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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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南茅部町史 上巻 ([蝦夷日誌])

[蝦夷日誌] 蝦夷地に関する古文書は多いが、郷土南茅部を書き記したものは、道史の古文書、文献の中では,東蝦夷地へ陸路を行くときは、箱館より亀田、大野、大沼、茅部(砂原)よりエトモ(室蘭)へ向かう。  ,道央や東蝦夷地へ向かう旅程に、郷土がその道筋に入ることはほとんどなかったから、古い文献に登場することは,蝦夷日誌を編んだとき、巻五にこれを合わせて誌している。  ,旅にゆき、行く所の地名行程を記し、触れるもの、見るもの、聞いたこと、会った人のことまで詳しく誌している / [蝦夷日誌]
恵山町史 (2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より)

2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より この時代の郷土の交通状況について,詳細かつ正確に記されているのが、松浦武四郎の蝦夷地探検の記録『蝦夷日誌』である。  ,に及んだが、第3航を終えた翌年の嘉永3年(1850)、初航以来の備忘録を整理して書き上げたのが『初航蝦夷日誌,蝦夷行程記  〈尻岸内村より日浦村 ・峠越え〉  尻岸内より-広野-日浦峠へ        十三丁廿間,松浦武四郎の『蝦夷日誌』にみる渡島の道  以上、郷土の道の『蝦夷日誌・巻之五』から、郷土の行程・距離 / 2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より
南茅部町史 上巻 (弘化の昆布場 蝦夷日誌)

弘化の昆布場 蝦夷日誌 弘化二年(一八四五)、松浦武四郎は、森より砂原をすぎ、沼尻から鹿部を記すあたりから,トコロ川   トコロ  夷人小屋一軒。昆布取小屋左右に多し。   ,五段滝   ホロ   人家壱軒 夷人也。昆布小屋二、三軒有なり。   ,磯屋   人家二軒、夷人壱軒有。然し夏分は昆布取にてにぎ合へり。      / 弘化の昆布場 蝦夷日誌
椴法華村史 (蝦夷地の病気)

蝦夷地の病気 蝦夷地においては古くから疫病の発生がみられ、中でも疱瘡の流行は、保健知識や医療機関の全,寛永の天然痘流行  寛永元年(一六二四)初夏から二、三年にかけて天然痘が流行し、和人・蝦夷人で死ぬ者,に疱瘡が流行し、蝦夷人は山奥へ逃げ去った(『松前年歴捷徑』)  文化六年尾札部の痘瘡流行  文化六年,弘化二年より四年に至る(一八四五―四七)記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』は、この時のことについて,の処、文化六巳年疱瘡流行に付夷人七八歩死失候に付願に依て翌年より八両づつ相納候処、其後又々夷人死失、残 / 蝦夷地の病気
恵山町史 ([松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社])

[松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社] 北海道名・国郡名の名付け親でもあり、古今稀な旅行家,・探検家である松浦武四郎は、蝦夷地の探検も6回に及んでいる。,年(1849年)の第3航を終えた翌年の嘉永3年、当時33歳であった武四郎は初航以来の備忘録を整理し『蝦夷日誌 / [松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社]
恵山町史 (蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より)

蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より 「扨(さて)、是より登山するに村中に華表(鳥居のような標識)有。,華表は、中国の、宮城や陵墓などの前に立てる装飾を施した柱・標識のことであるが、日本では神社の鳥居を指す,を立てたり、中宮を設けたりしていることから、恵山大権現は1800年代中頃には、地元は勿論、松前城下や蝦夷地 / 蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より
函館市史 通説編 第二巻 (新政府の蝦夷地への関心)

三職一同からは「開拓可然」との言上があり(「太政官日誌」『維新日誌』)、蝦夷地に対して何らかの施策が期待,しかし、当時の新政府首脳には蝦夷地について充分な認識があったとはいえず、翌10日、三職に対して「蝦夷地開拓,建言書は「何等の意見もこれ無」とか「至当の御儀と存候」などが大半で(前掲「太政官日誌」)、具体性を欠いていた,(前掲「太政官日誌」)    第一条 箱館裁判所被取建候事  第二条 同所総督、副総督,、同時に渡島国以下11か国68郡名も設定されている(前掲「太政官日誌」)。 / 新政府の蝦夷地への関心
恵山町史 (6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた)

6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた 『蝦夷日誌』は、松浦武四郎が蝦夷地探検の初航から第3航、1845~49,ここの丘の上に蝦夷の大王の住んでいた館跡があると聞く。,図 地名が記されている 弘化4年(1847)松浦武四郎が描く郷土(2) 立岩千畳敷の図「蝦夷日誌巻之五,「蝦夷地行程記 (陸路)尻岸内村より日浦村まで」  一、尻岸内より 日浦峠へ    十三丁廿間(一、,「蝦夷地行程記 (海路)尻岸内村より日浦村まで」  一、尻岸内より 立岩へ      三丁四十間(四 / 6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた
函館市史 通説編 第二巻 (役員選挙と蝦夷地領有宣言式)

役員選挙と蝦夷地領有宣言式 脱走軍は、徳川家による蝦夷地開拓の許可がおり、血胤者の派遣をみるまでの措置,我々は一月二十七日(陰暦十二月十五日)に蝦夷全島を事実上我々の占有としたことを厳かに宣言しようと思います,」より作成  B 「蝦夷事情乗風日誌」『地域史研究はこだて』第3号、「一年の夢話」『薩摩藩海軍史』下巻,意図したもののようであり、「蝦夷事情乗風日誌」が神速丸乗組士官内藤清孝、「一年の夢話」が開陽艦長沢太郎左衛門,ノ者ヲシテ入札セシメ」(『説夢録』)、「諸方役々ノ長ヲ定ルニ依テ諸隊ヨリ入点ヲ以テ是ヲ定ントス」(「蝦夷事情乗風日誌 / 役員選挙と蝦夷地領有宣言式
函館市史 通説編 第一巻 (地誌・風俗書)

地誌・風俗書 地誌・風俗書については、右の如水の著のほか、松浦武四郎の『蝦夷日誌』なども貴重であり、,市川十郎(高崎藩の兵学者市川一学の子)の『蝦夷実地検考録』も『箱館夜話草』と双璧(へき)をなすものであり,、また前田夏蔭の『蝦夷志料』を補うものであった。,弘前の画人平尾魯僊(名は亮致)も安政2年藩用で来箱し『松前紀行』『箱館夷人談』『洋夷茗話』を著わして当時,このほか米国使節ペリー提督来航時の『ペルリ提督日本遠征記』や、英国公使オールコックの『大君の都』なども / 地誌・風俗書
南茅部町史 上巻 ([蝦夷行程記])

[蝦夷行程記] 蝦夷行程記は安政三年に阿部喜任将翁が誌し、松浦武四郎が校訂した箱館近在の西部(西廻り,蝦夷行程記           巻之上 西部 西廻り之部           巻之下 東部 東廻り,鶴の湯といふ 箱館 よりこゝに来るに湯の川より上湯の川へ出(いで)河汲 峠をこえて湯本へ出る 一日路 / [蝦夷行程記]
椴法華村史 (英人ブロウトンの日誌(要約))

英人ブロウトンの日誌(要約) (二度目の蝦夷地周辺探険の時の日誌・噴火湾と名付けた人物)    一七九七年八月十一日,岸は西南西の方向、陸より距離は三ないし四リーグ沖、天気変わり易し、正午南十五度西に恵山岬、それを先に日本本土,(中略)八月十二日六時三十分、南八度西に日本の高い山と恵山岬あり、天候は不安定、風が追い風なので進路を / 英人ブロウトンの日誌(要約)
戸井町史 ([松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)])

[松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)] 弘化二年八月、松浦武四郎が森村を出発して砂原、臼尻、尾札部,の村々を経て、椴法華を越え、下海岸の諸村を巡視して箱館に達した時のことを『蝦夷日誌巻の五』にくわしく書,この日誌から下海岸の部分を抜粋し意訳して記述する。  ,この日誌はこの時代のものとしては、最もくわしい文献である。  ,)の著『休明光記巻之五』に採録されている「日浦村の孝女レン」のことについて、『蝦夷日誌巻之五』に記録している / [松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)]
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の文人)

、5月28日まず箱館山に登って測量が開始された。,これが蝦夷地測量の最初であり、測量日記『啓行策略』がある。  ,蝦夷(えぞ)の島踏(しまぶみ)』を著した福居芳麿は、縢知文ともいい、『東夷周覧』には箱館の地理、風俗誌,という名目で、蝦夷地各地を探訪してまとめたのが『蝦夷日誌』である。,松浦武四郎 函館港総図 「蝦夷日誌」より
恵山町史 (『蝦夷巡覧筆記』より箱館よりヲサツベまでのようす)

『蝦夷巡覧筆記』より箱館よりヲサツベまでのようす 『蝦夷巡覧筆記』(別名蝦夷地東西地理)は、寛政9年,(1797年)松前藩の高橋壮四郎等が記した松前地と東・西蝦夷地の巡回調査報告書であり、当時の地理・地誌,二丁余リ行キ 小坂百間程下リ濱ヱ出小流有リ 夫ヨリ濱道百間程行キ、夫ヨリ、   ヒウラ(恵山町字日浦,子タナヱより日影濱迄之海岸 子タナヱヨリ小石濱行キワシリ有リ 此所岩出崎ヱサン崎ト云   ヱサン(,ここから、ヒウラ、シリキシナヱまでが下海岸道路最大の難所(原木峠、日浦峠)である。   / 『蝦夷巡覧筆記』より箱館よりヲサツベまでのようす
函館市史 通説編 第一巻 (松浦武四郎の記録)

松浦武四郎の記録 松浦武四郎は弘化2(1845)年28歳の時江差、函館を訪れて以来14年間蝦夷各地を,調査し、蝦夷(北海道)、樺太、千島の地図を作成したり、蝦夷山川地理取調図や北蝦夷地、西蝦夷地、東蝦夷地,の紀行、地理、風土等の詳細な記録を作り上げたが、安政5(1858)年の『十勝日誌』に、「穴居址三十余在,けつ)出るよし、余も二枚を得たり」と述べているが、これほど詳しく北海道各地を観察し、調査した記録にも蝦夷,同じく彼が著した『西蝦夷日誌』にも海岸や河川に近い丘陵に穴居趾何個があるという記事は見えるが、『十勝日誌
椴法華村史 (水無)

水無 『北海道蝦夷語地名解』によれば、アイヌ語で「ワクカサク」といわれるとある。,天明元年(一七八一)の『松前誌』には「ミツイシ」と記され、前掲松浦武四郎の『蝦夷日誌』には、「水無、少
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使の誕生)

この沙汰書は、明治2(1869)年7月13日、開拓使の前身ともいうべき「蝦夷開拓督務」(6月4日任命),げて蝦夷地開拓に着手するまで少しの間、直正に蝦夷地開拓を委ねるというものであった。,直正を蝦夷開拓督務に任ずる2週間ほど前、新政府は5月21日と22日の2日にわたって、東京在留の上級官員,」『維新日誌』)とあり、また鍋島直正への勅書でも「蝦夷開拓ハ、皇威隆替ノ関スル所、一日モ忽ニス可ラス」,また、この蝦夷地開拓督務の任命に続いて島義勇、松浦武四郎らが蝦夷開拓御用掛に任ぜられている。
函館市史 銭亀沢編 (幕末の村むら)

またほぼ同時期、松浦武四郎も蝦夷地を探検調査し、「蝦夷日誌」(『函館市史』資料編第一巻に抄録)を書いている,「蝦夷実地検考録」を主とし「蝦夷日誌」を従として銭亀沢の村むらの様子を綴って見る。,「蝦夷日誌」には「此村の上に小林氏の古城跡と云もの有なり。,なお「蝦夷日誌」では銭亀沢から迫浜、迫浜から黒岩間は、一町、二町五〇間となっている。  ,「蝦夷日誌」によれば「石崎村より惣て昆布漁よろし。
函館市史 通説編 第一巻 (日本人人種論)

コロポックルの名称は、天明5(1785)年から6年にかけて蝦夷地を調査した最上徳内が文化5(1808),それには「蝦夷人物語申候は小人島より蝦夷へ度々土を盗みに参り候、おどし候得ば其儘(まま)隠れ、船共に見不,レ申候由、蝦夷より小人島迄航路百里も御座候由、右の土を盗みて鍋にいたし候由、尤せい(背)ちい(小)さくして,又大風に吹ちらされ申候故、十人計り手取り合ひ往来仕候由、蝦夷人語り申候。,この伝説は『蝦夷島奇観補注』(松前志摩守徳広)や『蝦夷図説』(山田金銀軒)にも抜書きされていて、要約すれば / 日本人人種論
椴法華村史 (屛風岩)

屛風岩 前掲『蝦夷日誌』によれば、「屛風岩、屛立数十丈、岩面屛風を立たる如し」と記されている。,また安政二年(一八五五)ごろの『南部藩蝦夷地経営図』にも屛風岩と記されている。
椴法華村史 (昔日の水無温泉)

昔日の水無温泉 松浦武四郎、蝦夷日誌の弘化四年(一八四七)五月の記事に「水無濱、少しの砂浜、水無より,その後、大正七年の椴法華郷土誌は、水無温泉について次のように記している。      / 昔日の水無温泉
椴法華村史 (〔字地名地番改正による地名〕)

[字名] 改称名 旧      字      名 恵山岬 影ノ浜・日影浜・元椴法華・水無・水ナシ野,・矢尻野・矢尻浜・二股 椴法華村名起源便覧 地域 津軽一統志  寛文十年    一六七〇 蝦夷商賈聞書, 元文四年ころ    一七三九 松  前  志  天明元年     一七八一 蝦夷廼天布利, 寛政三年    一七九一 蝦 夷 日 誌 弘化二年~四年  一八四五~四七 南部藩蝦夷地 経,三軒屋 シマトマリ スノ川 三ケンヤ シマトマリ スノ川 銚子・浜町 屋しろ浜 (津軽一統誌地図
恵山町史 (会所・宿泊所の掟・きまり)

会所・宿泊所の掟・きまり 会所・宿泊所の掟・きまりについて、箱館奉行羽太正養の公務日誌『休明光記遺稿,『寛政十二年申三月、休明光記遺稿』より    蝦夷地会所掟所竝箱館会所掟書之事  斯而、東蝦夷地場所々々,おゐて会所を造り建られて、蝦夷人と交易の場となし、又は旅人之宿所となりぬ、依て会所掟書を定めらる。
椴法華村史 (海馬(とど)岩)

海馬(とど)岩 『北海道蝦夷語地名解』によれば、「アイヌ語でドカリシヨ、のちこれを和人、海馬岩という,弘化二年より四年(一八四五-四七)に至る記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』によれば、「海中に在り、
椴法華村史 (日持由来説)

日持由来説 松浦武四郎の『蝦夷日誌』弘化二年より同四年(一八四五-一八四七)までの記事をまとめたものによれば,土人の話しに、椴法華は近来の字にて、唐渡法華と云よし、其ゆへは日持上人此処より入唐し給ひしと。,日持上人の加持を得て此地にて此魚ども成仏せしと云伝ふ。    ,以テ蝦人酋長ムシヤタ、ナル者ヲ案内者トシテ同地イサンノ北浜ヨリ唐土満刻、(此頃ハ支那領ヲサシテ唐ト云ヘル,徳治元年(一三〇六)丙午年春正月元日、亀田郡椵(ママ)法華より異国に渡る。 / 日持由来説
椴法華村史 (赤禿(あかはげ))

赤禿(あかはげ) 『北海道蝦夷語地名解』によれば、「フーレピラ、赤厓(アカハゲ)、和人赤禿ト伝フ」と,この地名は寛政三年(一七九一)『蝦夷廼手布利』(菅江真澄の紀行文)に最初に見られる。,親鳥のまねをしている」  また弘化二年より四年(一八四五~四七)に至る記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌
南茅部町史 下巻 (〔漁港〕)

〔漁港〕 寛政年間(一七九〇~一八〇〇)に、村上島之丞が東蝦夷屛風に弁天島を描いている。,弘化二年(一八四七)来村した松浦武四郎も、「蝦夷日誌」に臼尻の澗の賑いを描いた。  ,安政二年(一八五五)、長澤盛至が東蝦夷地海岸図台帳に描いたもの、安政六年(一八五九)前田夏陰の延叙歴検眞図,明治一二年の北海道漁業図絵にえがかれた日の出の弁天島は美しい。  ,そこから四季眺めていた景観が、図絵に描かれている日の出の弁天島のすがたであると思われる。
椴法華村史 (カシカソリ)

カシカソリ 前掲松浦武四郎の『蝦夷日誌』に初めて見られ「カヂカソリ、此浜恵山の東南の岬に当たる。,なお、安政二年ごろ(一八五五)に出た『南部藩蝦夷地経営図』には、「カチカソリ」と記されているだけで、現在
椴法華村史 (宮の下)

前掲の『東蝦夷地道中略記』に初めて見られる。,同じく前掲の『蝦夷日誌』によれば、「宮の下、転太石浜なり、上に産(ママ)神社有」と記されている。
椴法華村史 (明礬の採掘)

明礬の採掘 明礬に関する記事は天明三年(一七八三)『赤蝦夷風説考』に「エサンと申大山有、是は銅山にて,硫黄・明礬の類も出候所也」と記され、更に寛政二年(一七九〇)の「蝦夷草紙」には、『明礬、エサンに多くあり,その後時日の経過とともに精練技術が進歩し、次第に明礬の精練が可能になったらしく、弘化二年(一八四五)には,松浦武四郎の『蝦夷日誌』(弘化二年)には、明礬の採掘について次のように記している。      
函館市史 通説編 第一巻 (箱館回航)

かくて嘉兵衛は箱館の回船宿白鳥勝右衛門(松浦武四郎『蝦夷日誌』に白鳥新十郎とあり)方に止宿し、積荷を売捌,き蝦夷産物を交易して、今後毎年西国から北国へ上下致すべきことを約して帰り、翌9年も同様に往復している。
戸井町史 ([シロイ浜の硯石と最上徳内])

[シロイ浜の硯石と最上徳内] 最上徳内(もがみとくない)が寛政二年(一七九〇)に書いた『蝦夷草紙』巻,日本へ運送安し」とある。    ,」という名で青島と同行して蝦夷地を調査し、寛政二年に『蝦夷草紙』を書いたのである。,の幕命を受け、翌寛政三年正月江戸を出発し、再度蝦夷地へ渡ったのである。  ,松浦武四郎が、嘉永三年に書いた『蝦夷日誌巻の五』に「蝦夷草紙に、このあたり白い浜という所に硯石が出ると
南茅部町史 下巻 (五升芋)

取扱向大意心得書」(市立函館図書館所蔵)に  五升芋は開港以来外国人が懇望するので需要が多くなり、また、蝦夷地,の風土にも適し、蝦夷地開墾の作物の第一とされたと記されている。  ,一〇月一五日までに差し出させた。   ,蝦 夷 日 誌 六箇場所書上  東蝦夷地海岸図台帳 上磯茅部郡一面表 弘化二年(一八四五) 嘉永七年(,  蝦夷 一軒   望路      一軒       常路    蝦夷一軒       鹿部     
椴法華村史 (椴法華と舟渡)

椴法華と舟渡 前松前藩時代の終り、寛政十年(一七九八)の『蝦夷雑誌』によれば、「トトホツケ此所三里舟渡,また前幕府時代になったばかりの寛政十二年(一八〇〇)の『蝦夷道中記』によれば、      尾佐別より,乗船東を差て行所夷家あり日本人出張有三里行て山道有此所日本人家余程あり、トトホツケと言所ゟ山道焼山煙見,へる所に道見へる高山を越所と言夫より御舟一里余繪丹内日本人家多し夫ゟ二里半行て尻岸内七ツ前着日本人家多
南茅部町史 上巻 (口絵)

口絵 町旗 町章 昭和34年9月1日町制施行記念 町旗 昭和43年3月14日制定 南茅部町民憲章,北海道建網大謀網漁業発祥之地の碑(黒鷲岬) 重要文化財 中空土偶/南茅部町尾札部(著保内野遺跡出土) 蝦夷島奇観, 秦檍丸画 寛政12年 市立函館図書館所蔵 同 市立函館図書館所蔵 東蝦夷地屏風 ,市立函館図書館所蔵 延叙歴検真図 目賀田 守蔭 画 安政6年 市立函館図書館所蔵 東蝦夷地屏風,青木辰女奉納 絵馬「駿馬」 元治元年 同上 臼尻見取図 明治37年 篠田順調 臼尻部落沿革誌
函館市史 通説編 第二巻 (施政方針)

一 鰥寡孤独疾病のものを憫むべき事、一 人を殺し、家を焼き、財を盗む等の悪業あるまじく事」(「太政官日誌,このため、主任判事井上石見は、蝦夷地経営資金確保、拡大する戊辰戦争に対する新政府の対応策聴取、プロシア,井上石見長秋は鹿児島の諏訪神社の神職で早くから尊王の志士として奔走、岩倉具視と薩摩藩の橋渡しを担当したおり、蝦夷地,の開拓にも一家言を有し「蝦夷開拓ノ事ニ付、機械ヲ製造シテ、人力ヲ省略スルノ策、急務ト奉存候」と言上したところ,」『維新日誌』)と言上、蝦夷地の開拓に機械力を導入することを力説し、箱館府の実質責任者として箱館在勤を
椴法華村史 (恵山硫黄の自然発火)

これは特殊な例であるが、松浦武四郎の『蝦夷日誌』によれば、弘化二年(一八四五)六月十一日の恵山硫黄自然発火,蝦夷日誌    弘化二乙巳六月十一日夜、恵山西手に当り火燋上り半天に輝き、さして山動地響もなかりしが,則私共下役人召連急ぎ出張仕候処、同十三日九ツ過に当着仕候。
函館市史 銭亀沢編 (宇賀昆布)

先の「松前蝦夷記」に「東郷亀田村志野利浜ト云所より東蝦夷地内浦嶽前浜まで海辺弐拾里余之所ニテ取申候、尤献上昆布,また、同じ時期に蝦夷地を訪れた平秩東作(江戸の狂歌師・戯作者)が天明四(一七八四)年に「東遊記」(『北門叢書,此地(蝦夷地)に多く出づ。箱館辺の浦より出るもの上品也。松前、江差より出るものは下品也。,幕府御用の蝦夷地の実地調査にしては、箱館辺の浦と志野利浜との関係が適当でなかったり、「庭訓往来」の宇賀,ついで、松浦武四郎は「蝦夷日誌」で、石崎村にウカカという川があるが、ここ以外に「彼庭訓往来に宇賀の昆布
椴法華村史 (三軒屋)

三軒屋 現在の富浦の一部であって前掲の『蝦夷日誌』によれば、「村の端なり。今は六軒程も有也。
椴法華村史 (ヒカタトマリ)

南西風のこと、「トマリ」は船をつなぐ所、つまり南西の風の時船をつなぐ所という意味で、両所ともに前掲『蝦夷日誌
南茅部町史 下巻 (郷土の医療の始め)

記録としては弘化の頃、箱館の医師深瀬鴻斎が臼尻村に滞在した、と松浦武四郎の「蝦夷日誌」に記されている。,蝦夷日誌に、鴻斎は「物産に志有て此山中委しく穿鑿」したと記している。,村岡院長は一月二七日早朝四時、森村を出発した。,雪中悪路の為、砂原村沼尻より出来澗越えは難行しながら翌二八日午後一時、臼尻村に着いた。  
函館市史 銭亀沢編 (八幡神社(志海苔町))

文献では、嘉永三(一八五〇)年の「蝦夷日誌」に志海苔の産神社とあるのが八幡神社の初見で、「蝦夷実地検考録
椴法華村史 (ウノトマリ)

また『蝦夷日誌』には、「ウノトリ石、岩の頂上に鵜のふんにて白くなりたるが故に号るなり」とある。
函館市史 別巻 亀田市編 (上山村)

   と記されており、この記録を見ると村の住民は農業を専業としているかの感を受けるが、後代の『蝦夷日誌,寛政九(一七九七)年の『蝦夷巡覧筆記』は、「上山村、馬アリ産物雑殼、水ワルシ。,ノ中道ト申処左手ノ野道行キ、夫ヨリ川アリ幅三、四間、夫ヨリ少シ野道」と記し、天明六(一七八六)年の『蝦夷拾遺
南茅部町史 上巻 ([郷土の戸口])

文化四年(一八〇七)、尾札部領(椴法花を含む)四三軒一七七人、蝦夷家二六軒八二人、臼尻持三六軒一三一人,、蝦夷家三六軒一三二人の記録(松前三ケ所付東西村調)がみられる。,えだむら)、支村とも記す)地域の戸口などが登場するのは、ようやく弘化二年(一八四五)、松浦武四郎によって蝦夷日誌,なかでも、よく知られるものに、東蝦夷地海岸図台帳、入北記、延叙歴検真図などは、戸口と集落の形成のすがたを
南茅部町史 下巻 (〔幕末郷土の鉱山開発〕)

直轄となった東蝦夷地に、幕府は督励して道路の開削、逓送の制度をすすめていくが、ここにあるのは山中の道である,弘化二年(一八四五)、郷土を巡回した松浦武四郎は、蝦夷日誌の磯谷のところで、深瀬鴻斎老の話しに「此山中,安政四年(一八五七)四月二五日より五月一日まで堀鎮台(奉行)は、少数の供揃いで六ヶ場所のうち戸井・古武井,玉虫義の刻明な巡行の誌である「入北記」をみると、蝦夷地の実地見分にあたって、古武井では武田菱三郎の瓦焼場,幕末の蝦夷地において、道南の鉱山開発が嘱望されていたことを示している。
椴法華村史 (恵山温泉のはじまり)

恵山温泉のはじまり 寛政三年(一七九一)菅江真澄は蝦夷船で恵山岬をこぎ渡ったが、その時の紀行文である,「蝦夷のてぶり」の中に「跠山(エサン)の麓をのみこぎめくれば、湯濤(イデユ)の流あり」また天註に「此山,その後、松浦武四郎の「蝦夷日誌」によれば弘化二年(一八四五)六月十一日、恵山硫黄自然発火の時「山上に湯治場有之処
函館市史 通説編 第一巻 (館主とその性格)

して南部の田名部に至り、前述のごとく安東政季に従って渡海し、宇須岸に館を築いたといい(『新羅之記録』『蝦夷島奇観,』)、小林良景は家系図によれば、その祖先は万里小路藤房に仕え、祖父次郎重弘の時に蝦夷島に渡った(『蝦夷実地検考録,)なる高楯に安東より分領なし、是に住はせて後、秋田に帰りて補陀寺の開基として入道し」(『亀像山補陀寺誌』,前述のように当時安東氏は、北条得宗領の御内人として幕府権力と結びつき、蝦夷を支配し、日本海沿岸部を結ぶ,しかもこの時代の蝦夷地は、農業を主体とする本土と比較するならば、極めて異質なものであり、ここに住む住民
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田新道一軒屋海岸台場)

亀田新道一軒屋海岸台場 『遊撃隊起終録 南蝦夷戦争記付録戦地写生』の中では「亀田新道一軒屋海岸台場」,と記され、『渡島国戦争心得日誌』によれば「亀田御仕置場の台場」とあり、これらの名で呼ばれている台場は現在,の日産化学付近にあった台場を示すものと思われ、構築時期は明確でないが亀田新道と同じように明治二年四、五月
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