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南茅部町史 上巻
(砂原)
砂原
兵糧・弾薬が配分されて、本道口攻めの本隊に先だって一〇月二二日早暁、土方隊総勢四百名が鷲ノ木を,宿野辺から尾白内に出て海岸を進み、その日は
砂原
に着陣した。 ,一〇月二三日、土方隊は
砂原
を出発して白雪の駒ケ岳の裾野を鹿部村に向かった。 /
砂原
椴法華村史
(砂原出張所から戸井出張所へ)
砂原
出張所から戸井出張所へ 椴法華村は明治二年八月十五日から茅部郡に属し尾札部村の枝郷であった。,な村民は、本村である尾札部村かあるいは函館にある開拓使の役所へ出向き、また明治五年二月からは函館支庁
砂原
出張所,かなければならず、しかも冬期間や荒天時の際は海路が使用できないため、川汲峠を越えたり陸路函館まで出て、それから
砂原
村,村役人とともに、戸井出張所へ年始言上に出向くことが慣例とされ、機会あるごとに本村(尾札部村)の所属する
砂原
出張所,『明治六年
砂原
往復留』 民事課(北海道蔵) (朱)中判官印(杉浦) (赤) /
砂原
出張所から戸井出張所へ
恵山町史
([町議会議員・議長・副議長])
光広 藤谷 常作 三好 博巳 菅 弘 田中 博 村上幸太郎 山内 健治 山内 健治 藤谷 常作
砂原
竹三郎,菊雄 山崎勇次郎 野呂 菊雄 小西 礼八 小西 礼八 平泉 正雄 三好 博巳 増輪 正 中野 仁助
砂原
竹三郎,梅一 岩田 清 藤谷 常作 野呂 菊雄 坪 光男 平泉 正雄 坪 光男 佐藤留之丞 杉谷 義定
砂原
竹三郎,滝 一彦 成田 等 菅 弘 佐々木一朗
砂原
竹三郎 笹田謙之丞 須貝 友衛 成田 等 古部,
砂原
竹三郎 館山千代治 長田 栄喜 斉藤 明男 斉藤 明男 依田 邦男 昭和60.5まで 平成元
椴法華村史
(出張所の設置)
明治六年 在勤等外一等 大島 弼 明治八年二月 在勤等外一等 渡辺 光友 ◇
砂原
出張所,・明治五年二月出張所開設--明治八年三月七日
砂原
出張所廃止。,・開所時の管轄地域・掛澗村、
砂原
村、鹿部村、熊泊村、臼尻村、尾札部村(椴法華ははじめ尾札部村の枝村として,
砂原
出張所の管轄下に属する) ◇森出張所 ・明治五年七月森出張所開設--明治九年五月二十五日分署設置
南茅部町史 下巻
(定期乗合自動車)
一円六〇銭 一時間三〇分 鹿部 見日 二五・〇 一円三〇銭 一・五〇
砂原
, 鹿部 二〇・〇 八五 五〇 森
砂原
一一・〇 四五
恵山町史
(3、六ケ場所、南部藩が警備)
は、その調査報告に基づき持場の警備強化として箱館に元陣屋、室蘭(ヱトモ字ホロヘケレウタ)に出張陣屋、
砂原
,なお、箱館・室蘭の陣屋、
砂原
・長万部の屯所の陣容については、
砂原
町史(荒木恵吾編集長)に詳細に記述されているので,、火業御手傳四人、足軽二人、村夫二人 右え(その他)従僕共六人宛、 これら、箱館、室蘭、
砂原
,この内、
砂原
屯所の陣屋は一八五五年(安政二年)四月着工、翌年三月に完成している。,東蝦夷地南部藩
砂原
陣屋見取図
砂原
町史より(盛岡市立中央公民館所蔵)
南茅部町史 上巻
(創立期の役職者)
戸長高橋松之助 茅部第四組 鹿部村 〃 取締 伊藤源吾 副取締 秋田栄七 総代 原田栄太郎 (鹿部村)
砂原
村, 茅部第五組
砂原
村 〃 取締 不詳 副取締 不詳 村総代 不詳 (
砂原
村) (掛澗村
椴法華村史
(椴法華の村役人)
椴法華の村役人 椴法華は正式には尾札部村の支郷であり、開拓使
砂原
出張所が開設された明治五年二月から
砂原
出張所,しかし交通上椴法華・
砂原
間の連絡はすこぶる不便をきわめたため、明治六年一月末ついに椴法華は、特別に戸井村出張所管轄下
南茅部町史 上巻
(起源不詳)
起源不詳 水産博覧会への事蹟によれば、郷土開拓の先駆者といわれる飯田屋の祖、初代与五左衛門が、最初来住の
砂原
場所,寛文九年(一六六九)、シャクシャインの乱があって蝦夷地の各地が不穏な最中を与五左衛門は
砂原
で過ごし、抗争,与五左衛門が明暦年間、
砂原
に来住したこともすべて言い伝えであり、明治一五年に官に報告した戸長役場の記録
南茅部町史 下巻
(〔東海岸道〕)
寛政一二年(一八〇〇)、東蝦夷地厚岸からの帰途、幕吏戸川藤十郎の一行がエトモ(室蘭)から
砂原
・鹿部を経,普通、エトモ(室蘭)から渡海し
砂原
から大沼を経て大野村に出、亀田村・箱館への行程をとるのがほとんどであった
函館市史 別巻 亀田市編
(札幌本道の建設)
当初の予定では、亀田一本木(現在の若松町)より
砂原
まで陸路、
砂原
より海路室蘭、室蘭より陸路有珠、定山溪
南茅部町史 下巻
(【資料二-③】 明治九年九月一八日 函館郵便局課より札幌本庁駅逓課御中 北海道郵便出発定日 日割表)
浦川ヨリ根室迄 一 六日 根室ヨリ浦川迄 四 九日 森村ヨリ
砂原
迄, 五 〇ノ日
砂原
ヨリ森村迄 五 〇ノ日 宗谷ヨリ留萌迄 四 九
南茅部町史 下巻
(森町の記録)
森町の記録 六月一七日
砂原
方面から森町へ避難する人たちも陸続と増し、森停車場前は混乱を極めた。,さらに一部は
砂原
岳を越え鍛治屋川と明神川およびその中間の高丘を通り、なお左へまわってイラ沢に侵入した。,17時0分
砂原
岳を越え軽石流々下。
椴法華村史
(戸井線建設の変更と中止)
に至る鐵道/を延長し尻岸内村字古武井・椴法華村椴法華・尾札部村尾札部・臼尻村臼尻・鹿部村鹿部を通過し
砂原
村
砂原
驛,理由 渡島國函館より戸井に至る豫定鐵道線路を約七十二粁延長して
砂原
村既設渡島河岸鐵道
砂原
驛に連絡
南茅部町史 下巻
(〔蝦夷地の農耕〕)
寛政三年(一七九一)菅江真澄は、松前より搔き送(かきおく)り船で海岸を有珠まで旅したとき、「サハラ(
砂原
,
砂原
辺はもちろん、この沿岸の漁家は来住の昔から、野菜類はすべて自力で耕作して自給自足をした。
南茅部町史 下巻
(〔安政年間の牛馬の数〕)
六箇場所の海岸の村々のうち、
砂原
からヤムクシナイにおよぶ平地の村では、漁獲高・戸口の増加にともなって、, 〇 鹿部 一三 二二 二 一〇〇
砂原
椴法華村史
(椴法華独立の動き(一))
村の各種の布達・届出・認可・徴税等の業務は、本村である尾札部村の決裁を受けた後、更に必要に応じては、
砂原
,そののち明治六年一月から椴法華は戸井出張所管轄下に置かれることになったが、本村である尾札部村は
砂原
出張所
南茅部町史 上巻
(広域消防発足(昭和四九年))
戸井町、恵山町(当時尻岸内町)、椴法華村、南茅部町、鹿部町(当時鹿部村)、
砂原
町の構成町村六カ町村によって
南茅部町史 上巻
(〓小川漁場の落し網)
森、
砂原
方面から南茅部沿岸には大型の落し網が経営された。
恵山町史
(戸井線建設の変更と中止)
に至る鉄道/を延長し尻岸内村字古武井・椴法華村椴法華・尾札部村尾札部・臼尻村臼尻・鹿部村鹿部を通過し
砂原
村
砂原
駅,〈理由〉 渡島国函館より戸井に至る予定鉄道路線を七二粁延長して、
砂原
村「既設・渡島河岸鉄道」
砂原
駅
南茅部町史 上巻
(考察1)
尾札部開基の人初代与五左衛門について、生年没年不詳のみならず、伝えられる渡海、
砂原
在住、尾札部来住について
椴法華村史
(昆布の主な生産地)
その内主要産地は函館から恵山岬を経て、
砂原
、森に至る沿岸であって、恵山岬を大体の境界として函館に至る沿岸,が黒口浜、恵山岬から鹿部、
砂原
に至る沿岸が白口浜と呼ばれ採れた昆布は黒口もの、白口ものと呼ばれて、両者
南茅部町史 上巻
(沼尻吟詠)
沼尻吟詠
砂原
から沼尻ヘ一里一六町、漁師とアイヌが雑居している寒村であった。
南茅部町史 上巻
(北海道大小区画)
茅部郡 一八大区 一小区=小安、戸井、尻岸内、椴法華 二小区=尾札部、臼尻、熊泊、鹿部、
砂原
椴法華村史
(異国船内浦湾に出現)
一 去ル三日巳上刻頃箱館附六ヶ場所之内
砂原
村沖合江陸ゟ凡一里計相隔異國船一艘鷲之木村沖之方ゟ〓參候處、,右
砂原
村沖ゟ引返しヱトモ之方江向貳里程沖江〓去り、同日未上刻頃鹿部境沼尻沖陸より貳里程相隔異國船一艘、
南茅部町史 上巻
([蝦夷日誌])
東蝦夷地へ陸路を行くときは、箱館より亀田、大野、大沼、茅部(
砂原
)よりエトモ(室蘭)へ向かう。 ,翌二四日、カカリ澗を出立して
砂原
村より砂崎・沼尻・明神をすぎ松屋崎、テケマ、モノミ浜、ホンベツ、シュクノッペ
南茅部町史 上巻
([国勢調査])
四六九 二、六二四 鹿部 村 四七二 二、五六七
砂原
南茅部町史 下巻
(室蘭港へ渡航すべき渡島国の港門 臼尻港)
抑も渡島の東岸より室蘭に渡航すべき港門ハ森・
砂原
・臼尻の三港とす。 ,其室蘭との距離を調査するに森は二十二海里・
砂原
ハ二十海里・臼尻は凡二十六海里にして其最近の港門は
砂原
なり,故に往時に在てハ
砂原
を以て渡船場と為し居りたり。,(函館より森・
砂原
の陸路程は差違なし) 然るに維新以来渡船場を森に移せるは
砂原
の港湾たる一見森,第二、函館より森に至り
砂原
・鹿部等の海岸を経るもの其距離廿三里三丁餘あり。
南茅部町史 上巻
(木直 山口千太郎(明治三五生)談)
日和風向が悪いと櫓をおして櫂で漕いで熊泊か砂崎(
砂原
)で一泊したりして、三日もかかって行くこともあった
南茅部町史 上巻
([水産会の合併へ])
尾札部漁業組合長 渋田武雄 臼尻 〃 〃 二本柳徳二 鹿部 〃 宮内三郎
砂原
,この会議において茅部郡下、尾札部・臼尻・鹿部・
砂原
の四か村漁業組合が、渡島支庁水産協会のすすめに賛同して
南茅部町史 下巻
(〔嘉永七年「六ヶ場所書上」にみる神社庵室〕)
稲荷社 弐ヶ所 七重村神主 菊地右内持 本別 稲荷社 鹿部・
砂原
境, 壱ヶ所 小川有之 川幅壱間半 鹿部より三里拾丁拾六間
砂原
南茅部町史 下巻
(大噴火の直下を行く)
午後三時頃、川端巡査が来て「
砂原
方面は全部避難した」という。 ,そうしているうちに、大丈夫と思っていた駒ヶ岳の北面の中腹も噴火し始め、熔岩は
砂原
の市街地目がけて走り出,
砂原
停車場まで二里の道を走った。停車場には、行李や風呂敷包を持った人ばかりで一五、六人居た。,六月一九日 雨・曇 午前一一時五〇分の汽車に乗り
砂原
まで行く。 ,
砂原
は火山灰が降ったので、丁度セメントをしいたようである。
南茅部町史 下巻
(尾札部龍巻発生)
この頃、
砂原
で龍巻現象をみたが被害はなかったという記事もある。
椴法華村史
(ラックスマンの来航)
寛政五年(一七九三)ラックスマン等を陸路により福山へ移動させようとしたが、ラックスマンはこれを拒否し、海路
砂原
,まで航行し、
砂原
から陸路福山に至る手はずとなった。
南茅部町史 下巻
(弁天島)
によれば、享保の頃、オサツベ場所知行主新井田金右衛門が箱館奉行所の在勤中、六箇場所巡行のためこの沖を
砂原
恵山町史
([松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社])
その巻之五(森から
砂原
、臼尻、恵山を経て箱館まで)に郷土の様子が詳細に記されている。
南茅部町史 上巻
(管内の町村の起源(資料))
南茅部町 旧尾札部村 延宝 五年(一六七七) 能登の飯田屋与五左衛門が
砂原
より八木浜に来住。,
砂原
町 天文 元年(一五三二) 津軽の蟹田村の権四郎らが来住して鰊漁を始める。
南茅部町史 上巻
(総代)
二、三小区総代 渡辺 政方
砂原
月給金五円 二小区 副総代 赤石歓三郎 臼尻 〃 三円
南茅部町史 下巻
(官林)
落部村 尾札部 臼尻 熊泊 {鹿部
砂原
椴法華村史
(東本願寺の道路建設)
法王現如上人を中心として、明治三年七月十二日から軍川・
砂原
の道路工事着工を手はじめに、江差旧街道、山鼻
椴法華村史
(開拓使の道路建設)
この意見を受け入れた開拓使は、早速道路開削の計画にとりかかり、亀田一本木(現在の函館市若松町)から
砂原
,に至る陸路、
砂原
から室蘭に至る海路、室蘭から有珠、定山渓を経て札幌に至る陸路のコースを選定した。
函館市史 通説編 第一巻
(七飯)
南は函館市(旧亀田市)、西は大野町に接し、横津岳連峰分水嶺を境として南茅部町・鹿部町・
砂原
町に接し、大沼国定公園
南茅部町史 上巻
([土方隊、川汲峠進攻])
土方隊は
砂原
鹿部の海岸沿いに進み、川汲山道を越えて野田部、上湯の川村へでて、五稜郭を背後から攻略する。
南茅部町史 上巻
(鹿部村宿陣)
砂原
村より四里二一丁五一間の道程であった。
南茅部町史 下巻
(椴法華空襲)
砂原
、森、八雲、長万部空襲は、鉄道の駅や列車が攻撃をうけ附近の住家、住民の犠牲も各町村四、五名を数えている
南茅部町史 上巻
(茅部鰊(かやべにしん))
茅部鰊(かやべにしん) 上場所の鰊にくらべて沿岸の鰊は僅少であったが、茅部鰊と総称されて
砂原
から長万部,開拓使事業報告の鯡漁業の項に 茅部郡
砂原
村ヨリ落部村ニ至ル各村ハ 弘化中ヨリ漸々小漁
椴法華村史
(亀田郡編入運動(二))
同 松居金治 同
砂原
村惣代, 戸長 村山儀助 同
砂原
村
南茅部町史 上巻
(菅江真澄紀行)
(恵山より
砂原
まで詳述) 六月二日 モノダヰ(八雲町野田追)に泊る。 ,このあと再び
砂原
にゆき二泊して馬で大沼に出て、峠を越え七重浜に滞在している。
南茅部町史 上巻
([明治の村])
六ケ場所 小安村 戸井村 尻岸内村 尾札部村 臼尻村 鹿部村
砂原
村
南茅部町史 上巻
([海区漁業調整委員会])
茅部郡南部 〃 (尾札部・臼尻・鹿部) 臼尻村 茅部郡北部 〃 (
砂原
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