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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (蝦夷が島)

蝦夷が島 北海道は古くは渡島(わたりしま)、あるいは越渡島(こしのわたりしま)ともいわれていた所である,ここに住む民族は蝦夷と呼ばれていたところから、近世に至っては蝦夷地とか、または蝦夷が島と称され、自らを,このような蝦夷地の函館周辺の人々が、津軽海峡をへだてた本土方面の人々と交渉をもつようになったのはいつころからであろうか / 蝦夷が島
函館市史 通説編 第二巻 (蝦夷日報)

蝦夷日報 函館商業新報は34年3月25日「蝦夷日報」と改題した。,蝦夷日報は6段組6面で、定価は1部1銭5厘、月極め25銭の日刊紙(日曜休刊)である。,発行所は蝦夷日報社(大黒町55)、発行兼印刷人川上嘉吉、編集人は岩淵吉太郎。 / 蝦夷日報
函館市史 別巻 亀田市編 (蝦夷地直轄)

蝦夷地直轄 箱館嶴地図(蝦夷島奇観) 市立函館図書館蔵  寛政十一(一七九九)年一月十六日、幕府,は外国との境界取締りのため、松前氏から東蝦夷地の内、浦河より知床に至る地と島々を上地させ、七年を限りこれを,直轄することにし、同日蝦夷地取締御用掛を置いた。,一方寛政十一年春、蝦夷地を巡見した松平忠明らは最初陣屋を厚岸に設置する計画であったが、八月十二日、知内,には蝦夷奉行は箱館奉行と改められ、更に同年七月には箱館付近及び東蝦夷地は永久直轄地とされた。   / 蝦夷地直轄
函館市史 通説編 第一巻 (蝦夷地の上知)

蝦夷地の上知 幕府はこれらの意見書を勘定奉行などに示して、その意見を求めたところ、消極的ではあったが,上知の必要を力説したので、幕府は同年2月23日、松前藩に達して、東部木古内村以東、西部乙部村以北、東西蝦夷地島々,同年3月5日、西在および東西蝦夷地の版図を松前氏から受取り、東蝦夷地へは箱館奉行支配組頭河津祐邦、西蝦夷地,および北蝦夷地へは、同向山篤を遣わして各場所を引き継がせた。 / 蝦夷地の上知
函館市史 通説編 第一巻 (東蝦夷地上知)

東蝦夷地上知 また、同時に松前章広に対しても左の命があった。,#160;                   松前若狭守 今度異国境御取締仰付けられ候に付、東蝦夷地,寛政十一末年正月十六日    すなわち、まず東蝦夷地を上知させて直轄することになった。,松前家に対しては用地の全部の代地として、武州埼玉郡久喜町において5000石を賜わり、なお東蝦夷地収納金,このため箱館は幕府の直轄地に編入され、東蝦夷地経営の根拠地となり、発展すべき好運に当面したのである。 / 東蝦夷地上知
南茅部町史 上巻 (松前蝦夷図)

松前蝦夷図 松前蝦夷図  享保三年(一七一八)       おやす村   是より東はま(浜)通り馬足相叶,つくのつへ       かやへ       おとしつへ  此間おつとせい有り       のたゑ  蝦夷図 / 松前蝦夷図
函館市史 通説編 第一巻 (西蝦夷地の上知)

西蝦夷地の上知 この結果、松前藩には辺境を守る実力のないことが、いよいよ明白となったので、幕府は文化,4年3月22日、松前章広から松前、西蝦夷地を上知させることに決し、蝦夷地全域を直轄支配するに至った。,                           松前若狭守 蝦夷地の儀は古来より其方家,にて進退いたし来り候得共、異国へ接し、島々万端の手当整え難き様子に付、先達て東蝦夷地上地仰出され、公儀,西蝦夷地の儀も非常の備えなど其方手限り行届き難き段申立、外国国境容易ならざる事に思召され候間、此度松前西蝦夷地一円召上 / 西蝦夷地の上知
椴法華村史 (蝦夷国私記)

蝦夷国私記 文化十三年(一八一六)の「蝦夷国私記」に南部領大畑より江山を目標に渡海してきた南部の杣人 / 蝦夷国私記
恵山町史 ([蝦夷地の馬])

以下、東西蝦夷地の状況について記す。  ,・寛政元年(1789年)の蝦夷乱討伐の際、松前藩は、東蝦夷地サワラ(砂原)から、エトモ(室蘭)までの間,、西在(西蝦夷地)34ケ村中、馬持村28ケ村。,・文化3年(1806年)西蝦夷地の岩内場所で馬を移入し、硫黄山の運搬に使用した記録があり、これが西蝦夷地,翌年、シラヌカ(白糠)アバシリ(網走)間の道路が開削され、馬を東蝦夷地から西蝦夷地に送られ、斜里・宗谷 / [蝦夷地の馬]
函館市史 通説編 第二巻 (蝦夷地と箱館と)

蝦夷地と箱館と 次に第2期の箱館奉行の任務についてみると、安政2年2月24日の箱館奉行に対する老中達,(「覚」)に、「今般東西蝦夷地島々一円上知被二仰付一、右場所都而其方共江御預被二仰付一候ニ付、御警衛向,は勿論、御収納并蝦夷人撫育方等之儀、諸事御委任有レ之候条、被レ得二其意一、篤与勘弁之上、追々可レ被二申聞一候事,幕外』9-138)とあることや、安政3年2月15日付箱館奉行宛将軍黒印状(3か条)の第1条に「箱館并蝦夷地之儀,また、上記の問題と関連して、この期の対蝦夷地・アイヌ民族対策のあり方を前幕領期のそれと比較すると、北蝦夷地 / 蝦夷地と箱館と
函館市史 通説編 第一巻 (寛政の蝦夷乱)

寛政の蝦夷乱 寛政の蝦夷乱要図 「根室市史」より  しかし、北辺の情勢は決して穏やかなものではなかった,ロシア問題が一応落着し、これから旧に復さんとする折から、またしても勃発したのが寛政の蝦夷乱である。,この蝦夷乱は、すなわち寛政元(1789)年5月、飛騨屋久兵衛の請負地である、国後および霧多布場所の一環,業をなさず、唯仁を假り恵を似せて人をなづくる事、彼国の奇法にて、あまたの国々を悉く属従せしめたれば、蝦夷人,有となし、猶前に記す如く、ヲロシヤ人度々東蝦夷地の内へ渡来し、是を伺ふことしきりなり。」 / 寛政の蝦夷乱
南茅部町史 上巻 ([蝦夷日誌])

[蝦夷日誌] 蝦夷地に関する古文書は多いが、郷土南茅部を書き記したものは、道史の古文書、文献の中では,東蝦夷地へ陸路を行くときは、箱館より亀田、大野、大沼、茅部(砂原)よりエトモ(室蘭)へ向かう。  ,道央や東蝦夷地へ向かう旅程に、郷土がその道筋に入ることはほとんどなかったから、古い文献に登場することは,蝦夷日誌を編んだとき、巻五にこれを合わせて誌している。   / [蝦夷日誌]
恵山町史 (1、蝦夷地の直轄)

1、蝦夷地の直轄 六ケ場所の場所請負制が確立するにしたがい箱館や亀田からの入稼は急増し、土着して漁業,幕府は1785年(天明5年)最初の蝦夷地調査以来、たびたび幕吏を派遣して調査や交易を行い、松前藩の蝦夷地経営状況,を様似まで、三橋成方は西蝦夷地を宗谷まで、それぞれの地を視察し、11月江戸へ帰り復命。,幕府はその報告を評議し、遂に蝦夷地の経営を幕府が直轄して行うことに決定し、年明けて1月、蝦夷地取締御用係,も取り上げ、蝦夷地全域を直轄地として支配することとした。 / 1、蝦夷地の直轄
椴法華村史 (蝦夷地の病気)

蝦夷地の病気 蝦夷地においては古くから疫病の発生がみられ、中でも疱瘡の流行は、保健知識や医療機関の全,寛永の天然痘流行  寛永元年(一六二四)初夏から二、三年にかけて天然痘が流行し、和人・蝦夷人で死ぬ者,(『新北海道史第二巻』)  寛政十二年の疱瘡流行  寛政十二年(一八〇〇)下夷地に疱瘡が流行し、蝦夷人,弘化二年より四年に至る(一八四五―四七)記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』は、この時のことについて / 蝦夷地の病気
函館市史 通説編 第一巻 (蝦夷地経営の方針)

蝦夷地経営の方針 寛政期の箱館の図 「蝦夷島奇観」より  蝦夷地経営にあたっては、蝦地夷御用掛五有司,蝦夷土人はいまだ人倫の道も知らず、男は髪を乱し、女は口および手に黥(いれずみ)をなし、木皮衣(アツシ),しかるに松前家は弱少であって広大な蝦夷地を制御することが出来ないので、場所をわけて商人に托し運上金を徴収,よってその警衛を命じられたのであるが、蝦夷地は四面海をめぐらし、土地もまた広大であるから、城砦を築いて,蝦夷との関係で最も大事な交易については、従来の交易法にもとづいて、官吏をおいて正当にこれを行い、道路を / 蝦夷地経営の方針
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の蝦夷地調査)

幕府の蝦夷地調査 幕府では、ロシア人の北方諸島進出の確認、たび重なる蝦夷地近海の外国船の出没や、あるいは,寛政10年(1798)年、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方らに命じて、蝦夷地,一行は5月福山に到着すると、渡辺胤はここに留まり、大河内政寿は東蝦夷地を巡回して様似に至り、その別動隊,として配下の近藤重蔵は最上徳内を案内として国後・択捉までを踏査し、三橋成方は西蝦夷地を巡視して宗谷に至,閣老らはこの復命に基づいて評議の結果、ついに蝦夷地の経営を幕府みずからの手で行うことに決定したのである / 幕府の蝦夷地調査
戸井町史 (一、蝦夷時代の概観)

一、蝦夷時代の概観 天正十八年(一五九〇)蠣崎慶広が豊臣秀吉から蝦夷地の領有権を認められる以前を蝦夷時代,こういう状態であったため、蝦夷地に渡った和人の事蹟を蝦夷の残したもので知ることはできない。,蝦夷の反乱時代は、和人の勢力範囲は松前を中心とした狭い地域で、蝦夷の勢力範囲は松前藩の勢力の及ぶ地域を,然し蝦夷より劣勢であった和人が、その武器と権謀術策によって、屢々(しばしば)蝦夷を敗り、松前藩が完全に,蝦夷をその支配下においたのは、信広より五代目の蠣崎慶広が、豊臣秀吉から蝦夷地の領有権を与えられた天正十八年 / 一、蝦夷時代の概観
戸井町史 ([蝦夷地と馬])

[蝦夷地と馬] 中国では昔、南の方では船が交通、運輸の機関であり、北の方は馬を使ったので、「南船北馬,『松前蝦夷記』には、享保二年(一七一七)に東西和人地で馬を飼育していたと書かれている。,以上のことは、和人地の馬の飼育状況であるが、馬が蝦夷地にはいったのは、寛政元年(一七八九)の蝦夷乱討伐,この牛馬、年々子を生じて、今は蝦夷地に満ちみちたり」と。  ,が巡見使に謁見したので、道南の蝦夷はシャマニ以東の蝦夷のように、馬を見て驚いたり恐れたりすることはなかった / [蝦夷地と馬]
椴法華村史 (蝦夷地の主要道路)

蝦夷地の主要道路 寛永十年(一六三三)将軍家光の命により諸大名視察のために派遣された幕府巡視使分部左京亮信,以上記したように江戸時代初期の蝦夷地の陸路は、はなはだおそまつなものであり宿泊設備等も完備されていなかったため,、蝦夷地に赴くには船を利用する方が便利であった。  ,は東蝦夷地に比較して陸路に難所が非常に多く、このため道路の開設も東蝦夷地よりは遅れたが、何とか松前から,このほかにも、蝦夷には各主要地点を結ぶ道路があったが、その主なものを記すと次のとおりである。    / 蝦夷地の主要道路
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の蝦夷地調査)

幕府の蝦夷地調査 赤蝦夷風説考  先に述べたごとく宝暦・天明期は、幕藩体制が全般的危磯に見舞われる,従って幕府がこの財政立直しを蝦夷地の産物俵物貿易に求めたことも確実である。,しかも、おりからこの期に入るとロシアの南下政策はいよいよ活発化し、工藤平助の『赤蝦夷風説考』などの建白,かくて幕府は天明5年、普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎、庵原弥六、皆川沖右衛門、青島俊蔵らに命じ、蝦夷地検分,それがため幕府は、この調査に際し、江戸の回船方御用達苫屋久兵衛を起用し、幕吏の蝦夷地輸送を命ずる一方、 / 幕府の蝦夷地調査
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の西蝦夷地視察)

幕吏の西蝦夷地視察 東蝦夷地の永久上知以来、松前藩が反省して幕府の東蝦夷地の処置にならい、蝦夷地住民,の撫育や警衛につとめたならば、松前および西蝦夷地は保有することができたと思われるが、しかるに、同藩には,文化2年8月、幕府は目付遠山景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行に松前および西蝦夷地の視察を命じている。,、景晋は松前に到着したが、定行は途中病気にかかり、いったん江戸に帰り、改めて翌3年松前に至り、共に西蝦夷地 / 幕吏の西蝦夷地視察
南茅部町史 下巻 (〔蝦夷地の農耕〕)

〔蝦夷地の農耕〕 享保元年(一七一六)「蝦夷地に雑穀を植えしむ」の記録がある。,元和六年(一六二〇)宣教師カルワーリュの旅行記に、「蝦夷には莢果と稗以外には米や野菜の田畑がない」と記録,水稲のない蝦夷地で松前藩も蝦夷奉行も、住民たちに田畑づくりを大いに奨励した。 / 〔蝦夷地の農耕〕
椴法華村史 (蝦夷人の大畑漂着)

蝦夷人の大畑漂着 宝暦元年(一七五一)蝦夷二人天下森浜(大畑)へ漂着有しに水粮を与かて(ママ)へす  / 蝦夷人の大畑漂着
戸井町史 ([昔の蝦夷地の船])

[昔の蝦夷地の船] 大昔の舟は、西洋も東洋も丸木舟であったということは常識である。  ,北海道は蝦夷地の名のごとく、明治初期の頃も全道各地に蝦夷が住んでいたので、丸木舟は明治時代も使われていた,蝦夷地の要所々々に運上屋のあった時代で、旅人や役人を送るために、各運上屋に蝦夷船をおき、その船に来る蝦夷,蝦夷が昆布を採る舟は丸木舟であった。,昔の蝦夷地の船は丸木舟から縄とじ船に代った時代で蝦夷時代が終り、和人時代になってからは、漁船として磯舟 / [昔の蝦夷地の船]
南茅部町史 上巻 (東蝦夷地六箇場所)

東蝦夷地六箇場所 箱館在の志海苔、小安辺は古くから昆布採り場所として和人の来住が多かった。,元文四年(一七三九)頃の蝦夷地各場所の状況を記した「蝦夷商賈聞書」は、六箇場所を知るためにも貴重な文献,市立函館図書館所蔵の蝦夷商賈聞書から六箇場所の部分を次に掲げる。        ,蝦夷商賈聞書   一 松前城下ゟ東北之蝦夷地運上所 出物之品 人間境ゟ通江地迄書記申候     是,トトホッケ(椴法華)よりヲサツベ(尾札部)までは十里と記されていて、この間に蝦夷村沢山にあり昆布大いに / 東蝦夷地六箇場所
函館市史 通説編 第二巻 (新政府の蝦夷地への関心)

新政府の蝦夷地への関心 箱館にあって杉浦兵庫頭が「人心安堵」に腐心していたころ、京都の新政府に、2月,27日青年公卿清水谷公考・高野保建の両名から蝦夷地鎮撫に関する「建議書」が提出された。,この建議書は、北蝦夷地(樺太)までを踏査してロシアの脅威を肌で感じ、蝦夷地開拓による国力強化を唱えていた,しかし、当時の新政府首脳には蝦夷地について充分な認識があったとはいえず、翌10日、三職に対して「蝦夷地開拓,であったと思われ、蝦夷地の現況認識は非常に的確なものとなっている。 / 新政府の蝦夷地への関心
函館市史 通説編 第二巻 (蝦夷地の警備)

蝦夷地の警備 蝦夷地の警備は、秋田、仙台、南部、津軽、松前の5藩が、精兵の派遣を命ぜられ、旧幕府期とほぼ,奥羽戦争の余波がいつ蝦夷地を襲うかも知れないという状況の中で、諸藩の警備兵がすべて帰還してしまった箱館,新政府は、旧幕府海軍の動きに強い関心を示し、彼ら旧幕府海軍が蝦夷地を指向していることを知っていたこともあって / 蝦夷地の警備
恵山町史 (蝦夷地の航路を開く)

蝦夷地の航路を開く 蝦夷地の経営は何と言っても安全な航海・航路の確保にある。,〈江戸・蝦夷地の航路〉  この航路の測量については、頒暦所出役堀田仁助・門人の鈴木周助らが、新造船神風丸,〈択捉の航路開拓〉  幕府にとって択捉の開発は東蝦夷地経営の重点であった。,コンブ・俵物や冬の鱈など蝦夷地の物産を、直接大消費地江戸へ運び大いに利益を得た。,特に冬季間の蝦夷地の航海はタブーであったが、南下する千島海流を利用し、正月の縁起物の新鱈を箱館から江戸 / 蝦夷地の航路を開く
函館市史 銭亀沢編 (幕府、蝦夷地の直轄を開始)

幕府、蝦夷地の直轄を開始 徳川幕府が蝦夷地に関心を示し、蝦夷地の調査がおこなわれると銭亀沢の村むらの,幕府は蝦夷地調査の実施後しばらくして、ロシアの南下から蝦夷地を守るためと蝦夷地の海産物を直接取扱うことを,最初は蝦夷地取扱御用掛が経営を担当したが、享和二(一八〇二)年には蝦夷地奉行(すぐに箱館奉行と改められる,の主高札は文化元(一八〇四)年の「定」で、異国人との交易交際の厳禁、蝦夷人との商売は厳禁、蝦夷人に非分,このようにして始まった幕府による蝦夷地の直轄であったが、文政四(一八二一)年十二月、蝦夷地は再び松前藩 / 幕府、蝦夷地の直轄を開始
南茅部町史 下巻 (〔蝦夷地の海路〕)

〔蝦夷地の海路〕 蝦夷地の昔、昆布商売といって、和人は昆布採取のため亀田(箱館)近在から小舟で来るようになる,元文年間(一七三九)の蝦夷商賈聞書には「トヱ(戸井)シリキシナイ(恵山)トトホッケゟヲサツベ迄」みな小舟 / 〔蝦夷地の海路〕
椴法華村史 (松前藩の対蝦夷政策)

松前藩の対蝦夷政策 慶長年間(一五九六-一六一五)亀田に番所を設置したころの松前藩の対蝦夷政策は、なるべく,すなわち前にも記したように、従来から和人地に居住しているアイヌ人は別として、和人は蝦夷地へ、アイヌ人は / 松前藩の対蝦夷政策
函館市史 通説編 第一巻 (蝦夷地取締御用掛任命)

蝦夷地取締御用掛任命 こうして同年12月、特に書院番頭松平信濃守忠明を抜てきして蝦夷地警衛の事に当らせ,年正月、勘定奉行石川左近将監忠房、目付羽太庄左衛門正義、および大河内政寿、三橋成方にも同様の命が出、蝦夷地,                             三橋藤右衛門 今度異国境御取締仰付けられ候に付、東奥蝦夷地,は万端其方共差図に任せ候様、若狭守え申渡し候間其意を得られ、尚土地の様子も追々申談の上見分これ有り、蝦夷人教育 / 蝦夷地取締御用掛任命
函館市史 通説編 第一巻 (阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫)

阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫 そもそも蝦夷地が渡島の名で日本の国史の上にあらわれてくるのは、7世紀の中葉,、すなわち、『日本書記』の斉明天皇5(659)年、阿倍の臣の遠征が記録され、その時「問菟(トピウ)の蝦夷胆鹿島,その後も律令国家による征討がくりかえされ、持統天皇10(696)年3月の条に、越渡島の蝦夷伊奈理武志(,は越国守の管轄下にあったが、この時越国から出羽国に分け、蝦夷地をその国主の管轄下に置くようになった。,また養老2(718)年8月には、出羽および渡島の蝦夷86人が上京し、馬千疋(10匹の誤りか)を通貢した / 阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫
函館市史 通説編 第一巻 (箱館東蝦夷地の中心となる)

箱館東蝦夷地の中心となる 幕府は、東蝦夷地直轄と同時に東蝦夷地の場所請負人を廃して直捌とし、産物は一手,高田屋は兵庫・大坂の外に箱館を本拠としたので、箱館は、東蝦夷地の中心として、行政上のみならず経済的にも / 箱館東蝦夷地の中心となる
函館市史 通説編 第一巻 (蠣崎氏の蝦夷地掌握)

蠣崎氏の蝦夷地掌握 しかるに永正10年、「六月二十七日の早朝、夷狄発向し来りて、松前の大館を攻め落し,には「蠣崎光広大館を攻め、相原氏、村上氏を滅ぼす」(『福山旧事記』)というのが真相らしく、これによって蝦夷地,この時尋季は、はじめて義広の書状を被見し、使者の口上を聞き、蝦夷島を蠣崎氏にあずけ、よろしく国内を守護 / 蠣崎氏の蝦夷地掌握
函館市史 別巻 亀田市編 (蝦夷蜂起)

蝦夷蜂起 『新羅之記録』によれば康正二(一四五六)年志苔の鍛冶屋村でアイヌ人が和人の鍛冶屋に小刀(マキリ / 蝦夷蜂起
函館市史 通説編 第一巻 (箱館及び蝦夷地の警衛)

箱館及び蝦夷地の警衛 蝦夷地の取締り及び警衛も箱館奉行の重要な任務であった。,一方、蝦夷地全域の取締り、警備については、安政3年東蝦夷地は室蘭、様似、厚岸、国後、択捉の5か所、西蝦夷地,は寿都、石狩、留萌、北蝦夷地(樺太)の4か所に、幕吏が詰合い、それぞれ持場を設けて管理させた。 / 箱館及び蝦夷地の警衛
函館市史 通説編 第一巻 (和人渡来と蝦夷の歌枕)

和人渡来と蝦夷の歌枕 その後、和人の渡来もいよいよ多く、ことに延暦年間(782~805)以降、天喜、,の際、戦いに破れてのがれ渡るものや、北陸道の辺りから、産物交易に通い、後永住した者もあったと伝え(『蝦夷島奇観,』)、しだいに和人との接触がはげしくなると、辺境の蝦夷の風聞が京の文人の間にも注目をひき、平安の後期に / 和人渡来と蝦夷の歌枕
函館市史 別巻 亀田市編 (榎本軍の蝦夷地上陸)

榎本軍の蝦夷地上陸 榎本軍鷲の木上陸(市立函館図書館蔵)  慶応三(一八六七)年、大政奉還が行,士官隊、陸軍隊、新撰組など三、〇〇〇名を乗艦させ、開陽、回天、蟠龍、長鯨、神速、大江、鳳凰の各艦船で蝦夷地 / 榎本軍の蝦夷地上陸
函館市史 銭亀沢編 (明治維新政府蝦夷地の経営に着手)

明治維新政府蝦夷地の経営に着手 明治維新新政府は、蝦夷地経営のために人を派遣することを決定し、慶応四,しかし、箱館府が政務の緒に着いた十月、榎本武揚らの旧幕府脱走軍が蝦夷地を襲い、すぐさま掌握してしまった,榎本らが江戸に護送され、蝦夷地の経営は一旦箱館府の手に帰したが、七月八日、中央の官制改革で開拓使が設置,三十日には開拓使出張所が開庁、北海道(八月十五日に蝦夷を北海道と改称)経営の統轄を開拓使が担当することとなった,なお蝦夷を北海道と改めた時、全道を一一か国八六郡に区画することも同時に布達されている。 / 明治維新政府蝦夷地の経営に着手
函館市史 通説編 第二巻 (役員選挙と蝦夷地領有宣言式)

役員選挙と蝦夷地領有宣言式 脱走軍は、徳川家による蝦夷地開拓の許可がおり、血胤者の派遣をみるまでの措置,我々は一月二十七日(陰暦十二月十五日)に蝦夷全島を事実上我々の占有としたことを厳かに宣言しようと思います,敬具       蝦夷政権の名のもとに     陸軍司令官 (署名)松平太郎     海軍大将   (,が行われ、入札(表1-8)によって蝦夷島総裁榎本釜次郎、副総裁松平太郎以下の諸役が決定された(図1-1,なお、終始「徳川脱藩家臣」を標傍した彼らの仮政権には「蝦夷共和国」と呼べるようなものはなく、公選という / 役員選挙と蝦夷地領有宣言式
恵山町史 (2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より)

2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より この時代の郷土の交通状況について,詳細かつ正確に記されているのが、松浦武四郎の蝦夷地探検の記録『蝦夷日誌』である。  ,武四郎の蝦夷地探検は、初航、弘化2年(1845年)から翌3,4年(1846・7)の再航、嘉永2年(1849,此上に蝦夷の大王の昔し住しと云館跡ありと聞り、其処より今に古器物を掘出す事有りと。,松浦武四郎の『蝦夷日誌』にみる渡島の道  以上、郷土の道の『蝦夷日誌・巻之五』から、郷土の行程・距離 / 2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より
南茅部町史 上巻 ([蝦夷行程記])

[蝦夷行程記] 蝦夷行程記は安政三年に阿部喜任将翁が誌し、松浦武四郎が校訂した箱館近在の西部(西廻り,蝦夷行程記           巻之上 西部 西廻り之部           巻之下 東部 東廻り / [蝦夷行程記]
函館市史 別巻 亀田市編 (松前藩の蝦夷地統一と番所の設置)

松前藩の蝦夷地統一と番所の設置 康正二(一四五六)年や永正九(一五一二)年のアイヌ人の蜂起により、宇須岸,としてではあるが入港の商船や旅人より税を徴収するようになり、天文二十(一五五一)年には武田季広は東西の蝦夷,このような状況の中で蛎崎慶広(松前氏第五代)は文禄二(一五九三)年豊臣秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ、蝦夷島主,この後更に慶広は慶長九(一六〇四)年徳川家康からも黒印の制書を受け、名実ともに蝦夷地の支配者となり、松前氏 / 松前藩の蝦夷地統一と番所の設置
恵山町史 ([幕府の蝦夷地直轄と道路行政])

[幕府の蝦夷地直轄と道路行政] 寛政11年(1799年)8月、幕府は、北辺防備の強化・奥地開発と経済的利益,の幕府主導を図り、松前藩がこれまで統治していた蝦夷地全域の内、東蝦夷地(知内村から箱館銭亀沢村・小安村以東,そして、この東蝦夷地の、①場所請負人制度(註1)・運上屋(註2)を廃止する②道路を開き会所(註3)を建,文化4年(1807年)幕府は、さらに東・西蝦夷地(蝦夷全島)直轄の令を発し、それと同時に奉行所を松前の / [幕府の蝦夷地直轄と道路行政]
恵山町史 (2、開国・蝦夷地の再直轄)

2、開国・蝦夷地の再直轄 開港・開国をせまり頻繁に来航する外国船の対応に、幕府の苦悩はさらに深いものがあった,同年9月には、目付の堀利煕、村垣範正に蝦夷地視察(樺太を含むロシアの進出状況)を命じた。  ,幕府は、堀・村垣の復命書(蝦夷地処分に関する上申)を検討し、翌1855年(安政2年)2月22日、木古内以東,、箱館六ケ場所を含む東蝦夷地、乙部以北熊石村を含む西蝦夷地と島々を含め再び幕府直轄地とし、その管轄は箱館奉行,産業・科学技術・文化・軍事力、全ての面で進んでいるアメリカやヨーロッパの国々の巨船が、蝦夷地の箱館にやって / 2、開国・蝦夷地の再直轄
恵山町史 (3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村)

3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村 『松前島郷帳』と『松前蝦夷図』  1697年,、西は乙部から東は石崎までの形式的なものであったが、このとき調製、関係あると思われるれたものが『松前蝦夷図,<松前島郷帳 一七〇〇年(元禄十三年)>  従二松前一東在郷并蝦夷地之覚  おやす村  うか川村, 汐くひ村  従レ是蝦夷地  はらき  しりきし内  ゑきし内  こぶい  ねた内,」これより蝦夷地とアイヌの居住地であることが明記されている。 / 3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村
函館市史 通説編 第一巻 (寛文の蝦夷乱と亀田・箱館)

寛文の蝦夷乱と亀田・箱館 寛文9(1669)年夏、日高染退(しぶちゃり、静内)の酋長シャクシャインが,その間、隠密牧只右衛門、秋元六左衛門の2人に命じて各地に派遣し、蝦夷地の実情を探索して書きつづったのが / 寛文の蝦夷乱と亀田・箱館
恵山町史 ([松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社])

[松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社] 北海道名・国郡名の名付け親でもあり、古今稀な旅行家,・探検家である松浦武四郎は、蝦夷地の探検も6回に及んでいる。,年(1849年)の第3航を終えた翌年の嘉永3年、当時33歳であった武四郎は初航以来の備忘録を整理し『蝦夷日誌 / [松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社]
恵山町史 (蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より)

蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より 「扨(さて)、是より登山するに村中に華表(鳥居のような標識)有。,を立てたり、中宮を設けたりしていることから、恵山大権現は1800年代中頃には、地元は勿論、松前城下や蝦夷地 / 蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より
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