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函館市史 通説編 第一巻
(諸術調所)
諸術調所
安政3(1856)年箱館奉行は、西洋諸学術の研究および教育普及の目的で、
諸術調所
を創設した,金属分析術などへの研究も進んだので、その学殖を高く評価した竹内、堀両奉行が安政3年、幕府に稟議し、ここに
諸術調所
,からこれを建設するのは経費も多くかかるので、簡易を旨として分析所と称したのであるが、幕府の命によって
諸術調所
,元治元(1864)年、斐三郎が江戸の開成所(東京大学の前身)の教授となって転じてからは、
諸術調所
も自然消滅,更に静岡県立中央図書館の葵文庫には、
諸術調所
印のある兵法の浄書が多くあり、これらからも同所の研究内容がいかに /
諸術調所
函館市史 通説編 第一巻
(箱館洋学所)
諸術調所
は特に語学だけを単一的に教授したわけではないが、蘭学諸技術の修得はまずオランダ語から始められることになるから,斐三郎は米国貿易事務官ライスから英語を学んでおり、
諸術調所
の蔵書中には英書も多く見られる。
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使立函館学校)
開校した函館学校は、松蔭町にあった官舎(松蔭町6、旧
諸術調所
)を補修、利用したもので、郷塾同様に漢学と,教授、教員には大主典堀達之助・14等出仕小貫庸徳・使掌菊池卓平(盛岡県士族、4年9月洋学助教拝命、幕末
諸術調所
函館市史 通説編 第一巻
(貿易船の海外派遣)
安政六未年六月 この意見は急速に実行をみるには至らなかったが、文久元(1861)年に至り、
諸術調所
教授武田斐三郎,箱館奉行は、蘭学者武田斐三郎を招いて通訳を養成すると共に、蘭書によって外国の技術を研究、採用せしめ、
諸術調所
函館市史 別巻 亀田市編
(五稜郭築造の内容)
、早速着工の運びとなり、安政三年十一月、組頭河津三郎太郎祐邦、調役並鈴木孫四郎、下役元締山口勇之進、
諸術調所
教授武田斐三郎成章,かくて設計監督は
諸術調所
教授武田斐三郎、土工工事担当松川弁之助、石垣工事担当初代井上喜三郎、庁舎及び役宅建築担当中川源左衛門
函館市史 別巻 亀田市編
(五稜郭の築造)
設計者は、
諸術調所
教授武田斐三郎で安政三年十一月工事に着工し八年の年月を費やし元治元(一八六四)年五月竣工
函館市史 通説編 第二巻
(通訳者の養成)
その後、同6年4月には箱館で諸代金の代わりに外国船が提出した書籍類は、
諸術調所
教授役(武田斐三郎)と通弁御用,また、交易開始後は同じく検閲の上で、必要なものは買い上げて
諸術調所
の蔵書とすることになった。
恵山町史
([郵便とは])
(註)前島(まえじま)密(ひそか)越後高田藩士の子、安政元年(1854)20歳の時、箱館に来て
諸術調所
恵山町史
(5、村並から「尻岸内村」へ)
、郷土の史跡、古武井溶鉱炉と関連施設(冷水川仮溶鉱炉・女那川レンガ製造所)の築造は、幕府・箱館奉行(
諸術調所
教授
恵山町史
((3)弁天岬砲台と五稜郭)
箱館奉行はこの通達を受け、その設計を英俊な蘭学者であり、
諸術調所
教授の武田斐三郎に当たらせたのである。
函館市史 通説編 第二巻
(奉行配下の吏僚)
24) 21(20) (4) 箱館御役所書物御用出役 2(2) 2(2)
諸術調所
教授役,通詞」の4名は、品川藤十郎・堀傳造・荒木卯十郎・植村直五郎(B)の「下役格」1名はともに名村五八郎、「
諸術調所
教授役
函館市史 通説編 第二巻
(函館訓盲院)
障害児教育はほとんど顧みられない分野ではあったが、盲・聾児の教育に関しては、4年に工学頭山尾庸三(幕末の
諸術調所
恵山町史
([五稜郭と古武井熔鉱炉])
そして、これらの設計に当たったのが蘭学者であり
諸術調所
教授役の武田斐三郎である。 ,当初の五稜郭の築造プラン(設計者は蘭学者で
諸術調所
教授役の武田斐三郎)は、西洋の「塁営台場」を模倣し、,また、昭和14年版の「渡島の史跡と景勝」という観光パンフレットには、熔鉱炉跡の写真が添えられ「箱館奉行
諸術調所
教授役武田斐三郎
函館市史 通説編 第二巻
(当初の五稜郭プラン)
なお、この設計者は、弁天台場と同じく蘭学者武田斐三郎(
諸術調所
教授役)であったが、「五稜郭」という名称
恵山町史
(③幕末蝦夷地の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:古武井の高炉)
にきたまま箱館にとどまって幕臣となった斐三郎は、安政3年(1856)8月21日付をもって、新設された「
諸術調所
,;787~788p) これらの産業近代化もさることながら、武田斐三郎を教授(実際は校長)とする「
諸術調所
,「
諸術調所
」は安政3年(1856)8月の開設にさいしては、経費も僅かで簡略に「分析所」と称して発足したが,、幕命で
諸術調所
と改名されたものである。,彼は技術者であったがゆえに、政治には超然として北辺の防備、開拓のためのに専心できたのであろうが、彼の
諸術調所
教授
函館市史 通説編 第二巻
(郷塾(郷学校))
、奉行所内学問所での一般教育をはじめ、運上会所内に開設された英語稽古所や箱館洋学所、武田斐三郎による
諸術調所
函館市史 通説編 第二巻
(貿易船の海外派遣)
亀田丸に支配調役水野正太夫、
諸術調所
教授役武田斐三郎らが乗組んで、文久元年4月28日箱館出帆、5月7日,健順丸には、御軍艦奉行支配組頭箱館奉行支配調役並山口錫次郎以下の箱館奉行所、
諸術調所
関係の役人が乗船、
恵山町史
(②古武井熔鉱炉に関する研究 幕末期蝦夷地開拓と外国技術)
砲台の築造・熔鉱炉の建造等々について尋ねさせ、外国技術の吸収に努めさせるとともに、安政3年(1856)
諸術調所
,この
諸術調所
こそ、未開の蝦夷地に外国技術を移植する中心となったものである。 ,この調査行で武田の蘭学の知識が堀・村垣に与えた影響は、その後の蝦夷地開拓政策に大きく反映し、「
諸術調所
,2、この熔鉱炉は箱館奉行
諸術調所
教授武田斐三郎の設計、建設になるもので、附近の海岸に産する砂鉄を精錬するために,しかしながら武田斐三郎のこの事業及び
諸術調所
を中心とした数々の業績は、遅れた蝦夷地に外国技術という新風
函館市史 通説編 第二巻
(船舶購入と航路の開拓)
武田斐三郎が教授役を勤めた
諸術調所
に入門して武田の門下生となり航海術を学び、文久元年には箱館奉行所の亀田丸
恵山町史
(①松前地古武井熔鉱炉の研究並びに考証年表)
3、斐三郎らの任務過重築造係(築造責任者)斐三郎は、二大工事の築造係でもあり、
諸術調所
教授役も兼務し(,月23日・竹内、堀、村垣三奉行「蘭名ホーゲオーヘン取建候儀申上候書付」8月許可 8月・箱館奉行支配、
諸術調所
,村垣淡路守箱館在勤11月 9日・熔鉱炉、囘火火炉(反射炉)産物掛りにて取捌、別段下役以下掛り無出処、
諸術調所
掛,8月・斐三郎箱館奉行
諸術調所
教授となる。,歴史研究協議会機関紙「道南の歴史NO8~12」) 4月・新井幸男北海道文化財専門委員、現地調査11月14日・向井晃「
諸術調所
函館市史 通説編 第二巻
(新しい産業分野をめぐって)
諸術調所
では、模型をつくったり、また、実物をもつくり出そうとしていた。試射も何度か実施していた。
恵山町史
(銅・鉛・亜鉛・硫化鉄・アンチモニー)
については、古くから知られ江戸末期の安政2年(1855年)に、箱館奉行竹内下野守(保徳)の命によって、
諸術調所
教授役武田斐三郎
恵山町史
((4)古武井高炉と一連の施設)
③設計・築造責任者の武田斐三郎の多忙説、高炉と同時に弁天砲台・五稜郭の建設工事指導、
諸術調所
教授として
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