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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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南茅部町史 上巻 ([蝦夷日誌])

[蝦夷日誌] 蝦夷地に関する古文書は多いが、郷土南茅部を書き記したものは、道史の古文書、文献の中では,蝦夷日誌を編んだとき、巻五にこれを合わせて誌している。   / [蝦夷日誌]
恵山町史 (2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より)

2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より この時代の郷土の交通状況について,詳細かつ正確に記されているのが、松浦武四郎の蝦夷地探検の記録『蝦夷日誌』である。  ,に及んだが、第3航を終えた翌年の嘉永3年(1850)、初航以来の備忘録を整理して書き上げたのが『初航蝦夷日誌,松浦武四郎の『蝦夷日誌』にみる渡島の道  以上、郷土の道の『蝦夷日誌・巻之五』から、郷土の行程・距離 / 2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より
恵山町史 ([松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社])

[松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社] 北海道名・国郡名の名付け親でもあり、古今稀な旅行家,年(1849年)の第3航を終えた翌年の嘉永3年、当時33歳であった武四郎は初航以来の備忘録を整理し『蝦夷日誌 / [松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社]
南茅部町史 上巻 (弘化の昆布場 蝦夷日誌)

弘化の昆布場 蝦夷日誌 弘化二年(一八四五)、松浦武四郎は、森より砂原をすぎ、沼尻から鹿部を記すあたりから / 弘化の昆布場 蝦夷日誌
恵山町史 (蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より)

蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より 「扨(さて)、是より登山するに村中に華表(鳥居のような標識)有。 / 蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より
恵山町史 (6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた)

6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた 『蝦夷日誌』は、松浦武四郎が蝦夷地探検の初航から第3航、1845~49,図 地名が記されている 弘化4年(1847)松浦武四郎が描く郷土(2) 立岩千畳敷の図「蝦夷日誌巻之五 / 6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた
椴法華村史 (三軒屋)

三軒屋 現在の富浦の一部であって前掲の『蝦夷日誌』によれば、「村の端なり。今は六軒程も有也。
椴法華村史 (恵山硫黄の自然発火)

これは特殊な例であるが、松浦武四郎の『蝦夷日誌』によれば、弘化二年(一八四五)六月十一日の恵山硫黄自然発火,蝦夷日誌    弘化二乙巳六月十一日夜、恵山西手に当り火燋上り半天に輝き、さして山動地響もなかりしが
椴法華村史 (屛風岩)

屛風岩 前掲『蝦夷日誌』によれば、「屛風岩、屛立数十丈、岩面屛風を立たる如し」と記されている。
椴法華村史 (ヒカタトマリ)

南西風のこと、「トマリ」は船をつなぐ所、つまり南西の風の時船をつなぐ所という意味で、両所ともに前掲『蝦夷日誌
椴法華村史 (水無)

天明元年(一七八一)の『松前誌』には「ミツイシ」と記され、前掲松浦武四郎の『蝦夷日誌』には、「水無、少
南茅部町史 下巻 (郷土の医療の始め)

記録としては弘化の頃、箱館の医師深瀬鴻斎が臼尻村に滞在した、と松浦武四郎の「蝦夷日誌」に記されている。,蝦夷日誌に、鴻斎は「物産に志有て此山中委しく穿鑿」したと記している。
椴法華村史 (ウノトマリ)

また『蝦夷日誌』には、「ウノトリ石、岩の頂上に鵜のふんにて白くなりたるが故に号るなり」とある。
函館市史 銭亀沢編 (幕末の村むら)

またほぼ同時期、松浦武四郎も蝦夷地を探検調査し、「蝦夷日誌」(『函館市史』資料編第一巻に抄録)を書いている,「蝦夷実地検考録」を主とし「蝦夷日誌」を従として銭亀沢の村むらの様子を綴って見る。,「蝦夷日誌」には「此村の上に小林氏の古城跡と云もの有なり。,なお「蝦夷日誌」では銭亀沢から迫浜、迫浜から黒岩間は、一町、二町五〇間となっている。  ,「蝦夷日誌」によれば「石崎村より惣て昆布漁よろし。
椴法華村史 (海馬(とど)岩)

弘化二年より四年(一八四五-四七)に至る記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』によれば、「海中に在り、
椴法華村史 (カシカソリ)

カシカソリ 前掲松浦武四郎の『蝦夷日誌』に初めて見られ「カヂカソリ、此浜恵山の東南の岬に当たる。
椴法華村史 (宮の下)

同じく前掲の『蝦夷日誌』によれば、「宮の下、転太石浜なり、上に産(ママ)神社有」と記されている。
椴法華村史 (八幡川)

八幡川 前掲、『蝦夷日誌』に初めてこの名が見られる。「スノ川、此川尤酸し。細流れ。
函館市史 通説編 第一巻 (箱館回航)

かくて嘉兵衛は箱館の回船宿白鳥勝右衛門(松浦武四郎『蝦夷日誌』に白鳥新十郎とあり)方に止宿し、積荷を売捌
恵山町史 (3、箱館附在々六ケ場所道途絵図)

前出の松浦武四郎の蝦夷日誌と合わせて読むことにより、当時の郷土の道路状況、あるいは郷土の地理がより理解
函館市史 別巻 亀田市編 (馬の利用)

馬の利用 松浦武四郎の『蝦夷日誌』には「(鍛冶村)人家三十軒計。皆大家なり。
南茅部町史 下巻 (川汲山道の道中)

「蝦夷日誌」河汲峠之図    市立函館図書館 所蔵
函館市史 通説編 第二巻 (稲荷社の廃絶の意味)

  表11-1 「場所」に於ける宗教施設 東エゾ地 弘化2(1845)年 「初航蝦夷日誌,」 安政3(1856)年 「竹四郎廻浦日記」 文久3(1863)年 「東蝦夷日誌」 ヤムクシナイ,観音堂、稲荷社 〈同上〉 弁天、稲荷、阿閑社 西エゾ地 弘化2(1845)年 「再航蝦夷日誌,」 安政3(1856)年 「竹四郎廻浦日記」 文久3(1863)年 「西蝦夷日誌」 クトウ フトロ
椴法華村史 (赤禿(あかはげ))

親鳥のまねをしている」  また弘化二年より四年(一八四五~四七)に至る記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌
椴法華村史 (昔日の水無温泉)

昔日の水無温泉 松浦武四郎、蝦夷日誌の弘化四年(一八四七)五月の記事に「水無濱、少しの砂浜、水無より
函館市史 通説編 第一巻 (地誌・風俗書)

地誌・風俗書 地誌・風俗書については、右の如水の著のほか、松浦武四郎の『蝦夷日誌』なども貴重であり、
函館市史 銭亀沢編 (石倉稲荷神社(新湊町))

一八一八)に京都伏見稲荷大社より「御分霊」を勧請したもので、字石倉沢に小祠と拝殿および籠堂があったことが「蝦夷日誌
南茅部町史 下巻 (〔漁港〕)

弘化二年(一八四七)来村した松浦武四郎も、「蝦夷日誌」に臼尻の澗の賑いを描いた。  
恵山町史 ([郷土の寺院])

寺院] 文書に残る郷土の寺院については、第1章に記したが、江戸時代の記録として、第2節松浦武四郎『蝦夷日誌
恵山町史 ([江戸時代の農業])

農地の実態 『松浦武四郎の蝦夷日誌(巻之五)より』  弘化2年~4年(1845~47)松浦武四郎の蝦夷日誌,なお、この蝦夷日誌、戸井村の項では、「畑少し有。,右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上    寅二月   尻岸内持 根田内 小頭 乙右衛門    松浦武四郎の蝦夷日誌
南茅部町史 下巻 (鶴の湯伝説)

このとき同行した備後国書生井口赤嶂が、後日、武四郎に贈った一文が「蝦夷日誌」巻五 川汲行の末尾に記されている,弘化四年(一八四七)、松浦武四郎は「蝦夷日誌」の川汲温泉の項に、「温泉壺一つ。,河汲村温泉場之図「蝦夷日誌」 弘化4年 市立函館図書館所蔵
函館市史 銭亀沢編 (八幡神社(志海苔町))

文献では、嘉永三(一八五〇)年の「蝦夷日誌」に志海苔の産神社とあるのが八幡神社の初見で、「蝦夷実地検考録
恵山町史 ([村々の寺社について])

[村々の寺社について] 蝦夷日誌(巻之五)尻岸内村の項より、寺社に関わる記述を主に抜粋し記す。  
椴法華村史 (明礬の採掘)

松浦武四郎の『蝦夷日誌』(弘化二年)には、明礬の採掘について次のように記している。      
恵山町史 (1、賽の河原)

細き鳥居を越て上なり」  松浦武四郎の蝦夷日誌(巻之五)の恵山登山の記述の一部分(抜粋)である。,尚、武四郎の前出蝦夷日誌には、日浦海岸にも「小石を多く積みて西院川原とも云うべき処あり」と記している。
南茅部町史 下巻 (〔厳島社〕)

弘化二年(一八四五)  松浦武四郎 蝦夷日誌 巻五  臼尻村の項に             弁天社  
椴法華村史 (日持由来説)

日持由来説 松浦武四郎の『蝦夷日誌』弘化二年より同四年(一八四五-一八四七)までの記事をまとめたものによれば
椴法華村史 (水無浜から磯谷村まで)

水無浜から磯谷村まで 弘化二年(一八四五)から同四年の見聞をまとめた松浦武四郎の「蝦夷日誌」は、水無浜
椴法華村史 (鱈請負の制度)

松浦武四郎の『蝦夷日誌』弘化二年(一八四五)の記事によれば、鷲ノ木の所で「惣て此辺は人間地とはいへども
椴法華村史 (鱈漁と税)

鱈漁と税 松浦武四郎の『蝦夷日誌』臼尻村の記事によれば、      臼尻村、人家五十余軒、小商人二
椴法華村史 (商店のはじまり)

椴法華村と近村における商店に関する一番古い記事は弘化二年より弘化四年に至る記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の文人)

1845)年はじめて蝦夷地に渡り、箱館の和賀屋孫兵衛の手代という名目で、蝦夷地各地を探訪してまとめたのが『蝦夷日誌,松浦武四郎 函館港総図 「蝦夷日誌」より
椴法華村史 (弘化三年の大山津波)

弘化三年の大山津波 弘化二年から四年に至る(一八四五-四七)記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』には,『蝦夷日誌』や『函館新聞』の記事は「山つなみ」発生の日を、弘化三年七月の晦日としているが、『松前方言考
函館市史 銭亀沢編 (八幡神社(銭亀町))

文献では、「蝦夷日誌」(『函館市史』史料編第一巻)に嘉永三(一八五〇)年に産神社として記載されている。
函館市史 別巻 亀田市編 (上山村)

   と記されており、この記録を見ると村の住民は農業を専業としているかの感を受けるが、後代の『蝦夷日誌
椴法華村史 (恵山温泉のはじまり)

その後、松浦武四郎の「蝦夷日誌」によれば弘化二年(一八四五)六月十一日、恵山硫黄自然発火の時「山上に湯治場有之処
恵山町史 (日浦・武井泊(豊浦)間開通(昭和5年3月))

また、世界的な探検家松浦武四郎は、蝦夷日誌の巻之五(1845~6年の巡検)の中に、「重畳たる怪岩つづきの,日浦海岸 松浦武四郎蝦夷日誌巻之五(函館市史史料編第1巻より)  いずれもこの海岸の景観の美しさ
函館市史 通説編 第二巻 (函館の町域)

たとえば幕末期の記録では「一本木 亀田、箱館の境也」(「蝦夷日誌」『函館市史』史料1)、「(亀田村)より
南茅部町史 下巻 (〔鶴の湯〕)

松浦武四郎「蝦夷日誌」弘化四年・一八四七    ② 薬王神掲額文より                 
南茅部町史 下巻 (〔磯谷温泉〕)

これをききつけて来た村の漁師たちと一夜を談じ明かしたという(「蝦夷日誌」巻五)。  ,松浦武四郎「蝦夷日誌」により当時の磯谷温泉のことを詳述すると、磯谷の人家は二軒でアイヌの家一軒あった。
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