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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (高田屋嘉兵衛建立海上安全碑)

高田屋嘉兵衛建立海上安全碑 賽の河原の中央よりやや北に高田屋嘉兵衛建立の祈願碑がある。,高田屋嘉兵衛建立海上安全碑 / 高田屋嘉兵衛建立海上安全碑
戸井町史 (五、高田屋嘉兵衛と汐首岬)

五、高田屋嘉兵衛と汐首岬 寛政年間、豪商高田屋嘉兵衛が汐首岬の高台に建てられている汐首神社に、御影石,高田屋嘉兵衛が汐首神社に鳥居を寄進したのは、観音堂がまだ汐首神社の境内にあった頃であろう。  ,高田屋嘉兵衛の肖像  高田屋嘉兵衛は、寛政年間にエトロフ、根室、幌泉の航路を開き、漁業や貿易のために,この神社の境内に観音様を祀る観音堂もあることを知った高田屋嘉兵衛は、はるかな根室やエトロフまでの航海の,、高田屋嘉兵衛の寄進した」ということがいい伝えられたものと思う。   / 五、高田屋嘉兵衛と汐首岬
恵山町史 (定雇船頭高田屋嘉兵衛)

定雇船頭高田屋嘉兵衛 これらの官船は、水主同心格長川沖右衛門・水主同心露木元右衛門と定雇船頭高田屋嘉兵衛,さらに官船15艘を江戸・箱館運航用とし、定雇船頭の高田屋嘉兵衛に引き受けさせた。 / 定雇船頭高田屋嘉兵衛
恵山町史 ([高田屋嘉兵衛活躍の頃])

[高田屋嘉兵衛活躍の頃] 寛政11年(1799年)、幕府は東蝦夷地(知内以東太平洋側、花咲半島を回り / [高田屋嘉兵衛活躍の頃]
恵山町史 (6、郷土と高田屋嘉兵衛)

6、郷土と高田屋嘉兵衛 高田屋嘉兵衛をぬきにして蝦夷地の開拓・漁業を語ることはできない。  ,この高田屋嘉兵衛という人物及び、その業績・評価については、これまで歴史学者や郷土史家、特別な経済人等を,今では高田屋嘉兵衛が、江戸時代の豪商であり、北方・蝦夷地の開拓者であり、ロシアとの国際紛争(ゴロウニン,『新鱈儀定證文之事』を通し先にも触れたが、この高田屋嘉兵衛とわが郷土は強い結び付きを持っている。,1818年(文政元)<49歳>・高田屋嘉兵衛健康勝れず郷里へ帰る。 / 6、郷土と高田屋嘉兵衛
函館市史 通説編 第一巻 (運漕業を営む)

運漕業を営む 高田屋嘉兵衛は、明和6(1769)年淡路国津名郡都志本村百姓弥吉の長男として生まれた。,7年和泉屋伊兵衛の手船の船頭となって奥州酒田に航海し、手船新造を計画して帰り、西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛,高田屋嘉兵衛 高田屋手船辰悦丸
椴法華村史 (高田屋とゴローニン)

一方ロシア側もまたゴローニンの抑留に対抗して、当時エトロフ島の開発を幕府から命ぜられていた高田屋嘉兵衛,この時、高田屋嘉兵衛はロシア側に事の真相を訴え、帰国を認めてもらい、高田屋嘉兵衛の尽力により文化十年(
恵山町史 (2、恵山町指定文化財)

高田屋嘉兵衛記念碑(史跡)   所在地/柏野   所有者/国  火口原の中央に建立の十一面観音像,昭和12年修復時の碑文によれば『高田屋嘉兵衛、択捉・幌泉ヘノ途次恵山水無ニ於イテ遭難難破シ箱館ニ帰リ文化六年,(一八〇九)一月、碑ヲ建立シ海上ノ安全ヲ祈願セリ』とあり、数少ない高田屋嘉兵衛ゆかりの建造物である。,高田屋嘉兵衛記念碑    賽の河原(名勝)   所在地/柏野   所有者/国   指 定
椴法華村史 (高田屋貞宝丸の破船)

高田屋貞宝丸の破船 文化六年(一八〇九)九月二十七日、高田屋嘉兵衛持船貞宝丸、千二百石積、十六人乗りは
函館市史 通説編 第一巻 (高田屋の不動院)

高田屋の不動院 高田屋嘉兵衛が信仰して、堂を再建した山ノ上新町の不動院は、もと神明社の修験が奉祀したもので
南茅部町史 上巻 (御用昆布)

御用昆布 高田屋嘉兵衛・蝦夷出産申上書には、昆布の最上は志苔の産のもので、「御用昆布」とされていると,高田屋嘉兵衛 蝦夷出産申上書   一 昆布の最上なるはシノリ昆布とて御用昆布ニ相成候よし 志苔村の海中
函館市史 通説編 第一巻 (工業の勃興)

工業の勃興 箱館における工業については、高田屋嘉兵衛の全盛時代、船舶の新造、修理などの事業が見られたが
函館市史 通説編 第一巻 (箱館東蝦夷地の中心となる)

運航に要する多くの官船や官雇船は、高田屋嘉兵衛を定雇船頭として指揮させている。
恵山町史 (箱館港の盛衰)

箱館港の盛衰 高田屋嘉兵衛の事業と共に発展した箱館も、嘉兵衛没後の天保4年(1833)2代目金兵衛が
函館市史 通説編 第一巻 (箱館商人の成長)

その中でも代表的な者は高田屋嘉兵衛であった。
恵山町史 (箱館港の整備と船造場の建設)

さらに高田屋嘉兵衛ら有志は地蔵町の寄州を埋立て築嶋を造った。
函館市史 通説編 第一巻 (江戸交易と東回り航路の発達)

、蝦夷地御用として政徳丸を交付し、凌風丸を買上げ、次いで浦賀、大畑および様似などにおいて造船、その他高田屋嘉兵衛,支配下にある船舶も数十艘に多きに達し、水主同心組頭格長川(ながかわ)仲右衛門、水主同心露木元右衛門、高田屋嘉兵衛
函館市史 通説編 第一巻 (洋画)

父は文六といい、寛政年間高田屋嘉兵衛に従って北地開発に挺(てい)身したが、嘉兵衛が淡路に隠退してからは
函館市史 通説編 第一巻 (箱館に対する処置)

請負となり、箱館が衰退するおそれがあったので、さきに特命をもって、文化7年択捉場所の開発に当らせた巨商高田屋嘉兵衛
恵山町史 (3、奉行所の設置)

年のロシア船(フヴォストフ大尉ら)来冦、1811~13年(文化8~9年)のゴロウニン事件(漁業の章・高田屋嘉兵衛,の節参照)など緊迫した状況もあったが、高田屋嘉兵衛らの尽力により事件は無事解決、その後ロシア対策も急激
恵山町史 (1、興徳山『豊國寺』)

この創建については、箱館を拠点に活躍した豪商高田屋嘉兵衛の寄進によるとの言い伝えが残るが、高田屋はこの,によると、はじめ、根田内の地蔵菴と称して開山、年代については定かではないが、文化8年(1811)以前、高田屋嘉兵衛,30年末ころの豊国寺(尻岸内町史より) 豊国寺(平成17年撮影)   本寺称名寺・高田屋嘉兵衛,また、箱館を根拠地に活躍した江戸時代末期の豪商高田屋嘉兵衛もこの寺の檀家で、境内には嘉兵衛らの墓もある
恵山町史 (海運の官業)

さらに、寛政8年(1796年)蝦夷地に渡来以降、箱館を根拠地に精力的な商活動を続ける高田屋嘉兵衛に命じて
函館市史 通説編 第一巻 (高田屋の登用)

高田屋の登用 アトイヤの標柱  なお、この間、特記されるべきことは、淡路の船頭高田屋嘉兵衛の登用
恵山町史 (航路の進歩と官営の廃止)

中でも高田屋嘉兵衛の推薦で、享和2年(1802)箱館奉行から択捉島の修築を命ぜられた播磨の人、工楽(こうらく
函館市史 通説編 第一巻 (箱館港への集荷政策)

箱館港への集荷政策 幕府は、前直轄時代にも、東蝦夷地産物の箱館集荷策を強力に推進し、更に高田屋嘉兵衛
函館市史 通説編 第二巻 (北海道のラッコ・オットセイ猟の沿革)

   ところで、我が国のラッコ・オットセイ猟であるが、寛成12(1800)年淡路出身の高田屋嘉兵衛,その後、享和年間(1801~1803)松前福山の栖原小右衛門、伊達林右衛門らが、高田屋嘉兵衛の漁場を譲
函館市史 通説編 第一巻 (掘割および築島)

なお、高田屋嘉兵衛もこの築島の西側に接して825坪の埋立を行っているが、「(文化四年)蔵々拾五戸前、建家弐,ヶ所相建、其余造船所無レ之ニ付、造船所取設ヶ候事」(原喜覚『高田屋嘉兵衛と北方領土』)ともある。  
函館市史 通説編 第一巻 (近江商人の排除)

にして松前藩と直結した近江商人団を排除し、天明期前後から成長した伊達林右衛門、栖原角兵衛、阿部屋伝兵衛、高田屋嘉兵衛
函館市史 通説編 第一巻 (密約の発覚)

そもそもこの旗合せというのは、これより19年前の文化9(1812)年、高田屋嘉兵衛がロシア人に捕えられ
恵山町史 ([後松前藩時代の道])

かめるため副長リコルドは、エトロフ場所から漁獲物を積み箱館に帰港中の観世丸を襲い、相当の人物と見た船主の高田屋嘉兵衛,併せて、日本人・高田屋嘉兵衛に対して高い評価を受けた。
南茅部町史 上巻 (文化文政の新鱈約定)

文化一四年(一八一七)、尻岸内の村三役から、高田屋嘉兵衛の箱館総支配であった実弟の高田屋金兵衛にあてた,(市立函館博物館 高田屋嘉兵衛展出陳目録より)      新鱈儀定證文之事 一當村新鱈□積去亥年
函館市史 通説編 第一巻 ([目次])

箱館における施設経営   第四節 箱館の町行政   第五節 幕府の生産・流通統制   第六節 高田屋嘉兵衛,箱館商人の動向 三 問屋株仲間と市中商人の対立 四 当代の諸税及び問屋口銭   第八節 ゴロウニン問題と高田屋嘉兵衛
函館市史 通説編 第一巻 (場所請負人の交替)

箱館 高田屋金兵衛 国後   一、三五〇両   松前 柏屋喜兵衛 択捉   二、〇〇〇両   箱館 高田屋嘉兵衛
南茅部町史 上巻 (ヲサツベの新鱈)

(松前秘説=高田屋嘉兵衛蝦夷出産申上書)と記している。  
南茅部町史 上巻 (新鱈の江戸送り)

高田屋嘉兵衛申上書 一 最上の鱈□□は江戸へ差船有之候間ニ不合義多く有之候よし   是は全く入用を
恵山町史 (2、三十三観音(資料編4 三十三観音参照))

高田屋嘉兵衛建立十一面観音像 文化6年(1809)(1) 高田屋嘉兵衛建立十一面観音像 文化
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

江戸時代の鱈漁 <鱈の漁場、恵山沖> 文化14丑年(1817)12月、『新鱈儀定證文之事』より  高田屋嘉兵衛,、新鱈儀定證文は1817年(文化14)、郷土、尻岸内の村三役(支村、根田内・日浦を含む)から、豪商、高田屋嘉兵衛,高田屋嘉兵衛については後述するが、当時、蝦夷地・箱館を中心に事業を起こし莫大な財を為し、全国にその名を,通常は4、5百石積の船で10日余りの航海であったが、高田屋嘉兵衛申上書の中には「箱館より銚子迄二百里程,前述、『松前秘説』(高田屋嘉兵衛蝦夷出産申上書)には「根田内より臼尻迄の場所を鱈場所と唱え、就中、椴法華
函館市史 通説編 第二巻 (幕末期の埋立)

さらにその続き地を高田屋嘉兵衛が、自費を以て825坪埋築して所有地にした。
戸井町史 (一、汐首の革新性)

船の船主が寄進したものと伝えられる正徳五年(一七一五)作の銘のある大鐘鼓があり、寛政年間に一代の豪商高田屋嘉兵衛
函館市史 通説編 第一巻 (観世丸の拿捕)

観世丸の拿捕 丁度この時、たまたま高田屋嘉兵衛が手船観世丸に水産物を積んで択捉から箱館に向かう途中、,嘉兵衛               嘉蔵殿               金兵衛 殿 (高田敬一著『高田屋嘉兵衛翁伝
恵山町史 (蝦夷地の航路を開く)

箱館奉行支配役近藤重蔵は寛政11年(1799)、国後・択捉間の水路開拓を高田屋嘉兵衛に命じた。
恵山町史 ([松前藩時代の下海岸のみち])

高田屋嘉兵衛の文書には、冬季間「箱館から江戸まで、新鱈を3日3晩で運んだ」と記されている。  
戸井町史 (三、幕領時代前期の概観)

箱館を根拠地として下海岸や蔭海岸或は千島方面の漁業及び海運を盛んにした豪商高田屋嘉兵衛が、幕府の定雇船頭
戸井町史 (四、松前時代後期の概観)

高田屋嘉兵衛が家運隆盛の基礎を確立して、文政元年(一八一八)郷里淡路島に隠退し弟金兵衛に後を継がせた。
函館市史 通説編 第一巻 (神社)

水天宮 もと高田屋嘉兵衛が東川町海岸寄りを埋立てた際、航海安全と千島開発の守護として勧請したと伝えられている
函館市史 通説編 第一巻 (ディアナ号の箱館出帆)

した時の手記にも、「正直に云って、この多幸な場合において、多くの点で与って力あったのは、大量で開けた高田屋嘉兵衛
函館市史 通説編 第一巻 (高田屋の家訓)

前述のごとく高田屋嘉兵衛は、幕府の信頼と手厚い庇護により、急速に成長して巨富を得るとともに、商業と海運
恵山町史 (村道へのバスの乗り入れ)

バス発・函館駅前午後六時解散  四、主なる遊覧箇所        高山植物・山頂権現堂・賽の河原・高田屋嘉兵衛海上安全祈願
恵山町史 (〈尻岸内町・椴法華村境界問題の解決と町名変更の確認〉)

同意した境界線 『恵山山頂(六一八メートル)から海向山山頂(五七〇メートル)を結ぶ約三キロ区間、途中、高田屋嘉兵衛海上安全碑
椴法華村史 (恵山八幡宮(椴法華八幡神社))

其ノ跡地は今以て権現堂を建有り、文化初年頃高田屋嘉兵衛・秋田屋茂吉等、老人婦女子が参詣困難なるため現今
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