• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

函館市/函館市地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 30件
辞書ファセット
/ 1ページ
函館市史 通説編 第一巻 (金兵衛の追放処分)

金兵衛の追放処分 こうして天保3年8月、この事件は評定所一座の審問の結果、海上で外国船に会い、酒などを,することを禁じられているにもかかわらず、これを自由に召使ったことなどの罪科により、翌天保4年2月23日、金兵衛,小旗を没収され、江戸10里四方追放、生国淡路郡志本村領主松平阿波守領分のほかに他出すべからざること、金兵衛養子嘉市,は船稼ぎ差留め、所払いならびに兵庫・大坂の支店地に立入るべからざることを申し渡され、更に金兵衛所有家屋,これがため、さしも全盛を極めた高田屋もついに没落するに至り、箱館市中なども一時は全く火の消えたようになってしまったと / 金兵衛の追放処分
函館市史 通説編 第一巻 (高田屋の家訓)

高田屋の家訓 箱館経済を不振に陥れた原因の一つに高田屋の没落がある。  ,その後、嘉兵衛は弟金兵衛を養子とし、家業一切を譲って淡路に隠居したが、金兵衛もまた他の兄弟らと力を合わせ,一、上方は申すに及ばず、箱館共残らず高田屋の身代に相違これ無く、後日に名前人の金兵衛のものと申さざる積,一、箱館店名前人の儀、金兵衛え年々七百石積船壱艘の徳用遣し申すべき事。,高田屋 金兵衛 印  前書之趣箱館において承知仕り候に付、証奥印仕り候 以上   則日                  / 高田屋の家訓
戸井町史 (五、高田屋嘉兵衛と汐首岬)

金兵衛は生国淡路、志本領主松平阿波守の領分以外に出てはならないこと。,金兵衛の養子嘉市は、船稼ぎ差し止め、所払い。,いにしたことが、他の豪商から幕府に密告され、弟金兵衛の時代に悲運の原因になったのである。  ,箱館、下海岸の海運並びに漁業発展上、直接間接に大きな影響を与えた高田屋嘉兵衛、金兵衛二代の功績は、汐首神社,(七飯町大中山の富原喜久夫宅に、高田屋金兵衛が椴法華で鱈漁をした時の古文書や往復した手紙が保存されている / 五、高田屋嘉兵衛と汐首岬
恵山町史 (6、郷土と高田屋嘉兵衛)

1798年(寛政10)・箱館大町に高田屋支店を開き、弟の金兵衛を総支配人とする。         ,・高田屋金兵衛、嘉兵衛の代理で、大野村、森村の道路及び松前街道を改修する。,高田屋金兵衛、松前藩御用達を命ぜられ、苗字帯刀を許される。,『高田屋金兵衛』(1775~1846年)  高田屋嘉兵衛の4弟、淡路の都志で生まれる。,武兵衛 印              同  和賀屋  宇右ヱ門 印   高田屋金兵衛 殿   / 6、郷土と高田屋嘉兵衛
函館市史 通説編 第一巻 (松前藩の動き)

さきに天保元年、松前藩が高田屋に1万両の御用金調達を命じ、高田屋がこれを上納すると、翌年正月更に1万両,は、御用金調達の際に金兵衛が奔走したにもかかわらず、老中水野忠成に対し、内々に、「金兵衛身分悪事なるべき,事を飾り立て、或は松前侯御用金の内、松前、江戸問屋共に示談に及び候事をも、金兵衛運上を取り立て候などと,を始めとし、同8年に村山伝兵衛、そして高田屋金兵衛に至る常套手段であったのである。  ,なお、金兵衛についての松前藩のこの申立ては、幕府の調査により、事実無根であることが確認された。
函館市史 通説編 第一巻 (箱館経済の不振)

  山越内 藤代屋東吉 有珠 和賀屋宇兵衛 絵柄 井口兵右庵門・阿部屋甚右衛門 幌別,新冠 浜田屋佐次兵衛 三石 栖原屋虎五郎・熊野屋忠右衛門 幌泉 高田屋金兵衛 十勝 大坂屋卯助 根室,高田屋金兵衛 択捉 高田屋金兵衛    東蝦夷地20場所の内箱館商人の請負場所は、その半数,しかも天保4(1833)年高田屋の没落後は、根室、択捉の大場所は福山の藤野喜兵衛の請負となり、天保年間
函館市史 通説編 第一巻 (場所請負人の交替)

  山越内   一三〇両   箱館 藤代屋藤吉 虻田   一〇〇両   松前 和賀屋七左衛門,有珠   一〇〇両   箱館 和賀屋卯兵衛 絵鞆   二〇一両二朱   松前 阿部屋三治郎 幌別 沙流,  松前 萬屋宇右衛門 様似   三〇四両   松前 萬屋嘉左衛門 幌泉   八〇八両   箱館 高田屋金兵衛,  松前 畑屋七左衛門 根室   三、六〇〇両   箱館 高田屋金兵衛 国後   一、三五〇両   ,松前 柏屋喜兵衛 択捉   二、〇〇〇両   箱館 高田屋嘉兵衛 (『東蝦夷地請負調』『箱館問屋儀定帳
函館市史 通説編 第一巻 (箱館に本店を置く)

箱館に本店を置く 高田屋金兵衛苗字帯刀御免の書  しかも文化9年幕府が直捌制度を廃止し、再び,場所請負制度をとると、やがて高田屋は択捉場所の外、根室、幌泉場所を請負い、いよいよ手広く場所経営に乗出,その後、箱館大町の支店を本店に改め、倉屋敷を内澗町ならびに宝町および蓬莱町に設け、別に長屋数棟を恵比寿町,なお、嘉兵衛が御用御免を願い出て、事業一切を弟金兵衛ら兄弟に譲り、郷里都志本村に隠居したのは文政元(1818
函館市史 通説編 第一巻 (運漕業を営む)

運漕業を営む 高田屋嘉兵衛は、明和6(1769)年淡路国津名郡都志本村百姓弥吉の長男として生まれた。,年摂津国兵庫港に出て船稼ぎをしていたが、同4年24歳の時船頭となり、居を兵庫西出町に構え、弟嘉蔵および金兵衛,こうして同7年和泉屋伊兵衛の手船の船頭となって奥州酒田に航海し、手船新造を計画して帰り、西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛,高田屋嘉兵衛 高田屋手船辰悦丸
椴法華村史 (天保十年ころの昆布漁業)

により昆布の豊凶有之とハいへとも皆功により働人自然基場所場所へ多く入込相働く時は取上高過分に至り候故之金兵衛時代,の厚きハ乾きも遅きゆへ一日半も不乾ハ役々不立と云比仕入方干方□□抜け多く更に□□にハ不相成儀と相聞候金兵衛時代,金兵衛(高田屋)の時代には、昆布の採取時期以前より採取者に手当を与えておき、昆布が採取された時は優先的,に高田屋金兵衛がこれを買い入れる方法をとっていた。  ,このため金兵衛の時代には金兵衛自らが製品を見廻り良品の生産に当たらせた。
函館市史 通説編 第一巻 (市中商人の成長)

、長崎屋半兵衛、和賀屋宇右衛門、高田屋金兵衛、秋田屋甚作、亀屋武兵衛、辰巳屋七郎兵衛、井筒屋喜兵衛、浜屋次兵衛,、東屋善三、近江屋清六、越前屋七五郎、山口屋太次兵衛、亀屋喜惣二、越後屋善吉、能登屋惣十郎、吉崎屋五右衛門,山上町惣代桝屋定吉、盛屋武八、高田屋与惣兵衛。,、長崎屋半兵衛、高田屋金兵衛、亀屋武兵衛、井筒屋喜兵衛、吉崎屋五右衛門、浜田屋兵右衛門、和賀屋宇右衛門,、辰巳屋七郎兵衛、浜屋次兵衛、東屋善三、伊倉屋太三郎、亀屋喜惣二、越後屋善吉、越前屋七五郎、山口屋太次兵衛
南茅部町史 上巻 (新鱈の江戸送り)

新鱈の江戸送り 箱館の高田屋は、鱈場所から買い集めた新鱈を、江戸の正月にむけて年の暮れに幾艘もの船を,高田屋嘉兵衛申上書 一 最上の鱈□□は江戸へ差船有之候間ニ不合義多く有之候よし   是は全く入用を,訳有之候ゆへ如何様にも申訳の出来候もの故本義を取先ひ唯一応の斗らひにて□向申候訳にて延引相成候よし既ニ金兵衛時代,乗込候よし也 一 松前箱館江差の三湊 一ヶ年地國の旅船二百余艘 或年は三百艘に可及年も有之と云事の由 金兵衛時代
戸井町史 (四、松前時代後期の概観)

この時代になってからの十年間が高田屋の全盛時代であった。,蝦夷地のこの時代の漁業と海運の衰微をくいとめたのは高田屋であったのである。,高田屋嘉兵衛が家運隆盛の基礎を確立して、文政元年(一八一八)郷里淡路島に隠退し弟金兵衛に後を継がせた。,高田屋金兵衛は、ロシヤとの密貿易の嫌疑を受け、天保二年(一八三一)江戸に召喚(しょうかん)されて幕府の,東蝦夷地やエトロフの繁栄は高田屋兄弟の力に負うことが甚大であったのである。
恵山町史 (箱館港の盛衰)

箱館港の盛衰 高田屋嘉兵衛の事業と共に発展した箱館も、嘉兵衛没後の天保4年(1833)2代目金兵衛が
南茅部町史 上巻 (文化文政の新鱈約定)

文化一四年(一八一七)、尻岸内の村三役から、高田屋嘉兵衛の箱館総支配であった実弟の高田屋金兵衛にあてた,証文は、村方助金並びに前借という昔変わらぬ青田売りによって、尻岸内、根田内、日浦の鱈を向こう五ヵ年、高田屋,鬮は当てたが井筒屋、和賀屋ともどもに高田屋へ臼尻の新鱈を譲渡したときの証文である。  ,(市立函館博物館 高田屋嘉兵衛展出陳目録より)      新鱈儀定證文之事 一當村新鱈□積去亥年,宇右ヱ門 印 高田屋金兵衛 殿 新鱈儀定證文     臼尻村新鱈讓證文之事 臼尻村新鱈壱番弐番船共
函館市史 通説編 第一巻 (密約の発覚)

小旗を示して通過するという旗合せのことから密貿易の嫌疑となり、引続き福山で糾明を受け、更に同年11月金兵衛,そもそもこの旗合せというのは、これより19年前の文化9(1812)年、高田屋嘉兵衛がロシア人に捕えられ,ゴロウニンの釈放を約し、その斡旋に努力したことによって、ロシア人は大いにこれを感謝し、これに報いるため以後高田屋,の船舶には、いかなることがあっても劫掠(ごうりゃく)などせず、もしも海上で遭遇した場合には、高田屋の店印
函館市史 通説編 第一巻 (請負人と場所との関係)

米屋平七 浜田屋兵四郎 有珠 和賀屋宇兵衛   和賀屋孫十郎 和賀屋宇右衛門 和賀屋孫次郎 和賀屋宇右衛門,野口屋又蔵 新冠 浜田屋佐次兵衛 浜田屋兵右衛門 浜田屋佐次兵衛 浜田屋兵四郎 浜田屋佐次兵衛 浜田屋兵四郎,三石 熊野屋忠右衛門 栖原屋虎五郎 和賀屋宇右衛門 小林屋重吉 和賀屋宇右衛門 小林屋重吉 和賀屋宇右衛門,幌泉 高田屋金兵衛 亀屋武兵衛 福島屋嘉七 浜田屋兵四郎亀屋武兵衛 福島屋嘉七 浜田屋兵四郎,高田屋金兵衛 亀屋武兵衛 藤野喜兵衛 和賀屋宇右衛門 藤野喜兵衛 択捉 高田屋金兵衛 和賀屋宇右衛門
南茅部町史 下巻 (〔蝦夷地の海路〕)

寛政から文化年間、六か場所の海産は高田屋金兵衛が買占めていて、高田屋の五、六百石積の船が夏から秋に往来,天保七年(一八三六)、臼尻村竜宮庵(覚王寺前身)に須弥壇が寄進されたとき、箱館の商人山口屋太次兵衛が仏具
椴法華村史 (箱館港の衰え)

目当ての本州船の来航が減少する傾向にあり、更にもう一つは、天保二年、ロシア密貿易の嫌疑により没落した高田屋,天保四年(一八三三)高田屋金兵衛は所有船十二隻の没収、所有財産没収の処分を受け、一挙に潰滅してしまい、
函館市史 通説編 第一巻 (観世丸の拿捕)

観世丸の拿捕 丁度この時、たまたま高田屋嘉兵衛が手船観世丸に水産物を積んで択捉から箱館に向かう途中、,金兵衛事は病人大切に可レ致候事。,                              嘉兵衛               嘉蔵殿               金兵衛, 殿 (高田敬一著『高田屋嘉兵衛翁伝』)    この書簡に見られるごとく、嘉兵衛は泰然自若,嘉蔵、金兵衛は弟で、弥吉は嘉兵衛の長男、おふさは妻である。
南茅部町史 上巻 (水産博覧会)

        〃尾札部村  今津 甚蔵            元揃昆布        〃  〃   杉谷金兵衛,ヶ町 鯡建網雛形      〃 瀬川善兵衛 太釜 甚八 鯡袋網      〃 発寒屯田兵 小屋敷新吾,     〃 糸谷喜左衛門 鯡切込漬     ○ 函館 今津 甚蔵 花折昆布     ○  〃 杉谷金兵衛,  計  一、一〇八       追賞 二四人 金五〇円     四人内二人   函館 高田篤太郎祖先,故高田屋嘉兵衛 寛政年間北海漁業事蹟      〃 村山伝兵衛九代祖 故村山伝兵衛 明和寛政年間北海漁業事蹟
函館市史 通説編 第一巻 (藩政の実状)

また藩でもつとめて請負人の機嫌をとり、たとえば天保14(1843)年、高田屋のあと択捉場所を藤野喜兵衛,に請負わせた時などは、アイヌが「前の金兵衛(高田屋)の事を思い出し、恋しがらるる様では大きにわるいが、
函館市史 通説編 第二巻 (開港以前の様相)

函館どつく」から駅方向への電車通り沿いに町並みが形成され、中央に位置する御役所より西側の傾斜地に寺町と屋敷割,そして、これらの町の職業構成は、弁天町、大町、内澗町などは場所請負人、問屋、小宿などを業種とする有力商人,文化元(1804)年の函館八幡宮の会所町移転によるものか、山側部分に屋敷割の広がりがあった。,また海面には「箱館地蔵町ノ沖ヘ新規築立候地面二千百七十二坪、〈中略〉高田屋嘉兵衛寄洲ノ場所見立願ノ上、,この背後には高田屋金兵衛の拝借地があり、その間の地蔵町裏通りにも町並みが形成されるようになった。
南茅部町史 下巻 (郷土神社棟札編年一覧)

木直稲荷大明神 本殿 魚漁円満当村安全 松前亀田八幡宮 小頭        神主藤山和泉正季房  中村屋佐五兵衛,八月神真日 木直 鳥居一宇 国家安全魚漁円満 神主藤山主税(主膳)荘房 世話人          中村屋佐五兵衛,神主藤山大膳正藤原荘房 頭取       箱館奉行所新井田金右衛門  浪岡惣右衛門       本社寄付高田,(屋)金兵衛 小頭          久右衛門          百姓代 佐市 板木村役 茂左        ,七月二三日 川汲稲荷大明神 □□付拝殿鳥居五宇再建 神主藤山大膳藤原荘房 小頭          加賀屋金左衛門
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

江戸時代の鱈漁 <鱈の漁場、恵山沖> 文化14丑年(1817)12月、『新鱈儀定證文之事』より  高田屋嘉兵衛,宇右ヱ門 印   高田屋金兵衛 殿  (市立函館博物館 第4回日本海文化展・1978年・高田屋嘉兵衛目録,の実弟である箱館総支配の高田屋金兵衛に当てた新鱈売買の契約書(証文)である。,高田屋嘉兵衛については後述するが、当時、蝦夷地・箱館を中心に事業を起こし莫大な財を為し、全国にその名を,尚、この年は前述、尻岸内村の三役が高田屋金兵衛と新鱈儀定を交わした年である。    
南茅部町史 下巻 (畑反別書上小前連印帳)

  一畑反別壹町壹畝四分      内譯ケ      一番 字稲荷野   字稲荷野 十一番屋敷,    同 三畝廿二分    高田彦右衛門印         前同断    十二番 同    ,連印奉書上候以上           右村   明治六年      村用掛             高田仁右衛門印,       杉谷 吉蔵  字桃ノ澤二十三番地   同四十九番地  一 同五反壹畝七分       杉谷金兵衛,              吉川善三郎印            同               杉谷金兵衛印
恵山町史 ([明治・大正時代の漁業])

なかんづく高田屋の活躍−幕府の定雇船頭などの政治力を背景に国内外の情勢を掌握、巨大な資本力・組織力を動,これも松前藩復権後は保守的な政策により停滞をみたが、その衰微をくいとめたのは高田屋(金兵衛)であった。,その高田屋も1833年(天保4)旗合わせ有罪により全財産没収、没落の憂き目に遭い、蝦夷地の停滞も歯止めを,名主事務所設置・1858年(安政5)尻岸内村として正式認可となり行政的にも村落として成熟したことと、高田屋,この時代、高田屋の進出により、松前に代わり郷土により近い箱館が物資の集散地としての機能を備えてきたこと
南茅部町史 上巻 ([明治初期の昆布場])

  四八   一 二 六 四  野代佐次兵衛 太田浜    三五 一一四 雑倉一五 一 二 六 五  高田彦右,一〇  九五   一 二 六 二三  田中富作        一一 一〇〇   一 二 六 二四  高田五郎兵,一三七・五   一 二 三 二四  瀧谷太治兵衛      一一六 一〇八   一 二 三 二五  高田卯之助,三 二八  木村藤松 前 浜  一二〇 一三四   一 二 三 二九         三〇  高田徳次郎,  二 四 三 一六  福嶋与七        一四 一〇六・二   一 二 一・五 一七  加我金兵衛
恵山町史 (4、村政のはじまり)

これは、地理的地形的な条件や運上屋などを中核に、利益社会としての集落形態が形成されており、それを追認するかたちで,蝦夷日誌 巻之五』1845~7年(弘化2~4年)では現字御崎から字恵山七つ岩のあたり迄を磯屋村,これについての郷土についての資料は、1817年(文化14年)12月に高田屋金兵衛と交わした『新鱈儀定証文之事,』(これは5年間にわたる高田屋と尻岸内の新鱈の売買契約)に、古武井を除く尻岸内場所の役職・名前が載っている,また、1826年(文政9年)10月、高田屋と日浦村とが交わした『借用申証文之事』(神社建築の費用、3両
恵山町史 (①松前地古武井熔鉱炉の研究並びに考証年表)

鉄を吹いたところを「銅屋」と言う。銅屋は60間余りに板屋の小屋を造り、中間に竈を築く。,場所之内金銀山鉄砂其外産物出所稼方等為見分罷越候趣申し上候書付(市立函館博物館蔵)(3)又右ヱ門は故老で、伯父三好又兵衛は高田屋嘉兵衛,・金兵衛の支配人で、嘉兵衛密貿易の廉で、彼も亦江戸に召喚され、其時彼は弟(又右ヱ門の父)に別るるに臨み,また、不備と思われる、水車小屋、樋、長屋、板蔵等も建設した。,③文久元年(1861)二月熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御小屋諸色御入用積書上なお、水車場小屋内部は後述する
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました