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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第二巻 (箱館奉行の再置)

箱館奉行の再置 安政元(1854)年6月30日、幕府は箱館奉行を再置した。,この再置以降の箱館奉行は、松前・蝦夷地の幕領地支配にかかわる幕府の遠国奉行という点では、享和2(1802,)年2月23日創置の蝦夷地奉行(同年5月10日、箱館奉行と改称し、次いで文化4年10月24日、松前奉行,そこで次に、箱館奉行再置以降の同奉行の任務のあり方の特徴と彼等が当面した諸問題の特徴を、(1)箱館奉行再置時,なお、箱館奉行再置以降の同奉行の補任の推移は、表序-4のとおりである。 / 箱館奉行の再置
函館市史 通説編 第一巻 (箱館奉行の設置)

箱館奉行の設置 幕府は蝦夷地経営の方法がほぼ整ったので、享和2(1802)年2月23日、松平忠明、石川忠房,次いで同年5月10日蝦夷奉行を改めて箱館奉行となし、更に7月24日には東蝦夷地を永久に幕府の直轄となすべき,     享和三年二月十五日 御黒印                               箱館奉行 / 箱館奉行の設置
函館市史 別巻 亀田市編 (箱館奉行の育成政策)

箱館奉行の育成政策 前幕府時代には森林の保護に重点が置かれていたのであるが、再直轄した幕府は殖産興業,すなわち箱館奉行は七重村に薬園を開き、ここで佐渡から取り寄せた杉、松の苗を育て、これを五稜郭周辺及び箱館付近,このほか箱館奉行は村々においてどれほど実施に移されたか、つまびらかではないが、田畑や屋敷境などの空地に,このように箱館奉行は強力に森林の育成政策を講じたのであるが、一般の農民には前時代同様、すぐには収入にならないことや,、植林を行い、手入れするだけの金銭や時間的余裕がなかったため、箱館奉行の政策は、なかなかその実績をあげることは / 箱館奉行の育成政策
椴法華村史 (箱館奉行所と村々の行政)

箱館奉行所と村々の行政 文政四年(一八二一)十二月幕府は蝦夷地の直轄を止め、松前藩にこれを返還した。,この時から六箇場所は箱館奉行所の管轄下に入り、主として箱館奉行所在方掛から行政指導を受けるようになったが / 箱館奉行所と村々の行政
恵山町史 ((1)箱館奉行所とその陣容)

(1)箱館奉行所とその陣容 箱館奉行は初め、竹内保徳と堀利煕(ほりとしひろ)の2人が江戸と箱館に交互在勤,村垣範正が共に外国奉行を兼務し多忙であった事情からであり、後に3名に減じており、また、2名となった期間など箱館奉行,箱館奉行支配の属吏には、組頭・組頭勤方・調役・調役並・調役下役元〆・調役下役・同心組頭・同心・足軽の順 / (1)箱館奉行所とその陣容
函館市史 通説編 第一巻 (箱館奉行を改め松前奉行を置く)

箱館奉行を改め松前奉行を置く かくて同年10月10日戸川安論は福山に移って政務を執った。,同月24日幕府は箱館奉行を改めて松前奉行となし、小納戸頭兼勘定吟味方河尻甚五郎春之、勘定吟味役村垣定行 / 箱館奉行を改め松前奉行を置く
函館市史 通説編 第一巻 (箱館奉行所建築)

箱館奉行所建築 そこで箱館に奉行所を新築したが、奉行所すなわち奉行の役宅は、享和2年建築に着手し、同 / 箱館奉行所建築
函館市史 別巻 亀田市編 (箱館奉行の馬産奨励と馬市)

箱館奉行の馬産奨励と馬市 後松前藩の時代あまり積極的でなかった松前藩の牧馬政策に対し、後幕府時代の竹内,、堀、村垣などの箱館奉行は、蝦夷地開拓と防備の必要上から牧場の開設、馬市の開催、飼育方法の布達(保護のため,更に箱館奉行は良馬の普及と繁殖により、幕府財政の補充などを図ろうとし、安政四(一八五七)年亀田村に馬市 / 箱館奉行の馬産奨励と馬市
函館市史 通説編 第二巻 ([1 箱館奉行の経済政策-旧制との相剋])

[1 箱館奉行の経済政策-旧制との相剋] 箱館が、国際的な開港地となって外国船が随時、出入するようになるという,幕領化、松前城下とその近在を松前藩領として残したが、その他の地域は、すべて幕領とされ、箱館を拠点に、箱館奉行 / [1 箱館奉行の経済政策-旧制との相剋]
恵山町史 (箱館奉行羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より)

箱館奉行羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より この道路行政について、初代箱館奉行(幕府遠国奉行として / 箱館奉行羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より
函館市史 通説編 第二巻 ([2 箱館奉行の産業開発政策-「百物百工」をめざして])

[2 箱館奉行の産業開発政策-「百物百工」をめざして] 箱館奉行の産業開発は、「土地御開拓」を中心とするものであったが / [2 箱館奉行の産業開発政策-「百物百工」をめざして]
椴法華村史 (幕府の再支配)

一八五五)三月から開港されることになり、安政元年幕府は松前藩に箱館とその付近五・六里の地を上知させ、箱館奉行所,より西は乙(おと)部村に至る海岸線を松前藩の領地として残し、これ以外のすべての土地を上知させ、これを箱館奉行,次に主な箱館奉行五名の人物歴について簡単に記すことにする。  ,勘定奉行を兼務、万延元年遣米副使、文久二年(一八六二)箱館奉行兼務を免ぜられる。  ,・杉浦勝誠 慶応二年(一八六六)箱館奉行、同三年勘定奉行兼務、同四年四月箱館奉行所廃止まで箱館奉行として
函館市史 通説編 第一巻 (奉行の更迭異動)

奉行の更迭異動 この間、箱館奉行にも更迭異動があり、万延元(1860)年堀織部正に代って、勝田充万が,更に文久3年小出大和守が勘定奉行に転任したので、同年8月箱館奉行支配組頭であった新藤鉊蔵方凉が箱館奉行並,に進み、慶応2年正月杉浦勝誠(兵庫頭)が寄合から箱館奉行に転じ、同3年6月には栗本鯤(安芸守)が勘定奉行格箱館奉行兼務,と改元)2月大目付に転じたので、その後任には橋本悌蔵が箱館奉行並に補され、まもなく廃官となった。,以上のように箱館奉行には幕府再直轄以来13人が歴任している。
函館市史 通説編 第二巻 (蝦夷地と箱館と)

蝦夷地と箱館と 次に第2期の箱館奉行の任務についてみると、安政2年2月24日の箱館奉行に対する老中達,早々及二注進一、其上ニも人数於レ可レ入者、隣国之面々江可二申遣一事」となっていることなどの事実(菊池勇夫「箱館奉行,また(ロ)にかかわる仕事が、この期の箱館奉行にとっていかに大きな位置を占めるものであったかは、前節でみた,諸問題から窺い知ることができるが、ここで再確認しておきたいことは、箱館奉行は、開港直後に対外国船との交渉,において様々な問題に遭遇し、そのため同奉行は、その対応策を相次いで老中に上申していったが、これらの箱館奉行
函館市史 通説編 第一巻 (学事)

学事 箱館奉行および支配吏員のなかに学者の多いのは、この時代も同じであった。,)等の人々は、経史あるいは詩文をよくし、三田喜六(葆光、号櫨園)及び妻(花鮊)、石場斎宮(名は高門・箱館奉行支配調役並,箱館奉行書物御用を勤めた来住野(くすの)五郎治は、赤川村近江新三郎の3男で、林大学頭の家塾に学び、井伊大老
恵山町史 (5、村並から「尻岸内村」へ)

勿論、これは箱館奉行の認可ということであるが、これについての認可文書は見当たらない。,なお、郷土の史跡、古武井溶鉱炉と関連施設(冷水川仮溶鉱炉・女那川レンガ製造所)の築造は、幕府・箱館奉行,北辺警備(ロシアの南下に対しての防備)のための「五稜郭」に設置する大砲の築造が主たる目的であり、この幕府・箱館奉行,郷土のすがた 安政6年(1859)延叙歴検真図(えぞれきけんしんず) 目賀田帯刀画より 距離は箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻 (フランス軍艦病人の上陸・養生)

フランス軍艦病人の上陸・養生 もう一つのこの期の特徴的な出来事は、フランス軍艦が箱館奉行に対し病人の,上陸と箱館での養生を要請し、箱館奉行がこれを独自の判断で特別に許可したことである。,箱館奉行竹内保徳は、この要請をうけるや、「人命にも拘る事故」として、病人の上陸・養生及び薪水食料等の供給,以後彼等は、2~3か月間、異郷の地箱館で養生することとなったが、6月8日実行寺に止宿して以来、箱館奉行,箱館奉行は、シビル号の例があるため、これをも許可したが、実行寺の収容能力には限度があり、一挙に多人数を
函館市史 通説編 第二巻 (御役所の建設)

御役所建設工事の件が具体的に進みだしたのは安政5年からで、同年3月、箱館奉行は御役所の普請見積を小普請方,その後箱館奉行側は、万延元(1860)年までには設計書・仕様書等を作成し、それに要する費用を金1万2449,同年12月、中川傳蔵に一手請負わせたいとの伺書を老中に提出したが、翌文久元(1861)年2月、老中は箱館奉行,ところが同年7月、箱館奉行は、従来の1年箱館在勤から家族連れの在住となったため、急遽奥向きの模様替えを,したがって、「箱館奉行所」というのは俗称である。
函館市史 通説編 第二巻 (箱館開港への対処)

年6月26日、松前藩より箱館及び同所より5~6里四方の地を上知し(『幕外』6-315)、6月晦日には箱館奉行,を再置して勘定吟味役竹内清太郎を箱館奉行に任じ(『幕外』6-325)、7月19日、同地を箱館奉行の「御預所,竹内を箱館奉行に任じたのは、竹内がペリー来航以来、台場普請掛、大砲鋳立掛、大船製造掛の職を歴任するとともに,月2日、オランダにも下田・箱館を開港する旨通知したこと(『幕外』7-172)もあって、10月22日、箱館奉行,第1条であるが、同年12月17日、箱館奉行が同配下の同心に示した「異国船渡来之節心得方」中の11か条の
恵山町史 (2、開国・蝦夷地の再直轄)

・竹内保徳 1854年(嘉永7年)箱館奉行。,・堀利煕 1854年(嘉永7年)箱館奉行、後外国奉行を兼務。,・小出秀実 1862年(文久2年)に箱館奉行、後外国奉行兼務する。,1862年(文久2年)に箱館奉行支配組頭を務める。後、昌平黌頭取、目付、軍艦奉行を務める。,・杉浦勝誠 1866年(慶応2年)箱館奉行、翌年勘定奉行を兼務し、慶応4年4月箱館奉行所廃止まで奉行を
函館市史 通説編 第一巻 (長崎俵物の直貿易)

このような事態をもたらしたのは、幕府の優柔不断な態度によるもので、すなわち、箱館奉行はこの開港を機会に,、松前北国筋(蝦夷地・津軽南部地方)産の俵物を、箱館奉行所を通じて箱館港から一括輸出することを終始幕府,をもいれず、あくまで自由売買、自由貿易の具体化を要求し、特にイギリスは、日英通商条約をたてに、領事を通じて箱館奉行,に、自由貿易を強硬に迫ったため、万延元年2月、箱館奉行はついにこれに属し、次のような触書をもって一部俵物
函館市史 通説編 第二巻 (幕領初期に直面した問題)

幕領初期に直面した問題 第1期の箱館奉行に期待された主要な任務は、先にみたように、(イ)箱館を中心とする,とディアナ号上で会見し、薪水食料の供給を要求するとともに、大坂で幕府と交渉したい旨の老中宛書簡を箱館奉行堀利熈,なおこの間、箱館奉行は、ロシアが条約未締結国であるにもかかわらず、薪水・食料の供給をはじめ、ポシュエット,したがって、この期の箱館奉行の仕事は、当然のことながら(イ)と(ハ)に重点が置かれることになったが、この,期は、箱館奉行再置後僅か9か月未満という短期間であったうえに、2名の奉行のうち、竹内が箱館に着任したのは
函館市史 通説編 第一巻 (蝦夷地の上知)

幕府は同年2月23日、松前藩に達して、東部木古内村以東、西部乙部村以北、東西蝦夷地島々まで上知させ、箱館奉行,同年3月5日、西在および東西蝦夷地の版図を松前氏から受取り、東蝦夷地へは箱館奉行支配組頭河津祐邦、西蝦夷地
函館市史 通説編 第二巻 (外国人居留地の性格)

外国人居留地の性格 函館にとって開港とは、箱館奉行設置にみる都市権力の移入とその対象となる居留外国人,この時期に、ロシア領事との間には領事館建設についての交渉が持たれていたが、箱館奉行は願い出の大工町の原野,また、同じ頃に村垣、堀両箱館奉行は老中に対し、外国人への貸渡地について次のような上申をした。,さらに安政6(1859)年12月には、箱館奉行支配勘定方から箱館奉行へ「外国人への貸渡蔵地所築出の件」,前伺書をうけてか、その直後の万延元(1860)年正月に箱館奉行から老中へ、大町海岸を埋立し貸渡地に造成
函館市史 通説編 第二巻 (箱館開港と売女渡世の公認)

彼は身の回りの世話をする女性の世話を箱館奉行に依頼、奉行は「見込ノ通可被取計候事」という老中の裁可を得,を作った以上、今後居留外国人が女性を懇望しその世話を奉行へ依頼してくることは大いに考えられることで、箱館奉行,そこで箱館奉行は、年季奉公に抱えた娘たちを売女や女芸者に仕立て、彼女らに遊女屋同様の所業をさせていた茶屋営業者,なお箱館奉行の予想通り、この後何件か外国人に″婦人懇望″を申し立てられ、異人休息所へ案内している様子が
南茅部町史 上巻 ([明治の村])

[明治の村] 慶応四年(一八六八)四月一一日、江戸城が明け渡され、五月蝦夷地は、箱館奉行から新政府の,慶応四年地方引渡演説書(明治元年一八六八五月一日、前箱館奉行杉浦兵庫頭ヨリ、箱館裁判所総督 清水谷侍従
函館市史 銭亀沢編 (明治維新政府蝦夷地の経営に着手)

一八六八)年四月、清水谷公考箱館裁判所副総督(すぐに箱館府知事となる)以下を箱館へ派遣して、幕府最後の箱館奉行杉浦誠,箱館と周辺地域は、箱館奉行が直轄的に行政を担当する地域であったので、銭亀沢村なども同様に箱館裁判所に引,表1・1・4 箱館奉行から箱館裁判所へ引き継がれた町と村 「慶応四年箱館地方及蝦夷地引渡演説書」『函館市史
函館市史 通説編 第二巻 (踏絵の見合せ)

踏絵の見合せ 安政2年6月15日、老中阿部正弘は箱館奉行に対し、「箱館表江異人上陸遊歩いたし候ニ付ては,この達にある「御黒印面」とは、いうまでもなく安政元年閏7月15日付箱館奉行宛将軍黒印状のことで、関係部分,全4か条のうち3か条が総てキリシタン禁制に関するものであることに加え、他の箱館奉行宛将軍黒印状の内容と,ところで箱館奉行(竹内・堀)は、右の老中達を受けて、同年9月19日阿部正弘に対し次のように上申した(『,かくして阿部正弘は、翌安政3年2月23日、下田奉行・箱館奉行に対し「下田・箱館表踏絵之儀、当節之形勢難二差置一義
函館市史 通説編 第二巻 (奉行配下の吏僚)

奉行配下の吏僚 以上の諸側面から窺えるように、当期の箱館奉行に課せられた任務の重みは、第1期のそれの,それだけに、当期の箱館奉行配下の吏僚の数も厖大なものとなった。,安政2年3月27日現在の箱館奉行(竹内・堀)配下の手付以上の吏僚は、支配組頭2名(箱館1、江戸1)、調役,なお、この表では、箱館奉行が3名になっているが、これは、安政3年7月28日、従来の竹内・堀に加え新たに,  表序-5 安政5年箱館奉行及び同奉行配下吏僚・職別・勤務地別人数表 職(席)名 高
函館市史 通説編 第二巻 (フランスの思惑)

さらにフランス軍艦、とりわけコンスタンチーヌ号の行動で注目しておきたいのは、箱館港碇泊中に、箱館奉行他,すなわち、安政2年8月2日、「船将」が箱館奉行竹内保徳に面会した際、竹内に「国帝より追々御国之製造の軍艦献候積,こうしたフランス軍艦の日本への積極的な友好的対応が、一つには、箱館奉行が独自の判断で病人の上陸と箱館での,以上箱館開港直後、とりわけ安政2~3年に、入港外国船や来航外国人との間に生じた諸問題の特性やそれへの箱館奉行,ないしは幕府の対応のあり方をみてきたが、以上の経緯からみる限り、これら諸問題への対応における箱館奉行の
函館市史 通説編 第二巻 (役所・役宅の新築・移転と防備)

役所・役宅の新築・移転と防備 箱館奉行が再置されるや、箱館御役所及び支配向役宅の増改築ないしは新築・,まず前者の問題についてみると、先にみたように、最初の箱館奉行竹内清太郎のこの問題に関する初期の方針は、,従来の松前藩の箱館御役所(松前藩の箱館奉行詰役所で、箱館及び箱館付在々の支配と箱館沖の口番所支配の拠点,こうしたなかで箱館奉行(竹内・堀-堀は11月28日帰府〔「公務日記」安政元年12月3日条〕)は、12月,ところで、同じ12月9日、箱館奉行(竹内・堀)は、矢不来・押付・山背泊・弁天岬・立待岬・築島・沖の口番所
函館市史 通説編 第一巻 (奉行支配吏員)

奉行支配吏員 村垣淡路守範正  また、箱館奉行支配の属吏は、組頭、組頭勤方、調役、調役並、調役下役元締,組頭は同勤方を合わせて大抵同時に3、4人を置き、箱館奉行を補佐したが、前時代の吟味役と同じく練達の士であった
函館市史 別巻 亀田市編 (御手作場)

このようなおり、箱館奉行所は箱館近郊の農業開発に乗り出し、各地に御手作場(奉行所直営の開墾地)を設けた,亀尾で稲、穀物、野菜、果樹などを本州から求め、試作したところほぼ良好の成績を得たので、これに力を得た箱館奉行所
函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭の築造)

五稜郭は、はじめ柳野と呼ばれていた所に築造するため柳野御陣営とか亀田役所土塁などと呼ばれているが、箱館奉行所,諸術調所教授武田斐三郎で安政三年十一月工事に着工し八年の年月を費やし元治元(一八六四)年五月竣工し、同年六月箱館奉行小出大和守秀実
函館市史 通説編 第一巻 (御雇医師)

箱館に来て開業中安政2(1855)年箱館奉行所の雇医師に任じられた。,順庵は加州金沢の人で増島蘭園に学び、官医塩田宗温に請われて養子となり、安政3年蝦夷地在住を命じられ、箱館奉行所学問教授役
椴法華村史 (ロシアの襲来)

文化四年(一八〇七)春箱館奉行はこの報に接し、直ちにこの事件について幕府に報告したが、幕府はすみやかに,このため箱館奉行羽太正養は、この報を知るや直ちに幕府に報告した。
函館市史 通説編 第二巻 (「一時居住」の解釈)

としていたが、内実はイタリア人2人、フランス人1人で(『グレタ号日本通商記』)、また上陸止宿の理由も箱館奉行宛,しかし、箱館奉行が彼等の箱館止宿を拒否したのに加え、彼等自身その後の見通しを何一つ持っていなかったこともあって,そのため箱館奉行は、やむなく「條約第五个條之趣ニ基キ」(『幕外』11-135、文脈からすると「漂民」扱,当初箱館奉行は、「右当分といふ意は、五日或は七日、多きも一月、二月に過さる事にて、漂民には止む事を得さる,また箱館奉行は、こうした意見を上申しつつ、老中に対し条文の解釈とリード等の要求に対する具体的な対応方法
椴法華村史 (大政奉還と箱館裁判所)

鳥羽伏見の戦い、二月の奥羽征討軍の派遣など各地で戦闘が続いており、明治新政府は蝦夷地の実経営を旧幕府時代の箱館奉行所,に中央集権国家の完成を望む声があり、これを取り上げた朝廷は種々検討の結果、慶応四年四月十二日旧幕府の箱館奉行所,において、行政・司法・外交・警備・開拓を担当する目的で設置された総合的な役所で、明治元年閏四月二十七日前箱館奉行杉浦兵庫頭,次に明治元年五月一日の開庁に先だって、前箱館奉行杉浦兵庫頭から箱館裁判所総督清水谷公考に引き継がれた村名
函館市史 別巻 亀田市編 (奉行の諭告と正徳の制令)

学制の確立していなかった時代において、教育の役割を担っていたのは、幕府であり、各藩であり、直接的には箱館奉行,『北海道教育史』によると箱館奉行は文化二(一八〇五)年、箱館外九か所に制札を建て、「正徳の制令」を掲げ
函館市史 通説編 第一巻 (産物会所の設置)

そのため、箱館奉行所は、安政4(1857)年幕府へ産物会所の設置を稟請した。,来航するので、船手の密貿易も行われる心配があったので、これを取締るため江戸、大坂、その他諸国の要地に箱館奉行付属
函館市史 通説編 第一巻 (社寺の管掌)

幕府直轄時代にも箱館奉行が社寺を管掌していた。
函館市史 別巻 亀田市編 (宝皇寺(真宗大谷派))

 創立は安政六年四月、開基は厳如上人、はじめは「東本願寺別院広大寺」と称し、翌万延元年五月、箱館奉行小出大和守,前記のように安政六年、本願寺二十一世大谷光勝法主が使僧斉聖寺をもって箱館奉行堀織部正に出願し、国恩に報
函館市史 通説編 第一巻 (印刷)

印刷 安政以後になると箱館奉行は木版師を伴っていたらしく、『松の本枝』『函府人名録』などが印刷されており
函館市史 通説編 第二巻 (牛供給の許可)

牛供給の許可 そのため箱館奉行は、以後老中に対し、「一旦牛飼立御渡方可二相成一旨申達候後ニ而、今更断及候義不都合,幕外』14-63)等と相次いで主張しつつ、前向きの対応策を示すよう強く訴えていったが、こうした一連の箱館奉行,生牛渡方丈之処ハ、餘事ニ不二差響一様篤と勘弁いたし、差免候様可レ被レ致候事」(『幕外』14-177)と箱館奉行,これはまさに、箱館奉行の老中に対する粘り強い説得によって初めて実現したものであった。,なお、右の問題とのかかわりで、箱館奉行が被差別民である「穢多」を箱館に移住させたとみられることを付言しておきたい
函館市史 別巻 亀田市編 (東照宮の建立と焼失・遷座)

 『祭神記』という天台宗等澍院執事(実質的には東照宮の宮司)の書いた記録によれば、     箱館奉行従五位下小出大和守殿政府,其目形七百貫目長六尺巾三尺余  壱個  一 水屋  是ハ九尺弐間惣銅葺木材ケヤキ菊惣浮彫       壱棟   箱館奉行小出大和守藤原實殿奉納,一 アマ狛コマ 狛大坂名産生石 台ハ大坂御影石        弐個   箱館奉行組頭調役平山謙次郎其外, 一 大石鳥居 大坂御影石                   壱基   箱館奉行御付常役中ヨリ
恵山町史 ([五稜郭と古武井熔鉱炉])

[五稜郭と古武井熔鉱炉] 同じ、1854年(安政元)には、蝦夷地巡視(後の箱館奉行)を命ぜられた堀利煕,を再置して勘定吟味役竹内保徳を箱館奉行に任じ、これらの幕領地を箱館奉行の「御預地」とするとともに、同年七月二十一日,、目付堀利煕(ほりとしひろ)を同奉行に任じ、箱館奉行を二人体制として箱館開港に備えた。  ,堀利煕(ほりとしひろ)を中心とする箱館奉行が老中阿部正弘に提出した上申書によると、その主な理由は、当時,同年六月十五日、箱館奉行小出秀実が新役所に移り、新役所の正式名称を「箱館御役所」とした。
函館市史 通説編 第一巻 (外人の居留問題)

しかし彼らの目的は下田ではなかったので、まもなく去って箱館に来航し、箱館奉行に向かって上陸滞在したいと,箱館奉行はその要求を拒絶したいと思ったが将来を考え、実状を幕府に訴え、その指揮を仰いだところ、幕府でも,フランス軍艦が入港し、入港中のイギリス軍艦を通じて船中病人が多数いるため、上陸して養生したいと申出たので、箱館奉行
函館市史 通説編 第一巻 (箱館洋学所)

安政3年、箱館奉行支配調役下役格で来た名村五八郎は、江戸で英学を修めた名通詞で、長崎のオランダ通詞の家,文久元年5月、箱館奉行は五八郎に命じて、運上所内に「稽古所」を設け、公務の余暇に英語を教授させた。
椴法華村史 (主要道路の開削)

そこで箱館奉行堀利〓は理想的な道路の開削計画として、箱館から鷲木・長万部・虻田を経て、勇拂と石狩川を結,そこで箱館奉行は各地の場所請負人に着目し、道路開削に当たらせることにした。
椴法華村史 (椴法華の村役人)

同年十二月九日の王政復古と徳川政権から明治新政権へと世の中は大きく転換されたが、蝦夷地の実経営は未だ旧幕府時代の箱館奉行所,(この制度は、明治六年の大小区画制実施の時まで続けられる)  これらの村役人は、   明治元年箱館奉行所
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