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南茅部町史 上巻
(臼尻村役場)
臼
尻
村役場
臼
尻
村のほか一カ村戸長役場は、明治一三年開設当時は、
臼
尻
六〇番地(昭和八年以後、
臼
尻
郵便局,)にあった
臼
尻
会所の建物があてられた。 ,明治二四年、
臼
尻
二九四番地、現
臼
尻
一一九番地(昭和五〇年以後の産業会館のところ)に位置を移し、戸長役場,明治三九年四月、二級町村制が施行されると
臼
尻
村役場に引き継がれ、昭和八年改築までながく使われた。 /
臼
尻
村役場
南茅部町史 下巻
(臼尻空襲)
臼
尻
空襲 前日一四日、航行中の船舶が
臼
尻
船入澗に避難していたため攻撃をうけ、附近の油脂類が炎上したり,この日、
臼
尻
の松山漁業部所属の俊丸は、函館から漁業資材等を回航中、銭亀沢の沖合でグラマンの襲撃をうけ、 /
臼
尻
空襲
南茅部町史 下巻
(臼尻簡易水道)
臼
尻
簡易水道 郷土の海岸線に沿って建ち並ぶ住宅は、すぐ背面に海岸段丘がつづき、嶮しい山岳部となっている,
臼
尻
村字
臼
尻
田中の沢を水源として、雑用水道を設置したのが上水道の始めである。 ,戦後、昭和二六年、
臼
尻
漁港の拡張整備が始まり、
臼
尻
漁協の製氷、冷蔵庫が整備されるため給水の必要性がたかまった,給水地域は安浦、東海(
臼
尻
)、豊崎である。 ,
臼
尻
簡易水道敷設工事 昭和28年
臼
尻
村上水道新設計画図 /
臼
尻
簡易水道
南茅部町史 下巻
(臼尻村船入澗)
臼
尻
村船入澗 昭和七年、
臼
尻
村船入澗築設事業の国庫補助が決まる。,このとき、
臼
尻
村役場で作成した「
臼
尻
村船入澗の概要」がある。 ,昭和一〇年
臼
尻
村船入澗/昭和10年 (
臼
尻
388番地 地先埋立検定図より) /
臼
尻
村船入澗
南茅部町史 下巻
(臼尻港修築計画)
臼
尻
港修築計画 亀田半島の
臼
尻
湾は、江戸時代から道内、道外航海する船舶関係者や漁業者には、天然の良港,地元
臼
尻
村からの永年にわたる陸路開削の請願とあわせて、強く要望されていた港湾の修築についても、明治四〇,港湾修築の基礎調査のひとつである
臼
尻
湾の水位の測定が実施されたのは明治四五年六月七日と記されている。,地元漁民の関心を集めながら、ときの
臼
尻
村長森谷秀一郎や
臼
尻
漁業組合長東出源蔵ほか役員、重立、村会議員、,部落総代らによる協議が重ねられて、
臼
尻
湾の立地条件をもとに
臼
尻
港の構想が練られた。 /
臼
尻
港修築計画
南茅部町史 下巻
((1)臼尻学校)
(1)
臼
尻
学校 公立學校設立願 明治十一年 願伺届録 民事課学務係申三号 (北海道所蔵) 一 ,学校位置 第拾八大区弐小区茅部郡
臼
尻
村番外 人民共有地 一 生徒 四拾名 一 校名
臼
尻
学校,右者
臼
尻
村江公立小學校設立之義過般以来厚ク蒙御説諭候ニ付有志者頓ニ奮起盡力致シ終ニ村民一同協力仕校舎之義,以此段奉願候也 明治十一年 第拾八大区弐小区茅部郡
臼
尻
村,(函館新聞第二一八号・明治一二・七・一) 去月廿八日開校ありし茅部郡
臼
尻
村
臼
尻
学校ハ学事取締小川某 / (1)
臼
尻
学校
南茅部町史 下巻
(〔臼尻慰霊塔〕)
〔
臼
尻
慰霊塔〕
臼
尻
慰霊塔は、旧
臼
尻
村戦没者のための慰霊塔で、昭和三四年
臼
尻
遺族同志会の基金によって,場所 豊崎二〇四番地二五
臼
尻
中学校グラウンド隣接地 建立者
臼
尻
遺族同志会 / 〔
臼
尻
慰霊塔〕
南茅部町史 下巻
(臼尻村の記録)
臼
尻
村の記録 六月二〇日、
臼
尻
村では村会議員・区長・区長代理を招集して、災害善後対策についての緊急協議会,
臼
尻
村災害復旧調査員 白井川地区 渡辺源右衛門 田代幸七 佐藤儀助 熊泊磯谷地区 金沢島吉,中村市蔵 田中沢蔵 磯野太三郎 西田繁三郎 山田粂次郎 大塚政太郎
臼
尻
地区,調査員らは、各地区でその復旧への相談をすすめるため、熊泊では同二一日部落協議会をひらき、
臼
尻
も同二二日 /
臼
尻
村の記録
南茅部町史 下巻
(臼尻村忠魂碑)
臼
尻
村忠魂碑
臼
尻
村では日露戦争の戦死者が熊泊村に一名いて、
臼
尻
は全員無事帰還していた。,
臼
尻
村忠魂碑はこのような経緯で、はじめ大船川の西金兵衛グラウンドの背面に建立された。 ,
臼
尻
村忠魂碑除幕式 大正7年 大船寺境内 石碑 ○裏面に刻文ナシ 発起人 正面刻文,成田庸五郎 仝 成田吉太郎 除幕式は大正七年七月二日に開催され、在郷軍人会会員、村内有志、
臼
尻
小学校,大船寺前の小さな石碑は、大正五年建立当時の
臼
尻
村忠魂碑建立寄付者の碑であろうとおもわれる。 /
臼
尻
村忠魂碑
南茅部町史 上巻
(臼尻村役場庁舎改築)
臼
尻
村役場庁舎改築 昭和八年、
臼
尻
村花輪村長の村政下、懸案の役場庁舎の改築の村会議決を得て一〇月二四日上棟式,
臼
尻
村役場
臼
尻
村役場平面図 北越家所蔵の昭和一〇年代の写真によれば、新築当初の
臼
尻
村役場庁舎,
臼
尻
村役場名残りの桜の名木である。 ,鹿部から
臼
尻
までの沿岸自動車道路が開通したのは昭和四年である。,
臼
尻
村役場改築棟札
臼
尻
村役場庁舎改築 二階建上棟
臼
尻
村役場改築棟札
臼
尻
村役場庁舎改築 /
臼
尻
村役場庁舎改築
南茅部町史 下巻
(臼尻の南部神楽)
臼
尻
の南部神楽
臼
尻
の南部神楽は、明治三〇年代にはすでに演じられていた。 ,(〓熊谷一作翁談=明治三五生) 一四、五歳のとき
臼
尻
にきた木直の神楽を初めてみた。,
臼
尻
では、その前から千小川徳三郎が太夫(師匠)で、鳥舞・三番(さんば)叟・三本こうじ・牛若丸・弁慶・杵 /
臼
尻
の南部神楽
南茅部町史 下巻
(臼尻村の村有林)
臼
尻
村の村有林
臼
尻
村の愛林思想は、二代戸長篠田順の熱意によるところが大きい。 ,明治一九年、
臼
尻
村戸長篠田順は総代人等に諮って、「精良ノ種苗ヲ年々購入シ、之ヲ村民各戸ニ貸付ケ苗圃ヲ造,銭ト仮定シ、総額二五万円ヲ得ントスル予定ナリ」 「本村ニ、北海道地方費森林監護員駐在所アリ」(
臼
尻
村郷土誌 /
臼
尻
村の村有林
南茅部町史 上巻
([臼尻村漁業組合創立])
[
臼
尻
村漁業組合創立]
臼
尻
村漁業組合が、尾札部村漁業組合にくらべて、その設立年月日が四、五年おくれているのは,明治三五年、茅部山越水産組合の発足時、板木(安浦)地区が昆布採収権の独立を主張して水産組合に認められ、
臼
尻
,このとき
臼
尻
板木両者の間に海上での暴力事件などがあり、その後、両地域の漁民相互に長く感情的な対立があったので,理事
臼
尻
村大字
臼
尻
村字
臼
尻
六〇番地 東 出 源 蔵 同 同 板木一四番地,加賀谷 和 市 同 熊泊村字熊泊五六番地 中 村 市 蔵 監事 同
臼
尻
村字板木八 / [
臼
尻
村漁業組合創立]
南茅部町史 下巻
(臼尻村運動場計画)
臼
尻
村運動場計画 明治四四年、行啓記念運動場と記した一枚の地図が残されている。,大舟川の右岸に位置したこの計画地図は、のちの
臼
尻
中学校の校地附近である。 /
臼
尻
村運動場計画
南茅部町史 上巻
(臼尻村漁業組合役員)
臼
尻
村漁業組合役員 明治 年 月 日申請 明治四四年四月二六日認可 明治四四年九月一四日登記 字
臼
尻
六四番地, 大正二年一〇月二七日
臼
尻
六八に事務所移転(同年一二月一五日登記) 昭和五年一月一一日
臼
尻
二九四に移転, 昭和六年九月二九日
臼
尻
一九二-四〇に移転 昭和八年五月三〇日
臼
尻
六九番地に移転 組合長理事 /
臼
尻
村漁業組合役員
南茅部町史 上巻
(臼尻村二代目戸長 篠田順)
臼
尻
村二代目戸長 篠田順 明治一六年七月、篠田順(弘化元年生・一八四四)が
臼
尻
村外一か村の二代目戸長,である捕亡(方)・見廻方を勤め、明治七年退職、明治一一年に渡道して開拓使函館裁判所に勤め、明治一六年
臼
尻
村,篠田順は、
臼
尻
村を二分したといわれる共同網の境界訴訟問題の渦中に着任した。 ,これを北海道庁の青江秀の諸村巡回の折請願して、ついに明治二〇年、鹿部、
臼
尻
、尾札部村合同の病院を設立した,明治三四年まで
臼
尻
外一か村の戸長二六年有余の期間中、一八年間在任して、明治期の
臼
尻
村熊泊村(大船)の自治 /
臼
尻
村二代目戸長 篠田順
南茅部町史 下巻
(臼尻・湯川間自動車路線粁程)
臼
尻
・湯川間自動車路線粁程 停車留所名 区間粁程 摘要 km m,
臼
尻
停車所 〇・〇〇〇
臼
尻
一五 大舟停留所 二・〇〇〇 大舟河口 下湯 同 ,この亀田・
臼
尻
間の計画路線は、総延長三五キロメートルである。,昔からの
臼
尻
・赤川を結ぶ赤川道(あかがわみち)の道筋に沿うものであった。 ,茅部郡
臼
尻
亀田郡湯川 村間自動車運輸路線一般図 延長 三五粁二三〇米突 /
臼
尻
・湯川間自動車路線粁程
南茅部町史 上巻
([臼尻村字名改正])
[
臼
尻
村字名改正] 1 土地連絡図 / [
臼
尻
村字名改正]
南茅部町史 下巻
(臼尻村消防 歴代組頭・団長)
臼
尻
村消防 歴代組頭・団長 明治32
臼
尻
村消防組創設 初代組頭 篠田繁太郎 34 /
臼
尻
村消防 歴代組頭・団長
南茅部町史 下巻
(熊泊村養蚕実行組合 臼尻村養蚕実行組合)
熊泊村養蚕実行組合
臼
尻
村養蚕実行組合 熊泊村養蚕実行組合
臼
尻
村養蚕実行組合 組合 組合員,三五戸 五三二g 三五四貫 一、四一六円 八年駒ヶ岳爆発災害誌 一、四九七円 (
臼
尻
村要覧, 一、〇一三円 昭和一〇年 〃 二 四三名 三二戸 五五五g 一四一貫 四五五円
臼
尻
一七 / 熊泊村養蚕実行組合
臼
尻
村養蚕実行組合
南茅部町史 下巻
(室蘭港へ渡航すべき渡島国の港門 臼尻港)
之を
臼
尻
港の概とす。 ,之を
臼
尻
港湾上の概要とす故に
臼
尻
の港たる之を湾中の規模よりすれば森に勝り、之を陸上の形勢よりするも敢て,以上は
臼
尻
は森に対し数歩の勝る所なきを得ざるなり、故に余輩は渡船場を
臼
尻
に移すの利あるを信ず。 ,函館より
臼
尻
に到るべき現今の道路は左記の五條あり。 ,右の事実に依れば之を港湾其物の性質よりするも
臼
尻
の方森に勝り之を函館との距離よりするも
臼
尻
の方森に勝り / 室蘭港へ渡航すべき渡島国の港門
臼
尻
港
南茅部町史 下巻
(【資料】 臼尻村 表彰者臺帳(大正五年二月起))
【資料】
臼
尻
村 表彰者臺帳(大正五年二月起)
臼
尻
村役場 大正五年一月一四日,赤十字社醵金ニヨル 昭和4・3・26 北海道長官表彰
臼
尻
村道路保護組合
臼
尻
支部 道路修繕維持ニ努メタ,昭和4・3・26 北海道長官表彰
臼
尻
村熊泊支部 道路橋梁修繕 昭和5・2・12 北海道長官表彰
臼
尻
村
臼
尻
支部,・2・11 北海道長官表彰
臼
尻
村東海部落会 隣保団結優良団体 昭和19・2・11 北海道長官表彰
臼
尻
村大船部落会,; 大正6・3・21
臼
尻
村教育会表彰算盤一面 勝長男 今粕吉
臼
尻
校生徒 〃36・8 / 【資料】
臼
尻
村 表彰者臺帳(大正五年二月起)
椴法華村史
(函館・臼尻間命令航路)
函館・
臼
尻
間命令航路 昭和二十年八月、終戦となり、復興物資の輸送・復員軍人・引揚者・食糧買出人等により,かくてこれは官側の認めるところとなり昭和二十一年十一月三日、北海道庁命令航路函館・
臼
尻
線が、道南海運株式会社,昭和二十一年十二月二十五日北海道新聞 ○下海岸定期航路 さらに運航船を増加 函館、江差、奥
尻
方面 / 函館・
臼
尻
間命令航路
南茅部町史 上巻
(無限責任臼尻漁業協同組合)
無限責任
臼
尻
漁業協同組合 昭和一〇年三月二八日認可 同年五月六日登記(規約変更) 組合員四五五名, 字
臼
尻
六九番地 昭和一六年四月六日事務所移転=字
臼
尻
船入澗埋立地第一二号 昭和一六年七月一五日 / 無限責任
臼
尻
漁業協同組合
南茅部町史 下巻
(臼尻村船入澗概要)
臼
尻
村船入澗概要
臼
尻
村役場 本港は北緯四十一度五十六分東經百四十度五十七分に位し内浦湾に臨み西南 /
臼
尻
村船入澗概要
南茅部町史 上巻
(臼尻B遺跡出土の石器(第二図の二))
臼
尻
B遺跡出土の石器(第二図の二) 一九七八年、
臼
尻
B遺跡の緊急発掘調査の際、地層確認のため設定された /
臼
尻
B遺跡出土の石器(第二図の二)
南茅部町史 上巻
(臼尻小学校遺跡発見の石器(第二図の一))
臼
尻
小学校遺跡発見の石器(第二図の一) 発見年代は不詳であるが、簡易水道貯水槽工事の際に黄褐色ローム /
臼
尻
小学校遺跡発見の石器(第二図の一)
南茅部町史 上巻
(尻戸廻(しどまわし)網漁)
尻
戸廻(しどまわし)網漁
尻
戸廻は、
尻
戸間差(しどまさし)ともいわれ、鰮の地曳網の操業のとき、大網から,
尻
戸廻の権利は、特に官庁や漁業組合の許可はいらないが、大網の漁場主から許されたものに限られた。 ,(2)鰮地曳網の旗印 篠田順「
臼
尻
沿革誌」に、明治三〇年、
臼
尻
村は鰮地曳網について規約を設け、漁業者 /
尻
戸廻(しどまわし)網漁
恵山町史
(尻岸内村古武井までの延長)
尻
岸内村古武井までの延長
尻
岸内町史には、この戸井線の延長に関する資料(請願)が記されている。 ,而シテ古武井迄延長スルニ於イテハ、ソノ利用区域タルヤ、戸井村ノ一部・
尻
岸内・椴法華・尾札部ノ全村及ビ
臼
尻
村,いずれにしても貴衆両院の可決・北海道建設事務所の調査来村は、戸井・
尻
岸内・椴法華村の悲願、戸井線古武井 /
尻
岸内村古武井までの延長
恵山町史
((3)榎本の尻岸内村での調査)
(3)榎本の
尻
岸内村での調査 榎本の
尻
岸内村での砂鉄については「北海道硫黄取調書(恵山、古武井、駒嶽,榎本の調査については、『
尻
岸内沿革誌』に次のように記している。 ,古武井駅(梁川) なお、鱈肝油の製造が企業として成り立ったのは明治10年、函館支庁が茅部郡
臼
尻
/ (3)榎本の
尻
岸内村での調査
南茅部町史 上巻
(函館水産陳列場(第壱館・第弐館)陳列品調)
壱瓶
臼
尻
仝 鱈のさなだ虫 仝
臼
尻
仝 いしがに 壺瓶 ,
臼
尻
仝 ほらの類 壱個
臼
尻
仝 二月 東出直三(蔵) いしがに,仝
臼
尻
仝 すぼや 壱瓶
臼
尻
仝 三月 うみうし ,仝
臼
尻
仝 ふしこ 仝
臼
尻
仝 いそぎんちゃく 仝 ,
臼
尻
仝 鱈の虱 仝
臼
尻
仝 剝とくひき 壱個
臼
尻
南茅部町史 上巻
(鈴木村政のあゆみ)
昭和二六年、
臼
尻
村字豊崎二二四番地に、大船中、
臼
尻
中を統合して
臼
尻
中学校校舎を建築。 ,
臼
尻
漁港、農林省指定第三種漁港となる。 昭和二七年四月、森高校
臼
尻
分校、独立校に昇格。 ,同年三月、
臼
尻
村公益質屋。 四月、
臼
尻
中学校増築。 同年、
臼
尻
市街地上水道施設工事。 ,大舟漁港の施設、
臼
尻
漁港修築工事。 昭和三〇年一月一二日、
臼
尻
村営造船所設置開業。 ,昭和三二年、
臼
尻
村教育研究所設置。
南茅部町史 上巻
([板木の分離独立と境界紛争])
事態に至って
臼
尻
は危機感を募らせた。,また、水産組合吉田組長に対して、「
臼
尻
・板木の離れるべからざる事を開申」(篠田順「
臼
尻
部落誌」)して、,支庁は即刻、加藤庁属を
臼
尻
村に派遣した。,の労をとり」(篠田順「
臼
尻
部落誌」)すすめた。,ここに
臼
尻
分署長心得松山謙省、戸長らの熱意と懇請により、漸く
臼
尻
、板木の代表も時勢の流れと相互の心情を
南茅部町史 下巻
(〔郷土の医療(医師)年表〕)
へ出張 開業医、熊泊・中村治郎、
臼
尻
・吉田三辰、辻正高 1・
臼
尻
村,現
臼
尻
郵便局の位置。鹿部・
臼
尻
・熊泊・尾札部聯合設立なり。,・12・
臼
尻
村医根守政規、同月二〇日辞 45・ 5・ 7
臼
尻
村医宇野親敬、大正二年五月一二日辞,大正 2・12・ 3
臼
尻
村医宇野親敬、大正三年二月二七日辞 3・ 4・ 7
臼
尻
村医高川貞次郎,亀泊二七、鹿部医院相沢良恂 2・ 6・
臼
尻
村医中本和三郎、
臼
尻
六八 3・
南茅部町史 下巻
((7)小学校設立等の沿革)
6・28
臼
尻
学校開業式 13・ 6・
臼
尻
学校、
臼
尻
六八番地に新校舎落成 ,、教育ニ関スル勅語謄本下附 25・ 9・18
臼
尻
一〇五番地に
臼
尻
小学校校舎改築移転 26,・ 4・ 木直小学校補習科設置 12
臼
尻
小学校奉安所新築 27・ 1・12
臼
尻
小学校御聖影奉迎奉戴,・18
臼
尻
小学校仮校舎四教室建築落成 12・ 洋裁学院を森高等学校
臼
尻
分校 24,校舎
臼
尻
小学校旧校舎 6・26
臼
尻
小学校新校舎落成 8・3尾札部中学校新校舎落成開校
南茅部町史 下巻
(御真影奉戴)
(
臼
尻
小学校沿革誌) 大正四年十一月七日。 ,此処ニハ、
臼
尻
村ノ官公吏・公職者・青年團員・消防組・赤十字社員・帝國軍人會
臼
尻
分會員・愛國婦人會員及
臼
尻
村有志,・
臼
尻
尋常小學校職員児童奉迎ス。 ,少憩ノ後、官公吏・公職者・赤十字社員・愛國婦人會員・
臼
尻
消防組・
臼
尻
青年團員・
臼
尻
在郷軍人分會員ハ、役場學校,(奉迎)関係者
臼
尻
村長 吉川迪 村部長 村井己代松
臼
尻
尋常小學校長
南茅部町史 下巻
(高等学校の沿革)
臼
尻
の女子青年が洋裁技術を学びたいという希望があり、
臼
尻
村長北越 栄三は、
臼
尻
小学校長中島昊,12・
臼
尻
村議会に森高校の分校として
臼
尻
に噴火湾分校(仮称)設置が提案され議決さ ,
臼
尻
村内の三つの併置中学校が統合、新しい
臼
尻
中学校となり新校地の豊崎新校舎に移る。 ,
臼
尻
村立北海道
臼
尻
高等学校、尾札部村立北海道尾札部高等学校となる。 ,(一九五四)
臼
尻
村尾札部村組合立高等学校となり、 昭和三二年(一九五七)
臼
尻
村と尾札部村の合併
南茅部町史 上巻
(土地連絡図の作成)
土地連絡図の作成 大正九年五月、
臼
尻
村・尾札部村は各村の土地連絡図作成の調査事務に着手し、同年一〇月,
臼
尻
村 尾札部村 調査班長 技手 高島 政治 高島 政治 ,2
臼
尻
村字名 明治一一年地券創設より昭和一六年七月一五日字名地番改正まで使われた
臼
尻
村の字名(大字,大字
臼
尻
村 小字三七字 一、七二一筆
臼
尻
地区 小字二八字 一、一六三筆 板木地区 小字 九字 五五八筆,
臼
尻
四六八筆 板 木 二九五筆 板木野 一九八筆
臼
尻
野
南茅部町史 下巻
(〔郷土の警察年表〕)
21・ 4
臼
尻
警察分署設置される。 ,39・ 4・ 1 七飯警察
臼
尻
分署が廃止され
臼
尻
巡査部長派出所並駐在所が設置される。 ,旧
臼
尻
部落共有事務所を廃し、
臼
尻
村共有貯金一四〇円を建築費に充当して、
臼
尻
六八番 ,2・ 9・10
臼
尻
巡査駐在所を字
臼
尻
六八番地(現一六五番地)に移設。,36・10・15
臼
尻
警察駐在所を字
臼
尻
一一九番地に新築移転。
南茅部町史 下巻
(消防組)
ついで明治三二年、
臼
尻
村と熊泊村にそれぞれ消防組が設置された。 ,この年(明治三二年)
臼
尻
村では、
臼
尻
小学校の向かいの海岸に警報信号所を設置した。,現在の消防署
臼
尻
分遣所の海岸の位置に当たる。 ,39年 4月 1日 二級町村制施行に伴い
臼
尻
村・熊泊村消防組を合わせ、
臼
尻
村消防組を組織し三分団制,ノ件 明治三一年三月北海道庁令第一八号消防組規則施行細則第一条別表中 渡島国茅部郡
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村
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消防組
南茅部町史 下巻
(熊泊村消防 歴代組頭)
熊泊村消防 歴代組頭 明治32 熊泊村消防組創設 初代組頭 磯野太三郎 (明治三九年四月一日、
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村,と熊泊村を合わせ
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村となり、二級町村制が施行され、
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・熊泊消防組は、
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村消防組と改組となる)
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(昭和)
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局三代目局長に三代目小川幸一郎(明治三五生)就任。 ,9・ 1・ 2
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局、字
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六八番地に新局舎新築移転。建坪二五・五坪、借地一一五坪。,(昭和一六年地番改正により東海一六五番地となり、のち、昭和四一年旧字名
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の復称となり
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一六五番地となり,7・15
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村字名改正により
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局所在地字東海一六五番地。 ,48・12・ 1
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局局舎新築。
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(郷土の医療の始め)
記録としては弘化の頃、箱館の医師深瀬鴻斎が
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村に滞在した、と松浦武四郎の「蝦夷日誌」に記されている。,明治一九年一月、
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村方面の種痘施行のため巡回中の函館病院一等医遠藤俊夫から、
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村字板木でジフテリア,森にあった公立茅部病院長村岡格に、
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へ出張のうえその手当と予防の施行が命ぜられる。,雪中悪路の為、砂原村沼
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より出来澗越えは難行しながら翌二八日午後一時、
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村に着いた。 ,当時、開業医として、熊泊村に中村治郎、
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村に吉田三辰、辻正高がいた。
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(イカ釣り漁船)
松前 三 福島 一〇 函館 一五一
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岸内 二六 尾札部 一六
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四一 ,鹿部 四 (大島幸吉「イカ漁業とその振興策」) 同年の
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村,地元の
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村では、この年の記録に、安浦二六隻・
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一一隻・大船一五隻とある。,翌三一年は、安浦一四隻・
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一七隻・大船一〇隻が登録されている。 , 二一 川汲 三 一五 安浦 五 二七
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(〔主な火災略年表〕)
〔主な火災略年表〕 明治18 熊泊村官林山火事発生 32
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村官林山火事,
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倉庫一棟全焼 大正 3 川汲住宅一棟全焼 5 川汲住宅一棟全焼 ,10・7 川汲漁協事務所全焼 43・ 1・23
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住宅一棟全焼。,3・17
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住宅一棟全焼 44・ 2・10 川汲住宅一棟全焼。3・6 加工場一棟全焼。,5・17
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火事 45・12・25 川汲住宅一棟全焼。
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(土地整理委員会)
土地整理委員会
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村では、
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村字地番整理打合会を開催した。 ,開催場所及日時 昭和拾六年四月二十三日午前九時 於
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村役場 1、村長挨拶 2、字名改称, 3、字名改称地番整理ニ関スル趣旨並方針ニ就テ 北海道廳 高井 属 決議事項 1、
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村土地整理委員會設置,ノ件 イ、
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村土地整理委員會設置規程ノ制定 ロ、委員ノ任命(村長指名)
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(口絵)
明治37年 篠田順調
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部落沿革誌
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弁天島八千代橋 星路画 大正4年
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小学校所蔵,
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見取図 明治37年 篠田順調
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部落沿革誌 川汲部落図 明治41年 竹中重蔵調,より弁天島を望む 大正2年 尾札部八木浜 明治20年頃 飯田清次郎所蔵
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巌島神社大祭, 明治39年 尾札部川橋と尾札部の家並 明治20年頃 飯田清次郎所蔵
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村忠魂碑除幕式,のはじめ 安田範彦所蔵 献上昆布(御料品)乾燥の状景 昭和11年 竹原一寿所蔵
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(考察2)
宝暦三年(一七五三)
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入稼ぎのうち相木屋久右衛門と宗右衛門の両人が
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に移住して、鯡引網、鮭差網などをもおこなった,文化一四年(一八一七)
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が尾札部村より分かれて
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村並となった。 ,文政三年(一八二〇)七月 熊泊が
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の支村となった。 ,文政七年(一八二四) 板木、所呂、蹴勝浜が
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の支郷となった。 ,明治六年三月 熊泊を
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村より分割して熊泊村とした。
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([海区漁業調整委員会])
〃 (茂別・上磯・函館・銭亀沢) 函館市 恵山 〃 (戸井・
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岸内,・椴法華) 戸井村 茅部郡南部 〃 (尾札部・
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・鹿部)
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村 , 森 町 八雲長万部 〃 (八雲・長万部) 長万部町 郷土(
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村,・尾札部村)は茅部郡南部に属し、海区漁業調整委員会の事務所は
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村役場内に置かれて、会長である
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村長鈴木慶一
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(第二茅部病院)
第二茅部病院 明治二〇年、かねて申請中の
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地方公立病院の設置が許可となった。,第二茅部病院といい、位置は字
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六八番地に定めた。 ,
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村は無医村となることをおそれ、村費をもって
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村に村医を招聘することをきめた。,相沢は、この後永く
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村にあって医療活動をつづけ、のちに
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で開業医となり、牧場経営もはじめ、晩年、鹿部村,
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村立病院(昭和4年頃)中本家所蔵
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