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函館市史 通説編 第一巻
(掘割および築島)
掘割および
築島
しかるに箱館港の施設はこれに応じ得なかった。,更に、官では享和3年、予定のとおり土出シ堤の先から西側を沿い、巾25間長さ50間の
築島
を築き、翌文化元年,なお、高田屋嘉兵衛もこの
築島
の西側に接して825坪の埋立を行っているが、「(文化四年)蔵々拾五戸前、建家弐,『蝦夷島奇観』、『蝦夷雑記』、『箱館夜話草』などに、松右衛門や松右衛門島などのことが
築島
に関係して所見,、播磨国高砂の人、松右衛門帆の考案や、嘉兵衛の推挙で択捉島紗那を築港したことで知られているが、箱館の
築島
/ 掘割および
築島
函館市史 通説編 第一巻
(外国人居留地問題)
させるに過ぎないとして相談がまとまらず、その後英国領事から右埋立地を台場とし、台場敷地として予定された
築島
付近,元治元(1864)年になって
築島
を居留地に当てることにし、松川弁之助らの埋立地を官地とし、これに若干の,文久元酉年四月貸渡 一 合坪三百五坪二合八才 一ケ年地税 洋銀百九弗九十一セント四 大町
築島
,一 合坪三百五十七坪七合六勺五才 一ケ年地税 洋銀百二十八弗八十四セント一 大町
築島
,慶応元丑年十二月貸渡 一 合坪百十坪五合 一ケ年地税 洋銀三十弗九十セント七 地蔵町
築島
恵山町史
(箱館港の整備と船造場の建設)
さらに高田屋嘉兵衛ら有志は地蔵町の寄州を埋立て
築嶋
を造った。,嘉兵衛は願出て私費でこの
築嶋
につながる寄州を埋立て掘割りを造った。
函館市史 別巻 亀田市編
(五稜郭築造の内容)
五稜郭築造の内容 『函館市史資料集、第二十六集、函館の史蹟五稜郭』によれば、初の計画は弁天台場、
築島
台場,(現在の船場町、当時の
築島
)沖ノ口台場(現在の仲浜町西警察署の処)亀田役所(現在の五稜郭とその裏手の役宅,一万七百六十両余 備船その他雑費 金 十万両 弁天岬台場築設 金四万両 備砲 金 四万五千両
築島
台場築設,しかしこの予算で最後まで工事が行われたわけではなく、途中幕府財政の逼迫により予算が削られており、
築島
台場及
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使設置後の税負担)
質屋冥加金 30 1軒に付金5両 6軒 休株 2軒 髪結冥加金 16 1軒に付金1両16軒 休株 6軒
築島
冥加金, 25軒 山上町引手茶屋冥加金 105 1軒に付金5両 21軒 山上町見番冥加金 500 東
築島
町遊女屋冥加金,250 東
築島
町見番冥加金 200 1軒に付金10両 25軒 合計 1,924 287.5,亀田出町地子永 冥加永金額 坪数 単価 90貫440文 944.4坪 10貫文 ◎東
築島
町建家拝借地冥加永
函館市史 通説編 第二巻
(茶屋渡世の公認)
文政元(1818)年には地蔵町の
築島
(古
築島
、後の船場町)への出店も許され公認の茶屋も31軒と増加したが
恵山町史
((3)弁天岬砲台と五稜郭)
(3)弁天岬砲台と五稜郭 これを受けて、まず、弁天岬と
築島
の砲台の構築を許可し、詳細な設計図を提出させ,検討のうえ、諸台場、奉行庁舎土塁、官舎、弁天岬・
築島
・沖之口3台場の新築経費の予算、41万8千7百6拾余両,(なお、
築島
・沖之口台場は設計・施工に着手しなかった) 斐三郎の設計した弁天岬砲台であるが、砲台の
函館市史 通説編 第二巻
(山ノ上遊里の誕生)
年私娼をすべて山ノ上町遊女屋の人別に入れて管理を仲間内に一任し、彼女たちの営業を新設された鶴岡町の新
築島
内,こうして新
築島
にも遊里が形成されたのである。,その後元治年間(1864~5)新
築島
を居留地とすることになり、同島に遊女屋一同が火事の際の退去場として
函館市史 通説編 第一巻
(築造の予算)
そこで詳細な調査をとげ、弁天岬台場、
築島
台場、亀田役所(すなわち五稜郭)および役宅を築造することに決し,但し二十四ポンド五十挺 一金四万五千両
築島
台場 一金一万六千両 右備砲。
函館市史 通説編 第二巻
(官許/箱館全図)
第弐図では、特に地蔵町の新
築島
にみられるように海面の埋立地や大町の外国人居留地の位置がわかるし、願乗寺川
函館市史 通説編 第一巻
(鶴岡町海面埋立と蓬莱町排水)
山田寿兵衛外1名組合に換地を与えるため、鶴岡町の海面5,190余坪を埋築し、また山上町遊女屋営業者が
築島
函館市史 通説編 第二巻
(ロシア軍艦の乗組員)
そのうち難破船の乗員たちは大町の
築島
でロシア商人ピョートル・アレクセフの経営する「ロシアホテル」に逗留,ここは、大町の埋立地(
築島
)が完成して分割した時に、領事ゴシケヴィッチが確保していた所で、元治元年にピョートル,「ロシア軍艦が入港するとこのホテルに市中の売婦が大勢やって来て遊女屋のようになり、
築島
の住人のみならず,、用向きで来る人々にも大きな迷惑だ」(「英国官吏来翰録」道文蔵)と
築島
の外国人からの苦情があった。
函館市史 通説編 第二巻
(地券発行と土地の私有化)
区 鶴岡町1~2 丁目 地蔵町6丁目 (3両2分) 地蔵町4~5 丁目 地蔵町1~3丁目
築島
町,恵比須町 蓬莱町 蓬莱町 豊川町 古
築島
町 明治2~5年「諸用留,一本木町1丁目 亀若町 西川町 龍神町 鶴岡町1~2 丁目 地蔵町6丁目 (3両2分)
築島
町,蓬莱町 地蔵町4~5 丁目 恵比須町 蓬莱町 豊川町 古
築島
町 地蔵町1~3丁目
函館市史 通説編 第二巻
(幕末期の埋立)
もう一つ見逃せないのは、『函館市史』通説編第1巻で記述されている堀割および
築島
である。,以上の堀割、
築島
の造成は、係留施設、荷さばき、保管施設を建てる土地、場所の創造を意味する。
函館市史 通説編 第二巻
(居留外国人の家作)
東
築島
佐藤広右衛門の店子、大工栄七は文久元年6月にポーターの居宅の普請を請け負った。,この栄七は池田栄七のことと思われるが、新潟生まれで運上会所の工事のために召され、安政6年以来
築島
に土着
函館市史 通説編 第一巻
(郭の規模)
右の2大工事に引続き、
築島
および沖ノ口に台場を築く予定であったが、折から幕府多難の時に当り、財政逼迫(
恵山町史
(航路の進歩と官営の廃止)
箱館の地蔵町の
築島
の築造をはじめ、幕府に規制されていた大型船の帆布の改良は、当時の船舶の航行能力を飛躍的
函館市史 通説編 第一巻
(五稜郭付近及び山の手方面)
五稜郭付近及び山の手方面 一方、
築島
には文政元(1818)年遊女屋5戸の出張を許していたが、慶応2(
函館市史 通説編 第二巻
(蓬莱町遊里の出現)
この頃の遊里は山ノ上町と新
築島
の2か所だったが、4年9月の″切り店火事″により全盛を極めていた山ノ上町,移転先は″恵比須町裏手″つまり幕末に株仲間が新
築島
に購入した土地の代替地として与えられていた「大工町地続大森浜通
函館市史 通説編 第二巻
(3区の設定)
神明町 仲町 弁天町 西浜町 喜楽町 七軒町 大黒町 大町 仲浜町 内澗町 東浜町 3区 地蔵町 古
築島
町,西浜町 喜楽町 七軒町 大黒町 大町 仲浜町 内澗町 東浜町 3区 地蔵町1~3丁目 蓬莱町 古
築島
町,相生町 谷地頭町 柳町 赤石町 蔭町 浦町 2大区 幸町 注1 3大区 古
築島
町
函館市史 通説編 第二巻
(役所・役宅の新築・移転と防備)
ところで、同じ12月9日、箱館奉行(竹内・堀)は、矢不来・押付・山背泊・弁天岬・立待岬・
築島
・沖の口番所,、一時に御取建之義は不二容易一御用途ニも可レ有レ之候」との理由で、「第一之要地与被二見込一候弁天岬・
築島
之方
函館市史 通説編 第一巻
(地震と津波)
ことに
築島
辺では浸水5尺に達し、夜になってようやく鎮まったという。
函館市史 通説編 第一巻
(遊里)
遊楽地は山ノ上町だけではなく、東
築島
には文政のころから山ノ上茶屋5軒の出張りがあり、これがのち「島の廓
函館市史 通説編 第二巻
(外国人居留地の性格)
ウイルキー 16坪 山ノ上新町佐太郎 英国商人 ハウル 259坪 山ノ上新町吉兵衛 同 99坪 地蔵町
築島
市郎次,同 フレキストン 704坪 地蔵町
築島
山西 ホルトル 400坪 『通信全覧』による
函館市史 通説編 第二巻
(地蔵町築出地の居留地化)
この問題について箱館奉行は、元治元(1864)年4月に「地蔵町新
築島
惣体外国人居留地被取極候積」(慶応元,そして、同年10月には各国領事へ地蔵町新
築島
外国人居留地の規則を提示した。
函館市史 通説編 第二巻
(幕領初期に直面した問題)
しうるようになると、彼の認識も変わり、12月9日には堀と連名で、箱館周辺の矢不来、押付、山背泊、弁天岬、立待岬、
築島
,これに対し老中は、弁天岬、
築島
の両台場の築造を許可したが、五稜郭の築造とならぶ弁天台場の築造もこれを契機
函館市史 通説編 第一巻
(箱館及び蝦夷地の警衛)
矢不来並びに弁天岬と相対せしめ、弁天岬は港内第一の要害なれば、海岸暗礁の上に築出をなし、隠台場を設け、
築島
函館市史 通説編 第一巻
(造船)
豊治は高田屋が全盛の時その造船所に招かれて箱館に移住し、
築島
に居住して造船に従事、また関東、京摂の諸国
函館市史 通説編 第二巻
(官設造船所と市中業者)
イギリス人のトムソンの4業者が幕末から明治初期にかけて「御船造船所」と呼ばれた地域の周辺、すなわち地蔵町の
築島
一帯
函館市史 通説編 第二巻
(刻昆布製造)
また、安政元(1854)年に高田源左衛門(高田屋3代目)が大阪生まれの刻昆布職人を雇入れて、古
築島
町(
函館市史 通説編 第二巻
(弁天台場の築造)
しかし、いずれにしても、弁天台場は、当初から軍事的な堡塁として築造され、かつ当初予定の
築島
台場は、結局築造
恵山町史
((2)箱館港防備の意見上申)
の台場は外国の船共外洋に廻った際、海岸の左右に砲門を開き発射できるよう一〆目位の大砲7、8挺を備え、
築島
椴法華村史
(明治元年)
また榎本軍の本営である五稜郭、弁天台場をとりかこむ地域にも、四稜郭、千代ガ岡、
築島
台場などを構築、兵器
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の町勢)
この地蔵堂から1丁ばかり先に、栄国橋という板橋があり、これを渡ってすぐ右に50間に60間の
築島
があり、,「高田屋の
築島
」といって、いまに船大工、碇鍛冶など数十戸が居住して造船に従事している。
函館市史 通説編 第二巻
(松前藩の対応と松平乗全)
外御役人様六七人参リ候得共、御名前不レ存、同月廿六日御台場不レ残御見分、其後澗之内橋舟ニ而浜手石垣ニ至迄御念被レ入、
築嶋
舛形外
函館市史 通説編 第二巻
(町と町に準ずるもの)
表2-21 『函館区史』の「明治二年の町」表 寺町 神明横町 駒止町 下大工町 喜楽町 古
築島
町
函館市史 通説編 第二巻
(住民の行動規制の強化)
(6)山背泊近辺、
築嶋
・桝形外、亀田浜、七重浜等は、場末で人家も少なく、夜分密に上陸の程もはかりがたいので
函館市史 別巻 亀田市編
(ペリー来航)
一 山背泊近辺、
築島
、桝形、其外亀田浜、七重浜等は場末にて、何分御不安堵にも有レ之、且人家も少く候得は
函館市史 通説編 第一巻
(風俗)
鍛冶 多く町はずれに住居して5軒ほどあり、また
築島
辺にも同職の者があった。
函館市史 通説編 第一巻
(市在住民への触書)
一 山背泊近辺、
築島
、桝形、其外亀田浜、七重浜等は、場末にて何分不安堵にもこれ有り、且つ人家も少なく候得
恵山町史
([五稜郭と古武井熔鉱炉])
箱館表御台場基外見込之趣大意取調奉伺候書付』を取り上げ、箱館港の入り口に「弁天岬砲台」を構築し(計画では
築嶋
恵山町史
(6、郷土と高田屋嘉兵衛)
1804年(文化元)<36歳>・幕府、箱館地蔵町の浅瀬を埋立て2,172坪の
築島
を造る。,また、箱館恵比須町に5万坪の土地を開き、14の倉庫を建て、幕府が船修理のため箱館地蔵町沖に
築島
を造成したとき,、嘉兵衛は請願し隣接の浅瀬を埋立て825坪の船作事場所(造船所)を設け、船大工と碇鍛治を
築島
に住まわせる
恵山町史
(①松前地古武井熔鉱炉の研究並びに考証年表)
一方、二大工事の経費を見るに、官衙(かんが)(役所)官宅、備船、弁天崎台場、
築島
台場、沖口台場等の建築費,元治元年(1864)五稜郭(亀田役所土塁)が竣工した後は、幕府の財政が困難になったので予定の支出をせず、
築島
台場,竹内・堀両箱館奉行は熔鉱炉並反射炉築造の意見に対し(第8節参照)、老中は、「弁天岬
築島
之方より取懸よう,古宇地方で漁撈に従い、後箱館に来て土木請負となり、亀田役所(五稜郭)の役(安政5年2月完成)御蔵地、
築島
北面渡場石垣築立
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