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函館市史 通説編 第一巻
(高龍寺山溶岩)
高龍寺
山溶岩
高龍寺
山溶岩は北部の
高龍寺
山付近と寒川東方にわずかに分布する。 /
高龍寺
山溶岩
戸井町史
(一、広福寺(小安))
広福寺は函館
高竜寺
の末寺として創建された寺院であるが、広福寺が下海岸を開拓して曹洞宗の信徒をふやし、いわば,分家として生れた石崎善宝寺、戸井法泉寺、尻岸内高岸寺、椵法華大竜寺は広福寺の末寺ではなく、何れも函館
高竜寺
,広福寺の由来の概要を調べて見ると、寛政元年(一七九〇)箱館
高竜寺
十世職蒸嶺豊眠大和尚が小安地域に来て布教,その後信徒が増加したので、
高竜寺
は碩梁弘観和尚を能化庵の主任に命じ、古川尻から椵法華までの布教、教化に,明治三十年(一八九七)二月から、
高竜寺
から広川董林(とうりん)が能化庵担当教師として派遣され、法務を掌
函館市史 通説編 第二巻
(仏教系の女学校)
区内6か寺(
高龍寺
・称名寺・西別院・実行寺・常住寺・真言寺・東別院)で結成していた六和会の慈善事業として,また22年にこの六和会から脱退した
高龍寺
は、吉祥教会本部の事業として22年5月、地蔵町に吉祥女学校を開校
恵山町史
(3、龍穏山『高聖寺』)
所在地 字古武井22番地 宗 派 曹洞宗、本尊・釈迦牟尼仏 函館市船見町、曹洞宗『
高龍寺
,明治のころ、戸井村字小安村に「能化庵」という函館
高龍寺
の末寺(現在の広福寺)があった。,能化庵の再三の要請に、
高龍寺
の常任布教師大道弾隨は、秋田県の(曹洞宗の)宗務支局取締北村亮仙に僧侶の派遣,明治29年(1896)3月海を渡って函館
高龍寺
にやってき芹田天隨は、4月より、早速「能化庵・住職代務」,・明治39年(1906)5月 『
高龍寺
法務所』を新設する。
函館市史 通説編 第一巻
(乙二と「斧柄社」)
乙二は文化7(1810)年箱館に渡り、
高龍寺
の付近に庵を結んで「斧柄社(おののえしゃ)」と称した。,病没した翌年の天保12(1841)年、
高龍寺
末庵地蔵堂に「葉すくなの松よりさひし我姿」の彼の句を刻んで,現在
高龍寺
には「花にねぬ此もたぐいか鼠の巣」という芭蕉の句を刻んだ鼠塚があるが、これは文政年間に斧柄社中
函館市史 通説編 第二巻
(墓地と埋葬)
現に函館においても維新後は一貰して土葬が行なわれていた(「
高龍寺
移転一件」道文蔵)。 ,このように、明治8年に火葬が解禁になったものの、明治12年の
高龍寺
移転に際して、
高龍寺
が悪臭を放ち甚だ,不衛生であるから火葬化したい旨を開拓使に申し出ていた(「
高龍寺
移転一件留」)ことが端的に示すように、この,明治8年の火葬解禁以後も、土葬も行なわれていたが、前述の如く、再三にわたる市中寺院の焼失もあり、加えて
高龍寺
函館市史 通説編 第一巻
(建築)
建築 嘉永2年から3年間、
高竜寺
の建築に関係した熊谷源太郎は、武蔵国熊谷の人で、小琳斉と号し、大酒家,また
高龍寺
本堂にはその弟子の刀痕が残されている。
函館市史 通説編 第一巻
(絵画)
絵画 釈迦涅槃図(
高龍寺
蔵) 画家では、松前応挙などといわれた画家蠣崎波響(松前資広の5男),は、松前氏転封中の文化8年、
高龍寺
の住持に「釈迦涅槃図」の双幅を贈っている。,「時文化辛未秋九月為松前函館嶴
高龍寺
十一世禅海上人、蠣崎源広年斎沐拝手写於波響樓」と為書(ためがき)がある
南茅部町史 下巻
(〔嘉永七年「六ヶ場所書上」にみる神社庵室〕)
〔嘉永七年「六ヶ場所書上」にみる神社庵室〕 小安村 能化庵 壱ヶ所 禅宗箱館
高龍寺
末, 稲荷社 (神主 同) 庵 禅宗箱館
高龍寺
末, 内浦権現社 壱ヶ所 (神主 同) 地蔵庵 壱ヶ所 禅宗箱館
高龍寺
末
函館市史 通説編 第一巻
(元禄の大洪水)
しかもこれが翌16年6月にも続いて大洪水となり、亀田番所の役宅もなかば流失し、
高龍寺
の境内は崩れて寺院,これがため、亀田の住民で箱館に移る者はますます多くなり、その後、宝永3(1706)年には
高龍寺
、同5年
函館市史 通説編 第二巻
(北海道における近代寺院の造立と函館)
本願寺 本願寺 本願寺 本願寺 総持寺 京都仏光寺 松前法幢寺 本願寺 本願寺 函館
高龍寺
,永平寺 函館
高龍寺
有珠善光寺 本願寺 妙心寺 函館実行寺 西本願寺 西本願寺 西本願寺,札幌経王寺 身延久遠寺 身延久遠寺 函館実行寺 函館実行寺 有珠善光寺 松前正行寺 函館
高龍寺
,本願寺 函館称名寺 松前光善寺 古平禅源寺 本願寺 本願寺 妙心寺 小樽長昌寺 函館
高龍寺
,本願寺 本願寺 松前正行寺 小樽長昌寺 札幌新善光寺 熊石門昌庵 山形大日坊 函館
高龍寺
函館市史 通説編 第一巻
(地蔵堂)
地蔵堂 前記
高竜寺
持の地蔵堂のほか、尻沢辺(一説に享和2年創立のもの)、山背泊(文化のころから存在した
函館市史 通説編 第一巻
(納経と供養碑)
天保5年
高龍寺
に南部藩兵陣歿者の供養碑が建てられた。
函館市史 通説編 第一巻
(御殿山溶岩)
この溶岩は風化して全般にかなり白っぽくなって
高龍寺
山溶岩を覆っているが、千畳敷溶岩との関係は直接つかむことが
函館市史 通説編 第二巻
(諸施設の移転と都市形態)
しかし
高龍寺
や八幡宮移転については大火以前より計画がすすめられていた。,
高龍寺
についても同様の伺書が出されており、その内容から総代人らの願いが先行していることも理解できる(明治,12年「
高龍寺
移転一件」)。,八幡宮は現在地谷地頭町に明治13年に、
高龍寺
は同12年に現在地船見町に移転している(明治12年6月9日,この件については開拓使は道路改正委員会の審議を経て、寺院3か所(能量寺、称名寺、実行寺)は台町
高龍寺
より
函館市史 通説編 第二巻
(沿岸型開教と内陸型開教)
期 宗 派 本 寺 末寺数 真言宗 阿吽寺 6 (2) 曹洞宗 法幢寺 法源寺
高龍寺
,松前法華寺 京都本満寺 2 1 後 期 宗 派 本 寺 末寺数 曹洞宗
高龍寺
,松前町史』通説編1による ( )内は中世寺院数をあらわす そうしてみれば、函館の
高龍寺
函館市史 通説編 第一巻
(立待岬溶岩)
寒川火山噴出物層を覆って各種の火山噴出物が分布しており、下位から上位に、立待岬溶岩、千畳敷集塊岩層、
高龍寺
山溶岩
函館市史 別巻 亀田市編
(潜龍寺(曹洞宗))
明治三十一年、
高龍寺
説教所を設けて布教した。
戸井町史
(二、法泉寺(館町))
二、法泉寺(館町) 館町の法泉寺は、曹洞宗の寺院で、函館
高竜寺
の末寺である。
恵山町史
(2、東雲山『高岸寺』)
所在地 字豊浦208番地 宗 派 曹洞宗、本尊・釈迦牟尼仏 函館市船見町、曹洞宗『
高龍寺
,さらに、赤井松助ら中心となった6人が世話役となり、これを機に地蔵堂を
高龍寺
の説教所にすることを協議、函館
高龍寺
十九世上田大法方丈,に願出、『
高龍寺
説教所』としての認可を得る。
函館市史 通説編 第一巻
(遊歩区域)
また外国人の休息所はさきに箱館山ノ上休息所、
高龍寺
および谷地頭、七重浜各1か所と定められていたが、貿易開始後
函館市史 銭亀沢編
(曹洞宗善宝寺)
曹洞宗善宝寺 明治二十九(一八九六)年現在の場所に函館の
高龍寺
の末寺として創立。
南茅部町史 下巻
(〔郷土の仏教〕)
南茅部の神社・寺院の記録は、寛政一二年の亀田八幡宮社記に箱館
高龍寺
の末寺庵室として、臼尻の龍宮庵が記録
椴法華村史
(大龍寺)
明治二十一年十月九日、説教所妙法寺として出願し、明治二十二年七月五日許可せられ、仏事を営み、数年を経て函館
高龍寺
上田大法師
恵山町史
(宗門人別帳 明治3年の尾白内村(現森町)のもの)
宗門人別帳 尾 白 内 村 (扉) 宗門人別調書上 尾白内村 (本文)一、禅宗
高龍寺
南茅部町史 下巻
(〔明治五年神社巡回日記〕)
起元不分明 同村 曹洞宗箱館
高龍寺
末 龍宮庵 右庵中点検ノ処、混淆一切無レ之候事。,鬼子母神今上皇帝 小安村 三五軒 二二〇人 八幡宮 ○
高龍寺
末今上皇帝,稲生社 臼尻村 五三軒 三二〇人 厳嶋社 稲生社
高龍寺
末龍宮庵,明治五) 砂原村 一三七軒 六八〇人 稲生社(延享二)
高龍寺
末地蔵庵, 稲生神 七重村 四二軒 一八六人 三嶋社(寛政二再建)
高龍寺
末
函館市史 通説編 第一巻
(寺院)
寺院
高龍寺
(曹洞宗) 天保8(1837)年総門を焼いたので、同15年本堂、庫裡、祖師堂、霊堂、鎮守堂
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の町勢)
これは
高龍寺
の末庵で、この境内には仙台の俳人松窓乙二の門人で、箱館の人、雁k来舎の「葉すくなの松よりさひし,旧図を見ると四つ角から
高龍寺
の前あたりまでを仲町と唱え、それより西を皆弁天といっている。,それで
高龍寺
門前から鰪澗の海岸までをいっているのではないかと思われる。 ,「弁天町」 いまこの
高龍寺
門前から西をいっているが、しかしはっきりしていない。,「神明町」
高龍寺
の西から鰪澗町に至る弁天町の裏町である。縦町1すじ横町1すじになっている。
函館市史 通説編 第一巻
(寺院)
高龍寺
(曹洞宗) 寛永10(1633)年松前法源寺4世芳龍が亀田に1宇を建立(寺号公称年代不明, 地蔵堂 『蝦夷実地検考録』には地蔵町にあって
高龍寺
持ちの地蔵堂で寛政7年建立とするが、
函館市史 銭亀沢編
(宇賀昆布)
ただし、「箱館町
高龍寺
の鐘の銘に宇賀の浦
高龍寺
と認めあるなり」とも記している。
函館市史 通説編 第二巻
(明治時代の函館の寺院群)
5,850人
高龍寺
台町 曹洞宗 法源寺 松前法源寺4世の盤室芳龍が寛永10(1633)年、亀田村に,一村中 地蔵堂 地蔵町 曹洞宗
高龍寺
高龍寺
10世燕嶺が、寛政7(1795)年に創建。
南茅部町史 下巻
(〔寺院現況〕)
明治二三年一一月一二日寺号公称 井上歩導 昭和三三生 曹洞宗 覚王寺 寛政一二年(一八〇〇)箱館
高龍寺
末龍宮庵
南茅部町史 下巻
(北海道旧纂図絵による産土神(うぶすながみ)の起源)
八月一一日 イソヤ稲荷社 寛政七乙卯年(一七九五) 九月五日 箱館曹洞宗
高龍寺
末臼尻龍宮庵建立
函館市史 通説編 第一巻
(円空・空念の渡来)
宝永元(1704)年に渡来して、道南の寺社に納経して歩いた越前の禅僧空念は、同年4月亀田に来て、称名寺と
高龍寺
函館市史 通説編 第一巻
(士官らの市中見物)
(『ペリー日本遠征日誌』) とあって、ウイリアムズら一行は弁天社から
高龍寺
や実行寺辺,を歩いたらしく、文中に「護国の丘」とあるのは、あるいは国華山
高龍寺
の国華山を護国山の意味に誤解したのではないかと
函館市史 通説編 第二巻
(東本顧寺の移転)
その点、曹洞宗
高龍寺
だけは、市中の名刹として比較的、大火から免れることができた。,ちなみに、12年の移転に際しては開拓使から「移転費用」として4392円余が下付されていた(「
高龍寺
移転一件
函館市史 別巻 亀田市編
(明治のころ)
例えば無量庵が大円寺となり、
高龍寺
説教所が潜龍寺となり、また亀田村に布教して、やがて浄光寺、万年寺(共
函館市史 通説編 第一巻
(市街の拡張)
また弁天町の坂上には神明社および
高龍寺
があり、大町の坂上には実行寺、称名寺、浄玄寺等の大寺が門を並べて
函館市史 通説編 第一巻
(山岳地)
御殿山の西隣にある
高龍寺
山(264メートル)は万延元年の幕府測量図や明治16年の函館港実測図によると愛宕,
高龍寺
溶岩より成り、御殿山溶岩より幾分古いが、同じく鮮新世に噴出したと考えられている。,函館山の北部と南部は鞍部でつながっているが、ここには、かつては
高龍寺
山溶岩や千畳敷集塊岩層が堆(たい)
函館市史 別巻 亀田市編
(瓦と煉瓦)
また、年代はつまびらかではないが、
高龍寺
、浄玄寺、願乗寺、実行寺、湯殿山は同店の瓦を使用したと言われている
函館市史 通説編 第一巻
(寺院)
安政4年には高田屋の闕所でなくなっていた不動院が、南部の修験者の手で再興され、翌5年には
高龍寺
が堂宇を
函館市史 銭亀沢編
(広い海域が占めていた高海面期の函館・銭亀沢(図2・1・11、約一二万年前‥最終間氷期))
一方、函館山では、
高龍寺
境内、旧函館区公会堂、護国神社の足元あたりまでも波が打ち寄せていたらしい。
函館市史 別巻 亀田市編
(例言)
一、亀田に創設した
高龍寺
、称名寺、山上大神宮などについては省略した。
南茅部町史 下巻
(口絵)
恵比須・大黒神像(江戸時代中頃) 〓鳥山家 所蔵 小川屋吉助 往来手形 万延元年 奥州箱館
高龍寺
函館市史 別巻 亀田市編
(箱館への移動)
○宝永三(一七〇六)年 亀田の
高龍寺
箱館に移る。
函館市史 通説編 第二巻
(総代人の活動)
めがなかったため具体的な活動の記録があまり残されていないが、選出直後の8月18日には早速集会が持たれ、「
高龍寺
移転
南茅部町史 下巻
(〔龍宮庵創建〕)
郷土来住の人びとは、早々に神社、小祠を祀った記録はあるが、寺院についての開基・建立は、寛政一二年、箱館の
高龍寺
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田港の発展)
また寛永十(一六三三)年五月、曹洞宗の僧芳龍によって
高龍寺
が、寛永二十一(一六四四)年には浄土宗の僧円龍
南茅部町史 下巻
(須弥壇)
須弥壇 郷土に始めて創建された臼尻龍宮庵、現覚王寺の前身、曹洞宗箱館
高龍寺
末に、天保七丙申年(一八三六
函館市史 通説編 第一巻
(箱館港則と港湾施設)
していたが、これに外国貿易事務を兼ねさせると、混雑して種々の弊害が生ずるおそれがあるので、6月仮に弁天町
高龍寺
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