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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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南茅部町史 下巻 (菅江真澄の歌)

菅江真澄の歌 寛政三年の旧六月、海路アイヌの舟に案内されて文化のさきがけともいえる香りを届け、その紀行,とともに今にその歌を残してくれたのは紀行家菅江真澄である。,寛政三年旧六月  菅江真澄が詠んだ歌  十三首   恵山    あら磯のいはほにぬるゝわしの羽に妙なる / 菅江真澄の歌
南茅部町史 上巻 (菅江真澄紀行)

菅江真澄紀行 菅江眞澄の「蝦夷逎天布利(えぞのてぶり)」は、「ひんがし(東)のゑみし(蝦夷)らがす(,漂泊の旅人として、その土地の民俗を書きつづった菅江眞澄は、天明八年(一七八八)松前に渡る。,菅江眞澄の「えぞのてぶり」は、郷土南茅部の寛政年間のすがたを旅人の目からとらえ、この地で聞いたままを記 / 菅江真澄紀行
恵山町史 ([菅江真澄の紀行文より])

[菅江真澄の紀行文より] 菅江真澄(宝暦4~文政12年・1754~1829年)は、三河の国(現在の愛知県,菅江真澄と改名したのは文化7年(1810年)、57歳の時である。   / [菅江真澄の紀行文より]
恵山町史 (恵山に登った菅江真澄)

恵山に登った菅江真澄 蝦夷地にやって来たのは天明8年(1788年)7月、菅江真澄、35歳の時である。,には、蝦夷地の人々の霊山として、信仰の地として多くの修行者たちが登山・参詣にやって来ていたことは、この菅江真澄 / 恵山に登った菅江真澄
戸井町史 ([菅江真澄の戸井紀行(寛政元・三年)])

[菅江真澄の戸井紀行(寛政元・三年)] 今から百八十年も昔に、菅江真澄くらい戸井のことをくわしく書いた,菅江真澄の肖像  菅江真澄は寛政元年(一七八九)七月、福山を出発し、下海岸を通って恵山まで往復し,内田武志が『松前と菅江真澄』(昭和二十五年刊)に『ひろめかり』の継缺(だんけつ)文を発見したと書いている / [菅江真澄の戸井紀行(寛政元・三年)]
南茅部町史 上巻 (寛政の「ひろめかり」)

寛政の「ひろめかり」 ひろめかり 未来社刊「菅江真澄全集二」より転載  寛政年間、当時の松前箱館辺,りの昆布採りのありさまを刻明に書きのこしたものとして、菅江真澄の著作がある。  ,昆布刈りの図絵一七丁三四図の付図のうち、直接昆布に関連する図絵のみを未来社刊の菅江真澄全集第二巻より転載
椴法華村史 (銚子)

銚子 菅江真澄の寛政三年(一七九一)『えぞのてぶり』に初めてこの地名が見られ、「銚子の碕」と記してあるが
椴法華村史 (えぞの手ぶり)

えぞの手ぶり 寛政三年(一七九一)年五月福山より有珠山参詣の旅に出た菅江真澄は「えぞのてぶり」の中に
函館市史 銭亀沢編 (〈オサゴ〉)

明治期の『北海道水産予察調査報告』や、菅江真澄の『ひらめかり』の中には、函館周辺で使われた各種のコンブ
椴法華村史 (矢尻浜)

また寛政三年(一七九一)菅江真澄の『えぞのてぶり』では、「箭尻浜」と記されているなど、矢尻浜に関しては
椴法華村史 (赤禿(あかはげ))

この地名は寛政三年(一七九一)『蝦夷廼手布利』(菅江真澄の紀行文)に最初に見られる。
函館市史 銭亀沢編 (磯漁)

なお、下北ではカツギと呼ばれる海士(あま)による潜水漁法が古くはおこなわれており、菅江真澄の「まきのあさつゆ,」(『秋田叢書別集菅江眞澄著作集第六』昭和八年)に、次のように記されている。    ,また、菅江真澄の手になる寛政年間に函館の東方から福山までの海岸部の紀行文と昆布取りの道具の図集である「,図4・8・3 コンブ採りの道具(『菅江真澄著作集第5』より)
函館市史 通説編 第一巻 (疫病)

東奥遊記』によると、このころ和人地にあった病気は血毒、湿痺、梅毒、脚気、気積などの病名が見られ、また菅江真澄
南茅部町史 下巻 (〔東海岸道〕)

〔東海岸道〕 寛政三年、菅江眞澄が搔き送り舟で尾札部・臼尻・鹿部を伝い行き、胆振、有珠岳へ旅をした。
函館市史 銭亀沢編 (ネブタ)

現在では、青森市のネブタや弘前市のネプタが有名であるが、菅江真澄が寛政五(一七九三)年に、大畑(青森県大畑町,)や秋田県内でもおこなわれていたことを「まきのあさつゆ」(『秋田叢書別集菅江真澄著作集第六』昭和八年)
椴法華村史 (椴法華と舟渡)

蝦夷雑誌』によれば、「トトホツケ此所三里舟渡アリ」と書かれており、開始時期は明らかではないが、(寛政三年菅江真澄
椴法華村史 (カムイ岩)

寛政三年(一七九一)この地を通過した、菅江真澄は「えぞのてぶり」の中でカムイ岩にまつわる話をつぎのように
椴法華村史 (昆布の採取方法)

の採取方法は次第に各地で研究改良されたらしく、前松前藩時代の末ごろに箱館・尾札部方面の海岸を歴遊した菅江真澄
函館市史 通説編 第一巻 (地誌・風俗書)

ことに寛政年間の菅江真澄の来遊は有名で、その見聞録のひとつの『ひろめかり』は、この地方の記録として貴重
南茅部町史 下巻 (石神(シュマカムイ)と義経)

出典『えぞのてぶり』(菅江真澄全集末来社)
南茅部町史 下巻 (〔蝦夷地の農耕〕)

寛政三年(一七九一)菅江真澄は、松前より搔き送(かきおく)り船で海岸を有珠まで旅したとき、「サハラ(砂原
南茅部町史 下巻 (〔搔き送り船(かきおくりぶね)〕)

寛政三年(一七九一)、菅江真澄はアイヌの舟に搔き送られて、尻岸内(恵山町)の運上屋から椴法華へ、そして
南茅部町史 下巻 (判官(ほうがん)の兜石(かぶといわ)(鎧岩(よろいいわ)))

寛政三年(一七九一)この地を舟でいった菅江真澄は「えぞのてぶり」に兜石と記している。
南茅部町史 上巻 (御用昆布)

寛政年間すでに菅江真澄が記している尾札部から鹿部までの昆布採りのこと、文化年間、村上島之允の蝦夷島奇観
椴法華村史 (恵山温泉のはじまり)

恵山温泉のはじまり 寛政三年(一七九一)菅江真澄は蝦夷船で恵山岬をこぎ渡ったが、その時の紀行文である
恵山町史 ([尻岸内の運上屋・駅逓])

その3年後の、寛政元年(1789年)菅江真澄の紀行文『ひろめがり』に、この年恵山に登り帰途、銭亀沢村に
戸井町史 (一 仏が浦の絶景(佐井村))

然し菅江真澄は寛政四年(一七九二)十月、松前から奥戸(おこっぺ)に渡り、すぐ徒歩で山越えして、仏が浦を
戸井町史 (凡例)

又菅江真澄(すがえますみ)や松浦武四郎などの書いた日記、紀行文は、当時の状態を知ることのできる誠に詳細
南茅部町史 下巻 (口絵)

南茅部町史 下巻 元禄御国絵図 「おさつべ」 北海道大学附属図書館 所蔵 えぞのてぶり 菅江真澄
南茅部町史 上巻 ([郷土の戸口])

郷土の民俗を伝えるもっとも古い著書である菅江真澄の「えぞのてぶり」にも、郷土の家数や人口は記録されていない
戸井町史 (三、戸井に移住した人々)

○天明五年八月十九日、菅江真澄が目撃したことを書いた『外が浜風』に 「浜路を行ってうとうまいのかけけ橋,○寛政五年五月一日、菅江真澄が『奧の浦々』に「宿野辺(すくのべ)から川を渡り、広い野を過ぎて桧川(ひかわ
戸井町史 ([神社の沿革])

宮川神社の創建は明和二年(一七六五)となっているが、それから二十四、五年後の寛政元年(一七八九)に書かれた菅江真澄
戸井町史 (二 石神(いしがみ)神社の由来(脇野沢村))

菅江真澄が寛政五年(一七九三)に、このあたりを訪れ、石神神社の由来について書いている。  
恵山町史 (2、恵山町指定文化財)

国  豊浦から日浦に至る3キロに及ぶ海岸線は、安山岩の柱状節理の奇岩絶壁が連なる絶景として、古くは菅江真澄
椴法華村史 (一七〇〇年代の椴法華近海の海運)

寛政三年(一七九一)五月福山を出発して有珠岳を目指した菅江真澄は、その紀行文『蝦夷の天布利』に旅行日程
戸井町史 (四 長福寺の円空仏(佐井村))

菅江真澄が寛政四年(一七九二)十月十三日に恐山に詣でて「観音の御堂(みどう)に慈覚円仁大師の作った木尊仏地蔵菩薩
戸井町史 (一、運上屋時代(場所請負時代))

菅江真澄の紀行文の、寛政元年(一七八九)に書いた『ひろめかり』、寛政三年に書いた『えぞのてぶり』の随所
戸井町史 (二、魚類以外の海棲動物)

菅江真澄の南部(下北)紀行の中にもホヤのことが書かれている。
恵山町史 (日浦・武井泊(豊浦)間開通(昭和5年3月))

この海岸の景観については、紀行家としても知られる菅江真澄が尻岸内を訪れた折、その絶景に打たれ「舟よせて
南茅部町史 下巻 (鶴の湯伝説)

寛政三年(一七九一)、この地先をアイヌの舟で各地の民俗を記していった菅江真澄の「えぞのてぶり」に、川汲
南茅部町史 上巻 ([地名のうつり変わり])

古い地名を年代順に記すと、寛政年間の菅江真澄の「えぞのてぶり」に表記されるもののほか、列記してその変遷
戸井町史 ([戸井の地名考])

寛政元年(1789)菅江真澄の書いた「ひろめかり」に「山越えれば(日浦、原木間の峠)はらき(丶丶丶)の,菅江真澄が、寛政元年に「無意の島」と書き、二年後の寛政三年には「武委の島」と書いているところから、この,菅江真澄は「ムイはえぞ国(○○○)の簸箕(ひるみ)の形に似ているので、そのようにいうのであろう。,菅江真澄は秋田県の立待岬について書いている。,寛政元年と3年の菅江真澄の紀行文に、はじめて「セタライ」の名が出ている。
恵山町史 ([蝦夷地の馬])

菅江真澄の紀行文『ひろめかり』は、銭亀沢村での昆布採りなど、この年、寛政元年に見聞したことが書かれたものであり
戸井町史 (一、武井の島の伝説)

寛政三年(一七九一)五月二十七日、菅江真澄が、有珠登山の途中ここを通り『えぞのてぶり』という紀行文に
恵山町史 (6、恵山大権現)

(第1節1、菅江真澄『ひろめがり・えぞのてぶり』、同2、松浦武四郎『蝦夷日誌・巻之五』参照)  この
戸井町史 ([昔の蝦夷地の船])

菅江真澄が道南を紀行した時の文章に「蝦夷船に乗り」とあるのは、縄とじ船である。  
戸井町史 ([蝦夷地と馬])

寛政元年(一七八九)に書いた菅江真澄の紀行文『ひろめかり』に  「七月十九日、石崎を立って潮泊にくると
戸井町史 ([昆布漁])

菅江真澄が寛政三年(一七九一)内浦湾を通り、鹿部産の昆布を見て「これが宇賀昆布である」と書いている。,寛政元年(一七八九)、菅江真澄が下海岸の昆布取の状況を見に来て「ひろめかり」という紀行文に、昆布取の状況,菅江真澄は寛政四年(一七九二)蝦夷地を去って下北地方を廻り「この地方の人々は昆布を取るのに、海へもぐって
戸井町史 (一、戸井の館とその伝説)

菅江真澄が寛政元年(一七八九)七月十七日このあたりを通った時の紀行文には、神社のことを全然書いておらず
戸井町史 (二、汐首観音堂と円空仏)

汐首の観音堂で円空伝が発見されたこと、菅江真澄は円空の辿った道筋をそのまま辿り、各地で円空仏について、
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