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戸井町史
(五、高田屋嘉兵衛と汐首岬)
五、
高
田
屋
嘉
兵
衛
と汐首岬 寛政年間、豪商
高
田
屋
嘉
兵
衛
が汐首岬の
高
台に建てられている汐首神社に、御影石,
高
田
屋
嘉
兵
衛
の肖像
高
田
屋
嘉
兵
衛
は、寛政年間にエトロフ、根室、幌泉の航路を開き、漁業や貿易のために,箱館の豪商の手に渡り、
高
田
屋
の請負場所、幌泉は福島
屋
清
兵
衛
、根室場所は柏
屋
喜
兵
衛
、エトロフ場所は関東
屋
喜
兵
衛
外二名,箱館、下海岸の海運並びに漁業発展上、直接間接に大きな影響を与えた
高
田
屋
嘉
兵
衛
、
金
兵
衛
二代の功績は、汐首神社,(七飯町大中山の富原喜久夫宅に、
高
田
屋
金
兵
衛
が椴法華で鱈漁をした時の古文書や往復した手紙が保存されている / 五、
高
田
屋
嘉
兵
衛
と汐首岬
恵山町史
(6、郷土と高田屋嘉兵衛)
・
高
田
屋
金
兵
衛
、嘉
兵
衛
の代理で、大野村、森村の道路及び松前街道を改修する。,
高
田
屋
金
兵
衛
、松前藩御用達を命ぜられ、苗字帯刀を許される。,『
高
田
屋
金
兵
衛
』(1775~1846年)
高
田
屋
嘉
兵
衛
の4弟、淡路の都志で生まれる。,(字恵山・御崎)日浦が、
高
田
屋
金
兵
衛
と取交わした新鱈売買の契約書である。,武
兵
衛
印 同 和賀
屋
宇右ヱ門 印
高
田
屋
金
兵
衛
殿 / 6、郷土と
高
田
屋
嘉
兵
衛
恵山町史
(定雇船頭高田屋嘉兵衛)
定雇船頭
高
田
屋
嘉
兵
衛
これらの官船は、水主同心格長川沖右
衛
門・水主同心露木元右
衛
門と定雇船頭
高
田
屋
嘉
兵
衛
,さらに官船15艘を江戸・箱館運航用とし、定雇船頭の
高
田
屋
嘉
兵
衛
に引き受けさせた。,
高
田
屋
の多くの持船が活躍したのはもちろんのことである。 ,択捉島(
金
三五両) 色丹島(
金
三一両) 根室・国後島(
金
二五両) 十勝(
金
一八両) 山越内(
金
一〇,両) 浦河より幌泉迄(
金
一四両) 沙流より三石迄(
金
一三両) 虻
田
より室蘭迄(
金
一〇両) 箱館 / 定雇船頭
高
田
屋
嘉
兵
衛
南茅部町史 上巻
(徳田屋和兵衛と小板屋久兵衛)
徳
田
屋
和
兵
衛
と小板
屋
久
兵
衛
能登国珠洲郡飯
田
村の人和
兵
衛
(天明五年生・一七八五)は、二〇歳のころ箱館,のち箱館の
高
田
屋
の番頭となった。,久
兵
衛
は川汲に帰り、酒井
屋
竹三郎や加我
屋
金
左
衛
門らと話し合い、漁業者は自覚して佳い昆布を作ることが肝要,
高
田
屋
嘉
兵
衛
持船観幸丸の水夫となる。,ヲ以テ函館ヘ渡海シ、其節當地有名ノ豪商
高
田
屋
嘉
兵
衛
氏ノ持船観幸丸及〓一丸両船ノ水夫トナリ 函館港ヨリ全國 / 徳
田
屋
和
兵
衛
と小板
屋
久
兵
衛
函館市史 通説編 第一巻
(高田屋の家訓)
高
田
屋
の家訓 箱館経済を不振に陥れた原因の一つに
高
田
屋
の没落がある。 ,前述のごとく
高
田
屋
嘉
兵
衛
は、幕府の信頼と手厚い庇護により、急速に成長して巨富を得るとともに、商業と海運,その後、嘉
兵
衛
は弟
金
兵
衛
を養子とし、家業一切を譲って淡路に隠居したが、
金
兵
衛
もまた他の兄弟らと力を合わせ,一、上方は申すに及ばず、箱館共残らず
高
田
屋
の身代に相違これ無く、後日に名前人の
金
兵
衛
のものと申さざる積,
高
田
屋
金
兵
衛
印 前書之趣箱館において承知仕り候に付、証奥印仕り候 以上 則日 /
高
田
屋
の家訓
函館市史 通説編 第一巻
(金兵衛の追放処分)
金
兵
衛
の追放処分 こうして天保3年8月、この事件は評定所一座の審問の結果、海上で外国船に会い、酒などを,召使ったことなどの罪科により、翌天保4年2月23日、
金
兵
衛
はその所有船12隻ならびに小旗を没収され、江戸,10里四方追放、生国淡路郡志本村領主松平阿波守領分のほかに他出すべからざること、
金
兵
衛
養子嘉市は船稼ぎ,差留め、所払いならびに
兵
庫・大坂の支店地に立入るべからざることを申し渡され、更に
金
兵
衛
所有家
屋
、倉庫、,これがため、さしも全盛を極めた
高
田
屋
もついに没落するに至り、箱館市中なども一時は全く火の消えたようになってしまったと /
金
兵
衛
の追放処分
恵山町史
(3、泉藤兵衛の供養塔)
3、泉藤
兵
衛
の供養塔 賽の河原の中央部に、正面に「南無阿弥陀仏」裏面に「明治十一年寅四月 泉藤
兵
衛
」,1875)から同13年(1880)にかけて、恵山硫黄鉱山で当時としては相当の資本を投入して操業、生産
高
も,船問
屋
・材木商の事業を広げるが、倒産し蝦夷地福山(松前)に渡り磯谷歌棄の場所請負人竹
屋
定右
衛
門に雇われる,その間に菓子商を営み資
金
を蓄え、佐野孫右
衛
門より虻
田
礼文華の漁場を譲り受け漁業に従事する。,泉藤
兵
衛
は事業を広げるとともに農業を重視、明治13年(1880)亀
田
郡大野村に
田
畑100町歩、故郷大畑 / 3、泉藤
兵
衛
の供養塔
南茅部町史 上巻
(田代角左衛門)
二六歳で、吉里吉里村の廻船問
屋
前川善
兵
衛
の女エイを娶った。,奥州の廻船問
屋
が信仰する石巻の住吉大明神の参詣の折、
金
華山の黄
金
神社に詣でた角左
衛
門は、牡鹿半島から十五浜,角左
衛
門が見出した大謀役は、大原の平
兵
衛
という漁師だった。 ,家業をよそに他国の海の建網漁につぎこんだ
田
代家の財力はおびただしいもので、遂には妻の里方や大槌通りの大名主里飯忠
兵
衛
,文政一〇年(一八二七)、角左
衛
門は鮪建網の益
金
を藩に献上した。 /
田
代角左
衛
門
戸井町史
(二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛)
二、二代戸長 松代(まつしろ)孫
兵
衛
松代孫
兵
衛
明治十八年(一八八五)に退任した初代戸長飯
田
東一郎,この頃小安村字釜谷の〓吉
田
大吉も同じ寺子
屋
で机を並べて学んだのである。,孫
兵
衛
は初代飯
田
戸長の後を継いで村治に精励し、学者戸長として名声が
高
かった。,松代家の祖先は長野県松代の出身といわれ、故あって下北の佐井に移住し、石崎松代家の祖
金
沢
屋
孫
兵
衛
は石崎に,二代孫
兵
衛
、二代伊
兵
衛
は共に船大工続豊次と親交があり、豊次が
高
田
屋
の没落に遇って船大工をやめ、仏壇師になっていた / 二、二代戸長 松代(まつしろ)孫
兵
衛
函館市史 通説編 第一巻
(冥加金引下げ願)
冥加
金
引下げ願 このような実情から箱館の問
屋
の取扱荷物は著しく減少した。,一体最初右御冥加
金
百両は御産物願上の
金
高
を以て割合仕り候処、願受の御産物払方格別の損
金
出来迷惑仕り候もの,以上 酉閏十一月 長崎
屋
半
兵
衛
,秋
田
屋
甚作 和賀
屋
宇右
衛
門 亀
屋
武
兵
衛
, 角
屋
吉右
衛
門 浜
田
屋
兵
右
衛
門 / 冥加
金
引下げ願
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の場所請負人)
虻
田
金
三〇九両八七五文 福山 和
田
屋
茂
兵
衛
有珠
金
二一六両三分二朱 箱館 ,阿部
屋
仁
兵
衛
沙流
金
三三〇両 福山 東
屋
甚右
衛
門 新冠
金
一八五両 箱館 浜
田
屋
亀吉,〇〇文 箱館 坂本
屋
勘右
衛
門
金
八七両二分 松前 和
田
屋
茂
兵
衛
金
六五両二分 箱館 ,落札者は松前の商人が多かったために、幕府は箱館の衰微することをおそれ、従来の関係から択捉は入札なしに
高
田
屋
,であったが、後に根室場所を特に
高
田
屋
に請負わせた。
函館市史 通説編 第一巻
(松前藩の動き)
さきに天保元年、松前藩が
高
田
屋
に1万両の御用
金
調達を命じ、
高
田
屋
がこれを上納すると、翌年正月更に1万両,は、御用
金
調達の際に
金
兵
衛
が奔走したにもかかわらず、老中水野忠成に対し、内々に、「
金
兵
衛
身分悪事なるべき,事を飾り立て、或は松前侯御用
金
の内、松前、江戸問
屋
共に示談に及び候事をも、
金
兵
衛
運上を取り立て候などと,、種々悪名ヶ条を以って申し立て」(『松前秘説』)て、そのことを逆にとり上げ、
高
田
屋
が問
屋
から運上
金
を取,を始めとし、同8年に村山伝
兵
衛
、そして
高
田
屋
金
兵
衛
に至る常套手段であったのである。
函館市史 通説編 第一巻
(場所請負人の交替)
山越内 一三〇両 箱館 藤代
屋
藤吉 虻
田
一〇〇両 松前 和賀
屋
七左
衛
門, 一一〇両 同上 新冠 一一〇両 箱館 浜
田
屋
佐次
兵
衛
静内 五三六両一分永一九, 松前 萬
屋
宇右
衛
門 様似 三〇四両 松前 萬
屋
嘉左
衛
門 幌泉 八〇八両 箱館
高
田
屋
金
兵
衛
, 松前 畑
屋
七左
衛
門 根室 三、六〇〇両 箱館
高
田
屋
金
兵
衛
国後 一、三五〇両 ,松前 柏
屋
喜
兵
衛
択捉 二、〇〇〇両 箱館
高
田
屋
嘉
兵
衛
(『東蝦夷地請負調』『箱館問
屋
儀定帳
南茅部町史 上巻
(知行主)
木村 又八 コブイ 蛎崎内蔵丞 尾札部 新井
田
兵
内 新井
田
金
右
衛
門 ,新井
田
金
右
衛
門 新井
田
孫三郎 ウスジリ 領主 茅部 北見与五左
衛
門 北見常五郎 , 戸 井 四十両 松前 作右
衛
門代 箱館 浜
田
屋
兵
右
衛
門 北村武左
衛
門 ,両 箱館 白鳥
屋
新十郎 浜
田
屋
兵
右
衛
門 茅 部 四十両 箱館 角
屋
太郎右
衛
門, 箱館 角
屋
吉右
衛
門 角
屋
吉右
衛
門 モナシベ 野
田
追 七十両 箱館 江口
屋
兵
右
衛
門
函館市史 通説編 第一巻
(市中商人の成長)
もちろんはっきり知ることはできないが、享和3(1803)年、臼尻の新鱈売買の請負を行った商人の名前をみると、浜
田
屋
兵
右
衛
門,、長崎
屋
半
兵
衛
、和賀
屋
宇右
衛
門、
高
田
屋
金
兵
衛
、秋
田
屋
甚作、亀
屋
武
兵
衛
、辰巳
屋
七郎
兵
衛
、井筒
屋
喜
兵
衛
、浜
屋
次
兵
衛
,弁天町惣代倉部
屋
太
兵
衛
、
高
橋
屋
伝之助。仲町・神明町・大工町惣代伊藤
屋
弥吉、越前
屋
藤二郎。,山上町惣代桝
屋
定吉、盛
屋
武八、
高
田
屋
与惣
兵
衛
。,、長崎
屋
半
兵
衛
、
高
田
屋
金
兵
衛
、亀
屋
武
兵
衛
、井筒
屋
喜
兵
衛
、吉崎
屋
五右
衛
門、浜
田
屋
兵
右
衛
門、和賀
屋
宇右
衛
門
函館市史 通説編 第一巻
(俵物指定問屋)
すなわち、俵物一手請方問
屋
のうち住吉
屋
新右
衛
門が、長崎から松前に乗り込み、松前藩と直接交渉の結果、昆布,に400両、煎海鼠・白干鮑に4000両の運上
金
を納めて一手買請を許されたのである。,から俵物を買入れさせ、その指定問
屋
は、松前は河内
屋
増右
衛
門、箱館は長崎
屋
半
兵
衛
、江差は熊石
屋
吉三郎の3,年々持渡るべき由、右代り物は銅並びに俵物にて御渡方相成り候処、唐人共銅より俵物を相好み候趣、右に付是迄請
高
の,申聞かされ、岩原御勘定信
田
新助殿、篠本六左
衛
門殿よりも毎々御沙汰にて、猶御手頭を以て仰渡され候に付、新浦相開 / 俵物指定問
屋
南茅部町史 上巻
(文化文政の新鱈約定)
文化一四年(一八一七)、尻岸内の村三役から、
高
田
屋
嘉
兵
衛
の箱館総支配であった実弟の
高
田
屋
金
兵
衛
にあてた,年、
高
田
屋
に納めることを約定している。 ,(市立函館博物館
高
田
屋
嘉
兵
衛
展出陳目録より) 新鱈儀定證文之事 一當村新鱈□積去亥年,宇右ヱ門 印
高
田
屋
金
兵
衛
殿 新鱈儀定證文 臼尻村新鱈讓證文之事 臼尻村新鱈壱番弐番船共,宿和賀
屋
宇右
衛
門 ㊞
高
田
屋
金
兵
衛
殿
函館市史 通説編 第一巻
(箱館経済の不振)
山越内 藤代
屋
東吉 有珠 和賀
屋
宇
兵
衛
絵柄 井口
兵
右庵門・阿部
屋
甚右
衛
門 幌別,新冠 浜
田
屋
佐次
兵
衛
三石 栖原
屋
虎五郎・熊野
屋
忠右
衛
門 幌泉
高
田
屋
金
兵
衛
十勝 大坂
屋
卯助 根室,
高
田
屋
金
兵
衛
択捉
高
田
屋
金
兵
衛
東蝦夷地20場所の内箱館商人の請負場所は、その半数,しかも天保4(1833)年
高
田
屋
の没落後は、根室、択捉の大場所は福山の藤野喜
兵
衛
の請負となり、天保年間
函館市史 通説編 第一巻
(請負人と場所との関係)
野口
屋
又蔵 新冠 浜
田
屋
佐次
兵
衛
浜
田
屋
兵
右
衛
門 浜
田
屋
佐次
兵
衛
浜
田
屋
兵
四郎 浜
田
屋
佐次
兵
衛
浜
田
屋
兵
四郎,幌泉
高
田
屋
金
兵
衛
亀
屋
武
兵
衛
福島
屋
嘉七 浜
田
屋
兵
四郎亀
屋
武
兵
衛
福島
屋
嘉七 浜
田
屋
兵
四郎,
高
田
屋
金
兵
衛
亀
屋
武
兵
衛
藤野喜
兵
衛
和賀
屋
宇右
衛
門 藤野喜
兵
衛
択捉
高
田
屋
金
兵
衛
和賀
屋
宇右
衛
門,、浜
田
屋
兵
右
衛
門の3人で、天保年間の前期では浜
田
屋
兵
四郎、和賀
屋
宇右
衛
門、亀
屋
武
兵
衛
、秋
田
屋
喜左
衛
門の, 元治元年自1月至7月中問
屋
扱沖ノ口口銭
高
問
屋
名 入御口銭 出御口銭 計 長崎
屋
半
兵
衛
函館市史 通説編 第一巻
(運漕業を営む)
運漕業を営む
高
田
屋
嘉
兵
衛
は、明和6(1769)年淡路国津名郡都志本村百姓弥吉の長男として生まれた。,寛政2(1790)年摂津国
兵
庫港に出て船稼ぎをしていたが、同4年24歳の時船頭となり、居を
兵
庫西出町に,構え、弟嘉蔵および
金
兵
衛
、嘉四郎とともに住み、主として長崎、下関などの回漕に当った。,こうして同7年和泉
屋
伊
兵
衛
の手船の船頭となって奥州酒
田
に航海し、手船新造を計画して帰り、西出町に「諸国物産運漕
高
田
屋
嘉
兵
衛
,
高
田
屋
嘉
兵
衛
高
田
屋
手船辰悦丸
函館市史 別巻 亀田市編
(桔梗小学校の誕生)
函館市史 別巻 亀
田
市編 / 、松本
兵
七、
田
中半
兵
衛
外三人及び石川村総代
高
松次郎左
衛
門、徳
田
忠之、西谷津右
衛
門外三人を桔梗村外三か村戸長役場,同年九月二十六日、石川村総代
高
松次郎左
衛
門、輪嶋又七を亀
田
郡役所に呼び出し、過日の受書について、その実行,び村内有志
田
中半
兵
衛
、杉本甚右
衛
門、中沢伝助らがその具体策について協議した。 ,(二) 学校の位置 桔梗村三番地 下斗米音八家
屋
借用 (三) 経費概額 一か月
金
一二円七〇,、学務委員二名学校世話係三名を選挙させることになり、学務委員には
田
中半
兵
衛
、松本
兵
七、学校世話係には杉本甚右
衛
門
南茅部町史 上巻
(水産博覧会)
〃尾札部村 今津 甚蔵 元揃昆布 〃 〃 杉谷
金
兵
衛
,瀬川善
兵
衛
太釜 甚八 鯡袋網 〃 発寒屯
田
兵
小
屋
敷新吾 外二名 魚網三反 ,佐藤 辨蔵 中居喜代吉 搾粕 身欠緋 〃
高
橋徳
兵
衛
鰮搾粕 緋搾粕 〃, 計 一、一〇八 追賞 二四人
金
五〇円 四人内二人 函館
高
田
篤太郎祖先,故
高
田
屋
嘉
兵
衛
寛政年間北海漁業事蹟 〃 村山伝
兵
衛
九代祖 故村山伝
兵
衛
明和寛政年間北海漁業事蹟
戸井町史
([戸井町の屋号調])
金
に恵まれるようにとか、
金
持になるようにということを願う気持から〓、〓、〆、〓、入などのついた
屋
号も多,その次に「大坂北久保寺町二丁目、松波弥
兵
衛
船、船長松根吉造」などと、船主の本籍地と船主、船長の氏名を並,、摂津(
兵
庫)、大阪から来たことがわかる。 ,
高
田
屋
嘉
兵
衛
の船の、〓の帆印は有名であったし、「松原ごしに○に十の字の帆が見えた」と歌われている民謡は,
金
沢姓を名乗っているが、〓、〓、〓などの
屋
号も、〓宇美家の別れである。 / [戸井町の
屋
号調]
函館市史 通説編 第一巻
(箱館に本店を置く)
箱館に本店を置く
高
田
屋
金
兵
衛
苗字帯刀御免の書 しかも文化9年幕府が直捌制度を廃止し、再び,場所請負制度をとると、やがて
高
田
屋
は択捉場所の外、根室、幌泉場所を請負い、いよいよ手広く場所経営に乗出,その後、箱館大町の支店を本店に改め、倉
屋
敷を内澗町ならびに宝町および蓬莱町に設け、別に長
屋
数棟を恵比寿町,に建てて番頭以下雇人の者を居住させ、かつ支店を大坂、
兵
庫に置いて巨富を得たばかりか、ことにこの間、第8,なお、嘉
兵
衛
が御用御免を願い出て、事業一切を弟
金
兵
衛
ら兄弟に譲り、郷里都志本村に隠居したのは文政元(1818
南茅部町史 下巻
(郷土神社棟札編年一覧)
小頭 神主藤山和泉正季房 中村
屋
佐五
兵
衛
文化六年八月四日 正一位尾札部村稲荷大明神,八月神真日 木直 鳥居一宇 国家安全魚漁円満 神主藤山主税(主膳)荘房 世話人 中村
屋
佐五
兵
衛
, 浪岡惣右
衛
門 本社寄付
高
田
(
屋
)
金
兵
衛
小頭 久右
衛
門 ,七月二三日 川汲稲荷大明神 □□付拝殿鳥居五宇再建 神主藤山大膳藤原荘房 小頭 加賀
屋
金
左
衛
門,拝殿一宇再建 神主藤山長門頭藤原延清 小頭重
兵
衛
出勤社家 年寄久
兵
衛
種
田
土佐正
函館市史 通説編 第二巻
(煉瓦石・屋根瓦製造所)
煉瓦石・
屋
根瓦製造所 明治5年茂辺地村近傍で煉瓦や瓦に適した粘土を採取し、戸切地村の砂と合わせて試みに,明治8年度の製造
高
は38万本余、そのうち19万本が官用と民用の需要に当てられた。,これに対して同所の設計者のコンドルは粗悪品であると指摘したが、黒
田
長官の指令により使用された。,の森
兵
五郎に貸与した。,(現郷土資料館)、魁文社、平
田
文右
衛
門店舗などがあげられる(遠藤明久「開拓使茂辺地煉瓦石製造所」『日本建築学会論文報告集 / 煉瓦石・
屋
根瓦製造所
函館市史 通説編 第一巻
(密約の発覚)
小旗を示して通過するという旗合せのことから密貿易の嫌疑となり、引続き福山で糾明を受け、更に同年11月
金
兵
衛
,そもそもこの旗合せというのは、これより19年前の文化9(1812)年、
高
田
屋
嘉
兵
衛
がロシア人に捕えられ,ゴロウニンの釈放を約し、その斡旋に努力したことによって、ロシア人は大いにこれを感謝し、これに報いるため以後
高
田
屋
,の船舶には、いかなることがあっても劫掠(ごうりゃく)などせず、もしも海上で遭遇した場合には、
高
田
屋
の店印,そこで嘉
兵
衛
は、このことをひそかに所有船ならびに雇船の各船頭に申し含め、幅2尺長さ3尺ばかりの小旗を交付
南茅部町史 上巻
([明治初期の昆布場])
一一 一〇〇 一 二 六 二四
高
田
五郎
兵
エ 一二 一〇〇 一 二 六 ビル, 三一 一九八 一 二 三 垣ノ島 五五 一三〇 一 二 三 三〇 山
田
四郎
兵
衛
, 二 四 三 一六 福嶋与七 一四 一〇六・二 一 二 一・五 一七 加我
金
兵
衛
,浜町裏 二九 八二・五 納
屋
五 持符一 八 五・二 四六 相馬
金
作 川汲浜 三〇 六,舟舎一五 二 四 三・二 八八 杉谷吉蔵 六六 七八 二 四 三・二 八九 杉谷
金
兵
恵山町史
(2、恵山町指定文化財)
恵山 1935年
田
辺三重松画伯描く 原
田
温泉宿帳より 道南
金
剛(名勝) 所在地/,
高
田
屋
嘉
兵
衛
記念碑(史跡) 所在地/柏野 所有者/国 火口原の中央に建立の十一面観音像,昭和12年修復時の碑文によれば『
高
田
屋
嘉
兵
衛
、択捉・幌泉ヘノ途次恵山水無ニ於イテ遭難難破シ箱館ニ帰リ文化六年,(一八〇九)一月、碑ヲ建立シ海上ノ安全ヲ祈願セリ』とあり、数少ない
高
田
屋
嘉
兵
衛
ゆかりの建造物である。,
高
田
屋
嘉
兵
衛
記念碑 賽の河原(名勝) 所在地/柏野 所有者/国 指 定
南茅部町史 下巻
(畑反別書上小前連印帳)
前同断 五番 同 小名小
田
濱三十三番
屋
敷 同 壹反三畝拾弐分
金
澤 藤七印,前同断 十一番 同 同 三番
屋
敷 同 三畝廿二分
高
田
彦右
衛
門印 , 同 同 拾五番
屋
敷 同 八畝廿八分 西
田
半
兵
衛
印 明治二己巳年新開, 杉谷 吉蔵 字桃ノ澤二十三番地 同四十九番地 一 同五反壹畝七分 杉谷
金
兵
衛
, 吉川善三郎印 同 杉谷
金
兵
衛
印
恵山町史
(箱館港の盛衰)
箱館港の盛衰
高
田
屋
嘉
兵
衛
の事業と共に発展した箱館も、嘉
兵
衛
没後の天保4年(1833)2代目
金
兵
衛
が,しかし、嘉永7−安政元年(1854)、日米和親条約が締結調印され箱館・下
田
開港にペリーの率いるアメリカ
南茅部町史 下巻
(〔郷土の神社の沿革〕)
延宝七己未年(一六七九) 尾札部稲荷大明神創建 飯
田
屋
与五左
衛
門,延宝年間(一六七三~八〇) 恵山八幡宮(のちの椴法華八幡宮)創建 飯
田
屋
与五左
衛
門,臼尻弁天島に海上安全の守護神を祀る 松前藩士オサツベ場所知行主新井
田
金
右
衛
門, 安永年間(一七七二~八一) 熊泊稲荷大明神創建 熊泊・
高
田
屋
彦右
衛
門, 川汲稲荷社境内に一社をたてる(明治九年合祀) 川汲・小板
屋
久
兵
衛
函館市史 通説編 第二巻
(産物会所の設置)
佐藤半
兵
衛
総元締 江戸 同上 伊勢
屋
平作 伊達浅之助 栖原角
兵
衛
紀伊国
屋
長右
衛
門 諸色用達,
金
方用達 産物用達 同上 大坂 安政5年 三井八郎右
衛
門 竹川彦太郎 加嶋
屋
作
兵
衛
,熊野
屋
彦
兵
衛
近江
屋
熊蔵 伊丹
屋
四郎
兵
衛
為替用達 同上 同上
兵
庫 同上 北風荘右
衛
門,富
田
屋
宗助 為替産物元締 同上 同上 松前 同上
金
子
屋
元右
衛
門 山形
屋
八十八
金
子
屋
は安政6,「蝦夷地元方御取締并端浦荷物御取締且彼地請負人とも潤助は勿論坂
兵
両所入津荷物
高
相増候為元仕入と唱前
金
さし
戸井町史
(三、各神社の棟札(むなふだ))
重
兵
衛
斉藤
屋
文五郎 池
田
屋
豊 松 池
田
屋
金
蔵 布施
屋
, 当島大学 松前志摩守源章広公 武備堅固 箱館時詰合奉行所 新井
田
金
右
衛
門, 戸井 頭 取 米 松 小 頭 庄
兵
衛
,亀 吉 滝 谷庄治
兵
衛
,
高
田
半左
衛
門 谷 藤 松次郎
恵山町史
([借用証文に記されている日浦神社の建立])
この証文は3両の
金
子を、日浦村の小頭宇之助、同村内の藤吉・佐治
兵
衛
・清十郎の4人(村人戸主全員と思われる,)が連名で、
高
田
屋
(嘉
兵
衛
)から借用した証文である。 ,借用申證文之事 一
金
子三両也 右之
金
子借用仕候處 実正ニ御座候 右者當年村方ニ而 弁天様注文, 村中 藤 吉 同 佐治
兵
衛
, 同 清十郎 小頭 宇之助 ヤマタカの
屋
号
函館市史 通説編 第二巻
(西洋形帆船の建造ブーム)
高
砂丸 旭丸 亀
田
丸 幸福丸 久徳丸 美徳丸 大神丸
金
生丸 栄宝丸 正丸 清吉丸,長岡喜八 仲栄助 大針喜
兵
衛
高
杉仲太郎 乾作右
衛
門 飯
田
重助 大鍛治善右
衛
門 桂吉
兵
衛
,
高
橋七十郎 伊藤春吉 藤野喜
兵
衛
金
丸徳右
衛
門 米木権右
衛
門 島野市郎次 塚本元吉 渡辺左
兵
衛
,また
田
中正右
衛
門は旧問
屋
であり、この時点では問
屋
業をはじめ銀行役員、そして道東の漁業経営者でもあり、旧来,この他に相原寅之助、永野弥
兵
衛
、中村
金
左
衛
門、山
田
竹次郎といった樺太漁業家の存在が顕著である。
函館市史 通説編 第二巻
(山ノ上遊里の誕生)
* 東
屋
幸吉 * 中里
屋
久一郎* 小
田
屋
善治 * 住吉
屋
政十郎* 広
田
屋
丈吉 *
金
子
屋
東三郎,* 増
屋
定吉 * 小嶋
屋
栄三郎 菱
屋
たま 仲
屋
治右
衛
門
田
中
屋
六太郎 大垣
屋
藤
兵
衛
北越
屋
,さん 納
屋
孫右
衛
門
高
田
屋
たま 新
屋
留吉 上
田
屋
まさ 中嶋
屋
ひさ 伊勢
屋
徳右
衛
門 盛
屋
武八,佐藤
屋
久
兵
衛
玉
屋
和五郎 茂村
屋
定
兵
衛
甲
屋
長太夫 26 19 17 13 12,翌安政6年には引手茶
屋
21軒の営業も許可され、遊女
屋
の行事からは料
金
規定をはじめ遊女
屋
仲間で決めた郭内規定証文
椴法華村史
(天保十年ころの昆布漁業)
に至り候故之
金
兵
衛
時代には、平日手當遣て置昆布時分には多分の働人出来候事のよく、多く取上候時は一日に二濱,の厚きハ乾きも遅きゆへ一日半も不乾ハ役々不立と云比仕入方干方□□抜け多く更に□□にハ不相成儀と相聞候
金
兵
衛
時代,
金
兵
衛
(
高
田
屋
)の時代には、昆布の採取時期以前より採取者に手当を与えておき、昆布が採取された時は優先的,に
高
田
屋
金
兵
衛
がこれを買い入れる方法をとっていた。 ,このため
金
兵
衛
の時代には
金
兵
衛
自らが製品を見廻り良品の生産に当たらせた。
函館市史 通説編 第二巻
(刻昆布製造)
また、安政元(1854)年に
高
田
源左
衛
門(
高
田
屋
3代目)が大阪生まれの刻昆布職人を雇入れて、古築島町(,
高
田
屋
埋立地)で製造場を開いたのが元祖(大正6年5月25日「函館新聞」)ともいわれている。,7年10月に、前述の
高
田
六三郎、小畑定
兵
衛
、深瀬嘉右
衛
門、白鳥幡次郎の4名が青銅屑で刻昆布を着色したのは,そして、また11年2月に
高
田
六三郎、升谷友七、福崎清
兵
衛
の3名が銅線を以て渋付をしたとして製品は取上げ,また、明治11年の刻昆布製造業者福崎清
兵
衛
(10年の製造
高
が15万斤であるから、製造
金
額約4500円と
恵山町史
(箱館港の整備と船造場の建設)
享和元年(1801)、役所は補助
金
を出し町人を使役し、内澗町(現大町)に掘割りを造り寄州の埋立てを行い,さらに
高
田
屋
嘉
兵
衛
ら有志は地蔵町の寄州を埋立て築嶋を造った。,嘉
兵
衛
は願出て私費でこの築嶋につながる寄州を埋立て掘割りを造った。,この面積、官の2,000坪余り嘉
兵
衛
800坪余りとあるが、港に入る船の荷役が効率的になったことはいうまでもない
戸井町史
((附)昔の戸主名(明治十三年以降))
後藤福蔵 池
田
宇吉 小柳八百蔵 滝谷岩五郎 安
田
甚
兵
衛
中谷若松
高
田
嘉蔵 岩舟三平 滝川重右
衛
門,坂川亥之松 細
田
東吉
高
田
勘吉
高
田
金
作 岩船三郎右
衛
門 西崎勇吉 細
田
金
太郎 細
田
徳太郎 岩舟由太郎,花
田
七
兵
衛
石
田
弥
兵
衛
館山栄助 館山吉治 池
田
彦九郎 岩舟三次郎 館山由松 花
田
百助 木村清
兵
衛
岩舟菊次郎,藤
田
和助 伊藤豊松 池
田
多郎
兵
衛
伊藤三太郎 山形福松
金
沢藤吉 谷藤重
兵
衛
池
田
市五郎 斉藤文五郎,
金
沢多助 五島豊太郎
金
沢久作 福士与次郎 堀
田
善記
屋
代重実 谷藤藤次郎 河村潔 佐々木兼作 阿部九郎平
戸井町史
(四、松前時代後期の概観)
この時代になってからの十年間が
高
田
屋
の全盛時代であった。,蝦夷地のこの時代の漁業と海運の衰微をくいとめたのは
高
田
屋
であったのである。,
高
田
屋
嘉
兵
衛
が家運隆盛の基礎を確立して、文政元年(一八一八)郷里淡路島に隠退し弟
金
兵
衛
に後を継がせた。,
高
田
屋
金
兵
衛
は、ロシヤとの密貿易の嫌疑を受け、天保二年(一八三一)江戸に召喚(しょうかん)されて幕府の,東蝦夷地やエトロフの繁栄は
高
田
屋
兄弟の力に負うことが甚大であったのである。
南茅部町史 上巻
(新鱈の江戸送り)
新鱈の江戸送り 箱館の
高
田
屋
は、鱈場所から買い集めた新鱈を、江戸の正月にむけて年の暮れに幾艘もの船を,
高
田
屋
嘉
兵
衛
申上書 一 最上の鱈□□は江戸へ差船有之候間ニ不合義多く有之候よし 是は全く入用を,訳有之候ゆへ如何様にも申訳の出来候もの故本義を取先ひ唯一応の斗らひにて□向申候訳にて延引相成候よし既ニ
金
兵
衛
時代,乗込候よし也 一 松前箱館江差の三湊 一ヶ年地國の旅船二百余艘 或年は三百艘に可及年も有之と云事の由
金
兵
衛
時代
函館市史 通説編 第一巻
(小宿)
』)とあり、別に、「(同年同月)松前藩ニ於テ始メテ隅
屋
(鍋力)吉古
衛
門、亀
屋
七郎
兵
衛
、大坂
屋
彌
兵
衛
、近江
屋
善
兵
衛
,、吉村
屋
善左
衛
門、村
田
屋
作右
衛
門、亀
屋
吉郎
兵
衛
ノ七名へ命ジ、(中略)当時問
屋
六軒、小宿七軒ヲ以テ定員トセリ,尤も歩割相定め候得ども其時節により
高
下これ有るべき事。,天明七年丁末十月 若狭
屋
五郎
兵
衛
秋
田
屋
喜左
衛
門 角
屋
吉右
衛
門 加賀
屋
新十郎 蛯子武
兵
衛
長崎
屋
半
兵
衛
,井口
兵
右
衛
門 右の通り改め儀定仕り候間、堅く相守り申すべく候。
函館市史 通説編 第二巻
(清商との取引)
次の例は明治6年4月に交わされた
高
田
祐吉郎と万順号との厚岸の新昆布の取引に関する約定書である。, 四月廿七日 売渡主
高
田
祐吉郎 印 大黒町壱丁目 請人 柏谷清
兵
衛
印 ,地蔵町三丁目 同断
高
野誠
兵
衛
印 上大工町壱丁目 口入人 橘清右
衛
門 印 止宿外国人, 荷主の
高
田
祐吉郎は
高
田
屋
嘉
兵
衛
の系譜の人物で大阪在住であるが、内澗町の
高
田
篤太郎方に寄留して厚岸産の,この取引を斡旋したのが口入人とある橘清右
衛
門で保証人に2名をたてているが、柏
屋
、
高
野とも海産物を扱う商人
南茅部町史 上巻
(御用昆布)
御用昆布
高
田
屋
嘉
兵
衛
・蝦夷出産申上書には、昆布の最上は志苔の産のもので、「御用昆布」とされていると,
高
田
屋
嘉
兵
衛
蝦夷出産申上書 一 昆布の最上なるはシノリ昆布とて御用昆布ニ相成候よし 志苔村の海中,納入候へは其餘は働次第也と云 昆布取の時節ニ相成候ヘハ箱館在々ゟ皆挊に出候よし 御用昆布は長崎
屋
ヘ,賣渡し其代料は此御入用を引去り残
金
を分け取候ゆへ運上場之分ハ仕入元へ代
金
を受取取計候事のよし也
南茅部町史 下巻
(〔蝦夷地の海路〕)
〔蝦夷地の海路〕 蝦夷地の昔、昆布商売といって、和人は昆布採取のため亀
田
(箱館)近在から小舟で来るようになる,寛政から文化年間、六か場所の海産は
高
田
屋
金
兵
衛
が買占めていて、
高
田
屋
の五、六百石積の船が夏から秋に往来,天保七年(一八三六)、臼尻村竜宮庵(覚王寺前身)に須弥壇が寄進されたとき、箱館の商人山口
屋
太次
兵
衛
が仏具,、勧請された大船の歌浜稲荷神社のご神体も、熊泊村へ回航の船頭が引き請けて、一切の世話をした文書(〓成
田
筆吉所蔵
函館市史 別巻 亀田市編
([六月])
函館市史 別巻 亀
田
市編 / 六月二日 一 銭亀沢御本陣御掛大坪郡左
衛
門様、赤川村名主嘉
兵
衛
殿より御用青物差出し候ニ付、則継送,以上 六月朔日 郷宿 宗
兵
衛
触 書,以来百性、町人右体の品
金
銀用候儀 決て不二相成一、主人或は出入
屋
敷等より貰請、又は持伝など ニ候共
金
銀器類一切持申間敷候,一 大谷又次
兵
衛
様 右は御巡見様御下向ニ付、野放しの 馬不レ残取つなぎ、八日、九日厩かへ(飼イ)いたし, 沼内幾具(きく) 八戸又吉、同所与
兵
衛
、同松六、同志よか、同所友吉、 同まつ〆六人
函館市史 通説編 第二巻
(南部藩の箱館脱出)
8月2日四ツ時(10時)、盛岡から派遣された人々と、上山半右
衛
門守古(留守居役)、七戸権
兵
衛
(留守居役,
金
7416両 8月6日にはイギリス人ブラキストン(仲介人は越前
屋
慶之助)から、同人所持の蒸気船オーガスト,オーガスト号は8月9日、七戸権
兵
衛
、山本寛次郎らが乗り組み、荷物80箇を積み込んで準備のために野辺地に,向かったが、野辺地ですでに南部藩が久保
田
藩と戦闘状態に入ったことを知り、11日には箱館の留守居所へ急報,12日四ツ時前、陣
屋
の責任者番頭葛西正
兵
衛
以下が留守居所へ集合、ブラキストンの居館構内から橋船でオーガスト
函館市史 通説編 第二巻
(町区総代人制の導入)
樋口融作 ○ 上
田
武左
衛
門 佐々市三郎 2小区 ☆ 山上 茶
屋
片町 ,植原定
兵
衛
○ 鈴木久蔵 4小区 大町 仲浜
田
中正右
衛
門 佐野専左
衛
門 ○,
高
田
吉
兵
衛
2小区 ☆ 地蔵 蔵前 汐留 宝町 三浦喜助 ○ 佐々木忠
兵
衛
, ○ 槻木茂
兵
衛
高
砂 大熊 富沢 間作春松 筒井駒吉 4小区 豊川 真砂 池
田
, 巳之吉 池
田
治右
衛
門 5小区 龍神 西川 ○
金
子利吉 桝井善
兵
衛
東川 大森
/ 3ページ