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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 別巻 亀田市編 (蝦夷地直轄)

蝦夷地直轄 箱館嶴地図(蝦夷島奇観) 市立函館図書館蔵  寛政十一(一七九九)年一月十六日、幕府,は外国との境界取締りのため、松前氏から東蝦夷地の内、浦河より知床に至る地と島々を上地させ、七年を限りこれを,直轄することにし、同日蝦夷地取締御用掛を置いた。,の五千石と東蝦夷地収入金の一部を支給することにした。  ,には蝦夷奉行は箱館奉行と改められ、更に同年七月には箱館付近及び東蝦夷地は永久直轄地とされた。   / 蝦夷地直轄
函館市史 通説編 第一巻 (蝦夷地の上知)

蝦夷地の上知 幕府はこれらの意見書を勘定奉行などに示して、その意見を求めたところ、消極的ではあったが,上知の必要を力説したので、幕府は同年2月23日、松前藩に達して、東部木古内村以東、西部乙部村以北、東西蝦夷地島々,同年3月5日、西在および東西蝦夷地の版図を松前氏から受取り、東蝦夷地へは箱館奉行支配組頭河津祐邦、西蝦夷地,および北蝦夷地へは、同向山篤を遣わして各場所を引き継がせた。 / 蝦夷地の上知
函館市史 通説編 第一巻 (東蝦夷地上知)

東蝦夷地上知 また、同時に松前章広に対しても左の命があった。,#160;                   松前若狭守 今度異国境御取締仰付けられ候に付、東蝦夷地,に赴くには、松前藩領である箱館地方および蝦夷地を通過しなければならぬ不便があり、松前藩もまた煩労が多いため,松前家に対しては用地の全部の代地として、武州埼玉郡久喜町において5000石を賜わり、なお東蝦夷地収納金,このため箱館は幕府の直轄地に編入され、東蝦夷地経営の根拠地となり、発展すべき好運に当面したのである。 / 東蝦夷地上知
函館市史 通説編 第一巻 (西蝦夷地の上知)

西蝦夷地の上知 この結果、松前藩には辺境を守る実力のないことが、いよいよ明白となったので、幕府は文化,4年3月22日、松前章広から松前、西蝦夷地を上知させることに決し、蝦夷地全域を直轄支配するに至った。,                           松前若狭守 蝦夷地の儀は古来より其方家,にて進退いたし来り候得共、異国へ接し、島々万端の手当整え難き様子に付、先達て東蝦夷地上地仰出され、公儀,西蝦夷地の儀も非常の備えなど其方手限り行届き難き段申立、外国国境容易ならざる事に思召され候間、此度松前西蝦夷地一円召上 / 西蝦夷地の上知
函館市史 通説編 第一巻 (蝦夷が島)

蝦夷が島 北海道は古くは渡島(わたりしま)、あるいは越渡島(こしのわたりしま)ともいわれていた所である,ここに住む民族は蝦夷と呼ばれていたところから、近世に至っては蝦夷地とか、または蝦夷が島と称され、自らを,このような蝦夷地の函館周辺の人々が、津軽海峡をへだてた本土方面の人々と交渉をもつようになったのはいつころからであろうか,いまそれを明らかにする文献はないが、両地をへだてる海峡はせまく、古くから往来があったことは、前編に述ぺたように / 蝦夷が島
恵山町史 ([蝦夷地の馬])

蝦夷地の交通運輸について、馬の果たした役割は非常に大きい。,・寛政元年(1789年)の蝦夷乱討伐の際、松前藩は、東蝦夷地サワラ(砂原)から、エトモ(室蘭)までの間,、西在(西蝦夷地)34ケ村中、馬持村28ケ村。,・文化3年(1806年)西蝦夷地の岩内場所で馬を移入し、硫黄山の運搬に使用した記録があり、これが西蝦夷地,翌年、シラヌカ(白糠)アバシリ(網走)間の道路が開削され、馬を東蝦夷地から西蝦夷地に送られ、斜里・宗谷 / [蝦夷地の馬]
函館市史 通説編 第二巻 (蝦夷地と箱館と)

蝦夷地と箱館と 次に第2期の箱館奉行の任務についてみると、安政2年2月24日の箱館奉行に対する老中達,(「覚」)に、「今般東西蝦夷地島々一円上知被二仰付一、右場所都而其方共江御預被二仰付一候ニ付、御警衛向,松前地)内の幕領地と蝦夷地全域(同地に居住するアイヌ民族を含む)の統治、(ロ)箱館開港に伴う対外関係の,処理、(ハ)松前・蝦夷地の海岸防備、の3点であった。  ,また、上記の問題と関連して、この期の対蝦夷地・アイヌ民族対策のあり方を前幕領期のそれと比較すると、北蝦夷地 / 蝦夷地と箱館と
恵山町史 (1、蝦夷地の直轄)

幕府は1785年(天明5年)最初の蝦夷地調査以来、たびたび幕吏を派遣して調査や交易を行い、松前藩の蝦夷地経営状況,を様似まで、三橋成方は西蝦夷地を宗谷まで、それぞれの地を視察し、11月江戸へ帰り復命。,幕府はその報告を評議し、遂に蝦夷地の経営を幕府が直轄して行うことに決定し、年明けて1月、蝦夷地取締御用係,1799年(寛政11年)8月、幕府は、東蝦夷地知内川より知床岬に至る地を幕府直轄地と決め、経営に乗り出,も取り上げ、蝦夷地全域を直轄地として支配することとした。 / 1、蝦夷地の直轄
椴法華村史 (蝦夷地の病気)

蝦夷地の病気 蝦夷地においては古くから疫病の発生がみられ、中でも疱瘡の流行は、保健知識や医療機関の全,古い時代から何度か流行が繰り返された疫病の中から、下海岸地方と関係があるものと思われるものについて、次,寛永の天然痘流行  寛永元年(一六二四)初夏から二、三年にかけて天然痘が流行し、和人・蝦夷人で死ぬ者,疱瘡が流行し、蝦夷人は山奥へ逃げ去った(『松前年歴捷徑』)  文化六年尾札部の痘瘡流行  文化六年,弘化二年より四年に至る(一八四五―四七)記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』は、この時のことについて / 蝦夷地の病気
函館市史 通説編 第一巻 (蝦夷地経営の方針)

蝦夷地経営の方針 寛政期の箱館の図 「蝦夷島奇観」より  蝦夷地経営にあたっては、蝦地夷御用掛五有司,しかるに松前家は弱少であって広大な蝦夷地を制御することが出来ないので、場所をわけて商人に托し運上金を徴収,が松前を恨んでいるよしを聞き、しだいにわが属島20を蚕食し、なお船を東蝦夷地にまで送ってその機をうかがっている,よってその警衛を命じられたのであるが、蝦夷地は四面海をめぐらし、土地もまた広大であるから、城砦を築いて,江戸にあって事に当り、松平忠明以下は2月から3月までに江戸を出発して箱館に至り、それぞれ部署を定めて蝦夷地 / 蝦夷地経営の方針
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の蝦夷地調査)

幕府の蝦夷地調査 幕府では、ロシア人の北方諸島進出の確認、たび重なる蝦夷地近海の外国船の出没や、あるいは,寛政10年(1798)年、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方らに命じて、蝦夷地,一行は5月福山に到着すると、渡辺胤はここに留まり、大河内政寿は東蝦夷地を巡回して様似に至り、その別動隊,として配下の近藤重蔵は最上徳内を案内として国後・択捉までを踏査し、三橋成方は西蝦夷地を巡視して宗谷に至,閣老らはこの復命に基づいて評議の結果、ついに蝦夷地の経営を幕府みずからの手で行うことに決定したのである / 幕府の蝦夷地調査
戸井町史 ([蝦夷地と馬])

[蝦夷地と馬] 中国では昔、南の方では船が交通、運輸の機関であり、北の方は馬を使ったので、「南船北馬,『松前蝦夷記』には、享保二年(一七一七)に東西和人地で馬を飼育していたと書かれている。,以上のことは、和人地の馬の飼育状況であるが、馬が蝦夷地にはいったのは、寛政元年(一七八九)の蝦夷乱討伐,この牛馬、年々子を生じて、今は蝦夷地に満ちみちたり」と。  ,を組んで、西は熊石、東は石崎まで来て、毎回蝦夷が巡見使に謁見したので、道南の蝦夷はシャマニ以東の蝦夷のように / [蝦夷地と馬]
椴法華村史 (蝦夷地の主要道路)

蝦夷地の主要道路 寛永十年(一六三三)将軍家光の命により諸大名視察のために派遣された幕府巡視使分部左京亮信,以上記したように江戸時代初期の蝦夷地の陸路は、はなはだおそまつなものであり宿泊設備等も完備されていなかったため,、蝦夷地に赴くには船を利用する方が便利であった。  ,は東蝦夷地に比較して陸路に難所が非常に多く、このため道路の開設も東蝦夷地よりは遅れたが、何とか松前から,このほかにも、蝦夷には各主要地点を結ぶ道路があったが、その主なものを記すと次のとおりである。    / 蝦夷地の主要道路
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の蝦夷地調査)

幕府の蝦夷地調査 赤蝦夷風説考  先に述べたごとく宝暦・天明期は、幕藩体制が全般的危磯に見舞われる,従って幕府がこの財政立直しを蝦夷地の産物俵物貿易に求めたことも確実である。,かくて幕府は天明5年、普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎、庵原弥六、皆川沖右衛門、青島俊蔵らに命じ、蝦夷地検分,それがため幕府は、この調査に際し、江戸の回船方御用達苫屋久兵衛を起用し、幕吏の蝦夷地輸送を命ずる一方、,をおさえ、たとえそれが手先のものの不正とはいえ、松前藩の取締り不行届の責めは免れられないものとして、後に東蝦夷地上地 / 幕府の蝦夷地調査
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の西蝦夷地視察)

幕吏の西蝦夷地視察 東蝦夷地の永久上知以来、松前藩が反省して幕府の東蝦夷地の処置にならい、蝦夷地住民,の撫育や警衛につとめたならば、松前および西蝦夷地は保有することができたと思われるが、しかるに、同藩には,文化2年8月、幕府は目付遠山景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行に松前および西蝦夷地の視察を命じている。,、景晋は松前に到着したが、定行は途中病気にかかり、いったん江戸に帰り、改めて翌3年松前に至り、共に西蝦夷地 / 幕吏の西蝦夷地視察
南茅部町史 下巻 (〔蝦夷地の農耕〕)

〔蝦夷地の農耕〕 享保元年(一七一六)「蝦夷地に雑穀を植えしむ」の記録がある。,元和六年(一六二〇)宣教師カルワーリュの旅行記に、「蝦夷には莢果と稗以外には米や野菜の田畑がない」と記録,水稲のない蝦夷地で松前藩も蝦夷奉行も、住民たちに田畑づくりを大いに奨励した。 / 〔蝦夷地の農耕〕
南茅部町史 上巻 (松前蝦夷図)

松前蝦夷図 松前蝦夷図  享保三年(一七一八)       おやす村   是より東はま(浜)通り馬足相叶,ひ不申候       うか川村       汐くひ村   是より夷地 岩つゝき、小舟ノ間在り       ,つくのつへ       かやへ       おとしつへ  此間おつとせい有り       のたゑ  蝦夷図,には、島郷帳に記されていない「ゑさんの崎・なかはま・うすしり・つくのつへ・かやへ」までの地名が書きとめられている,このはまどお)りこんぶ有(あ)り」と記されていることは、「おとしつへ・此間おっとせい有り」というのと同じく土地の / 松前蝦夷図
南茅部町史 上巻 (東蝦夷地六箇場所)

東蝦夷地六箇場所 箱館在の志海苔、小安辺は古くから昆布採り場所として和人の来住が多かった。,元文四年(一七三九)頃の蝦夷地各場所の状況を記した「蝦夷商賈聞書」は、六箇場所を知るためにも貴重な文献,市立函館図書館所蔵の蝦夷商賈聞書から六箇場所の部分を次に掲げる。        ,蝦夷商賈聞書   一 松前城下ゟ東北之蝦夷地運上所 出物之品 人間境ゟ通江地迄書記申候     是,新五左衛門殿江納ル    此ヲシャマ(ン)ベト申所ゟ西海ノスツツト申所江越ル道アリ    この聞書は蝦夷地 / 東蝦夷地六箇場所
戸井町史 ([昔の蝦夷地の船])

[昔の蝦夷地の船] 大昔の舟は、西洋も東洋も丸木舟であったということは常識である。  ,北海道は蝦夷地の名のごとく、明治初期の頃も全道各地に蝦夷が住んでいたので、丸木舟は明治時代も使われていた,蝦夷地は荒磯が多く、良い港が少かったので、どこへでも船を寄せ、陸地へ引揚げ、夜になれば、附近の木を切って,蝦夷地の要所々々に運上屋のあった時代で、旅人や役人を送るために、各運上屋に蝦夷船をおき、その船に来る蝦夷,昔の蝦夷地の船は丸木舟から縄とじ船に代った時代で蝦夷時代が終り、和人時代になってからは、漁船として磯舟 / [昔の蝦夷地の船]
函館市史 通説編 第二巻 (新政府の蝦夷地への関心)

27日青年公卿清水谷公考・高野保建の両名から蝦夷地鎮撫に関する「建議書」が提出された。,この建議書は、北蝦夷地(樺太)までを踏査してロシアの脅威を肌で感じ、蝦夷地開拓による国力強化を唱えていた,しかし、当時の新政府首脳には蝦夷地について充分な認識があったとはいえず、翌10日、三職に対して「蝦夷地開拓,であったと思われ、蝦夷地の現況認識は非常に的確なものとなっている。,最後に、開拓振興策に言及した第5項では蝦夷地枢要の地石狩近辺を開拓の根拠地とすること、第7項では請負人 / 新政府の蝦夷地への関心
函館市史 通説編 第二巻 (蝦夷地の警備)

蝦夷地の警備 蝦夷地の警備は、秋田、仙台、南部、津軽、松前の5藩が、精兵の派遣を命ぜられ、旧幕府期とほぼ,奥羽戦争の余波がいつ蝦夷地を襲うかも知れないという状況の中で、諸藩の警備兵がすべて帰還してしまった箱館,新政府は、旧幕府海軍の動きに強い関心を示し、彼ら旧幕府海軍が蝦夷地を指向していることを知っていたこともあって / 蝦夷地の警備
恵山町史 (蝦夷地の航路を開く)

蝦夷地の航路を開く 蝦夷地の経営は何と言っても安全な航海・航路の確保にある。,〈江戸・蝦夷地の航路〉  この航路の測量については、頒暦所出役堀田仁助・門人の鈴木周助らが、新造船神風丸,〈択捉の航路開拓〉  幕府にとって択捉の開発は東蝦夷地経営の重点であった。,コンブ・俵物や冬の鱈など蝦夷地の物産を、直接大消費地江戸へ運び大いに利益を得た。,特に冬季間の蝦夷地の航海はタブーであったが、南下する千島海流を利用し、正月の縁起物の新鱈を箱館から江戸 / 蝦夷地の航路を開く
南茅部町史 上巻 ([蝦夷日誌])

[蝦夷日誌] 蝦夷地に関する古文書は多いが、郷土南茅部を書き記したものは、道史の古文書、文献の中では,東蝦夷地へ陸路を行くときは、箱館より亀田、大野、大沼、茅部(砂原)よりエトモ(室蘭)へ向かう。  ,道央や東蝦夷地へ向かう旅程に、郷土がその道筋に入ることはほとんどなかったから、古い文献に登場することは,蝦夷日誌を編んだとき、巻五にこれを合わせて誌している。  ,旅にゆき、行く所の地名行程を記し、触れるもの、見るもの、聞いたこと、会った人のことまで詳しく誌している / [蝦夷日誌]
函館市史 通説編 第一巻 (寛政の蝦夷乱)

寛政の蝦夷乱 寛政の蝦夷乱要図 「根室市史」より  しかし、北辺の情勢は決して穏やかなものではなかった,ロシア問題が一応落着し、これから旧に復さんとする折から、またしても勃発したのが寛政の蝦夷乱である。,この蝦夷乱は、すなわち寛政元(1789)年5月、飛騨屋久兵衛の請負地である、国後および霧多布場所の一環,もかたのごとく衰へ、松前家をうらむるよしを伝へきゝ、奥蝦夷地の島々より段々なづけ、既に廿嶋ばかりもおのれが,有となし、猶前に記す如く、ヲロシヤ人度々東蝦夷地の内へ渡来し、是を伺ふことしきりなり。」 / 寛政の蝦夷乱
函館市史 銭亀沢編 (幕府、蝦夷地の直轄を開始)

幕府、蝦夷地の直轄を開始 徳川幕府が蝦夷地に関心を示し、蝦夷地の調査がおこなわれると銭亀沢の村むらの,幕府は蝦夷地調査の実施後しばらくして、ロシアの南下から蝦夷地を守るためと蝦夷地の海産物を直接取扱うことを,主目的として、蝦夷地をまず仮に直轄地とした。,最初は蝦夷地取扱御用掛が経営を担当したが、享和二(一八〇二)年には蝦夷地奉行(すぐに箱館奉行と改められる,このようにして始まった幕府による蝦夷地の直轄であったが、文政四(一八二一)年十二月、蝦夷地は再び松前藩 / 幕府、蝦夷地の直轄を開始
戸井町史 (一、蝦夷時代の概観)

一、蝦夷時代の概観 天正十八年(一五九〇)蠣崎慶広が豊臣秀吉から蝦夷地の領有権を認められる以前を蝦夷時代,こういう状態であったため、蝦夷地に渡った和人の事蹟を蝦夷の残したもので知ることはできない。,蝦夷の反乱時代は、和人の勢力範囲は松前を中心とした狭い地域で、蝦夷の勢力範囲は松前藩の勢力の及ぶ地域を,蝦夷をその支配下においたのは、信広より五代目の蠣崎慶広が、豊臣秀吉から蝦夷地の領有権を与えられた天正十八年,道具類がこのころから蝦夷地に普及したことが推定される。 / 一、蝦夷時代の概観
函館市史 通説編 第一巻 (蝦夷地取締御用掛任命)

蝦夷地取締御用掛任命 こうして同年12月、特に書院番頭松平信濃守忠明を抜てきして蝦夷地警衛の事に当らせ,年正月、勘定奉行石川左近将監忠房、目付羽太庄左衛門正義、および大河内政寿、三橋成方にも同様の命が出、蝦夷地,                             三橋藤右衛門 今度異国境御取締仰付けられ候に付、東奥蝦夷地,の内、島々まで当分御用地に相成り、其方共御用仰付けられ候。,万端其方共差図に任せ候様、若狭守え申渡し候間其意を得られ、尚土地の様子も追々申談の上見分これ有り、蝦夷人教育 / 蝦夷地取締御用掛任命
南茅部町史 下巻 (〔蝦夷地の海路〕)

〔蝦夷地の海路〕 蝦夷地の昔、昆布商売といって、和人は昆布採取のため亀田(箱館)近在から小舟で来るようになる,元文年間(一七三九)の蝦夷商賈聞書には「トヱ(戸井)シリキシナイ(恵山)トトホッケゟヲサツベ迄」みな小舟 / 〔蝦夷地の海路〕
函館市史 通説編 第一巻 (箱館東蝦夷地の中心となる)

箱館東蝦夷地の中心となる 幕府は、東蝦夷地直轄と同時に東蝦夷地の場所請負人を廃して直捌とし、産物は一手,高田屋は兵庫・大坂の外に箱館を本拠としたので、箱館は、東蝦夷地の中心として、行政上のみならず経済的にも / 箱館東蝦夷地の中心となる
函館市史 通説編 第一巻 (蠣崎氏の蝦夷地掌握)

蠣崎氏の蝦夷地掌握 しかるに永正10年、「六月二十七日の早朝、夷狄発向し来りて、松前の大館を攻め落し,には「蠣崎光広大館を攻め、相原氏、村上氏を滅ぼす」(『福山旧事記』)というのが真相らしく、これによって蝦夷地,この時尋季は、はじめて義広の書状を被見し、使者の口上を聞き、蝦夷島を蠣崎氏にあずけ、よろしく国内を守護 / 蠣崎氏の蝦夷地掌握
函館市史 通説編 第一巻 (箱館及び蝦夷地の警衛)

箱館及び蝦夷地の警衛 蝦夷地の取締り及び警衛も箱館奉行の重要な任務であった。,一方、蝦夷地全域の取締り、警備については、安政3年東蝦夷地は室蘭、様似、厚岸、国後、択捉の5か所、西蝦夷地,は寿都、石狩、留萌、北蝦夷地(樺太)の4か所に、幕吏が詰合い、それぞれ持場を設けて管理させた。,すなわち、南部の兵は本営を箱館字水元(現元町配水地下辺一帯)に置き、箱館から幌別に至る地、ならびに夏分,松前藩は戸切地村に陣屋を設けて、七重浜から上磯一帯の地を守った。 / 箱館及び蝦夷地の警衛
函館市史 別巻 亀田市編 (榎本軍の蝦夷地上陸)

榎本軍の蝦夷地上陸 榎本軍鷲の木上陸(市立函館図書館蔵)  慶応三(一八六七)年、大政奉還が行,明治新政府が誕生したが、旧徳川家臣の大部分は職を失って路頭に迷い、また、新政府のやり方に不満の武士たちは各地で,士官隊、陸軍隊、新撰組など三、〇〇〇名を乗艦させ、開陽、回天、蟠龍、長鯨、神速、大江、鳳凰の各艦船で蝦夷地 / 榎本軍の蝦夷地上陸
椴法華村史 (松前藩の対蝦夷政策)

松前藩の対蝦夷政策 慶長年間(一五九六-一六一五)亀田に番所を設置したころの松前藩の対蝦夷政策は、なるべく,すなわち前にも記したように、従来から和人地に居住しているアイヌ人は別として、和人は蝦夷地へ、アイヌ人は,和人地へ居住してはいけないと定めていた。,しかし当下海岸地方は、室町時代から京・大阪に知られた昆布の名産地であり、昆布をはじめとする海産物を求めた,和人達は、なんとかこれらの地に進出しようとしており、またこの地方は極く和人地に近いため、居住のアイヌ人 / 松前藩の対蝦夷政策
函館市史 銭亀沢編 (明治維新政府蝦夷地の経営に着手)

明治維新政府蝦夷地の経営に着手 明治維新新政府は、蝦夷地経営のために人を派遣することを決定し、慶応四,しかし、箱館府が政務の緒に着いた十月、榎本武揚らの旧幕府脱走軍が蝦夷地を襲い、すぐさま掌握してしまった,榎本らが江戸に護送され、蝦夷地の経営は一旦箱館府の手に帰したが、七月八日、中央の官制改革で開拓使が設置,なお蝦夷を北海道と改めた時、全道を一一か国八六郡に区画することも同時に布達されている。,表1・1・4 箱館奉行から箱館裁判所へ引き継がれた町と村 「慶応四年箱館地方及蝦夷地引渡演説書」『函館市史 / 明治維新政府蝦夷地の経営に着手
函館市史 通説編 第一巻 (阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫)

阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫 そもそも蝦夷地が渡島の名で日本の国史の上にあらわれてくるのは、7世紀の中葉,、すなわち、『日本書記』の斉明天皇5(659)年、阿倍の臣の遠征が記録され、その時「問菟(トピウ)の蝦夷胆鹿島,その後も律令国家による征討がくりかえされ、持統天皇10(696)年3月の条に、越渡島の蝦夷伊奈理武志(,住民の綏撫(すいぶ)が盛んにはかられ、その効果があらわれたのをみて、和銅5(712)年9月には、従来蝦夷地,は越国守の管轄下にあったが、この時越国から出羽国に分け、蝦夷地をその国主の管轄下に置くようになった。 / 阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫
函館市史 通説編 第二巻 (役員選挙と蝦夷地領有宣言式)

役員選挙と蝦夷地領有宣言式 脱走軍は、徳川家による蝦夷地開拓の許可がおり、血胤者の派遣をみるまでの措置,我々は一月二十七日(陰暦十二月十五日)に蝦夷全島を事実上我々の占有としたことを厳かに宣言しようと思います,敬具       蝦夷政権の名のもとに     陸軍司令官 (署名)松平太郎     海軍大将   (,署名)榎本釜次郎 (「イギリス外務省文書″日本通信″」)         12月15日、蝦夷地領有宣言式,2年1月15日、高尾丸(原名アシュロット)で200人余が、蝦夷地開拓の基地と決めたモロラン(室蘭)へ向 / 役員選挙と蝦夷地領有宣言式
函館市史 別巻 亀田市編 (蝦夷蜂起)

蝦夷蜂起 『新羅之記録』によれば康正二(一四五六)年志苔の鍛冶屋村でアイヌ人が和人の鍛冶屋に小刀(マキリ,鵡川から西は余市付近まで進出していた和人勢力を追い払い、翌長禄元(一四五七)年酋長コシャマイン(出身地不詳,におしよせ、当時道南の海岸線にあった十二館のうち、十館を次々に陥れ、和人側はかろうじて茂別(現上磯町字茂辺地),国町)の二館を残すのみとなったが、この時花沢館にいた武田信広がようやくコシャマイン父子を射殺し、和人地を / 蝦夷蜂起
函館市史 別巻 亀田市編 (松前藩の蝦夷地統一と番所の設置)

松前藩の蝦夷地統一と番所の設置 康正二(一四五六)年や永正九(一五一二)年のアイヌ人の蜂起により、宇須岸,としてではあるが入港の商船や旅人より税を徴収するようになり、天文二十(一五五一)年には武田季広は東西の蝦夷,このような状況の中で蛎崎慶広(松前氏第五代)は文禄二(一五九三)年豊臣秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ、蝦夷島主,この後更に慶広は慶長九(一六〇四)年徳川家康からも黒印の制書を受け、名実ともに蝦夷地の支配者となり、松前氏,は政治の中心を本拠地松前の地に置き、その支配地である和人地の両端、西は熊石、東は亀田の地に番所を設置した / 松前藩の蝦夷地統一と番所の設置
恵山町史 ([幕府の蝦夷地直轄と道路行政])

[幕府の蝦夷地直轄と道路行政] 寛政11年(1799年)8月、幕府は、北辺防備の強化・奥地開発と経済的利益,の幕府主導を図り、松前藩がこれまで統治していた蝦夷地全域の内、東蝦夷地(知内村から箱館銭亀沢村・小安村以東,そして、この東蝦夷地の、①場所請負人制度(註1)・運上屋(註2)を廃止する②道路を開き会所(註3)を建,文化4年(1807年)幕府は、さらに東・西蝦夷地(蝦夷全島)直轄の令を発し、それと同時に奉行所を松前の,地に移し松前奉行と改称、松前藩主松前章広は陸奥梁川に移され9千石を与えられた。     / [幕府の蝦夷地直轄と道路行政]
恵山町史 (2、開国・蝦夷地の再直轄)

2、開国・蝦夷地の再直轄 開港・開国をせまり頻繁に来航する外国船の対応に、幕府の苦悩はさらに深いものがあった,同年9月には、目付の堀利煕、村垣範正に蝦夷地視察(樺太を含むロシアの進出状況)を命じた。  ,幕府は、堀・村垣の復命書(蝦夷地処分に関する上申)を検討し、翌1855年(安政2年)2月22日、木古内以東,、箱館六ケ場所を含む東蝦夷地、乙部以北熊石村を含む西蝦夷地と島々を含め再び幕府直轄地とし、その管轄は箱館奉行,産業・科学技術・文化・軍事力、全ての面で進んでいるアメリカやヨーロッパの国々の巨船が、蝦夷地の箱館にやって / 2、開国・蝦夷地の再直轄
恵山町史 (2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より)

2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より この時代の郷土の交通状況について,詳細かつ正確に記されているのが、松浦武四郎の蝦夷地探検の記録『蝦夷日誌』である。  ,武四郎の蝦夷地探検は、初航、弘化2年(1845年)から翌3,4年(1846・7)の再航、嘉永2年(1849,此上に蝦夷の大王の昔し住しと云館跡ありと聞り、其処より今に古器物を掘出す事有りと。,松浦武四郎の『蝦夷日誌』にみる渡島の道  以上、郷土の道の『蝦夷日誌・巻之五』から、郷土の行程・距離 / 2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より
南茅部町史 上巻 ([蝦夷行程記])

[蝦夷行程記] 蝦夷行程記は安政三年に阿部喜任将翁が誌し、松浦武四郎が校訂した箱館近在の西部(西廻り,蝦夷行程記           巻之上 西部 西廻り之部           巻之下 東部 東廻り,村湊之部     東廻り村湊之部   箱館 大野江 五里  其地理ハ前巻に志るせし如(ごと)く至,(いた)って 繁昌の地なり 孤島(ことう)のを(ごと)くなる出崎(でさき) なり 只憾(うら)むべ,きけうの)といふ これより 一本木(いつぽんき)村人家七軒許(ばかり)あり 小漁(しようりよう)の地也 / [蝦夷行程記]
恵山町史 (3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村)

3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村 『松前島郷帳』と『松前蝦夷図』  1697年,<松前島郷帳 一七〇〇年(元禄十三年)>  従二松前一東在郷并蝦夷地之覚  おやす村  うか川村, 汐くひ村  従レ是蝦夷地  はらき  しりきし内  ゑきし内  こぶい  ねた内,示す「村」とあるが、はらき(戸井町字原木)からは、「従レ是蝦夷地」これより蝦夷地とアイヌの居住地であることが,(はらきより)夷地(蝦夷地)と記されているし、付記されていた地図上にもこれは示されていたと考えてよい。 / 3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村
函館市史 通説編 第一巻 (寛文の蝦夷乱と亀田・箱館)

寛文の蝦夷乱と亀田・箱館 寛文9(1669)年夏、日高染退(しぶちゃり、静内)の酋長シャクシャインが,蜂起し、各地において和人270余人を殺戮するという騒乱があった。,さいわい亀田、箱館地方には、何ら直接の戦禍はなく終わっているが、しかし人心はすこぶる恟(きょう)々たるものがあり,その間、隠密牧只右衛門、秋元六左衛門の2人に命じて各地に派遣し、蝦夷地の実情を探索して書きつづったのが,しかし、この地方の中心はやはり亀田で、ここには松前家の祈願所八幡社をはじめ、寛永10年5月、僧芳龍の創建 / 寛文の蝦夷乱と亀田・箱館
恵山町史 ([松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社])

[松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社] 北海道名・国郡名の名付け親でもあり、古今稀な旅行家,・探検家である松浦武四郎は、蝦夷地の探検も6回に及んでいる。,年(1849年)の第3航を終えた翌年の嘉永3年、当時33歳であった武四郎は初航以来の備忘録を整理し『蝦夷日誌 / [松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社]
恵山町史 (蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より)

蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より 「扨(さて)、是より登山するに村中に華表(鳥居のような標識)有。,登山口よりこのような標識を立てたり、中宮を設けたりしていることから、恵山大権現は1800年代中頃には、地元,は勿論、松前城下や蝦夷地の多くの人達に知られ、また参拝に訪れる人々も多かったものと理解される。,なお、上宮からの景観の記述から、当時も現在地とほぼ同じ位置であると思われる。 / 蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より
恵山町史 (6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた)

6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた 『蝦夷日誌』は、松浦武四郎が蝦夷地探検の初航から第3航、1845~49,「蝦夷地行程記 (海路)椴法華より根田内村まで」  一、椴法華より    ミズナシへ     十三丁余,「蝦夷地行程記 (海路・一部陸路)根田内村より古武井村まで」  一、根田内村より コフヰ入口まで,「蝦夷地行程記 (陸路)尻岸内村より日浦村まで」  一、尻岸内より 日浦峠へ    十三丁廿間(一、,「蝦夷地行程記 (海路)尻岸内村より日浦村まで」  一、尻岸内より 立岩へ      三丁四十間(四 / 6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた
恵山町史 (②古武井熔鉱炉に関する研究 幕末期蝦夷地開拓と外国技術)

さて、一方蝦夷地に移植・展開された外国技術は如何だったろうか。,安政元年蝦夷地の調査に赴いた堀利煕・村垣範正等がこの豊富な砂鉄に着目し、これを蝦夷地の経営と開拓の用に,もともと箱館奉行の設置と、蝦夷地の上知は箱館は箱館港の開港と、蝦夷地の防備の上から止むを得ず取られた措置,前章において、技術は武田斐三郎が資金は国策事業として幕府が蝦夷地経営費の中からだし、北辺の警備と蝦夷地,等であるが、蝦夷地南部の砂鉄に付いては、古くから「ハコダテ近郷トイ辺竝蝦夷地ユウフツ等砂鉄御座候場所( / ②古武井熔鉱炉に関する研究 幕末期蝦夷地開拓と外国技術
南茅部町史 上巻 (弘化の昆布場 蝦夷日誌)

弘化の昆布場 蝦夷日誌 弘化二年(一八四五)、松浦武四郎は、森より砂原をすぎ、沼尻から鹿部を記すあたりから,大岩   クロワシレ   クロワシレサキ   ヲムシャム 是より平地陸道有なり。,  ヒカタトマリ                   (昆布の記録のみ抜粋)   武四郎はこの地方 / 弘化の昆布場 蝦夷日誌
恵山町史 (③幕末蝦夷地の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:古武井の高炉)

③幕末蝦夷地の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:古武井の高炉 大 橋 周 治(,新潟大学教授)   さいはての地に  幕末、北辺の蝦夷地でも洋式による製鉄業は試みられた。,安政2年2月、幕府が松前藩の領地を削って箱館を直轄下におき、東北諸藩に蝦夷地の警備を分担(図1参照)させたこと,「ヅク鐡」つまり製造した銑鉄を同国内各地に販売して利益を上げ、蝦夷地開拓の資金にもしようという意見である,・技術面における全能の指導者として、11年間にわたって多彩な活動を蝦夷地に展開したのである。 / ③幕末蝦夷地の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:古武井の高炉
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