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南茅部町史 上巻
(木直 山口千太郎(明治三五生)談)
木直 山口千太郎(明治三五生)談 〓山口で
野田追
に鰊網たてたのは明治三五年、私の生まれた年からだときいていた,順風なら木直から
野田追
まで一日で行く。
南茅部町史 上巻
(松村政太郎翁(明治三七生)談)
胴船(どうぶね)に網を積んで櫂漕(か)いで、
野田追
の場所へいった。,木直も二、三軒、
野田追
にいって漁をした。
恵山町史
(1、商場)
1、商場 「箱館六ケ場所」とは、小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・
野田追
の6ケ所に分けられた漁業交易区域,「商場」の地名が記録に残る一番古いものは、前述、津軽一統志、1669年(寛文9年)頃で、のたあい(
野田追
,六ケ場所の内松前城下から最も遠く、しかも、主要産物である昆布の成育があまりよくない
野田追
が、他の区域にさきがけて
椴法華村史
(亀田番所の設置)
六ヵ場所というのは、小安から
野田追
に至る沿岸を六つに分けた呼び名で、小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・,
野田追
に分けられていた。
南茅部町史 上巻
(昆布商売の祈祷神楽)
昆布商売の祈祷神楽 亀田八幡宮の書上に、延宝二年(一六七四)、箱館の尻沢辺(住吉町)から東蝦夷地
野田追
, 六月十五日 昆布商賣祈祷御神樂 延寶貳甲寅年六月 永久被二仰付 尚為二御初穂料一 尻澤部より
野田追
村迄一軒
南茅部町史 下巻
(〔昆布漁祈願の神楽〕)
神楽〕 亀田八幡宮社記によれば、延宝二年(一六七四)六月(旧暦)、尻沢部村(現函館市住吉町辺)より
野田追
村,右供料ハ尻澤部村ヨリ濱通
野田追
村迄、昆布稼方之者より乞之願二付、駄昆布壹駄宛寄附有レ之、此時領主より為二御名代一亀田奉行下代兼名主年寄付添社参有
椴法華村史
(近村への道)
寛政十二年、山越内が蝦夷地境界となり、
野田追
迠の六ヶ場所(小安、戸井、尻岸内、尾札部《含椴法華》、茅部,、
野田追
)は村並となって和人地内の交通は自由となった。
南茅部町史 上巻
(知行主)
北見常五郎 ヲトシベ 新井田兵作
野田追
,部 四十両 箱館 角屋太郎右衛門 箱館 角屋吉右衛門 角屋吉右衛門 モナシベ
野田追
南茅部町史 上巻
(尾札部 西谷福太郎(明治一九生)談)
尾札部 西谷福太郎(明治一九生)談 一三歳のとき〓内藤の鰊網に雇われて、
野田追
の東、物岱(ものたい)
南茅部町史 上巻
(二八取)
物岱(ものたい)漁場 〓(やまさんぎ) 能戸 〓 内藤
野田追
函館市史 通説編 第一巻
(箱館六箇場所の和人)
箱館六箇場所の和人 昆布の採取も箱館、亀田近辺からしだいに六箇場所(小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・
野田追
恵山町史
(1、津軽一統志にみる郷土の地名・ようす)
ここには津軽一統志より、郷土沿岸一帯、小安(戸井町)から
野田追
(八雲町)までの地域(箱館六ケ場所と呼ばれるようになった, 狄乙名サルコ ここに記されているように、(渡島半島東海岸の)小安から(噴火湾沿岸八雲の)
野田追
沿岸一帯,にあり、ほかに、オヤワイン・ヤクモタイン・サルコという3名の狄乙名が支配者となっているが、のたあい(
野田追
恵山町史
(2、箱館六ケ場所を『村並』に)
村並」とは、松前藩が江戸幕府に提出(松前島郷帳)している蝦夷地(アイヌ居住地)と定めた箱館六ケ場所、
野田追
,「是歳(このとし)幕府、六箇場所 小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・
野田追
の地、和人の居住するもの多きを
恵山町史
(海運の官業)
、大阪で5艘の大船を建造、享和元年(1801)箱館に廻送、造船はこの年で一段落したが、その後も箱館と
野田追
函館市史 通説編 第一巻
(漁業の発展)
ことに箱館近在の小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、
野田追
のいわゆる六箇場所は、享和元(1801)年、新
南茅部町史 上巻
([アイヌの戸口])
尻岸内領四六軒二〇一人、尾札部領二六軒一三一人、臼尻持三六軒一三二人、鷲ノ木五軒二一人、森一五軒五六人、
野田追
領三
南茅部町史 上巻
(箱館在)
河野常吉編「北海道史附録年表」には、享保元年(一八〇一)「是歳幕府六箇場所小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・
野田追
南茅部町史 下巻
(〔安政年間の牛馬の数〕)
二一 落部 三七 三七 六 二八四
野田追
函館市史 別巻 亀田市編
(函樽鉄道の建設)
昿原を通過し、メナタップ山脚に出て、ネップ山を越え黒松内、長万部を経て海岸に達し国縫、黒岩、山越内、
野田追
,長万部より国縫、黒岩、八雲、山越内、
野田追
、落部、石倉、鷲木等沿海村落原野を経過して森駅に至る。
南茅部町史 上巻
(小原多次郎事蹟)
古来、茅部ニシンは砂原・鷲ノ木・
野田追
・弁辺などの噴火湾の場所が主だったときだけに、飯田屋の一一年説も
南茅部町史 下巻
(〔嘉永七年「六ヶ場所書上」にみる神社庵室〕)
一向集場(庵寺) 壱ヶ所 箱館浄玄寺末 地蔵堂 同
野田追
南茅部町史 上巻
([副戸長・村用掛])
(三七名) 相木堯太郎 松岡 福松 技郷 茂無部 (一三名) 技郷
野田追
南茅部町史 上巻
(箱館の税制)
新鱈冥加 二〇両 鱈釣舟
野田追
四〇両 六月納三分 八月納七分 ,箱館から小安のものは一駄 一〇〇文 鹿部は一駄 一二〇文 砂原から
野田追
一駄 八〇
南茅部町史 下巻
(村々の畑作)
鷲ノ木持尾白内、同森、鷲の木で、「野菜物之外粟少々畑作仕候」とあるのは、落部持茂無部(もなしべ)、
野田追
南茅部町史 上巻
(管内の町村の起源(資料))
落部村 八雲町 慶長年間(一五九六) 遊楽部と
野田追
場所の名あらわれる。
南茅部町史 上巻
(菅江真澄紀行)
(恵山より砂原まで詳述) 六月二日 モノダヰ(八雲町
野田追
)に泊る。
南茅部町史 上巻
(村役人)
小頭 兵三郎 落 部 頭取 文 作 小頭 太郎兵衛
野田追
戸井町史
(一、運上屋時代(場所請負時代))
運上屋は小安、戸井の外に尻岸内、尾札部、茅部、
野田追
におかれ東蝦夷地の六場所といわれた。
南茅部町史 上巻
(【資料】滕知文「東夷周覧」(享和元年・一八〇一))
百石以下ノ小舟ハ
野田追
落部川ニ入テ順風ヲマツ。 此所ヨリ膃肭臍ヲ産ス。
南茅部町史 上巻
(明治の漁場図)
イ 各村魚種別漁場数(明治二一年) 鰊 鰮 鮪 鮭 鱒 計 落部村
野田追
川,山越内村 トコタン川・ラクツナイ川・湯ノ下・ ブユンベツ川・無巳部・沼尻・トン ジノ岬・野田生・
野田追
川,・郡界 一六 18 1 二 3 四
野田追
川 9 一
恵山町史
(4、村政のはじまり)
蛯谷古丹(えびやこたん) 本茅部(ほんかやべ) 石倉 落 部 〃 茂無部(もなしべ)
野田追
, この嶋郷帳では、これまで六ケ場所の1場所であり、9カ村の1村であった
野田追
が、落部の持場となっている,これは、落部の戸数・人口が増え集落規模で
野田追
を凌ぎ、また、会所の所在によるものと思われる。
南茅部町史 上巻
(鰊漁場経営)
明治以前においても尾札部の飯田屋は
野田追
・長万部・白老に、そして〓小川家は森・
野田追
・豊浦漁場を経営した
恵山町史
(3、幕府直轄以降の箱館六ケ場所)
には> 享和元年(1801年)「是歳(このとし)幕府、六箇場所『小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・
野田追
, 尾白内(おしろない)・森・蛯谷古丹・本茅部・石倉 落 部 〃 茂無部(もなしべ)・
野田追
,・新鱈冥加 二〇両
野田追
四〇両 ・六月納三分 ・八月納七分 ・村割 三二両二分,汐首より臼尻領磯谷まで一駄につき一五〇文 鹿部は、 一駄につき一二〇文 砂原から
野田追
, 八六〃・三八六〃 鷲ノ木 五五〃・二三〇〃 一七〃・ 八六〃 七二〃・三一六〃
野田追
恵山町史
(2、箱館六ケ場所の成立)
2、箱館六ケ場所の成立 これらに記述されている「おやす(小安)から、のたあい(
野田追
)」までの東蝦夷地,1817)、これらの沿岸地帯「小安・戸井・尻岸内・尾札部(尾札部・臼尻・鹿部)・茅部(砂原・鷲ノ木)・
野田追
,前述『津軽一統志』によれば1669年(寛文9)頃、
野田追
が「商場」と記されており、また、1695年(元禄,の状況を記している『蝦夷商賈聞書(えぞしょうかもんじょ)』によると、六ケ場所は、小安を除いて戸井から
野田追
恵山町史
(1、古い記録にみる、郷土のようす)
<津軽一統志に記された郷土沿岸のようす> これによると、当時小安(戸井町)から
野田追
(八雲町)までの,村・うか川村・汐くひ村(汐首)までと東進し、蝦夷地(アイヌの居住地)を、はらき(原木)以東、のたへ(
野田追
椴法華村史
(明治十六年)
(明治十五年六月に、茅部郡尾白内村・落部村・
野田追
村の三村にイナゴが発生していたが、これが十六年五月の
椴法華村史
(場所請負人)
場所請負制度については、『近世渡島地方史』(松本降著)によれば、「正徳年間(一七一一-一六)亀田小安より
野田追
南茅部町史 上巻
([松前国中記])
因みに、砂原より
野田追
、遊楽部は、いずれも第一番目に鯡と書いている。
恵山町史
(1、郷土の起源・集落の形成)
給地(商場・漁場)として、和人の定住を認めなかった「箱館六ケ場所(小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・
野田追
南茅部町史 下巻
(〔明治五年神社巡回日記〕)
五〇軒 二七九人 八幡宮(文化一二) 末社稲生社 〃枝郷
野田追
恵山町史
([編集後記])
、寛政11年(1799)幕府が東蝦夷地を直轄地とした後の享和元年(1801)、戸井町字原木から八雲町
野田追
南茅部町史 上巻
([北海道の大謀網])
一 二五〇 四五 落 部 大小 二 四〇〇 九五
野田追
恵山町史
(4、江戸時代の昆布漁)
菓子昆布 一駄 (同 ・代銭 八一二文) 御上り昆布 一把(同 ・同 五二〇文) 砂原より
野田追
,一七九一年(寛政三)の「東西蝦夷道中記」によれば、(六ケ場所の)茅部場所の豊年のときは、二、三百石、
野田追
地方
恵山町史
(①松前地古武井熔鉱炉の研究並びに考証年表)
新撰北海道史第5巻779頁)享和元年(1801)幕府、箱館六ケ場所(小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・
野田追
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