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函館市史 通説編 第一巻
(河野館館神)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 河野
館
館
神
松前千勝丸病気平癒のお礼に奉納した鰐口(湯倉
神
社蔵) 箱
館
八幡宮が河野氏の
館
の
館
神
,のようにいわれているが、『蝦夷実地検考録』には、求中稲荷大明
神
というものを挙げて、「
館
神
社と称す。,草創詳かならず、按ずるに河野加賀守の
館
裏に在し名なるべし」としている。,また前記の愛宕大明
神
を「往昔は無火
神
社と称し、河野加賀守創建といい伝う」としている。,
館
神
が果たしてどれであったか考究上の疑問を残しながらも、いずれも河野氏に関係のあったことを伝えて注目される / 河野
館
館
神
函館市史 銭亀沢編
(函館風松前神楽(渡島神楽))
函
館
市史 銭亀沢編 / 函
館
風松前
神
楽(渡島
神
楽) この地域で演じられている
神
道と関係の深い
神
事芸能は雅楽と
神
楽(かぐら)である,従って函
館
風松前
神
楽は松前
神
楽の一形態とみなせる。,近藤鏡二郎は現代の松前
神
楽と函
館
風松前
神
楽との関係、ならびに函
館
風松前
神
楽成立の一断面を明らかにしている,函
館
やその周辺の一部の
神
社では、松前
神
楽の中心的
神
事であったお釜(湯立式)も省略する
神
社があらわれ、函
館
市,これらから地域の祭の状況と函
館
風松前
神
楽の芸態、そして函
館
風松前
神
楽に対する住民と
神
職の方たちの意識がうかがわれる / 函
館
風松前
神
楽(渡島
神
楽)
函館市史 通説編 第二巻
(函館八幡宮と札幌神社)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
八幡宮と札幌
神
社 それが一応の解決をみたのは、奇しくも函
館
における社格問題が決着したのと同年の明治, 去ル庚午十一月中、当使添書ヲ以同社
神
官ヨリ弁官ヘ申立候書面中、全島総社、又肩書ニ函
館
総社,内なる社格争いにおいては「函
館
崇敬社」の社号を付与されつつも、札幌
神
社との外なる宿命的な社格争いにおいては,なぜならば、この函
館
八幡宮の称号廃止は、1社の称号廃止を超えて、近代北海道の
神
道界のタテなる序列が不動,明治6年に近代的な
神
社序列の中に組み込まれた函
館
の
神
道界に、ひとつの朗報が届いたのは、それから4年後の / 函
館
八幡宮と札幌
神
社
函館市史 通説編 第二巻
(函館における神仏分離)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
における
神
仏分離 さてそれでは、わが函
館
の
神
仏分離はどう展開していたのであろうか。,前述のように、函
館
は箱
館
戦争の本舞台の地でもあり、それによる混乱の度は松前・江差の比ではなく、その意味,ところが、箱
館
戦争が終結してから2年目の明治4年、函
館
の宗教界もようやく平常の静けさを回復したのであろうか,の
神
官中川が、下湯川村明
神
は江戸時代の承応年間(1652~55)から村民に手厚く祀られてきた仏像の
神
体,前に江差正覚院という寺院側の
神
仏分離政策に対するある種の抵抗を観察したが、函
館
のそれは
神
官と村民の一体化 / 函
館
における
神
仏分離
函館市史 通説編 第二巻
(神戸・函館線の小樽延長)
函
館
市史 通説編 第二巻 /
神
戸・函
館
線の小樽延長 明治11年に三菱会社が道内航路を開航したことで西海岸の商権を函
館
が大きく掌握,第2点は横浜経由の函
館
・
神
戸線の小樽までの延長であった。 ,24年12月21日に郵船の函
館
支店に
神
戸・函
館
便を小樽まで延長するという通知があり、これを受けた地元紙,
神
戸・函
館
線は実質的には函
館
・横浜線を含んだ航路であり、函
館
の経済界にとり基幹航路であった。,「函
館
新聞」は12月23日以降3回にわたり「航路延長せり
神
樽間」と題した社説で従来のこの航路が函
館
に果 /
神
戸・函
館
線の小樽延長
函館市史 通説編 第二巻
(函館における神仏分離の特質)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
における
神
仏分離の特質 表11-2(開拓使の
神
仏分離観の転換)が如実に示すように、36社の中に稲荷社,1、箱
館
戦争のため、函
館
・松前・江差においては
神
仏分離は布達されてもすぐさま実施されず、それが現実になされたのは,1、しかしその
神
仏分離に対しては江差・函
館
に例をみるように、一定の抵抗があり決して順調ではなかった。,このような北海道ないしは函
館
的な
神
仏分離の特性は、一言にしていえば「政策の不徹底」であり、同時に
神
道と,ならば、函
館
においては前の江差正覚院と
神
官との間に生じたような
神
社と寺院間の反目は絶えてなかったのであろうか / 函
館
における
神
仏分離の特質
函館市史 通説編 第二巻
(函館における神仏分離の背景)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
における
神
仏分離の背景 それでは、函
館
の
神
仏分離において何故に、「不徹底性」なり「妥協・融合性」,そのキリスト教解禁から2か月余の5月4日、函
館
市中は「当港在留アナトリー教法不相替洽布、即今就学ノ者モ,こうした市中の非
神
仏的な信仰傾向が強まるなら、そこに
神
社と寺院に異常なまでの危機感が立ち表われることは,函
館
においても非
神
仏的風潮が一般化する時、必然的に反キリスト教の名目で、寺院と
神
社がその宗教的一体感を,函
館
の
神
仏分離はこうした特殊な状況下に推進されたものであった。 / 函
館
における
神
仏分離の背景
函館市史 通説編 第二巻
(箱館戦争の混乱と松前の神仏分離)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 箱
館
戦争の混乱と松前の
神
仏分離 「
神
仏判然令」が発布され、それを踏まえた「太政官の布達」が出された明治元年閏,とすれば、箱
館
戦争が終息をみる明治2年5月18日までの約半年間は、「
神
仏判然令」の伝達、施行の時期であるにも,案の定、
神
仏分離の様相を物語る函
館
地方の史料は甚だ僅少である。,よって、渡島・桧山地方の
神
仏分離の状況を総体的に追跡しながら、函
館
のそれをうかがい見ることにしたい。,松前における
神
仏分離政策を伝えていた社家の日記類にも、箱
館
戦争後のそれを書き記したものは見当らず、その / 箱
館
戦争の混乱と松前の
神
仏分離
函館市史 通説編 第一巻
(神社)
函
館
市史 通説編 第一巻 /
神
社 箱
館
八幡宮 箱
館
奉行所の設置にあたり、文化元(1804)年9月、会所町に遷宮された。, 寛政中辺防議起、安論奉台命巡行、及後置鎮于箱
館
、安論與羽太正養拝其職、箱
館
旧有八幡宮,求中稲荷社 第2章第7節に記した
館
神
であるが、享和3年7月、戸川、羽太の両奉行が再営し、石灯籠を上げ、,愛宕社 箱
館
八幡宮の社人が社務を掌り、明和6(1769)年再営の社である。,箱
館
八幡宮には前記のほか、眼光稲荷(享和3年)、運開稲荷、金毘羅(以上文政4年)、
神
明社には住吉、天満 /
神
社
函館市史 通説編 第一巻
(神社)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 箱
館
八幡宮 文安2(1445)年、河野政通が宇須岸
館
の東南隅に鎮護の
神
としてまつり、アイヌ,なお、延享4(1747)年、箱
館
八幡宮の
神
職菊池氏が再築したと伝えている。, 住吉大明
神
(現住三吉
神
社) 『箱
館
夜話草』に、明暦元年、南部の修験者感応坊創建と、
神
明社,箱
館
八幡宮の摂社である。, このほか箱
館
八幡宮には、摂社として、愛宕大明
神
、天満宮、末社として大工祖
神
、八郎大明
神
/
神
社
函館市史 通説編 第一巻
(神社)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 豊川稲荷社(函
館
八幡宮の摂社)は文久2年(一説に3年)に創立された。,御用達、問屋らの献金で
神
殿ができて結構を極め、「蝦夷日光」といわれたが、明治2年兵火で焼け、以後箱
館
に,このころになると屋敷
神
としての稲荷
神
の祭祀が方々に見られ、『箱
館
夜話草』には「十人の稲荷」「地主稲荷」,天光稲荷は山背泊稲荷
神
社として現存する。,また船見町に函
館
稲荷
神
社があり、ここに「宝永稲荷」といって、古い稲荷
神
(一説に宝永年間創建)が合祀されている /
神
社
函館市史 通説編 第一巻
(箱館山の植樹)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 箱
館
山の植樹 一方開墾に次いで、みるべきものに植樹がある。,山師(伐木業者)の伐木に関するものの外、山林についての制度がなく、ただ住民の自由にまかせていたため、箱
館
付近,ところがここに特記すべきことは、七重に卯之助なる者があり、箱
館
山および七重に植樹をした事蹟である。,箱
館
山に卯之助が植樹したのは文化年間で、樹種は杉および松の2種類で、箱
館
役所(旧渡島支庁の所)の後ろ一帯,の地に約2万本の杉と、それからやや南にあたる船魂大明
神
(いまの船魂
神
社)の所に松2000本を植樹し、また / 箱
館
山の植樹
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の町勢)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 箱
館
の町勢 この時代の箱
館
市中の状況を、弘化2(1845)年松浦武四郎の『蝦夷日誌』によって見ると以下,これは寛政年間亀田村の
館
所をここに移したものである。,
神
明社
神
明町の上で、東は山ノ上町、後ろは壁穴、西は山背泊町にへだてる。,「尻沢辺村」 箱
館
山の東面で、うしろは山、谷地頭寄りである。,以上が往時の箱
館
の姿で、箱
館
港内は四時船舶が絶えず、多いときは300余艘にも至り、冬期でも20艘から60 / 箱
館
の町勢
函館市史 別巻 亀田市編
(館構築の年代)
函
館
市史 別巻 亀田市編 /
館
構築の年代 亀田
館
の構築年代ははっきりしないが、おそらく『東北太平記』の記録から推して文安元(一四四四,『新羅之記録』の中にあるいわゆる道南十二
館
の中に、亀田
館
や戸井
館
(岡部
館
)などが見当らないが、おそらく,道南十二
館
の形成以前に造られたものであり、なんらかの理由により松前藩の正史ともいうべき『新羅之記録』に,前に記した『十三往来』や『諏訪大明
神
絵詞』の記録からも知られるごとく、十四世紀ころすでに道南地方に居住,戦乱の結果、戦いに敗れた安東氏一族は、かねてより交易を通じ知識を得ていた道南地方の海岸線に移り住み、
館
を /
館
構築の年代
函館市史 通説編 第二巻
(創業時と函館)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 創業時と函
館
日本郵船函
館
支店 『実利実益 北海道案内』より 日本郵船の北海道関係航路は前記,10月16日の「函
館
新聞」には
神
戸・函
館
(横浜・荻浜経由)間の定期便の日時が決定したという記事が掲載されている,函
館
着が日曜、木曜の午前6時、函
館
出港が火曜、土曜の午前8時と週2往復の便で東京丸などが就航、とあるが,創業直後の函
館
での反応を「函
館
新聞」で見てみよう。,郵船は函
館
・横浜・
神
戸間といった対本州の基幹航路には1000~2000トン級の大型船を就航させ、道内航路 / 創業時と函
館
函館市史 通説編 第二巻
(函館邏卒正式発足)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
邏卒正式発足 出京していた杉浦判官は5月15日
神
奈川県庁を訪れ、県令陸奥宗光、大江卓参事らと会っている,
神
奈川県と東京出張所の往復書簡によると、
神
奈川県側は杉浦判官に邏卒関係書類を渡したと述べている。,帰函した杉浦判官はこの
神
奈川県の書類をもとに函
館
邏卒制の整備を進めていたが、護兵隊の維持費用を邏卒と砲兵,の通りに整理)、「函
館
邏卒規則」「邏卒心得規則」「邏卒自守条目」を添えて「今般函
館
表彼我人民保護之為メ,邏卒設置承認の通知を受けた函
館
支庁は、9月23日に函
館
邏卒編成見込に基づき邏卒全員を大中少邏卒に分けて / 函
館
邏卒正式発足
函館市史 銭亀沢編
(明神講)
函
館
市史 銭亀沢編 / 明
神
講 本来は嫁の集まりであったが、現在、石崎町・志海苔町では、町内の婦人を対象にした集まりで、ほとんどの,一月十六日か十七日に町会
館
などでおこなわれる。,
神
職の祝詞・玉串奉奠があり式が終わると「アトヒキ」がひらかれる。,
神
社役員や町会役員の男性が招かれる。 / 明
神
講
函館市史 通説編 第二巻
(函館県時代)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
県時代 15年、函
館
区役所から三業規則改正伺いが、税制の関係と取り締まりの関係から相前後して提出,函
館
県は、警視庁が取り調べ中の東京府下の規則改正を参考にしながら、従前の規則を廃止し、新たに二業(貸座敷,)規則・貸座敷娼妓賦金規則」と「芸妓取締規則」を翌16年7月19日、県管内へ布達した(明治16年『函
館
県布達達全書,新たに制定された規則によると、貸座敷営業指定地域は従来の蓬莱町・台町のほかに天
神
町と駒止町が追加され、 / 函
館
県時代
函館市史 通説編 第一巻
(箱館付近の上知)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 箱
館
付近の上知 箱
館
が
神
奈川条約によって国際的な関係を持つと、安政元(1854)年6月26日、松前藩,に命じ箱
館
ならびにその付近5里の地域を上知し、6月30日には箱
館
に箱
館
奉行を置き、勘定吟味役竹内清太郎保徳 / 箱
館
付近の上知
函館市史 別巻 亀田市編
(箱館への移動)
函
館
市史 別巻 亀田市編 / も箱
館
の方に居を移すようになり、次第に役所や寺社も人口の多い箱
館
へ移動して行った。 ,○元禄三(一六九〇)年 亀田の称名寺箱
館
に移る。,○宝永三(一七〇六)年 亀田の高龍寺箱
館
に移る。,○元文六(一七四一)年 亀田奉行所箱
館
に移る(箱
館
に移動してからも亀田奉行所又は亀田番所と称した)。,海を隔て南方には南部領佐井、大間等の湊も七、八里の渡りにあり、潮の流れも穏かにして龍飛、白
神
の如く成激流 / 箱
館
への移動
函館市史 通説編 第二巻
(新刻/函館港全図)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 新刻/函
館
港全図 画像をクリックすると高精細画像が表示されます。,この街区改正により、寺院や
神
社が移転し、街区も十字形に整理された。,そのほか、幸町や函
館
公園そして、電信局の開設にともなう電信線の記入などが新たに見られる。 / 新刻/函
館
港全図
函館市史 別巻 亀田市編
(教派神道)
函
館
市史 別巻 亀田市編 / 教派
神
道 天理教千代ケ岱分教会 所在地 中道町五〇番地 元函
館
市堀川町にあったが昭和十年,に現在地に移転 代表者 菅 兵吉 天理教拓進分教会 所在地 本町五三番地の一 函
館
市杉並町,の地に移転 代表者 葛西ツエ 天理教北治分教会 所在地 富岡町六五番地の二五四 函
館
市宮前町,代表者 田村イ子 天理教恵園分教会 所在地 桔梗町三三二番地の一六 昭和二十三年十一月函
館
より,移転開設 代表者 関口 清 天理教北の関分教会 所在地 本町五五番地 昭和十三年八月函
館
市万代町 / 教派
神
道
函館市史 通説編 第二巻
(箱館の動揺)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 箱
館
の動揺 内戦へ突入した京都、大坂の情勢が箱
館
に伝えられたのは正月も終りに近づいた頃である。,酒井十之丞 毛受鹿之助 安藝藩 辻将曹(維岳) 桜井与四郎(元憲) 久保田秀雄 土佐藩 後藤象二郎
神
山左多衛,ところが翌々6日、イギリス商船カンカイ号が入港、
神
奈川奉行支配組頭宮本小一郎らからの内状が届けられ、鳥羽伏見,で蝦夷地の事情に精通していた一橋家郡奉行の橋本悌蔵を箱
館
奉行並に任じ、箱
館
の現況視察と運上金の増徴(慶応,、慶応3年からは江戸からの差下金をも断る程で(「箱
館
蝦夷地在勤中諸用留」『函
館
市史』史料編1)、自立経営 / 箱
館
の動揺
函館市史 通説編 第二巻
(函館の区入費)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
の区入費 函
館
は北海道で最も早く明治5年に大小区制が導入されたわけであるが、明治5年に関しては、,明治6年には函
館
で区入費の徴収が開始された。,セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス 一 皇宮地 皇居離宮等ヲ云 一
神
地,貸付会所 郵便役所 電信局海 陸軍省用地 懲役場 囚獄 羅卒分営 倉庫地 官有地第3種 官林 公園
神
葬地,、明治9年5月第46号函
館
支庁達より作成 / 函
館
の区入費
函館市史 銭亀沢編
(安藤康季の渡道と「道南の十二館」)
函
館
市史 銭亀沢編 / 」とは石崎の「宮の沢」を指すので、「澤山
神
」なる
神
社が石崎に存在していたことは間違いない。,鰐口(市立函
館
博物
館
提供) 一種の生業
神
として勧請された「脇澤山」
神
社が、志苔
館
主の小林重弘の,末裔の良景-良定の世の戸井
館
の崩壊後から永享十一年のある時期、志苔
館
を守護する「
館
神
」としても祀られるようになったと,先住のアイヌと隣接する地内の東端の石崎に所在する渡党の生業
神
としての「脇澤山
神
社」を小林氏が「
館
神
」として,人によっては、志苔
館
と石崎の地理的距離から、「
館
神
」のこと、この「経石庵」を志苔
館
ないし小林氏に結び付 / 安藤康季の渡道と「道南の十二
館
」
函館市史 銭亀沢編
(志苔館と渡党)
函
館
市史 銭亀沢編 / 志苔
館
と渡党 一般に志苔
館
を含めて「道南の十二
館
」という。,しかし、これまでの「道南の十二
館
」の
館
の成立に関する研究は、吉岡康暢氏が指摘するように、どちらかといえば,「道南の十二
館
」の嚆矢たる「志苔
館
」の第一期(一四世紀末)築造に踏み切ったのではあるまいか。,今一つの金石文類は、函
館
市石崎町石崎八幡宮の「鰐口」(市立函
館
博物
館
保管)である。,この「鰐口」は、永享十一(一四三九)年の紀年銘を持ち、「奉寄進夷嶋脇澤山
神
御寳前 施主平氏盛阿弥敬白 / 志苔
館
と渡党
函館市史 通説編 第一巻
(松前神楽)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 松前
神
楽 2世蠣崎光広の代に創始されたといわれる松前
神
楽は、亀田の白鳥孫三郎の玄孫が松前に行って
神
職,となり、永井家を嗣いで
神
楽三宗家の一になったという因縁もあるが、亀田八幡宮は2月17日、箱
館
八幡宮は正月,15日、住吉
神
社は9月17日と定期的に行われた。,また例年正月11には初
神
楽といって、市在の社家がそろって、役所、町年寄宅、主だった家で
神
楽をした。,この
神
楽は
神
社祭式中の儀式に執り行われていること、これを行う者が
神
職自身であるという点に特色がある。 / 松前
神
楽
函館市史 通説編 第一巻
(函館の亀ヶ岡文化)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 函
館
の亀ヶ岡文化 三吉
神
社遺跡の土器(市立函
館
博物
館
蔵) 青森県で栄えた亀ヶ岡文化は北海道にも,函
館
周辺では、あたかも亀ヶ岡人が渡って来たようにも思えるほどよく似た形で伝わっている。,函
館
で亀ヶ岡式の土器が出土したのは住吉、函
館
公園付近、榎本、高丘、亀尾の各町である。,住吉町と函
館
公園付近出土の土器は、江戸時代から明治時代に掘り出されたもので、蝦夷
館
山から出た壷は高さが,函
館
の亀ヶ岡文化の代表的なものは亀尾の女名沢遺跡で、伊藤昌吉が資料を収集し、大部分が市立函
館
博物
館
に収蔵 / 函
館
の亀ヶ岡文化
函館市史 通説編 第一巻
(函館考古会の設立気運)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 函
館
考古会の設立気運 明治初年にミルン、モース、ブラキストンらの外国人が函
館
におもむいて貝塚や遺跡を,明治42年2月、私立函
館
図書
館
(現市立函
館
図書
館
の前身)の岡田健蔵
館
長に対し、馬場脩が函
館
考古会の設立,旧岩船家別荘(現在の見晴公園)、湯倉
神
社裏の湯川貝塚、戸井の熊別川などを巡り歩き、遺跡の分布調査を行っている,今日に於ては住吉町の南部墓地の辺は種々の器物に富み、同町の北部なる住吉
神
社附近は土器片及び錘石多く、此両処,谷地頭より稍々登りたる函
館
山の半腹字水元にあり。又蝦夷
館
と称す。」 / 函
館
考古会の設立気運
函館市史 通説編 第二巻
(箱館戦争後の治安担当)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 箱
館
戦争後の治安担当 箱
館
戦争が終わったとき、諸藩派遣の新政府軍は次々と自藩へ戻り、箱
館
には箱
館
府直属,新兵隊は、箱
館
府が旧幕箱
館
奉行から諸務を引き継いだあと、箱
館
および近在の庶民の子弟を募集して編成した親兵隊,明治2年10月の開拓使の官員進退調査によると、在住隊員は「在住」以外に、
神
衛隊、壱番隊、弐番隊、カガノカミ,
神
衛隊は、明治元年8月に高龍寺の海雲師が主唱して編成され、箱
館
府から名字帯刀が許された銃隊である。,この新兵隊と在住隊が、箱
館
戦争後の箱
館
の治安を担当することになったわけである。 / 箱
館
戦争後の治安担当
函館市史 通説編 第一巻
(箱館山の薬師信仰)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 箱
館
山の薬師信仰 『蝦夷島奇観』によれば、元和2(1616)年、河野政通の子孫で良道阿闍梨という出家,が、箱
館
山に金銅の薬師仏をまつり、河野家の長久を祈ったとあるが、その跡はいまのところ不明である。,また『蝦夷実地検考録』には、山に医王山明
神
があるとし、明暦元(1655)年草創、元文4(1739)年再建 / 箱
館
山の薬師信仰
函館市史 通説編 第二巻
(箱館奉行の再置)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 箱
館
奉行の再置 安政元(1854)年6月30日、幕府は箱
館
奉行を再置した。,このように、箱
館
奉行の再置それ自体は、箱
館
開港への対応とそれに伴なう箱
館
を中心とした5~6里四方の幕領地,に課せられた主要な任務は、(イ)「箱
館
」(内実は箱
館
を中心にした5~6里四方の幕領地)の統治(第1条と,7.7.21 万延元.11.20 (没) 安政5.7.8より外国奉行(初置)兼帯 安政6.6.4より
神
奈川奉行,(兼免) 外国奉行 兼帯,安政6.4.7より勘定奉行兼帯(安政6.11.1 免),安政6.6.4より
神
奈川奉行兼帯 / 箱
館
奉行の再置
函館市史 通説編 第二巻
([1 箱館開港への途])
函
館
市史 通説編 第二巻 / [1 箱
館
開港への途] 安政元(1854)年3月3日、
神
奈川(横浜)でペリーと幕府との間で日米和親条約,が調印され、これにより日本は、伊豆の下田港と松前地の箱
館
港の両港においてアメリカ船に対し薪水・食料・石炭等,開港の時期は、下田港が調印日、箱
館
港が翌年3月とされた。,前年ペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府に開国を求めて以来8か月、安政元年1月ペリーが再び浦賀に来航し、
神
奈川,詳細におさえなければならないが、この点は他の研究書を参考にしていただくことにして、ここでは、主として箱
館
が / [1 箱
館
開港への途]
函館市史 別巻 亀田市編
(川上神社)
函
館
市史 別巻 亀田市編 / 川上
神
社 川上
神
社 石川町二六一番地にあり、祭
神
は須佐之男命である。 ,安政四年三月箱
館
奉行村垣淡路守より社殿造営料として金一〇両下渡され、石川に社を建立した。,『巡回日記』によれば、明治五年の石川郷は戸数二九戸、人ロ一一七人の小さな部落であり「有川村
神
明社氏子に,同村の発展は遅々として進まないため維持経営困難につき、その筋の許可を得て、四十四年七月、比遅里
神
社に合祀 / 川上
神
社
函館市史 通説編 第二巻
(箱館府の廃止時期)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 辻維岳 5.1.19 滋賀県となる 横 浜 1.3.19 東久世通禧(兵庫から) 1.6.17
神
奈川,東久世通禧 1.9.21
神
奈川 寺島宗則 改称
神
奈川 1.4.20,つまり箱
館
では、7月17日の布告をもって箱
館
府は廃止され、箱
館
県となったと理解し、開拓使長官一行が箱
館
,にやってくるまで箱
館
では箱
館
府は「箱
館
県」として機能し、多数の箱
館
県名の文書を残すこととなったのである,閏4.24 箱
館
府と改称 5.1 箱
館
裁判所設置 箱
館
裁判所 7.17 箱
館
府と改称 / 箱
館
府の廃止時期
函館市史 通説編 第一巻
(箱館近海の出没)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 箱
館
近海の出没 その他、箱
館
近海から噴火湾だけにみても、天保3年7月21日、椴法華沖に現われたのをはじめとし,津軽海峡の西に現われ、龍飛岬砲台がこれを撃退、船がそれを避けて福山に近づくと、福山の諸砲台ならびに白
神
砲台,の日記によると、異国船通航の報は同年8回、翌2年には14回とその頻度を加え、この年8月28日には、箱
館
山背泊 / 箱
館
近海の出没
函館市史 通説編 第二巻
(函館県警察の発足)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
県警察の発足 明治15年2月8日に開拓使が廃止されて函
館
県、札幌県、根室県の3県体制となると、開拓使函
館
支庁,函
館
県庁開庁5日前の3月11日、函
館
県甲第3号布達(明治15年『函
館
県布達々全書』)をもって函
館
県管内,警部補
神
田勝弥 開拓使の時は単に函
館
分署 函
館
警察署上磯分署 上磯郡上磯村 警部補代理 鎌田寧周,3号布達『函
館
県布達々全書』、明治15年『函
館
県職員禄』より作成 函
館
警察著は明治17年12月1日,函
館
区恵比須町 函
館
警察署移転に伴い17.12.1廃止 函
館
警察署泉沢分署 上磯郡泉沢村 / 函
館
県警察の発足
函館市史 別巻 亀田市編
(函館区制と亀田小学校)
函
館
市史 別巻 亀田市編 / として函
館
、札幌及び小樽の地区が指定された。 ,『函
館
区史』『函
館
市誌』によると、面積四六万四、九一六坪、戸数三四四、人口二、二二七と記述しているので,、亀田村の大部分を函
館
区に編入合併したわけである。,と称し、昭和六年町名を改めるまで、亀田郡亀田村と函
館
区亀田村が共存していた。 ,亀田村は明治三十五年二級町村制施行に当り、亀田村外五か村(鍛冶村
神
山村 赤川村 桔梗村 石川村)戸長役場 / 函
館
区制と亀田小学校
函館市史 通説編 第二巻
(函館要塞の設置)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
要塞の設置 そして最後に設置されたのが函
館
要塞(函
館
砲台)である。,まず明治30年3月、陸軍築城部の函
館
要塞築城事務所が開設され、大倉組の手によって函
館
の市街と津軽海峡を,見下ろす標高300余メートルの函
館
山での要塞工事が開始された。,函
館
山要塞の終焉』Ⅱ)。 , 函
館
区 一円 亀田郡 銭亀沢村、上湯川村、志苔村、下湯川村、根崎村、鍛冶村、
神
山村 / 函
館
要塞の設置
函館市史 通説編 第二巻
(神社と寺院の反目)
函
館
市史 通説編 第二巻 /
神
社と寺院の反目 実はそうではない。,函
館
市中の既存寺院と
神
官との対立は確認されないけれども、次にみる開拓を目的に函
館
市中への進出を企てた天台宗,ところが、この天台宗の開拓という名の函
館
布教に対して、受け容れ側の函
館
において、
神
官菊池が次のような警戒心,函
館
において
神
仏分離をめぐる寺社間の対立は、以上のように天台宗の教線拡張という開教を契機に発生したものであり,その意味でいえば、函
館
の
神
仏分離をめぐる寺社間のトラブルは比較的少なく、「妥協・融合」の色彩が濃厚であるといえよう /
神
社と寺院の反目
函館市史 通説編 第二巻
(日銀函館出張店の開業)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 日銀函
館
出張店の開業 日本銀行函
館
出張所 『実利実益 北海道案内』より 日銀,道ヲ便ニシ且金融ノ疎通ヲ謀リ金利ノ平衡ヲ得セシムル」(『日本銀行沿革史』第1輯第1巻)ため、長崎・函
館
・,新潟・
神
戸・横浜・赤間関(下関)・名古屋・仙台の8か所に漸次支店を設けることを大蔵大臣に請願し(6月16,際、支店設置の場所等を速やかに調査のうえ再度願い出るよう指示されたが、明治24年4月1日には札幌・函
館
・,三井銀行本道各支店との代理契約を解き、国庫金の保管出納、諸公債に関する事務取扱並に為替業務を営むため、札幌、函
館
、 / 日銀函
館
出張店の開業
函館市史 通説編 第一巻
(諏訪大明神絵詞)
函
館
市史 通説編 第一巻 / 諏訪大明
神
絵詞 当時、この地に渡り住んだものは、渡党(わたりとう)の名で呼ばれていたものらしく、すなわち,この『諏訪大明
神
絵詞』の宇曽利鶴子がウソリケシで函
館
の古名であり、万堂宇満伊犬はマトウマイヌで松前の古称,この宇曽利鶴子をウソリケシと読み、函
館
であるとすることに疑義をもち、応仁2(1468)年2月、安東師季,函
館
はむかしはウスケシ(宇須岸)といい(『新羅之記録』)、ウスリケシが訛(なま)って使われたものである,しかも『諏訪大明
神
絵詞』は蝦夷が千島の物語であり、それに出てくるウソリケシ、マトウマイヌの地名は函
館
・ / 諏訪大明
神
絵詞
函館市史 銭亀沢編
(八幡神社(志海苔町))
函
館
市史 銭亀沢編 / 八幡
神
社(志海苔町) 天正年中(一五七三から一五九一)の勧進と伝えられ、銭亀地区でも古い沿革を持つ
神
社,志苔
館
主小林氏の当社創建にかかる伝承は、勧進の時期とは一致しないが、永正九(一五一二)年の永正の乱以前,文献では、嘉永三(一八五〇)年の「蝦夷日誌」に志海苔の産
神
社とあるのが八幡
神
社の初見で、「蝦夷実地検考録,」(『函
館
市史』史料編第一巻)によると、安永五(一七七六)年に再建されたという。,八幡
神
社(志海苔町) / 八幡
神
社(志海苔町)
函館市史 通説編 第二巻
(函館開港とキリスト教)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 函
館
開港とキリスト教 函
館
においてキリスト教が庶民レベルで受容されて定着するまでの道は、決して平坦ではなかった,否、北海道ないしは函
館
は、開港場であるのに加えて、対ロシアの対外政策の中で「北門の鎖鑰(やく)」の任を,安政5(1858)年の日露修好通商条約とその翌年のロシア領事
館
設置に、近代函
館
キリスト教史が始まることは,既述したように、明治初年の函
館
宗教界は、
神
道にしてもまた仏教にしても、ともに対キリスト教に対して異常なまでの,邪教観を抱いてそれを排除せんとしていたし、明治5年の教部省-大教院による
神
仏習合的な国民教化においてはそれが / 函
館
開港とキリスト教
函館市史 通説編 第一巻
(箱館医学所(兼病院))
函
館
市史 通説編 第一巻 / 栗本匏庵 明治4年新築の函
館
病院(北大図書
館
蔵) この医学所というのは、江戸の医学
館
,するものもあったので、この時も柏倉忠粛の案で、講堂の床の間中央に、大乙貴(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)らの薬
神
に,祷の字(竹内下野守筆)を添えた軸をかけ、右に
神
農像(匏庵の祖父瑞仙院法印筆)、左に古代ギリシヤの医師ヒポクラテス,文久2年には医籍を改めて士籍に列せられ、箱
館
奉行組頭に任じられた。,慶応3年江戸で外国奉行のまま箱
館
奉行も兼ね、フランスに派遣されている。 / 箱
館
医学所(兼病院)
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使の神仏分離観の転換)
函
館
市史 通説編 第二巻 / ちなみに、明治12年の「開拓使函
館
支庁管内
神
社明細帳」(道文蔵)によって、その当時における函
館
の
神
社の,4,275戸 函
館
護国
神
社 青柳町 明治2年5月の箱
館
戦争の後、大森浜で官軍方戦没者の慰霊祭を行,20戸 東照宮 亀若町 村社 幕命により
神
山村に奉祭。明治2年の箱
館
戦争で宮殿全焼。,函
館
山
神
社 函
館
山 無格社 明暦元(1655)年。,函
館
市中 大森稲荷
神
社 大森町 無格社 勧請年不詳。明治7年再営。 / 開拓使の
神
仏分離観の転換
函館市史 通説編 第二巻
(江差の神仏分離)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 江差の
神
仏分離 しかし江差姥
神
社の
神
官である藤枝氏が伝える明治3年の日記によると、寺院において混淆が,許容された
神
々は、護法龍天
神
・不動尊・七面大明
神
・勝軍地蔵尊・聖天だけであり、その他の例えば、法華宗三十番
神
,とか本地垂迹を語る
神
々を鎮座させてはならないと厳禁していたところをみれば、どうやら箱
館
戦争の混乱が収まった,このように江差においては、
神
官による忠実な
神
仏分離が行なわれた結果であろうか、
神
官と僧侶によるある極度,以上、松前および江差を実例にして、
神
仏分離の実相を史料に即しながらみてきたが、それによれば、第一に箱
館
戦争 / 江差の
神
仏分離
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使の神仏分離観)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 開拓使の
神
仏分離観 こうした地方における順調な
神
仏分離を受けるかのように、開拓使は明治5年10月に次,ノ如キ、全ク皇朝ノ
神
祇ニアラズ(中略)御国民竺土ノ
神
ニ祈祷イタシ候テハ敬
神
ニ途ニ出ルニテ、別テ北海道ハ,開拓使のこうした強固な
神
仏分離の表明は、当然のごとく
神
官による現実の
神
仏分離作業にも反映していった。,明治5年の開拓使による
神
社改正に伴う社寺取調の任に当ったのは函
館
八幡宮祠官菊池重賢であったが、彼の取り,例えば、小樽高島村の稲荷社を調査しては、「
神
璽二勧請、外ニ仏体一有之、此分取除ク」、また函
館
豊川町の豊川稲荷社 / 開拓使の
神
仏分離観
函館市史 別巻 亀田市編
(函館大谷高等学校男子部)
函
館
市史 別巻 亀田市編 / 函
館
大谷高等学校男子部 大谷高等学校男子部 一 まえがき 函
館
大谷高等学校は、明治二十一年創立以来八十七年,函
館
市は女子の私立高等学校が多く、勉学に恵まれているが、男子の私立高等学校が少ないため、その設立を望む,全日制普通科として、男子高等教育の特徴を十二分に生かして運営され、特色として浄土真宗の宗祖である親鸞上人の精
神
に,ウ 函
館
大谷女子短期大学が隣接して設置、更にその付属幼稚園もあり、学園としておちついた環境である。 / 函
館
大谷高等学校男子部
函館市史 通説編 第二巻
(脱走軍支配下の箱館)
函
館
市史 通説編 第二巻 / 脱走軍支配下の箱
館
箱
館
に入った脱走軍がまず行ったことは町会所を通して触書を出したことであったように,、箱
館
奉行所から箱
館
府へ引継がれていた諸務はすべてそのまま継承した。,さらに八幡宮や
神
明宮などの縁日祭礼の物売りや見世物からは運上(代金の1割5分)、公認され毎夜夜半まで博奕,」『函
館
市史』史料2)。,箱
館
市民は、脱走軍の箱
館
占拠当初は早急な新政府軍の反攻を予測、店屋敷が戦火に包まれることを恐れ、貴重品 / 脱走軍支配下の箱
館
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