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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (願乗寺川の開削)

願乗寺川の開削 堀川乗経  箱館において広大な面積を占める砂頸部の地には、当時地蔵町の一部分を,そこで願乗寺(いまの西別院)の堀川乗経はこれを慨嘆し、安政6年本山の許可を受けて官に出願して新渠を開き,俗にこれを願乗寺川または堀川と称し、住民に3つの利便を与えた。第一は飲料水を沿岸の住民に与えたこと。,このため人々もようやくこの溝渠の付近に集まり住むようになり、また願乗寺でも少なからぬ土地を賜わり、これを / 願乗寺川の開削
函館市史 通説編 第一巻 (堀川乗経の活躍)

堀川乗経の活躍 明治初年ころの願乗寺  乗経は南部下北郡川内の願乗寺に生れ、はじめ法恵と言い、,ここにも願乗寺休泊所を設け、宣法庵と称したが、明治11年江差に移り江差別院となった。,も大きなものは、箱館市中を縦断する堀川の掘割で、詳細は本章第9節に記したので省略するが、この功により願乗寺
函館市史 通説編 第一巻 (桝形の取払い)

その代わりに整地をしたので、官では早速この地に貸長屋を建設してこの方面の発展を促し、次いで同6年には願乗寺川,の開削があり、また万延元年に焼失の厄(やく)にあった願乗寺も新たに建築されたこともあり、人々はこの付近
函館市史 通説編 第一巻 (寺院)

願乗寺(浄土真宗 現本願寺派本願寺函館別院) 安政4年、本願寺休泊所として建ち、万延元年、本願寺掛所願乗寺,そのために奔走したのが奥州下北の騎乗寺の僧乗経であり、彼は上磯の濁川(清川)の開拓や願乗寺川の掘割などで
函館市史 別巻 亀田市編 (中川嘉兵衛と製氷事業)

中川嘉兵衛 市立函館図書館蔵  『中川嘉兵衛と其採氷事業』(要約)によれば、慶応三(一八六七)年願乗寺川,『柳田藤吉翁口述経歴談』(北大図書館蔵)によれば、「水田ヲ造リ願乗寺川ノ水ヲ引キテ結氷セシムル手段ヲ取,五稜郭外堀ニ於テ始メテ完全ノ天然氷ヲ製造シ得ルニ至リシハ実ニ明治四、五年ノ交ナリキ」とあり、慶応三年に願乗寺川,氷の出現により独占経営を脅かされるのを恐れていたようで、前記『経歴談』には、明治三年函館の柳田藤吉は願乗寺川
函館市史 通説編 第二巻 (内陸部の埋立と市街整備)

願成寺川から函館山を望む  亀田川を外海に転注した結果、願乗寺川は自然廃河となり、塵芥物が堆積して,また願乗寺川の埋立と前後して、明治18年の大火の際恵比須町より末広町までの道路改正により、東浜町より蓬来町,以上の事業は北海道庁によるものであるが、最後に願乗寺川埋立に関連しての函館区の事業にふれてみたい。,函館区は亀田川の転注により、願乗寺の埋立が予想された明治19年4月の段階で、北海道庁に対し倉庫地として,願乗寺末流にあたる敷地の払い下げを請願した(明治18年「臨時区会決議録」)。
恵山町史 ([御崎の恵山名号『お経岩』について])

記  念  碑   恵山名号は函館本願寺別院の前身、願乗寺休泊所を建立した名僧堀川乘経師が,函館市功労者小伝』(昭和10年7月2日 函館市発行)  文政七年(一八二四)四月、陸奥国下北郡川内村願乘寺五世誠道,本願寺掛所に抵りて寺院の建設を説き、意見書を本山に致し、宗主広如上人の容るる処となり、蝦夷全島開宗の命を拝し願乘寺第七世住職,故に西別院を願乘寺と云う。,願乘寺川と称するもの之なり。
函館市史 通説編 第二巻 (函館市街全図)

また、願乗寺川周辺も市街地化か進んでいる。
函館市史 通説編 第二巻 (官許/箱館全図)

第弐図では、特に地蔵町の新築島にみられるように海面の埋立地や大町の外国人居留地の位置がわかるし、願乗寺川
函館市史 別巻 亀田市編 (函館と天然氷)

付間合並びに氷室見取図 道行政資料課蔵  一方函館においては慶応年間ころから滞在中の外国人により願乗寺川,『松川弁之助君事蹟考』によれば、「此川(願乗寺川)筋成りし冬、上品なる凝氷を生じ、西洋人之をきり取、囲
函館市史 通説編 第二巻 (函館中教院における国民教化)

函館中教院における国民教化 中教院のおかれた願乗寺    明治5年の明治政府における,10月27日には、早速、浄玄寺・願乗寺を説教場として教導を開始している。,七星らの申請により、中教院に指定されたのは、「西本願寺掛所願乗寺」であった。,ここに、願乗寺を中教院とする教導体制が整った函館宗教界は、11月3日の天長節をもって中教院の例祭日とすることを
函館市史 通説編 第一巻 (学事)

『唐太日記』等の著あり、願乗寺の函港新渠碑の文を撰す)等の人々は、経史あるいは詩文をよくし、三田喜六(
函館市史 通説編 第二巻 (五稜郭の採氷)

としており、また『函館区史』には慶応年間に居留英国人のブラキストンや新潟出身の平野某らによって亀田川、願乗寺川,また明治3年2月柳田藤吉は生魚を東京へ出荷するにあたり、鮮度維持のために願乗寺川から採取した天然氷を利用,むしろここでの函館氷製造場とは明治6年1月の中川の専売願書のなかで触れられている願乗寺川の野辺をさしているのではないか,再び明治6年の願書を見ると「有川辺大小沼等ヘ人数ヲ配リ、且願乗寺川ノ野辺に小潴ヲ補埋ヒ数十筒ノポンプヲ
函館市史 通説編 第二巻 (亀田川転注工事)

また願乗寺川は21年埋立開始、22年埋了した。
函館市史 別巻 亀田市編 (瓦と煉瓦)

また、年代はつまびらかではないが、高龍寺、浄玄寺、願乗寺、実行寺、湯殿山は同店の瓦を使用したと言われている
函館市史 通説編 第二巻 (女学校の規定)

次女春(13歳)、権少主典中山克忠の妹諒(13歳)、等外2等付属松川直亮の妹安(13歳)、民間からは願乗寺法恵
函館市史 通説編 第二巻 (浅くなった港)

濫伐、石材の掘採により、土砂を捍止すること能わず、降雨融雪に際し土砂を港内に流出し、亀田川の流末なる願乗寺川,それと同時に、港湾区域の北西部への拡大が亀田川移注による願乗寺川の新設を必要ならしめたが、この川が今や
函館市史 通説編 第二巻 (函館の町域)

函館は、人口の増加につれて砂州部分へと広がりをみせ、安政6(1859)年にこの砂州の中央をほぼ南北に願乗寺川
函館市史 通説編 第二巻 (同業者の出現)

小沼は恵比須町で牛肉商を経営するかたわら14年1月に採氷営業の出願をして、願乗寺川の支流である水車川から,この地での事業は亀田川の流末切り替え工事によって願乗寺川が廃される20年まで継続された。  
函館市史 通説編 第二巻 (幕末期の埋立)

海岸の埋立(完成は明治維新後)が実現し、大工町地続き大森浜畑地2万坪の排水溝掘削、石垣設置、架橋および願乗寺川開削
函館市史 通説編 第二巻 (教導職の実態)

函館中教院=願乗寺が、いうなれば函館を中心とする渡島・桧山地域の教導センターになっていたのであり、この
函館市史 通説編 第二巻 (居留外国人の家作)

これは、「生国佐渡、願乗寺前住居、大工栄八」と「生国秋田、新地住居、大工文蔵」が請け負っている(文久3
函館市史 通説編 第二巻 (東本顧寺の移転)

いっぽう、明治12年の大火には直接見舞われなかったものの、本願寺派函館別院=願乗寺も災火には悩まされ続
函館市史 通説編 第二巻 (明治以降の埋立)

前年の亀田川転注による願乗寺川埋立完了 22. 鹿児島人河野圭一郎真砂町地先4000坪埋立 23.
函館市史 別巻 亀田市編 (位置と地勢)

また、函館とのかかわりも、水質が良好なために安政六(一八五九)年になって、堀川乗経が堀割(願乗寺川)を
函館市史 通説編 第二巻 (水道敷設の経緯)

3回起業 亀田川転注工事着工(20年竣工) 町設仮水道着工(同年末竣工) 第4回起業 願乗寺川埋立着工,上水道着工(6月) 願乗寺川埋立竣工 上水道竣工(12月) 28,344 27,334
函館市史 通説編 第二巻 (市街地の拡大と地価決定因子)

2度目は東川町、音羽町、真砂町であり願乗寺川の埋め立てとの関連が考えられる。
函館市史 通説編 第二巻 (明治時代の函館の寺院群)

万延元(1860)年、本願寺掛所願乗寺と 改称。明治6年、豊川町からの出火により焼失。
函館市史 通説編 第二巻 (水道事業にみる自治意識)

この仮水道の計画は亀田川から願乗寺川沿いに木樋による本管を布設し、その先からさらに木樋をもって各町に分水
函館市史 通説編 第二巻 (財政の推移から見た都市整備)

には街区改正の計画に含まれていた道路改正工事が、この時点で施行され、北海道庁期に入ると亀田川切替工事、願乗寺川埋立工事
函館市史 別巻 亀田市編 (名主の仕事)

  浄土宗称名寺□印 水嶋三太郎五十九才 妻ちせ四十七才(以下略)   日蓮宗実行寺   浄土宗願乗寺
函館市史 通説編 第二巻 (廃棄物処理の諸相)

さて、下水道については北海道庁による都市整備事業としての、亀田川転注と願乗寺川の埋立についての工事が終了
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