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函館市史 銭亀沢編
(近代の妙応寺)
前出の「壬申八月・十月巡回御用神社取調」によると、
経石庵
では、「当壬申ヨリ凡五十年前」、つまり文政五(,年頃から、妙見・鬼子母神を私祭しており、日蓮宗独自の「法華神道」ともいうべき「三十番神」入りの過去帳が
経石庵
,
経石庵
に祭られているものは、妙見といい鬼子母神といい、加藤清正の掛物といい、それらはすべて日蓮宗寺院に,、かなり厳格な指導があったことを、この
経石庵
の神仏分離は物語っている。 ,明治十二年九月二十六日、この
経石庵
が庵号を改めて「日持山妙応寺」と寺号を公称したい旨の願書が開拓使へ「
函館市史 銭亀沢編
(寺院の姿)
北海道寺院沿革誌』によれば、妙応寺の建立を日持の渡道にもとめ、正安元(一二九九)年中には、帰依者が一宇を創建し「
経石庵
,近世に入り、寺院の本末制のなか、「
経石庵
」も函館実行寺の末寺となり、「留守居ヲ置」いて地内の葬祭などを,前述「
経石庵
」と同じく、この二か寺も近世から近代の明治二十七年頃に至るまで、本寺である称名寺から留守居
函館市史 銭亀沢編
(日蓮宗日持山妙応寺)
以前は
経石庵
と称しており、明治十二(一八七九)年に妙応寺と改称した。
函館市史 通説編 第一巻
(日持上人の渡来説)
石崎妙応寺は明治12(1879)年の寺号公称で、それ以前は
経石庵
といったが、同寺には寛保2(1742)
函館市史 銭亀沢編
(寺院)
寛保二年福山法花寺住職日貞ナルモノ当地ニ来リ、木佛及経石数個ヲ發掘信徒ト謀リ、再ビ一寺建立シ又碑石ヲ建テ寺名ヲ
経石庵
函館市史 銭亀沢編
(安藤康季の渡道と「道南の十二館」)
日蓮宗の日持が遺跡として伝え残した「
経石庵
」の整備がそれである。,小林氏は、対アイヌの宗教的忌避も兼ねて自らの氏寺ないしは和人の共同墓地として、日持の遺跡の「
経石庵
」を,人によっては、志苔館と石崎の地理的距離から、「館神」のこと、この「
経石庵
」を志苔館ないし小林氏に結び付
函館市史 銭亀沢編
(光広の大館移住)
これは小林氏が前に石崎地区に「宗教ゾーン」構想を立てて、日蓮宗の「
経石庵
」を氏寺化ないしは共同墓地化したことと
函館市史 銭亀沢編
(〈石崎〉)
中村川河口東よりに、短冊状地割に並んで間口を少し広く取って
経石庵
(日蓮宗妙応寺)が位置している。
函館市史 通説編 第二巻
(明治時代の函館の寺院群)
実行寺 日持が永仁4(1296)年、異邦布教のため着岸し、正安元(1299)年、その帰依者が一宇を結び、
経石庵
函館市史 銭亀沢編
(幕末の村むら)
寺としては
経石庵
があり、箱館実行寺の「永仁四年六老僧の日持上人是地へ渡り、庵を結で棲み居ること四年、後漢土
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