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函館市史 通説編 第二巻
(箱館奉行の再置)
箱館
奉行
の再置 安政元(1854)年6月30日、幕府は
箱館
奉行
を再置した。,)年2月23日創置の蝦夷地
奉行
(同年5月10日、
箱館
奉行
と改称し、次いで文化4年10月24日、松前
奉行
,このように、
箱館
奉行
の再置それ自体は、
箱館
開港への対応とそれに伴なう
箱館
を中心とした5~6里四方の幕領地,そこで次に、
箱館
奉行
再置以降の同
奉行
の任務のあり方の特徴と彼等が当面した諸問題の特徴を、(1)
箱館
奉行
再置時,なお、
箱館
奉行
再置以降の同
奉行
の補任の推移は、表序-4のとおりである。 /
箱館
奉行
の再置
函館市史 通説編 第一巻
(箱館奉行の設置)
箱館
奉行
の設置 幕府は蝦夷地経営の方法がほぼ整ったので、享和2(1802)年2月23日、松平忠明、石川忠房,次いで同年5月10日蝦夷
奉行
を改めて
箱館
奉行
となし、更に7月24日には東蝦夷地を永久に幕府の直轄となすべき,享和2年は両
奉行
とも江戸にあって
箱館
には来らず、翌3年戸川安論が
箱館
に赴任の際、将軍は左の黒印状を与えた, 享和三年二月十五日 御黒印
箱館
奉行
,
奉行
は、1年交替で
箱館
に勤務、4月中に交替し、吟味役(2人)は、3年在勤とし、6月中に交替した。 /
箱館
奉行
の設置
函館市史 通説編 第一巻
(箱館奉行所建築)
箱館
奉行
所建築 そこで
箱館
に
奉行
所を新築したが、
奉行
所すなわち
奉行
の役宅は、享和2年建築に着手し、同,そこで調役並富山元十郎保高が所々を探したところ、
箱館
山の内に清泉を発見、筧(かけい)を架けてこれを引いた,の光りいたらぬくまなく、蝦夷の島人をさへなでやすんぜらるべきよしをきてさせ給へるにつきて、享和二とせ
箱館
,に移し、
奉行
役所と相対して
奉行
の交代屋敷とした。,」を記載した制札を、
箱館
外9か所に建てた。 /
箱館
奉行
所建築
函館市史 通説編 第一巻
(箱館奉行を改め松前奉行を置く)
箱館
奉行
を改め松前
奉行
を置く かくて同年10月10日戸川安論は福山に移って政務を執った。,同月24日幕府は
箱館
奉行
を改めて松前
奉行
となし、小納戸頭兼勘定吟味方河尻甚五郎春之、勘定吟味役村垣定行,の2人を松前
奉行
に任じ、戸川安論と羽太正養も改めて松前
奉行
に任じて政庁を松前城に移した。,
箱館
は幕府直轄後、政治・経済の中心地となったので急速に繁栄し、政庁の所在地としては地理港湾等の上からも,また
奉行
を4人にしたことはロシア船の暴挙があって、政務多端を極めたため臨時増員をしたらしい。 /
箱館
奉行
を改め松前
奉行
を置く
函館市史 別巻 亀田市編
(箱館奉行の育成政策)
箱館
奉行
の育成政策 前幕府時代には森林の保護に重点が置かれていたのであるが、再直轄した幕府は殖産興業,すなわち
箱館
奉行
は七重村に薬園を開き、ここで佐渡から取り寄せた杉、松の苗を育て、これを五稜郭周辺及び
箱館
付近,このほか
箱館
奉行
は村々においてどれほど実施に移されたか、つまびらかではないが、田畑や屋敷境などの空地に,このように
箱館
奉行
は強力に森林の育成政策を講じたのであるが、一般の農民には前時代同様、すぐには収入にならないことや,、植林を行い、手入れするだけの金銭や時間的余裕がなかったため、
箱館
奉行
の政策は、なかなかその実績をあげることは /
箱館
奉行
の育成政策
椴法華村史
(箱館奉行所と村々の行政)
箱館
奉行
所と村々の行政 文政四年(一八二一)十二月幕府は蝦夷地の直轄を止め、松前藩にこれを返還した。,松前藩は翌文政五年(一八二二)に復領し、福山に町
奉行
所と沖の口役所、
箱館
と江差にそれぞれ
奉行
所と沖の口役所,この時から六箇場所は
箱館
奉行
所の管轄下に入り、主として
箱館
奉行
所在方掛から行政指導を受けるようになったが /
箱館
奉行
所と村々の行政
恵山町史
((1)箱館奉行所とその陣容)
(1)
箱館
奉行
所とその陣容
箱館
奉行
は初め、竹内保徳と堀利煕(ほりとしひろ)の2人が江戸と
箱館
に交互在勤,したが、安政3年(1856年)7月には1名を増員し村垣範正を任命、1人は江戸に1人は
箱館
に在勤、他の1,じており、また、2名となった期間など
箱館
奉行
の体制は定まらなかった。,また、その任期も非常に短く、遂に
箱館
在勤をすることなく職を退いた
奉行
もいた。 ,
箱館
奉行
支配の属吏には、組頭・組頭勤方・調役・調役並・調役下役元〆・調役下役・同心組頭・同心・足軽の順 / (1)
箱館
奉行
所とその陣容
函館市史 別巻 亀田市編
(箱館奉行の馬産奨励と馬市)
箱館
奉行
の馬産奨励と馬市 後松前藩の時代あまり積極的でなかった松前藩の牧馬政策に対し、後幕府時代の竹内,、堀、村垣などの
箱館
奉行
は、蝦夷地開拓と防備の必要上から牧場の開設、馬市の開催、飼育方法の布達(保護のため,の有珠、虻田にあった牧場に更に安政五(一八五八)年浦河に牧場を開設し、馬質改善のために不良馬百八頭を
箱館
,更に
箱館
奉行
は良馬の普及と繁殖により、幕府財政の補充などを図ろうとし、安政四(一八五七)年亀田村に馬市 /
箱館
奉行
の馬産奨励と馬市
函館市史 通説編 第二巻
([1 箱館奉行の経済政策-旧制との相剋])
[1
箱館
奉行
の経済政策-旧制との相剋]
箱館
が、国際的な開港地となって外国船が随時、出入するようになるという,幕府は、蝦夷地を幕領化、松前城下とその近在を松前藩領として残したが、その他の地域は、すべて幕領とされ、
箱館
,を拠点に、
箱館
奉行
が管轄するところとなった。 / [1
箱館
奉行
の経済政策-旧制との相剋]
恵山町史
([箱館裁判所(箱館府)と箱館戦争])
最後の
箱館
奉行
を勤めた杉浦兵庫頭勝誠は勘定
奉行
を兼ねる逸材で、まず「万一狼藉人(ろうぜきにん)等有レ之候節,・1868年、慶応4年4月12日、
箱館
奉行
所を廃止し「
箱館
裁判所」を開設する。 ,恭順の意を表していた旧幕府
箱館
奉行
杉浦兵庫頭勝誠に迎えられ、明治政府
箱館
裁判所清水谷公考総督は旧
箱館
奉行
所庁舎,以下、
箱館
奉行
杉浦勝誠より
箱館
裁判所総督清水谷公考に引継がれた『慶応四年
箱館
地方及蝦夷地引渡演説書』より,、
箱館
奉行
永井玄蕃、同並 中島三郎助、松前
奉行
人見勝太郎、江差
奉行
松岡四郎次郎、同並 小杉雅之進 / [
箱館
裁判所(
箱館
府)と
箱館
戦争]
函館市史 通説編 第一巻
(箱館港)
箱館
港
箱館
市中図 「蝦夷島奇観」より 由来、
箱館
は津軽海峡の中央に位し、
箱館
山が海中に突出,それが再び脚光を浴びて登場し、寛保元(1741)年には名称は変わらないが、亀田番所も
箱館
に移されている,この番所が新築されたのは『逢坂氏日記』によれば、寛延4(1751)年で、当時、
奉行
は酒井伊左衛門であり /
箱館
港
函館市史 通説編 第二巻
(箱館の動揺)
箱館
奉行
杉浦兵庫頭の日記(「日次記」杉浦俊介氏蔵)によると、まず25日に飛脚屋島屋方に、杉浦
奉行
が「京摂新報,の
箱館
奉行
…『新北海道史』では信発)と新藤鉊蔵(前年10月まで
箱館
奉行
並)から京都大坂の形成を伝える「,戦争ノ顛末は分り兼候」という注が付いた内状が届き、同じ日に
箱館
奉行
の江戸詰組頭富田類右衛門らからは「当正月三日八,杉浦
奉行
はこれまでの方針を堅持、
箱館
に止まり朝廷からの派遣者に無事引き継ぐことを主張し、高木は
奉行
の意見,で蝦夷地の事情に精通していた一橋家郡
奉行
の橋本悌蔵を
箱館
奉行
並に任じ、
箱館
の現況視察と運上金の増徴(慶応 /
箱館
の動揺
函館市史 通説編 第一巻
(箱館通宝)
箱館
通宝 前直轄時代にも幕府は蝦夷地に鉄銭を通用させ、かなりの好成績を納めているが、松前藩復領とともに,そのため交易上不正が多く、そのうえ銭の通用がなければ、在住の士民の不便も少なくないので、
箱館
奉行
は鉄銭,この銭は
箱館
通宝と称し、円輪、円孔、背に安の字を付した1文銭で、
箱館
、松前、蝦夷地を限り通用を許されたものである,蝦夷地には3万貫を回し、アイヌの給料、手当などにも現物と取りまぜて渡し、また
奉行
巡回の節、賑恤、賞与としてこれを,
箱館
銭座の図
箱館
通宝 /
箱館
通宝
函館市史 別巻 亀田市編
(箱館港の警備)
箱館
港の警備 安政二年三月より正式開港の運びとなり、安政元年六月
箱館
奉行
が設置されたのであるが、外国船,このような情勢の中で安政元年十二月竹内保徳、堀利熙の両
箱館
奉行
は、
箱館
の警備に関して幕府に対して次のような,すなわち、
箱館
付近砲台の実用砲の採用、台場の新設と改良、海軍の充実、千代ヶ岱、有川陣屋の構築及び
奉行
所,『
箱館
夷人談』によれば アメリカのもの四・五人山瀬止の台場に至り、大砲を視て甚嘲弄し、両手,、海上防備及び緊急時における援軍輸送手段確保の面から海軍の充実、更に港内より一望され、防御設備のない
奉行
所 /
箱館
港の警備
函館市史 通説編 第二巻
(蝦夷地と箱館と)
蝦夷地と
箱館
と 次に第2期の
箱館
奉行
の任務についてみると、安政2年2月24日の
箱館
奉行
に対する老中達,早々及二注進一、其上ニも人数於レ可レ入者、隣国之面々江可二申遣一事」となっていることなどの事実(菊池勇夫「
箱館
奉行
,また(ロ)にかかわる仕事が、この期の
箱館
奉行
にとっていかに大きな位置を占めるものであったかは、前節でみた,諸問題から窺い知ることができるが、ここで再確認しておきたいことは、
箱館
奉行
は、開港直後に対外国船との交渉,において様々な問題に遭遇し、そのため同
奉行
は、その対応策を相次いで老中に上申していったが、これらの
箱館
奉行
/ 蝦夷地と
箱館
と
恵山町史
(箱館奉行羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より)
箱館
奉行
羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より この道路行政について、初代
箱館
奉行
(幕府遠国
奉行
として,1802年5月設置、1807年の全島上知以降は松前
奉行
と改称す)の、羽太正養はその公務記録の、『休明光記録 /
箱館
奉行
羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の三絶巧)
箱館
の三絶巧 明治以後報知新聞で活躍した
箱館
奉行
支配組頭栗本瀬兵衛(匏庵)が
箱館
の三絶巧と賞したのは,林十郎は木工であったが、
奉行
から小銃の木部の製作を命じられた際、鉄工部分まで工夫研究し、6連発、7連発,の拳銃を試作した結果、まことに優れたものであったので、
奉行
所の同心に採用され、武器の製造に従事した。 /
箱館
の三絶巧
函館市史 通説編 第一巻
(箱館洋学所)
箱館
洋学所 開港と同時に外国語の研究と教育が必要になった。,安政3年、
箱館
奉行
支配調役下役格で来た名村五八郎は、江戸で英学を修めた名通詞で、長崎のオランダ通詞の家,文久元年5月、
箱館
奉行
は五八郎に命じて、運上所内に「稽古所」を設け、公務の余暇に英語を教授させた。,この官設の英語教授所は、「稽古所」のほかに「教学所」とも呼ばれ、更に「
箱館
洋学所」となった(変更年代不明,五八郎は万延元(1860)年の遣米使節に通弁として同行しているが、
箱館
で彼から英語を教授されたなかには /
箱館
洋学所
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の警備)
箱館
の警備
箱館
勤番役人は、
奉行
1人・目付2人・士8人・徒士13人・足軽70人・医師2人・外科2人が,
箱館
弁天台場 一貫目筒・三百目筒各一挺。
箱館
山背泊台場 三百目筒二挺。 ,
箱館
押付台場 五百目筒一挺・百目筒一挺。
箱館
立待台場 五百目筒・三百日筒・百五十目筒各一挺。 /
箱館
の警備
函館市史 通説編 第二巻
(箱館開港への対処)
』6-315)、6月晦日には
箱館
奉行
を再置して勘定吟味役竹内清太郎を
箱館
奉行
に任じ(『幕外』6-325,)、7月19日、同地を
箱館
奉行
の「御預所」とした(『幕外』7-30)。,日、オランダにも下田・
箱館
を開港する旨通知したこと(『幕外』7-172)もあって、10月22日、
箱館
奉行
,ともあれ、こうして安政元年末までには、
箱館
開港のための柱ともいうべき
箱館
港掟が決まったが、幕府(長崎
奉行
,・
箱館
奉行
)は、これと相前後してオランダ語通詞岩瀬弥四郎・名村五八郎に3年交代で
箱館
に勤務するよう命じた /
箱館
開港への対処
函館市史 通説編 第一巻
(箱館役所)
箱館
役所 寛政12(1800)年春、属僚らは江戸を発して
箱館
に渡り、越年の吏員とともにその設営に当った,すなわち、旧亀田
奉行
所の番所(現市立函館病院の所)をもって役所とし、各自の住居は小屋を繕ってこれにあて,小納戸頭取格戸川藤十郎安論、小納戸大河内善十郎政良が命を受けて、蝦夷地を巡察して国後に至り、9月には村上常福が
箱館
/
箱館
役所
函館市史 通説編 第一巻
(奉行の更迭異動)
奉行
の更迭異動 この間、
箱館
奉行
にも更迭異動があり、万延元(1860)年堀織部正に代って、勝田充万が,更に文久3年小出大和守が勘定
奉行
に転任したので、同年8月
箱館
奉行
支配組頭であった新藤鉊蔵方凉が
箱館
奉行
並,に進み、慶応2年正月杉浦勝誠(兵庫頭)が寄合から
箱館
奉行
に転じ、同3年6月には栗本鯤(安芸守)が勘定
奉行
格
箱館
奉行
兼務,次いで同じく慶応3年9月、織田信発が勘定
奉行
兼
箱館
奉行
に補され、和泉守に任じたが、翌4年(この年9月明治,以上のように
箱館
奉行
には幕府再直轄以来13人が歴任している。 /
奉行
の更迭異動
函館市史 通説編 第一巻
(箱館に対する処置)
箱館
に対する処置 なお、
奉行
庁の移転により
箱館
に大きな打撃を与えるおそれがあったため、特に
箱館
には吟味役,を置いて、東蝦夷地を支配させ、ただ重要な案件だけについて松前
奉行
の決裁を仰がせることにして、市民の動揺,ことに東蝦夷地の直捌(じかさばき)を廃止(後述「第7節 場所請負制の再開と
箱館
経済」参照)した後は、同地方,の主要な場所は福山の商人の請負となり、
箱館
が衰退するおそれがあったので、さきに特命をもって、文化7年択捉場所,をも兼ねさせ、更に文政2(1819)年幌泉場所を請負わせて、これによって東蝦夷地の貨物の大部分を依然
箱館
/
箱館
に対する処置
函館市史 別巻 亀田市編
(箱館への移動)
も
箱館
の方に居を移すようになり、次第に役所や寺社も人口の多い
箱館
へ移動して行った。 ,○元禄三(一六九〇)年 亀田の称名寺
箱館
に移る。,○宝永三(一七〇六)年 亀田の高龍寺
箱館
に移る。,○元文六(一七四一)年 亀田
奉行
所
箱館
に移る(
箱館
に移動してからも亀田
奉行
所又は亀田番所と称した)。,風景優美にして、
箱館
の山海中に突起し、入江の屛墻ともなれり。 /
箱館
への移動
函館市史 通説編 第二巻
(箱館裁判所設置)
その主要地に設置した地方行政機関の名称で、旧幕府の地方政務全般の引継ぎ継承を主任務とし、旧幕府の遠国
奉行
所,当面の重要課題は、旧幕府
箱館
奉行
所からの政務引継であった。,、松前、秋田、津軽、南部の4藩の京都留守居役を清水谷邸へ呼び出し、この日太政官から蝦夷地警衛と旧幕府
箱館
奉行
所,次いで17日には、旧幕府
箱館
奉行
所の諸役人へ対し、旧幕府の金穀並に物産を警衛諸藩へ引継ぐことを命ずる達書,ここに初めて新政府の意志が直接旧幕府
箱館
奉行
所に伝えられたのである。 /
箱館
裁判所設置
椴法華村史
(箱館の繁栄)
箱館
の繁栄
箱館
港の開港と幕府による
箱館
奉行
の設置によって、蝦夷地における内外の海運は
箱館
を中心に運行,されるようになり、かつては蝦夷地の三港といわれ、繁栄を誇っていた江差や松前はその力を失い、
箱館
のみが次第,すなわち安政二年(一八五五)の
箱館
の開港は貿易ではなく、燃料・水・食料の供給が主目的であったが、外国船,が多数入港し何かと
箱館
の経済や文化に刺激を与え、更に安政六年(一八五八)には通商貿易が許され、なお一層,下田と同様に
箱館
は外港と内港とを有し、外港はやや馬蹄の形をした湾によって形成されてゐる。 /
箱館
の繁栄
函館市史 通説編 第一巻
(奉行の増員)
奉行
の増員
箱館
奉行
は前述のごとく当初は2人で、江戸と
箱館
とに交互に在勤したが、安政3年7月28日、,更に1名を増員し、村垣範正をこれに補し、淡路守に任じそして1人は江戸にあり、1人は
箱館
に在勤、1人は蝦夷地,また1名を加えて4人とし、目付津田正路(近江守)が任命されたが、これは掘利熙と村垣範正が、ともに外国
奉行
/
奉行
の増員
函館市史 通説編 第二巻
([2 箱館奉行の産業開発政策-「百物百工」をめざして])
[2
箱館
奉行
の産業開発政策-「百物百工」をめざして]
箱館
奉行
の産業開発は、「土地御開拓」を中心とするものであったが / [2
箱館
奉行
の産業開発政策-「百物百工」をめざして]
椴法華村史
(文化四年箱館沖の出没)
文化四年
箱館
沖の出没 この事件のすぐ後の十八日、別の外国船が松前沖合から
箱館
沖合へと航行し、
奉行
は各藩,翌十九日には外国船
箱館
沖に出現し、市中警備のため南部・津軽藩兵、役人、その他百姓を十八箇所に配置し、
奉行
,
箱館
市中は終夜かがり火がたかれ不眠不休で三昼夜の警備体制がとられた。,更にこの日南部領大澗岬辺にも外国船が現われたとの報があり、
箱館
奉行
所の役人はもとより、各藩の藩兵、
箱館
及 / 文化四年
箱館
沖の出没
函館市史 通説編 第一巻
(奉行支配吏員)
奉行
支配吏員 村垣淡路守範正 また、
箱館
奉行
支配の属吏は、組頭、組頭勤方、調役、調役並、調役下役元締,組頭は同勤方を合わせて大抵同時に3、4人を置き、
箱館
奉行
を補佐したが、前時代の吟味役と同じく練達の士であった,調役および調役並は大抵10数名いて、
箱館
、江戸および蝦夷地の要所に在勤し、定役は数十名、同心もまた数十名,在住はしだいに増加して100余名となり、
箱館
近在および蝦夷地に居住して開墾その他に従い、あるいは
奉行
所,雇は開拓その他必要によって特に雇入れた者で、これにも有為の士が多く、雇医師は10数名あり、
箱館
および蝦夷地 /
奉行
支配吏員
函館市史 通説編 第一巻
(奉行所の備船)
奉行
所の備船
箱館
丸 民間の航運状況は以上のようであったが、
箱館
奉行
は、特に西洋型船舶の便利,年西洋帆船を模した君沢形(豆州下田で造船したスクーネル型船)の信敬丸、順捷丸の2艘の回付を受け、また
箱館
,においてスクーネル型
箱館
丸・亀田丸ならびに和洋折衷の豊治丸を造船して備え、更に文久元年には
箱館
に入港した,以上の諸船をもって
奉行
の乗用、航海術の練習あるいは産物の輸送等に当てた。 /
奉行
所の備船
函館市史 通説編 第一巻
(ディアナ号箱館入港)
ディアナ号
箱館
入港 ディアナ号 「北夷談」付図 (文化9年松田伝十郎著) ディアナ号は9月11,絵鞆に到着、ここで嘉兵衛があらかじめ差向けておいた部下の水夫平蔵を水先案内として乗込ませ、同16日夜
箱館
港外,に停泊したが、嘉兵衛は早速小舟に乗ってディアナ号を訪れ、連絡をとって翌日
箱館
入港の手はずを取り決めた。,この日松前
奉行
服部備後守貞勝も
箱館
に来着し、翌17日いよいよディアナ号は
箱館
に入港した。 ,上陸に先だち、嘉兵衛が官命を帯びてディアナ号を訪問、オホーツク長官の書を受領、9月19日正午12時、
奉行
所差 / ディアナ号
箱館
入港
椴法華村史
(大政奉還と箱館裁判所)
鳥羽伏見の戦い、二月の奥羽征討軍の派遣など各地で戦闘が続いており、明治新政府は蝦夷地の実経営を旧幕府時代の
箱館
奉行
所,に中央集権国家の完成を望む声があり、これを取り上げた朝廷は種々検討の結果、慶応四年四月十二日旧幕府の
箱館
奉行
所,を撤去し、
箱館
裁判所を開設することに決定した。 ,で、明治元年閏四月二十七日前
箱館
奉行
杉浦兵庫頭から新政府清水谷総督に政務が引き継がれ、その後五月一日
箱館
裁判所,次に明治元年五月一日の開庁に先だって、前
箱館
奉行
杉浦兵庫頭から
箱館
裁判所総督清水谷公考に引き継がれた村名 / 大政奉還と
箱館
裁判所
函館市史 通説編 第一巻
(箱館付近の上知)
箱館
付近の上知
箱館
が神奈川条約によって国際的な関係を持つと、安政元(1854)年6月26日、松前藩,に命じ
箱館
ならびにその付近5里の地域を上知し、6月30日には
箱館
に
箱館
奉行
を置き、勘定吟味役竹内清太郎保徳 /
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付近の上知
函館市史 通説編 第二巻
(奉行配下の吏僚)
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配下の吏僚 以上の諸側面から窺えるように、当期の
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に課せられた任務の重みは、第1期のそれの,それだけに、当期の
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配下の吏僚の数も厖大なものとなった。,安政2年3月27日現在の
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(竹内・堀)配下の手付以上の吏僚は、支配組頭2名(
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1、江戸1)、調役,勤務しいているが、このことは、この期の
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の松前・蝦夷地支配にとって、
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がその政治・経済的な拠点, 表序-5 安政5年
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及び同
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配下吏僚・職別・勤務地別人数表 職(席)名 高 /
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配下の吏僚
函館市史 通説編 第一巻
(箱館及び蝦夷地の警衛)
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及び蝦夷地の警衛 蝦夷地の取締り及び警衛も
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の重要な任務であった。,殊に
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については、早くも安政元年12月竹内、堀の両
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は、幕府に対し次の申請をしている。, とあり、また当
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所は旧松前藩の
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役所を引継いで当てているが、別紙をもって
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役宅を,警備もまた
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の指揮下に置かれたが、しかし実際に働く兵力は、前直轄時代と同じく奥羽諸藩に求められた。,すなわち、南部の兵は本営を
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字水元(現元町配水地下辺一帯)に置き、
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から幌別に至る地、ならびに夏分 /
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及び蝦夷地の警衛
函館市史 通説編 第二巻
(箱館戦争後の治安担当)
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戦争後の治安担当
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戦争が終わったとき、諸藩派遣の新政府軍は次々と自藩へ戻り、
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には
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府直属,新兵隊は、
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府が旧幕
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から諸務を引き継いだあと、
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および近在の庶民の子弟を募集して編成した親兵隊,伊予国新居郡楢木(愛媛県西条市楢木)出身で旧幕
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所同心格歩兵隊嚮導役秦斗鬼三(のち一明)が、7月,
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所同心黒沢伝之丞(のち正吉)が、同年10月16日に隊長(従事席)に任命されており、脱走軍が蝦夷地,この新兵隊と在住隊が、
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戦争後の
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の治安を担当することになったわけである。 /
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戦争後の治安担当
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田奉行の勤務)
亀田
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の勤務 亀田
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の置かれた初めのころは、本州船、蝦夷地船の出入が多く、また昆布漁をはじめとする,漁業の盛んな春から秋ごろまでの間、
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は福山(松前)から来村し政務を行い、それ以外の時期は代官または下代,亀田番所が
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に移ってからの
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の勤務状況について『榊家譜附録』(北大図書館蔵)は次のように記している,という」とあり、このころ
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のほかに勤番と呼ばれていたことが認められている。,時、
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に
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所が設置され、
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と称されたが、人々の中にはこれを旧例にならい亀田
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と呼ぶ者もあった / 亀田
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の勤務
函館市史 通説編 第二巻
(奥羽5藩の警備と箱館)
奥羽5藩の警備と
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(ハ)の問題については、既に多くの文献で触れられているので、ここでは次のことを,マシケ元陣屋〔引揚〕) これら諸藩の松前・蝦夷地警備にかかわる現地での指揮・命令権は
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,にあり、しかも、蝦夷地経営とのかかわりで数多くの配下の幕吏が蝦夷地に派遣されたため、これらに関する
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,また、上記の諸藩の松前・蝦夷地警備と
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との関係では、特に南部藩が
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山麓に、津軽藩が千代ヶ台に各々元陣屋,を設けるとともに、ともに
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市中及び周辺地域の警備に当たっただけに、当期の
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の警備・経済・社会に与えた / 奥羽5藩の警備と
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恵山町史
(3、奉行所の設置)
年(享和2年)2月、蝦夷地幕政の中心機能として
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に蝦夷
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を設け(同年5月、
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と改称する)、初代
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,1807年(文化4年)3月、幕府は蝦夷地全域を直轄とすると、10月には
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本営を
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から福山(松前町),に移して松前
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と改め、先任の戸川安諭・羽太正養
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に加え川尻春之・村垣定行を任命、あわせて4名とし幕政,しかし、松前
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は
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に比べ、その経営は積極性に乏しく、西蝦夷地では松前藩時代の場所請負制度を存続,この期間、
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六ケ場所は蝦夷・
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、松前
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の管轄下に置かれたことはいうまでもない。 / 3、
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所の設置
函館市史 通説編 第二巻
(箱館開港と売女渡世の公認)
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開港と売女渡世の公認 安政4(1857)年、外国船への食糧薪水供給港として開港以後初めての居留外国人,彼は身の回りの世話をする女性の世話を
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に依頼、
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は「見込ノ通可被取計候事」という老中の裁可を得,、
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としてはいつでもその要望に対応できるような方法を考えておかなければならなかった。,そこで
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は、年季奉公に抱えた娘たちを売女や女芸者に仕立て、彼女らに遊女屋同様の所業をさせていた茶屋営業者,なお
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の予想通り、この後何件か外国人に″婦人懇望″を申し立てられ、異人休息所へ案内している様子が /
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開港と売女渡世の公認
函館市史 通説編 第一巻
(箱館港への集荷政策)
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港への集荷政策 幕府は、前直轄時代にも、東蝦夷地産物の
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集荷策を強力に推進し、更に高田屋嘉兵衛,などの御用達商人を起用して、
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港を基点とした経済政策を展開したが、こうした幕府の政策と相まって、寛政,から文政4年ころまでの
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経済は、著しい発展を示したことは、すでに前章において詳述したところである。,しかし、松前藩の復領とともに、東蝦夷地産物の
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回送は当初そのまま踏襲されはするものの、その後松前回送,ところが安政2(1855)年東西蝦夷地をあげて幕府が直轄すると、翌3年3月
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は、場所請負人、問屋 /
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港への集荷政策
函館市史 通説編 第一巻
(ゴロウニン福山から箱館へ)
ゴロウニン福山から
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へ こうして予備交渉が成立したので、嘉兵衛は福山に戻っていたが、命によって8月,11日福山から
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に至り、ロシア船の来航を待った。,一方、この間松前
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はゴロウニンらを福山から
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に移すこととし、8月17日福山を出発して20日
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に着,いたが、この時、南部・津軽両津の士卒を
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および付近の警備に当らせている。 / ゴロウニン福山から
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へ
函館市史 通説編 第一巻
(箱館港則と港湾施設)
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港則と港湾施設 そして同6月23日
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は、ロシア領事、アメリカ貿易事務官と議定し、次の港則を,
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港定則 第一 諸入船は、港役人の差図にて碇泊すべし。,
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には従来沖ノ口番所があって、出入する旅人、貨物を検査し、税金を徴収していたが、これに外国貿易事務を,しかし
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津田正路は常夜灯を設置中だから、それができあがれば水先案内は不必要だろうといってこれを拒絶した,
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港口の常夜灯は、安政3年5月弁天町の庄蔵なる者の願いにより弁天岬に設置されたが、翌4年台場建築のために /
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港則と港湾施設
函館市史 通説編 第二巻
(南部藩の箱館脱出)
南部藩の
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脱出 この時の
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は政情が非常に不安定な状態に追い込まれていた。,このような時、最後まで去就を迷っていた南部藩は、藩論が奥羽越同盟加盟に決定、勘定
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山本寛次郎らが派遣,され、7月29日に盛岡から船で
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に着いた。,南部藩は、
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に本陣屋を構え
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から室蘭付近までの警衛を担当していた藩で、蝦夷地の警衛を任されていた東北諸藩中
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在勤者,これで東北諸藩の姿はまったく
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から消えたのである。 / 南部藩の
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脱出
函館市史 通説編 第二巻
(「松前辺」から「箱館湊」へ)
「松前辺」から「
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湊」へ ところで、アメリカ船の行先は、老中達では「松前辺」、松平乗全書状では「松前表,」となっていたが、それが具体的には「
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湊」であることを幕府から松前藩に正式に知らされたのは、3月6日,すなわち同日、海防掛勘定
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石河政平が老中阿部正弘の指示により、松前藩江戸屋敷詰家臣に対し、「今般渡来之亜米利加船退帆後,さらに石河政平は、アメリカ船が
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に入港した際の取扱い方について、(1)アメリカ船は、下田・
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における,また松前藩は、その応接役に家老松前勘解由、用人遠藤又左衛門、町
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石塚官蔵、
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工藤茂五郎をあて、 / 「松前辺」から「
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湊」へ
函館市史 通説編 第一巻
(箱館医学所(兼病院))
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医学所(兼病院) 医学所の誕生については、当事者の1人である栗本の『匏庵遺稿』に詳しく記されている,、諸吏員、御用商人などからも献金を得、山ノ上町(いまの姿見坂上辺)に建物を建てて「
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医学所」と名づけることにしたのである,計画は進み、同年の冬、
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竹内保徳が交代で江戸に帰るという事情もあり、その前に上棟式を見せようと工事を,文久2年には医籍を改めて士籍に列せられ、
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組頭に任じられた。,慶応3年江戸で外国
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のまま
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も兼ね、フランスに派遣されている。 /
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医学所(兼病院)
函館市史 通説編 第二巻
(箱館の置かれた環境)
で
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が領事に対応するためには、幕府からの指示がどうであったかも知らねばならない。,手順としてはそれに対して幕府が承認をして
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に通知し、また公使なり総領事なりも
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あてに通知を,このプロシア領事の件をフランス領事ヴーヴが、当時の
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、小出大和守に確認したところ、「それはヴァイス,
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はヴァイスの通告だけを根拠としていたので、先のような無責任な発言につながったとも考えられる。,、第3条の「港々の定則は、各港の役人と、亜墨利加コンシュルと議定すへし」に従って、安政6年6月に当時
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/
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の置かれた環境
函館市史 通説編 第二巻
(箱館裁判所の内部機構)
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裁判所の内部機構 5月1日、五稜郭において
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裁判所の開庁が宣せられ、引継ぎを終えた杉浦兵庫頭は,の所業は虚実を監察方で糺すこと等が述べられており、上層部は京都から総督に随従してきた者、下僚は旧幕府
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所,、閏4月24日に
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裁判所総督が
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府の知府事と改称された時、判事、権判事も判府事、権判府事と改称され,、
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府直属の職員となった。,旧幕府の属吏も、次のような基準で裁判所職員に任用され、市在支配や沖の口・運上所業務などの実務は、旧幕府
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奉行
所 /
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裁判所の内部機構
函館市史 別巻 亀田市編
(奉行の諭告と正徳の制令)
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の諭告と正徳の制令 組織的系統的な学制の確立していなかった時代において、教育の役割を担っていたのは,、幕府であり、各藩であり、直接的には
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や寺子屋などであった。 ,『北海道教育史』によると
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は文化二(一八〇五)年、
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外九か所に制札を建て、「正徳の制令」を掲げ /
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の諭告と正徳の制令
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