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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (河野館館神)

函館市史 通説編 第一巻 / 河野館館神 松前千勝丸病気平癒のお礼に奉納した鰐口(湯倉神社蔵)  箱館八幡宮が河野氏の館の館神,のようにいわれているが、『蝦夷実地検考録』には、求中稲荷大明神というものを挙げて、「館神社と称す。,草創詳かならず、按ずるに河野加賀守の館裏に在し名なるべし」としている。,また前記の愛宕大明神を「往昔は無火神社と称し、河野加賀守創建といい伝う」としている。,館神が果たしてどれであったか考究上の疑問を残しながらも、いずれも河野氏に関係のあったことを伝えて注目される / 河野館館神
函館市史 銭亀沢編 (函館風松前神楽(渡島神楽))

函館市史 銭亀沢編 / 函館風松前神楽(渡島神楽) この地域で演じられている神道と関係の深い神事芸能は雅楽と神楽(かぐら)である,従って函館風松前神楽は松前神楽の一形態とみなせる。,近藤鏡二郎は現代の松前神楽と函館風松前神楽との関係、ならびに函館風松前神楽成立の一断面を明らかにしている,函館やその周辺の一部の神社では、松前神楽の中心的神事であったお釜(湯立式)も省略する神社があらわれ、函館市,これらから地域の祭の状況と函館風松前神楽の芸態、そして函館風松前神楽に対する住民と神職の方たちの意識がうかがわれる / 函館風松前神楽(渡島神楽)
函館市史 通説編 第二巻 (函館八幡宮と札幌神社)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館八幡宮と札幌神社 それが一応の解決をみたのは、奇しくも函館における社格問題が決着したのと同年の明治,  去ル庚午十一月中、当使添書ヲ以同社神官ヨリ弁官ヘ申立候書面中、全島総社、又肩書ニ函館総社,内なる社格争いにおいては「函館崇敬社」の社号を付与されつつも、札幌神社との外なる宿命的な社格争いにおいては,なぜならば、この函館八幡宮の称号廃止は、1社の称号廃止を超えて、近代北海道の神道界のタテなる序列が不動,明治6年に近代的な神社序列の中に組み込まれた函館の神道界に、ひとつの朗報が届いたのは、それから4年後の / 函館八幡宮と札幌神社
函館市史 通説編 第二巻 (函館における神仏分離)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館における神仏分離 さてそれでは、わが函館の神仏分離はどう展開していたのであろうか。,前述のように、函館は箱館戦争の本舞台の地でもあり、それによる混乱の度は松前・江差の比ではなく、その意味,ところが、箱館戦争が終結してから2年目の明治4年、函館の宗教界もようやく平常の静けさを回復したのであろうか,の神官中川が、下湯川村明神は江戸時代の承応年間(1652~55)から村民に手厚く祀られてきた仏像の神体,前に江差正覚院という寺院側の神仏分離政策に対するある種の抵抗を観察したが、函館のそれは神官と村民の一体化 / 函館における神仏分離
函館市史 通説編 第二巻 (神戸・函館線の小樽延長)

函館市史 通説編 第二巻 / 神戸・函館線の小樽延長 明治11年に三菱会社が道内航路を開航したことで西海岸の商権を函館が大きく掌握,第2点は横浜経由の函館・神戸線の小樽までの延長であった。  ,24年12月21日に郵船の函館支店に神戸・函館便を小樽まで延長するという通知があり、これを受けた地元紙,神戸・函館線は実質的には函館・横浜線を含んだ航路であり、函館の経済界にとり基幹航路であった。,「函館新聞」は12月23日以降3回にわたり「航路延長せり神樽間」と題した社説で従来のこの航路が函館に果 / 神戸・函館線の小樽延長
函館市史 通説編 第二巻 (函館における神仏分離の特質)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館における神仏分離の特質 表11-2(開拓使の神仏分離観の転換)が如実に示すように、36社の中に稲荷社,1、箱館戦争のため、函館・松前・江差においては神仏分離は布達されてもすぐさま実施されず、それが現実になされたのは,1、しかしその神仏分離に対しては江差・函館に例をみるように、一定の抵抗があり決して順調ではなかった。,このような北海道ないしは函館的な神仏分離の特性は、一言にしていえば「政策の不徹底」であり、同時に神道と,ならば、函館においては前の江差正覚院と神官との間に生じたような神社と寺院間の反目は絶えてなかったのであろうか / 函館における神仏分離の特質
函館市史 通説編 第二巻 (函館における神仏分離の背景)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館における神仏分離の背景 それでは、函館の神仏分離において何故に、「不徹底性」なり「妥協・融合性」,そのキリスト教解禁から2か月余の5月4日、函館市中は「当港在留アナトリー教法不相替洽布、即今就学ノ者モ,こうした市中の非神仏的な信仰傾向が強まるなら、そこに神社と寺院に異常なまでの危機感が立ち表われることは,函館においても非神仏的風潮が一般化する時、必然的に反キリスト教の名目で、寺院と神社がその宗教的一体感を,函館の神仏分離はこうした特殊な状況下に推進されたものであった。 / 函館における神仏分離の背景
函館市史 通説編 第二巻 (箱館戦争の混乱と松前の神仏分離)

函館市史 通説編 第二巻 / 箱館戦争の混乱と松前の神仏分離 「神仏判然令」が発布され、それを踏まえた「太政官の布達」が出された明治元年閏,とすれば、箱館戦争が終息をみる明治2年5月18日までの約半年間は、「神仏判然令」の伝達、施行の時期であるにも,案の定、神仏分離の様相を物語る函館地方の史料は甚だ僅少である。,よって、渡島・桧山地方の神仏分離の状況を総体的に追跡しながら、函館のそれをうかがい見ることにしたい。,松前における神仏分離政策を伝えていた社家の日記類にも、箱館戦争後のそれを書き記したものは見当らず、その / 箱館戦争の混乱と松前の神仏分離
函館市史 通説編 第一巻 (神社)

函館市史 通説編 第一巻 / 神社 箱館八幡宮 箱館奉行所の設置にあたり、文化元(1804)年9月、会所町に遷宮された。,  寛政中辺防議起、安論奉台命巡行、及後置鎮于箱館、安論與羽太正養拝其職、箱館旧有八幡宮,求中稲荷社 第2章第7節に記した館神であるが、享和3年7月、戸川、羽太の両奉行が再営し、石灯籠を上げ、,愛宕社 箱館八幡宮の社人が社務を掌り、明和6(1769)年再営の社である。,箱館八幡宮には前記のほか、眼光稲荷(享和3年)、運開稲荷、金毘羅(以上文政4年)、神明社には住吉、天満 / 神社
函館市史 通説編 第一巻 (神社)

函館市史 通説編 第一巻 /   箱館八幡宮 文安2(1445)年、河野政通が宇須岸館の東南隅に鎮護の神としてまつり、アイヌ,なお、延享4(1747)年、箱館八幡宮の神職菊池氏が再築したと伝えている。,  住吉大明神(現住三吉神社) 『箱館夜話草』に、明暦元年、南部の修験者感応坊創建と、神明社,箱館八幡宮の摂社である。,   このほか箱館八幡宮には、摂社として、愛宕大明神、天満宮、末社として大工祖神、八郎大明神 / 神社
函館市史 通説編 第一巻 (神社)

函館市史 通説編 第一巻 / 豊川稲荷社(函館八幡宮の摂社)は文久2年(一説に3年)に創立された。,御用達、問屋らの献金で神殿ができて結構を極め、「蝦夷日光」といわれたが、明治2年兵火で焼け、以後箱館に,このころになると屋敷神としての稲荷神の祭祀が方々に見られ、『箱館夜話草』には「十人の稲荷」「地主稲荷」,天光稲荷は山背泊稲荷神社として現存する。,また船見町に函館稲荷神社があり、ここに「宝永稲荷」といって、古い稲荷神(一説に宝永年間創建)が合祀されている / 神社
函館市史 通説編 第一巻 (箱館山の植樹)

函館市史 通説編 第一巻 / 箱館山の植樹 一方開墾に次いで、みるべきものに植樹がある。,山師(伐木業者)の伐木に関するものの外、山林についての制度がなく、ただ住民の自由にまかせていたため、箱館付近,ところがここに特記すべきことは、七重に卯之助なる者があり、箱館山および七重に植樹をした事蹟である。,箱館山に卯之助が植樹したのは文化年間で、樹種は杉および松の2種類で、箱館役所(旧渡島支庁の所)の後ろ一帯,の地に約2万本の杉と、それからやや南にあたる船魂大明神(いまの船魂神社)の所に松2000本を植樹し、また / 箱館山の植樹
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の町勢)

函館市史 通説編 第一巻 / 箱館の町勢 この時代の箱館市中の状況を、弘化2(1845)年松浦武四郎の『蝦夷日誌』によって見ると以下,これは寛政年間亀田村の館所をここに移したものである。,神明社 神明町の上で、東は山ノ上町、後ろは壁穴、西は山背泊町にへだてる。,「尻沢辺村」 箱館山の東面で、うしろは山、谷地頭寄りである。,以上が往時の箱館の姿で、箱館港内は四時船舶が絶えず、多いときは300余艘にも至り、冬期でも20艘から60 / 箱館の町勢
函館市史 別巻 亀田市編 (館構築の年代)

函館市史 別巻 亀田市編 / 館構築の年代 亀田館の構築年代ははっきりしないが、おそらく『東北太平記』の記録から推して文安元(一四四四,『新羅之記録』の中にあるいわゆる道南十二館の中に、亀田館や戸井館(岡部館)などが見当らないが、おそらく,道南十二館の形成以前に造られたものであり、なんらかの理由により松前藩の正史ともいうべき『新羅之記録』に,前に記した『十三往来』や『諏訪大明神絵詞』の記録からも知られるごとく、十四世紀ころすでに道南地方に居住,戦乱の結果、戦いに敗れた安東氏一族は、かねてより交易を通じ知識を得ていた道南地方の海岸線に移り住み、館を / 館構築の年代
函館市史 銭亀沢編 (明神講)

函館市史 銭亀沢編 / 明神講 本来は嫁の集まりであったが、現在、石崎町・志海苔町では、町内の婦人を対象にした集まりで、ほとんどの,一月十六日か十七日に町会館などでおこなわれる。,神職の祝詞・玉串奉奠があり式が終わると「アトヒキ」がひらかれる。,神社役員や町会役員の男性が招かれる。 / 明神講
函館市史 通説編 第二巻 (創業時と函館)

函館市史 通説編 第二巻 / 創業時と函館 日本郵船函館支店 『実利実益 北海道案内』より  日本郵船の北海道関係航路は前記,10月16日の「函館新聞」には神戸・函館(横浜・荻浜経由)間の定期便の日時が決定したという記事が掲載されている,函館着が日曜、木曜の午前6時、函館出港が火曜、土曜の午前8時と週2往復の便で東京丸などが就航、とあるが,創業直後の函館での反応を「函館新聞」で見てみよう。,郵船は函館・横浜・神戸間といった対本州の基幹航路には1000~2000トン級の大型船を就航させ、道内航路 / 創業時と函館
函館市史 通説編 第二巻 (函館邏卒正式発足)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館邏卒正式発足 出京していた杉浦判官は5月15日神奈川県庁を訪れ、県令陸奥宗光、大江卓参事らと会っている,神奈川県と東京出張所の往復書簡によると、神奈川県側は杉浦判官に邏卒関係書類を渡したと述べている。,帰函した杉浦判官はこの神奈川県の書類をもとに函館邏卒制の整備を進めていたが、護兵隊の維持費用を邏卒と砲兵,の通りに整理)、「函館邏卒規則」「邏卒心得規則」「邏卒自守条目」を添えて「今般函館表彼我人民保護之為メ,邏卒設置承認の通知を受けた函館支庁は、9月23日に函館邏卒編成見込に基づき邏卒全員を大中少邏卒に分けて / 函館邏卒正式発足
函館市史 通説編 第二巻 (函館県時代)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館県時代 15年、函館区役所から三業規則改正伺いが、税制の関係と取り締まりの関係から相前後して提出,函館県は、警視庁が取り調べ中の東京府下の規則改正を参考にしながら、従前の規則を廃止し、新たに二業(貸座敷,)規則・貸座敷娼妓賦金規則」と「芸妓取締規則」を翌16年7月19日、県管内へ布達した(明治16年『函館県布達達全書,新たに制定された規則によると、貸座敷営業指定地域は従来の蓬莱町・台町のほかに天神町と駒止町が追加され、 / 函館県時代
函館市史 通説編 第一巻 (箱館付近の上知)

函館市史 通説編 第一巻 / 箱館付近の上知 箱館が神奈川条約によって国際的な関係を持つと、安政元(1854)年6月26日、松前藩,に命じ箱館ならびにその付近5里の地域を上知し、6月30日には箱館に箱館奉行を置き、勘定吟味役竹内清太郎保徳 / 箱館付近の上知
函館市史 別巻 亀田市編 (箱館への移動)

函館市史 別巻 亀田市編 / も箱館の方に居を移すようになり、次第に役所や寺社も人口の多い箱館へ移動して行った。  ,○元禄三(一六九〇)年 亀田の称名寺箱館に移る。,○宝永三(一七〇六)年 亀田の高龍寺箱館に移る。,○元文六(一七四一)年 亀田奉行所箱館に移る(箱館に移動してからも亀田奉行所又は亀田番所と称した)。,海を隔て南方には南部領佐井、大間等の湊も七、八里の渡りにあり、潮の流れも穏かにして龍飛、白神の如く成激流 / 箱館への移動
函館市史 別巻 亀田市編 (教派神道)

函館市史 別巻 亀田市編 / 教派神道 天理教千代ケ岱分教会    所在地 中道町五〇番地    元函館市堀川町にあったが昭和十年,に現在地に移転 代表者 菅 兵吉 天理教拓進分教会    所在地 本町五三番地の一    函館市杉並町,の地に移転 代表者 葛西ツエ 天理教北治分教会    所在地 富岡町六五番地の二五四    函館市宮前町,代表者 田村イ子 天理教恵園分教会  所在地 桔梗町三三二番地の一六    昭和二十三年十一月函館より,移転開設 代表者 関口 清 天理教北の関分教会    所在地 本町五五番地    昭和十三年八月函館市万代町 / 教派神道
函館市史 通説編 第二巻 (箱館の動揺)

函館市史 通説編 第二巻 / 箱館の動揺 内戦へ突入した京都、大坂の情勢が箱館に伝えられたのは正月も終りに近づいた頃である。,酒井十之丞 毛受鹿之助 安藝藩 辻将曹(維岳) 桜井与四郎(元憲) 久保田秀雄 土佐藩 後藤象二郎 神山左多衛,ところが翌々6日、イギリス商船カンカイ号が入港、神奈川奉行支配組頭宮本小一郎らからの内状が届けられ、鳥羽伏見,で蝦夷地の事情に精通していた一橋家郡奉行の橋本悌蔵を箱館奉行並に任じ、箱館の現況視察と運上金の増徴(慶応,、慶応3年からは江戸からの差下金をも断る程で(「箱館蝦夷地在勤中諸用留」『函館市史』史料編1)、自立経営 / 箱館の動揺
函館市史 通説編 第二巻 (函館の区入費)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館の区入費 函館は北海道で最も早く明治5年に大小区制が導入されたわけであるが、明治5年に関しては、,明治6年には函館で区入費の徴収が開始された。,セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス 一 皇宮地 皇居離宮等ヲ云             一 神地,貸付会所 郵便役所 電信局海 陸軍省用地 懲役場 囚獄 羅卒分営 倉庫地 官有地第3種 官林 公園 神葬地,、明治9年5月第46号函館支庁達より作成 / 函館の区入費
函館市史 通説編 第一巻 (松前神楽)

函館市史 通説編 第一巻 / 松前神楽 2世蠣崎光広の代に創始されたといわれる松前神楽は、亀田の白鳥孫三郎の玄孫が松前に行って神職,となり、永井家を嗣いで神楽三宗家の一になったという因縁もあるが、亀田八幡宮は2月17日、箱館八幡宮は正月,15日、住吉神社は9月17日と定期的に行われた。,また例年正月11には初神楽といって、市在の社家がそろって、役所、町年寄宅、主だった家で神楽をした。,この神楽は神社祭式中の儀式に執り行われていること、これを行う者が神職自身であるという点に特色がある。 / 松前神楽
函館市史 通説編 第二巻 (新刻/函館港全図)

函館市史 通説編 第二巻 / 新刻/函館港全図 画像をクリックすると高精細画像が表示されます。,この街区改正により、寺院や神社が移転し、街区も十字形に整理された。,そのほか、幸町や函館公園そして、電信局の開設にともなう電信線の記入などが新たに見られる。 / 新刻/函館港全図
函館市史 銭亀沢編 (志苔館と渡党)

函館市史 銭亀沢編 / 志苔館と渡党 一般に志苔館を含めて「道南の十二館」という。,しかし、これまでの「道南の十二館」の館の成立に関する研究は、吉岡康暢氏が指摘するように、どちらかといえば,「道南の十二館」の嚆矢たる「志苔館」の第一期(一四世紀末)築造に踏み切ったのではあるまいか。,今一つの金石文類は、函館市石崎町石崎八幡宮の「鰐口」(市立函館博物館保管)である。,この「鰐口」は、永享十一(一四三九)年の紀年銘を持ち、「奉寄進夷嶋脇澤山神御寳前 施主平氏盛阿弥敬白  / 志苔館と渡党
函館市史 銭亀沢編 (安藤康季の渡道と「道南の十二館」)

函館市史 銭亀沢編 / 」とは石崎の「宮の沢」を指すので、「澤山神」なる神社が石崎に存在していたことは間違いない。,鰐口(市立函館博物館提供)  一種の生業神として勧請された「脇澤山」神社が、志苔館主の小林重弘の,末裔の良景-良定の世の戸井館の崩壊後から永享十一年のある時期、志苔館を守護する「館神」としても祀られるようになったと,先住のアイヌと隣接する地内の東端の石崎に所在する渡党の生業神としての「脇澤山神社」を小林氏が「館神」として,人によっては、志苔館と石崎の地理的距離から、「館神」のこと、この「経石庵」を志苔館ないし小林氏に結び付 / 安藤康季の渡道と「道南の十二館」
函館市史 別巻 亀田市編 (川上神社)

函館市史 別巻 亀田市編 / 川上神社 川上神社  石川町二六一番地にあり、祭神は須佐之男命である。  ,安政四年三月箱館奉行村垣淡路守より社殿造営料として金一〇両下渡され、石川に社を建立した。,『巡回日記』によれば、明治五年の石川郷は戸数二九戸、人ロ一一七人の小さな部落であり「有川村神明社氏子に,同村の発展は遅々として進まないため維持経営困難につき、その筋の許可を得て、四十四年七月、比遅里神社に合祀 / 川上神社
函館市史 通説編 第一巻 (函館の亀ヶ岡文化)

函館市史 通説編 第一巻 / 函館の亀ヶ岡文化 三吉神社遺跡の土器(市立函館博物館蔵)  青森県で栄えた亀ヶ岡文化は北海道にも,函館周辺では、あたかも亀ヶ岡人が渡って来たようにも思えるほどよく似た形で伝わっている。,函館で亀ヶ岡式の土器が出土したのは住吉、函館公園付近、榎本、高丘、亀尾の各町である。,住吉町と函館公園付近出土の土器は、江戸時代から明治時代に掘り出されたもので、蝦夷館山から出た壷は高さが,函館の亀ヶ岡文化の代表的なものは亀尾の女名沢遺跡で、伊藤昌吉が資料を収集し、大部分が市立函館博物館に収蔵 / 函館の亀ヶ岡文化
函館市史 通説編 第一巻 (函館考古会の設立気運)

函館市史 通説編 第一巻 / 函館考古会の設立気運 明治初年にミルン、モース、ブラキストンらの外国人が函館におもむいて貝塚や遺跡を,明治42年2月、私立函館図書館(現市立函館図書館の前身)の岡田健蔵館長に対し、馬場脩が函館考古会の設立,旧岩船家別荘(現在の見晴公園)、湯倉神社裏の湯川貝塚、戸井の熊別川などを巡り歩き、遺跡の分布調査を行っている,今日に於ては住吉町の南部墓地の辺は種々の器物に富み、同町の北部なる住吉神社附近は土器片及び錘石多く、此両処,谷地頭より稍々登りたる函館山の半腹字水元にあり。又蝦夷館と称す。」 / 函館考古会の設立気運
函館市史 通説編 第二巻 (箱館奉行の再置)

函館市史 通説編 第二巻 / 箱館奉行の再置 安政元(1854)年6月30日、幕府は箱館奉行を再置した。,このように、箱館奉行の再置それ自体は、箱館開港への対応とそれに伴なう箱館を中心とした5~6里四方の幕領地,に課せられた主要な任務は、(イ)「箱館」(内実は箱館を中心にした5~6里四方の幕領地)の統治(第1条と,7.7.21 万延元.11.20 (没) 安政5.7.8より外国奉行(初置)兼帯 安政6.6.4より神奈川奉行,(兼免) 外国奉行 兼帯,安政6.4.7より勘定奉行兼帯(安政6.11.1 免),安政6.6.4より神奈川奉行兼帯 / 箱館奉行の再置
函館市史 通説編 第二巻 (箱館戦争後の治安担当)

函館市史 通説編 第二巻 / 箱館戦争後の治安担当 箱館戦争が終わったとき、諸藩派遣の新政府軍は次々と自藩へ戻り、箱館には箱館府直属,新兵隊は、箱館府が旧幕箱館奉行から諸務を引き継いだあと、箱館および近在の庶民の子弟を募集して編成した親兵隊,明治2年10月の開拓使の官員進退調査によると、在住隊員は「在住」以外に、神衛隊、壱番隊、弐番隊、カガノカミ,神衛隊は、明治元年8月に高龍寺の海雲師が主唱して編成され、箱館府から名字帯刀が許された銃隊である。,この新兵隊と在住隊が、箱館戦争後の箱館の治安を担当することになったわけである。 / 箱館戦争後の治安担当
函館市史 通説編 第一巻 (箱館山の薬師信仰)

函館市史 通説編 第一巻 / 箱館山の薬師信仰 『蝦夷島奇観』によれば、元和2(1616)年、河野政通の子孫で良道阿闍梨という出家,が、箱館山に金銅の薬師仏をまつり、河野家の長久を祈ったとあるが、その跡はいまのところ不明である。,また『蝦夷実地検考録』には、山に医王山明神があるとし、明暦元(1655)年草創、元文4(1739)年再建 / 箱館山の薬師信仰
函館市史 通説編 第二巻 ([1 箱館開港への途])

函館市史 通説編 第二巻 / [1 箱館開港への途] 安政元(1854)年3月3日、神奈川(横浜)でペリーと幕府との間で日米和親条約,が調印され、これにより日本は、伊豆の下田港と松前地の箱館港の両港においてアメリカ船に対し薪水・食料・石炭等,開港の時期は、下田港が調印日、箱館港が翌年3月とされた。,前年ペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府に開国を求めて以来8か月、安政元年1月ペリーが再び浦賀に来航し、神奈川,詳細におさえなければならないが、この点は他の研究書を参考にしていただくことにして、ここでは、主として箱館が / [1 箱館開港への途]
函館市史 通説編 第二巻 (箱館府の廃止時期)

函館市史 通説編 第二巻 / 辻維岳 5.1.19 滋賀県となる 横 浜 1.3.19 東久世通禧(兵庫から) 1.6.17 神奈川,東久世通禧 1.9.21 神奈川 寺島宗則 改称 神奈川  1.4.20,つまり箱館では、7月17日の布告をもって箱館府は廃止され、箱館県となったと理解し、開拓使長官一行が箱館,にやってくるまで箱館では箱館府は「箱館県」として機能し、多数の箱館県名の文書を残すこととなったのである,閏4.24 箱館府と改称 5.1 箱館裁判所設置 箱館裁判所 7.17 箱館府と改称 / 箱館府の廃止時期
函館市史 通説編 第一巻 (箱館近海の出没)

函館市史 通説編 第一巻 / 箱館近海の出没 その他、箱館近海から噴火湾だけにみても、天保3年7月21日、椴法華沖に現われたのをはじめとし,津軽海峡の西に現われ、龍飛岬砲台がこれを撃退、船がそれを避けて福山に近づくと、福山の諸砲台ならびに白神砲台,の日記によると、異国船通航の報は同年8回、翌2年には14回とその頻度を加え、この年8月28日には、箱館山背泊 / 箱館近海の出没
函館市史 通説編 第二巻 (函館県警察の発足)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館県警察の発足 明治15年2月8日に開拓使が廃止されて函館県、札幌県、根室県の3県体制となると、開拓使函館支庁,函館県庁開庁5日前の3月11日、函館県甲第3号布達(明治15年『函館県布達々全書』)をもって函館県管内,警部補 神田勝弥 開拓使の時は単に函館分署 函館警察署上磯分署 上磯郡上磯村 警部補代理 鎌田寧周,3号布達『函館県布達々全書』、明治15年『函館県職員禄』より作成  函館警察著は明治17年12月1日,函館区恵比須町 函館警察署移転に伴い17.12.1廃止   函館警察署泉沢分署 上磯郡泉沢村 / 函館県警察の発足
函館市史 別巻 亀田市編 (函館区制と亀田小学校)

函館市史 別巻 亀田市編 / として函館、札幌及び小樽の地区が指定された。  ,『函館区史』『函館市誌』によると、面積四六万四、九一六坪、戸数三四四、人口二、二二七と記述しているので,、亀田村の大部分を函館区に編入合併したわけである。,と称し、昭和六年町名を改めるまで、亀田郡亀田村と函館区亀田村が共存していた。  ,亀田村は明治三十五年二級町村制施行に当り、亀田村外五か村(鍛冶村 神山村 赤川村 桔梗村 石川村)戸長役場 / 函館区制と亀田小学校
函館市史 通説編 第二巻 (神社と寺院の反目)

函館市史 通説編 第二巻 / 神社と寺院の反目 実はそうではない。,函館市中の既存寺院と神官との対立は確認されないけれども、次にみる開拓を目的に函館市中への進出を企てた天台宗,ところが、この天台宗の開拓という名の函館布教に対して、受け容れ側の函館において、神官菊池が次のような警戒心,函館において神仏分離をめぐる寺社間の対立は、以上のように天台宗の教線拡張という開教を契機に発生したものであり,その意味でいえば、函館の神仏分離をめぐる寺社間のトラブルは比較的少なく、「妥協・融合」の色彩が濃厚であるといえよう / 神社と寺院の反目
函館市史 通説編 第二巻 (函館要塞の設置)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館要塞の設置 そして最後に設置されたのが函館要塞(函館砲台)である。,まず明治30年3月、陸軍築城部の函館要塞築城事務所が開設され、大倉組の手によって函館の市街と津軽海峡を,見下ろす標高300余メートルの函館山での要塞工事が開始された。,函館山要塞の終焉』Ⅱ)。  ,  函館区 一円 亀田郡 銭亀沢村、上湯川村、志苔村、下湯川村、根崎村、鍛冶村、神山村 / 函館要塞の設置
函館市史 通説編 第一巻 (諏訪大明神絵詞)

函館市史 通説編 第一巻 / 諏訪大明神絵詞 当時、この地に渡り住んだものは、渡党(わたりとう)の名で呼ばれていたものらしく、すなわち,この『諏訪大明神絵詞』の宇曽利鶴子がウソリケシで函館の古名であり、万堂宇満伊犬はマトウマイヌで松前の古称,この宇曽利鶴子をウソリケシと読み、函館であるとすることに疑義をもち、応仁2(1468)年2月、安東師季,函館はむかしはウスケシ(宇須岸)といい(『新羅之記録』)、ウスリケシが訛(なま)って使われたものである,しかも『諏訪大明神絵詞』は蝦夷が千島の物語であり、それに出てくるウソリケシ、マトウマイヌの地名は函館・ / 諏訪大明神絵詞
函館市史 通説編 第二巻 (日銀函館出張店の開業)

函館市史 通説編 第二巻 / 日銀函館出張店の開業 日本銀行函館出張所 『実利実益 北海道案内』より    日銀,道ヲ便ニシ且金融ノ疎通ヲ謀リ金利ノ平衡ヲ得セシムル」(『日本銀行沿革史』第1輯第1巻)ため、長崎・函館・,新潟・神戸・横浜・赤間関(下関)・名古屋・仙台の8か所に漸次支店を設けることを大蔵大臣に請願し(6月16,際、支店設置の場所等を速やかに調査のうえ再度願い出るよう指示されたが、明治24年4月1日には札幌・函館・,三井銀行本道各支店との代理契約を解き、国庫金の保管出納、諸公債に関する事務取扱並に為替業務を営むため、札幌、函館、 / 日銀函館出張店の開業
函館市史 銭亀沢編 (八幡神社(志海苔町))

函館市史 銭亀沢編 / 八幡神社(志海苔町) 天正年中(一五七三から一五九一)の勧進と伝えられ、銭亀地区でも古い沿革を持つ神社,志苔館主小林氏の当社創建にかかる伝承は、勧進の時期とは一致しないが、永正九(一五一二)年の永正の乱以前,文献では、嘉永三(一八五〇)年の「蝦夷日誌」に志海苔の産神社とあるのが八幡神社の初見で、「蝦夷実地検考録,」(『函館市史』史料編第一巻)によると、安永五(一七七六)年に再建されたという。,八幡神社(志海苔町) / 八幡神社(志海苔町)
函館市史 通説編 第二巻 (江差の神仏分離)

函館市史 通説編 第二巻 / 江差の神仏分離 しかし江差姥神社の神官である藤枝氏が伝える明治3年の日記によると、寺院において混淆が,許容された神々は、護法龍天神・不動尊・七面大明神・勝軍地蔵尊・聖天だけであり、その他の例えば、法華宗三十番神,とか本地垂迹を語る神々を鎮座させてはならないと厳禁していたところをみれば、どうやら箱館戦争の混乱が収まった,このように江差においては、神官による忠実な神仏分離が行なわれた結果であろうか、神官と僧侶によるある極度,以上、松前および江差を実例にして、神仏分離の実相を史料に即しながらみてきたが、それによれば、第一に箱館戦争 / 江差の神仏分離
函館市史 通説編 第二巻 (函館開港とキリスト教)

函館市史 通説編 第二巻 / 函館開港とキリスト教 函館においてキリスト教が庶民レベルで受容されて定着するまでの道は、決して平坦ではなかった,否、北海道ないしは函館は、開港場であるのに加えて、対ロシアの対外政策の中で「北門の鎖鑰(やく)」の任を,安政5(1858)年の日露修好通商条約とその翌年のロシア領事館設置に、近代函館キリスト教史が始まることは,既述したように、明治初年の函館宗教界は、神道にしてもまた仏教にしても、ともに対キリスト教に対して異常なまでの,邪教観を抱いてそれを排除せんとしていたし、明治5年の教部省-大教院による神仏習合的な国民教化においてはそれが / 函館開港とキリスト教
函館市史 通説編 第一巻 (箱館医学所(兼病院))

函館市史 通説編 第一巻 / 栗本匏庵 明治4年新築の函館病院(北大図書館蔵)  この医学所というのは、江戸の医学館,するものもあったので、この時も柏倉忠粛の案で、講堂の床の間中央に、大乙貴(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)らの薬神に,祷の字(竹内下野守筆)を添えた軸をかけ、右に神農像(匏庵の祖父瑞仙院法印筆)、左に古代ギリシヤの医師ヒポクラテス,文久2年には医籍を改めて士籍に列せられ、箱館奉行組頭に任じられた。,慶応3年江戸で外国奉行のまま箱館奉行も兼ね、フランスに派遣されている。 / 箱館医学所(兼病院)
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使の神仏分離観の転換)

函館市史 通説編 第二巻 / ちなみに、明治12年の「開拓使函館支庁管内神社明細帳」(道文蔵)によって、その当時における函館の神社の,4,275戸 函館護国神社 青柳町   明治2年5月の箱館戦争の後、大森浜で官軍方戦没者の慰霊祭を行,20戸 東照宮 亀若町 村社 幕命により神山村に奉祭。明治2年の箱館戦争で宮殿全焼。,函館山神社 函館山 無格社 明暦元(1655)年。,函館市中 大森稲荷神社 大森町 無格社 勧請年不詳。明治7年再営。 / 開拓使の神仏分離観の転換
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使の神仏分離観)

函館市史 通説編 第二巻 / 開拓使の神仏分離観 こうした地方における順調な神仏分離を受けるかのように、開拓使は明治5年10月に次,ノ如キ、全ク皇朝ノ神祇ニアラズ(中略)御国民竺土ノ神ニ祈祷イタシ候テハ敬神ニ途ニ出ルニテ、別テ北海道ハ,開拓使のこうした強固な神仏分離の表明は、当然のごとく神官による現実の神仏分離作業にも反映していった。,明治5年の開拓使による神社改正に伴う社寺取調の任に当ったのは函館八幡宮祠官菊池重賢であったが、彼の取り,例えば、小樽高島村の稲荷社を調査しては、「神璽二勧請、外ニ仏体一有之、此分取除ク」、また函館豊川町の豊川稲荷社 / 開拓使の神仏分離観
函館市史 銭亀沢編 (明治五年の神社調査)

函館市史 銭亀沢編 /        開拓使         御中                 (明治四年「社寺届」北海道立文書館蔵,…慶応元年箱館ニ於テ修覆ス  御束帯白馬ニ召、  弓箭ヲ持、御衣草  色唐草大模様  5間半,(可廃) 「壬申八月・十月巡回御用神社取調」『函館市史』史料編第2巻より,この取り調べは、開拓使から派遣された函館八幡宮祀官菊池重賢がおこなった「壬申八月・十月巡回御用神社取調,」(『函館市史』史料編第二巻)がそれである。 / 明治五年の神社調査
函館市史 通説編 第二巻 (脱走軍支配下の箱館)

函館市史 通説編 第二巻 / 脱走軍支配下の箱館 箱館に入った脱走軍がまず行ったことは町会所を通して触書を出したことであったように,、箱館奉行所から箱館府へ引継がれていた諸務はすべてそのまま継承した。,さらに八幡宮や神明宮などの縁日祭礼の物売りや見世物からは運上(代金の1割5分)、公認され毎夜夜半まで博奕,」『函館市史』史料2)。,箱館市民は、脱走軍の箱館占拠当初は早急な新政府軍の反攻を予測、店屋敷が戦火に包まれることを恐れ、貴重品 / 脱走軍支配下の箱館
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