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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (貝塚)

貝塚 貝塚は北欧から南米の各地で見られるが、デンマークの海岸一帯には数も多く、研究の歴史も古い。,北欧には貝塚時代と呼ぶ時代があって、中石器時代にまでさかのぼるが、日本では縄文時代から歴史時代まで貝塚,貝塚についてはこれまでにも述べて来たが、先史時代の自然環境や生活環境を知る上で重要な遺跡が貝塚なのである,関東地方では大規模な貝塚が海岸から20キロメートルも内陸の段丘上にあって、400メートルの範囲に貝塚が,貝塚の外側に住居址があったり、内側に集落があるなど、貝塚と集落の関係は非常に密接である。 / 貝塚
函館市史 通説編 第一巻 (貝塚の分布)

貝塚の分布 函館において貝塚はどのような所にあったのであろうか。,ミルンやモースが発掘した貝塚は函館山の麓で、現在では面影すら見られないが、函館公園内の貝塚出土の遺物、,この貝塚は坂下の天祐寺境内にまで広がる規模の大きな貝塚で、近年まで道路上に貝塚が散らばっていたのが見られた,青柳町貝塚はかつてアサリ坂貝塚と共に山麓部に広く分布していた。,このほか函館山の対岸にほ湯川貝塚、煉瓦(れんが)台貝塚、赤川貝塚、桔梗サイベ沢貝塚があり、それぞれが約 / 貝塚の分布
函館市史 通説編 第一巻 (貝塚の全盛期)

貝塚の全盛期 渡島、函館に山のように堆積された貝塚があったが、現在それが見られる場所は少ない。,畑地などに露出していた貝塚は、函館ではアサリ坂貝塚、青柳町貝塚、湯川貝塚、煉瓦台貝塚の4か所、渡島では,戸井の原木貝塚、熊別川貝塚、戸井貝塚、松前の伊勢畑貝塚、長万部の静狩貝塚の5か所で、中でも静狩貝塚は1,渡島地方で余市式土器を伴う貝塚は、アサリ坂(天祐寺)貝塚、青柳町貝塚、湯川貝塚、煉瓦台貝塚、戸井貝塚、,熊別川貝塚、原木貝塚、伊勢畑貝塚、静狩貝塚で、貝塚と遺跡名が付けられているほとんどの貝塚から余市式土器 / 貝塚の全盛期
函館市史 通説編 第一巻 (貝塚と住居址)

貝塚と住居址 函館に貝塚が形成された時の住居や集落はどのようであったのか、函館の貝塚は早くから全国に,青柳町貝塚と湯川貝塚から石組の炉跡が発見されたり、函館公園貝塚の上の裏参道の崖に竪穴住居の断面が出ていたなどのことから,5、6号貝塚は西の崖に近い位置にあって、6号貝塚は発掘によって住居址の掘り込み面で発見され、4号貝塚も,煉瓦台貝塚の住居址 棟瓦台貝塚一覧 貝塚 規模 摘要 1号貝塚 14mx8m 地表に露出 2,号貝塚 11mx8m 地表に露出 3号貝塚 14mx9m 地表に露出 4号貝塚 3mX3m 埋蔵 5号貝塚 / 貝塚と住居址
函館市史 別巻 亀田市編 (貝塚を構成する貝類)

貝塚を構成する貝類 一般に貝塚と言われているものは、縄文人が採集した貝や魚、動物などを食べたあと、その,例えば関東地方の加曽利貝塚や姥山貝塚などでは、丘陵上に馬蹄形あるいは半月形平面に堆積し、特に姥山貝塚の,一方加曽利貝塚からは緊急調査により貝塚や竪穴住居跡が発掘され、貝塚の断面や竪穴住居跡は発掘した当時の姿,煉瓦台貝塚は、昭和二十四年の調査で貝塚の一部が発掘され、住居跡の一部が確認されたが、十余年後の昭和三十六年,貝塚を構成する貝類については、二号貝塚の露出部にあらかじめ二五〇平方センチメートルの面積の区画を設定し / 貝塚を構成する貝類
函館市史 銭亀沢編 (石倉貝塚の特異性)

石倉貝塚の特異性 縄文時代後期における集落跡が確認された例は少なく、一般的には小規模で分散する傾向にあるとみられている,この中で、平成六年度から調査された石倉貝塚(『石倉貝塚Ⅰ~Ⅲ』函館市教育委員会一九九五~一九九七)は、,貝塚形成に関連する住居などの存在が考えられていたが、実際にはほとんど生活を営んでいた跡は見当たらず、何,、どうやら通常の集落に伴う貝塚とは異なる性格であった可能性が高い。  ,これらのことから、石倉貝塚は墓地や祭祀関係の場、あるいは何らかの集合広場など、様々な用途が考えられるが / 石倉貝塚の特異性
函館市史 別巻 亀田市編 (昭和三十六年に貝塚消滅)

昭和三十六年に貝塚消滅 煉瓦台貝塚は、湯倉神社裏の湯川貝塚と共に、昭和三十年ころまで、道南地方においては,珍しく原形のまま残されていた代表的な貝塚であった。,それが昭和三十六年には後述するように湯川貝塚に次いで宅地造成のため消滅してしまった。,煉瓦台貝塚が発見されたのは昭和二十三年である。,と同時期の新発見のこの貝塚の存在を確認した。 / 昭和三十六年に貝塚消滅
函館市史 別巻 亀田市編 (サイベ沢貝塚人骨発見)

サイベ沢貝塚人骨発見 サイベ沢遺跡発掘調査を一週間後にひかえた同年四月十六日、函館考古学会が発足した,発掘調査の記録は見当らないが、函館図書館に「サイベ沢貝塚人骨発掘」という記録写真があり、これで見ると『,人骨は台地の中央部を南北に走る農道から少し西に入った沢のがけで、地表から約四メートル程の地中にある貝塚,東北大学医学部教授であった長谷部は山内清男らと青森県南部町相内(あいない)のオセドウ貝塚や八戸市是川中居貝塚 / サイベ沢貝塚人骨発見
函館市史 別巻 亀田市編 (昭和二十四年の発掘)

)貝塚だけであった。,地表に露出している貝塚は、実際の貝塚面積より少ないが、この六か所の貝塚中、規模の大きな貝塚は三か所あり,、一号貝塚が径一二メートル、二号貝塚が径一〇メートル、三号貝塚が径一五メートルあって一号と三号貝塚は接,四号貝塚は一、二、三号貝塚と五、六号貝塚とのほぼ中間地点にあって、これも五、六号と同程度の規模のものであった,煉瓦台貝塚・貝塚と住居跡の分布(1) 煉瓦台貝塚・貝塚と住居跡の分布(2)
函館市史 通説編 第一巻 (自然遺物)

貝塚から出土する人工遺物以外の貝殻なども自然遺物で、当時の人間が意識的に採集したものである。,煉瓦台の2号貝塚は純貝層が厚く、250立方センチメートルの貝殻を採掘して分類してみると、ハマグリが65,湯川貝塚や天祐寺貝塚(アサリ坂貝塚の一部)の貝もこれと大差がない。,煉瓦台貝塚の獣骨類は、エゾシカの四肢(し)骨、頭骨、角、下顎(がつ)骨、トドの脊椎(せきつい)骨、腕(,クマの骨格は貝塚では発見されていない。
函館市史 別巻 亀田市編 (縄文時代各期の遺跡)

この時期は貝塚形成期となり、赤川の函館市水道局浄水場の近くやサイベ沢、煉瓦台、湯倉神社裏に貝塚を残し、,函館山周辺では函館公園裏、アサリ坂、大町にも貝塚が形成され、道南地方でも松前の伊勢畑貝塚、戸井の戸井貝塚,、原木貝塚、長万部の静狩貝塚が、この時期に形成されている。  ,函館には函館公園から出土した青柳町式土器というものがあり、これに類する土器が煉瓦台貝塚、湯川貝塚、天祐寺貝塚,で発見されているので、貝塚の形成期は中期から後期の前半までと考えられている。
函館市史 通説編 第一巻 (エドワード・S・モース)

エドワード・S・モース エドワード・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の大森貝塚,を発掘し、明治12年に英文『大森貝塚』と邦文『大森介墟編』の2論文を東京大学理学部の最初の紀要に発表しているが,この2人の研究を読み比べると、ミルンは大森貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して,、モースはアイヌ人はエスキモー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種で、大森貝塚人のように土器を作
函館市史 通説編 第一巻 (続縄文文化)

縄文式以後の土器形式について注目した山内清男は、昭和8年「日本遠古之文化」(『ドルメン』)で、室蘭市本輪西貝塚上層,昭和25年に東北大学の駒井和愛らが茅部郡森町の尾白内貝塚を発掘し、昭和30年代に入って亀田郡尻岸内町恵山貝塚出土,これが後述する函館の能登川隆コレクションで、尾白内貝塚、本輪西貝塚と同時期の資料であった。,駒井和愛は尾白内貝塚をアイヌの貝塚と考え、その年代を平安時代まで下るとしたが、貝塚から出土した上層の須恵質,の土器と、貝塚を構成する主体が続縄文の古い形式であり、年代について改められるようになった。
函館市史 通説編 第一巻 (恵山文化とその資料)

恵山式土器と貝塚の発掘品は、函館の能登川隆が集め、資料は一括して市立函館博物館に寄贈され、現在では市指定有形文化財,この貝塚や遺跡は、文化庁から国指定の文化財候補として調査されたが、貝塚が消滅しているため、国指定としての,恵山貝塚は、函館市の東約40キロメートルの所にあり、渡島半島南東端で現在の亀田郡尻岸内町恵山にある。,海岸線に発達した段丘に遺跡があって貝塚は段丘崖にあったが、昭和29年以後に貝塚は消滅した。,貝塚や墓壙からは漁労具、装飾品などの優れた骨角製品が出土しているが、能登川は「北海道恵山先史遺物図集」
函館市史 別巻 亀田市編 (住居跡)

煉瓦台貝塚の1・2号住居跡(昭和36年調査)  当時の食生活はほとんどが生食で、貝塚から多量に発見,、貝塚はごみ捨場であると書いてある本などもあるが、これは誤った考え方であろう。,これは、サイベ沢遺跡のように、貝塚に人骨を埋葬してあったことからもわかる。,煉瓦台貝塚では人骨の埋葬は確認できなかったが、ほぼ時期を同じくする室蘭の貝塚では、何体もの人骨が埋葬されていたし,、この煉瓦台貝塚や、住宅の下になった湯川貝塚にも、かなりの埋葬人骨があるものと考えられる。
函館市史 通説編 第一巻 (円筒土器の遺跡)

の上に円筒上層式の貝塚が作られたわけである。,八木遺跡の貝塚は円筒下層式の時期に形成され、火山灰層などがその上に堆積している。,函館周辺地域以外で貝塚を伴った遺跡は噴火湾沿岸に多く、長万部町静狩貝塚、虻田町入江遺跡、伊達市若生貝塚,サイベ沢遺跡のように円筒下層式と円筒上層式の貝塚が併存する遺跡は静狩貝塚、入江遺跡、ポンナイ遺跡である,貝塚が形成されている遺跡はサイベ沢、赤川で、貝塚を伴わない遺跡の方が多い。  
恵山町史 ((1)上昇した海水面)

苫小牧海岸から17キロメートル内陸の千歳市美々には、美々貝塚と呼ばれる早期末から前期の貝塚がある。,勇払原野のもっとも奥まったところにある、北海道では最も内陸に位置した貝塚である。,貝塚を構成する貝の大部分はヤマトシジミとアサリであるが、暖流系のアカニシやウネナシトマヤガイなども含まれていて
函館市史 通説編 第一巻 (オホーツク文化)

これがオホーツク文化で、網走モヨロ貝塚からはアイヌ人と全く異なるアリューシャン列島の原住民に似た骨格を,北千島については馬場脩が昭和5年から貝塚や竪穴住居址の調査に取組んでいたが、北千島は日本民族の源流を探,米村喜男衛の調査で知られた網走のモヨロ貝塚は、昭和22年秋と翌23年に東京大学と北海道大学の合同調査団,貝塚の埋葬人骨と竪穴住居址などが発見されてオホーツク文化が北海道に定着していたこと、その性格がアイヌ民族
恵山町史 ((5)円筒土器文化の崩壊)

海岸部に位置したこの時期の遺跡は貝塚を伴うことが多く、函館市の旧海岸線沿いに分布した天佑寺貝塚、湯ノ川貝塚,や戸井町戸井貝塚はこの時期に形成されたものである。
恵山町史 (2、恵山町内の続縄文前半期の遺跡)

所属していた名取武光氏が能登川隆氏とともに、恵山の南西山麓に広がる標高15メートルの海岸段丘上にある貝塚,この調査後、恵山貝塚から出土した土器が亀ケ岡式土器の終末期の特徴と後北式土器の特徴をもっていることから,恵山貝塚の発掘調査は以後、1960年と翌年に吉崎昌一氏によった発掘調査、1966年に名取武光・峰山巌の,写真7は1960年の調査時の貝塚断面で、写真8は配石された墳墓の上面、写真9は墓壙壙底に副葬された土器,「能登川コレクション」として市立函館博物館に収蔵されている恵山貝塚出土遺物には、前述した海獣や熊などの
恵山町史 (1、恵山式土器文化)

1、恵山式土器文化 概要  遺跡が海岸線に面した砂丘上や段丘上に立地し、恵山貝塚や尾白内貝塚のような,7、恵山貝塚の貝層断面 (恵山貝塚、昭和36年、吉崎昌一撮影)   土器  縄文時代に煮炊き,下添山遺跡、瀬棚町海岸砂丘遺跡などから出土するほか、恵山貝塚からも出土。    ,恵山貝塚、尾白内遺跡が代表的な遺跡である。    ,精巧な彫刻が施された骨角器は石器だけではなく金属器を用いて製作されたと考えられ、恵山貝塚、森町尾白内貝塚
函館市史 通説編 第一巻 (熊と海獣の文化)

西桔梗B2遺跡、七飯の桜町遺跡、鳴川遺跡と恵山貝塚、尾白内貝塚などにもある。,峯山厳が調査した噴火湾の礼文華貝塚では、貝塚を一定の地域に自然石を配列して囲み、その一角に積石塚を設けて,熊飾りのある土器の中で珍らしいのは、恵山貝塚出土の、小西弥六所蔵のもので、この土器はあたかも皮袋に液体,恵山貝塚の骨角製品には生産用具、日用品、装飾品などがある。,恵山貝塚の骨角器(市立函館博物館蔵)
恵山町史 ([恵山町で行われた主な発掘調査])

[恵山町で行われた主な発掘調査] 第1図 恵山町内の遺跡分布図  恵山町内では恵山貝塚、日の浜遺跡,現在も遺跡が残されているのは、北海道の文化財に指定されている恵山貝塚など数遺跡で、他の遺跡は道路工事や,恵山貝塚  昭和15年           名取武光・能登川隆  昭和35年10月26~30日     ,   だが、発掘報告書が刊行されるか概要が報告されているのは、昭和41年と昭和58年に行われた恵山貝塚
函館市史 銭亀沢編 (銭亀沢地区の遺跡の立地)

空港第6地点 早稲田貝塚 6,000年前 縄文時代 大規模集落の形成。,貝塚の 縄文尖底・丸底土器 豊原1遺跡 三内丸山遺跡  前 期 出現。,日吉遺跡 戸井貝塚 祭祀関係遺構の出現。,本州から金属器文化 成土器(恵山式土器 石倉貝塚 宇鉄遺跡 が伝播。,・後北式土器) 西桔梗B2遺跡 恵山貝塚 魚形石器。
函館市史 通説編 第一巻 (先人の足跡)

幾つかの貝塚がこの山裾の丘陵上にあった。,貝塚とは数千年も前の人々が食べた貝殻や動物の骨などが堆積して小高くなっていたところで、大きなものは円形,貝塚の近くに集落があって、貝殻のほかに当時の人たちが使用した日常の什(じゅう)器や漁労具、狩猟具が発見,貝塚の位置は、現在の海岸線から離れた丘陵上に分布しており、貝塚が造られたころは、まだ海水面が高く、海が,そして外国人による東京の大森貝塚と函館における発掘調査がもとになって、日本民族の起源の研究が進み、日本
函館市史 別巻 亀田市編 (堆積層と層序)

堆積層と層序 発掘調査した地域は、以前人骨が発見されたと考えられる貝塚の地点からである。,貝塚は畑など地表に散在する場合と、層状になって地層の一部となっている場合とがある。,地表に露出している貝塚も、耕作によって地中にある貝層が掘り起されて露出する例が多い。,貝塚は大規模な分布を呈するものや、遺跡の一部にしかない場合など、時代や立地により、また、形態なども一定,貝塚の形成には人為的堆積と自然的堆積の場合があるが、考古学では人為的堆積を重要視する。
恵山町史 (1、北海道指定文化財)

1、北海道指定文化財 「史跡」恵山貝塚   所 在 地/亀田郡尻岸内町字恵山   規模数量等/指定面積,5,455平方メートル   指定年月日/昭和42年3月17日   所 有 者/山本栄作ほか  恵山貝塚,恵山貝塚は墳墓および住居跡からなっているが、大部分は未調査のままである。,貝塚は、地表下25~70センチメートルに認められ、豊富な遺物が包含されている。,〈恵山貝塚〉 骨角器・魚形石器 恵山式土器  〈古武井熔鉱炉跡〉 [古武井熔鉱炉跡
函館市史 通説編 第一巻 (シーボルト父子)

初めて函館と小樽の石器時代遺跡を調査し、また人類学、先史学の先駆者エドワード・シュベスター・モースが貝塚,の採集をかねて函館、小樽、札幌、白老などの貝塚やアイヌ集落を調べた年でもある。
函館市史 通説編 第一巻 (トーマス・W・ブラキストン)

ミルンやモースが函館で貝塚の発掘ができたのも、後記するようにヒッチコックが函館で収集品を見ることができたのも,、ブラキストンの案内とアドバイスがあったからで、彼自身アイヌ民族や貝塚、竪穴住居址についても博識であった
函館市史 別巻 亀田市編 (岡田健蔵らの調査)

岡田がサイベ沢遺跡を発掘した理由は、函館においてアサリ坂貝塚(づか)や青柳町貝塚など重要な遺跡が次々に
函館市史 通説編 第一巻 (煉瓦台貝場の土器)

煉瓦台貝場の土器 この貝塚から出土する主な土器は前述のように余市式土器で、わずかに東北地方の榎林式や,煉瓦台貝塚の余市式土器は大谷地貝塚出土のものと装飾などに多少の違いもあるが、その一般的特徴は器形が円筒形
函館市史 通説編 第一巻 (ジョン・ミルン)

彼は明治10年に渡島の火山を調査しているが、翌年には貝塚などの遺跡を発掘し、8月に開拓使委員や通弁官らと,九州旅行中に貝塚から土器を発見し、北海道にも同種の土器が出土することから、日本国中に石器時代の遺跡が存在,に小樽の銘刻(古代文学)のスケッチおよび函館、小樽の石器や土器の写真などが載せられており、特に函館で貝塚,小樽に移動し、その後にアイヌ民族が来たと考え、日本全般については南の九州から北の蝦夷(北海道)に至る貝塚
函館市史 別巻 亀田市編 (土器製作用粘土)

これまで土器がどのように製作されたか明らかではないが、一号貝塚に程近い所に、粘土の集積地があった。,ここは住居跡と貝塚の中間で、住居構造などが発見された地下六〇センチメートルの黄褐色粘土層面に、高さ推定一
函館市史 通説編 第一巻 (函館考古会の設立気運)

函館考古会の設立気運 明治初年にミルン、モース、ブラキストンらの外国人が函館におもむいて貝塚や遺跡を,高大森(現在の高盛町、日乃出町)の砂丘(通称砂山)、旧岩船家別荘(現在の見晴公園)、湯倉神社裏の湯川貝塚,(中略)(貝塚は)アサリ坂 青柳町より蓬莱町へ降る坂 及び(函館)公園の前住吉町の道路の東にあるもの顕著,其他谷地頭に二、三の小貝塚あり。(中略)チャシコツは蝦夷語にして、チャシは砦、コツは跡の義なり。
函館市史 通説編 第一巻 (狩猟と漁労)

これは遺跡の分布が河川流域や旧海岸線などにあり、貝塚も比較的多く、釣針や銛などの漁労具が骨角製であるため,、貝塚や洞窟遺跡など保存条件のよい遺跡でよく発見され、埋蔵状態のよくない普通の遺跡では骨角製品は残らないが,貝塚とか骨塚と呼ばれる地点では、陸上動物や海上動物の遺存体が多量に堆積している。,海岸に近い貝塚ではクマなどに代り海獣が多い。,東日本では貝塚や洞窟から数頭ずつの埋葬例が報告されている。
椴法華村史 (〔椴法華遺跡〕)

余市式土器とは余市大谷地貝塚の上層から発見されたので余市式と呼んでいるが、器形はほとんど円筒形をしていて,この土器形式は、函館の煉瓦台貝塚、戸井の戸井貝塚や原木貝塚から出土しているが、青森県にはほとんどみられない,続縄文の恵山式土器とは、恵山町の根田内にあった恵山貝塚出土の土器から恵山式と呼ばれている。,この遺跡は冷水川の右岸台地にあったが、貝塚は消滅してしまった。,椴法華遺跡の恵山式文化がどの程度の遺跡規模か明らかでないが、浜町遺跡には貝塚もあったので、集落の中心は
恵山町史 ((2)均一になった土器)

墓と貝塚  東釧路遺跡では貝層の下からは2基の墓壙が発掘され、そのうちのひとつは土壙中に赤色塗料のベンガラ,網走市網走湖底遺跡、釧路市東釧路第1地点などのような小さな貝塚が道東に分布し、魚骨・海獣骨・陸獣骨・貝類,貝塚から出土した温暖種の貝類は気候の温暖化の進行を、網走湖底遺跡の存在は当時の海水面がまだ現在よりも低
函館市史 銭亀沢編 (早期から前期へ過渡期の集落跡)

集落跡はそれほど多く確認はされていないが、わずかに同一丘陵上では東隣りの水系にあたるムジナ川沿いの石倉貝塚,規模的には小集団単位とみられ、存在が確認されている中野A遺跡、石倉貝塚、豊原1遺跡などでは、一から二軒
函館市史 通説編 第一巻 (北海道の学会)

人類学雑誌』に「北海道に於ける土偶の分布」を、また翌大正7年には函館にいた阿部正巳が同誌に「北海道の貝塚,函館古石器発掘」が最初で、その雑報の中に、函館港の近くで土器、石器が出ると報ぜられているが、前記の「北海道の貝塚,に関する私見」では函館の住吉町、アサリ坂貝塚、戸井貝塚などが明らかにされている。  
函館市史 通説編 第一巻 (石器)

貝塚の時代でもあるから、おそらく漁網も使用されていたであろうが、石錘の出土量が少なく、比較的大形のものなので,青龍刀形石器は煉瓦台貝塚、戸井貝塚などで出土しているが、一種の磨製石器で実用品とは思われない石器である,大きさ約7センチメートルのものであるが、この発見によって静狩貝塚出土の骨製の破損品が、青龍刀を模造した
恵山町史 ([引用・参考文献])

[引用・参考文献] 赤松守雄「北海道における貝塚の生物群集−とくに縄文海進に関連して−」『地球科学』,と釣の覚書」『北方文化研究報告』第15輯、北海道大学、1960 西本豊弘「尾白内中学校所蔵の尾白内貝塚出土動物遺存体,」『尾白内』森町教育委員会、1981 西本豊弘「恵山貝塚出土の骨角器と動物遺存体」『恵山貝塚』尻岸内町教育委員会,8号遺跡出土の晩期縄文土器について」『北海道開拓記念館研究年報』第7号、1979 小笠原忠久『恵山貝塚
函館市史 通説編 第一巻 (破砕の見習)

土器、石器、骨角製品で、尾白内貝塚の2体合葬の土壙墓では、人骨の頭部に甕(かめ)形土器の大きな破片がかぶせてあった,恵山貝塚の墓壙から出土した骨角製品にも破損品の副葬が認められた。
函館市史 別巻 亀田市編 (B2遺跡と恵山式土器)

恵山式土器とは、亀田郡尻岸内町の恵山貝塚を標式とする遺跡から出土した土器のことで、縄文時代晩期終末の大洞,このB2遺跡の貝塚からは、海亀、オットセイなどの海獣、イルカの骨や、熊の意匠のある骨製のスプーン、銛(,この貝塚一帯には墓壙があって、土器には熊の意匠飾りが付いたり、ボール形やカップ形土器という、これまでの,この文化は茅部郡森町尾白内貝塚など、噴火湾にも分布しているが、西桔梗ではこの地点にしかなく、これまでには
函館市史 通説編 第一巻 (日本人人種論)

しいが、現在では形質人類学によって、時代と環境によって骨格が変わることが研究例で見直されてきたため、貝塚形成,大森貝塚人についてミルンはアイヌ説をとり、モースはアイヌより前にいた人種、すなわちプレアイヌ説をとった,と比較して内地に貝塚を残したのはアイヌの祖先であるとした。,より出づる人骨について」の2論文で、坪井は小金井のアイヌ説に対しても、「小金井博士の貝塚人骨論を読む」,坪井の没後は小金井説が優勢となり、大正から昭和にかけて貝塚の埋葬人骨が盛んに発掘された。
函館市史 通説編 第一巻 (組織的研究へ)

有機的土壌中の花粉分析による植生の究明、骨角製品の材質がどのような動物や魚類のどの部分を使用したものか、貝塚中,昭和30年代には市立函館博物館では尻岸内町の恵山貝塚、日ノ浜遺跡、古武井溶鉱炉跡、森町森川貝塚など、縄文時代
函館市史 通説編 第一巻 (函館考古会の活動)

沢寄りに2か所の貝塚を伴う広大な面積の遺跡で、西側にあった貝塚から珍しくも縄文人の人骨1体分が発掘されたが,また、東北大学の山内清男と親交があった能登川隆は住吉町などの遺跡を発掘し、恵山貝塚出土の資料をまとめた
函館市史 通説編 第一巻 (狩猟と漁労)

動物を主食とした生活であったことは、貝塚から多量に発見される動物の骨と、それを解体料理するための皮剥ぎ,貝塚から出土する獣骨で最も多いのはエゾシカである。,貝塚から出土するクジラ、アザラシ、オットセイ、イルカなどの哺乳類、マグロ、マカジキ、サメ、ソイ、カレイ
椴法華村史 (銚子遺跡の発見)

があるのでこの水は飲料水として適しているため、海岸からとれた魚などを食べていたが、この地下に埋れている遺跡から貝塚,貝塚は、室蘭の本輪西貝塚では堆積層が四メートル以上あり、人骨も出土しているが、動物や魚の骨から六千年前
戸井町史 ([石器時代の戸井])

海岸段丘の下では、西浜町の〓金沢の畑地附近に繩文中期の貝塚がある。,又東浜町の海岸段丘一帯に広大な中期の遺跡があり、段丘の突端に層は薄いが貝塚がある。,西浜町の〓金沢の畑地も中期の遺跡で、厚い層の貝塚があり、貝塚の端の底から川砂が現われ、この時代の川口と,又段丘の縁から貝塚が露出していた。,この遺跡には薄い貝塚があり、貝層から鹿、鯨、魚類の骨が出土した。  
函館市史 銭亀沢編 (石倉さん)

石倉さん 石倉貝塚の近くの杉の木立の中に正一位石倉稲荷神社の棒が立っている。
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