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南茅部町史 下巻
(竹中重蔵)
竹中
重
蔵
郷土の沿岸にはじめて乗合自動車を走らせた竹中
重
蔵
は、慶応二年(一八六六)、能登(石川県)の,当時能登の蛸島辺では松前へ渡る三
蔵
の船を人棄船(ひとすてぶね)といったと
重
蔵
は記している。 ,江差に上陸した
重
蔵
は「函館向き」といわれて雇うところがなかった。,
重
蔵
は渡海の折の船上生活で皮膚病にかかり、川汲温泉に湯治。,
重
蔵
は一代にして海岸一の大事業家となる。とくに交通運輸事業の先駆者となる。 / 竹中
重
蔵
椴法華村史
(椴法華村・近村村役人)
椴法華村・
近
村村役人 後松前藩時代(一八二一-五四)の村役人で現在判明している者について『嘉永七甲寅年, 小頭 安右衛門 尾札部 頭取 与五左衛門 小頭
藤
藏
, 御百姓代 嘉太郎 尾札部持 川汲 小頭
重
兵衛 またアイヌ / 椴法華村・
近
村村役人
函館市史 銭亀沢編
(近代の妙応寺)
近
代の妙応寺 大正期の妙応寺(北海道立文書館
蔵
) 明治五(一八七二)年、明治政府の「神仏分離,」策を推進するため、神官菊池
重
賢が地内を神社調査した折、この妙応寺にも足を踏み入れた。,さらに当時の住職佐
藤
照稟は、自分で作った今上皇帝と征夷大将軍の位牌を併置していた。,経石庵に祭られているものは、妙見といい鬼子母神といい、加
藤
清正の掛物といい、それらはすべて日蓮宗寺院に,と寺号を公称したい旨の願書が開拓使へ「奉願」され、翌十月四日に「聞届」けられた(「庵号改称願」妙応寺
蔵
) /
近
代の妙応寺
函館市史 別巻 亀田市編
(自治功労者)
自治功労者 ○首長 佐々木善松
近
江新三郎 ○町議会議員(十年以上勤続) 筆村由之助 工
藤
久寿保, 井上忠三 土井勝雄 小柳忠
蔵
福田与一郎
藤
谷久三郎 坂本定
蔵
(故)西谷安友 ○農業委員会委員,(十年以上勤続)
藤
谷久三郎 土井勝雄 木戸浦
重
作 工
藤
久寿保 ○民生委員(十年以上勤続), 横川隼人
近
江慶一 横滝直
蔵
堂崎初栄 武
藤
霊真 ○選挙管理委員会委員(十年以上勤続) 間瀬徳雄, 木村富
蔵
近
藤
政吉 長内 実 丸山政雄 斎
藤
久吉 北山幸雄 市布義美 岡田勝太郎
函館市史 別巻 亀田市編
(村・町議会議員)
水島 玉
蔵
北林智恵司 本谷勝太郎 亀谷 利春
近
江新三郎 筆村由之助 佐
藤
長吉 , 木戸浦
重
作 福田与一郎 佐
藤
長吉 佐々木敏雄 松尾 正義 亀谷 利春 横滝 直
蔵
, 工
藤
久寿保 山村徳次郎 深田源太郎 小野耕太郎 木戸浦
重
作 福田与一郎 渋谷 , 山本朝一郎 関本 政
蔵
藤
谷久三郎 佐々木 正 平野
重
治 寺田 八郎 山村 衛敏, 伊
藤
安昌
近
江谷精一 関本 政
蔵
山村 衛敏 秦 徳雄 川井 清彦 佐々木 正
恵山町史
([道路開削の嚆矢])
[道路開削の嚆矢] 蝦夷地全域がまだ松前藩領土であった寛政10年(1798)、幕臣
近
藤
重
蔵
の手により,その中に、支配勘定方
近
藤
重
蔵
がいた。,・寛政十年 最上徳内 大日本恵登呂府
近
藤
重
蔵
下野源助, (以下略) 国後・択捉島調査の帰途、
近
藤
重
蔵
,
藤
重
蔵
この道路工事の顛末については、従者の1人、水戸藩士で漢学者の木村謙次(改名して下野源助
函館市史 通説編 第一巻
(択捉航路開発)
択捉航路開発
近
藤
重
蔵
彼が厚岸に滞在中、択捉島開発の任を帯びてこの地に至った
近
藤
重
蔵
に呼ばれ,嘉兵衛は欣然これを引受け、購買の荷物を水戸に輸送させ、自らは
重
蔵
に従って国後島の東端アトイヤに向かった,、ついに択捉島へ乗切り、紗那を中心に、会所を建てるべき所や漁場などを見立てて国後に帰り、根室において
近
藤
重
蔵
南茅部町史 下巻
((8)歴代学校長氏名)
12門屋半
蔵
一四 8末松 貞之進 一六 佐
藤
外三郎 4境野,和田芳平 5金田 慶治 二三 5金田 慶治 二四
近
藤
,4斉
藤
順
蔵
一二 11大立目 仁止 一三 4田 中 登 4石田秀一,木直小学校 古部小学校 臼尻中学校 尾札部中学校 昭和二二 中島 昊 4大井 勝郎 6八
重
樫, 三九 4羽仁生弘治 4城
近
信夫 四〇 4山内勇太郎 4大山
函館市史 別巻 亀田市編
([功労者の表彰])
工
藤
一 小笠原今朝松 名和徳兵衛 池田音右衛門 永田弥助 田原栄作 (現)小熊亀
蔵
川井
藤
吉 ,村内勤続十五年以上) (故)羽賀友一郎 荒武夫 (現)大沼保徳 木村祐雄 柏崎賢次郎 中沢
重
雄,) (故)木下作太郎
近
江勇太郎 中村初
蔵
片桐
藤
一 池田音右衛門 山村勝三郎 宮本与一 山口仁太郎, 福島隆栄 山村
藤
一郎 町田友三郎 工
藤
庄吉 杉村松
蔵
斎
藤
吉太郎 工
藤
常三郎 伊
藤
周助 川島吉太郎, 山村伊三郎
近
江松三郎 山田石松
近
江仁太 永田菊三郎 工
藤
吉太郎 高橋徳治 山本清治 佐
藤
庄太郎
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田町農協と鍛神農協合併)
しかし、積極的に両者の話合いも持たれ、
近
い時期に合併が実現する見とおしとなった。,この会談では、合併に明るい見通しを持てるまでに話合いが進み、今後も引続き積極的に協議を進め、
近
い時期において,正 紫前 政
蔵
上村長兵衛 浅間
重
三 前川 清 佐
藤
金
蔵
湊 与四三,
藤
悦 監事 野々村
藤
吉 小柳 忠
蔵
鍛神農業協同組合役員 組合長理事 泰 徳雄, 理事 荒川初次郎 高村 登 柏谷常三郎 水島辰三郎 水島
重
男 金沢 元春
函館市史 通説編 第一巻
(幕府の蝦夷地調査)
幕府の蝦夷地調査 幕府では、ロシア人の北方諸島進出の確認、たび
重
なる蝦夷地
近
海の外国船の出没や、あるいは,そこで寛政10年(1798)年、目付渡辺久
蔵
胤、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋
藤
右衛門成方らに命,に到着すると、渡辺胤はここに留まり、大河内政寿は東蝦夷地を巡回して様似に至り、その別動隊として配下の
近
藤
重
蔵
戸井町史
((附)昔の戸主名(明治十三年以降))
後
藤
福
蔵
池田宇吉 小柳八百
蔵
滝谷岩五郎 安田甚兵衛 中谷若松 高田嘉
蔵
岩舟三平 滝川
重
右衛門,石田由松 佐々木政吉 吉田勘右衛門(小安) 池田平吉 谷
藤
重
兵衛 高田政吉 伊
藤
賢
蔵
佐
藤
岩
蔵
岡林静衛,工
藤
勝
蔵
松野由
蔵
浜谷長次郎 金沢久作 斉
藤
政太郎 宮川清五郎 石田幸一郎 石田直一 池田八
重
次郎,佐
藤
岩吉 柳田多作 大橋五六 花田伊佐
蔵
宇美辰
蔵
菊地定之助
近
藤
カエ 川村与五郎 入口栄三 伊
藤
留吉,仙徳賢
蔵
佐
藤
重
吉 滝沢喜三郎 伊
藤
直治 和田鹿之助 池田カヤ
藤
田吉松
函館市史 銭亀沢編
(函館風松前神楽(渡島神楽))
神楽との関係を示す資料が『松前神楽』(
近
藤
鏡二郎編集松前教育委員会・松前神楽保存会 昭和三十九年)に現亀田郡七飯町,
近
藤
鏡二郎は現代の松前神楽と函館風松前神楽との関係、ならびに函館風松前神楽成立の一断面を明らかにしている, 三影慶
蔵
祭主一拝
藤
山昭比古 次 翁舞 舞 大野
重
賢,) 小太鼓
藤
山宣広 祝詞奏上
藤
山昭比古 竜笛 三影慶
蔵
,大野
重
賢 次 注連引き(舞) 手拍子(茶釜) 三影慶
蔵
(注連祓舞・注連切舞・七五三舞
函館市史 別巻 亀田市編
(函館市議会議員となる)
佐
藤
仙五郎 佐々木正 山村衛敏 柴谷豊司 秦徳雄 亀谷利春 菅兵吉 関本政
蔵
水島辰三郎 小干場義雄, 松橋時男
藤
谷久三郎 田中本司郎 平野
重
治 山本朝一郎 土井勝雄
近
江谷精一 伊
藤
安昌 田中栄治
戸井町史
(三、各神社の棟札(むなふだ))
斉
藤
屋 文五郎 池田屋 豊 松 池田屋 金
蔵
布施屋 源次郎, 小 挽 石 崎 住 人 執 筆 菊地堅磐之輔
藤
原
重
恭, 世話人 音 松 出勤方 沢 辺
近
江正, 境 石
蔵
参 区 松 田 勇 助 佐
藤
多 吉 奥 野 ,石太郎 伊
藤
喜太郎 奥 野 兼
蔵
四 区 下 山 元 吉
函館市史 別巻 亀田市編
(農業委員会)
佐々木 正 柴谷 豊司 中村 良美 長内 三郎 亀谷 正 菅原梅太郎 紫前 政
蔵
,木村 徳男 水島辰三郎 小柳 忠
蔵
土井 勝雄 水島 玉
蔵
佐々木治太郎 木戸浦
重
作,
藤
谷久三郎
近
江新三郎 工
藤
久寿保 委員の互選により、会長
近
江新三郎 副会長(会長代理)
戸井町史
([戸井と近隣の変遷])
松前城下に派遣された藩士須
藤
惣右衛門・吉村場左衛門は、松前や蝦夷地で見聞したことを細大もらさず弘前(ひろさき,横泊から弁財間、川尻(かわしり)、斉
藤
間、水無(みずなし)、しづがうた、よもぎない、せたらいから例の山中,ここを過ぎて少し行ったところの崖下に「地
蔵
穴」というところがあった。,「地
蔵
穴」の附
近
には、アワビやガゼ(ウニ)などを焼いて食ったようなカラがいつも散らばっているという。,」などの地名とその伝説が採録されていることは貴
重
である。 / [戸井と
近
隣の変遷]
南茅部町史 下巻
(竹中牧場)
竹中牧場 昭和七年、竹中
重
蔵
は尾札部川上流に牧場を設営し、牛二〇頭を飼育した。,尾札部川の中流の旧道に、現存している馬頭観音の碑は、竹中
重
蔵
が昭和一〇年に建立したものである。 ,竹中
重
蔵
は牛のほか養狐、養狸など畜産毛皮業も目途とした。 ,昭和一一年六月三〇日、尾札部沢に馬頭観音の碑を建立して、広専寺住職
近
藤
滋法師により開眼式を執行した。
函館市史 通説編 第一巻
(択捉場所開発)
けて寛政12年弟金兵衛とともに辰悦丸に乗り、図合船2艘、鯨船4艘を率いて様似に来り、この地に越年中の
近
藤
重
蔵
函館市史 通説編 第一巻
(アメリカ艦隊の入港)
これに依て兼て相違し置候通、勘解由始め一同野袴割羽織にて持場え相詰、所々台場其外海岸警衛向厳
重
申し達し,、石塚官
蔵
申達し、猶異国船より請取参り候書状差出し候に付、同人共並びに茂五郎立会いの上開封いたし候処 ,(東大史料編集所
蔵
『松前箱館雑記』)とあって、箱館市中ならびに海岸の警備取締は一層に厳
重
にし、
近
郷についても,「亀田詰佐
藤
大庫へ飛札をもって申達す。,有川詰太田脩三、種田徳右衛門、茂辺地詰
近
藤
族、泉沢詰駒木根徳兵衛へは、遠
藤
又左衛門、石塚官
蔵
より前段の
恵山町史
(蝦夷地の航路を開く)
〈択捉の航路開拓〉 幕府にとって択捉の開発は東蝦夷地経営の
重
点であった。,箱館奉行支配役
近
藤
重
蔵
は寛政11年(1799)、国後・択捉間の水路開拓を高田屋嘉兵衛に命じた。,嘉兵衛は国後島の北端、アトイヤの高地から潮筋を読み夷舟を浮かべて観察を
重
ねた。,そして70石の船を仕立て、支配役
近
藤
重
蔵
・船頭ら10人、番人1人、アイヌ3人、16名が乗組み船出した。,航路は捷路(
近
道)を取らず、まず北に相当の距離を迂回し、今度は南下する潮流に乗り計算通り、船は択捉島の
南茅部町史 下巻
(渡島汽船株式会社)
主な株主 臼尻 村井己代松 熊谷喜三吉 二本柳吉三郎 勝又喜代吉 京谷
重
吉 白鳥惣太 板木, 工
藤
梅
蔵
工
藤
石太郎 川汲 斉
藤
仁太郎 坂本安太郎 尾札部 竹中
重
蔵
渋田武雄 内
藤
二太郎,亀田郡椴法華村有志は、函館を基点とする亀田茅部両郡沿岸航路を開始すべく臼尻村小川幸一郎、田中恒、板木村工
藤
梅
蔵
氏等,而して其目的は、多年同航路を独占的に経営し来れる当区地
蔵
町山三木(やまさんぎ)工
藤
海運部に対抗する計画,回送する貨物は時期によりて異動あるも総体に
近
海他航路に比較して貨物尠少なれば、両汽船対抗し四隻が当港を
南茅部町史 下巻
(防空監視哨)
白石美喜雄 須
藤
与一 寺岡俊一 佐
藤
昭
蔵
飯田忠俊 〈資料提供・,協力 葛西英司 関口直
蔵
三条秀一 坂井
藤
雄 竹村慎〉 女子 哨長 内
藤
米雄 副哨長 ,終戦
近
くにはすべて女子哨員だけで当たり、三交替制で二四時間勤務というきびしいものだった。 ,臼尻村防空監視哨(男子)川井金吾 協力 魚住
重
勝所
蔵
臼尻村防空監視哨(女子)京谷レン子所
蔵
,臼尻村防空監視哨哨員名簿 男子 哨長 初代 村井治三郎 二代 魚住
重
勝 副哨長 魚住
重
勝
戸井町史
(一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名)
妻 陸軍兵長 境一郎 昭二〇、五、一八 沖縄本島首里 境フメ 母 汐首町一六三 海軍二等兵曹 伊
藤
重
市,昭一八、一一、二六 南洋方面 伊
藤
重
蔵
叔父 釜谷町 陸軍兵長 渡辺長作 昭二〇、五、一二 沖縄本島幸地,陸軍伍長 関谷幸男 昭二〇、四、二七 沖縄本島首里 関谷浅雄 叔父 小安町九八 陸軍曹長 佐
藤
重
保,吉川初
蔵
兄 小安町 陸軍上等兵 伊
藤
克広 昭一五、六、六 北支 伊
藤
シナ 毋 釜谷町 陸軍兵長 古田正,長男 小安町 海軍軍属 荒川松男 昭二〇、七、一五 青森県八戸市鮫港魚市場附
近
荒川松市 兄 小安町一八
函館市史 通説編 第二巻
(区会議員選挙と臨時区会)
141 枚田
藤
五郎 109 林字三郎 90 工
藤
弥兵衛 90 石田啓
蔵
58 4 安浪治郎吉 187,区会議員当選者の内、西村利光、工
藤
弥兵衛、石田啓
蔵
、田中兵太郎、武富善吉、高田吉
蔵
、を除いた24人は旧総代人,今度選ばれたる議員のうちにて其姓名は判然せねど、何でも議員になる事が嫌だとてにわかに此地の在籍をどこぞ
近
在,小林
重
吉 佐野与三右衛門 渡辺熊四郎 亀井勝
蔵
安浪次郎吉 菊池直七 辞職 補選,15.5 15.7 枚田
藤
五郎 西村利光 枚田
藤
五郎 西村本次郎 石田啓
蔵
成田嘉七 石
戸井町史
(三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃))
、覃部(およべ)の今泉刑部少輔季友、松前の守護、下の国山越守定季、相原周防守政胤、祢保田(ねぼた)の
近
藤
四郎右衛門尉季常,、原口の岡辺六郎左衛門尉季澄、比石の館主、畠山の末孫厚谷右
近
将監
重
政の
重
鎮を攻落す。,1、信広の渡島 「新羅之記録」に蠣崎信広が渡島する時に佐々木繁綱、工
藤
祐長の外に、蠣崎の土豪、酒井七内,2、安東政季の渡島 「伊駒政季朝臣は、十三之湊盛季の舎弟安東四郎道貞の息男潮湯四郎
重
季の嫡男なり。,武田信広は蠣崎
蔵
人信純であることを隠すための作為が、松前史を書いた者によってなされたことは明らかである
函館市史 通説編 第二巻
(乗組員の養成)
佐野平右衛門
藤
田庄七 小林
重
吉 本間長三郎 村田駒吉 新谷彦八 中野善兵衛,浜谷長次郎 中村庄太郎
近
江金八 角谷新七 加
藤
権三郎 榎本梅吉 松山又吉 石川善五郎,福田富三郎 菅原友吉 今村万吉 寺田庄右衛門
藤
本三右衛門 中瀬庄太郎 掘内幸吉 斎
藤
由次郎,菊地森
蔵
西浦善
蔵
三橋徳兵衛 満石万吉 西山常吉 松浦虎之助 滝川作造 馬場喜次郎,これは商船学校世話係の小林
重
吉がスクーナー競争の実施を呼びかけていたものに呼応したのであるが、16年までつづけられた
函館市史 通説編 第二巻
(水産談話会の設置)
亀田郡 久遠郡 山越郡 爾志郡 寿都郡 松前郡 上磯郡 島牧郡 二木彦七 野田寅之進
藤
野律
蔵
,佐
藤
重
吉 熊谷館三郎 徳永勇四郎 大久保達 森下長
蔵
細矢包治 有田信 三田巳
蔵
,菊地弥之助 小島六
蔵
佐
藤
伊三右衛門 今津甚
蔵
松代孫兵衛 井戸井忠三郎 坂本菊松 三橋善七,この時に取り上げられた問題は「水産談話会問題 第一
近
来水産ノ盛衰如何 第二 種川ノ制度ヲ設クルノ可否,此上漁業条例或ハ漁業律ヲ設ケラレ河海ノ魚族藻種ノ繁殖等ニ付キ厳
重
ノ取締法ヲ設ケラレンコト」を要請し、また
函館市史 別巻 亀田市編
(市民の誓い)
農業団体 川井
藤
五郎 労働団体 山県侃 商工会 小堀幸市 ,青年団体 千葉敬司 婦人団体 工
藤
ヤイ 社会福祉協議会 阪本定
蔵
,の意志が反映され、親しまれる憲章となるよう慎
重
に進められ、市制施行一周年を迎えた同十一月十七日、正式に,○視野を広め、くらしの
近
代化をすすめよう。 ○仕事によろこびを持てる職場にしよう。 ,○市民の利益を
重
んじよう。 一 みんなで市政をもりあげる明るいまちをつくりましょう。
戸井町史
(三、『新発見の板碑(いたび)(戸井町)』 須藤 隆仙)
三、『新発見の板碑(いたび)(戸井町)』 須
藤
隆仙 はじめに 昨昭和四十三年春、下海岸志海苔,されて人々を驚ろかしたが、秋にはまた戸井(とい)町から板碑(いたび)が発見され、室町期の道南を知る貴
重
な,担当者は同町日新中学校の野呂進校長であるが同氏は町史編纂の作業中、誠に貴
重
の史料を数々発見せられ、先年,いくら見ても、拓本をとっても刻面が風化して読めず、板碑らしいと考えて須
藤
隆仙氏に照会したものである。,又左の〓は虚空
蔵
(宝光虚空
蔵
)と宝生如来とに共通する種子であるが、B碑の場合、五仏であるから、虚空
蔵
菩薩 / 三、『新発見の板碑(いたび)(戸井町)』 須
藤
隆仙
函館市史 別巻 亀田市編
(解題)
(安政二年神山村―丸山金次郎
蔵
)「亀田村麁絵図」(明治三年亀田村―市立函館図書館
蔵
)および本書(市立函館図書館
蔵
,巡見使(天保九年には黒田五左衛門、中根傳七郎、岡田右
近
の三人が幕府巡見使として来道)については特に詳細,「道橋御普請人足弐拾人、仮名主六郎添年寄
重
五郎組頭平
蔵
右差添下湯川村え相詰申候。」,、
藤
山郷」であり、普通は「亀田村より一本木、千代田郷、大野村、文月村、本郷、一ノ渡村、峠下村、
藤
山郷、,鍛冶村の名主徳三郎(水島)、名主代理六郎、年寄
重
五郎、組頭平
蔵
、六三郎は鍛冶村のため各般にわたって尽力
函館市史 別巻 亀田市編
([閏四月])
人足壱人 閏四月四日 一 高龍寺出し触書壱封并七
重
神主出の書状壱封 湯川村御用向,) 大悲庵(市ノ渡村) 宝琳庵(七
重
村) 能化庵(小安村) 右庵主、檀頭中、村役中 右村々より巡達在,右廻文伊
藤
清次郎殿えも見せ候様可レ致候。何分
近
日中に 出来致、御見分受申度候。,以上 閏月九日 一 道橋御普請人足弐拾人、仮名主六郎添年寄
重
五郎、組 頭平
蔵
右差添,右の趣被二仰出一候間、
近
々書上可レ被レ 申候。
函館市史 通説編 第二巻
(町年寄・名主の廃止)
罷免となった町年寄は金沢屋(松代)伊兵衛、小林屋(小林)
重
吉、紀国屋(伊
藤
)
重
兵衛の3人、名主は池田屋,弥兵衛、木下屋(木下)忠右衛門の7人だった(「御書付留」道文
蔵
)。 ,なおこの変更は函館市中のみで、町代はそのまま存続し、付
近
の村々の名主、百姓代等の村役人には手が付けられなかった,松代伊兵衛 佐
藤
伝四郎 杉浦忠三郎 伊
藤
重
兵衛 五十嵐少輔 注1 「安政六未年願書井嘆願書,「出函中仲間諸用留」『松前町史』資料編3 注5 「御用留」道文
蔵
簿書番号131 注6 安政4
戸井町史
(十、〓宇美家(東浜町))
出身国
近
江の名をとって「
近
江屋」を家号としていた。 ,この時玉
蔵
は三十一才であった。,第吉は村内の各種
重
要役職につき、公共施設には多額の寄附をし、明治四十二年に全焼した、村役場再建の時は卒先,
藤
太郎の歿後、長男
藤
蔵
が七代目を継いだ。,
藤
蔵
は函館商業学校を卒業し、現在は戸井町議、東戸井漁業協同組合長、戸井町消防団長等の要職についている。
函館市史 通説編 第二巻
(西洋形帆船の建造ブーム)
一戸久
蔵
角尾和三郎 飯田
重
助 中野善兵衛 竹田茂兵衛 小松善七 角谷新七 八木六兵衛,安
藤
利助 浜野与三郎 小林
重
吉 国領平七 水野利兵衛 奥村忠兵衛 武田茂兵衛
藤
野喜兵衛,外国船 中松由五郎 続春吉 鈴木市
蔵
間作源吉 樋上権兵衛 浦柳忠吉 工
藤
金兵衛,まず函館本籍の船主をみると小林
重
吉、
藤
野喜兵衛、杉浦嘉七は旧場所請負人で、明治期にも引き続き漁業経営者,それは、函館の船主は全道各地から少量の物産を搭載し函館に集荷したり、または
近
隣地に運送する場合は小型船
函館市史 通説編 第二巻
(町区総代人制の導入)
この規則を尊
重
していた函館支庁では、「不動産所有者六分以上之レニ連印」を必要としたために逆に学校設立などの, ☆ ☆ ☆ 常盤 天神 坂町 船見 工
藤
富
蔵
立花俵治 3小区 ,上汐見 下汐見 南新 上大工 西村本次郎 西村和吉 下大工 元町 会所 ○ 小林
重
吉,16大区 1小区 ☆ 地
蔵
堀江 船場 ○ 泉
藤
兵衛 ○ 亀井惣十郎,
蔵
前 汐留 宝町 三浦喜助 ○ 佐々木忠兵衛 ○
近
江勇
蔵
3小区 鶴岡
恵山町史
(戦没者名簿)
戦病死年月日 戦病死地 遺族氏名 住所 東 吉一 S19.1.1 ニューギニア島 東 哮 日浦100 東 鉄
蔵
,セブ島 野呂 猛 〃34-1 野呂 又春 S19.5.31 南洋群島 野呂 クミ子 〃10 野呂 林
蔵
,S18.6.5 旭川市陸軍病院 長野 哲夫 〃146-6 成田 勝
蔵
S18.5.29 アッツ島 上田,旭川市陸軍病院 岩船 千枝 川上410 小倉 卯佐美 S20.3.29 メレヨン島 小倉 一郎 〃176-15
近
藤
, 孝 日ノ浜84 秋田 政太郎 S14.11.20 満州国
藤
原 孝 〃84 東
重
雄 S14.7.2
戸井町史
(三、丸山明神奉讃会の設立)
丸山明神奉讃会設立趣意書 亀田郡戸井町と旧亀尾村(現函館市)との境界附
近
に聳(そび)える丸山(標高四,八米)の山頂に、昔から小祠があり、そこに祀る神を丸山さんと称し、霊験(れいけん)あらたかな神として、
近
郷
近
在,② 金成の婆さんの建てた祠が腐朽して、田村
重
次郎と大江鉄太郎が発起人となり、大工斉
藤
勝太郎が奉仕して祠,佐
藤
福太郎等が奉仕し、非常な苦労の末、立派な神祠を再建した。,但し
重
任を防げない。 第六条 会長はこの会を代表し、会務を総理する。
函館市史 銭亀沢編
(志海苔古銭をめぐって)
この場所は、志海苔川の左岸河口
近
くにあり、志苔館の土塁の西端から約一〇〇メートルの至
近
距離にある。,の支援に依った「渡党」の小林
重
弘の可能性が強い。,志苔館の館主小林
重
弘は、三七万余枚に及ぶ大量の古銭を、何を目的にして埋納したのであろうか。,(前出「北海道の中世陶器」、同「志苔館の四〇万枚の古銭」、田原良信「地下に埋
蔵
された志海苔古銭」)。,その一方、
近
年目新しい注目すべき見解も提示され始めた。
戸井町史
(二、戸井無限責任漁業協同組合(漁業会も含む))
理 事 砂子 賢
蔵
(小安地区) 斉
藤
栄作(釜谷地区) 原 ,和八(館鼻地区) 理 事 永川
重
作(厚木・鎌歌地区) 監 事 池田 六助,(弁才澗地区) 水戸 敬
蔵
(浜町地区) 永井 繁太(小安地区) 右の役員,以来現在の東戸井漁業協同組合の事務所としても利用されているが、最
近
その老朽が目立ち新築の計画が進められている,〓宇美
藤
蔵
現東戸井漁業協同組合長によれば、イワシ漁業は定置網、地曳網、旋網の漁法によるものであるが、定置網漁法
函館市史 通説編 第二巻
(東京商人と一手積特約)
東京商人と一手積特約 前述したように三菱は函館進出とともに河村六二郎や佐
藤
忠兵衛と特約を交わし、いわば,佐
藤
はかつて長崎俵物問屋として有力商人の1人であったが、このころは衰退に向かっていたし、河村についてもその,これは
近
世以来の特権的な問屋制度の崩壊と三菱の進出との時期に照応している。 ,三菱が佐
藤
、河村らの特約店の実効があがらないために彼らと結びついたのであるが、開拓使函館支庁では「積合仲間,、安達
重
助、三浦作次郎、岸田忠三郎、青木栄次郎、日向野七兵衛、渡辺久平、沓掛民吾の十人は遠
近
の国々へ貨物
函館市史 別巻 亀田市編
([七月])
[七月] 七月二日 一 岸(峯)尾勘
重
(十)郎様 上下弐人 但し下湯川村 当村え御出 右は猿蟹, 東海廻り武州品川湊迄 無出産 左衛門 右国々浦附 無出産 大
近
江,
藤
山郷 峠下村 一ノ渡村 本郷 大野村 文月村 濁川村 中ノ郷 一本木村 千代田郷 ,壱番寅
蔵
弐喜平次 三嘉右衛門 四乗合所 五平
蔵
六石五郎 七番三太郎右者清次郎 弐軒分 八六郎右者九助次左衛門, 〓 廿壱名主頭取 廿弐辰之丈 廿三覚右衛門 廿四紋三郎 廿五鉄五郎六右衛門 外助人夫与吉
藤
太郎
函館市史 通説編 第二巻
(戸長の公選)
投票数 氏名 投票数 氏名 投票数 氏名 ※177 6 5 5 富田五三郎 佐々市三郎 松浦
重
吉,大橋宇左衛門 ※137 50 30 32 19 西村本次郎 砂原松右衛門 佐
藤
源吉,中村兵右衛門 小林
重
吉 ※241 22 22 22 19 17 15 小西一清次郎 石田四郎右衛門,奥村忠五郎 ※116 80 78 69 42 35 相川洗心 米谷権右衛門 佐々木忠兵衛
近
江勇
蔵
,井原兵五郎 山本鉄次郎 ※160 75 59 20 斎
藤
又右衛門 斎
藤
左武 五島祐三郎
恵山町史
(朝田鉱山の大惨事)
朝田鉱山の大惨事 本町の字古武井、曹洞宗高聖寺の山門
近
くに、「朝田鉱山雪害横死者之碑」と刻まれた(正,マキ・長女トク、石川長松長女ヒデ・長男喜代治、
近
江七五郎妻ソマ、佐
藤
謙六、遠
藤
傳吉・妻ハナ・長男寅吉・,長女フク、大定次郎妻テル・長女タマ、今野用
蔵
三男用一、吉田春
蔵
・妻サキ・長女キエ、
藤
本安見・妻フサ・長女寅見,2月も末の雪は湿気を含みずっしりと
重
く鉱山の集落を覆っていた。,いだが、倒れた家から出火、激しい風雪に火勢は衰えず手の施しようもなく負傷者を1人救助するのが精一杯、
近
くの
函館市史 別巻 亀田市編
([六月])
六月二日 一 よし壱丸 右は御巡見様御腰懸御用ニ付、簾割合の節平
蔵
、
藤
太郎 え貸し遣し申候ニ,戌六月 在 方 掛 亀田村より
藤
山郷まで 右村々名主,又は煙草入、帋(紙)入、金物其外無 益なる翫の品ニ金銀用候儀停止の旨前々相触候趣も有レ之 候処、
近
来猥,乍二
近
頃一、焚用の内、割り木拾五丸此馬へ送り 可レ被レ遣候。,六月十日 一 御三方黒田五左衛門様、中根傳七郎様、岡田右
近
様。 右の通御通行。
函館市史 通説編 第一巻
(没収船舶及び場所処分)
藤
野喜兵衛(松前)
重
孝丸(九九一石) 順通丸(九一七石) 広吉丸(八八八石) 岩田金
蔵
,・西川准兵衛・岡田半兵衛の3人に命じ、印
近
江屋惣兵衛の屋号で匿名組合をつくり、6、2、2の割合の出資で,そこで天保13年から更に松前の豪商栖原仲
蔵
、伊達林右衛門の2人に命じたが、栖原・伊達らはこの請負に当って,御手数の義等御座候ては
重
々恐入り奉り候。,是迄
藤
野其外両人にて手配仕り候ても行届兼候趣に御座候得ば、猶以て心配に存じ奉り候得共、
重
き御書取の御趣意御奉公
函館市史 通説編 第二巻
(函館商人の系譜)
商人の事例 旧特権商人 氏名 明治21年の財産 明治21年の住所
近
世,一般に、旧幕期の特権商人は没落の一途をたどり、北海道の
近
代産業の形成にあずからなかったとされるが(湯沢誠,杉浦嘉七、田中正右衛門も家政改革、旧事業の切り捨てをおこない、明治10年代から20年代にかけて函館経済界の
重
鎮,に有志とはかって渡島組を結成し、函館港における共同出資の汽船会社の先鞭をつけ、のちには個人船主として
近
代的海運業,小熊幸一郎 鎌田
重
吉支店 八木亀三郎支店 西出孫左衛門支店 本庄丑吉 橋谷巳之吉 久保彦助支店
恵山町史
(2、下海岸・陰海岸地方の郵便取扱所・郵便局の開設)
函館
近
郷郵便取扱所 一 函館ヨリ根田内通ヘ向 二、七ノ日 一 下湯川村,『郵便・駅逓・川渡守人名録』より(北海道立文書所
蔵
) この文書は開拓使地理課駅逓係の綴りで、なかに,取扱人(局長)秋田多三郎 ・椴法華5等郵便局 明治13年4月16日開設 取扱人(局長)荒木
藤
八,『明治十二年各分署各区務所七
重
文移録』(椴法華村史より・北海道所
蔵
) 函館支庁 駅逓係 御中,)村ヘ郵便局御開設ニ相成候趣ヲ以テ相当之取扱人至急 撰挙可申出旨御達有之候ニ付村中撰挙致シ候處、荒木
藤
八
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田村並びに渡島地区共進会)
昭和三十二年七月二十五日、函館市金堀町において、道南生産連・函館市和種馬協会共催で開催 参加出陳馬は地元函館市および
近
接町村,金
蔵
馬の部 一部 一等 第二鈴栄 昭和 鈴木 勇 〃 二部 一等,なお今後も、わが国のホルスタインの体格基準平均(体
重
六五〇キログラム、胸囲二〇二センチメートル、体高一三八,昭和四十六年七月十四日、町農協本部裏会場で開催 出陳 日ごろ丹精こめた牛、馬、豚が会場に持込まれたが、ことしは都市
近
郊,第六部 陣川 戸来 武雄 馬 第一部 昭和 佐々木勝雄 豚 第一部 鍛治 小柳 忠
蔵
南茅部町史 下巻
(〔戦没者慰霊祭〕)
管内遺族会概況 昭和二九・九・一調整 函館地方世話所 (資料=別冊・函館地方世話部 歴史附録/渡島支庁
蔵
),本町 27・9・15 松村 為次郎 一九〇 茂別村遺族会 役場 23・6・3 佐
藤
,孫三郎 九九 } 四〇九 上磯町 〃 七
重
浜二五 21・7・20 白井 直達 三一〇 大野村遺族会,10・ 川井 米太郎 二六七 二三五柱 (亀田忠魂碑奉賛会 〃 21・5・28
近
江,#160; 四六 長万部町遺族会 役場 28・2・13 佐
藤
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