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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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恵山町史 (箱館奉行羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より)

箱館奉行羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より この道路行政について、初代箱館奉行(幕府遠国奉行として,1802年5月設置、1807年の全島上知以降は松前奉行と改称す)の、羽太正養はその公務記録の、『休明光記録 / 箱館奉行羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より
恵山町史 (3、奉行所の設置)

蝦夷地幕政の中心機能として箱館に蝦夷奉行を設け(同年5月、箱館奉行と改称する)、初代奉行に戸川安諭と羽太正養,羽太正養は蝦夷地取締御用掛以来の蝦夷地経営状況を公務日記『休明光記』に、詳細に記している。,蝦夷地全域を直轄とすると、10月には奉行本営を箱館から福山(松前町)に移して松前奉行と改め、先任の戸川安諭・羽太正養奉行
恵山町史 (会所・宿泊所の掟・きまり)

会所・宿泊所の掟・きまり 会所・宿泊所の掟・きまりについて、箱館奉行羽太正養の公務日誌『休明光記遺稿
函館市史 通説編 第一巻 (箱館役所)

そして享和元年、松平忠明、石川忠房、羽太正養の蝦夷地巡視によって、具体的に蝦夷地経営の方法が確立したのである
椴法華村史 (矢尻浜沖のあやしき船)

矢尻浜沖のあやしき船 箱館奉行羽太正養はこの時の様子を、『休明光記』巻之八・文化四年五月の個所で次のように
函館市史 通説編 第一巻 (箱館奉行所建築)

この年羽太正養が交代して箱館に在勤、正徳元(1711)年に幕府が定めた倫理規定ともいうべき「正徳の解書,そして同3年羽太正養と交代している。
恵山町史 ([鉱業のあゆみ−砂鉄])

北海道有形文化財に指定 ・函館市・恵山町所有    記録によれば、最初にこの砂鉄に目を付けたのは羽太正養,1799年(寛政11)から1807年(文化4)蝦夷地取締御用掛、蝦夷奉行、箱館奉行の任についた羽太正養
椴法華村史 (ロシアの襲来)

このため箱館奉行羽太正養は、この報を知るや直ちに幕府に報告した。
恵山町史 (海運の官業)

初代箱館奉行羽太正養の休明光記・休明光記遺稿(淡斎如水編)には当時の『官船四六艘』と記されている。
函館市史 通説編 第一巻 (箱館奉行を改め松前奉行を置く)

松前奉行となし、小納戸頭兼勘定吟味方河尻甚五郎春之、勘定吟味役村垣定行の2人を松前奉行に任じ、戸川安論と羽太正養
函館市史 通説編 第一巻 (町の碩学)

に『松前方言考』『箱館夜話草』などは、地元人による初めての風俗、地誌の成果であり、『休明光記遺稿』は羽太正養
函館市史 通説編 第一巻 (異国船津軽海峡に現わる)

は19日午の刻(正午ころ)箱館の南々西に現われ、次第に近付き、望遠鏡で陸をうかがう様子であったので、羽太正養
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の文人)

箱館奉行羽太正養は文才に富み、『休明光記』9巻を著わして当代の史実を明らかにしたほか、多くの俳句を残し,享和3(1803)年羽太正養に従って東蝦夷地国後まで行き、和歌を配してきわめてうるわしい文章の行程記『
函館市史 通説編 第一巻 (文化3年の大火と消防体制)

年10月4日の夜弁天町河岸の市店から出火し、折から西北の風にあおられて火勢がさかんになったため、奉行羽太正養自
函館市史 銭亀沢編 (幕府、蝦夷地の直轄を開始)

初代箱館奉行羽太正養の「休明光記」(『新撰北海道史』史料一)によると本制札場は九か所(箱館 鷲木 砂原
恵山町史 (1、蝦夷地の直轄)

評議し、遂に蝦夷地の経営を幕府が直轄して行うことに決定し、年明けて1月、蝦夷地取締御用係に松平忠明・羽太正養
函館市史 通説編 第二巻 (幕末期の埋立)

さらに享和2(1802)年新設された箱館奉行(戸川安論、羽太正養)は、翌享和3年に地蔵町の海中遠浅の処
椴法華村史 (陸路の充実)

このことについて箱館奉行羽太正養は『休明光記巻之一』で次のように述べている。      
函館市史 通説編 第一巻 (箱館奉行の設置)

23日、松平忠明、石川忠房、三橋成方をはじめその他の蝦夷地御用掛を免じ、新たに蝦夷奉行を置き戸川安論、羽太正養
函館市史 通説編 第一巻 (神社)

  寛政中辺防議起、安論奉台命巡行、及後置鎮于箱館、安論與羽太正養拝其職、箱館旧有八幡宮
函館市史 通説編 第一巻 (馬場正道の学舎)

#160;  文献上より教育関係の資料を渉猟すると、京都大学の内田銀蔵博士が嘗て紹介した、箱館奉行羽太正養
恵山町史 (3、恵山町ふるさと民話集)

〈日浦の孝女れん〉は、松浦武四郎が“羽太正養の休明光記”からの引用として蝦夷日誌巻之五にのせている。
戸井町史 ([松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)])

   (附)日浦村の孝女レン 弘化二年(一八四五)八月、松浦武四郎が日浦村を通った時に、箱館奉行羽太正養,この時の箱館奉行は羽太正養であった。,上申を受けた羽太正養は改ねて調査させて見ると場所掛りの上申通りであった。   ,羽太正養もレン女の至孝にはいたく感動した。この時男清十郎は八十三才の老令で、レンは四十才であった。,以上が羽太正養の『休明光記』に採録されている『日浦の孝女』を意訳したものであるが、羽太はこの後に次のように
恵山町史 (3、幕府直轄以降の箱館六ケ場所)

羽太正養(蝦夷地取締御用掛・箱館奉行)が著した『休明光記』によれば、経営の中心は「千島列島を南下するロシア,これは滕(とう)知文が、1801年(享和元)箱館奉行羽太正養に随行し、陸路東蝦夷地を国後まで巡見した時,1804年(文化元)『休明光記』に見る六ヶ場所  文化4年、松前奉行、羽太正養著『休明光記』の文化元年頃
戸井町史 ([蝦夷地と馬])

この時のことを、羽太正養(はぶとまさやす)は『休明光記巻の二』に次のように述べている。  
恵山町史 (6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた)

考えられる)   「日浦の孝女の事」  武四郎は日浦村の項に、『休明光記(箱館奉行 羽太正養著,この年から江戸詰めとなっていた奉行の羽太正養は、訴えを聞くと一部始終を調査させ、4月江戸へ帰ると即、老中青山下野守忠裕
恵山町史 (2、箱館六ケ場所の成立)

なお、「村並」とした際の幕府の記録(休明光記附録巻五・箱館奉行羽太正養)には「箱館最寄口蝦夷地之内ノタヲイ,寛政11年(1799)幕領化したとき、箱館奉行の公務日記、休明光記附録巻五(羽太正養)には「(当地域に
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

エトロフ島に着いたのが、文化3年(1806)7月2日、島詰めの役人の取り調べを受け、箱館へ護送、奉行羽太正養,なお、『日浦の孝女れん』については、実際にあった話であり、休明光記(箱館奉行羽太正養)・蝦夷日誌(松浦武四郎
恵山町史 (4、村政のはじまり)

松前奉行、羽太正養著『休明光記』の1804年(文化元年)の条項に次の記述がある。    
南茅部町史 上巻 ([慶祥丸漂流])

翌年四月エトロフ島を出発して箱館に護送され、奉行の取調をうけ、七月幕府より下知があり、八月一四日、奉行羽太正養
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