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椴法華村史
(箱館奉行所と村々の行政)
箱館奉行所
と村々の行政 文政四年(一八二一)十二月幕府は蝦夷地の直轄を止め、松前藩にこれを返還した。,この時から六箇場所は
箱館奉行所
の管轄下に入り、主として
箱館奉行所
在方掛から行政指導を受けるようになったが /
箱館奉行所
と村々の行政
函館市史 通説編 第一巻
(箱館奉行所建築)
箱館奉行所
建築 そこで箱館に奉行所を新築したが、奉行所すなわち奉行の役宅は、享和2年建築に着手し、同 /
箱館奉行所
建築
恵山町史
((1)箱館奉行所とその陣容)
(1)
箱館奉行所
とその陣容 箱館奉行は初め、竹内保徳と堀利煕(ほりとしひろ)の2人が江戸と箱館に交互在勤 / (1)
箱館奉行所
とその陣容
函館市史 別巻 亀田市編
(御手作場)
このようなおり、
箱館奉行所
は箱館近郊の農業開発に乗り出し、各地に御手作場(奉行所直営の開墾地)を設けた,亀尾で稲、穀物、野菜、果樹などを本州から求め、試作したところほぼ良好の成績を得たので、これに力を得た
箱館奉行所
函館市史 通説編 第一巻
(御雇医師)
箱館に来て開業中安政2(1855)年
箱館奉行所
の雇医師に任じられた。,順庵は加州金沢の人で増島蘭園に学び、官医塩田宗温に請われて養子となり、安政3年蝦夷地在住を命じられ、
箱館奉行所
学問教授役
椴法華村史
(椴法華の村役人)
同年十二月九日の王政復古と徳川政権から明治新政権へと世の中は大きく転換されたが、蝦夷地の実経営は未だ旧幕府時代の
箱館奉行所
,(この制度は、明治六年の大小区画制実施の時まで続けられる) これらの村役人は、 明治元年
箱館奉行所
椴法華村史
(幕府の再支配)
一八五五)三月から開港されることになり、安政元年幕府は松前藩に箱館とその付近五・六里の地を上知させ、
箱館奉行所
,・杉浦勝誠 慶応二年(一八六六)箱館奉行、同三年勘定奉行兼務、同四年四月
箱館奉行所
廃止まで箱館奉行として
函館市史 通説編 第二巻
(政務の引継)
平穏引継ぎと以後の円滑な経営継続に心を砕いてきた杉浦兵庫頭は、
箱館奉行所
直接統治地域の業務内容を認めた,「地方演説書」は、和人地のうち松前藩領を除いた
箱館奉行所
直轄50町村(箱館町から長万部村まで)の現況、,しかし、
箱館奉行所
の金穀は、江戸表の状況を心配した杉浦兵庫頭が、3月中に江戸へ回送してしまっていたために
恵山町史
(『福島屋文書』「取扱向大意心得帳」万延2年(1861)より (市立函館図書館所蔵))
箱館開港以来、外国人の需要により、
箱館奉行所
では近在の村々に五升芋の作付けを奨励し、箱館産物会所で買い,この生産高からも
箱館奉行所
の力の入れようが窺える。
函館市史 別巻 亀田市編
(牛と五升芋)
、当時は主として駄送用として飼われていたため、これを買上げられることは農民の生活を脅かすことになり、
箱館奉行所
,のうちは近在に手配し、外国船へ供給していたが、外国船の出入が多くなるにつれて生産が間に合わなくなり、
箱館奉行所
,切干しは
箱館奉行所
によって木古内、茂辺地、七重ほか数か所に製造所が設置され、房州勝山の新兵衛に経営させ
函館市史 別巻 亀田市編
(松川弁之助の開拓)
こうした情勢の中で安政三(一八五六)年、越後出身の松川弁之助は赤川村字石川沢に御手作場を開くことを
箱館奉行所
,と記されており、松川弁之助は
箱館奉行所
の援助を受けながら、糞尿の利用、かんがい用溜池の建設、新田開拓によく
南茅部町史 下巻
(弁天島)
弁天島 臼尻巌島神社の神社誌によれば、享保の頃、オサツベ場所知行主新井田金右衛門が
箱館奉行所
の在勤中
函館市史 通説編 第二巻
(箱館裁判所設置)
当面の重要課題は、旧幕府
箱館奉行所
からの政務引継であった。,、松前、秋田、津軽、南部の4藩の京都留守居役を清水谷邸へ呼び出し、この日太政官から蝦夷地警衛と旧幕府
箱館奉行所
,次いで17日には、旧幕府
箱館奉行所
の諸役人へ対し、旧幕府の金穀並に物産を警衛諸藩へ引継ぐことを命ずる達書,ここに初めて新政府の意志が直接旧幕府
箱館奉行所
に伝えられたのである。
函館市史 通説編 第二巻
(箱館戦争後の治安担当)
伊予国新居郡楢木(愛媛県西条市楢木)出身で旧幕
箱館奉行所
同心格歩兵隊嚮導役秦斗鬼三(のち一明)が、7月,
箱館奉行所
同心黒沢伝之丞(のち正吉)が、同年10月16日に隊長(従事席)に任命されており、脱走軍が蝦夷地
椴法華村史
(大政奉還と箱館裁判所)
鳥羽伏見の戦い、二月の奥羽征討軍の派遣など各地で戦闘が続いており、明治新政府は蝦夷地の実経営を旧幕府時代の
箱館奉行所
,に中央集権国家の完成を望む声があり、これを取り上げた朝廷は種々検討の結果、慶応四年四月十二日旧幕府の
箱館奉行所
函館市史 別巻 亀田市編
(五稜郭の築造)
五稜郭は、はじめ柳野と呼ばれていた所に築造するため柳野御陣営とか亀田役所土塁などと呼ばれているが、
箱館奉行所
椴法華村史
(椴法華の行政)
前項でも記したように、六ヵ場所の村々は安政二年二月から
箱館奉行所
の管轄下に置かれることになったのであるが
椴法華村史
(文化四年箱館沖の出没)
更にこの日南部領大澗岬辺にも外国船が現われたとの報があり、
箱館奉行所
の役人はもとより、各藩の藩兵、箱館及
函館市史 通説編 第一巻
(気象観測)
気象観測
箱館奉行所
では、第1編で述べたように、安政元年から風向・風力・天気・気温・地震・雷など、気象
函館市史 通説編 第一巻
(産物会所の設置)
そのため、
箱館奉行所
は、安政4(1857)年幕府へ産物会所の設置を稟請した。
函館市史 別巻 亀田市編
(村役人)
福山に町奉行所と沖の口役所、箱館および江差にそれぞれ奉行役所と沖の口番所を設置したが、亀田諸村はこの時
箱館奉行所
恵山町史
([人馬賃銭])
(
箱館奉行所
官吏および在住の諸藩の士卒はこの半額、諸藩の持場内は無償)』と定められた。
函館市史 通説編 第一巻
(新興仲買人)
この沖ノ口口銭の滞納は、直接幕府(
箱館奉行所
)の歳入にかかわる重大な問題であった。 ,(『諸書付』) これには
箱館奉行所
もよほど困ったらしく、万延元年2月、沖ノ口掛から出された、「外国人売渡口銭之義
函館市史 通説編 第一巻
(市街の拡張)
すなわち、この当時の箱館の市街を見ると、町は御役所と書かれた
箱館奉行所
を中心に箱館山の山すそおよび砂洲
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田地域の稲作)
『文久三歳御借米覚帳』によれば、鍛冶村のほとんどの者が
箱館奉行所
より開墾のための借米(米で借りて後に金
恵山町史
(5、村並から「尻岸内村」へ)
郷土のすがた 安政6年(1859)延叙歴検真図(えぞれきけんしんず) 目賀田帯刀画より 距離は
箱館奉行所
函館市史 別巻 亀田市編
(東本願寺と桔梗野)
東本願寺の開拓地は最初後志地方となっていたが、同寺では桔梗野の開拓について次のように
箱館奉行所
に願い出,本願寺からは
箱館奉行所
へ届出て正式の許可を得、桔梗野の開発が決定した。
函館市史 別巻 亀田市編
(フランス軍艦の入港)
コンスタンティーン号及び実行寺に設けられた養生所では毎日多量の野菜、米、鶏卵、魚などの食料を入用とし、これらは
箱館奉行所
椴法華村史
(頭取・小頭の仕事)
頭取・小頭の仕事 ・頭取は、各村に一名で小頭・百姓代の長として
箱館奉行所
の命令に従って、諸検査・書類整備,船改というのは、船の大小・型・使用目的を調査し、これに課税するのが目的であり、両方とも
箱館奉行所
在方掛
函館市史 通説編 第一巻
(長崎俵物の直貿易)
態度によるもので、すなわち、箱館奉行はこの開港を機会に、松前北国筋(蝦夷地・津軽南部地方)産の俵物を、
箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻
(明治時代の函館の寺院群)
本 寺 沿 革 檀 徒 数 清光院 台町 天台宗 延暦寺 文久元(1861)年、寛純が
箱館奉行所
,7,500人 宝皇寺 桔梗村 浄土真宗 大谷派 東本願寺 本願寺21世光勝が、安政6(1859)年、
箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻
(商業港としての基礎)
も西海岸も商圏とすることができる地理上の優位な位置にあったこと、(3)安政期における箱館開港、幕府の
箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻
(箱館裁判所の内部機構)
の所業は虚実を監察方で糺すこと等が述べられており、上層部は京都から総督に随従してきた者、下僚は旧幕府
箱館奉行所
,旧幕府の属吏も、次のような基準で裁判所職員に任用され、市在支配や沖の口・運上所業務などの実務は、旧幕府
箱館奉行所
恵山町史
(榎本政権の統治)
榎本政権の統治 北海道・蝦夷地の行政府
箱館奉行所
は、1868年、慶応4年4月12日明治政府の「箱館裁判所,幕領が
箱館奉行所
所轄であったことから考えれば、榎本政権でもそれを踏襲したと推察される。
函館市史 通説編 第一巻
(神社)
神社 箱館八幡宮
箱館奉行所
の設置にあたり、文化元(1804)年9月、会所町に遷宮された。
南茅部町史 上巻
(村役人)
) 文政一〇(一八二七) 天保七(一八三六) 椴法花 十四世松前志摩守章廣 古部
箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻
(御役所の建設)
したがって、「
箱館奉行所
」というのは俗称である。
函館市史 通説編 第一巻
(問屋口銭をめぐる対立)
箱館奉行所
はこの要望をしりぞけ、従来通り問屋口銭を免除したが、文化8年2月に至って再び問屋側は口銭徴収
南茅部町史 下巻
(郷土神社棟札編年一覧)
一八二五)七月廿三日 臼尻厳嶋大明神 拝殿再建 天下泰平 神主藤山大膳正藤原荘房 頭取
箱館奉行所
新井田金右衛門
恵山町史
([明治・大正時代の漁業])
東蝦夷地7か年間仮上知(かりじょうち)(直轄) 同 8月・知内川以東浦河までも含む、統治のため
箱館奉行所
,松前家先祖から領有していた福山の地をも直轄とし、松前藩は奥州梁川に転封する ・
箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻
(北海道開拓と神社)
八幡宮神主の菊池が、自社を「蝦夷地惣鎮守」と位置づけながら、石狩の地に石狩八幡宮なる末社を勧請したい旨を
箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻
(脱走軍支配下の箱館)
脱走軍支配下の箱館 箱館に入った脱走軍がまず行ったことは町会所を通して触書を出したことであったように、
箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻
(英語稽古所の終焉と明治維新)
また彼の功績の一つとしては、「函館文庫」を設立して、
箱館奉行所
の洋書の保存につとめ、維新後は教育のための
函館市史 通説編 第二巻
(箱館における貿易開始の体制)
箱館奉行所
は、安政6年6月5日から「外国人交易」を許可するという触書を出し(前出「御触書写」同年6月2
函館市史 通説編 第一巻
(開港前後の観測)
でアルブレヒトに先んずること5年前の安政元(1854)年から安政5(1858)年までの間、幕府直轄の
箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻
(新政府の蝦夷地への関心)
3項では鎮撫使の派遣は松前藩が案内を担当するので、まず松前に上陸、箱館へはその旨を布告すれば、旧幕府
箱館奉行所
函館市史 別巻 亀田市編
(明治以前)
名主 武 兵 衛 東照宮は五稜郭築城に関連し、
箱館奉行所
函館市史 通説編 第二巻
(通訳者の必要性)
一方、名村五八郎は同年8月21日付けで
箱館奉行所
に召し抱えられた。
函館市史 通説編 第二巻
(杉浦兵庫頭の決断)
関する「建議書」を提出する以前から、彼らの側近との接触があり、手に入れた情報と思われ、以後松前藩は、
箱館奉行所
恵山町史
([箱館裁判所(箱館府)と箱館戦争])
・1867年(慶応3年12月9日)政権成立後、明治政府の蝦夷地政策は実質的に旧幕府の
箱館奉行所
に委ねられた,・1868年、慶応4年4月12日、
箱館奉行所
を廃止し「箱館裁判所」を開設する。 ,・1868年、慶応4年閏4月27日、清水谷公考(きんなる)旧
箱館奉行所
庁舎に入る。 ,恭順の意を表していた旧幕府箱館奉行杉浦兵庫頭勝誠に迎えられ、明治政府箱館裁判所清水谷公考総督は旧
箱館奉行所
庁舎
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