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南茅部町史 上巻
(砂原)
砂
原
兵糧・弾薬が配分されて、本道口攻めの本隊に先だって一〇月二二日早暁、土方隊総勢四百名が鷲ノ木を,宿野辺から尾白内に出て海岸を進み、その日は
砂
原
に着陣した。 ,一〇月二三日、土方隊は
砂
原
を出発して白雪の駒ケ岳の裾野を鹿部村に向かった。 /
砂
原
椴法華村史
(砂原出張所から戸井出張所へ)
砂
原
出張所から戸井出張所へ 椴法華村は明治二年八月十五日から茅部郡に属し尾札部村の枝郷であった。,な村民は、本村である尾札部村かあるいは函館にある開拓使の役所へ出向き、また明治五年二月からは函館支庁
砂
原
出張所,かなければならず、しかも冬期間や荒天時の際は海路が使用できないため、川汲峠を越えたり陸路函館まで出て、それから
砂
原
村,村役人とともに、戸井出張所へ年始言上に出向くことが慣例とされ、機会あるごとに本村(尾札部村)の所属する
砂
原
出張所,『明治六年
砂
原
往復留』 民事課(北海道蔵) (朱)中判官印(杉浦) (赤) /
砂
原
出張所から戸井出張所へ
恵山町史
((2)山砂鉄)
表土のローム層中の軽石粒は水分の吸収が大きく、特に雨天の剥土作業は
原
則として行なわなかった。 ,
原
鉱品位の均等と給鉱量の安定を計るため一定斜面を削り下げ、かさ上げ混合したものをショベルでダンプカーに,運搬された
原
鉱は、除礫場最上位にあるグリズリー(150m/m目)に入れ、プラス150m/mは礫置場に堆積,直結したもの)給鉱されるが、前記フイダーのロール間隔は30m/mであり注水をしてマイナス30m/mの
原
鉱,また、プラス30m/mの塊状
原
鉱及び礫は湿式ミルトロンメル内で相互作用で破砕された後、30m/mトロンメル / (2)山
砂
鉄
恵山町史
([鉱業のあゆみ−砂鉄])
砂
鉄の鉱脈』なのである。 ,尻岸内の
砂
鉄 資源としての
砂
鉄の歴史は古い。,
砂
鉄は鉄器時代に入り、武器や農・工具をつくる上で最も入手しやすい鉄の
原
料であったろう。,そして、これを
原
料に、世界で最も優れた刃物と言われる日本刀や、数多くの鉄製品・文化を生み出してきた。,わが町にも、地元の
砂
鉄を
原
料に造られた日本刀が文化財に指定され現存する。 / [鉱業のあゆみ−
砂
鉄]
恵山町史
((1)ライマン等の砂鉄調査)
渡島は勿論、郷土の
砂
鉄についても詳細な調査が行われている。,
砂
鉄の性質が磁鉄であること。,恐らく、高炉稼働のため相当の量の
砂
鉄を集積していたのであろう。,このため、
砂
鉄層が薄くなっているとも報告している。,恐らく
原
料の
砂
鉄が不足したため古武井から取り寄せ混ぜて使用したと思われる。 / (1)ライマン等の
砂
鉄調査
椴法華村史
(山津波の原因)
山津波の
原
因 椴法華村の村落は海岸段丘に沿って形成され、海岸地帯の道路沿いに人家が密集しており、背後,この人家に押し迫っている段丘は石・火山灰・粘土・
砂
等の軟弱な地質のため水に非常に弱く、土
砂
流出防止堰堤 / 山津波の
原
因
戸井町史
(十八、日浦トンネル入口付近の土砂崩れ(昭和四十七年))
トンネル
原
木側入り口附近が土
砂
崩れを起し、国道二七八号線を一八〇メートルにわたって埋め尽し、その間の交通,この大災害の
原
因は、降雨のためであることは明らかだが、以前これ以上の豪雨でもこのようなことがなかったことから,この発表で地元漁民の間では、損害補償の問題が論ぜられているが、
原
因がトンネル工事の工法や保安方策のミス,即ち
原
木川沿いと戸井川沿いに上る林道を拡巾整備して蛾眉野線につなぐことである。,国道二七八号線から
原
木川、戸井川の道路を縦につなぐことが実現すれば、大間―戸井間のフェリーボートに積載 / 十八、日浦トンネル入口付近の土
砂
崩れ(昭和四十七年)
椴法華村史
(恵山賽の河原)
恵山賽の河
原
恵山温泉の北側の高山植物帯を経て約二百メートルの所に賽の河
原
がある。,一面の
砂
地に焼石が無数に散在する中に地蔵尊がまつられており、岩石や小石を塔状に積み重ねたものが無数に有,メートルにも及び風雪にもよく耐え、悪戯をしてこの石を崩し去っても翌朝には、元の形に復すと伝えられ、賽の河
原
の / 恵山賽の河
原
南茅部町史 上巻
(小原多次郎事蹟)
小
原
多次郎事蹟 北海道漁業功労者事蹟によれば、郷土沿岸におけるニシン漁は、明治一一年に六代目飯田屋与五左衛門,明治一四年に函館新聞が報じている小
原
多次郎が初めて磐ノ沢沖にニシン網を建てて漁獲に恵まれ、沿岸の漁家が,古来、茅部ニシンは
砂
原
・鷲ノ木・野田追・弁辺などの噴火湾の場所が主だったときだけに、飯田屋の一一年説も,、小
原
の一四年説も、郷土のニシン漁開発にとっては貴重な記録である。 ,尾札部の小
原
家に所蔵されている小
原
多次郎に関する資料の多くは、明治一四年に初代尾札部郵便局長となった郵政資料 / 小
原
多次郎事蹟
恵山町史
(1、賽の河原)
吹きだす噴気孔、硫黄臭をただよわす赤褐色の火山石・地表を覆う白い火山
砂
…訪れた人々は、そこに、幼くして,この文中の西院川
原
は、現在の『賽の河
原
』のことである。,武四郎が恵山を踏査した弘化3・4年(1846・7)には、この恵山火口
原
の冥界「賽ノ河
原
」はすでに存在し,賽の河
原
入口 賽の河
原
とは 幼くして死んだ子供らの逝くところ(冥界)、三途の川の岸辺にあるという,供養の積石 恵山火口
原
の賽の河
原
には、子を亡くした親たちの思いが託された石仏が、思い思いの場所 / 1、賽の河
原
函館市史 銭亀沢編
(古砂州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前))
古
砂
州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前) 一二万年前に,打ち寄せられ、函館山に向けて
砂
州が発達し始めた。,その背後には、海から
砂
州により閉ざされた潟湖が形成され、そこには泥質物が厚く堆積した。,これらはいわば古
砂
州、古潟湖とも呼べるもので、古
砂
州にあたるところが、現在の千代台公園や、本町、柏木町,一方、古潟湖にあたるのは本通、柳町、川
原
町、深堀町の一部などである。 / 古
砂
州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前)
恵山町史
([町議会議員・議長・副議長])
光広 藤谷 常作 三好 博巳 菅 弘 田中 博 村上幸太郎 山内 健治 山内 健治 藤谷 常作
砂
原
竹三郎,菊雄 山崎勇次郎 野呂 菊雄 小西 礼八 小西 礼八 平泉 正雄 三好 博巳 増輪 正 中野 仁助
砂
原
竹三郎,梅一 岩田 清 藤谷 常作 野呂 菊雄 坪 光男 平泉 正雄 坪 光男 佐藤留之丞 杉谷 義定
砂
原
竹三郎,滝 一彦 成田 等 菅 弘 佐々木一朗
砂
原
竹三郎 笹田謙之丞 須貝 友衛 成田 等 古部,
砂
原
竹三郎 館山千代治 長田 栄喜 斉藤 明男 斉藤 明男 依田 邦男 昭和60.5まで 平成元
恵山町史
(昭和48年(1973年)日浦・原木間『日浦トンネル』開通)
昭和48年(1973年)日浦・
原
木間『日浦トンネル』開通 昭和44年(1969)7月、下海岸道路の国道昇格,計画年度最終年の47年には、戸井町
原
木口付近で大量の土
砂
崩れが発生し工事進捗に支障を来したが、関係筋・,〈応募先 役場総務課〉 なお、観光客に好評であった、この風光明媚な
原
木・日浦間の旧道路は、前浜 / 昭和48年(1973年)日浦・
原
木間『日浦トンネル』開通
椴法華村史
(出張所の設置)
明治六年 在勤等外一等 大島 弼 明治八年二月 在勤等外一等 渡辺 光友 ◇
砂
原
出張所,・明治五年二月出張所開設--明治八年三月七日
砂
原
出張所廃止。,・開所時の管轄地域・掛澗村、
砂
原
村、鹿部村、熊泊村、臼尻村、尾札部村(椴法華ははじめ尾札部村の枝村として,
砂
原
出張所の管轄下に属する) ◇森出張所 ・明治五年七月森出張所開設--明治九年五月二十五日分署設置
南茅部町史 下巻
(定期乗合自動車)
一円六〇銭 一時間三〇分 鹿部 見日 二五・〇 一円三〇銭 一・五〇
砂
原
, 鹿部 二〇・〇 八五 五〇 森
砂
原
一一・〇 四五
恵山町史
(3、六ケ場所、南部藩が警備)
は、その調査報告に基づき持場の警備強化として箱館に元陣屋、室蘭(ヱトモ字ホロヘケレウタ)に出張陣屋、
砂
原
,なお、箱館・室蘭の陣屋、
砂
原
・長万部の屯所の陣容については、
砂
原
町史(荒木恵吾編集長)に詳細に記述されているので,、火業御手傳四人、足軽二人、村夫二人 右え(その他)従僕共六人宛、 これら、箱館、室蘭、
砂
原
,この内、
砂
原
屯所の陣屋は一八五五年(安政二年)四月着工、翌年三月に完成している。,東蝦夷地南部藩
砂
原
陣屋見取図
砂
原
町史より(盛岡市立中央公民館所蔵)
恵山町史
(『蝦夷巡覧筆記』より箱館よりヲサツベまでのようす)
カマウタ(戸井町字鎌歌) 此所大ゴロダ濱行キ 中ウダ(鎌歌から
原
木にいたる平磯・
砂
浜), 此邊山近ク木ナシ 當所より
砂
濱行キ、 ハラキ(戸井町字
原
木) 當所より
砂
濱道五十間計,有リ、海岸通行成難ク山越道有リ ダラダラ坂一里位登リ 夫ヨリタヱ半里位行キ 又坂半里下ル 此山中木立
原
トトホッケ,ここから、ヒウラ、シリキシナヱまでが下海岸道路最大の難所(
原
木峠、日浦峠)である。 ,ダラダラ坂を登ること4キロメートル、立ち木の多い高
原
をさらに2キロメートル行き、坂道を2キロメートル下
南茅部町史 上巻
(沼尻吟詠)
沼尻吟詠
砂
原
から沼尻ヘ一里一六町、漁師とアイヌが雑居している寒村であった。 ,鷲木之潟鹿部
原
石川行尽落森村 空灘杳渺連天処
砂
浦峯頭月一痕
南茅部町史 上巻
(創立期の役職者)
戸長高橋松之助 茅部第四組 鹿部村 〃 取締 伊藤源吾 副取締 秋田栄七 総代
原
田栄太郎,(鹿部村)
砂
原
村 茅部第五組
砂
原
村 〃 取締 不詳 副取締 不詳 村総代 不詳,(
砂
原
村) (掛澗村) 戸長青木幹兵衛 茅部第六組掛澗村 〃 取締 三浦岩蔵 副取締,森村) (鷲ノ木村) 茅部第九組 鷲ノ木村 〃 取締 吉川金次郎 副取締竹
原
宇三郎,総代人吉川金次郎 竹
原
宇三郎 (鷲ノ木村) (蛯谷村) 茅部第十組
函館市史 銭亀沢編
(広い台地)
庵
原
土塁、永田牧場などの名がある。,台地のもう一つの利用としては、
砂
採取のための土取りがある。,これは現在のところ、豊
原
付近に限られているが、厚い銭亀沢火砕流堆積物を大規模に掘り下げて、その下にある,長い目で見ると、函館市内の大森浜の土
砂
を養い、
砂
丘を成長させてきたのは、かなりの程度、銭亀沢の海食崖後退,で生み出された
砂
であろう。
椴法華村史
(椴法華の村役人)
椴法華の村役人 椴法華は正式には尾札部村の支郷であり、開拓使
砂
原
出張所が開設された明治五年二月から
砂
原
出張所,しかし交通上椴法華・
砂
原
間の連絡はすこぶる不便をきわめたため、明治六年一月末ついに椴法華は、特別に戸井村出張所管轄下
恵山町史
([女那川地区、川上地区、中浜地区、大澗地区])
それは海岸が
砂
浜地で形成されていることである。,クマタカは、発見時河畔林の上を悠然と上流から、下流に向かって帆翔していたが、広い河
原
に出ると帆翔しながら,茅部郡
砂
原
町
砂
崎では、例年12月になるとシロハヤブサが渡来し、一目見ようとする人で賑わう。 ,また、別情報によると、
砂
原
町
砂
崎を飛び立って北帰行の途中立ち寄ったようで、その1週間前頃から、
砂
原
町
砂
崎,チイー、というか細い声を上げて飛び去る、声のした方を見ると、カワセミはもうすでに10メートルを過ぎてアシ
原
の
恵山町史
(原木・日浦間開通(昭和3年8月))
原
木・日浦間開通(昭和3年8月) 函館・椴法華間準地方費道の開削が、戸井村字
原
木の岸壁に「7ケ所の隧道,戸井を過ぎると
原
木へ向かう山道になる。,自動車は通うものの尚完全な道路とは言い難く目下盛んに
砂
利を敷き詰めている。,山道を下ると
原
木、せせこましい都塵に塗れた我等には山道の風光は明るい。 ,これらの点がこの地方道路の恵まれぬ一つの
原
因になっているのかもしれない。 /
原
木・日浦間開通(昭和3年8月)
南茅部町史 上巻
(起源不詳)
起源不詳 水産博覧会への事蹟によれば、郷土開拓の先駆者といわれる飯田屋の祖、初代与五左衛門が、最初来住の
砂
原
場所,寛文九年(一六六九)、シャクシャインの乱があって蝦夷地の各地が不穏な最中を与五左衛門は
砂
原
で過ごし、抗争,与五左衛門が明暦年間、
砂
原
に来住したこともすべて言い伝えであり、明治一五年に官に報告した戸長役場の記録
函館市史 通説編 第二巻
(浅くなった港)
捍止すること能わず、降雨融雪に際し土
砂
を港内に流出し、亀田川の流末なる願乗寺川は平素泥
砂
を港の要部に注,人為的
原
因の外に、もう一つ流
砂
という自然的
原
因が加わっていることが調査の結果、明らかになった。,その調査の結果「明治十二年露国軍艦フサジニク号が始めて測量したものに比べて、平均五尺二寸余の土
砂
が埋積,明治21年7月メークは、道庁の命により道庁技師福士成豊と共に函館港を調査、港内填埋の
原
因として、(1),ならしめたが、この川が今や、10数年前と打って変り、港湾条件の悪化を招き、引いて函館の経済条件の悪化の
原
因
南茅部町史 上巻
(木直 山口千太郎(明治三五生)談)
日和風向が悪いと櫓をおして櫂で漕いで熊泊か
砂
崎(
砂
原
)で一泊したりして、三日もかかって行くこともあった
南茅部町史 下巻
(〔東海岸道〕)
寛政一二年(一八〇〇)、東蝦夷地厚岸からの帰途、幕吏戸川藤十郎の一行がエトモ(室蘭)から
砂
原
・鹿部を経,普通、エトモ(室蘭)から渡海し
砂
原
から大沼を経て大野村に出、亀田村・箱館への行程をとるのがほとんどであった
椴法華村史
(戸井線建設の変更と中止)
今回地方産業の開発進展その他の理由に基いて戸井線を尻岸内村字古武井まで十五キロを延長するよう上達尻岸内・
砂
子戸井,に至る鐵道/を延長し尻岸内村字古武井・椴法華村椴法華・尾札部村尾札部・臼尻村臼尻・鹿部村鹿部を通過し
砂
原
村
砂
原
驛,理由 渡島國函館より戸井に至る豫定鐵道線路を約七十二粁延長して
砂
原
村既設渡島河岸鐵道
砂
原
驛に連絡
椴法華村史
(箱館より木直までの道)
ツゝキ當所ヨリ
砂
濱少シ行キ出崎有リ山近ク木ナシ
砂
道行キ、有川ヨリ四里二拾五丁三拾二間 銭亀澤村,所々ニ有リ海岸通行成難ク山越ヱ道有リダラ/゛\坂一里位登リ夫ヨリタヱ半里位行キ又坂半里余下ル此山中木立
原
トトホツケ,キトトホツケ江出ル トゝホツケ此所
砂
濱道山近ク木ナシ此
砂
濱ヨリ先ニワシリ有リ海ヨリ切立通行成難シ,ヨシ当所山近ク木ナシ小船澗有リ此処ヨリ
砂
濱所々カタ道チ行キカクミ此濱ヨリ一里程奥ニ温泉アリカクミ濱
砂
道少, ウスジリ、辨才澗有リ山近ク木有リ濱所ヨリ
砂
濱行キ キナヲシ崎此所ノ平山崎ヲ越ヱ
砂
道行キ夫ヨリ
南茅部町史 上巻
([水産会の合併へ])
尾札部漁業組合長 渋田武雄 臼尻 〃 〃 二本柳徳二 鹿部 〃 宮内三郎
砂
原
, 〃 尾関茂吉 平館林太郎 松
原
一麿 支庁水産係主任 村井 技手 茅部山越水産会,この会議において茅部郡下、尾札部・臼尻・鹿部・
砂
原
の四か村漁業組合が、渡島支庁水産協会のすすめに賛同して,尻 村 津 田 辨 吉 鹿 部 村 工 藤 啓一郎
砂
,
原
村 小 川 利兵衛 川 浦 盛 森 町 川 村 常 作 高
函館市史 別巻 亀田市編
(札幌本道の建設)
当初の予定では、亀田一本木(現在の若松町)より
砂
原
まで陸路、
砂
原
より海路室蘭、室蘭より陸路有珠、定山溪
恵山町史
(新第三紀層)
古武井層(Kb) 古武井層(藤
原
・国府谷、1969)は、主として泥岩・硬質頁岩からなり, 絵紙山層(Eg)および木直層(Kn) 藤
原
・国府谷(1969)は、古武井層の上位に,火山角礫岩からなる層、庄谷・高橋、1967)に対比されるものと考えられ、模式地である絵紙山では、下位に
砂
岩,・凝灰岩質
砂
岩・凝灰岩・凝灰角礫岩などの互層、上位に安山岩溶岩・火山角礫岩が発達している。,おもに石英を含む紫蘇輝石普通輝石安山岩の溶岩と火山角礫岩からなり、上位に凝灰岩質
砂
岩・凝灰角礫岩を挟在
恵山町史
(銅・鉛・亜鉛・硫化鉄・アンチモニー)
)(藤
原
・国府谷、1969) この鉱山は、尻岸内川支流の笹小屋沢にある。,
砂
鉄(藤
原
・国府谷、1969) 恵山地方の
砂
鉄については、古くから知られ江戸末期の,そして、蘭書によって初めて洋式の溶鉱炉を築造したが、技術が未熟なため、古武井の
砂
鉄を
原
料に松炭を燃料とした,図1.27 北工古武井鉱山
砂
鉄鉱床の模式柱状図(藤
原
・国府谷,1969) 精鉱生産量は、札幌通産局調,この温泉は現在、南山腹の
原
田温泉(現恵山温泉)や恵山高
原
ホテルに引湯している(写真1.19)。
恵山町史
((6)恵山町内の縄文時代前・中期の遺跡)
(6)恵山町内の縄文時代前・中期の遺跡 日の浜遺跡、川上遺跡、日の浜
砂
丘1遺跡、中浜E遺跡、古武井9,日の浜
砂
丘1遺跡からは、前期初頭の縄文尖底土器を伴った2軒の住居跡が発掘されている(久保ほか、1986,頚部の隆起帯には指圧文、太い沈線文や胴部の施文
原
体の押圧文が施文され、口縁部には結節回転文、変形網目状撚糸文,くサイベ沢Ⅴ式土器片や北海道式石冠(第31図4、6~9、18~20)、擦り石などが出土している(小笠
原
、,『日の浜
砂
丘1遺跡』北海道恵山町教育委員会、1986 第28図 日の浜
砂
丘1遺跡出土の前期
南茅部町史 下巻
(【資料二-③】 明治九年九月一八日 函館郵便局課より札幌本庁駅逓課御中 北海道郵便出発定日 日割表)
浦川ヨリ根室迄 一 六日 根室ヨリ浦川迄 四 九日 森村ヨリ
砂
原
迄, 五 〇ノ日
砂
原
ヨリ森村迄 五 〇ノ日 宗谷ヨリ留萌迄 四 九
南茅部町史 下巻
(森町の記録)
森町の記録 六月一七日
砂
原
方面から森町へ避難する人たちも陸続と増し、森停車場前は混乱を極めた。,さらに一部は
砂
原
岳を越え鍛治屋川と明神川およびその中間の高丘を通り、なお左へまわってイラ沢に侵入した。,17時0分
砂
原
岳を越え軽石流々下。
函館市史 通説編 第一巻
(平野形成の経過)
小
原
常弘ら(1966)によると、沖積層の基底が函館平野海岸地帯東縁で海面下8~10メートル、西に寄るほど,自然的、人工的作用により、これらの
砂
丘は変形されているが、第3
砂
丘が最も高く、内陸の
砂
丘ほど低くなっている,第3
砂
丘は3つの
砂
丘の中で最も幅が狭く、100~150メートルであるが高度は最高8.7メートルを示す。,これら
砂
丘の形成された時代について山田悟郎(1970)は、第1
砂
丘の腐植土層と
砂
層の間からは縄文文化晩期初葉,から、第1
砂
丘の成立年代は縄文文化晩期以前、第2
砂
丘は擦文文化初葉~中葉以前、第3
砂
丘は江戸時代末期以前
南茅部町史 上巻
([蝦夷日誌])
東蝦夷地へ陸路を行くときは、箱館より亀田、大野、大沼、茅部(
砂
原
)よりエトモ(室蘭)へ向かう。 ,翌二四日、カカリ澗を出立して
砂
原
村より
砂
崎・沼尻・明神をすぎ松屋崎、テケマ、モノミ浜、ホンベツ、シュクノッペ
恵山町史
(2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より)
西院川
原
(賽ノ河
原
)多くの石を積み上げたり。此処より上宮に又道有き鳥居を越えて上るなり。 ,昆布取小屋有、此辺より箱迄の間に出るもの(昆布)は、皆
砂
浜に干が故に
砂
多くして下る也。,蝦夷行程記 〈日浦村より(戸井)
原
木村・カマウタ〉 ヒウラより 陸道
原
木峠へ ,峠是よりまた木立
原
をしばしば下りて、 峠下 此峠の上、尻岸内、
原
木の村境なり。,』から、郷土の行程・距離、集落地理・交通状況の主な部分について抜粋し記述したが、この巻之五は、森から
砂
原
恵山町史
(戸井線建設の変更と中止)
今回地方産業の開発進展、その他の理由に基いて戸井線を尻岸内村字古武井まで一五キロを延長するよう、上達尻岸内・
砂
子戸井,に至る鉄道/を延長し尻岸内村字古武井・椴法華村椴法華・尾札部村尾札部・臼尻村臼尻・鹿部村鹿部を通過し
砂
原
村
砂
原
駅,〈理由〉 渡島国函館より戸井に至る予定鉄道路線を七二粁延長して、
砂
原
村「既設・渡島河岸鉄道」
砂
原
駅
南茅部町史 下巻
(〔川汲山銀銅山〕)
箱館在六ヶ場所の金銀銅鉄鉛山其の他諸産物類の見分のため、竹内下野守ならびに組頭河津三郎太郎、御勘定役笠
原
五太夫,匏庵遺稿(後篇)
砂
金 クンヌイの山間渓流中より出る。 ,硫黄 恵山 佐
原
岳 佐
原
岳 播州の人高
砂
屋三郎兵衛(斉藤三平と同く来る者)採掘
椴法華村史
(椴法華独立の動き(一))
村の各種の布達・届出・認可・徴税等の業務は、本村である尾札部村の決裁を受けた後、更に必要に応じては、
砂
原
,そののち明治六年一月から椴法華は戸井出張所管轄下に置かれることになったが、本村である尾札部村は
砂
原
出張所,『明治六年 戸井往復』(北海道蔵) (朱書)中判官印(杉浦) 民事掛印(
原
) 一 尾札部村枝郷椴法花之義今般一村落相願候
椴法華村史
(現在の地形)
火山活動など地殼変動によらない地形の変化の
原
因になったものに氷河時代がある。,南北に伸びる
砂
丘は海岸線に沿って発達しているが、この
砂
丘に縄文時代の終りから続縄文時代の遺跡がある。,
砂
丘をボーリングすると黄褐色の粘土層があって、その上に
砂
層がある。,に
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鉄を含んでいた。,この
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鉄を山
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鉄と呼んでいるが、日ノ浜の海岸のように、この高台が一万年以前には海岸であったところである
南茅部町史 下巻
(大噴火の直下を行く)
午後三時頃、川端巡査が来て「
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方面は全部避難した」という。 ,そうしているうちに、大丈夫と思っていた駒ヶ岳の北面の中腹も噴火し始め、熔岩は
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の市街地目がけて走り出,
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停車場まで二里の道を走った。停車場には、行李や風呂敷包を持った人ばかりで一五、六人居た。,六月一九日 雨・曇 午前一一時五〇分の汽車に乗り
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まで行く。 ,
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は火山灰が降ったので、丁度セメントをしいたようである。
南茅部町史 下巻
(〔蝦夷地の農耕〕)
寛政三年(一七九一)菅江真澄は、松前より搔き送(かきおく)り船で海岸を有珠まで旅したとき、「サハラ(
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,
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辺はもちろん、この沿岸の漁家は来住の昔から、野菜類はすべて自力で耕作して自給自足をした。
函館市史 通説編 第二巻
(硝子)
が大町に、23年中村平吉が東川町に、34年島本由太郎(東京でイギリス人につき硝子製造を伝承した)が高
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町,佐野は31年、資本金6000円(払込済3000円)で函館硝子製造合資会社(株主60名)を設立して高
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町,島本、、佐野の3工場は、職工数人の雇用で、
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料の屑硝子は区内ほか道内各地より集めた。
南茅部町史 下巻
(〔安政年間の牛馬の数〕)
六箇場所の海岸の村々のうち、
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からヤムクシナイにおよぶ平地の村では、漁獲高・戸口の増加にともなって、, 〇 鹿部 一三 二二 二 一〇〇
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函館市史 通説編 第一巻
(製鉄)
製鉄 また、一方箱館地方東部沿岸に産する
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鉄は、早くから注目され、松前藩時代にも2、3製錬を試みる者,ところがこの時代に入ってから、箱館奉行はこの
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鉄をもって大規模な製鉄事業を行うことを計画し、武田斐三郎,それは、大規模の製鉄業は、すこぶる経験を要するばかりではなく「
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鉄を溶鉱炉で溶解することは極めて困難な,は実に大きく、これを新規に築造するには莫大な費用を要し、当時の財政ではこれに応ずることができず、かつ
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鉄,なお仮溶鉱炉を引き受け、
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料を高炉に供給した箱館弁天町の松右衛門は、近在赤川村に溶鉱炉を造ったが長くは
南茅部町史 上巻
(広域消防発足(昭和四九年))
戸井町、恵山町(当時尻岸内町)、椴法華村、南茅部町、鹿部町(当時鹿部村)、
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町の構成町村六カ町村によって
南茅部町史 下巻
(安浦駒踊り保存会)
安浦駒踊り保存会 役名 氏名 会長 金沢桃芳 笛
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田健三 大太鼓,佐藤実 高田明人 西村貴広 成田貴夫 成田昭紀 小松直樹 〃 和井内孝信 松
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光彦, 張磨秀詞 大坂享 蛯谷英聡 蛯谷進 〃 松
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力 古林厚司 工藤信矢 成田英晴,大宮隆幸 成田晃治 丹内貞 女子 古林裕美 西村亜稀子 大宮貴子 大宮早苗 松
原
純子
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