55年度) 組合自営さけ
函館市史 銭亀沢編
(風の日変化)
いて日暮れに凪る 【根崎】 やどいとクダリは日一杯 【
石崎
, 【根崎(志海苔)】 アイ(アエ)の朝凪ぎ、クダリの夜凪ぎ 【志海苔(
石崎
函館市史 銭亀沢編
(妊婦・出産の禁忌食)
また、体の冷える食品(
石崎
町)や、脂肪の多い食品(志海苔町)を避けている地域もある。 ,そのほかに、妊婦と同様に脂肪の多いもの(志海苔町)や、赤カブ漬け、ナスの潰物(
石崎
町)を出産後の禁忌食
函館市史 銭亀沢編
([銭亀沢地域における土地の所有状況])
しかし、
石崎
村、根崎村(下湯川村)にかかるこの調書は見つかっていない。,「昆布場及取獲高調」はもともと五冊之一から五まで作成されたと思われるが、現在、五冊之四は未見であり、
石崎
村,また、「地位等級調」(北海道立文書館蔵 簿書番号二八二六〈根崎村、志苔村〉、二八三二〈銭亀沢村、
石崎
村
函館市史 通説編 第一巻
(日持上人の渡来説)
日持上人の渡来説 永仁4(1296)年、日蓮の高弟6僧の1人である日持上人が、津軽
石崎
を経て渡来したという,その遺跡として伝えられるのは、
石崎
妙応寺、函館山の鶏冠石(夜泣石、題目石ともいう)などがあるが、史実か,
石崎
妙応寺は明治12(1879)年の寺号公称で、それ以前は経石庵といったが、同寺には寛保2(1742)
函館市史 銭亀沢編
(銭亀沢周辺の地名)
家七軒 一 塩泊 川有 狄おとなコトニ 但ちやし有 家十軒 一
石崎
,また、「しのり」と「
石崎
」はそれぞれ二四、五軒、一〇軒の人家があると記されている。,年に編纂された「函館支庁管内町村誌」(渡島教育会編)では、村の開始時代を詳知できないが「志苔村」と「
石崎
村,」は、およそ七〇〇有余年前に漁民により漁場が開かれ移住者が増えて部落が形成され、銭亀沢村は
石崎
村からの
函館市史 別巻 亀田市編
(小頭)
』安永三(一七七四)年の記事に、「箱館 小頭彦右衛門、亀田 幾右衛門、尻沢部 三郎兵衛、ゆの川藤七、
石崎
,有川吉左衛門、湯ノ川 善次郎、かぢ村 勘次郎、上山 長四郎、大野 太十郎、七重 仁八、濁川 宇兵衛、
石崎
函館市史 銭亀沢編
(寺院)
寺院 △日持山妙應寺 日蓮宗 大字
石崎
村ニアリ。,上人ハ永仁三年本国ヲ発シ奥羽地方ヲ巡化シ、仝年六月津軽
石崎
浜ヨリ漁夫甚平ナルモノヲ船頭トシうすけし島(,△観意寺 真宗大谷派 大字
石崎
村ニアリ。
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