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南茅部町史 上巻
(運上屋)
運上屋
尾札部には享保の頃には
運上屋
が置かれた。 /
運上屋
恵山町史
(3、運上屋)
3、
運上屋
「
運上屋
」とは、場所請負制の運営組織が置かれた事務所である。,
運上屋
は事務所であると同時に関係者や旅人の宿泊所であり、生活物資・漁業資材の貯蔵庫、収獲物の貯蔵庫であり,それぞれの「場所」の集落形態は、この
運上屋
・付属の建物を中心に形作られていったものと思われる。 / 3、
運上屋
椴法華村史
(運上屋と番屋)
運上屋
と番屋 さきにも記したように、元文四年(一七三九)頃から交易が盛んになり、交易場には知行主に依,って
運上屋
又は番屋(
運上屋
の小規模のもので、交通の要地に置かれた建物)が建てられ、知行主は次第にこの
運上屋
,この頃になると、はじめは交易の場として造られた
運上屋
も、交易場としての性格を失い、請負人の漁業経営の場,なお
運上屋
には責任者として支配人がおり、その下に通辞(アイヌ人の通訳)、帳役(帳簿係)などがいた。 /
運上屋
と番屋
函館市史 通説編 第一巻
(運上屋を会所に)
運上屋
を会所に こうして新たな商人を御用聞として上から把握して、流通の拠点となる要港をおさえ、同時に,蝦夷地各場所では、旧来場所請負人の場所経営の中心となっていた
運上屋
を会所と改め、幕吏を在勤させ、これまでの,
運上屋
の機能のほかに、公務をも執行する出張役所としての性格をもたせた。 /
運上屋
を会所に
恵山町史
([尻岸内の運上屋・駅逓])
[尻岸内の
運上屋
・駅逓] 尻岸内の
運上屋
についての記録は、天明6年(1786年)の『蝦夷拾遺』に「シリキシナイ,、ヲサツヘにそれぞれ
運上屋
一戸あり」とあるのが初見である。 ,であるが、「七月十日恵山に登り、下山して根田内に泊まり、翌十一日、根田内を出発、古武井を通り『尻岸内の
運上屋
,松前地と東・西蝦夷地の巡回調査報告書で、そのなかに、「小安村・トイ・シリキシナヱ・オサッペ(それぞれに)
運上屋
有,これらの施設は勿論、駅逓として特別に設置されたものではなく、
運上屋
時代からのものであったが、通行人・物資 / [尻岸内の
運上屋
・駅逓]
戸井町史
(一、運上屋時代(場所請負時代))
一、
運上屋
時代(場所請負時代) 松前藩の蝦夷地統一が確立されたのは、五代藩主慶広(よしひろ)の天正十八年,そして各場所に
運上屋
(うんじょうや)をおき、松前藩の役人を常駐させた。,この時代に小安、釜谷、汐首が一場所として、小安に
運上屋
がおかれ戸井、鎌歌、原木が一場所として、戸井に
運上屋
,
運上屋
は小安、戸井の外に尻岸内、尾札部、茅部、野田追におかれ東蝦夷地の六場所といわれた。 ,真澄が道南を巡遊したのは、
運上屋
の廃止される七年前である。 / 一、
運上屋
時代(場所請負時代)
戸井町史
([菅江真澄の戸井紀行(寛政元・三年)])
下海岸の事情にうとい(・・・)、真澄研究者や学者は「十七日を十月十七日」としたり「この
運上屋
を某地の
運上屋
,」としたり、甚だしい者は「尻岸内の
運上屋
」と解釈したりしている。,「この
運上屋
」を内田武志等が「某地の
運上屋
」と訳し、松本隆は『松前郡史』で「尻岸内?,又「この
運上屋
」は、文章を読んで行くと「尻岸内」ではなくて「戸井の
運上屋
」である。 ,に一泊、戸井の
運上屋
に休憩している。
南茅部町史 下巻
(〔搔き送り船(かきおくりぶね)〕)
椴法華から古部・木直・尾札部の往来をする船便は会所(以前は
運上屋
)の大事な役目であった。 ,寛政三年(一七九一)、菅江真澄はアイヌの舟に搔き送られて、尻岸内(恵山町)の
運上屋
から椴法華へ、そして,尾札部の
運上屋
に、ここで一泊してさらにアイヌの舟に送られて臼尻の
運上屋
で乗りついで鹿部の
運上屋
にと、舟旅
恵山町史
([幕府の蝦夷地直轄と道路行政])
そして、この東蝦夷地の、①場所請負人制度(註1)・
運上屋
(註2)を廃止する②道路を開き会所(註3)を建,(註2)
運上屋
(運上家) 松前藩主・知行主のアイヌ交易所、場所請負人制度が整ってからは、その請負場所,商場経営が商人による請負形式に変化し、経営内容もアイヌ交易から漁業経営へと発展することにより、
運上屋
も,
運上屋
には、場所請負人の支配人・通詞・帳役などが詰め、番人、稼方などの和人労務者を使役し、一方、アイヌ,こうして、
運上屋
は、場所における漁業経営の拠点であると同時に、『政治的支配』の拠点という性格を次第に強
椴法華村史
(近村への道)
近村への道 前松前藩時代末には尻岸内・尾札部の両所に
運上屋
が設置されており、尻岸内から尾札部へ旅行する,者は、尻岸内
運上屋
を出発し、海路又は陸路を通り椴法華へ来村し、椴法華から尾札部へは陸路がないため搔送り,その後、前幕領時代となり、旧来の
運上屋
は会所と変わり、椴法華村に番所が見られるようになる。
椴法華村史
(椴法華の駅逓制度)
されたものか詳かではないが、天明六年(一七八六)の『蝦夷拾遺』によれば、「シリキシナイ、ヲサツベにそれぞれ
運上屋
一戸,これらのことからこのころ尾札部・尻岸内の
運上屋
の中継所として椴法華・根田内の番屋が設置されており、これらの,
運上屋
や番屋は、簡単な荷物の運送・宿泊・手紙の継送などの仕事をしていたものと推定される。
椴法華村史
(場所)
知行主は最初、各自の場所に
運上屋
又は番屋(
運上屋
の小規模のもの)を設け、自らがその経営に当っていたが、
南茅部町史 上巻
(会所)
会所 寛政一二年(一八〇〇)、東蝦夷地を幕府が上知して直捌制をおこなうにあたり、東蝦夷地の
運上屋
は以後会所
椴法華村史
(会所・通行屋の設置)
会所・通行屋の設置 六箇場所では、場所請負制度の廃止にともない旧
運上屋
が廃止となり新たに会所が置かれ,幕府の命令により各場所における実支配者であった場所請負人は廃止されたが、他方
運上屋
の支配人や番屋の番人
戸井町史
(三、幕領時代前期の概観)
宿泊所は始めの頃は会所と称されたが、後には旧
運上屋
だけを会所と呼び、宿泊にのみ使用するものを通行屋又は,蝦夷地が幕府の直轄になってから、場所請負制の弊害を認めてこれを廃止し、東蝦夷地の
運上屋
を会所と改めたが,、西蝦夷地は従来通り
運上屋
の名称を用いさせた。,
運上屋
は始めの頃は粗末な建物であったが、漁場が発展し、幕吏の往来が頻繁(ひんぱん)になった文化年間の終
椴法華村史
(人馬賃銭と駅馬)
人馬賃銭と駅馬 前幕領時代の会所や通行屋(会所=前松前藩時代の
運上屋
が改められたもので、
運上屋
の機能
椴法華村史
(一七〇〇年代の椴法華近海の海運)
につき休むまもなく舟に乗り、蝦夷の家七八軒ある矢尻浜をすぎ、銚子の碕・フルベ大滝・ピルカ浜・尾札部に着き
運上屋
,に泊す 二十九日 同舟にて出発ツキヤンゲ・カツクミ・イタンギ・ウツジリの
運上屋
で別の舟にかえ、モウセジリ・オイガラ,このように真澄は昆布取り船に便乗して福山を出発し、海が荒れると陸路を蝦夷地に入っては蝦夷船に乗って民家や
運上屋
戸井町史
(一、明治以前)
四十戸足らず 百六十余人 世田良村 十戸足らず 二十人足らず 蝦夷地 トイ
運上屋
一戸,世田良村と境を接し、このうち海岸里数、三里 ○寛政九年(一七九七)『松前地誌』 小安、
運上屋
,戸井、
運上屋
あり、フノリ、昆布。水よし。
南茅部町史 上巻
([人別帳])
人別は、領主の達しによって家族しらべや信仰のしらべなどもされたが、多くは
運上屋
(会所)や神社、寺院が担当
戸井町史
(二、松前時代前期の概観)
蝦夷地に「場所請負制度」が適用され、松前城下などの豪商を場所請負人として場所請負の権利を与え、要所々々に
運上屋
,こうして
運上屋
は蝦夷地を統治する役所という形になり、場所請負人やその使用人が絶大な権力をもっていたのである,場所請負制度の時代は西部は小安に、東部は戸井の館鼻に
運上屋
が設置されていた。
恵山町史
([宿泊施設の独立])
[宿泊施設の独立] 当初、この宿泊所は『会所』と呼んでいたが、後、旧
運上屋
(役人が駐在)だけを会所と
椴法華村史
(箱館より木直までの道)
銭亀沢ヨリ一里十二丁二拾二間 小安村、
運上屋
有リ 産物正月ヨリ五月迠布苔八月迠昆布冬鰤水,トイ
運上屋
有リ 産物布苔昆布水ヨシ、當所海ニムイノ嶋ト云岩嶋有リ此所岩出崎ニテ海ヨリ切立通行ナラズ,レモ野少シ有リ、山近ク木アリ此所ヨリ小石濱行キ小流有リ夫ヨリ又砂濱五六十間程行キ シリキシナヱ、
運上屋
有,ヒルカ濱ト云所有リ是ヨリ砂濱ツヽキ行キ ヒカケ浜、此所山近ク木ナシ砂濱道行キ オサッペ、
運上屋
函館市史 通説編 第一巻
(赤人ノッカマプに来る)
(納沙布岬にあり)へ、上乗役人新井田大八殿、並に船中目付工藤八百右衛門殿、通詞のため私一同罷出候処、
運上屋
支配人兵吉死去,
運上屋
よりも蝦夷人共神妙に仕り候様精々申聞け、ようやくしづまり申し候。,り候得ば、夜分なりとも対面仕らず候内は、安心仕らず候間、是非是非対面下され候様、強いて申聞け候に付、
運上屋
恵山町史
(7、名主事務所の開設)
されており、これには、文化8年(1811年)尻岸内御会所 村岡清九良(清九郎)と記され、名主事務所が会所(
運上屋
椴法華村史
(ロシアの襲来)
ロシアの襲来 文化三年(一八〇六)九月、フォストフ等は樺太クシュコタンを掠奪し、
運上屋
を焼く。
戸井町史
([戸井と近隣の変遷])
運上屋
という商家あり。」 ,「宿りやに至る」と書いている「宿りや」は「戸井の
運上屋
」である。,一、戸井、
運上屋
あり、フノリ、昆布、水よし。 ,一、尻岸内、
運上屋
あり、フノリ、昆布、水よし。 ,一、尾札部、
運上屋
あり、鰊、フノリ、昆布、ナマコ、水よし。
椴法華村史
(駅逓制度のはじまり)
これに伴い前松前藩時代に
運上屋
と称されたものが会所と改められ、蝦夷の介抱・官用書状の継立・官用旅行者の
恵山町史
([駅逓制度のはじまり])
すなわち、前松前時代に漁業経営の拠点であった
運上屋
を、会所と改め行政機関としての権力を強め、漁業経営を
戸井町史
(二、会所時代)
直轄直後、松前藩のつくった場所請負制度を廃し、場所毎に宿泊所を設け、始めはこれを会所と称していたが後には旧
運上屋
,この時小安と戸井の
運上屋
はそのままの建物を会所とした。
恵山町史
(『蝦夷巡覧筆記』より箱館よりヲサツベまでのようす)
銭亀澤ヨリ 一里十二丁二拾二間 小安村(戸井町字小安) <
運上屋
有リ> 産物正月ヨリ五月迄布苔,トイ(戸井町) <
運上屋
有リ> 産物 布苔昆布 水ヨシ、當所海ニムイノ嶋ト云岩嶋有リ 此所岩出崎ニテ,ヨリ小石濱行キ小流レ有リ、夫ヨリ又砂濱五六十間程行キ、 シリキシナヱ(恵山町字豊浦・大澗) <
運上屋
有,椴法華村字元村・恵山岬) 此所山近ク木ナシ 砂濱道行キ、 オサッペ(南茅部町字尾札部) <
運上屋
有
函館市史 通説編 第一巻
(ロシアの樺太・択捉侵寇)
国樺太東部経営の根拠地クシュンコタンに至り、番人富五郎ら4人を捕え、米・酒・煙草・木綿などを略奪し、
運上屋
椴法華村史
(前幕領時代以後)
前幕領時代以後 前幕領時代になり六箇場所では、場所請負人が廃止されると同時に、旧
運上屋
は会所と改められ
南茅部町史 上巻
([郷土の戸口])
この頃、尾札部に
運上屋
も置かれたという。真澄が「えぞのてぶり」を書き記したのは寛政三年である。
戸井町史
([昔の蝦夷地の船])
この頃〓谷藤家のあたりに、
運上屋
があった。,蝦夷地の要所々々に
運上屋
のあった時代で、旅人や役人を送るために、各
運上屋
に蝦夷船をおき、その船に来る蝦夷
戸井町史
(一、十八世紀後半の戸井の状態)
小安と戸井に
運上屋
(うんじょうや)が置かれ、幕府や松前藩は主産物の昆布を物納(ぶつのう)させたり、その,役所(
運上屋
)あり。三月より八月まで、境役人護る。領主より仰せつけられ、罪科の者を流人す。
恵山町史
(2、箱館六ケ場所の成立)
<
運上屋
> 「場所請負制」の拠点となったのは、その仕組みが置かれた「
運上屋
」である。 ,支配人を置き、その下に・通辞(アイヌの通訳)・帳役(諸記録係)・番人(番屋の管理)の専門役を配置し、「
運上屋
,この「
運上屋
」は関係者の宿泊所であり、生活物資・漁具資材・生産品の収蔵庫ともなる漁業経営の拠点として相当,元文年間(1736~40)までには
運上屋
が「場所」の経営拠点であることから、殆どの「場所」が「運上場所, 北見常五郎 一五〇両・差荷物一三品代金 八両二分と銭一貫五〇文 他手場所運上金 一一両 但し、
運上屋
戸井町史
([シロイ浜の硯石と最上徳内])
瀬田来、戸井川の流域にはこの変成岩が厚大な層をなして露出しているので、徳内は汐首岬を船で越えて戸井の
運上屋
椴法華村史
(陸路の充実)
宿泊所は最初会所とよんでいたが、のちには旧
運上屋
だけを会所と呼び、宿泊するものを旅宿所又は通行屋と呼ぶようになった
南茅部町史 上巻
(菅江真澄紀行)
地形や風土のこと、地名やそのいわれを書きとめ、昆布漁のこと、
運上屋
の様子、アイヌの生活やたべもののこと
函館市史 通説編 第一巻
(寛政の蝦夷乱)
足軽竹田勘平が上乗役で国後に到着したにもかかわらず、例年のごとくオムシヤも行わず、たまたま病気中の泊の酋長が
運上屋
恵山町史
(1、異国船の来航)
・同年(同年)六月二十三日、アメリカ漁民三十四人短艇で樺太(サハリン)白主に上陸、
運上屋
に来て白米と丸太二本
函館市史 通説編 第二巻
(政務の引継)
」「東西北蝦夷地其外離島場所詰人数書」「北蝦夷地出稼人名前書」「場所々々備米金高」「役託向并本陣会所
運上屋
備米等建物調書
戸井町史
(一、戸井の館とその伝説)
古文書に「戸井の
運上屋
」と書かれているのはここである。,即ち
運上屋
が会所となり、明治十一年以降戸長役場に当てられたのである。,戸井の館は古老の伝えによると、
運上屋
のあった高台から大宣寺あたりまでの二、三ケ所にその建物があったという
函館市史 通説編 第一巻
(蝦夷地経営の方針)
、松平忠明以下は2月から3月までに江戸を出発して箱館に至り、それぞれ部署を定めて蝦夷地に入り、従来の
運上屋
南茅部町史 上巻
(寛政三年五月)
ケニウチ(見日)、ヤギ(八木)などという沖を漕いでいって、ヲサツベ(尾札部)の浦(コタン)に着いて
運上屋
,付けた小さい蝦夷舟(チイツフ)をアイヌ達が磯にひきおろしたが、岸波がたいへん荒く打ちあげてくるので、
運上屋
,舟からおりて
運上屋
に入って、また、ここのコタンのアイヌの舟で漕ぎ送られてでかけた。,= この
運上屋
のすぐ隣りの蝦夷の家(チセヰ)に入ると犬(セタ)の大きさ位のビヤウレップ=ひぐまの小,ここの
運上屋
をたずねて来る人毎に「今日の鎌おろし=夏の土用に入る日から昆布を刈り初めるのが毎年の仕来(
戸井町史
([戸井の地名考])
トイという地名は、オカベトノマや
運上屋
のあったあたりにつけられた名であろう。,オカベトノマの近く、
運上屋
の設置された附近、即ち現在の〓谷藤家の附近につけられた地名である。,
運上屋
のあった附近に赤土が露出していた場所があり、そこに名づけられたものと推定している。,会所の前にあった戸井
運上屋
もここにあったのである。,小安の
運上屋
は現小安郵便局の東隣りにあった。
恵山町史
([明治初期の尻岸内村の道路行政])
この運上所は松前藩時代、
運上屋
と称されており幕領時代に運上所と改められた。
戸井町史
([旧家の系図])
〓○ス 谷藤家(館町) 「註」 〓谷藤家の住宅の向い側の海岸縁に、場所請負時代の
運上屋
があり、幕府直轄時代,には
運上屋
がそのまま会所となり、旧戸長役場時代は会所がそのまま戸長役場になって戸井を統治していたのである,五、六十才代の現代の人々も、
運上屋
、会所のあった下の浜を「会所の下」と呼んでいる。
戸井町史
([戸井町の屋号調])
先年、積丹来岸(しゃこたんらいけし)の旧
運上屋
(脇(わき)本陣)〓岩田家に保存されていた、明治十三年(
恵山町史
([明治・大正時代の漁業])
の直接経営「商場知行制」から、やがて場所請負人(商人)の手による「場所請負制」へと移行し規模・組織(
運上屋
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