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函館市史 別巻 亀田市編
(蝦夷地直轄)
蝦夷地
直轄 箱館嶴地図(蝦夷島奇観) 市立函館図書館蔵 寛政十一(一七九九)年一月十六日、幕府,は外国との境界取締りのため、松前氏から東
蝦夷地
の内、浦河より知床に至る地と島々を上地させ、七年を限りこれを,直轄することにし、同日
蝦夷地
取締御用掛を置いた。,一方寛政十一年春、
蝦夷地
を巡見した松平忠明らは最初陣屋を厚岸に設置する計画であったが、八月十二日、知内,より浦河まで直轄のことや、気候、風土が適しないなどのことがあり、協議の結果、
蝦夷地
取締御用掛仮役所を箱館 /
蝦夷地
直轄
函館市史 通説編 第一巻
(蝦夷地の上知)
蝦夷地
の上知 幕府はこれらの意見書を勘定奉行などに示して、その意見を求めたところ、消極的ではあったが,上知の必要を力説したので、幕府は同年2月23日、松前藩に達して、東部木古内村以東、西部乙部村以北、東西
蝦夷地
島々,同年3月5日、西在および東西
蝦夷地
の版図を松前氏から受取り、東
蝦夷地
へは箱館奉行支配組頭河津祐邦、西
蝦夷地
,および北
蝦夷地
へは、同向山篤を遣わして各場所を引き継がせた。 /
蝦夷地
の上知
函館市史 通説編 第一巻
(西蝦夷地の上知)
西
蝦夷地
の上知 この結果、松前藩には辺境を守る実力のないことが、いよいよ明白となったので、幕府は文化,4年3月22日、松前章広から松前、西
蝦夷地
を上知させることに決し、
蝦夷地
全域を直轄支配するに至った。, 松前若狭守
蝦夷地
の儀は古来より其方家,にて進退いたし来り候得共、異国へ接し、島々万端の手当整え難き様子に付、先達て東
蝦夷地
上地仰出され、公儀,西
蝦夷地
の儀も非常の備えなど其方手限り行届き難き段申立、外国国境容易ならざる事に思召され候間、此度松前西
蝦夷地
一円召上 / 西
蝦夷地
の上知
函館市史 通説編 第一巻
(東蝦夷地上知)
東
蝦夷地
上知 また、同時に松前章広に対しても左の命があった。,#160; 松前若狭守 今度異国境御取締仰付けられ候に付、東
蝦夷地
,寛政十一末年正月十六日 すなわち、まず東
蝦夷地
を上知させて直轄することになった。,松前家に対しては用地の全部の代地として、武州埼玉郡久喜町において5000石を賜わり、なお東
蝦夷地
収納金,このため箱館は幕府の直轄地に編入され、東
蝦夷地
経営の根拠地となり、発展すべき好運に当面したのである。 / 東
蝦夷地
上知
恵山町史
([蝦夷地の馬])
蝦夷地
の交通運輸について、馬の果たした役割は非常に大きい。,以下、東西
蝦夷地
の状況について記す。 ,東在(東
蝦夷地
)39ケ村中、馬持村18ケ村となっている。,・文化3年(1806年)西
蝦夷地
の岩内場所で馬を移入し、硫黄山の運搬に使用した記録があり、これが西
蝦夷地
,翌年、シラヌカ(白糠)アバシリ(網走)間の道路が開削され、馬を東
蝦夷地
から西
蝦夷地
に送られ、斜里・宗谷 / [
蝦夷地
の馬]
恵山町史
(1、蝦夷地の直轄)
1、
蝦夷地
の直轄 六ケ場所の場所請負制が確立するにしたがい箱館や亀田からの入稼は急増し、土着して漁業,幕府は1785年(天明5年)最初の
蝦夷地
調査以来、たびたび幕吏を派遣して調査や交易を行い、松前藩の
蝦夷地
経営状況,を様似まで、三橋成方は西
蝦夷地
を宗谷まで、それぞれの地を視察し、11月江戸へ帰り復命。,幕府はその報告を評議し、遂に
蝦夷地
の経営を幕府が直轄して行うことに決定し、年明けて1月、
蝦夷地
取締御用係,も取り上げ、
蝦夷地
全域を直轄地として支配することとした。 / 1、
蝦夷地
の直轄
函館市史 通説編 第一巻
(幕府の蝦夷地調査)
幕府の
蝦夷地
調査 幕府では、ロシア人の北方諸島進出の確認、たび重なる
蝦夷地
近海の外国船の出没や、あるいは,寛政10年(1798)年、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方らに命じて、
蝦夷地
,一行は5月福山に到着すると、渡辺胤はここに留まり、大河内政寿は東
蝦夷地
を巡回して様似に至り、その別動隊,として配下の近藤重蔵は最上徳内を案内として国後・択捉までを踏査し、三橋成方は西
蝦夷地
を巡視して宗谷に至,閣老らはこの復命に基づいて評議の結果、ついに
蝦夷地
の経営を幕府みずからの手で行うことに決定したのである / 幕府の
蝦夷地
調査
函館市史 通説編 第二巻
(蝦夷地と箱館と)
蝦夷地
と箱館と 次に第2期の箱館奉行の任務についてみると、安政2年2月24日の箱館奉行に対する老中達,(「覚」)に、「今般東西
蝦夷地
島々一円上知被二仰付一、右場所都而其方共江御預被二仰付一候ニ付、御警衛向,幕外』9-138)とあることや、安政3年2月15日付箱館奉行宛将軍黒印状(3か条)の第1条に「箱館并
蝦夷地
之儀,また、上記の問題と関連して、この期の対
蝦夷地
・アイヌ民族対策のあり方を前幕領期のそれと比較すると、北
蝦夷地
,(カラフト島)の国境をめぐる新たな対露関係の発生という問題とのからみもあって、「
蝦夷地
」の「内国」化が /
蝦夷地
と箱館と
函館市史 通説編 第一巻
(幕吏の西蝦夷地視察)
幕吏の西
蝦夷地
視察 東
蝦夷地
の永久上知以来、松前藩が反省して幕府の東
蝦夷地
の処置にならい、
蝦夷地
住民,の撫育や警衛につとめたならば、松前および西
蝦夷地
は保有することができたと思われるが、しかるに、同藩には,文化2年8月、幕府は目付遠山景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行に松前および西
蝦夷地
の視察を命じている。,、景晋は松前に到着したが、定行は途中病気にかかり、いったん江戸に帰り、改めて翌3年松前に至り、共に西
蝦夷地
/ 幕吏の西
蝦夷地
視察
椴法華村史
(蝦夷地の主要道路)
蝦夷地
の主要道路 寛永十年(一六三三)将軍家光の命により諸大名視察のために派遣された幕府巡視使分部左京亮信,以上記したように江戸時代初期の
蝦夷地
の陸路は、はなはだおそまつなものであり宿泊設備等も完備されていなかったため,、
蝦夷地
に赴くには船を利用する方が便利であった。 ,礼文華-虻田)-幌別-白老-勇拂-様似-幌泉-広尾-大津-白糠-釧路(仙凰至-厚岸)-根室 西
蝦夷地
,は東
蝦夷地
に比較して陸路に難所が非常に多く、このため道路の開設も東
蝦夷地
よりは遅れたが、何とか松前から /
蝦夷地
の主要道路
函館市史 通説編 第一巻
(幕府の蝦夷地調査)
幕府の
蝦夷地
調査 赤蝦夷風説考 先に述べたごとく宝暦・天明期は、幕藩体制が全般的危磯に見舞われる,従って幕府がこの財政立直しを
蝦夷地
の産物俵物貿易に求めたことも確実である。,かくて幕府は天明5年、普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎、庵原弥六、皆川沖右衛門、青島俊蔵らに命じ、
蝦夷地
検分,前ページ申渡書が指摘した、「請負人ども、不束の儀これ有」といういわゆる抜荷・横流しの密貿易の有無と、
蝦夷地
経営,それがため幕府は、この調査に際し、江戸の回船方御用達苫屋久兵衛を起用し、幕吏の
蝦夷地
輸送を命ずる一方、 / 幕府の
蝦夷地
調査
函館市史 通説編 第一巻
(蝦夷地経営の方針)
蝦夷地
経営の方針 寛政期の箱館の図 「蝦夷島奇観」より
蝦夷地
経営にあたっては、蝦地夷御用掛五有司,しかるに松前家は弱少であって広大な
蝦夷地
を制御することが出来ないので、場所をわけて商人に托し運上金を徴収,数多の国を併合してきたが、蝦夷が松前を恨んでいるよしを聞き、しだいにわが属島20を蚕食し、なお船を東
蝦夷地
,よってその警衛を命じられたのであるが、
蝦夷地
は四面海をめぐらし、土地もまた広大であるから、城砦を築いて,江戸にあって事に当り、松平忠明以下は2月から3月までに江戸を出発して箱館に至り、それぞれ部署を定めて
蝦夷地
/
蝦夷地
経営の方針
函館市史 通説編 第二巻
(蝦夷地の警備)
蝦夷地
の警備
蝦夷地
の警備は、秋田、仙台、南部、津軽、松前の5藩が、精兵の派遣を命ぜられ、旧幕府期とほぼ,奥羽戦争の余波がいつ
蝦夷地
を襲うかも知れないという状況の中で、諸藩の警備兵がすべて帰還してしまった箱館,新政府は、旧幕府海軍の動きに強い関心を示し、彼ら旧幕府海軍が
蝦夷地
を指向していることを知っていたこともあって /
蝦夷地
の警備
函館市史 通説編 第二巻
(新政府の蝦夷地への関心)
新政府の
蝦夷地
への関心 箱館にあって杉浦兵庫頭が「人心安堵」に腐心していたころ、京都の新政府に、2月,27日青年公卿清水谷公考・高野保建の両名から
蝦夷地
鎮撫に関する「建議書」が提出された。,この建議書は、北
蝦夷地
(樺太)までを踏査してロシアの脅威を肌で感じ、
蝦夷地
開拓による国力強化を唱えていた,しかし、当時の新政府首脳には
蝦夷地
について充分な認識があったとはいえず、翌10日、三職に対して「
蝦夷地
開拓,であったと思われ、
蝦夷地
の現況認識は非常に的確なものとなっている。 / 新政府の
蝦夷地
への関心
恵山町史
(蝦夷地の航路を開く)
蝦夷地
の航路を開く
蝦夷地
の経営は何と言っても安全な航海・航路の確保にある。,〈江戸・
蝦夷地
の航路〉 この航路の測量については、頒暦所出役堀田仁助・門人の鈴木周助らが、新造船神風丸,〈択捉の航路開拓〉 幕府にとって択捉の開発は東
蝦夷地
経営の重点であった。,コンブ・俵物や冬の鱈など
蝦夷地
の物産を、直接大消費地江戸へ運び大いに利益を得た。,特に冬季間の
蝦夷地
の航海はタブーであったが、南下する千島海流を利用し、正月の縁起物の新鱈を箱館から江戸 /
蝦夷地
の航路を開く
南茅部町史 下巻
(〔蝦夷地の農耕〕)
〔
蝦夷地
の農耕〕 享保元年(一七一六)「
蝦夷地
に雑穀を植えしむ」の記録がある。,水稲のない
蝦夷地
で松前藩も蝦夷奉行も、住民たちに田畑づくりを大いに奨励した。 / 〔
蝦夷地
の農耕〕
函館市史 銭亀沢編
(幕府、蝦夷地の直轄を開始)
幕府、
蝦夷地
の直轄を開始 徳川幕府が
蝦夷地
に関心を示し、
蝦夷地
の調査がおこなわれると銭亀沢の村むらの,幕府は
蝦夷地
調査の実施後しばらくして、ロシアの南下から
蝦夷地
を守るためと
蝦夷地
の海産物を直接取扱うことを,主目的として、
蝦夷地
をまず仮に直轄地とした。,最初は
蝦夷地
取扱御用掛が経営を担当したが、享和二(一八〇二)年には
蝦夷地
奉行(すぐに箱館奉行と改められる,このようにして始まった幕府による
蝦夷地
の直轄であったが、文政四(一八二一)年十二月、
蝦夷地
は再び松前藩 / 幕府、
蝦夷地
の直轄を開始
戸井町史
([蝦夷地と馬])
[
蝦夷地
と馬] 中国では昔、南の方では船が交通、運輸の機関であり、北の方は馬を使ったので、「南船北馬,北海道に馬のはいった始めは、安東盛季が
蝦夷地
に逃れてきた嘉吉三年(一四四三)以降と推定されるが、五百年以前,寛永十年(一六三三)幕府の巡見使が、初めて
蝦夷地
に派遣されているが、巡見使の大行列が、多数の馬を乗用、,寛文九年(一六六九)のシャクシャインの乱の時に、
蝦夷地
の状況を津軽藩主に報告した『津軽一統志』に、津軽,この牛馬、年々子を生じて、今は
蝦夷地
に満ちみちたり」と。 / [
蝦夷地
と馬]
函館市史 通説編 第一巻
(箱館東蝦夷地の中心となる)
箱館東
蝦夷地
の中心となる 幕府は、東
蝦夷地
直轄と同時に東
蝦夷地
の場所請負人を廃して直捌とし、産物は一手,高田屋は兵庫・大坂の外に箱館を本拠としたので、箱館は、東
蝦夷地
の中心として、行政上のみならず経済的にも / 箱館東
蝦夷地
の中心となる
函館市史 通説編 第一巻
(蝦夷地取締御用掛任命)
蝦夷地
取締御用掛任命 こうして同年12月、特に書院番頭松平信濃守忠明を抜てきして
蝦夷地
警衛の事に当らせ,年正月、勘定奉行石川左近将監忠房、目付羽太庄左衛門正義、および大河内政寿、三橋成方にも同様の命が出、
蝦夷地
, 三橋藤右衛門 今度異国境御取締仰付けられ候に付、東奥
蝦夷地
/
蝦夷地
取締御用掛任命
椴法華村史
(蝦夷地の病気)
蝦夷地
の病気
蝦夷地
においては古くから疫病の発生がみられ、中でも疱瘡の流行は、保健知識や医療機関の全 /
蝦夷地
の病気
函館市史 通説編 第一巻
(箱館及び蝦夷地の警衛)
箱館及び
蝦夷地
の警衛
蝦夷地
の取締り及び警衛も箱館奉行の重要な任務であった。,一方、
蝦夷地
全域の取締り、警備については、安政3年東
蝦夷地
は室蘭、様似、厚岸、国後、択捉の5か所、西
蝦夷地
,は寿都、石狩、留萌、北
蝦夷地
(樺太)の4か所に、幕吏が詰合い、それぞれ持場を設けて管理させた。 / 箱館及び
蝦夷地
の警衛
函館市史 別巻 亀田市編
(榎本軍の蝦夷地上陸)
榎本軍の
蝦夷地
上陸 榎本軍鷲の木上陸(市立函館図書館蔵) 慶応三(一八六七)年、大政奉還が行,士官隊、陸軍隊、新撰組など三、〇〇〇名を乗艦させ、開陽、回天、蟠龍、長鯨、神速、大江、鳳凰の各艦船で
蝦夷地
/ 榎本軍の
蝦夷地
上陸
南茅部町史 下巻
(〔蝦夷地の海路〕)
〔
蝦夷地
の海路〕
蝦夷地
の昔、昆布商売といって、和人は昆布採取のため亀田(箱館)近在から小舟で来るようになる / 〔
蝦夷地
の海路〕
戸井町史
([昔の蝦夷地の船])
[昔の
蝦夷地
の船] 大昔の舟は、西洋も東洋も丸木舟であったということは常識である。 ,北海道は
蝦夷地
の名のごとく、明治初期の頃も全道各地に蝦夷が住んでいたので、丸木舟は明治時代も使われていた,「
蝦夷地
より島々への渡り、十四、五里隔たり候所の渡海船は、高瀬船(たかせぶね)程の縄とじ船にて渡海仕り,候」 この報告書でもわかるように、松前から東西
蝦夷地
へ行く場合も、津軽海峡を渡って津軽、南部、秋田,昔の
蝦夷地
の船は丸木舟から縄とじ船に代った時代で蝦夷時代が終り、和人時代になってからは、漁船として磯舟 / [昔の
蝦夷地
の船]
南茅部町史 上巻
(東蝦夷地六箇場所)
東
蝦夷地
六箇場所 箱館在の志海苔、小安辺は古くから昆布採り場所として和人の来住が多かった。,元文四年(一七三九)頃の
蝦夷地
各場所の状況を記した「蝦夷商賈聞書」は、六箇場所を知るためにも貴重な文献,蝦夷商賈聞書 一 松前城下ゟ東北之
蝦夷地
運上所 出物之品 人間境ゟ通江地迄書記申候 是,新五左衛門殿江納ル 此ヲシャマ(ン)ベト申所ゟ西海ノスツツト申所江越ル道アリ この聞書は
蝦夷地
/ 東
蝦夷地
六箇場所
函館市史 通説編 第一巻
(蠣崎氏の蝦夷地掌握)
蠣崎氏の
蝦夷地
掌握 しかるに永正10年、「六月二十七日の早朝、夷狄発向し来りて、松前の大館を攻め落し,には「蠣崎光広大館を攻め、相原氏、村上氏を滅ぼす」(『福山旧事記』)というのが真相らしく、これによって
蝦夷地
/ 蠣崎氏の
蝦夷地
掌握
函館市史 銭亀沢編
(明治維新政府蝦夷地の経営に着手)
明治維新政府
蝦夷地
の経営に着手 明治維新新政府は、
蝦夷地
経営のために人を派遣することを決定し、慶応四,しかし、箱館府が政務の緒に着いた十月、榎本武揚らの旧幕府脱走軍が
蝦夷地
を襲い、すぐさま掌握してしまった,榎本らが江戸に護送され、
蝦夷地
の経営は一旦箱館府の手に帰したが、七月八日、中央の官制改革で開拓使が設置,表1・1・4 箱館奉行から箱館裁判所へ引き継がれた町と村 「慶応四年箱館地方及
蝦夷地
引渡演説書」『函館市史 / 明治維新政府
蝦夷地
の経営に着手
恵山町史
(2、開国・蝦夷地の再直轄)
2、開国・
蝦夷地
の再直轄 開港・開国をせまり頻繁に来航する外国船の対応に、幕府の苦悩はさらに深いものがあった,同年9月には、目付の堀利煕、村垣範正に
蝦夷地
視察(樺太を含むロシアの進出状況)を命じた。 ,幕府は、堀・村垣の復命書(
蝦夷地
処分に関する上申)を検討し、翌1855年(安政2年)2月22日、木古内以東,、箱館六ケ場所を含む東
蝦夷地
、乙部以北熊石村を含む西
蝦夷地
と島々を含め再び幕府直轄地とし、その管轄は箱館奉行,産業・科学技術・文化・軍事力、全ての面で進んでいるアメリカやヨーロッパの国々の巨船が、
蝦夷地
の箱館にやって / 2、開国・
蝦夷地
の再直轄
恵山町史
([幕府の蝦夷地直轄と道路行政])
[幕府の
蝦夷地
直轄と道路行政] 寛政11年(1799年)8月、幕府は、北辺防備の強化・奥地開発と経済的利益,の幕府主導を図り、松前藩がこれまで統治していた
蝦夷地
全域の内、東
蝦夷地
(知内村から箱館銭亀沢村・小安村以東,そして、この東
蝦夷地
の、①場所請負人制度(註1)・運上屋(註2)を廃止する②道路を開き会所(註3)を建,文化4年(1807年)幕府は、さらに東・西
蝦夷地
(蝦夷全島)直轄の令を発し、それと同時に奉行所を松前の / [幕府の
蝦夷地
直轄と道路行政]
函館市史 別巻 亀田市編
(松前藩の蝦夷地統一と番所の設置)
松前藩の
蝦夷地
統一と番所の設置 康正二(一四五六)年や永正九(一五一二)年のアイヌ人の蜂起により、宇須岸,この後更に慶広は慶長九(一六〇四)年徳川家康からも黒印の制書を受け、名実ともに
蝦夷地
の支配者となり、松前氏 / 松前藩の
蝦夷地
統一と番所の設置
函館市史 通説編 第二巻
(役員選挙と蝦夷地領有宣言式)
役員選挙と
蝦夷地
領有宣言式 脱走軍は、徳川家による
蝦夷地
開拓の許可がおり、血胤者の派遣をみるまでの措置,署名)榎本釜次郎 (「イギリス外務省文書″日本通信″」) 12月15日、
蝦夷地
領有宣言式,2年1月15日、高尾丸(原名アシュロット)で200人余が、
蝦夷地
開拓の基地と決めたモロラン(室蘭)へ向 / 役員選挙と
蝦夷地
領有宣言式
恵山町史
(②古武井熔鉱炉に関する研究 幕末期蝦夷地開拓と外国技術)
さて、一方
蝦夷地
に移植・展開された外国技術は如何だったろうか。,安政元年
蝦夷地
の調査に赴いた堀利煕・村垣範正等がこの豊富な砂鉄に着目し、これを
蝦夷地
の経営と開拓の用に,もともと箱館奉行の設置と、
蝦夷地
の上知は箱館は箱館港の開港と、
蝦夷地
の防備の上から止むを得ず取られた措置,前章において、技術は武田斐三郎が資金は国策事業として幕府が
蝦夷地
経営費の中からだし、北辺の警備と
蝦夷地
,等であるが、
蝦夷地
南部の砂鉄に付いては、古くから「ハコダテ近郷トイ辺竝
蝦夷地
ユウフツ等砂鉄御座候場所( / ②古武井熔鉱炉に関する研究 幕末期
蝦夷地
開拓と外国技術
恵山町史
(③幕末蝦夷地の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:古武井の高炉)
③幕末
蝦夷地
の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:古武井の高炉 大 橋 周 治(,新潟大学教授) さいはての地に 幕末、北辺の
蝦夷地
でも洋式による製鉄業は試みられた。,だがそのことは、洋式製鉄業の移植を含めて、箱館奉行のもとにおける
蝦夷地
の諸事業に、他の諸藩におけるそれと,第1に、北辺防備という、軍事目的を達成するためにも、未開の
蝦夷地
開拓という産業上の課題が大きなウエイト,の科学・技術面における全能の指導者として、11年間にわたって多彩な活動を
蝦夷地
に展開したのである。 / ③幕末
蝦夷地
の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:古武井の高炉
函館市史 通説編 第二巻
(奥羽5藩の警備と箱館)
、エサン岬~東
蝦夷地
ホロベツ間、東
蝦夷地
惣体の援兵心得)、元陣屋(箱館字水元より谷地頭の内)、出張陣屋,シラヲイ~シレトコ迄の内、島々共一円)、元陣屋(東
蝦夷地
ユウフツ)、出張陣屋(東
蝦夷地
子モロ、クナシリ,島、エトロフ島) 秋田藩- 警備地域(西
蝦夷地
ヲカムイ岬~シレトコ迄惣体、北
蝦夷地
島々共一円)、元陣屋,(西
蝦夷地
マシケ)、出張陣屋(ソウヤ〔夏期出張、北
蝦夷地
応援心得〕、北
蝦夷地
3月~8月間、冬はマシケ元陣屋,、しかも、
蝦夷地
経営とのかかわりで数多くの配下の幕吏が
蝦夷地
に派遣されたため、これらに関する箱館奉行の
椴法華村史
(場所請負人の廃止)
場所請負人の廃止 寛政十一年(一七九九)一月幕府は、ロシアの南下政策に備え守備強化の必要を認め、東
蝦夷地
,・浦河以東・知床岬及び諸島を幕府の仮りの直轄地とし、
蝦夷地
取締御用掛を置き、道路開削、沿岸防備に力を注,
蝦夷地
経営で一応の成功を収めた幕府は、享和二年(一八〇二)二月には東
蝦夷地
を永久直轄にかえ、
蝦夷地
経営,の拠点として
蝦夷地
奉行を設置し、東
蝦夷地
全域の監督に当らせた。,その後文化四年(一八〇七)三月には西
蝦夷地
をも直轄地とし、松前藩を陸奥国梁川に転封している。
戸井町史
(三、幕領時代前期の概観)
蝦夷地
が幕府の直轄になってから、場所請負制の弊害を認めてこれを廃止し、東
蝦夷地
の運上屋を会所と改めたが,、西
蝦夷地
は従来通り運上屋の名称を用いさせた。,幕府が東
蝦夷地
を直轄統治するようになってからは、漁業及び商業を官営とし、
蝦夷地
御用という役をおき事業に,
蝦夷地
御用掛は官船(赤船と称した)御雇船によって
蝦夷地
の海運を盛んにした。 ,この時から文政四年(一八二一)十二月、
蝦夷地
を再び松前家に返還するまでの十五年間は、
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全島が幕府の
南茅部町史 下巻
(日持上人渡海)
日持上人渡海 日蓮上人の高弟日持上人が永仁二年(一二九四)=正応四年(一二九一)ともいう=
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に渡海,日蓮宗の僧が
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に渡り□□□年、京に帰って公家に
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の産物昆布を献上したといわれている。 ,
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へ僧侶が渡る動機もふくめて、その当時すでに
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渡海の便もあり、日本人の在住来在の地として僧侶が,一三世紀にはすでに多くの和人が、交易なり何らかの目的で
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との往来をしていたことになる。
椴法華村史
(木造官船の増強)
木造官船の増強 北辺警備の強化が叫ばれ寛政十一年(一七九七)から東
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は幕府の直轄地となり、漁業・,商業を官営とし、
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御用係にその事業を行わせることにした。,その結果、北辺警備上の理由や直捌きのための物資や
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出産物を運送するため、本州・
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間を連絡する船舶,、本州・
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間の航路は民間の手にゆだねられることになった。 ,の没落等があり、
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の海運は全く不振となってしまったのである。
恵山町史
(3、奉行所の設置)
3、奉行所の設置 東
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の直轄を決めた幕府は、寛政10年以来おいていた
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取締御用係を廃止、1802,年(享和2年)2月、
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幕政の中心機能として箱館に蝦夷奉行を設け(同年5月、箱館奉行と改称する)、初代奉行,羽太正養は
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取締御用掛以来の
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経営状況を公務日記『休明光記』に、詳細に記している。,
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経営のねらいは、千島列島を南下するロシアに対抗するため択捉(えとろふ)島など東
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奥地の開発(,させ、1812年(文化9年)には東
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の直捌制を廃止し、場所請負制度を復活させている。
函館市史 通説編 第一巻
(幕吏の文人)
幕吏の文人 昆布と採取用具の図 「蝦夷島奇観」 東
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の直轄以来、箱館を訪れた幕吏もようやく,松平越中守に見いだされて幕府に仕え、数回におよぶ
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往来の見聞を『蝦夷島奇観』『東
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名考』『蝦夷産業図説,これが
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測量の最初であり、測量日記『啓行策略』がある。 ,
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探検者として有名な松浦武四郎が、弘化2(1845)年はじめて
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に渡り、箱館の和賀屋孫兵衛の手代,という名目で、
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各地を探訪してまとめたのが『蝦夷日誌』である。
函館市史 通説編 第一巻
(箱館付近の上知)
一方当時北辺の情勢をみると、これより先嘉永6年ロシア兵の一隊が、北
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(樺太)久春古丹に上陸占拠するということがあった,そこで幕府は当然起こる国境談判を有利に実地で決めるため(前述
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見分)、目付堀利煕、勘定吟味役村垣範正,を派遣したが、両者が着いた時はロシア兵がすでに退去した後なので、その実情並びに松前、
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を調査して帰,その結果を、「松前並
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惣体見分仕候見込之趣大意申上候書付」として安政元年9月に提出した。,これは
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再直轄を決定する根拠となったばかりか、上知後の幕府の
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経営の基本方針を示唆する重要な意見書
恵山町史
([陸路の充実])
[陸路の充実] このような幕府・箱館奉行の方針に基づき、
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の道路開削・宿泊施設(会所)の建設が各地,主な道路の開削では、寛政・享和年間(1789~1803年)東
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の礼文華山道(長万部~虻田)、様似山道,さるる))等の道路を開削、文化年間(1804~1817年)には仙鳳趾~厚岸、木古内~上ノ国、さらに西
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,これらの道路開削により、
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内の主な陸路は冬期間を除き、何とか通行可能になり里程(距離)もいくらか短縮,これら、
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の道路開削・整備をするとともに、旅人の宿泊設備も徐々に整えられるようになってきた。
函館市史 通説編 第二巻
(6藩分領と奉行「御預所」)
しかし、その反面、同年9月27日、幕府は、会津・仙台・秋田・庄内・津軽・南部の奥羽6藩に
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を分与し,島のシヤナ、根室付島々の14か所、西
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のうち久遠、奥尻、太櫓、瀬田内、歌棄、磯谷、岩内、古宇、積丹,、美国、古平、余市、忍路、高島、小樽内、石狩、厚田サンナイ、網走の18か所と北
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、計33か所のみに,伴い
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にかかわる場所請負人の運上金も2万4000余両から9549両余(東西北
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共33場所1ヵ年運常金,)へと減少することとなった(「
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御開拓諸御書付諸伺書類」『新撰北海道史』史料1)。
函館市史 通説編 第一巻
(幕府の物資輸送)
幕府の物資輸送 こうして嘉兵衛は幕吏の知るところとなり、あたかも幕府は
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直轄の準備中でもあったので,、
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の経営に何よりも必要なのは船舶輸送で、このため目をつけられた嘉兵衛は、この年その下調べに
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,に出張していた勘定吟味役三橋成方に呼ばれ、
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の海上交通の状況について意見をただされた。,越えて翌11年、幕府が東
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を直轄すると、奥州酒田から幕府の必需品を箱館に回漕すること2回、更に厚岸
函館市史 通説編 第一巻
(会所設置の目的)
産物会所の目的は、名目的には、 (1)密貿易・抜荷取締 (2)移出高の調査 (3)
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,からの船舶・貨物検査の必要 (4)
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開拓者の救助 (5)荷為替事務の必要 (6)
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産品の紹介・,販売 (7)幕府財政上 (8)
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開発資金の調達 など多種にわたっているが、真の,目的は、
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産物の紹介、販売であり、幕府の財政政策から、
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の開発資金を調達しようということが、最,こうして幕府は、箱館はじめ各地の産物会所を介して、
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の生産および流通に全面的な統制を加え、そのなかから
椴法華村史
(箱館港の衰え)
西
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では、松前・江差方面の鰊が大漁であったので、本州及び東
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海岸線からの出稼者が多数流入し、この,一方、東
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では、前幕領時代の文化九年(一八一二)幕府による直捌制廃止され、各場所の請負入札が行われていた,直捌制が実施されていた時代は、東
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の産物は、ほとんど大部分が箱館へ集散され、ここで販売されなければならない,しかし直捌制廃止後は、東
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の産物は、福山・箱館のいずれで販売してもよいことになり、東
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の請負人,は大部分が福山商人であったこともあり、東
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の産物の大部分は福山港に運ばれるようになっていた。
函館市史 通説編 第一巻
(堀・村垣の復命)
まず松前および
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の概況を述べ、福山(松前)城下は防禦の設備が相応に整っているが、その他の広大な地は,かつ
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の景況を見ると、北方二、三分の地は陽気薄く、野菜ができるだけであり、その他七分のうち四分ぐらいは,よって北
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・択捉・国後をはじめ島々ならびに東西
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一円、西は乙部、東は知内村まで上知するように、,する憂いがあるから、まず箱館六箇場所および東
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を上知経営してはどうかとの意見を述べている。,12月利煕らは、更に
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上知後の警衛、在勤吏員および経費などに関して意見を上申した。
南茅部町史 下巻
(会所の頃)
会所の頃 往昔、
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の交通(道路や乗りもの)は未発達だった。,寛政11(一七九九) 幕府は
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を直轄すると南部から馬を移入して
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の各場所に配置し、人馬継立の制度,対して、自己の場所地から隣接の場所までの道路・山道などの開削・改良ならびに橋梁などの架設を督励して、
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,安政2(一八五五) 幕府の
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再直轄にあたって一層この駅馬宿所の制度が強化された。
恵山町史
(5、松前藩の復領)
年)14代松前藩主章広が陸奥梁川に移封されて15年目、1821年(文政4年)12月7日、松前藩は再び
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,東西
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追々上地に被二仰出一年来従二公儀一御所置被二仰付一候処、奥地島々迄連々御取締相整、夷人撫養、,其方儀、彼地草創の家柄、数百年の所領に候得ば、旧家柄格別の儀を被二思召一此度松前
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一円、如二前々一可,前の文のお達しにあるように、公式には「幕府が
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を直轄したことによって、島全域での取締が整い、アイヌ,、実際には、幕府の
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経営が思惑通りに進まず困難をきたしたことや、松前藩の幕閣に対する強力な復権運動
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