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戸井町史
(三、大隆寺(館町))
三、大隆寺(館町) 館町の大隆寺は浄土宗の寺院で、函館
称名寺
の末寺である。,年々信徒が増加して百戸以上になったので、明治四十二年(一九〇九)十二月四日、
称名寺
住職及び信徒と協議の,明治四十三年(一九一〇)四月二十三日、法務所設置の許可を得て、字館鼻四十一番に堂宇を新築し、
称名寺
戸井法務所,爾来毎年鰮の大漁が続き、戸井村が異常に発展し、信徒も増加したので、大正八年(一九一九)十一月十二日、
称名寺
住職及
南茅部町史 下巻
(〔称念寺寺号公称〕)
浄土宗一寺創建願 渡島国茅部郡臼尻・熊泊・尾札部右三ヶ村ニ本宗寺院無之菩提所函館
称名寺
迄,ハ遠隔ノ地ニテ教示不容易殊ニ信徒モ多分ニ有之執葬等ノ節は従来
称名寺
末根田内村豊国寺ヘ依頼候得共何分嶮路遠隔,ント百三戸ニ及ブ就テハ今回三ヶ村一統協議ノ上壱寺創建ノ事ニ決定セリ仍テ臼尻村支板木四番地ニ設立シ函館
称名寺
函館市史 別巻 亀田市編
(大円寺(浄土宗))
大円寺(浄土宗) 大円寺 神山町七三番地にあり、浄土宗
称名寺
末である。,寛保二年、箱館本寺
称名寺
第八代賢与可秀和尚の代、当村の信徒と協議して
称名寺
より本尊阿弥陀如来の木像を移
函館市史 通説編 第二巻
(明治時代の函館の寺院群)
明治10年、
称名寺
に合併、翌11年、青柳町に堂宇を建築。,350人 念珠庵 銭亀沢村 浄土宗
称名寺
明和2(1765)年、湯川村より移転の際、
称名寺
の檀家と当村民,182戸 求道庵 石崎村 浄土宗
称名寺
明暦2(1656)年、求道僧を開基にして、
称名寺
の末寺として,143戸 無量庵 神山村 浄土宗
称名寺
享保7(1722)年、
称名寺
の末寺として創建。,一村中 地蔵堂 汐見町 浄土宗
称名寺
称名寺
12世順応が享和2(1802)年に建立。
函館市史 通説編 第一巻
(円空・空念の渡来)
円空・空念の渡来 河野政通の供養碑(
称名寺
境内)と「円空仏」 根崎町川濯神社蔵(渋谷道夫撮影),寛文年間に渡来し、各地に木彫仏を残したことで有名な円空が、函館地方に来とする積極的な資料を持たないが(
称名寺
,また、宝永元(1704)年に渡来して、道南の寺社に納経して歩いた越前の禅僧空念は、同年4月亀田に来て、
称名寺
函館市史 通説編 第一巻
(西国三十三所の分霊)
西国三十三所の分霊
称名寺
には西国三十三観音を祀る堂があったが、別に天保3年、信者蛯子長兵衛の発願で,、箱館山に三十三観音石像を配祀する話があり、
称名寺
住職の世話で同5年4月これを完成した。
函館市史 通説編 第一巻
(下海岸方面の社寺)
石崎の勝願寺(浄土宗
称名寺
末)は明暦2年に、僧求道が建て求道庵といい(大正9年寺号)、銭亀沢の大願寺(,
称名寺
末)は創立年代は不明だが、もと上湯川にあって念称庵といい、明和2年に現地に移った(大正7年寺号)
恵山町史
([郷土の寺院])
場所神社庵室并御備品等調・一八五四年三月』には、<庵室>尻岸内持場根田内 浄土宗地蔵菴 壱ケ所但、箱館浄土宗
称名寺
末,ってからの、第4節菊池重賢『壬申八月巡回御用神社取調・明治五年・一八七二』にも、尻岸内枝郷根田内 △箱館
称名寺
末浄土宗地蔵菴存光
函館市史 銭亀沢編
(寺院の姿)
勝願寺については、前身を「求道庵」として、「本寺は函館
称名寺
、明暦二年(一六五六)の建立、開基は求道、,一方の銭亀沢の大願寺の前身の「念称庵」に至っては、本寺が函館
称名寺
であること、「沿革」として、「明和二年,この二か寺はともに
称名寺
の末寺である。,前述「経石庵」と同じく、この二か寺も近世から近代の明治二十七年頃に至るまで、本寺である
称名寺
から留守居
函館市史 通説編 第一巻
(文芸)
称名寺
境内に現存している芭蕉の汐干塚といわれる句碑には、「安永二年春三月□日 村山□□□建之」の銘があり,安永2年は、芭蕉死してより80年目に当るから、同好の士が
称名寺
に集い、追善句会などを修し、当時箱館湾内
恵山町史
(2、『壬申八月巡回御用神社取調』第2巻より、尻岸内村神社調)
△箱館
称名寺
末浄土宗地蔵庵存光 今上皇帝位牌形一、村役人ヘ渡シ箱館庁ヘ可レ納。 ,神鏡一、
称名寺
ヘ可二 差出一申付候事。 ,・<寺院>箱館
称名寺
末浄土宗地蔵庵存光 ・今上皇帝位牌は村役人ヘ渡し箱館庁ヘ納めること。,・神鏡1は
称名寺
ヘ差し出すこと。
戸井町史
([法泉寺の伝大蓮作仏像])
はいぶつきしゃく)の際に義経神社から放り出され、一時東京の博物館に陳列されたこともあったが、その後函館市
称名寺
,の檀家の有志がこれを買い取って
称名寺
に納め、この仏像は現在
称名寺
にある。,
称名寺
にある仏像は、大蓮作のものとしては大型のもので、欣求院阿弥陀千体仏の中心に安置されたものと推定されている
恵山町史
(1、興徳山『豊國寺』)
所在地 字恵山375番地 宗 派 浄土宗、本尊・阿弥陀如来 函館市船見町・浄土宗『
称名寺
,現在の寺号『興徳山布教院豊國寺』は、明治15年(1882)箱館の浄土宗
称名寺
(現函館市船見町18‐14,浄土宗
称名寺
の末寺となる。 ,開拓使管下渡島国尻岸内村支根田内 函館
称名寺
末 浄土宗鎮西派 地 蔵 菴 一、,・高田屋嘉兵衛について 豊国寺の本寺、函館市船見町の
称名寺
は正保元年(1644)亀田郷(現函館市)
函館市史 通説編 第一巻
(高田屋の不動院)
秀音は天保4年に没し墓は
称名寺
にある。
函館市史 通説編 第一巻
(乙二と「斧柄社」)
同社は3世草琚(平田伝六、弁天町住)、4世北崕(
称名寺
住職)と継ぎ、いま
称名寺
にある「涼しさや月とものいふ
函館市史 通説編 第一巻
(供養碑の建立)
供養碑の建立 宝暦3年、亀田奉行酒井伊左衛門喜澄が
称名寺
境内に、河野政通の供養碑を建て、寺に供養料を
函館市史 通説編 第一巻
(貞治の碑)
貞治の碑 また、前編第5章においても若干述べているように、本市船見町の
称名寺
境内には、貞治6(1367,乃(すなわ)ち之を
称名寺
(当時は現弥生小学校のところ)に収む。
函館市史 銭亀沢編
(浄土宗勝願寺)
その後
称名寺
の末寺となり、勝願寺と改称している。
南茅部町史 下巻
(〔嘉永七年「六ヶ場所書上」にみる神社庵室〕)
稲荷社 壱ヶ所 (神主 同) 地蔵庵 壱ヶ所 浄土宗箱館
称名寺
末,稲荷社 三ヶ所 (神主 同) 霊鷲庵(浄土庵) 壱ヶ所 浄土宗箱館
称名寺
末
函館市史 通説編 第二巻
(仏教系の女学校)
区内6か寺(高龍寺・
称名寺
・西別院・実行寺・常住寺・真言寺・東別院)で結成していた六和会の慈善事業として
函館市史 通説編 第二巻
(沿岸型開教と内陸型開教)
龍雲寺 6 (2) 4 4 5 1 1 浄土宗 光善寺 正行寺
称名寺
,正覚院 龍雲院 寿養寺 7 3 3 3 2 1 浄土宗 善光寺
称名寺
,による ( )内は中世寺院数をあらわす そうしてみれば、函館の高龍寺や実行寺・
称名寺
南茅部町史 下巻
(〔龍宮庵創建〕)
菩提所函館
称名寺
迄ハ遠隔ノ地ニテ教示不容易。,殊ニ信徒モ多分ニ有之執葬等ノ節ハ従来
称名寺
末根田内村豊国寺ヘ依頼候得共、何分嶮路遠隔ノ地ニテ風雨積雪ノ
函館市史 銭亀沢編
(浄土宗大願寺)
浄土宗大願寺 当初念称庵と称し、上湯川村に位置した
称名寺
の末寺であったが、その創立年は不明である。
恵山町史
([『田中正右衛門文書』より(市立函館図書館所蔵)])
稲荷小社 壱ケ所 前同断 <庵室(寺院)> 尻岸内持根田内 浄土宗地蔵庵 壱ケ所 但、箱館浄土宗
称名寺
末,寺院については根田内の浄土宗、地蔵庵が1ケ所で、これは、現在と同じように箱館の
称名寺
の末寺であると記されている
函館市史 通説編 第二巻
(城谷成器の着任)
この月、小・中学校校舎用に
称名寺
の一部を借り上げていた函館支庁だったが、教師が決まらず開校に着手できず,翌8年1月12日、「校舎には
称名寺
の建て家を借用した富岡学校を使用する予定だったが、永続の目的を以て、
椴法華村史
(光圓寺)
恵山(旧根田内)豊国寺の檀家として仏事葬祭を行って今日に至れるも、当時の檀家・信徒は不便を感じて函館
称名寺
十八世朗誉定穏上人
函館市史 通説編 第一巻
(寺院)
称名寺
(浄土宗) 宝永のころは方50間の寺地に、本堂、庫裡、三十三観音堂、経蔵、鐘楼門など整っていたが
函館市史 通説編 第一巻
(寺院)
称名寺
(浄土宗) 正保元(1644)年、伊勢の僧円龍が来て亀田に建て阿弥陀庵といった,これを明暦元年に五念山阿弥陀堂と改称し、更に元禄3(1690)年に護念山摂取院
称名寺
と公称した。
函館市史 通説編 第二巻
(五稜郭開城)
午後1時過ぎには、郭内の1000人余も箱館へ護送されて
称名寺
、実行寺等の寺院へ収容された。 ,また、
称名寺
などに収容されていた降伏人もこの日、船で青森、弘前へ護送され、この内静岡藩と仙台藩の家臣は
函館市史 通説編 第一巻
(元禄の大洪水)
これがため、亀田の住民で箱館に移る者はますます多くなり、その後、宝永3(1706)年には高龍寺、同5年には
称名寺
函館市史 通説編 第二巻
(実行寺は再建か廃寺か)
、明治12年12月6日、堀江町より出火した思いも寄らぬ大火に巻き込まれ、実行寺・東本願寺(浄玄寺)・
称名寺
,幕末の安政年間、箱館奉行交代の際の仮本陣やイギリス領事館の開設までの仮止宿所にも当てられていた浄土宗
称名寺
函館市史 別巻 亀田市編
(明治のころ)
オ 三嶋社 赤川村 カ 川上社 石川郷 その他 無量庵(函館
称名寺
末
函館市史 通説編 第一巻
(市街の拡張)
また弁天町の坂上には神明社および高龍寺があり、大町の坂上には実行寺、
称名寺
、浄玄寺等の大寺が門を並べて
南茅部町史 下巻
(〔温泉場〕)
翌日、雨中箱館
称名寺
本陣へ帰った。
函館市史 通説編 第一巻
(文化3年の大火と消防体制)
役所下の惣門ならびに門番所、高札場、交代屋敷、仕入物を入れておく板蔵2棟、土蔵1棟、寺院では実行寺、
称名寺
函館市史 通説編 第一巻
(心学講釈所)
称名寺
にその墓がある。
函館市史 通説編 第一巻
([凡例])
榎森進 (外国・国交関係部門) 元函館市史編集長 故小島昌平 (宗教・社会・文化関係部門)
称名寺
住職
函館市史 通説編 第二巻
(変則中学校)
称名寺
(現在の市立弥生小学校付近)の一部を借り上げた校舎で、11月4日、函館支庁関係者が出席して開校式
函館市史 別巻 亀田市編
(例言)
一、亀田に創設した高龍寺、
称名寺
、山上大神宮などについては省略した。
恵山町史
(【写真・資料、提供者・関係機関】)
押野鉱山) 山田寿々六氏(静岡県韮山町) 高木崇世芝氏(札幌市) 永田富智氏(松前町) 須藤隆仙氏・
称名寺
函館市史 通説編 第二巻
(北海道における近代寺院の造立と函館)
札幌中央寺 苫前願海寺 寿都籠洞院 札幌中央寺 根室開法寺 総持寺 東京増上寺 函館
称名寺
,金剛峯寺 本願寺 本願寺 本願寺 松前法源寺 永平寺 本願寺 函館
称名寺
松前光善寺
函館市史 別巻 亀田市編
(箱館への移動)
○元禄三(一六九〇)年 亀田の
称名寺
箱館に移る。
恵山町史
([廃仏毀釈])
その余波の一つといわれる『円空上人作観音尊像』が、函館市船見町の
称名寺
の宝物庫に保存されている。
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田港の発展)
、曹洞宗の僧芳龍によって高龍寺が、寛永二十一(一六四四)年には浄土宗の僧円龍により一宇(元禄三年より
称名寺
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の町勢)
西の坂 これは亀屋武右衛門宅の傍からのぼる坂で、上に
称名寺
がある。 ,護念山
称名寺
法華寺の東、浄玄寺の西うしろ天神町寄りにあり、浄土宗松前光善寺の末寺で、山門、庫裏、本堂,経王山実行寺 東は
称名寺
西は芝居坂の通りをへだてる。
函館市史 通説編 第二巻
(箱館開港への対処)
外国人上陸の際の休息所を実行寺、谷地頭の佐吉宅、七重浜の久兵衛宅(2~3か国人同時上陸の際は、高龍寺・
称名寺
,を追加)、御用所を
称名寺
(3か国人同時上陸の際は、山田屋寿兵衛宅)、応接所を浄玄寺とする旨決定するとともに
函館市史 別巻 亀田市編
(名主の仕事)
忰豊太郎四才 次男勝太郎三才 娘かや六才 以上七人の内 男四人女三人 (以下略) 浄土宗
称名寺
,吉村清兵衛六十三才㊞ 娘イク四十才 忰市助十四才 弟松蔵弐十弐才 妹律弐十才(以下略) 浄土宗
称名寺
函館市史 通説編 第一巻
(密貿易)
私達の持っていった雑貨類は、案内人によってある場所(現在の弥生小学校あたり、当時寺町と呼ばれ浄玄寺、
称名寺
函館市史 通説編 第一巻
(寛文の蝦夷乱と亀田・箱館)
国下山高龍寺(曹洞宗)や、正保元(1644)年僧圓龍が阿弥陀堂として建て、元禄3年に寺号公称された護念山摂取院
称名寺
函館市史 通説編 第一巻
(ペリー提督上陸会談)
遅々として進行しないので、提督は勘解由に対し、夕方まで回答を求めると同時に、市中見学を申入れ、実行寺、
称名寺
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