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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (遊里)

遊里 安政初年、茶屋は21軒となり、ほかにも11軒が免許を得ていた。,もと茶屋は前記21軒が料理茶屋といって、酌取女をおいて客を取り、また芝居、軽業などの興行の際、仕出しもして,その料理茶屋が公然と売女渡世に変り、山ノ上町茶屋町は江戸吉原に模して廓(くるわ)を造り、坂の突当りに大門,酌取女は「がの字」と呼ばれ、これは遊女の価200文で縄に通した銭の形が雁の字に似ているからだとか、香木,遊楽地は山ノ上町だけではなく、東築島には文政のころから山ノ上茶屋5軒の出張りがあり、これがのち「島の廓 / 遊里
函館市史 通説編 第二巻 (山ノ上遊里の誕生)

山ノ上遊里の誕生    表13-1遊女屋一覧と抱え遊女数 遊 女 屋 名 遊女数 宮川屋与吉,翌安政6年には引手茶屋21軒の営業も許可され、遊女屋の行事からは料金規定をはじめ遊女屋仲間で決めた郭内規定証文,「元治二年箱館新廓遊女屋細見一覧」によると、幕末の山ノ上町の遊里は遊女屋25軒、異人揚屋1軒、会所・見番各,1、遊女329人、引手茶屋21軒、男芸者5人、女芸者113人となっている。,それぞれの遊女屋の規模は表13-1のとおりである。 / 山ノ上遊里の誕生
函館市史 通説編 第二巻 (蓬莱町遊里の出現)

、山ノ上遊郭の遊女屋・引手茶屋には住所替えが命じられた(明治5年「函館市街ノ内蓬莱町地所割渡願書」道文蔵,9月末日にはまず12、3軒の遊女屋・引手茶屋が移転を申し出た。,この移転に際し、函館支庁は従来遊女屋株25軒、引手茶屋株25軒と定め、貸株・借株・休株などの区別があったものを,い出、その年の暮れには刑法係から引手茶屋6軒、遊女屋1軒が1200円を(明治4年「函館支庁日誌」道文蔵,なお明治5年の「函館市街ノ内蓬莱町地所割渡願書」によると、遊郭の移転に伴い遊女屋、引手茶屋を得意先としていた / 蓬莱町遊里の出現
函館市史 通説編 第二巻 (箱館開港と売女渡世の公認)

そこで箱館奉行は、年季奉公に抱えた娘たちを売女や女芸者に仕立て、彼女らに遊女屋同様の所業をさせていた茶屋営業者,に、遊女屋の営業を認可し、彼らから提出されていた3件の増株願いの件も許可して、その代償に指図しだいでいつでも,に付、是迄茶屋渡世の者へ改テ右渡世申渡間其旨存すべし 茶屋渡世ノ者   ,24軒の遊女屋と異人休息所が誕生し、公娼(公に売女が認可された遊女)制度・集娼制度(公許地に認可された,遊女屋が集まること)が成立したのである。 / 箱館開港と売女渡世の公認
函館市史 通説編 第二巻 (蓬莱町・台町遊里の指定)

蓬莱町・台町遊里の指定 「解放令」の施行により、芸娼妓たちは金銭貸借により身体を縛り人身売買同様の所業,こうして遊女の大半が娼妓へ転業したのに加え、従来帆縫女と呼ばれていた私娼も娼妓への転業が認められ、従来,の遊女屋、引手茶屋以外にも願い出しだい貸座敷の営業が許可されることになったため、娼妓や貸座敷業者は市中,指定を受けた3か所のうち、豊川町は指定を受けた矢先の6年3月、同町裏町から出火した″屋根屋火事″で町の,結局二大遊里とはいえ、台町は貸座敷数20軒ほどの規模におさえられていた。 / 蓬莱町・台町遊里の指定
函館市史 通説編 第二巻 (茶屋渡世の公認)

茶屋渡世の公認 享和3(1802)年、茶屋渡世(営業)の者19名が株仲間を組織し営業の公認を願い出た,これが函館における公許地での茶屋営業の始まりであり、以後山ノ上町界隈は茶屋町として発展した(「維新前町村制度考,、松前復領時代は町の活気も一時停滞し茶屋営業の一部は株を返納した。,また茶酌女などを置いて遊女屋同様の所業をしている者や安易に淫らな所業に就く女たちへは「是迄ノ心得違ハ不及沙汰候間,私娼(公の許可なく遊女の所業をする女性)の取り締まりをした。 / 茶屋渡世の公認
函館市史 銭亀沢編 (遊びの聞き取り調査)

遊びの聞き取り調査 戦前の子どもは自分で遊びを工夫し、創造していた。,石崎では正月の遊びとしてこま、凧、羽子板などがあった。こま、凧は売っていたが買えなかったので自作。,女の子はあやとり、あやこ。道具を使った遊びは道具を買う金もなく、竹馬も自分で作った、という。  ,エラコといって魚のエサにするのを釣り道具屋に持っていった。小遣いはおやつ代として、仲間同士で分けた。,昭和五十三(一九七八)年生まれの川村ゆかりは、古川町に「母と子の家」があり、日曜日、休日に遊びに行った / 遊びの聞き取り調査
函館市史 通説編 第二巻 (牢屋から囚獄へ)

明治4年9月12日に山上遊郭が火事で焼け、この牢屋の付近(4年10月17日蓬莱町と新称)へ遊郭を移転することが,ところが蓬莱遊郭の建築が進むにつれ、遊郭近接の牢屋は不体裁ということになって、旧幕以来の牢屋の建物は先,牢屋は獄舎と表記され、本牢屋、揚屋、吟味所、焚出所、門番所、物置、官邸等が作られたとあり、所在地は春日町,罪人溜、細工所、掛詰所が作られ、「幕府ニテ築建本牢を、模様替後引建直シ」との注が付けられ、さらに6年には女罪人溜,この時牢屋は囚獄、牢屋番は囚獄係と改称されたようである。 / 牢屋から囚獄へ
函館市史 通説編 第一巻 (寺子屋の教育内容)

寺子屋の教育内容 往時の寺子屋の経営および教課内容を挙げると、次の通りである。,岡村某は津軽弘前の人で、大黒町に寺子屋を開き、月並銭1人前162文、七夕講の掛金25文位、畳替割合1か,客の来る時は、女に女2人、男には男2、3人を惣代として礼を言わせ、弟子同志は、誰殿と言わせていたが、安政後,年4度、米・小豆などを持参し、24日は天満宮の祭をして、夜五つ時(午後8時)過ぎまで、太鼓を鳴らして遊ばせた,なお、若山太蔵の開いた寺子屋は若山堂といい、はじめは商業のかたわら教えていた。 / 寺子屋の教育内容
函館市史 通説編 第二巻 (賦金)

箱館戦争が終結してまもない2年9月から函館では旧例に倣い遊女屋税(10円)・引手茶屋税(5円)・見番税,されていた(『開事』、明治5年「函館市街ノ内蓬莱町地所割渡願書」道文蔵)が、5年10月、函館支庁は蓬莱町遊郭,改正内容は、(1)規則を犯して遊女屋同様の所業をしている引手茶屋に遊女屋業を許可し、課税額を従来の5円,から25円へと増額する、(2)芸者、遊女は従来課税の対象外だったが芸者が遊女と紛らわしい所業をしているので,自前遊女と改称して月額5円、遊女へは1円を課税し、(3)遊女屋税は廃止して、(4)その増額収入は黴(ばい
函館市史 通説編 第一巻 (五稜郭付近及び山の手方面)

五稜郭付近及び山の手方面 一方、築島には文政元(1818)年遊女屋5戸の出張を許していたが、慶応2(,1866)年1つの遊廓地とし、また亀田に五稜郭が築造されたことにより、その付近に官舎を建て、郷宿、料理店,亀田に通ずる道路に沿い市中の遊女屋営業者が出資して貸家も建てられた。,更に山の手方面を見れば、主に神明町に続いて新地が開け、山ノ上町の遊廓も安政5年外人の遊興が許可されたので
函館市史 通説編 第二巻 (解放後法則)

函館支庁は「解放後法則」で、遊女屋や芸娼妓へ今後のあり方について次のように指導している。,すること、今後の営業をはっきりと申し出ること、引き続き芸娼妓の営業を願い出た者へは鑑札を渡すこと、引き続き遊女屋,許可された者は店先へ貸座敷という看板を下げること、蓬莱町・豊川町以外の居住者にも貸座敷営業を許し、帆縫女(,″新しい形″つまり(1)芸娼妓を1つの営業と認めて彼女らの自由意志に任せる。
函館市史 通説編 第二巻 (芸娼妓の解放)

これまで遊女や飯盛女、女芸者の類の営業は旧例にならい、直接あるいは遊女屋を経て間接に税を納めることで認可,号事件が起き、これら人身売買の類の営業との関係を断ち切ろうとした政府は、5年9月大蔵省達127号を達し「遊女,・飯盛・食売女并女芸者ノ類、旧来税金収入ノ上差許来候向モ不少、間々不都合ノ儀」もあるので、税金は「本年,さらに政府は確かに借金による人身売買の強制は禁止したが、彼女たちの自由意志による売女営業の継続までを禁止,という抜け道のもとに、この地方庁公認の再編成された新しい公娼制度・集娼制度は、わずか1年足らずで各地の遊里
函館市史 通説編 第一巻 (鶴岡町海面埋立と蓬莱町排水)

産物会所用達杉浦嘉七、山田寿兵衛外1名組合に換地を与えるため、鶴岡町の海面5,190余坪を埋築し、また山上町遊女屋営業者
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使設置後の税負担)

建家拝借地冥加永 収納科目 金額 内訳 備考 店役銭・家役銭・四半敷役 161両 永187.5文 質屋冥加金,両 6軒 休株 2軒 髪結冥加金 16 1軒に付金1両16軒 休株 6軒 築島冥加金 11 風呂屋冥加金,糀冥加金 13   650 100石に付金7両 13軒 高 195石 芝居冥加金 200 山上町遊女屋冥加金,250 1軒に付金10両 25軒 山上町引手茶屋冥加金 105 1軒に付金5両 21軒 山上町見番冥加金,500 東築島町遊女屋冥加金 250 東築島町見番冥加金 200 1軒に付金10両 25軒
函館市史 通説編 第一巻 (米国官吏ライスの在留)

足軽小頭鈴木三右衛門が足を痛めているのを見てこれを治療し、また馬を借りて駒ヶ岳に登りたいと願い出て(遊歩区域外,につき許されず)、更に奉行所に内談して山の上町遊女屋丈吉方の妓、玉という女を仕度金5両、年給130両で
函館市史 通説編 第二巻 (雑税)

明治2年は免税となった税目……田畑貢納(8年に地租と改称)、拝借地、茅場、秣場、温泉場、質店、風呂屋、,海産の諸税 明治2年も徴収された税目……函館地子永、売下地価(沽券金のことか)、酒類醤油麹醸造、引手茶屋、,遊女屋、見番、芝居、蚕種紙の諸税    政府が税制の見直しを進めるに当たって雑税は整理廃止,寄留商人免許税、吹抜庫税、陶器焼継税、糴種商税、諸種商税、差網鯡漁船小役、建網鯡漁小役、鯡漁建網釜薪税、引手茶屋税,、遊女屋税、見番税、家役 明治9年(8年分から適用)廃止の税……伐木税、炭竃税、茅場税、秣場税、温泉場税
函館市史 銭亀沢編 (イワシ漁の食事)

約二か月後の漁の終りにまた納屋に集まり「アゴワカレ」をした。,女の人は、夜中にモッコ背負いでイワシを運んだ。,番屋の大きな釜には黒砂糖を溶かした黒砂糖湯が作ってあり、船が出たら番屋に入って休み、黒砂糖湯をお茶代わりに,男の人は五、六杯、女の人でも二、三杯は飲んだ。寒くなった時に、体を温めるためにも飲んだ。  ,学校にいく前にナツボ(イワシの山)に寄って、イワシの中からサバを探し、何匹見つけたのかお互いに競争して遊んだ
椴法華村史 (昭和三十年)

下手であるし、屋外での遊びは非常に少なくなっている。,私たちの子供の頃は、雨降り以外の日中は屋内で遊ぶことはほとんどなかった。,自然の中での遊びが多く、遊びの種類もたくさんあった。,男の子も女の子もいっしょになって野山を走りまわったものである。,今の子どもたちは、もう少し野外で元気に遊んでほしいものだと感じています。  
函館市史 通説編 第一巻 (風俗)

古道具屋・紺屋・豆腐屋・菓子屋・風呂屋・三半船・図合船・髪結・漁師・売女渡世・女芸者・後家稼など、それぞれの,紺屋 これは染屋のことで、山ノ上町に2軒よりなかった。,売女渡世 これは山ノ上町にあって茶屋と唱え、以前は芝居、浄瑠璃稽古、軽業などの興行の節、料理仕出し、または,酌取女などを差出したものが32軒あって、追々人家も増加したから右の料理茶屋と唱えるもの21軒に限り、その,郷村の馬丁牛走まで、今は吏士に遇ても路を避るなどの礼もせず、剰え外蕃の徒上陸遊歩して吾人と肩を摩り、彼亦甚肆意横行
恵山町史 (村道へのバスの乗り入れ)

年下海岸自動車村道乗り入れ 原田温泉(現恵山温泉)への道    『夏の恵山にいきましょう=遊覧団員,に観光恵山を紹介しようというので市内新聞社、ツーリスト、景勝地協会渡島支部の後援で来る二十七日、恵山遊覧団体,       高山植物・山頂権現堂・賽の河原・高田屋嘉兵衛海上安全祈願の碑・湯、中村温泉・原田温泉入浴,その他、同地の男女青年団がコースの案内や説明を致します。,恵山の山納 31日に催す』 函館新聞 11月5~18日   『恵山附近(恵山・温泉・三日湯・村の女・
函館市史 通説編 第一巻 (年中行事)

此時は船主・水主懇意の族、問屋、附船の手代等船中狭しと居並び、笛あり太鼓あり、粲絃急曲、皿鳴り、樽躍り,○雛見物 女児のある中等以上の家には、何れも雛棚をかざるが故に、雛見物とて女児輩群をなして家々の雛を勝手,〇七夕祭 大額灯籠は方二間余りに囃子屋台ようの物を四ツ車のうえに組立て、幕を四方に張廻して、此中、笛、,の鳳凰頭屋形船を限前に見るが如く、長さ五、六間、巾二間半位。,の(多くは遊女屋児女、芸妓輩の児女等)手踊りあり。
戸井町史 ([公立学校創設当時の状況])

ゆうふく)な家庭の子弟がはいり、入退学も自由であったものと比べ、義務制として貧富の別なく、男子も女子も,漁師には学問は不要と考え、特に女の子には学問はいらないと考えていた時代であったので、子弟の義務就学で、,対岸下北の岩屋学校は明治十年五月創立、尻屋学校は明治八年二月創立であるが、明治十七年五月現在で、岩屋は,これでも「尻屋小学校は就学率五〇%で、岩屋の五九%と共に断然他校を抜いている」と『東通(ひがしどおり),って家を出、二、三人で誘い合って学校へ行かずに山へ行って、山ブドウを取ったり、ザッコをすくったりして遊び
函館市史 通説編 第二巻 ([目次])

と女学校…1270    女学校の規定/函館の初期の女学校/時任県令の女子教育観/公立函館女学校/宗教主義,…1390   一 山ノ上遊里の誕生と公娼制度のはじまり…1390    茶屋渡世の公認/箱館開港,と売女渡世の公認/山ノ上遊里の誕生/蓬莱町遊里の出現   二 「解放令」と新しい公娼制度の確立…1394,の女性たち…1400    蓬莱町・台町遊里の指定/三業規則の変遷/賦金/取締人とその権限/性病対策,の開設とその機能…1417    女紅場の出現/女紅場設立へ/女紅場着手順序提綱/教員・役員/女紅場開場
函館市史 通説編 第二巻 (脱走軍支配下の箱館)

よりの上納金)が徴収され、市中の「後家、小宿、居酒家台店、其外小前娘共内夜励等に罷出」ことを知ると、彼女らに,「渡島国戦争心得日誌」には「密売女の運上を初取」と記されている。,箱館市民は、脱走軍の箱館占拠当初は早急な新政府軍の反攻を予測、店屋敷が戦火に包まれることを恐れ、貴重品,一方、脱走軍の行状については、「役付のもの追々茶屋遊び、或は後家、小宿、酒店等へ入込、金銀を水の泡に遣,実際、丸毛牛之助は「感旧私史」の中で、明治2年の初めに山ノ上町の妓楼宮川屋へ登楼し、そこで逢った松前の
函館市史 通説編 第二巻 (箱館開港への対処)

箱館開港への対処 ともあれ、この条約附録の調印によって、箱館における遊歩区域が5里四方と決定し、箱館開港,一寺院市中等遊歩いたし候節、往来之外、備向人家并道なき所へ立入間敷事。   ,・福島屋嘉七・酒屋八郎右衛門の4人に命じた(『幕外』8-136)。,、「異船渡来之節者、異人江御法度御示しニ相成、其上役々取締致ニ付、安心致し商売可レ致候、婦女小児立退ニ,かくして箱館奉行は、翌安政2年2月13日、老中に対し外国人の「上陸遊歩之節御取締之為め」、峠下と川汲への
函館市史 通説編 第二巻 (蝦夷地の警備)

この時、南部坂の南部陣屋(現ロープウェー駅一帯)を焼き払い、弁天岬台場の大砲を使用不能にしていった。,「京都の付役、下々は申すに及ばず、独身の若者共多く、日に随いておごりに長じ、遊里に通ひ、又はかこいもの,或は妾、手かけをもうけ、近習小性侍迄夫々に妾妻を置、挙げ句のはてには親指(知府事)へも、十三、四なる女子,ををば十二ひとえに着飾らせお進め申上げ、銘々も表向にて女房を持、朝出勤は四ツ(十時)を過、夕退散は七ツ
函館市史 別巻 亀田市編 (中の沢分校の誕生)

石倉捨蔵先生を迎え、関係者参集して、桔梗小学校たたら沢分校(一学級編制、児童数一年生から三年生まで男十名女二名計十二名,三十三年四月一日、二学級編成(一年生より六年生まで男二八名女三六名計六四名)となった。      ,四 独立校昇格と屋体建設  昭和三十五年初代分校主任石倉先生が退職、桔梗小学校から、二問三郎先生を迎,中央の池には噴水が吹き上げ、ふなや金魚が遊び、花壇には四季とりどりの花が咲き乱れ、児童の情操教育とともに,屋体の建設については、四十三年には町財政の都合で延期され、校長住宅の新築と職員室の改造に終ったが、翌四十四年秋着工
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の町勢)

、また夕涼みや春の汐干など遊山する人びとの休所となっていた。,ここから左うしろへ1丁ばかり入ると、高田屋の屋敷跡があり、東西50間余南北80間家作はみな取払われたが,福島屋、浜田屋をはじめとし問屋、小宿、小商人などが多く軒をならべ、その裏庭小路には「風呂敷」といわれる,、この車櫂というのは南部北郡および津軽三厩辺で小船に用いる櫂で、両手で両舷に櫂をたてて漕ぐもので、彼女らは,青楼(遊女屋)が古来から18軒あり、その他小宿、煮売屋、酒屋などがある。
函館市史 通説編 第二巻 (諸施設の移転と都市形態)

つまり遊郭の当初の立地は市街地の縁に隣接する場所が考えられるし、区役所は市街地の中心部に求められるように,まず、遊郭については明治4年の大火により山の上町より、幕末時に整地されていた大工町地続大森浜通の蓬莱町,そのため遊郭営業者の代表より、移転地として東川町301番地の函館中学校の付属地の払下願いを北海道庁に提出,開拓権大書記官時任為基より、長官黒田清隆への八幡宮移転の伺書の中で「現今ニシテ之ヲ見レハ、市街ノ中間ニ挟リ回隣民屋囲繞致,これに類する事例として遺愛女学校も明治36年10月に、元町より郊外湯川通りに移転地を定めており、当時は
恵山町史 (2、尻岸内小学校)

6・26 補習学校(2年)を付設する  明治41・ 4・ 1 通学区を武井泊~女那川間,14・ 4・10 高等科(2年)を併置する  昭和 3・ 5・20 屋外運動場,;3 優良子ども郵便局として表彰される  昭和53・ 8・ 4 強風のため校舎屋根,      7・ 1 新校舎落成記念式・祝賀会挙行  昭和61・ 7・30 遊具新設,;7・ 4・ 1 特殊学級開設  平成 8・ 7・23 磯遊び
函館市史 通説編 第一巻 (市在住民への触書)

一 異国船渡来の節、浜辺へ罷出、或は屋根上等へ登り、見物致し候儀、堅く相成らざる旨、兼て仰出されこれ有,は度々上陸いたし、尤も乱妨は致さず候えども、所々徘徊いたし、猥りに人家へ立入り、食物等乞求め、或は婦女に,別して遊民体の者は、早々立払わせ申す可く候。,但滞船中は、居酒屋一切停止の事。,から市中を見通しまたは上陸出来ないよう、一面高さ7、8尺(約2メートル余)の板塀を建て、沖ノ口前と秋田屋という
函館市史 通説編 第二巻 (ロシア病院と医学所の設立)

御役所からの1500両はあったものの、奉行所の諸役人、市中の医師、商人、遊女屋の積金などを以て建設したことは
恵山町史 ([土地災害])

サンタロナカセ岬東側の豊浦から女那川・古武井・恵山の各地区では、住宅地に押し迫っている段丘・扇状地は、,尻岸内村、死男一人、怪我女一人、潰家三、潰納屋三、道路破損九。,椴法華村、死男一人、怪我女二人、潰家四、半潰二、道路破損十、此他被害價格大凡千二百圓。,一二歳)(函館から遊びにきていた親類の斎藤きさ七歳)、の五人が布団のまま埋まって一息に死んでしまった。,家屋全壊1戸、非家屋2戸濁流にのまれ流出、河川護岸4か所破損、道路決壊2か所、治山関係被害5か所。
恵山町史 ([昭和9年の尻岸内村勢要覧])

一四四・雑種地三四九・その他一一 [戸  口] 戸数一、〇七五戸・人口六、六六八人(男三、四三三・女三,、二三六) [教  育] 学校数四校・児童数一、二七五人(男六六〇・女六一五)教員数二四人        ,本科正教員男一二人・尋常科正教員男四人・尋常科准教員男一人・            代用教員男一人女六人,同質なりとて効験著し、従来交通不便なりし為世上に知られざりしが、近時、自動車の通ずるに至りて、より登山遊覧団体踵,浴舎の裏手、賽の河原の中に高田屋嘉兵衛舩中の海上安全祈願の碑あり、之より山頂に登る道は茫々岩塊の間を九折蛇行
椴法華村史 (椴法華中学校の思い出)

六年生卒業旧中学校進学男子一名・女子三名、進学希望を持っていたものこの他に数人いたが毎日の食事にもこと,教材園などもできましたが、村の方々も家業で忙しい中を繰合せてよく協力してくれましたし、生徒も先ず自分達の遊び,又毎日の授業に必要な教具も不足でしたし屋外の設備などにも教育委員会の限られた予算では十分なことができなかったので
南茅部町史 上巻 (田代角左衛門)

角左衛門は天明五年の生まれで、生家は船越の三家衆とよばれ廻船問屋や小舌網を経営していた。  ,二六歳で、吉里吉里村の廻船問屋前川善兵衛の女エイを娶った。,五〇貫もの大鮪が春秋、群をなして湾内深く回遊するのをみていた角左衛門は、陸前遠島付近の建網に興味をもった,奥州の廻船問屋が信仰する石巻の住吉大明神の参詣の折、金華山の黄金神社に詣でた角左衛門は、牡鹿半島から十五浜,テンヤ(網小屋)にいる漁夫たちは、知らせをうけると団平船を漕ぎだし、網を起こして鮪を捕獲するのを見聞して
戸井町史 ([戸井と近隣の変遷])

⑦天明八年(一七八八)『東遊雑記』  古川古松軒が、天明八年、六十八才の老躯をもつて、幕府の巡見使に,みんなでその大女を生け捕りにしよう」と、昆布小屋にいた若い元気な男たちが、みな走り出て来て、手に手に昆布取鎌,十九日、石崎を出発して銭神沢の名主、姥子太郎左衛門の家に滞留し、その後、箱館、亀田、有川などで遊んだ」,遊んでいた。  ,商人多くカワタビという妓女あり。峠の下に旅館あり。宿野辺には、松前藩の建てし腰掛茶屋、中食所あり。
函館市史 通説編 第二巻 (ロシア軍艦の乗組員)

「ロシア軍艦が入港するとこのホテルに市中の売婦が大勢やって来て遊女屋のようになり、築島の住人のみならず,大町の居留地規則には宿屋や酒屋を作ってはならないとあるため、他の外国人が連名で抗議の書を提出したのである
函館市史 通説編 第二巻 (開港による市街の二分化)

亀田道路に沿い市中の遊女屋営業者資を出し、貸家を建てしか、水なき為め居住するものなかりし」(『函館区史
函館市史 通説編 第二巻 (その他の出版物)

いろは草紙 靄離遠山日記 小野篁一代記八十島かけ 絵本顕勇録 忠孝節話雲井物語 絵本鏡山列女功,北海/戯作百人一首 函館新繁昌記(上篇) 手前味噌 北海立志図録 菊の香てふ 函館遊寓名士伝,家屋図入/北海立志編 日本北海道案内記 北海/巴港之宝庫 函館紀勝 函館実業者便覧 北鉄族行案内
南茅部町史 下巻 (修学旅行)

一行の中に〓二本柳家の女の子がいたので、漁場(納屋(なや)といった)の人たちも一行を笑顔で迎えてくれた,函館の停車場(駅)に着いて宝町のカノウ屋に一泊。,自動車が來て僕等の荷物を全部宿屋まで運んでくれた。    ,宿に着いてから釣道具を借りて姫鱒を釣って遊んだのは楽しかった。    夜は皆で唱歌會を開いた。,野球をやったりボートに乗ったり展望台に上ったりして楽しく遊ぶうちに中の乗合自動車が迎へに來た。    
函館市史 銭亀沢編 (目次)

(女の仕事2)/婦人会の結成/     コラム(女の仕事3)/出稼ぎ家庭を守る/通婚圏/コラム(女の,銭亀沢の集落形態……………………………………………367     住文化を取り上げる視点/漁業形態と屋敷地,/漁場を構成する個々の建物/     道路割・屋敷割の復元的考察/短冊状地割と境界について/戸数と集落,…………………………………………………441     遊びの伝承と変容/遊びの聞き取り調査/わらべ唄,)/沖揚げ音頭/チャンコ茶屋の婆(嬶)/ヨサレ節/     相撲甚句(臼曳き唄)/変わりソーラン/口説節
戸井町史 ([石崎まで来た巡見使])

一行の人数が多いものだから、一行の宿泊地や休憩所に当てられた村の近隣の村々の旅館や休み茶屋などは、十日,この時の随行者の一人に古川古松軒という地理学者が加わっており、『東遊雑記』や『蝦夷松前諸説』に、巡見使一行,城下における巡見使の宿舎には家老の屋敷を提供する。  ,この度乙部では、男八人、女六人、黒岩では、男十二人、女五人が御目見した。,蝦夷が御巡見使の前に出る時は、男は男ばかり、女は女ばかりで、手に手を取り組み、腰を大そうかがめ横へ横へと
函館市史 通説編 第一巻 (直捌制廃止の理由)

松前表並道中筋共風聞仕候趣左に申上候 一 松前表掛御役人の儀、当春迄は調役並びに下役・在住毎夜相集り酒宴を催し、酒狂の上遊女町,にもこれ有り疑敷も相見候哉、沖ノ口番所に相改候処、右は町年寄にて御収納方元締相勤候桜庭丈左衛門其外問屋共商,調役並最上徳内、当春中よりカラフト詰にこれ有り候処、右場所御固め会津家人数え対し、自分鍵(限)の了簡に任せ居小屋取建方其外食物等
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

宇右ヱ門 印   高田屋金兵衛 殿  (市立函館博物館 第4回日本海文化展・1978年・高田屋嘉兵衛目録,産卵場所への回帰性が強く、索餌(さくじ)期(餌を盛んに採り成長する時期)は恵山沖から釧路沖まで広く回遊し,生息場が浅海部で、冬季に比較的深海部へ移動し産卵を行うが、日本周辺海域では夏季、深海部で索餌(さくじ)回遊し,椴法華村史より)  「恵山町ふるさと民話第1集『佇(た)て岩とサンタロ泣かせ』、同第3集『日浦の孝女れん,なお、『日浦の孝女れん』については、実際にあった話であり、休明光記(箱館奉行羽太正養)・蝦夷日誌(松浦武四郎
函館市史 通説編 第二巻 (住民の行動規制の強化)

(2)アメリカ船渡来の際、「浜表」へ出、あるいは屋根に登り見物することを禁止する。,・桝形外、亀田浜、七重浜等は、場末で人家も少なく、夜分密に上陸の程もはかりがたいので、これらの地の婦女子,(7)箱館に来ている領民及び他国者は、調査の上、早々用事を済させて帰郷させ、遊民体の者は退去させること
恵山町史 ([税の負担])

  同 一宅地三拾坪 地価 金一圓拾四錢九厘 此百分の一 金壹錢壹厘地租 渡島國茅部郡尻岸内村字女那川四拾九番地,  同  同 一畑壹畝拾六歩 地価 金六拾壹錢五厘 此百分の一 金六厘地租 渡島國茅部郡尻岸内村字女那川六拾五番地,  同 一開墾地八段六畝拾三歩 但明治十三年ヨリ同二十二年迄十ケ年間除祖 渡島國茅部郡尻岸内村字女那川八拾四番地,さらに、これ以外の雑税として「営業雑種税」があり、職種毎−例えば、風呂屋・質屋・髪結床・酒類醤油麹醸造,<国税目>  地租・市街地券税・地券証印税・海産税・銃猟税(職猟・遊猟)・船税(蒸気船・西洋形帆船・
南茅部町史 下巻 (竹中重蔵)

温泉に逗留中、沿岸を遊歩して将来を期したという。これが縁で川汲温泉に寄寓した。  ,(一八六六)             数え3歳 母死別             六歳 寺子屋 飯田町佐野春庵師,乗客男女三百数十名。        ,毛皮を自家用に充当        3月 2日  牛乳処理休業届     18年 6月 3日  店舗屋上
恵山町史 (1、日浦小学校)

 大正 8・ 5・26 校舎増築、1部授業となる  大正14・10   校舎屋根葺替,となる       6・14 創立70周年記念式挙行  昭和32・ 1・21 屋内体育館落成,     10・14 渡島PTA研究大会森大会(東 由記子氏提言)      11   グランド工事・遊具施設工事開始,の先生方(職員室) 前列左第14代工藤弘校長(昭和18年頃) 古武井尋常小学校(分校)中小屋特別教授場学習証書,年度恵山尋常高等小学校 高等科卒業生(昭和11年3月) 〈裏書き〉昭和16年6月17日古武井国民学校運動会 女子青年
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