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函館市史 通説編 第一巻
(蠣崎氏の松前進出)
蠣崎
氏の松前進出 このような東部アイヌのたびたびの抗争により、次第に和人は繁栄を誇ったこの地帯から駆逐,この間、
蠣崎
信広
は蝦夷地統一への触手を伸ばし始め、上ノ国の天ノ川、石崎川、厚沢部川の豊富な鮭や、石崎川,統一者は、依然として出羽檜山の安東氏の系譜に連なる、譜代ともいうべき松前の大館の下国氏にあって、外様の
蠣崎
氏,こうしたなかに明応3(1494)年5月、
信広
は64歳をもって没し、その子光広が継いだ。 /
蠣崎
氏の松前進出
戸井町史
(三 蠣崎の錦帯城趾の伝説(川内町))
三
蠣崎
の錦帯城趾の伝説(川内町) 享徳、康正の昔、下北郡川内町大字
蠣崎
に、
蠣崎
蔵人信純の居城錦帯城,
蠣崎
信純は松前藩の始祖
蠣崎
信広
といわれている人物である。 ,これが南部氏の記録による
蠣崎
信純渡島の経緯(けいい)であるが、松前氏の記録では、大畑よりの
信広
の船出が,長禄と改元になり、この年、コシャマインの乱を平定しているので、南部氏の記録が正しいとすれば、信純(後の
信広
,何れにしても、南部政経に攻められて錦帯城を逃れ大畑から松前に渡った
蠣崎
信純が後の
信広
であることは確かだと / 三
蠣崎
の錦帯城趾の伝説(川内町)
戸井町史
(三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃))
河野加賀右衛門尉越智政通を副として置かれ、松前は下の国山城守定季が預(あずか)り、相原周防守政胤を副とせられ、上の国は
蠣崎
武田若狭守
信広
,1、
信広
の渡島 「新羅之記録」に
蠣崎
信広
が渡島する時に佐々木繁綱、工藤祐長の外に、
蠣崎
の土豪、酒井七内,「註」 安東政季、
蠣崎
信広
等が、享徳三年(一四五四)八月二十八日に大畑から蝦夷地に渡ったということは誤,松前史を書いた者が
蠣崎
信広
の前歴を穏すために、故意に康正三年を享徳三年とした節(ふし)がある。 ,武田
信広
は
蠣崎
蔵人信純であることを隠すための作為が、松前史を書いた者によってなされたことは明らかである / 三、道南の館主と政季、
信広
の渡島(新羅之記録抜萃)
戸井町史
(二、和人の館)
不明分(○○○)があるので省いたということは
蠣崎
信広
の前身前歴をかくすために故意(こい)に省いたことも,安東政季の聟になったり、政季の女を養子として
蠣崎
信広
にめあわせた(○○○○○)などということから、恐らく,⑤康正三年(一四五七) 下北
蠣崎
の錦帯域主
蠣崎
蔵人信純(後の武田
信広
といわれる人物)が、北部王家,長禄元年(一四五七)コシャマインの乱の時の箱館の館主河野政通(まさみち)、相原政胤(まさたね)、
蠣崎
信広
,このことから安東政季、
蠣崎
信純(後の武田
信広
)等の渡島は、康正三年五月十四日以前ということが推定される
椴法華村史
(康正二年、長禄元年の乱)
これに対し和人側は、わずかに残された、下国家政の守備する下国の館(茂辺地)と
蠣崎
季繁の守備する花沢館(,この時アイヌ人を鎮圧した武田
信広
は、
蠣崎
季繁の嗣子となり、上の国に州崎の館を構築し、次第に諸館の館主達,これが後の松前藩第一代の
蠣崎
信広
である。
函館市史 通説編 第一巻
(コシャマインの乱)
松前氏祖 武田
信広
しかも越えて翌長禄元(1457)年5月、東部の酋長コシャマインを陣頭に、いよいよ,に破竹の勢いをもって道南に点在する諸館をことごとく落とし、残るはわずかに下国家政の茂別館と、上ノ国の
蠣崎
季繁,時に花沢館の
蠣崎
季繁の客将武田
信広
は、敗走した諸館軍を整えて七重浜に戦い、苦戦のすえ武田
信広
の強弓でコシャマイン,しかも、これを契機として
信広
は
蠣崎
季繁の養嗣子となり、しだいに諸館主を糾合して覇権を握り、やがてアイヌ
函館市史 通説編 第一巻
(乱後の箱館)
子孫は、志海苔の3代小林三郎右衛門良治が永正11年松前に移り、与倉前小林季景の子小三郎景宗は、同12年
蠣崎
光広,に臣事し、また河野季通の1女(3歳)は、乳母に負われて松前に逃れ、後に
蠣崎
季広(松前家4代)の室になったという,なお、これらアイヌの動乱は諸館の統一をもくろむ
信広
父子がアイヌを使嗾(しそう)して起こさせた策謀という
函館市史 銭亀沢編
(館主たちの支配版図)
政季は、それぞれ「下之国守護」に弟の下国家政、「松前之守護」に下国定季、「上之国之守護」に
蠣崎
季繁(原文,では武田
信広
とあるが
蠣崎
季繁が史実)を補任し、その守護職を補佐する者として、それぞれ「下之国」に河野政通,、「松前」に相原政胤、「上之国」に武田
信広
を配置したのである。
椴法華村史
(和人の館)
更に同書によれば、享徳三年(一四五四)八月二十八日、下國安東政季は武田(
蠣崎
)
信広
、相原政胤、河野政道
戸井町史
(一、蝦夷時代の概観)
一、蝦夷時代の概観 天正十八年(一五九〇)
蠣崎
慶広が豊臣秀吉から蝦夷地の領有権を認められる以前を蝦夷時代,松前家の祖、武田
信広
が渡島直後に起った道南の大事件コシャマインの乱すら、蝦夷の伝えたものでは何一つうかがい,『松前年代記』は『福山秘府』の資料の一つになった文献であるが、これは松前藩の始祖武田
信広
時代から寛文七年,長禄元年(一四五七)下北から渡島した
蠣崎
信広
が、コシャマインの大乱を平定してからも、和人に対する蝦夷の,より五代目の
蠣崎
慶広が、豊臣秀吉から蝦夷地の領有権を与えられた天正十八年(一五八三)以降である。
函館市史 通説編 第一巻
(安東政季らの渡海)
それがその後成人して名も安東太郎政季と改め、田名部を給せられていたが、享徳3年武田若狭守
信広
、相原周防守政胤,われて逃鼠(とうざん)したものと考えられる」(『新撰北海道史』)といい、あるいはまた、「田名部の豪族
蠣崎
蔵人,また、大館(松前町西館)には、同族下国山城守定季を置き、相原周防守政胤をしてこれを助けさせ、武田若狭守
信広
,を上ノ国に置いて、花沢館の
蠣崎
修理太夫季繁とともにこの地を守らせた。
戸井町史
([戸井町の文化財])
[戸井町の文化財] 和人が始めて戸井に渡来したのは「戸井町の沿革」で述べたように、松前家の始祖
蠣崎
信広
戸井町史
((参考)康正三年(一四五七)の下北地方豪族配置図)
(参考)康正三年(一四五七)の下北地方豪族配置図 錦帯城主
蠣崎
信純渡島直前の下北豪族配置図 ,丁丑は「康正三年」で、
蠣崎
蔵人信純(後の武田
信広
といわれている人物)の居城、錦帯城(きんたいじょう)、,、「北之御本城・鶴崎山順法寺城(今の城ケ沢)」「北部王家の新屋形・御花御殿(今の田名部、新谷平)」「
蠣崎
,、秋田外記・久城三郎兵衛)」「湯野沢(下野沢(下風呂)(
蠣崎
主税、北川突呂賢)」「湯本(
蠣崎
三郎右衛門,秋田外記、久城三郎兵衛 兵糧一八二、〇〇〇石 湯野沢
蠣崎
主税領、北川突呂賢 一二、〇〇〇余人
恵山町史
([渡島半島“みち”のはじめ])
これに対して和人豪族側は、上ノ国花沢館の客将武田
信廣
を総指揮官に、態勢を立て直し反撃に移り、長祿元年(,武田
信廣
は、その後上ノ国
蠣崎
家を継ぎ事実上諸豪族の指導者の地位に着き、第2代光廣は本拠地を大館・松前に,いわゆる“はりみち”も、かって下國家政が武田
信廣
に会いに行くため通った踏み分け道・木古内山道を、文化年間
函館市史 銭亀沢編
(コシャマインの戦い)
然りと雖も下之国の守護茂別八郎式部太輔家政、上之国の花沢の館主
蠣崎
修理大夫季繁、堅固に城を守り居す。 ,其時上之国の守護
信広
朝臣惣大将として、狄の酋長胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人を射殺し、侑多利(ウタリ,長禄元年の最大規模の民族戦は、前引のように、武田
信広
が総大将となり「狄の酋長胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人
函館市史 銭亀沢編
(安藤康季の渡道と「道南の十二館」)
享徳三(一四五四)年、安藤政季は晴れて武田
信広
・相原政胤・河野政通らを従え、南部大畑より、蝦夷島に渡った,岡部六郎左衛門尉季澄 比石(ひいし)館 上ノ国町字石崎 厚谷左近将監重政 花沢館 上ノ国町字勝山
蠣崎
修理太夫季繁
戸井町史
([蝦夷地と馬])
安東盛季や
蠣崎
信純(武田
信広
)などは、戦(いくさ)に敗れて命からがら渡海したので、馬を船に積んでくるなどという
戸井町史
(目次)
…………148 一、和人渡来の始 二、和人の館 三、道南の館主と政季、
信広
, 一、安達の小連の娘の哀話(脇野沢村) 二、石神神社の由来(脇野沢村) 三、
蠣崎
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