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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (長崎俵物の買入れ)

長崎俵物の買入れ 長崎俵物の買入れは、天保九年(一八三九)から普請役が会所役人に替わって行ったが、成績不良,のため、天保十二年(一八四一)から再度、長崎俵物箱館会所がこれを取扱うことになった。,箱館では長崎屋(佐藤)半兵衛が長崎俵物問屋を務めている。  ,『新北海道史第二巻通説一』によれば、長崎俵物の買上量について次のように記している。      ,長崎俵物として買い入れられる昆布は、文化十年まで一か年定弐買入、志苔昆布三千石であったが、翌年より五か / 長崎俵物の買入れ
函館市史 通説編 第一巻 (長崎俵物の直貿易)

長崎俵物の直貿易 長崎俵物については、開港前には幕府の長崎俵物役所によって、独占的に集荷され、長崎会所,を通じて長崎港から一手に輸出されていた海産物で、国内での私的売買はもとより、密貿易も厳禁されていた。,するような措置をとらなかったにもかかわらず、依然として開港前の方針に従って、清国向けの独占貿易品として長崎,これに対し長崎奉行は、従来どおり長崎港の対清国向け独占輸出品であることを主張して譲らなかった。,右之通英吉利コンシュルより申立候趣もこれある趣ニ付き其意を得べし、尤も長崎俵物方より前金受取売渡し候分 / 長崎俵物の直貿易
函館市史 通説編 第一巻 (箱館・横浜・長崎の貿易比較)

箱館・横浜・長崎の貿易比較 さて.箱館港での外国貿易は、他の開港場である長崎、横浜と比較し、どのような,位置にあったのであろうか、横浜、長崎、箱館3開港場における、輸出総貿易節を示せば表12の通りである。,すなわち、これによると開港当初貿易総額の最も多いのが長崎港で、3港総貿易額の77.36%を占め、次いで,ところが翌万延元年には、横浜の伸びが著しく、46.99%に上昇して、長崎の貿易額に急速に近ずくだけでなく,、翌文久元年以降は、長崎と横浜の位置が完全に逆転して、横浜港がトップに上昇してくる反面、長崎港は次第にその / 箱館・横浜・長崎の貿易比較
函館市史 通説編 第二巻 (訓盲院長篠崎清次の社会活動)

訓盲院長篠崎清次の社会活動 久津見息忠(蕨村)とともに函館平民新聞読者会を担ったもう1人の中心人物は,篠崎清次は函館訓盲院長で、北海道盲唖教育の先覚者と称される人である。,そして、明治31年卒業と同時に訓盲会の教師となり、明治37年訓盲院(明治34より改称)の院長に就任している,その中心人物が篠崎清次であった。,明治40年「北海新聞」の社主となった長谷川淑夫(世民・1871~1942)は社会主義、理想選挙に関心をいだき / 訓盲院長篠崎清次の社会活動
函館市史 銭亀沢編 (大字石崎村)

大字石崎村 凡ソ七百年前、一ノ漁場ヲ開キタルヨリ漸次移住者アリテ一部落ヲ形勢シ、當亀田海岸中屈指ノ一大部落,明治拾三年戸長役場ヲ於カレ、同拾六年銭亀沢村戸長役場ト合併シ、明治丗五年二級町村制施行セラレテ、銭亀沢村大字 / 大字石崎村
戸井町史 (二、〓吉崎家(瀬田来))

母タカは大正十三年(一八三六)吉崎家の隆盛を喜びながら八十九才で長逝した。,力松の妻ソヨは石崎村の網元武井弥四郎兵衛の長女で、吉崎家に嫁して以来、七五郎、タマに孝養を尽し、三人の,力松の歿後長男松三郎が〓吉崎家を継ぎ、二男浅吉は分家し、長女マサは村内の〓桜井忠太郎に嫁した。  ,〓吉崎家  初代岩吉の長女マツに三五郎を聟養子に迎え〓吉崎家を立てさせた。  ,この時長男仁三郎は僅か八才で、母マツと共に辛酸をなめ、長ずるにつれて本家〓吉崎家の鰮漁を助けて粉骨砕身 / 二、〓吉崎家(瀬田来)
恵山町史 (函館バス御崎へ運行)

函館バス御崎へ運行 函館からの郷土への定期バスの運行は、昭和4年日浦を皮切りに、道路の改良とともに、,同5年大澗、同7年古武井(役場前)、同12年恵山(温泉)と順次延長されてきたが、これより先の御崎地区への,戸数凡そ100戸、人口620余人(昭和30年代)風光明媚な恵山火山の懐に天然湧出の温泉を擁しながら、長い,い願いを受け、村道の改良工事を極力進め、昭和31年函館バス株式会社と折衝、この年の5月8日、恵山・御崎間,昭和31年(1956)6月1日、1番到着バスを祝う御崎の人々 (この写真は現在も御崎会館に飾られている / 函館バス御崎へ運行
函館市史 銭亀沢編 (八幡神社(石崎町))

八幡神社(石崎町) 石崎宮の川の西岸の丘陵上に社殿が建っており、社地より石崎の集落を一望することができる,それ以前は現在の参道階段下の旧道が石崎宮の川にかかる橋の脇に位置し、段丘を背負って建っていた。  ,「鰐口」については、明治八年に石崎村副戸長・崎野佐太郎によって記された来歴がある。,それによると、石崎村脇沢に古来より山神社があったが、七、八〇年前に村民が亀尾村へ移動し山神社を遷座させた,八幡神社(石崎町) 八幡神社配置図 八幡神社平面図 八幡神社立体図 / 八幡神社(石崎町)
椴法華村史 (川崎船の当て逃げ)

川崎船の当て逃げ 大正十四年十月七日 函館毎日新聞    七名の乗員、海中へ投出される     ,後方から川崎船に衝かれ      滅茶/\になった發動機船       幸ひ一同豊福丸に救はる,乗組五日午前三時頃亀田郡惠山沖合に烏賊釣りに從事し約二万尾を漁獲歸途に就かんとした處後方より和名不明の川崎船,より出漁に出て居る豊福丸が發見し一同を船内に救助し當港に歸還その旨水上署に届出でたので目下太田巡査部長秘密裡 / 川崎船の当て逃げ
函館市史 銭亀沢編 (根崎川濯神社の場合)

根崎川濯神社の場合 現在の神社は、昭和十二年に再建し、昭和四十二年に現在地へ移転した。,祭礼の執行は、町会長、奉讃会部長(氏子代表であり、昭和五十八年以後は推薦制)を中心におこなわれる。,夏神楽は八月十五日から十六日におこなわれ、道路が舗装される以前は、前の石崎八幡神社と同じく、神官らの通,根崎町の春祈祷は、おおむね四月二十日頃であり、祭主は亀田八幡宮の宮司三人が戸別に訪問し、神棚に家内安全,皇室にかかわる年中行事についての祈祷も亀田八幡宮宮司によって執行される点を除けば、他は前述の石崎八幡神社 / 根崎川濯神社の場合
函館市史 銭亀沢編 (石崎八幡宮の場合)

石崎八幡宮の場合 恒例の春夏の神楽は、明治の頃から現在まで大きな変化はなく、二月十七日の「春神楽」と,戦前は、武運長久や入隊・除隊の祈祷や戦勝の報告をしたが、現在は地域の平穏と無病息災を主たる祈祷とする。,石崎町の祭礼(藤本忠一提供)  春神楽の獅子神楽行列は、獅子頭を持つ奉讃会役員と四二歳の男性厄年,祭礼組織は、神官、奉讃会長・祭典委員会委員長(責任総代ともいい、二人)および地区総代六人(各地区委員二人,古川-新湊-銭亀沢-志海苔-根崎と回礼している。 / 石崎八幡宮の場合
函館市史 通説編 第一巻 (蠣崎氏の蝦夷地掌握)

蠣崎氏の蝦夷地掌握 しかるに永正10年、「六月二十七日の早朝、夷狄発向し来りて、松前の大館を攻め落し,移り、その旨を檜山の宗家安東尋季(政季の摘孫)に2回にわたり報告したが、檜山安東氏は、いわば外様の蠣崎氏,そこで義広は、特に紺備後広長という浪人を選んで、檜山に使いをさせてようやくその目的を果たした。,この時尋季は、はじめて義広の書状を被見し、使者の口上を聞き、蝦夷島を蠣崎氏にあずけ、よろしく国内を守護,以来、蠣崎氏は諸国から大館に来る商船・旅人の運上の過半を檜山に納め、主従の義を失なわなかったといい、また / 蠣崎氏の蝦夷地掌握
函館市史 銭亀沢編 (根崎温泉地区の函館市編入)

根崎温泉地区の函館市編入 大正元年八月、吉川太郎吉が根崎で温泉の泉脈を掘り当てて以来、根崎地区は温泉地,して会長に久住要太郎を選出、次のとおりの決議文を、市、村当局へ提出した。,   これを受けて生駒銭亀沢村村長は、根崎温泉地区の要望に理解を示したが、根崎地区全体かそれとも,の後を受けて村長になっていた生駒鉄衛以外に立候補者がなく、無投票で彼が村長となり、一期四年務めた。,村長を務めた。   / 根崎温泉地区の函館市編入
椴法華村史 (惠山沖川崎船六隻の遭難)

惠山沖川崎船六隻の遭難 大正十年十一月二十九日 函館日日新聞   ○恵山沖の難破船     川崎船三隻,と漁夫行方不明    本月二十五日午後四時惠山沖合六マイルの箇所に出漁中の鱈釣川崎船暴風のため遭難し,内三艘人員十八名は發動機船の救助に依り収容し外三艘人員十八名行方不明にて目下極力捜索中の旨函館支庁へ椴法華村長より / 惠山沖川崎船六隻の遭難
南茅部町史 上巻 (部長)

、地区ごとの住民推挙によって部長が選任され、部落から村役場に推挙を届出ると、村長は支庁に内申をして支庁長,部長当選通知書 鹿部 岡崎進 所蔵  部長制度は二級町村のころに設けられ、「町村長ノ命ヲ承ケ部内,部長は村役場からの通達や命令を地区の住民に周知させ、また、地区住民の要望を村長や各関係当局に交渉するなど,臼尻村の部長三名は板木(安浦)臼尻(臼尻・豊崎)熊泊(大船)で部長代理が各一名いた。  ,万畳敷部長兼民力涵養実行委員に岡崎国次が当選し、万畳敷組長田代幸七から大正九年一月五日付、当選証書がわたされた / 部長
函館市史 銭亀沢編 (〈石崎農業協同組合〉)

〈石崎農業協同組合〉 銭亀沢村字石崎の住民が共有する森林を管理することを第一の目的で設立されたものである,第二次世界大戦前は、石崎漁業組合が共有森林の管理をおこなっていたが、地区住民は必ずしも漁業協同組合の組合員,歴代の組合長は、昭和二十三年度から二十八年度までが福澤兵蔵、同二十九年度から三十二年度までは、伊藤吉次郎 / 〈石崎農業協同組合〉
椴法華村史 (第三大亀丸と川崎船の衝突)

第三大亀丸と川崎船の衝突 大正九年二月十三日付 函館毎日新聞   ●第三大亀、川崎船と衝突       ,航行中同六時三十分亀田郡尻岸内村沖合に差蒐(さしかか)りたるに暗夜の爲咫尺(しせき)を辨せず折柄出漁中なる尻岸内字女那野呂茂吉所有川崎船,當区小舟町木下榮太郎外八名乘りに衝突したれば何條以て堪るべき船体眞二つに折斷され乘組員一同海中に突飛ばされたるが宮本船長逸早 / 第三大亀丸と川崎船の衝突
戸井町史 (三 蠣崎の錦帯城趾の伝説(川内町))

三 蠣崎の錦帯城趾の伝説(川内町) 享徳、康正の昔、下北郡川内町大字蠣崎に、蠣崎蔵人信純の居城錦帯城,蠣崎信純は松前藩の始祖蠣崎信広といわれている人物である。  ,康正三年の九月二十八日に長禄と改元になり、この年、コシャマインの乱を平定しているので、南部氏の記録が正,思われるので、松前家の先祖の発祥地は下北郡川内町大字蠣崎である。  ,蠣崎地区の長浜海岸一帯に錦石(にしきいし)といわれる名物の石がある。   / 三 蠣崎の錦帯城趾の伝説(川内町)
恵山町史 ([町議会議員・議長・副議長])

佐藤留之丞 斉藤 留治 三好 博久 山内 健治 山内 健治 斉藤 明男 斉藤 明男 斉藤 明男 山崎勇次郎,三好 博久 斉藤 明男 三好 博久 斉藤 明男 山内 健治 山内 健治 佐藤 末光 寺田 文忠 山崎勇次郎,古部 昭雄 岩田  清 田中  博 藤谷 常作 二本栁信一 木津谷富敏 野呂 菊雄 野呂 菊雄 山崎勇次郎,議長 議長 議長 議長 議長 議長 議長 議長 佐藤留之丞 佐藤留之丞 佐藤留之丞 佐藤留之丞 成田  ,副議長 副議長 副議長 副議長 副議長 副議長 副議長 副議長 石岡 金蔵 石岡 金蔵 砂原竹三郎 砂原竹三郎 / [町議会議員・議長・副議長]
戸井町史 (五、公選町村長時代)

転任 第五代 宮崎喜一郎 〃四二、三、二七 大正元、一二、二五 四年九ケ月 茅部郡尾札部村長に転任,池田六助(副) 川村作蔵    堀田善記    丹羽和八 巽吉之助 田崎清松 成田長太郎 佐藤伊豆之助,(副) (三一年まで) 川村作蔵 堀田善記 丹羽和八 巽吉之助 田崎清松 成田長太郎 村田よしゑ 酒井力蔵,  ○昭和三十九年の補欠選挙後 丹羽和八(長) 吉崎仁三郎(副) 吉田馨 本間作太郎,(長) 吉田馨(副) 吉田勇一郎 佐藤可也 奥野喜好 山田三郎 山崎要 石亀喜代治 宇美金松 池田秋男 / 五、公選町村長時代
函館市史 銭亀沢編 (石崎漁業協同組合の村づくり運動)

石崎漁業協同組合の村づくり運動 昭和三十七年に、出稼ぎを少なくし、経済的に安定した漁村に脱皮することを,石崎地区では、石崎漁業協同組合が主体となって、昭和三十六年より関係諸機関と村づくり推進のための協議がおこなわれ,まず昭和三十七年七月六日には、当時の銭亀沢村村長を委員長に「石崎漁協地区村づくり推進委員会」が設立された,石崎地区は、市街地を除けば、一八〇町歩の背面地、八〇町歩の専農地、二〇〇町歩の牧場と一二三八町歩の植林地,表3・3・9 「石崎漁協地区村づくり推進委員会」の構成員(昭和37年現在) / 石崎漁業協同組合の村づくり運動
函館市史 通説編 第二巻 (戸長、副戸長の任命)

  第1区 戸長 伊藤重兵衛 副戸長 中村兵右衛門 第2区 戸長 松代伊兵衛 副戸長 平田新左衛門,第3区 戸長 白鳥衡平 副戸長 小島又次郎    函館では戸長の任命を単に戸籍吏の配置,任) 井口嘉八郎 (13年9月兵右衛門と改名) 井口嘉八郎 井口嘉八郎 (2.20まで) 山崎清吉,(7.1等戸長) 山崎清吉 (1等) 副戸長 新田孫右帯門 (2.11.27中年寄) 新田孫右衛門,辞任) 白鳥宇兵衛 (3.任)(2等) 副戸長 山崎清吉 (1.任) 工藤弥兵衛 / 戸長、副戸長の任命
函館市史 通説編 第一巻 (市中商人の成長)

市中商人の成長 さて、それでは、このころの問屋以外の箱館市中商人の動向はどうであったかについては、いまのところ,ることはできないが、享和3(1803)年、臼尻の新鱈売買の請負を行った商人の名前をみると、浜田屋兵右衛門、長崎屋半兵衛,浜屋次兵衛、東屋善三、近江屋清六、越前屋七五郎、山口屋太次兵衛、亀屋喜惣二、越後屋善吉、能登屋惣十郎、吉崎屋五右衛門,大黒町惣代能代屋右五郎、塩越屋原吉、但馬屋半四郎などの各町内惣代の商人名がならび、そのあとに能登屋惣十郎、長崎屋半兵衛,、高田屋金兵衛、亀屋武兵衛、井筒屋喜兵衛、吉崎屋五右衛門、浜田屋兵右衛門、和賀屋宇右衛門、辰巳屋七郎兵衛 / 市中商人の成長
函館市史 別巻 亀田市編 (歴代教育長)

歴代教育長 氏   名   任命年月日     退任年月日   植松 龍一  二八・ 八・一一  ,   任命年月日     退任年月日   嵯峨 大麓  三八・一〇・ 一  四二・ 九・三〇   柏崎賢次郎 / 歴代教育長
函館市史 別巻 亀田市編 (歴代学校長)

歴代学校長 第一代 大沼 保徳 昭和二二年五月一日発令        (北海道教育功績者として表彰,第二代 林  堅二   三二年四月一日発令        (文部大臣より表彰される)  第三代 柏崎賢次郎 / 歴代学校長
南茅部町史 上巻 (歴代副議長)

歴代副議長 初代 蛯 谷 金 作  昭和三四年五月~三八年四月 二代 小 林 幸 八    三八年五月,~四二年一〇月 三代 村 井 治三郎    四二年五月~四六年四月 四代 吉 崎 庄太郎    四六年五月 / 歴代副議長
函館市史 別巻 亀田市編 (戸長・戸長役場の統廃合)

戸長・戸長役場の統廃合 旧亀田村グループと戸長は次のような変転があった。     ,ア 赤川外三か村戸長  亀田郡赤川、石川、桔梗、大中山の四か村戸長として戸長の任免が行われた。  ,イ 戸長役場の合併  明治十八年十二月二十七日付の『函館毎日新聞』によると、「桔梗村三か村戸長役場は,北海道庁長官 岩 村 通 俊          亀田郡亀尾村を同郡亀田外八か村戸長役場の管轄に移す,、下湯川、根崎)の戸長を兼ねるなどが普通であった。      / 戸長・戸長役場の統廃合
椴法華村史 (康正二年、長禄元年の乱)

康正二年、長禄元年の乱 『新羅之記録』によれば、康正二年(一四五六)アイヌ人乙孩(オツカイ)は、当時志及利鍛冶屋村,翌長禄元年(一四五七)雪どけの終った五月十四日、酋長コシャマイン(出身地不詳)の率いるアイヌ人は乱を起,これに対し和人側は、わずかに残された、下国家政の守備する下国の館(茂辺地)と蠣崎季繁の守備する花沢館(,この時アイヌ人を鎮圧した武田信広は、蠣崎季繁の嗣子となり、上の国に州崎の館を構築し、次第に諸館の館主達,これが後の松前藩第一代の蠣崎信広である。 / 康正二年、長禄元年の乱
戸井町史 (二、歴代所長)

二、歴代所長 二、歴代所長 着任年月日 氏名 明治三二、三、二〇 小住和悦 〃三三、一二、一六,奥谷恒藏 〃三五、八、一八 岡崎恵信 〃三八、四、三〇 藤波岸丸 〃四二、二、二三 大坂久之助 〃四二 / 二、歴代所長
南茅部町史 下巻 ((8)歴代学校長氏名)

(8)歴代学校長氏名 氏名右上の数字は着任月   臼尻小学校 熊泊小学校 磯谷小学校 川汲小学校 尾札部小学校,三〇   11石川幸三   12北野 清四郎         三一       4山内永俊   2宮崎秀康,    三二 末松信言 4工藤 祥太郎   7山本 雄八郎         三五 黒崎 嘉太郎    , 孝太郎       四〇 川内源吉 7佐々木 温恭             四一       1黒崎 ,    二六               4前田 敏男   二七  伊藤 秀文 5矢本 英雄 5山崎   / (8)歴代学校長氏名
戸井町史 (二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛)

孫兵衛は天保十三年(一八四二)六月四日、石崎村の旧家、松代家の四代目、松代孫右衛門の長男として生れ、祖父孫兵衛,孫兵衛は初代飯田戸長の後を継いで村治に精励し、学者戸長として名声が高かった。,孫兵衛の弟、姥子太郎左衛門は、家督を継いでから銭亀沢村外三村(銭亀沢、亀尾、石崎、志海苔)の戸長に任命,松代家の祖先は長野県松代の出身といわれ、故あって下北の佐井に移住し、石崎松代家の祖金沢屋孫兵衛は石崎に,この家屋と仏壇は、現在松代脩也の所有となり石崎にある。   / 二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛
恵山町史 ([御崎の恵山名号『お経岩』について])

[御崎の恵山名号『お経岩』について] 恵山名号(えさんみょうごう) 恵山町字御崎の東端、椴法華村へ通,函館本願寺別院の前身、願乗寺休泊所を建立した名僧堀川乘経師が天保丑年、拾八才で蝦夷地教化におもむいた折、御崎部落,昭和三十五年十月三十日                  亀田郡尻岸内村長  前田時太郎    ,水路延長千五百八十四間、橋梁八ケ所、工費七千三百余両、内千両本山の補助に係る。  ,ところが長い間の風化作用ですっかりうすくなり判読がやっとの状態であった。   / [御崎の恵山名号『お経岩』について]
恵山町史 (部落区長制の施行)

第三条 区長及び区長代理者任期は四年とす。,『歴代の区長・区長代理名』 区 区長在任期間 区長代理在任期間 日浦区 東 三吉(5.7.30~6.7.18,大澗東区 中村 清吉(15.6.14~16.2.24) 岩戸 仁太郎(5.7.30~11.4.1) 山崎 ,(8.2.28~16.2.24) 恵山西区 吉崎 熊太郎(15.12.27~16.2.24) 根田内,磯谷区 石田 覚蔵(6.7.18~11.6.29) 岩田 末松(11.6.29~15.6.14) 御崎 / 部落区長制の施行
南茅部町史 下巻 (長浦(おさうら)八景)

「本村浴岸一帯ヲ長浦(おさうら)トイフ。,古称長津部(オサツベ)ヨリ斯ク称フ」と記し、「今本村景勝中彼ノ近江八景ニ類似スルモノヲ選ビテ長浦八景ヲアグ,光丘晴嵐   尾札部磨光校庭一帯   歌濱夕照   黒鷲歌浜海水浴場   築上帰帆   川汲築上崎附近帰帆,曰く「白砂青松長汀曲浦」と記している。,露竹は漢文・漢詩などに蘊蓄が深く、長浦八景の発想の始めであると思われる。 / 長浦(おさうら)八景
南茅部町史 上巻 (臼尻村二代目戸長 篠田順)

臼尻村二代目戸長 篠田順 明治一六年七月、篠田順(弘化元年生・一八四四)が臼尻村外一か村の二代目戸長,篠田戸長は民心の和合に意を注ぎ、郡長からジャガ薯の種薯を融通してもらって農事を奨励した。  ,」より) 村名 戸長 警察 総代 漁業総代 伍長 訓導 学務委員 校務委員 医員 山林 牛馬取締 重立,三浦儀助       伊藤源五郎           秋田栄七   村田栄蔵             種崎平治,                            松川玉吉                             松崎松五郎 / 臼尻村二代目戸長 篠田順
恵山町史 ([部長規則の改正])

以下に、改正事項と歴任の各部落部長を記す。  ,この部長規則改定により従来の部長は免じられ、大正四年七月二十四日以降、新たに次の人々が部長に任命された,・八・一四) 尻岸内部落 部長  ①高橋常之助(大正四・七・二四~五・三・六死去)  ②玉井長次郎,以下に新部落と部長名を記す。    ,          村会議員兼務 根田内西部  福沢 勝雄 根田内東部  高松 米吉 御崎      / [部長規則の改正]
函館市史 別巻 亀田市編 (山本登長戦争記)

山本登長戦争記 山本登長(峠下在住の千人隊士、官軍の側)の『峠下より戦争の記』(写本市立函館図書館蔵,福山方の差図役小松清次郎、成田惣兵衛行方しれず、千人隊にて秋山幸太郎、粟沢勝之助、其外斎藤順三郎、宮崎重三郎,一同あきれはて其頃裏御門に固め居たりし備後福山の隊長斎藤半次郎も知府事殿御立退と聞て大に驚き、落洩(ママ,終ったが、榎本軍側では諏訪倍五郎、山本泰次郎、大岡幸次郎という幕末の大物を失い、箱館府側でも在住隊隊長秋山幸太郎 / 山本登長戦争記
函館市史 通説編 第二巻 (戸長の公選)

戸長の公選 ところが表2-46(戸長役場の設置)にもある通り当初は函館には戸長は置かれず、函館市街は,この戸長選定は函館市民の希望通り公選をもって行われることになり、7月7日第53号布達を以て8か条の「戸長選挙心得,で戸長が置かれることになったのは函館区内だけであるので、戸長選定に公選を用いたのは函館区のみのようである,なお、4組の戸長は第1位第2位の者が辞退したため、第3位の得票者竹内与兵衛が戸長になることを承諾して請書,15 小西一清次郎 石田四郎右衛門 杉野源次郎 松代良吉 鈴木久蔵 田中正右衛門 山崎清吉 / 戸長の公選
恵山町史 (〈町長・助役・収入役〉)

収入役 山崎孝蔵(任平成7年5月29日~退平成14年6月4日)  山田町長のもと収入役を務めたのは、,当時、保健衛生課長・病院運営改善推進委員会委員を務めていた山崎孝蔵である。  ,山崎は13年4月字女那川の生まれ、昭和29年尻岸内中学校卒業。  ,を歴任するが、山崎はこの間、44年5月から62年6月まで18年間にわたり会計職員・現金取扱員を兼ねる。,技術者として管理職としての経歴は勿論であるが、18年間の会計職員・現金取扱員という山崎の実績に期待が寄 / 〈町長・助役・収入役〉
南茅部町史 上巻 (ニシン場の雇(豊崎・二本柳文平談・明治二一年生))

ニシン場の雇(豊崎・二本柳文平談・明治二一年生) 二月から五月まで古平(ふるびら)・岩内(いわない),函館地蔵町の〓(やまさんぎ)工藤の茅部丸で長万部まで送ってもらった。,次の日は長万部に泊って、翌日は黒松内さ出る。古宇後志から雷電越えて岩内でアーアーヤンベした。  ,函館から汽車で長万部へいって、そこから道中(徒歩)して寿都・岩内へいった。,汽車でいく前は、汽船で長万部まで送られて、そこから道中した。 / ニシン場の雇(豊崎・二本柳文平談・明治二一年生)
恵山町史 ([道立恵山自然公園地区、御崎地区、恵山地区、柏野地区])

[道立恵山自然公園地区、御崎地区、恵山地区、柏野地区] ここは主峰恵山と海向山の2峰と外輪山からなる,活火山で、地域としては、御崎、恵山、柏野の一部からなる自然豊かな地域である。  ,御崎地区、恵山地区の両地域は、津軽海峡に面し後背地として山々が屏風のように連なって見える。  ,また林間には成長したミズナラもみられる。,集結したウミウ、ヒメウは、断崖の前浜、或いは御崎地区の船揚げ場周辺、御崎部落前浜の海中で潜水を繰り返し / [道立恵山自然公園地区、御崎地区、恵山地区、柏野地区]
恵山町史 (〈村長・町長・助役・収入役〉)

〈村長・町長・助役・収入役〉 初代村長 前田時太郎(任昭和22年4月5日~退昭和42年4月30日),昭和20年8月6日・9日、広島・長崎への原爆投下、そして、8月15日の終戦を告げる玉音放送に長く苦しい,こうして尻岸内村民選初の首長は、若冠43歳の青年村長、前田時太郎が就任した。,別れの式は、片山渡島支庁長、道教委教育長、衆、参議院・道議会の議員の方々、地元町議会議員・日浦から御崎,30年3月には道立自治講習所を修了、以降、総務課庶務・観光・消防係長、国保病院事務長、庶務課長兼企画課長 / 〈村長・町長・助役・収入役〉
恵山町史 (〈町長・助役・収入役〉)

以後、総務課庶務係・観光・消防係長、国保病院事務長、庶務課長兼企画課長を歴任、昭和41年7月一般職のトップ,昭和58年4月24日の町長選挙には、湊貞治の他、山崎勇次郎、斉藤賢三の両氏が立候補するが、湊は2,622,票(山崎勇次郎 943票 斉藤賢三 849票)を得票し第4代尻岸内町長に就任する。,39年には住民課長兼国保係長、40年国保病院事務長、42年には議会事務局長、44年再度の住民課長、建設課長,産業課畜産係長、産業課長補佐・水産係長、農林商工課長、企画課長を3回、教育委員会学校教育課長、選挙管理委員会書記長 / 〈町長・助役・収入役〉
戸井町史 (三、正六位勲五等 長谷川益雄(「附」長谷川家の系図))

三、正六位勲五等 長谷川益雄(「附」長谷川家の系図) 晩年の長谷川益雄  長谷川益雄は明治十九年,(一八八六)三月二十七日、医師長谷川重威(しげのり)の長男として、父の赴任地山越郡山越村に生れた。,大正三年九月二十六日、戸井村汐首小学校長藤伊哲の長女緑(みどり)と結婚した。,(昭和四七、三、一〇現在)  長谷川赤水以後の長谷川家の系図は次の通りである。,よみちのくの山 ○汐首の み崎まわれば         釡谷富士  迎うる如くほほえみて立つ / 三、正六位勲五等 長谷川益雄(「附」長谷川家の系図)
函館市史 銭亀沢編 (コラム (宇賀漁業協同組合長藤谷作太郎と北洋漁業))

また、日米間の漁業問題解決に訪米したこともあるし、日本鮭鱒漁業協同組合連合会会長、日本海鱒流網漁業組合連合会会長,昭和十五(一九四〇)年、藤谷は奥尻から臼尻漁業協同組合を経て銭亀村字根崎にある無限責任宇賀漁業協同組合,の参事に招かれ、中宮亀吉(二代目)組合長のもとで働くようになった。,銭亀沢地区からは銭亀漁協組が不参加で、宇賀と石崎の漁協組が加入した。,はこれにひるまずこの組合を守り続け、さらにオホーツク、西カムチャッカ海域開放を機会に出漁していた東部北洋漁業組合(石崎・ / コラム (宇賀漁業協同組合長藤谷作太郎と北洋漁業)
恵山町史 ([郡区町村制と戸長役場])

  長崎県士族  郡書記  官等12等22円   坂本信近  開拓使士族   〃     13等20,円   山崎弓雄  岐阜県士族   〃      〃  〃  野村勝蔵  青森県平民   〃      ,地方の事務郡区長ニ於テ処分シテ後本支庁長ニ報告スル得ルモノ左ノ件々トス。,戸長役場の開設  明治12年7月23日の開拓使長官黒田清隆の布達により、町村に新たに戸長役場が設置され,この、戸長・戸長役場は、従来(明治5年)の戸長制をすべてが廃止、戸長の人選についても、かつての名主や地元 / [郡区町村制と戸長役場]
恵山町史 (歴代村長とその業績・村政の状況)

発端は、大正2年2月1日付の北海タイムスの「川崎船の征伐、出漁者不平の声高し」の見出しで、尻岸内村役場税務吏員相原豊次郎,さらに、沿岸から沖合漁業へと目をむけ、改良川崎船建造の補助を出願させるなど、勧業に力を注ぐ。  ,藤原は新潟県中経郡柿崎村の生まれ、明治17年2月、新潟師範学校を卒業後、新潟県公立小学校長を務め、同29,地方行政の振出しは明治33年銭亀沢石崎村戸長役場次いで、銭亀沢村役場・室蘭町役場を経て、同36年6月銭亀沢村収入役就任,猶(なお)又本路線より分岐する根田内磯谷方面(字恵山・御崎方面)の道路も地方費補助道路として陳情請願あらんことを / 歴代村長とその業績・村政の状況
戸井町史 (五、人命救助により長官表彰を受けた人)

五、人命救助により長官表彰を受けた人 1、吉田大吉  明治二十年(一八八七)九月三日、釜谷の吉田大吉,この行為が時の北海道庁長官、永山武四郎から表彰された。この時大吉は四十六才であった。,大吉は佐治右衛門の長男として、天保十二年(一八四一)十二月九日、釜谷に生れ、小安村学務委員、戸井村第六部長,胆振国有珠郡西紋別村、工藤善六所有小廻船ノ覆没セントスルヲ認メ、高田綱蔵ト力ヲ協セ、村民弐拾名ヲ催シ、遂ニ乗組人、大崎半兵衛外四名,浅次郎のこの奇特な行為に対し、時の北海道庁長官、俵孫一から感状並に木杯一組が授与された。   / 五、人命救助により長官表彰を受けた人
函館市史 銭亀沢編 (北海道一級町村制の施行)

一級町村制では村長は村会で選挙し長官が認可するものとなり、町村長補佐として助役も置かれ、給料・旅費なども,村長には、大正三年から村長の職にあった第五代目の村長加藤亀五郎が六月の村会で選出され、北海道庁長官に認可,なお、加藤が昭和二年まで二期八年村長を務めた後は、桜井栄三郎(二期八年)が村長となり、ついで宮島与作(,、大字銭亀沢村では、本村、冷水、古川尻、長坂など、大字根崎村では、土場、根崎浜、寒坂などであった。,川島邦彦 川島邦彦 中村長兵衛 中村長兵衛 中村長兵衛 石崎村 白石 阿部雄蔵 石崎 山田徳五郎
南茅部町史 上巻 (海区漁業調整委員会名簿)

公益代表    鈴木 慶一      鈴木 慶一      川崎 吾八    川崎 吾八 委  員,  ~三五年八月    ~三七年八月       ~三九年八月        ~四三年八月   川 崎 ,吾 八   川 崎 吾 八   会 長 沢 田 綱 蔵   会 長 川 崎 吾 八   村 井 益 ,蔵   村 井 益 蔵   副会長 川 崎 吾 八   副会長 酒 井 力 蔵   汐 谷 勝 雄   ,川 崎 吾 八  会 長 藤 谷 作太郎  会 長 藤 谷 作太郎  会 長 藤 谷 作太郎 副会長
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