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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (箱館府)

箱館府 なお明治元年四月十二日に箱館裁判所の設置が決定されたのであるが、すぐ後の閠四月二十四日には東京,の新政府において「箱館府」とその名称を改めた。,しかし遠隔地である北海道との伝達が充分でないため、同年五月一日の開庁時には事実上箱館裁判所という名称で,開庁され、以後箱館裁判所と箱館府が混用されていた。 / 箱館府
函館市史 通説編 第一巻 (箱館港)

箱館港 箱館市中図 「蝦夷島奇観」より  由来、箱館は津軽海峡の中央に位し、箱館山が海中に突出,それが再び脚光を浴びて登場し、寛保元(1741)年には名称は変わらないが、亀田番所も箱館に移されている / 箱館港
恵山町史 ([箱館裁判所(箱館府)と箱館戦争])

[箱館裁判所(箱館府)と箱館戦争] 1867年(慶応3年10月14日)15代将軍徳川慶喜の大政奉還により,恭順の意を表していた旧幕府箱館奉行杉浦兵庫頭勝誠に迎えられ、明治政府箱館裁判所清水谷公考総督は旧箱館奉行所庁舎,以下、箱館奉行杉浦勝誠より箱館裁判所総督清水谷公考に引継がれた『慶応四年箱館地方及蝦夷地引渡演説書』より,箱館府  閏4月24日箱館府・知事に改称されたことを知らぬまま、箱館府・知事、清水谷公考(きんなる),なお、「裁判所」の名称は、役所名が「箱館府」と明確に認知された後も用いられ、箱館戦争の感状に「箱館府・ / [箱館裁判所(箱館府)と箱館戦争]
函館市史 通説編 第一巻 (箱館通宝)

箱館通宝 前直轄時代にも幕府は蝦夷地に鉄銭を通用させ、かなりの好成績を納めているが、松前藩復領とともに,そのため交易上不正が多く、そのうえ銭の通用がなければ、在住の士民の不便も少なくないので、箱館奉行は鉄銭,にしようとして、安政3年2月幕府に稟請し、6月命によって更に詳細な計画を上申して許可を受け、同年11月箱館,この銭は箱館通宝と称し、円輪、円孔、背に安の字を付した1文銭で、箱館、松前、蝦夷地を限り通用を許されたものである,箱館銭座の図 箱館通宝 / 箱館通宝
南茅部町史 上巻 (箱館在)

箱館在 翌享和元年(一八〇一)、滕知文はその著「東夷周覧」に次のように記す。    ,「箱館ヨリ東ノ方ニ六箇場所(ろつかばしよ)ト唱フル所アリ。,尤箱館近在ナル故、夷人ノ風俗モ自然日本ニ近ク、言語モ大底(抵)ハ通スルナリ。  ,この時期から名実ともに郷土は箱館在六箇場所と呼ばれるようになったのである。   / 箱館在
函館市史 通説編 第一巻 (箱館回航)

箱館回航 寛政8年手船辰悦丸(1500石)を新造して自ら船主となり、兄弟力を合わせて乗組み、兵庫で酒,、塩、木綿を積み、更に秋田辺で米を買積みして箱館港に入津したのが、嘉兵衛が箱館に来たそもそもの始めであった,かくて嘉兵衛は箱館の回船宿白鳥勝右衛門(松浦武四郎『蝦夷日誌』に白鳥新十郎とあり)方に止宿し、積荷を売捌 / 箱館回航
椴法華村史 (箱館の繁栄)

箱館の繁栄 箱館港の開港と幕府による箱館奉行の設置によって、蝦夷地における内外の海運は箱館を中心に運行,されるようになり、かつては蝦夷地の三港といわれ、繁栄を誇っていた江差や松前はその力を失い、箱館のみが次第,すなわち安政二年(一八五五)の箱館の開港は貿易ではなく、燃料・水・食料の供給が主目的であったが、外国船,が多数入港し何かと箱館の経済や文化に刺激を与え、更に安政六年(一八五八)には通商貿易が許され、なお一層,下田と同様に箱館は外港と内港とを有し、外港はやや馬蹄の形をした湾によって形成されてゐる。 / 箱館の繁栄
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の警備)

箱館の警備 箱館勤番役人は、奉行1人・目付2人・士8人・徒士13人・足軽70人・医師2人・外科2人が,箱館弁天台場 一貫目筒・三百目筒各一挺。 箱館山背泊台場 三百目筒二挺。 ,箱館押付台場 五百目筒一挺・百目筒一挺。  箱館立待台場 五百目筒・三百日筒・百五十目筒各一挺。 / 箱館の警備
函館市史 通説編 第一巻 (箱館役所)

箱館役所 寛政12(1800)年春、属僚らは江戸を発して箱館に渡り、越年の吏員とともにその設営に当った,小納戸頭取格戸川藤十郎安論、小納戸大河内善十郎政良が命を受けて、蝦夷地を巡察して国後に至り、9月には村上常福が箱館 / 箱館役所
函館市史 通説編 第一巻 (箱館洋学所)

箱館洋学所 開港と同時に外国語の研究と教育が必要になった。,安政3年、箱館奉行支配調役下役格で来た名村五八郎は、江戸で英学を修めた名通詞で、長崎のオランダ通詞の家,文久元年5月、箱館奉行は五八郎に命じて、運上所内に「稽古所」を設け、公務の余暇に英語を教授させた。,この官設の英語教授所は、「稽古所」のほかに「教学所」とも呼ばれ、更に「箱館洋学所」となった(変更年代不明,五八郎は万延元(1860)年の遣米使節に通弁として同行しているが、箱館で彼から英語を教授されたなかには / 箱館洋学所
函館市史 通説編 第一巻 (乱後の箱館)

乱後の箱館 コシャマインの乱後の箱館地方の状勢を見ると、小林良景の戦死によって、その子、小林弥太郎良定,が衣鉢を継いで志海苔にあり、河野政通も箱館を回復し、また湯川と志海苔の間には、良景の2男小林二郎左衛門政景,ただこうして約50数年間の平穏が保たれてきたが、永正9(1512)年4月、東部のアイヌが再び蜂起し、箱館,・志海苔・与倉前の前記3館を攻略、当時館主であった箱館の河野弥次郎右衛門尉季通をはじめ、志海苔館の小林良定,1501)年に没し、孫の下国八郎師季が嗣いでいたが、これまた「夷賊に敗続」して松前に逃れ去り、いわゆる東部箱館 / 乱後の箱館
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の請負人)

箱館の請負人 こうして箱館に根拠を置く場所請負人も、その後、しだいに頭角をあらわし、天明6(1786,ミツイシ シブチヤリ シツナイ  場所  請負人 倉部屋太兵衛 ホロベツ  場所  請負人 箱館村与左衛門,シリキシナイ  場所  請負人 白鳥屋新十郎 (『蝦夷草紙・別録』)    このように箱館,は、後背地帯である六箇場所をはじめとし、遠く東蝦夷地の場所場所まで箱館商人が掌握することによって、おのずから,産物は箱館港に集荷され、一段と流通経済の伸長を示し、いよいよ重要な商港としての役割をもって発展につながってくることになる / 箱館の請負人
函館市史 別巻 亀田市編 (箱館への移動)

も箱館の方に居を移すようになり、次第に役所や寺社も人口の多い箱館へ移動して行った。  ,○元禄三(一六九〇)年 亀田の称名寺箱館に移る。,○宝永三(一七〇六)年 亀田の高龍寺箱館に移る。,○元文六(一七四一)年 亀田奉行所箱館に移る(箱館に移動してからも亀田奉行所又は亀田番所と称した)。,風景優美にして、箱館の山海中に突起し、入江の屛墻ともなれり。 / 箱館への移動
函館市史 通説編 第一巻 (箱館六箇場所)

箱館六箇場所 これまで箱館港に入荷する産物は、亀田、箱館、尻沢辺、大森浜、志海苔、小安などの近郷の零細出稼人,運上不同、箱館者共支配仕候。,箱館者共運上二申請支配、運上金不同。,新井田兵内殿御預リ、運上金壱ケ年二四拾両宛、箱館者共運上ニ申請、二百石ハカリ之小船ニ而度々箱館江通江申候,   以上のごとく、この地帯は、いわゆる箱館六箇場所と称し、ほとんど箱館の人びとが運上金を / 箱館六箇場所
函館市史 通説編 第二巻 (箱館の動揺)

箱館の動揺 内戦へ突入した京都、大坂の情勢が箱館に伝えられたのは正月も終りに近づいた頃である。,箱館奉行杉浦兵庫頭の日記(「日次記」杉浦俊介氏蔵)によると、まず25日に飛脚屋島屋方に、杉浦奉行が「京摂新報,…『新北海道史』では信発)と新藤鉊蔵(前年10月まで箱館奉行並)から京都大坂の形成を伝える「戦争ノ顛末,で蝦夷地の事情に精通していた一橋家郡奉行の橋本悌蔵を箱館奉行並に任じ、箱館の現況視察と運上金の増徴(慶応,」)と朝命の遵奉と恭順及び役人の江戸引き上げの指令を受け、この指令書を持って箱館へ赴いた。 / 箱館の動揺
函館市史 通説編 第二巻 ([3 箱館府の設置と箱館県の存在])

[3 箱館府の設置と箱館県の存在] 箱館裁判所は、直ぐに箱館府と改称(慶応4年閏4月21日の「政体書 / [3 箱館府の設置と箱館県の存在]
函館市史 別巻 亀田市編 (箱館港の警備)

箱館港の警備 安政二年三月より正式開港の運びとなり、安政元年六月箱館奉行が設置されたのであるが、外国船,このような情勢の中で安政元年十二月竹内保徳、堀利熙の両箱館奉行は、箱館の警備に関して幕府に対して次のような,すなわち、箱館付近砲台の実用砲の採用、台場の新設と改良、海軍の充実、千代ヶ岱、有川陣屋の構築及び奉行所,『箱館夷人談』によれば     アメリカのもの四・五人山瀬止の台場に至り、大砲を視て甚嘲弄し、両手,にひろひ(げ)てアメリカドヲンと云て鼻をつまみ面をしかめて驚畏の仮做(ミブリ)し、又我が大炮一とたび放さば箱館忽 / 箱館港の警備
恵山町史 (箱館港の盛衰)

箱館港の盛衰 高田屋嘉兵衛の事業と共に発展した箱館も、嘉兵衛没後の天保4年(1833)2代目金兵衛が,しかし、嘉永7−安政元年(1854)、日米和親条約が締結調印され箱館・下田開港にペリーの率いるアメリカ,艦隊が来航、安政5年(1858)には日米修好通商条約が調印され、翌、6年、箱館は自由貿易港として神奈川 / 箱館港の盛衰
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の警備)

箱館の警備 この飛報が江戸に達すると、9月22日幕府は津軽藩に命じ、一隊の兵を出して箱館を守らせ、同月,なお11月津軽藩番頭山田剛太郎、目付佐野吉郎兵衛以下557人は、幕命によって弘前を発し、三厩から箱館に / 箱館の警備
函館市史 通説編 第一巻 (箱館山の植樹)

箱館山の植樹 一方開墾に次いで、みるべきものに植樹がある。,山師(伐木業者)の伐木に関するものの外、山林についての制度がなく、ただ住民の自由にまかせていたため、箱館付近,ところがここに特記すべきことは、七重に卯之助なる者があり、箱館山および七重に植樹をした事蹟である。,箱館山に卯之助が植樹したのは文化年間で、樹種は杉および松の2種類で、箱館役所(旧渡島支庁の所)の後ろ一帯,箱館山の松は明治の初めにはまだその幾分をとどめていたが、徳川脱走の徒がことごとくこれを切って、五稜郭の / 箱館山の植樹
函館市史 通説編 第二巻 (箱館奉行の再置)

箱館奉行の再置 安政元(1854)年6月30日、幕府は箱館奉行を再置した。,このように、箱館奉行の再置それ自体は、箱館開港への対応とそれに伴なう箱館を中心とした5~6里四方の幕領地,に課せられた主要な任務は、(イ)「箱館」(内実は箱館を中心にした5~6里四方の幕領地)の統治(第1条と,第3条前半)、(ロ)箱館開港に伴なう対外関係の処理(第2条と第3条の後半)、(ハ)箱館を中心にした幕領地,の海岸防備、の3点であり、同日付箱館奉行宛将軍黒印状(『幕外』7-補遺3)とのかかわりでは、「箱館表」 / 箱館奉行の再置
函館市史 通説編 第一巻 (箱館支店開設)

箱館支店開設 嘉兵衛が箱館大町に支店を設け、弟金兵衛を支配人とし、根拠を置くようになったのは寛政10,、荒物などを売捌き、蝦夷地の産物を買入れ、手船5艘をもって兵庫、大坂、下関に売捌き、また諸国の物産を箱館 / 箱館支店開設
函館市史 通説編 第二巻 (蝦夷地と箱館と)

蝦夷地と箱館と 次に第2期の箱館奉行の任務についてみると、安政2年2月24日の箱館奉行に対する老中達,(3か条)の第1条に「箱館并蝦夷地之儀、取締方万端入レ念、不二衰弊一様可二沙汰一、対二蝦夷人一非分之取計不,基本性格について」田中健夫編『日本前近代の国家と対外関係』)から窺えるごとく、その主要な任務は、(イ)箱館,を核とした和人地(松前地)内の幕領地と蝦夷地全域(同地に居住するアイヌ民族を含む)の統治、(ロ)箱館開港,右のうち(イ)の任務とのかかわりで注目しておきたいことは、将軍黒印状の第2~3条にみるごとく、箱館開港後 / 蝦夷地と箱館と
椴法華村史 (箱館港の衰え)

箱館港の衰え 文政五年(一八二二)より安政元年(一八五四)に至る三十三年間を後松前藩時代というが、この,直捌制が実施されていた時代は、東蝦夷地の産物は、ほとんど大部分が箱館へ集散され、ここで販売されなければならない,しかし直捌制廃止後は、東蝦夷地の産物は、福山・箱館のいずれで販売してもよいことになり、東蝦夷地の請負人,こうした状勢で箱館港への入港船は減少しつつあったが、後松前藩時代に至り箱館港としては更に二つの難関をむかえることになった,天保四年(一八三三)高田屋金兵衛は所有船十二隻の没収、所有財産没収の処分を受け、一挙に潰滅してしまい、箱館 / 箱館港の衰え
函館市史 通説編 第二巻 (箱館裁判所設置)

箱館裁判所設置 4月12日、箱館裁判所の首脳人事が行われ、3月9日の諮詢に答えた12日の建言書で「両人,に任命され、箱館在勤を命ぜられた。,当面の重要課題は、旧幕府箱館奉行所からの政務引継であった。,      元幕府箱館役人共へ  今般箱館裁判所御取建総督副総督被差向候、就テハ仙台佐竹南部津軽松前等,10日に杉浦兵庫頭に面会(箱館の本陣宿で)、箱館裁判所が設置され総督、副総督が近日中に下向する旨を伝え / 箱館裁判所設置
南茅部町史 上巻 (箱館の税制)

箱館の税制 箱館御収納廉分帳は市立函館図書館所蔵のもので、函館市史第一巻に所載されている。  ,これは幕府直轄時代から安政元甲寅年(一八五四)当時に至る箱館における税制の沿革の記録である。  ,四半敷役  箱館ならびに在々六箇場所は、一軒三〇〇文を毎年一〇月から一一月中に、村役人に納めることとなっていた,箱館から小安のものは一駄 一〇〇文     鹿部は一駄 一二〇文     砂原から野田追一駄 八〇,松前箱館の地元船が積取船に雇われて六箇場所の荷を船積するときは、「小廻(こまわ)し」とよんで初船役は納 / 箱館の税制
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の場所請負人)

箱館の場所請負人 こうして入札の結果、高点をもって落札したのは次表の通りである    ,由利屋与兵衛 虻田   金 三〇九両八七五文   福山 和田屋茂兵衛 有珠   金 二一六両三分二朱   箱館, 和賀屋卯兵衛 絵鞆   金 一五二両   箱館 鍋屋左兵衛 幌別   金 一三二両二分銭七百文   ,箱館 坂本屋勘右衛門 白老   金 一九一両   福山 新保屋与八 勇払   金 六一一両一分   福山,が6人であり、そのうち箱館商人の入札状況を示せば次の如くである。 / 箱館の場所請負人
函館市史 通説編 第一巻 (箱館商人の成長)

箱館商人の成長 かくして箱館は、幕府直捌を大きな契機にして、蝦夷地必需物資ならびに蝦夷地産物の中心的,特に松前藩時代のころは、箱館において売捌く蝦夷地産物に対し、福山と箱館とで二重の口銭を徴してこれを抑圧,したが、直轄以後は全くこれを廃して自由となったので、箱館商人も急速に成長をみた。 / 箱館商人の成長
函館市史 通説編 第二巻 (箱館府の廃止時期)

、尤岩村ハ不日発程ノ筈、箱館府ハ県ニ改候書付ハ、追テ為持可差出候」と、箱館府は「県」になった旨を箱館県参事,つまり箱館では、7月17日の布告をもって箱館府は廃止され、箱館県となったと理解し、開拓使長官一行が箱館,にやってくるまで箱館では箱館府は「箱館県」として機能し、多数の箱館県名の文書を残すこととなったのである,設置行政庁名 法令上 箱館での実態 法令上 箱館での実態 明治1.4.12 箱館裁判所設置 箱館裁判所,閏4.24 箱館府と改称 5.1 箱館裁判所設置 箱館裁判所 7.17 箱館府と改称 / 箱館府の廃止時期
函館市史 通説編 第一巻 (箱館経済の不振)

箱館経済の不振 松前藩復領後の場所経営は、前章に述べたように、場所を分割して藩主直領地とか、または家臣知行地,そのため場所請負人にあっても、箱館商人のカは弱く、西蝦夷地の請負人のすべてを松前城下居住の商人によって,められ、東蝦夷地にあっても、その多くを松前居住商人が請負うことによって、場所産物の多くは松前に集荷され、箱館港,たとえば文政年間の東蝦夷地の請負に当った箱館商人とその場所をみると、次の通りである。,加えて東蝦夷地の漁況の不振もあって箱館の経済力は一層の低下を示した。 / 箱館経済の不振
函館市史 通説編 第一巻 (箱館奉行の設置)

箱館奉行の設置 幕府は蝦夷地経営の方法がほぼ整ったので、享和2(1802)年2月23日、松平忠明、石川忠房,享和2年は両奉行とも江戸にあって箱館には来らず、翌3年戸川安論が箱館に赴任の際、将軍は左の黒印状を与えた,一 箱館の者共公事訴訟等これ有る節は、諸事江戸の御仕置に准じ申付くべく候。,調役ないし調役下役は合計21人、交替で7人は江戸詰、14人は箱館在勤とした。,享和元年 「分間箱館全図」 / 箱館奉行の設置
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の三絶巧)

箱館の三絶巧 明治以後報知新聞で活躍した箱館奉行支配組頭栗本瀬兵衛(匏庵)が箱館の三絶巧と賞したのは / 箱館の三絶巧
椴法華村史 (国内航路と箱館)

国内航路と箱館 国内海運においては蝦夷地開拓の進展と外国貿易の活発化に伴ない、輸送貨物の増加は海運の,必要性を生じ、大型和船の往来が活発化し、箱館はこれら諸船の大母港となった。  ,箱館港と本州との交易は前にも記したように、この時代になっても東廻り航路が西廻り航路より多かったが、前掲,箱館及びその附近の住民は主として商業と漁業によって生計を維持し、農業に對しては當然殆ど注意を拂はない。,これらの船一千艘以上が同時に箱館港内に碇泊してゐるのを見ることも屢々である。 / 国内航路と箱館
函館市史 通説編 第一巻 (箱館付近の上知)

箱館付近の上知 箱館が神奈川条約によって国際的な関係を持つと、安政元(1854)年6月26日、松前藩,に命じ箱館ならびにその付近5里の地域を上知し、6月30日には箱館に箱館奉行を置き、勘定吟味役竹内清太郎保徳 / 箱館付近の上知
函館市史 通説編 第一巻 (箱館会所の所務)

箱館会所の所務 直捌下の箱館会所の所務取扱いは、毎年10月限り各場所の必需物資の仕入高を取りまとめ、,こうして仕入れられた品物は箱館に輸送させ、これを倉庫に入れ、その後、倉出しの都度払帳に記入し、送状に値段帳,また、場所から箱館役所に不時の追加注文がある時は、臨時買いといって市中の問屋から購入し、仕入品の貯蔵に,、会所の総仕入高は、およそ2万3、4000両といわれ、仕入金額の最も多いは大坂で、江戸がこれに次ぎ、箱館 / 箱館会所の所務
函館市史 通説編 第二巻 (箱館開港への対処)

箱館開港への対処 ともあれ、この条約附録の調印によって、箱館における遊歩区域が5里四方と決定し、箱館開港,』6-315)、6月晦日には箱館奉行を再置して勘定吟味役竹内清太郎を箱館奉行に任じ(『幕外』6-325,日、オランダにも下田・箱館を開港する旨通知したこと(『幕外』7-172)もあって、10月22日、箱館奉行,ともあれ、こうして安政元年末までには、箱館開港のための柱ともいうべき箱館港掟が決まったが、幕府(長崎奉行,・箱館奉行)は、これと相前後してオランダ語通詞岩瀬弥四郎・名村五八郎に3年交代で箱館に勤務するよう命じた / 箱館開港への対処
函館市史 通説編 第二巻 (南部藩の箱館脱出)

南部藩の箱館脱出 この時の箱館は政情が非常に不安定な状態に追い込まれていた。,として箱館府の実務を担当していた井上石見が、北方視察の旅へ出たまま船が沈没し行方不明となっていた。,南部藩は、箱館に本陣屋を構え箱館から室蘭付近までの警衛を担当していた藩で、蝦夷地の警衛を任されていた東北諸藩中箱館在勤者,が最も多く、箱館府からは弁天岬台場の守衛や五稜郭の門衛も任されていた藩であった。,これで東北諸藩の姿はまったく箱館から消えたのである。 / 南部藩の箱館脱出
函館市史 通説編 第二巻 (箱館開港の背景)

箱館開港の背景 こうして安政元年2月晦日、日米両国間で翌年3月より箱館を開港する件が合意された。,それだけに、2月25日、応接掛より箱館を開港する旨伝えられた際、一応は条件付きで受入れてはいるものの、,条件はあくまでも対日交渉での一つのゼスチャーに過ぎず、内心は、我が意を得たりとうけとめていたことは、「箱館,なお、ペリーが箱館来航以前のこの段階で箱館の有利性を判断できたのも、シーボルトの『日本』やゴロウニンの,なおペリーは、この条約調印日の3月3日、応接掛に箱館へ向う旨告げていた(同前)。 / 箱館開港の背景
函館市史 通説編 第一巻 (箱館に対する処置)

箱館に対する処置 なお、奉行庁の移転により箱館に大きな打撃を与えるおそれがあったため、特に箱館には吟味役,ことに東蝦夷地の直捌(じかさばき)を廃止(後述「第7節 場所請負制の再開と箱館経済」参照)した後は、同地方,の主要な場所は福山の商人の請負となり、箱館が衰退するおそれがあったので、さきに特命をもって、文化7年択捉場所,をも兼ねさせ、更に文政2(1819)年幌泉場所を請負わせて、これによって東蝦夷地の貨物の大部分を依然箱館 / 箱館に対する処置
函館市史 通説編 第二巻 (箱館から函館へ)

箱館から函館へ ところで開拓使出張所の看板を掲げた時、「はこだて」の文字をそれまで主に用いられてきた,「箱館」の文字から「函館」と改めたといわれている。,『函館区史』では『開拓使事業報告』(第1編沿革)に「(明治)二年本使出張所ヲ置キ箱館ヲ函館ト改ム」とあるのを,受けて「(九月)三十日開拓使出張所を函館に置く、箱館の字を函館に改めたるは此時なり」と断定した記載になっている,もっとも、保存されている箱館県の文書綴りでは「箱館」がほとんどで、開拓使の文書綴りになると「函館」とはっきり / 箱館から函館へ
函館市史 通説編 第一巻 (箱館奉行所建築)

箱館奉行所建築 そこで箱館に奉行所を新築したが、奉行所すなわち奉行の役宅は、享和2年建築に着手し、同,そこで調役並富山元十郎保高が所々を探したところ、箱館山の内に清泉を発見、筧(かけい)を架けてこれを引いた,の光りいたらぬくまなく、蝦夷の島人をさへなでやすんぜらるべきよしをきてさせ給へるにつきて、享和二とせ箱館,この年羽太正養が交代して箱館に在勤、正徳元(1711)年に幕府が定めた倫理規定ともいうべき「正徳の解書,」を記載した制札を、箱館外9か所に建てた。 / 箱館奉行所建築
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の地場産物)

箱館の地場産物 当時代における箱館についてみると、まず地場産業の中心である箱館近海沿岸から、六箇場所,この魚は一般に曳網を用いて漁獲し、搾粕に製して肥料として箱館を経由して本州方面に移出された。  ,箱館地方は主として「大ビラコ」「大セグロ」が多く、11月から12月のころにこれを漁し、その脂肪の多いところから,昆布は全道的には産額を増したが、しかし箱館地方は、むかし上品とされた赤昆布は次第に減少して、この時代にはほとんど / 箱館の地場産物
函館市史 通説編 第二巻 ([4 箱館府の施政])

[4 箱館府の施政] 箱館府は、慶応4年5月1日から、榎本武揚らの旧幕府脱走軍の襲来により青森へ退避,が降伏し、運上所を仮事務所として政務を開始した明治2年5月19日から、開拓使長官東久世通禧が来函して箱館開拓使出張所,を設ける9月30日まで、前期約6ヶ月間、後期約4ヶ月間、箱館にあって政務を担当した。,せず、供給物資の途絶による経済活動の低迷で、具体的な施策を遂行する財政的時間的な余裕がなく、後期は、箱館戦争 / [4 箱館府の施政]
函館市史 通説編 第一巻 (ディアナ号箱館入港)

ディアナ号箱館入港 ディアナ号 「北夷談」付図 (文化9年松田伝十郎著)  ディアナ号は9月11,絵鞆に到着、ここで嘉兵衛があらかじめ差向けておいた部下の水夫平蔵を水先案内として乗込ませ、同16日夜箱館港外,に停泊したが、嘉兵衛は早速小舟に乗ってディアナ号を訪れ、連絡をとって翌日箱館入港の手はずを取り決めた。,箱館としては、寛政5(1793)年ラックスマンがエカテリーナ号に乗じて入港して以来、実に20年目の異国船,この日松前奉行服部備後守貞勝も箱館に来着し、翌17日いよいよディアナ号は箱館に入港した。   / ディアナ号箱館入港
函館市史 通説編 第一巻 (箱館港への集荷政策)

箱館港への集荷政策 幕府は、前直轄時代にも、東蝦夷地産物の箱館集荷策を強力に推進し、更に高田屋嘉兵衛,などの御用達商人を起用して、箱館港を基点とした経済政策を展開したが、こうした幕府の政策と相まって、寛政,から文政4年ころまでの箱館経済は、著しい発展を示したことは、すでに前章において詳述したところである。,しかし、松前藩の復領とともに、東蝦夷地産物の箱館回送は当初そのまま踏襲されはするものの、その後松前回送,ところが安政2(1855)年東西蝦夷地をあげて幕府が直轄すると、翌3年3月箱館奉行は、場所請負人、問屋 / 箱館港への集荷政策
函館市史 通説編 第二巻 (脱走軍支配下の箱館)

脱走軍支配下の箱館 箱館に入った脱走軍がまず行ったことは町会所を通して触書を出したことであったように,、箱館奉行所から箱館府へ引継がれていた諸務はすべてそのまま継承した。,とあり、この時杉浦嘉七の5000両を始め総額1万両が臨時御用として運上所へ納められたように、脱走軍は箱館占拠早々,箱館市中には翌2年4月にも「即今ノ場合ニ至リ繰合向必至ト差支候ニ付無余儀別紙ノ通(総額一万両余)市中ノ,箱館市民は、脱走軍の箱館占拠当初は早急な新政府軍の反攻を予測、店屋敷が戦火に包まれることを恐れ、貴重品 / 脱走軍支配下の箱館
函館市史 通説編 第二巻 (箱館戦争後の治安担当)

箱館戦争後の治安担当 箱館戦争が終わったとき、諸藩派遣の新政府軍は次々と自藩へ戻り、箱館には箱館府直属,新兵隊は、箱館府が旧幕箱館奉行から諸務を引き継いだあと、箱館および近在の庶民の子弟を募集して編成した親兵隊,この新兵隊と在住隊が、箱館戦争後の箱館の治安を担当することになったわけである。,主な仕事は、箱館の町の警備と外国船入港の際に祝砲を打つことであったようである。  ,箱館府からこの函衛隊を引き継いだ開拓使は、まず9月27日東久世長官自ら彼らに箱館戦争従軍に対する賞典( / 箱館戦争後の治安担当
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の繁栄を助ける)

箱館の繁栄を助ける 五稜郭庁舎  弁天岬台場と五稜郭とは箱館の警備を厳にし、かつ宏壮の観を添えたのはもちろん,、この築造が箱館市街の繁栄に及ぼした影響も大きく、その工費は20万両の大金を費やし、数年にわたって数多,の人夫を使用して、盛時には実に人夫5、6000人に達したといい、これがため箱館は大いに賑わい、従って戸口 / 箱館の繁栄を助ける
函館市史 別巻 亀田市編 (箱館府守備軍の敗退)

箱館府守備軍の敗退 箱館府では協議の結果賊兵(榎本軍)を打ち払うことに決定し、七重方面から箱館府兵と,津軽藩兵、大野方面からは箱館府兵と松前藩兵を出撃させ、二十二日夜峠下に夜営中の旧幕軍宿営地を攻撃させたが,この状況を見た箱館府は、二十三日大野方面に福山藩兵、大野藩兵を増援部隊として投入し、榎本軍は城山郷(現在七飯町藤城 / 箱館府守備軍の敗退
函館市史 通説編 第二巻 (奥羽5藩の警備と箱館)

奥羽5藩の警備と箱館 (ハ)の問題については、既に多くの文献で触れられているので、ここでは次のことを,  津軽藩- 警備地域(箱館表、千代ヶ台~エサン岬持場心得、乙部村~西蝦夷地ヲカムイ岬間,、エサン岬~東蝦夷地ホロベツ間、東蝦夷地惣体の援兵心得)、元陣屋(箱館字水元より谷地頭の内)、出張陣屋,また、上記の諸藩の松前・蝦夷地警備と箱館との関係では、特に南部藩が箱館山麓に、津軽藩が千代ヶ台に各々元陣屋,を設けるとともに、ともに箱館市中及び周辺地域の警備に当たっただけに、当期の箱館の警備・経済・社会に与えた / 奥羽5藩の警備と箱館
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