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函館市史 通説編 第一巻
(長崎俵物の直貿易)
長崎
俵物の直貿易
長崎
俵物については、開港前には幕府の
長崎
俵物役所によって、独占的に集荷され、
長崎
会所,を通じて
長崎
港から一手に輸出されていた海産物で、国内での私的売買はもとより、密貿易も厳禁されていた。,するような措置をとらなかったにもかかわらず、依然として開港前の方針に従って、清国向けの独占貿易品として
長崎
,これに対し
長崎
奉行は、従来どおり
長崎
港の対清国向け独占輸出品であることを主張して譲らなかった。,右之通英吉利コンシュルより申立候趣もこれある趣ニ付き其意を得べし、尤も
長崎
俵物方より前金受取売渡し候分 /
長崎
俵物の直貿易
椴法華村史
(長崎俵物の買入れ)
長崎
俵物の買入れ
長崎
俵物の買入れは、天保九年(一八三九)から普請役が会所役人に替わって行ったが、成績不良,のため、天保十二年(一八四一)から再度、
長崎
俵物箱館会所がこれを取扱うことになった。,箱館では
長崎
屋(佐藤)半兵衛が
長崎
俵物問屋を務めている。 ,『新北海道史第二巻通説一』によれば、
長崎
俵物の買上量について次のように記している。 ,
長崎
俵物として買い入れられる昆布は、文化十年まで一か年定弐買入、志苔昆布三千石であったが、翌年より五か /
長崎
俵物の買入れ
函館市史 通説編 第一巻
(箱館・横浜・長崎の貿易比較)
箱館・横浜・
長崎
の貿易比較 さて.箱館港での外国貿易は、他の開港場である
長崎
、横浜と比較し、どのような,位置にあったのであろうか、横浜、
長崎
、箱館3開港場における、輸出総貿易節を示せば表12の通りである。,すなわち、これによると開港当初貿易総額の最も多いのが
長崎
港で、3港総貿易額の77.36%を占め、次いで,ところが翌万延元年には、横浜の伸びが著しく、46.99%に上昇して、
長崎
の貿易額に急速に近ずくだけでなく,、翌文久元年以降は、
長崎
と横浜の位置が完全に逆転して、横浜港がトップに上昇してくる反面、
長崎
港は次第にその / 箱館・横浜・
長崎
の貿易比較
函館市史 通説編 第一巻
(俵物指定問屋)
俵物指定問屋 それがため
長崎
会所では、延享元年から俵物一手請方制をとり、
長崎
商人のうち帯屋庄次郎が一手,西川伝治が近江八幡商人代表者として、松前、箱館、江差3港の俵物集荷を命じられたが、彼らは松前の俵物を
長崎
,こうした実情から宝暦4(1754)年に至り、
長崎
俵物一手請方問屋から、松前藩に対し一手買入れ願が出された,すなわち、俵物一手請方問屋のうち住吉屋新右衛門が、
長崎
から松前に乗り込み、松前藩と直接交渉の結果、昆布,から俵物を買入れさせ、その指定問屋は、松前は河内屋増右衛門、箱館は
長崎
屋半兵衛、江差は熊石屋吉三郎の3
函館市史 通説編 第一巻
(俵物移出の始まり)
元文四末年十一月十一日、本多伊予守様御城に於いて、松前安芸守様へ仰せ渡され候は、銅払底に付、
長崎
唐船,之に依て松前より
長崎
へ廻し候様に仕るべき旨、御老中様より仰渡され候得共、急度仰渡され候筋にはこれ無き由,翌酉年五月朔日、順風に付、
長崎
へ廻り桑名屋民蔵船箱館湊出帆、煎海鼠並に積合せの荷物買上げ自分働にて調え,は松前藩に命じ、銅代物替品として、俵物諸色海産物を箱館に集荷し、順風を待って寛保元(1741)年5月
長崎
,が松前に来て調査したが、引合わないので手を引いたといい(『福山秘府』年歴部)、松前藩では
長崎
奉行萩原伯耆守
椴法華村史
(昆布の清国輸出)
天文五年(一七四〇)に至り松前藩は幕府の命令により、松前蝦夷地の
長崎
俵物すなわち煎海鼠(いりこ)・身欠鰊,・寒心(ところ)天草・干鮑・昆布・シュリ貝の六品目を
長崎
に移出することになった。,(この年、順風がなく船は箱館に繋がれ翌年ようやく
長崎
港に着船する) このことを契機にして蝦夷地の昆布,は清国向けの
長崎
俵物として、以前にも増して需要が増加し、次第にその取扱いもめんどうになっていった。
椴法華村史
(ラックスマンの来航)
宣諭使はこの時、ラックスマンより提出されたロシア皇帝の国書に対して
長崎
以外では受理できないと退け、交易,については
長崎
で交渉するように申し渡し、なおこの時、
長崎
に来航するときの備えとして「信牌」を与えた。,ラックスマンに与えた信牌 おろしや國の船壱艘
長崎
に至るためのしるしの事 汝等に諭す旨,を承諾して、
長崎
に至らんとす。,此旨よく恪遵して
長崎
に至り、此子細を告訴すべし。猶研究して上陸をゆるすべき也。
函館市史 通説編 第二巻
(通訳者の必要性)
当時は通訳といっても、
長崎
の「阿蘭陀通詞」や「唐通詞」に限られていたので、いきおいこの通詞たちが各地でその,
長崎
では、ペリーの来航以前からすでに、英語やフランス語の必要性は痛感されていて、何らかの形で学習の機会,たとえば、嘉永元(1848)年に漂流を装って、北海道に着いたアメリカ人ラナルド・マクドナルドが
長崎
に護送,古賀十二郎の『
長崎
洋学史』によれば「本木昌左衛門、西与一郎、植村作七郎、森山栄之助、西慶太郎、中山兵馬,
長崎
では、「通詞」は職制として確立しており代々世襲をもって組織されていたが、箱館では職制上は通詞という
函館市史 通説編 第二巻
(幕府の条約草案)
(2)合衆国船が日本のいかなる地で難破しても、漂民は海路
長崎
に護送し、漂民の所持品は本人に返還する。,ただし5年後、他港が開かれた時は、漂民は便宜によりその港か
長崎
に送られる。,(4)
長崎
は中国人・オランダ人の居留するところで、旧例をにわかに変えがたいので、合衆国人が
長崎
に行った,明春アメリカ船が
長崎
に来航するのを待って、おもむろにこれを議す(和文では「来春
長崎
渡来之船ヘ治定之返答可,さらにここで注目しておきたいことは、日米交渉開始以来、
長崎
以外の琉球・松前の名が具体的に登場したのは、
函館市史 別巻 亀田市編
([村会議員])
毅夫 照井兵之助 上野 金吾 前川 藤松 松本 藤松 亀井 栄吉
長崎
三五郎, 昭和十一年二月現在 川井 藤吉 本谷勝太郎 近江市太郎 桜田 浅蔵
長崎
三五郎,毅夫 上野 金吾 桜田 浅蔵 本谷勝太郎 谷上 喜作 横田 与平
長崎
辰兵衛
函館市史 通説編 第一巻
(銅代物替)
銅代物替 当時、
長崎
を通じて行われたわが国の、清(しん)国やオランダとの貿易は、生糸の輸入が主で常に,貿易決済をすることにしたが、この銅も払底し、元禄11(1698)年その代物替品として採択したのが、この
長崎
俵物
函館市史 通説編 第一巻
(幕府の蝦夷地調査)
幕府が、5年の調査に先立って松前藩に達した申渡書によると、 且又差当り
長崎
廻し俵物,の儀、請負人ども、不束の儀これ有り候間、自今諸国一同に、
長崎
会所直買入、召限り払いの積りにて、則わち此度会所役人, とあって、文中「
長崎
会所直買入」とは、
長崎
俵物の直買のことで、幕府はこの調査派遣を契機
椴法華村史
(レザノフの来朝)
文化元年(一八〇四)九月かつてラックスマンが松前において与えられた『信牌』と国書の写しを持参し、通商を求め
長崎
,レザノフ来航の目的を知った
長崎
奉行は、直ちにこれを江戸に伝えた。
函館市史 通説編 第二巻
(ペリーの抵抗と要求)
きな特徴は、薪水・食料・石炭及び欠乏品の供給と漂民の保護それ自体については受諾したものの、鎖国体制下の
長崎
,を介した対外関係に類するものは全面的に拒否し、したがって、
長崎
を介した関係を拒否するとともに、漂流民その,他日本の諸港に渡来するアメリカ人の身体・行動にいささかでも拘束を加えるような条文にはすべて反対し、さらに
長崎
以外,そのため、その後の日米交渉の焦点は、
長崎
以外の諸港の開港と開港場における遊歩区域をめぐる問題へと絞られていった,しかもペリーは、これら諸港の開港に関し何らかの具体的回答を得るまでは日本を離れないと告げ、
長崎
以外の諸港
函館市史 通説編 第二巻
(維新前後の外国船の状況)
商船の動きをみると国内からの入港船は28艘(横浜18、
長崎
10)、一方国内への出港船は14艘(うち横浜,横浜 上海 香港
長崎
横浜 横浜
長崎
横浜 香港 横浜,横浜 横浜
長崎
横浜 横浜 上海 横浜 樺太
長崎
アムール,上海
長崎
長崎
横浜 横浜 アムール 再入港 上海 オホーツク,海 上海 横浜 横浜
長崎
上海
長崎
横浜
長崎
上海 上海
函館市史 通説編 第二巻
(電信の設置)
その後、5年9月には東京・京都間の電信が開始され、10月には東京・
長崎
間(4年7月15,日
長崎
-上海・香港間の海底電線完成)の電信架設を終えたが、「技業未ダ熟セス、且長遠線路種々ノ妨碍」ということで,
長崎
までの電信架設などは工部省(電信は工部省2等寮で長官は4等官の頭(かみ))が担当し、10年の工部省
函館市史 通説編 第一巻
(鮑漁)
干飽は煎海鼠(いりこ)とともに
長崎
俵物として出荷されている。
函館市史 通説編 第一巻
(茅部漁民の訴え)
茅部漁民の訴え こうした状況のなかで箱館の集荷問屋
長崎
屋半兵衛と、場所請負人および零細生産者の具体的,これは茅部地方の漁民にとって、
長崎
俵物としての昆布生産が、いかに重要になってきていたかということを示すものであり
函館市史 通説編 第一巻
(移出入貨物諸税)
3分口銭
長崎
俵物(昆布・煎海鼠・干鮑)を俵物方に売渡した金高の内、100分の3を毎年12月
長崎
屋半兵衛
函館市史 通説編 第一巻
(修好通商条約の締結)
イギリス、オランダ、フランスもまたこれにならい、いずれも同様の条約を結び、下田、箱館のほかに神奈川、
長崎
,する掛員を任命し、諸規則を制定し、その他開港に関する種々の準備を進めたが、幕府は同年5月28日、横浜、
長崎
函館市史 通説編 第一巻
(請負人と場所との関係)
残りの
長崎
屋半兵衛、若狭屋宗太郎、角屋吉右衛門、中村屋孝兵衛は、実質的に断宿の機能をもつことはできなかった, 元治元年自1月至7月中問屋扱沖ノ口口銭高 問屋名 入御口銭 出御口銭 計
長崎
屋半兵衛,2,131.750 5,390.680 亀屋武兵衛が6000貫文余で最も多く、次いで
長崎
屋半兵衛,し、元治元年には上位2位にまでのしあがっているのは、安政期以降箱館産物会所に関係するからであり、また
長崎
屋,は場所断宿になっていないにもかかわらず上位にあるのは、
長崎
俵物取扱いの唯一の問屋であったからである。
函館市史 通説編 第一巻
(生産者の動向)
生産者の動向 表13
長崎
俵物1か年請負高 地名 煎海鼠 干鮑 鱶鰭 仙台 20,000斤 5,000,表13は、安政7(万延元年)年における
長崎
俵物1か年請負高の地域別数量を示したものであるが、これによると,かされ候には、今般箱館表において煎海鼠、白干鮑勝手に売払い相成るべき御触出しに相成り候え共、西地の義は
長崎
方納,昆布および
長崎
俵物3品とも、文久2年ころまでは、イギリス、アメリカ両国がその主要輸出国になっているが、,すなわち、 触書 煎海鼠・干鮑・鱶鰭之儀、是迄
長崎
会所に限り売買来
椴法華村史
(元揃昆布の高値と粗製)
元揃昆布の高値と粗製 その後
長崎
俵物の昆布・煎海鼠(いりこ)・干鮑(ほしあわび)は天明五年(一七八五,)から
長崎
俵物会所の直売となり、箱館に会所を設置し会所の役人二人が直接買入れを行うようになった。
函館市史 通説編 第二巻
(函館平民新聞読者会の活動)
「東洋新報」「万朝報」「長野日報」「函館毎日新聞」「
長崎
新報」などを経て、明治42年「東京毎日新聞」の,久津見の「函館毎日新聞」時代の足跡は定かではないが、明治39年頃には
長崎
に移っており、明治30年代後半,久津見は
長崎
でロシア革命党員とも交際するなど、社会主義、無政府主義に共鳴する思想家でもあり、大正14(
函館市史 通説編 第二巻
(清国商人の登場)
そのなかで
長崎
唐館内に在留の清国人は旧来のしきたりもありそのまま在留を認め、また条約締結国の外国人が清国人,このように清国人の来函は比較的に早いが、彼らは
長崎
の例に見られるような買弁商人とは違うようである。,これは前述したように欧米系商社の破綻や慶応元年に
長崎
俵物体制が崩壊して始めて海産物全体の実質的な自由取引,が可能となり、従来の
長崎
経由のルートから直接函館で買い付けするために来港してきたのであろう。, …成記号ハ松筠、徳澄ナルモノ
長崎
ニ来リ初メ些少ノ資本ヲ以テ商売ヲ為セシカ、其後当港ニ
函館市史 通説編 第一巻
(商工業者諸税)
風呂屋冥加 1か年金5両2分 髪結冥加 1か年銭15貫文 山上町掘井冥加 1か年銭16貫200文
長崎
俵物運上代,り金 これは箱館の煎海鼠・昆布を
長崎
俵物方で買収する高に課したもので、運上代り金として煎海鼠1斤に付き
椴法華村史
(目抜鯛釣船の行方不明)
大正七年三月二十三日 函館新聞 漁夫の溺死 亀田郡椴法華村黑川和太郎、同八太郎、同伊三郎、
長崎
要吉
恵山町史
(2、開国・蝦夷地の再直轄)
・同年(同年)七月、ロシア使節プチャーチンがパルラダ以下四隻の軍艦を率いて
長崎
に来航。,同年八月、
長崎
奉行へ国書を手渡し、国交を求める事と、樺太、千島列島の境界画定(国境の取決め)についての,プチャーチン、十二月には
長崎
に再び来航、軍事力を背景に前にも増して国交の強い要求を突付けられ、
長崎
奉行,)一月、プチャーチン、択捉島の日本所属を認め、樺太については南端のアニア港のみを認める書簡を残し八日
長崎
,・一八五四年(嘉永七年)八月、イギリスと日英和親条約に調印、
長崎
・箱館を開港する。
函館市史 通説編 第二巻
(ロシア語通訳の系譜)
志賀は
長崎
の人で、安政5年以来、
長崎
に上陸するロシア人士官たちからロシア語を学んでいた。,また、
長崎
から派遣されていたオランダ通詞、西六馬も顔を出していたのは興味深い。
函館市史 通説編 第一巻
(日米和親条約締結)
そこで幕府は第3の交易を拒否するほかは、その要求を入れることを決し、港は
長崎
1港に限ろうとしたが、ペリー,は、
長崎
がアメリカの航路に当たらないので、その代わり神奈川もしくは浦賀をもってし、更に琉球・松前の3港,するはずはなく、同年8月23日には、クリミア戦争のため一足おくれたイギリスとの間に和親条約が結ばれて、
長崎
椴法華村史
(昆布の清国直輸出)
清国直輸出 昆布は元禄年間(一六八八-一七〇四)より少量清国に輸出され、その後天文五年(一七四〇)ごろから
長崎
俵物,として本格的に
長崎
を経由して清国に輸出されていたが、箱館が開港されるや箱館から直接輸出されるようになった
椴法華村史
(昆布製品と値段)
東西在ニ出産 一、雑昆布、直段、壱丸め方弐貫弐百匁位ニ而銭ハ拾文位是ハ
長崎
俵物買込ニ御座候。,下ケ札 是者御料中ニ追々唐方向ニ相成候ニ付其後ヨリ当時 共ニ
長崎
御用買上ケ無御座候。
函館市史 通説編 第二巻
(保税倉庫のはじまり)
保税倉庫のはじまり 外国貿易は、始め
長崎
に限り行われたが、オランダの外にアメリカ・ロシア・イギリス・フランス,この規則は神奈川では慶応2年5月19日、
長崎
、函館では8月23日実施、その後、神戸大阪および新潟にも実施,この規則は、新潟、函館、
長崎
に施行された。
函館市史 通説編 第二巻
(ロシア語学校)
ロシア語教育を開始した仙台藩の養賢堂は明治4年に廃校、また慶応年間ロシア語を含め5か国語を教授していた
長崎
,の済美館は、「学制」制定後中学校となり、7年
長崎
外国語学校さらに
長崎
英語学校と改称した。
恵山町史
(1、異国船の来航)
町奉行見分後逃亡するが、即捕らえられ安泰丸で
長崎
へ護送される。,乗組員マクドナルド利尻島ノッカに短艇で着岸、遭難者を装い救助され、松前に護送、江良村抑留所に収容、後
長崎
抑留所,箱館から
長崎
へ送られる。
函館市史 通説編 第一巻
(市中商人の成長)
ることはできないが、享和3(1803)年、臼尻の新鱈売買の請負を行った商人の名前をみると、浜田屋兵右衛門、
長崎
屋半兵衛,大黒町惣代能代屋右五郎、塩越屋原吉、但馬屋半四郎などの各町内惣代の商人名がならび、そのあとに能登屋惣十郎、
長崎
屋半兵衛
函館市史 別巻 亀田市編
(各種委員会(昭和四十八年))
嘉一 工藤 ヤイ 佐々木治郎 田中 市郎 池田 良子 伊藤 登 管 兵吉
長崎
恵山町史
(箱館港の盛衰)
安政5年(1858)には日米修好通商条約が調印され、翌、6年、箱館は自由貿易港として神奈川(横浜)・
長崎
函館市史 通説編 第一巻
(運漕業を営む)
、同4年24歳の時船頭となり、居を兵庫西出町に構え、弟嘉蔵および金兵衛、嘉四郎とともに住み、主として
長崎
椴法華村史
(英・米船の来航)
、東南アジアにおいてオランダ植民地を攻撃し、遂に文化五年(一八〇八)にはイギリスの軍艦フェートン号が
長崎
,異国船渡来之節取計方、前々より数度仰出され之有、をろしや船之儀に付ては、文化之度改て相触候次第も候処、いきりす之船先年
長崎
,(以下省略) 文中に『をろしや船之儀……』とあるのは、ロシア使節レザノフの要求を
長崎
で拒絶した
函館市史 通説編 第一巻
(三港の比較)
右昆布積に来る、大坂船、下之関船等八艘づゝ年々極り来り、大坂又は
長崎
へ積上り申候。,右昆布積に来る、大坂船、下之関船等八艘づゝ年々極り来り、大坂又は
長崎
へ積上り申候。
椴法華村史
(茅部漁民の強訴)
時代は少し下るが安永八年(一七七九)茅部漁民が、
長崎
俵物昆布の一手買の不許可・昆布取船の役金の免除を求,更に
長崎
俵物である昆布の一手買いを不許可にして欲しい。 とのことであった。
函館市史 銭亀沢編
([津軽海峡沿岸の漁撈伝承とその変遷])
このほかに、
長崎
俵物として江戸時代から中国に輸出されていた干アワビや、主に関西に出荷された昆布などが、
函館市史 通説編 第二巻
(貿易船の海外派遣)
このあと、文久2年4月29日
長崎
出帆で千歳丸が上海へ航海する(5月5日上海着、7月14日
長崎
帰着)。,しかし、翌文久3年10月には、健順丸を
長崎
に於ける商法のために派遣する、但し、風順により「支那地方上海,日品川出帆、兵庫へ寄って荷物仕入などの準備で、やや滞船、翌元治元年2月9日、兵庫出帆、薩摩の沖の強風で
長崎
,領事の世話になって貿易も試み、市内の実地見分もおこなって1か月半ほどを過ごし、4月9日上海出帆、15日
長崎
着,するや奴隷の如く蔑視」している、ドックでは大船を製造しており、修繕の船も絶え間なく来ている、製鉄所は、
長崎
函館市史 通説編 第一巻
(ロシア使節の来航)
長崎
の港に送り来るとも、我国の地方見ゆる処は乗通るべからず、洋中を通行すべし。,外、猥りにゆるしがたきことなれども、猶も望むことあらば、
長崎
にいたりて、その所の沙汰にまかすベし。,27日使節は浜屋敷に来て別れを告げたので、宣諭使は
長崎
に来航する場合のために左の信牌を与えた。, おろしや国の船壱艘
長崎
に至るためのしるしの事 汝等に諭す旨を承諾して
長崎
に至らんとす,此旨よく恪遵(かくじゆん)して
長崎
に至り、此子細を告訴すべし。猶研究して上陸をゆるすベき也。
函館市史 通説編 第一巻
(戸口の増加)
もっとも
長崎
御用俵物の内、煎海鼠、昆布は別に
長崎
屋とて会所あり。其外所産の交易蝦夷地出産何にもあり。
函館市史 通説編 第一巻
(外国人による語学教育)
前年(安政4年)、日露辞典『和魯通言比考』(橘耕斎補)を出版したロシア領事ゴスケウイッチは、着任後も
長崎
奉行,箱館奉行も、この浦太郎の必要性を認め、正式に
長崎
奉行に照会してついに支配の通詞に採用した。
函館市史 通説編 第二巻
(地蔵町築出地の居留地化)
地代については外国領事より「地税は其地の価を以て可取立ものにて、各其割合可有之、既に取極相成候、横浜
長崎
,同様のことは横浜においても山手居留地の地代についてイギリス・アメリカ・フランスの公使団が
長崎
にならって,結果的に函館では、政府と居留外国人との地代契約は、大町築出地、地蔵町築出地、山ノ手と大きく3段階となり
長崎
,今回は前回の対応とは違い「
長崎
表の儀は旧来外国人接遇の御場所、横浜表は外国人のため新規御取開相成候場所
函館市史 通説編 第二巻
(貿易策の建言と清国視察)
貿易策の建言と清国視察 5年1月
長崎
の満川成種(新三)は北海道海産物の清国貿易に関する建言を開拓使に,同年2月開拓使は満川の提言を入れて清国貿易実情探索のために
長崎
の商人友永孝太郎と鹿児島の士族丸田仲太郎
南茅部町史 上巻
(入稼地)
昆布は、志苔の昆布が上品で比類なく献上昆布となり、外国交易の品として
長崎
に送られると。
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