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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 別巻 亀田市編 (亀田の館主)

亀田の館主 亀田にあった館について、歴史的信憑(ぴょう)性についてはやや問題があるが、『東北太平記』,このように亀田館の館主として蛎崎系、河野系の二つの系統が示されており、詳細は不明であるが、とにかく彼らによって / 亀田の館主
函館市史 銭亀沢編 (館主たちの支配版図)

館主たちの支配版図 嫡流下国安藤氏の事実上の断絶を救った潮潟安藤氏の政季については既述した。,この政季は「安藤太政季」と号し、享徳三(一四五四)年渡島し、蝦夷島南部の館主の頂点に立ったが、二年後の,『新羅之記録』によれば、安藤政季は、蝦夷島を去るにあたり、「十二館」の館主間の支配版図を「守護職」補佐,安藤氏が、三守護職および各領主を地域分割しつつおこなった支配方式で、それは「日ノ本将軍」-「守護職」-「館主,この頃、各館主とアイヌとの交易は、しだいにアイヌに対する収奪抑圧の形をとるようになっていた。 / 館主たちの支配版図
函館市史 通説編 第一巻 (館主とその性格)

館主とその性格 河野政通築城館跡の図 「函館沿革史」より  従って今日の函館市には、河野加賀右衛門尉政通,それがため館主は、安東氏の出先機関として、従来から渡来していた和人や土着のアイヌが、生産の地域としている / 館主とその性格
戸井町史 (三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃))

三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃) 『新羅之記録(しんらのきろく)』に享徳三年(○○,報告し、更に  「長禄元年(一四五七)五月十四日、夷狭蜂起(いてきほうき)、来て志濃里(しのり)の館主小林太郎左衛門尉良景,、箱館の河野加賀右衛門尉政通を攻撃し、その後中野の佐藤三郎衛門季則、脇本の南条治部少輔季継、穏内の館主蒋土,国山越守定季、相原周防守政胤、祢保田(ねぼた)の近藤四郎右衛門尉季常、原口の岡辺六郎左衛門尉季澄、比石の館主,然れども下の国の守護茂別八郎式部大輔家政、上の国の花沢の館主蠣崎修理大夫季繁固く城を守り居れり」と述べている / 三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃)
椴法華村史 (戸井館)

称され、現在の戸井町に所在し、館の設立年代は、十四世紀中頃から十五世紀前半と云われ(中世の戸井館址)館主,は『松風夷談』より岡部氏の名が上げられ、後の原口館主の一族の系統の人と考えられている。      ,ノ内ニ岡部六弥太六代孫岡部六左衛門尉季澄ト云名ノ所斗リ顕然ト分リ候由    戸井館が構築された頃館主
函館市史 銭亀沢編 (コシャマインの戦い)

(中略)長禄元年五月十四日夷狄蜂起し来って、志濃里の館主小林太郎左衛門尉良景、箱館の河野加賀守政通を攻,其後中野の佐藤三郎左衛門尉季則、脇本の南條治部少季継、穏内郡の館主蒋土(こもつち)甲斐守季直、覃部(オヨベ,松前の守護下国山城守定季、相原周防守政胤、袮保田の近藤右衛門尉季常、原口の岡部六郎左衛門尉季澄、比石の館主畠山,然りと雖も下之国の守護茂別八郎式部太輔家政、上之国の花沢の館主蠣崎修理大夫季繁、堅固に城を守り居す。 ,安藤氏をはじめとする諸館主たちの日本海海運による経済的交易矛盾が逸早く露呈したのは、志苔館・箱館であった
函館市史 通説編 第一巻 (古銭と流通の変化)

 前編第5章第2節においてくわしく述べているように、志海苔館付近から出土した大量の古銭は、往時の館主,このように室町時代以降、道南一帯に諸館が割拠するようになると、すでに交易は、地域支配者として館主が主体
戸井町史 ((参考)康正三年(一四五七)の下北地方豪族配置図)

コシャマインの乱以前の下北の村々の名、下北地方の城、館、柵(さく)などの名や領主、館主などの名が細かく,○大間から東、尻屋崎まで 地名 城主又は館主 摘要 大間 牛一五〇〇頭 トツロ内 三、七〇〇人,目波右京 入口 岩屋 難波崎 今の尻屋崎   ○大間から南、脇野沢まで 地名 城主又は館主,鬼フカ 原藤右エ門 猿森   ○馬留(殿崎)から西、安渡(大湊)まで 地名 城主又は館主,すがもんど) 小山兵部 津軽 七堂三、七〇〇入   ○難波崎(尻屋崎)から南 地名 城主又は館主
函館市史 銭亀沢編 (安藤康季の渡道と「道南の十二館」)

茂別館主の下国家政の実兄に当たる。  ,参考までに、その所在と館主名を示すと表1・3・2および図1・3・3のようになる。  ,八巻は、この程度の距離は、当時の和船であれば、寄港地としても程よい距離であるとし、この規制が館主たちの,表1・3・2 道南の十二館とその館主 館名 所在地 館主 志濃里館 函館市志苔町 小林太郎左衛門尉良景,館の築造は、館主、従者、さらには「渡党」の和人の居住空間であった。
函館市史 通説編 第一巻 (志海苔館跡)

志海苔館と同時期に存在した箱館は、河野加賀右衛門尉政通、河野弥次郎右衛門尉季通の父子2代が館主で、長禄元,『新羅之記録』や、『福山秘府』に、「箱館と共に長禄元年・永正9年の蝦夷蜂起によって滅び、初代の館主小林太郎左衛門尉良景,、後にその息男の小林弥太郎良定が継ぎ、永正9年4月には與倉前の館主小林二郎季景も戦死した」旨が記されているが
戸井町史 (二、戸井の板碑(いたび)と発見の経緯)

に和人の館が存在したということは、古書、古記録にはないが、「旧役場跡の高台に和人の館があり、岡部某が館主,館主岡部某は、兵を浜中に出して抗戦した。,館主は、『今はこれまで』と覚悟し、己が財宝を館の附近にあった井戸に入れて蓋をし、出でて奮戦して死し、館,「館主岡部氏は、館の東の島(砂で出来たもの)にある三基の石に対して、毎朝礼拝していた。,アイヌは豪族や館主をマツマイトノ、オヤマ(小山)トノなどと称した。  
戸井町史 (一、戸井の館とその伝説)

この館がコシャマインの襲撃を受け、館主岡部は浜中に蝦夷の軍を迎え討ったが、衆寡敵せず、更に蝦夷の放つブス,矢に当って次々と討死して、味方が少なくなったので、館主は残兵をまとめて館に引き上げ、『今はこれまで』と,館主は生前、館の近くを流れる小川の川口の洲(す)の中に立っていた三つの石碑を毎朝礼拝していた。,その石碑はどんないわれのあるものなのか、何のために礼拝したのか村人は知らなかったが、館主が死んでから年,館主が板碑の方向を毎朝礼拝したということは朝日を拝したものとも思われる。
南茅部町史 上巻 (管内の町村の起源(資料))

享徳 三年(一四五四) 安東政季に従い穏内館主蒋土甲斐守季直渡海す。   ,宝徳 二年(一四五〇) 中野館主佐三郎左衛門尉藤季則。   
函館市史 銭亀沢編 (八幡神社(志海苔町))

志苔館主小林氏の当社創建にかかる伝承は、勧進の時期とは一致しないが、永正九(一五一二)年の永正の乱以前
函館市史 通説編 第一巻 (蠣崎氏の独立)

蠣崎氏の独立 蠣崎氏が各館主やその子孫を臣下につけ、原住民アイヌと地域協定を結び「和人地」を確定、渡島半島西部
南茅部町史 下巻 (大硯「鶴泉記」)

その滞留中溪谷温泉を歎賞して鶴泉記(鶴の湯温泉の記)を草し、之を大幅に揮毫して館主山中幾太郎に与えた。
函館市史 通説編 第一巻 (アイヌの抗争)

檜山安東氏の代官になることによって、蝦夷島における和人の間に最高の地位を得、各所に占拠していた前述の館主
函館市史 通説編 第一巻 (蠣崎氏の松前進出)

出羽檜山の安東氏の系譜に連なる、譜代ともいうべき松前の大館の下国氏にあって、外様の蠣崎氏は上ノ国地方の一館主
函館市史 通説編 第一巻 (乱後の箱館)

たれてきたが、永正9(1512)年4月、東部のアイヌが再び蜂起し、箱館・志海苔・与倉前の前記3館を攻略、当時館主
椴法華村史 (康正二年、長禄元年の乱)

この時アイヌ人を鎮圧した武田信広は、蠣崎季繁の嗣子となり、上の国に州崎の館を構築し、次第に諸館の館主達
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田八幡宮)

『亀田村郷土誌』(大正初期)には「明徳元年に函館の館主河野加賀守森幸が越前国敦賀気比神社より分霊を奉じて
函館市史 銭亀沢編 (寺院)

其後百五十七年ヲ経テ 後花園天皇ノ康正二年ニ至リ志苔館主小林 太郎左衛門良景之ヲ発見シ、宗祖像一體ハ
函館市史 銭亀沢編 (志海苔古銭をめぐって)

三七万余枚の古銭埋納も、志苔館主の小林氏が結ぶ十三湊の「海の領主」安藤氏の経済力を考慮するなら、そんなに,志苔館の館主小林重弘は、三七万余枚に及ぶ大量の古銭を、何を目的にして埋納したのであろうか。
函館市史 銭亀沢編 (光広の大館移住)

その最も現実的な典型例が、旧館主を家臣とする「被官化」である。  
函館市史 通説編 第一巻 (コシャマインの乱)

しかも、これを契機として信広は蠣崎季繁の養嗣子となり、しだいに諸館主を糾合して覇権を握り、やがてアイヌ
函館市史 銭亀沢編 (戸井館の築造)

それこそが、志苔館の再建時における和人館主たちの共通した要望であった。
南茅部町史 上巻 (志海苔で古銭の大甕出土)

(新北海道史)  享徳三年(一四五四)になると松前家の祖となる武田信広がのちの箱館の館主河野政通らと
戸井町史 (四、戸井から六万枚の古銭と宝物出土(文政四年))

岡部季澄は「新羅之記録」にコシャマインの乱の頃の原口の館主と記録されている人である。  ,後世「岡部館が蝦夷の攻撃を受けて陥落し、館主が井戸の中に財宝を埋めて自刃した」という伝説は文政四年の事蹟
戸井町史 (三、『新発見の板碑(いたび)(戸井町)』  須藤 隆仙)

「(前略)  戸井郷土誌第一集「四、館の伝説とその考証』のところに「館主岡某が生前館の近くの、宮川の,館主岡部某は兵を浜中に出し、これに抗戦したが、衆寡敵せず蝦夷の毒矢に当って死ぬ者が多かった。,館に引揚げた館主は、財宝を館の傍にあった井戸に投じ、蓋(ふた)をし、奮戦して戦死し、館は間もなく陥落した,館主岡部氏は、館の東の島(砂洲)にある三基の石に対して、毎朝拝礼していた。,郷土史資料調査に当り、館主の礼拝したという伝説の三基の石が、どこにあるものと考え、さがした結果、〓宇美家
戸井町史 (二、和人の館)

長禄元年(一四五七)コシャマインの乱の時の箱館の館主河野政通(まさみち)、相原政胤(まさたね)、蠣崎信広
南茅部町史 下巻 (〔磯谷温泉〕)

の開始とともに用務の客も増加して、春秋の湯治や、山間のひなびた味を求め、はるばる訪れる客も多くなり、館主
函館市史 銭亀沢編 (短冊状地割と境界について)

函館市教育委員会『史跡志苔館跡‐昭和58~60年度環境整備事業に伴う発掘調査報告書‐』一九八六)、志苔館主小林氏
函館市史 通説編 第二巻 (テールス号の入港)

杉浦誠(元兵庫頭) 2.8.29 旧幕臣 函館 東京在勤の後、2.1.2.29函館着任、長官札幌在野後函館主任官
函館市史 銭亀沢編 (志苔館と渡党)

一方、志苔館の館主となる小林氏について、『蝦夷実地検考録』は、「良景は渡党にて本国は上野也とぞ。
戸井町史 (二、戸井への和人の定着)

戸井の館のことについては新羅の記録にもその名がなく、原口館主は岡部六郎左衛門尉季澄と明記されているので
戸井町史 (二、町史編纂六ヶ年の追憶)

又戸井館の館主岡部某が毎朝礼拝していたという伝説の石と推定される石碑を二基発見し、これを「戸井発祥の石碑
函館市史 通説編 第二巻 (渡島国を7大区とする企画)

速達可致事柄ニ付、自今ハ次官殿ヘ稟議之上御処分有之度此段共申進候也」(「開公」5795)と、いわば函館主導
戸井町史 (年表の序)

その頃戸井の館主は岡部季澄で、蝦夷の襲撃を受けて滅びたと伝えられている。
戸井町史 (目次)

…………………………148     一、和人渡来の始     二、和人の館     三、道南の館主
函館市史 銭亀沢編 (目次)

史跡志苔館跡保存会」)/志海苔古銭をめぐって/     戸井館の築造/安藤康季の渡道と「道南の十二館」/館主
戸井町史 ([戸井の地名考])

)、オカベトマリは岡部泊、オカベマは岡部澗(ま)で、戸井館(といだて)の近くの入江につけられた名で、館主岡部
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