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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 銭亀沢編 (鰯粕加工)

鰯粕加工 銭亀沢地区の鰯の漁獲高は不明だが、『開拓使事業報告』には、鰯絞粕の郡別の収獲高が記載されている,この時期、道内で漁獲された鰯は、大半のものが魚粕に加工されていた。,鰯絞粕の品質は産地によって大きな隔たりがあったようで、「樽前粕ヲ以テ第一トシ日高及ビ山崎之ニ次ギ函館近傍之,鰯粕の加工時期が、乾燥には最も適さない時期であったことがその理由とされている。,表3・1・3 鰯絞粕の郡別収穫高 / 鰯粕加工
函館市史 通説編 第一巻 (鰯漁)

鰯漁 鰯(いわし)は『松前志』(天明年間著)にも「東部此魚多し」とあり、箱館地方の海域でも鰯漁があったことが,、これを漁し、生で販売し、または塩蔵して地方住民の食料に供するに過ぎなかったが、これも寛政年間に入り鰯を,目的にして特に漁場を設け、搾(しぼり)粕を製造して肥料として輸出するようになった。 / 鰯漁
恵山町史 (6、鰯漁(網漁))

6、鰯漁(網漁) 郷土の網漁の主体が『鰯漁』であるので、鰯漁の概略について触れることとする。  ,当時、本道で「鰯(鰮・イワシ)以下鰮と記す」といえば、①子鰊(にしん)(バカイワシ)②真鰮③背黒鰮の3,なお、当時は鰮漁獲高の殆どが粕に製造されていた。  ,次の表は明治期の鰮粕生産高を示すものである。,『明治一九年・二九年・四一年の地方別鰮粕生産高』 (道庁統計表より)  右の表では、渡島の鰮粕の / 6、鰯漁(網漁)
函館市史 銭亀沢編 (〈鰯流敷網漁業〉)

〈鰯流敷網漁業〉 この漁業は、昭和三年に、隣の戸井村小安の漁民、島本石五郎が考案したもので、翌年から,経営方法は、戸井村と同様の歩合制度でおこなわれていたようだが、それによると、加工された魚粕を漁業主三分,歩合の配当は、現物(玉粕)で分配して、玉粕の乾燥は各人がおこなった。,なお漁夫間の玉粕の配分は、船頭が一・三分、下船頭が一・三分、一般漁夫〇・一分の割合で分配された。   / 〈鰯流敷網漁業〉
函館市史 銭亀沢編 (鰯漁業の経営)

鰯漁業の経営 鰯漁業の営業組織には、独立営業と歩方営業があり、独立営業は主に胆振・日高地域に多く、歩方営業,其親方ト歩方トノ負担及分配ノ割合ハ(親方三分、歩方七分・筆者)…唯之ヲ分配スルニ売上代金ヲ以テセズシテ生粕ヲ / 鰯漁業の経営
函館市史 銭亀沢編 (〈鰯揚繰(あぐり)網漁業〉)

〈鰯揚繰(あぐり)網漁業〉 この漁業の着業数は、昭和五年から七年には二ないし三か統、八年は五か統である,操業時間は夜間が七割を占め、漁獲物は鰯のほかに鯖、福来(ふくらぎ)などが混獲された。,経営は歩合制度で、現物(玉粕)が配分された。 / 〈鰯揚繰(あぐり)網漁業〉
椴法華村史 (鰮製品)

鰮製品 江戸時代末に漁獲された鰮のほとんど総べては、鰮〆粕として製造されているが、その理由は本州における,農業技術の進歩に伴い、魚肥の需要が増し、〆粕として製造することにより輸送や保存に都合がよかったからである,鰯之部   一、干鰯、壱俵、目形拾三貫目入    是ハ網引仕候を基儘干上ケ、小莚ニ而ホシカ莚ト唱ヘ,一、鰯〆粕 直段 [砂金拾匁此錢六貫文ニ付]目形五拾壱貫匁位    是ハ釜ニ而煎絞リ候粕干上ケ、弐釜,一、鰯 油 直段 四斗入壱挺ニ付 [砂金五匁七歩位此銭三貫四百廿文]    是ハ当時下落之直段ニ御座候
南茅部町史 上巻 ([鰮(いわし)漁業])

北海道史諸誌は、鰮から油をしぼり締粕(しめかす)を製造することは、安永・天明のころには亀田近在、東蝦夷地,〃 幸吉 山越内村  鰯引網      〃七年(一八一〇) 三代 与五左衛門 椴法華村アイトマリ  鰯引網,) 幸吉 山越内村山崎  鰯引網 一ヶ統 } 七〇〇石  〃   〃 幸吉 銭亀沢  鰯引網 一ヶ統  ,(一八五三)の村々の鰮引網の網数と鰯〆粕の生産高は   椴法花   一 投   四、六〇〇貫   ,尾札部 木直  いわし粕  二〇〇石目       尾札部 夏いわし粕 六三〇石目           
函館市史 銭亀沢編 (漁種と海産干場の所有形態)

逆に鰯漁の場合には網元は地曳網が使用でき、揚がった鰯をゆでるための釜場などの施設を設けられる広い海産干場,しかし、鰯漁に労力を提供する一般の漁民は、出来上った粕玉を分け前として与えられるため、特に海産干場を必要,実際、現在の志海苔町、古川町、石崎町あたりでは、昭和十五(一九四〇)年頃まで鰯漁がおこなわれていたようである,網元のおこなう漁に若い衆が雇われ、獲れた鰯を釜でゆでて粕玉を作ると、網元は三分を取り分とし、残りの七分,を若い衆が均等に分け(石崎の場合は共同出資で漁をおこない、粕玉は漁に携わったものが均等に分けた)、持ちかえって
恵山町史 (2、尻岸内村公文書にみる明治前期の漁業)

次に、鮃(ヒラメ)・鰤(ブリ)・鰯(イワシ)(鰯〆粕(しめかす))である。,中でも明治8年の鰯〆粕の生産額270石、金額にして567円は合計金額の11.5%を占める。,この時代、東北地方の新田開発が進み肥料の需要は増加、特に「乾鰯、干鰮(ほしか)」と呼ばれた鰯〆粕は、肥料,表『函館縣統計表式(巻ノ一)亀田郡尻岸内村』より「第七八 特有海産ノ産出高」   鰯・鰯〆粕  ,資料では鰯〆粕が断トツの第1位(12年を除き)、しかも、明治13年から16年までの漁獲高は「2,100
椴法華村史 (鰮漁の実態)

鰮漁の実態 『嘉永七甲寅年三月六ヶ場所神社その他書上』により椴法華村と近村の鰮粕生産高と鰮網について,このほかに安政二年(一八五五)長沢盛至の『東蝦夷地海岸図台帳』(要約)によれば、「網ハ鰯あみ二流、しまとまり・,椴法華・やし里はま・同村中にあり、丑年出産物、いわし〆粕二百石」と記されている。  ,これら二つの記事により、一八五三年頃尻岸内から尾札部に至る村々では引網により鰮漁がなされ、ほとんどが鰮粕に,としひろ)の蝦夷地巡視に随行した玉虫義の『入北記』によれば、椴法華村の記事として「小村ナレドモ鱈鮫或ハ鰯ノ
函館市史 銭亀沢編 (漁業の種類)

これをみると、各村落ではともに、昆布、鰯、鱒(ます)、鱈(たら)、若布(わかめ)、鯣(するめ)などが生産,生産額は不明だが、銭亀沢村を含む亀田郡(湯川村から椴法華村)の総生産額が一一万八〇〇〇円で、このうち鰯粕,生産額からみて、鰯漁業と昆布採取が、この地域の主要漁業ということになろう。  
南茅部町史 上巻 ([嘉永七年六箇場所書上])

粕  四千六百〆匁 前同断 但金壱両ニ付直段三十九〆五百匁 一 鰤    六百本    前同断 但壱本,去丑年取揚高 但壱駄ニ付直段七十五文 一 元揃同   三百把     前同断 但壱把ニ付直段三百廿文 一 鰯粕,粕  八百〆匁  去丑年取揚高 但金壱両ニ付直段三拾九〆匁 一 鱈    三百五拾束 前同断 但壱束,  前同断 但壱本ニ付直段弐百五十文 一 鮪    三拾五石  前同断 但壱両ニ付四拾六〆匁 一 鰯粕,   前同断 但壱把ニ付直段弐百廿文 一 駄昆布  八拾五駄  前同断但壱駄ニ付 直段七十五文 一 鰯粕
函館市史 銭亀沢編 (主な漁獲物)

これによると、昭和六年の生産額では、鰯が七三・六パーセントと最も多く、次いで昆布が一六・三パーセントとこの,これらの鰯、昆布の大部分は、魚粕、折昆布などの乾製品として出荷されていた。  ,とはいえ、この地域の漁業は、この時期においても、鰯漁業と昆布採取業が大きな比重を占めていた。
恵山町史 (5、網漁)

5、網漁 『函館縣統計表式・第七八特有海産物ノ産出高』に示されているように、下海岸一帯の鰯の群来は数年続,き、〆粕の需要は東北地方等の新田の開発により益々高まり価格も高騰し、郷土の〆粕の生産額(代価)は昆布の,鰯漁はその年の気象、水温・海流に左右され、また、設備投資も多額でリスクも背負うが一獲千金の漁でもある。,一九〇二~一九二六) 網免許延べ件数』  明治35年以降の免許制度の資料によれば、郷土の網漁は、鰯地曳網,魚種別  魚種別では何と言っても『鰯、〆粕・油』が主体であり、免許継続期間も殆どが20年となっている。
函館市史 通説編 第一巻 (商取引)

その他、塩鰤、新鱈、昆布、鯣、鰯粕なども江戸に送られるようになっているが、なかでも箱館六箇場所の生産力,更に内地の商人が秋季に来て滞在して鰯粕を購入し、問屋の倉庫に預けておいて、翌春一番船で積出す物もあり、
椴法華村史 (松栄丸の元椴法華沈没)

積荷・塩切鰤十石六斗・鰯粕三石七斗五升・元揃昆布三斗五舛・手操昆布一石・鰤鱈取合壱石八斗皆流出する。
椴法華村史 (函館の小廻船沈没)

  ○小廻船の沈没    一昨九日午后三時頃石崎村沖合にて小廻船沈沒せり同船ハ下の釜屋村よりメ粕三十五本積,く處に依れば同船に大島佐助外一人乘組み本月九日亀田郡小安村支釜谷村美安中藏より當區へ向け廻送の委托荷鰯メ,粕二十二本大凡二十石餘を搭載して同所を出帆して進航の海上圖らずも暴風に逢ひ同郡志海苔村の沖合に於て終に
恵山町史 (7、鰯(鰮)漁業経営)

7、鰯(鰮)漁業経営 経営者  曳網の経営はひとり一統を営業するのが常であった。,鰮漁の歩方による配分は多くの場合生粕であったので、漁夫は各自それを家に持ち帰り乾燥して売却した。,網主は翌年の2、3月、鰮粕乾燥の上仕込主に送付し、その際の精算で借越(赤字)となったならば、金利2分5 / 7、鰯(鰮)漁業経営
函館市史 銭亀沢編 (敷地割にみる村落社会と生業)

字湊と字古川尻に集中する鰯漁場は、浜の広大な干場に鰯建網漁のための船納屋、網納屋、漁師宿泊施設と、鰯絞粕加工,鰯漁場の経営は、何艘もの船を所有し、広大な浜を必要とし、多くの漁師を雇って成り立つもので、いくつかの一族,また、この鰯曳網漁は先に述べたように一八世紀後半以降に発生し、それまでの横並び的な漁村社会が、階層差を,鰯曳網業者が本村からの分離組であったとしても、鰯建網を経営する活動原理や住居様式は、むしろ鰊漁場の影響,集落形態は、近世以前の原型の上に、近世前期の小前漁師による昆布漁業形態が展開し、その周辺部に近世後期の鰯漁業
椴法華村史 (鰮漁業のはじまり)

一八〇一)には、箱館・内浦湾・日高地方にまで広まっていったが、その背景には、食用又は魚肥として干鰮、鰮粕の,寛政十年(一七九八)の『中村小市郎報告書』によれば、「近來鰯漁相始、右漁業ノ場所(亀田近在、東蝦夷地),ヘモ二三軒ツツ家作取立有之」と記され、寛政十二年の『東蝦夷地日記』吉田有利著にも「佐原(現在の砂原)鰯ヲ
恵山町史 (4、嘉永7甲寅3月の『箱館六ケ場所調べ』)

但、一把ニ付直段二三〇文 一、長切昆布 前同断(前と同じ二千把) 但、一把ニ付直段二五〇文 一、鰯粕, 近年漁事無御座候(近年鰯漁無く粕の生産はありません) 一、布苔 一〇〇〆匁(貫目)昨丑年取上高 但,ニ付直段 三〇〇文 一、長昆布 八、〇〇〇〆匁(貫目)前同断 但、金一両ニ付直段 九〇〆匁 一、鰯粕,(ぶり) 産物ニ御座候 一、元揃昆布 四,九〇〇把 去丑年取揚高 但、一把ニ付直段三〇〇文 一、鰯粕,ニ付直段 三〇〇文 一、長昆布 四〇、〇〇〇〆匁(貫目)前同断 但、金一両ニ付直段九〇〆匁 一、鰯粕
函館市史 通説編 第二巻 (漁業生産の推移)

11,236 131 11,586 11,558 175 10,524 10,524 366 鰊絞粕,          69 69 736 736 59 351 351 74 572 572 399 鰯絞粕,たり) 魚種別 明治6年 7年 8年 9年 10年 11年 12年 13年 14年 生鰊 鰊絞粕,生鮭 生鱒 干鱈 生鱈 鰯絞粕 鯣* 長切昆布 元揃昆布 折昆布 花折昆布 島田結昆布,これが鰊絞粕になると函館県のなかでも後志国の割合が大きくなる。
恵山町史 (天候に恵まれた昭和8年の農業)

これに、鰯粕・油・するめ等の水産加工品の総生産額485,082円を加えると1,035,369円で、農業,だが、昆布はともかく、鰯や烏賊(いか)が毎年獲れると約束されているわけではない、出稼者を集めたり高額の
南茅部町史 上巻 (元揃昆布の相場)

参考までに、この日の〆粕と米の相場を記しておく。     ,○〆粕 鰯粕 一円ニ付   茅部  上 四貫七百九十目 地廻 上 四貫八百目ヨリ四貫八百五十目迄
恵山町史 (1、明治前期の北海道の漁業)

合せて農業の発展による鰊粕・鰯粕の需要の増大、海上交通・流通の発達も要因の1つであろう。
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の地場産物)

の中心である箱館近海沿岸から、六箇場所にかけての漁業は、前時代にはわずかに試験的な漁業に過ぎなかった鰯漁業,この魚は一般に曳網を用いて漁獲し、搾粕に製して肥料として箱館を経由して本州方面に移出された。  ,由来、本道の鰯には「ヒシコ」および「マイワシ」の2種があり、「ヒシコ」はその大小によって「ジャミイワシ,このほか小鰊も鰯と称して漁獲するものもあり、樽前その他東蝦夷地においても相当の産額をみせた。
函館市史 通説編 第二巻 (商況の活発化)

〆粕は極々品不足の際なりしかば価格はズンズン騰貴し、前年の囲〆粕は二月初旬には六百三十円のもの三月初旬,次で〆粕も続々出荷あり。,五月初旬の相場は四百七十五円に上り、尚騰貴の景色にて、十日を経ざる内樽舞の鰯〆粕すら七百四十円となり、,鰊〆粕は五百六十円になり、六月初旬益々上り七百円となりしが、持主はまだ強気にて売放さず、平年は米と〆粕,し故、旁々〆粕は品不足となり、之に加へ〆粕の需要年々拡張せし事なれば、当時越後玄米は一石四円七十五銭の
函館市史 通説編 第二巻 (移出入品の内容)

函館の主要管外移出品の第一は、各種の魚粕、昆布、塩鮭であり、第二は、干鮑、干鱈、塩鱒であった。,その生産地をみると、鰊は西海岸が主産地で、鰯は東海岸茅部、静内で多く産出した。,魚粕類、胴鰊、笹目などの魚肥は、7、8年前、すなわち明治4、5年前までは、8、9割は、北陸、山陽、南海諸道,明治11年中の函館からの移出高は、鰊締粕142万1208貫、17万8036円余、鰯締粕50万6003貫余,、6万9528円余、雑魚粕16万0587貫余、26万6006円余、胴鰊・外割鰊・白子・笹目16万5519
函館市史 銭亀沢編 (出稼ぎ時の衣服と持ち物)

出稼ぎ時の衣服と持ち物 明治、大正、昭和にかけて鰯漁の盛んな頃は、「内地」(東北地方など)からたくさんの,戦後は鰯漁が衰退しイカ漁に変わったが、これは昭和三十年頃まで続いた。  ,一方、銭亀沢地区の人びとも鰯の粕干しを三月いっぱいで仕上げて昆布漁までの間を出稼ぎに行った。
恵山町史 ([3県(札幌・函館・根室)の設置])

戸数二七一戸 人口(男一、〇九九人)(女七四九人)  計一、八四八人 ・産業  漁業 昆布五千円 鰯粕八万四千円,阿部 冨 ・その他 酒醸造業一軒・産婆一名・神職一名など    この時期(明治14~16年)、鰯の,大漁が続き(〆粕にして)年平均7万円を越える生産額となり、浜は大いに賑わった。,または、夏秋の二季は鰯、昆布、冬季は鱈、鮫、鮃(ひらめ)など、交互捕漁し以て生業と為せり、冬季に重なるものは
函館市史 銭亀沢編 (嫁入り)

嫁入り この地域では七、八月頃は昆布採り、八月から十月頃まではいか釣り、十一、十二月には鰯漁がおこなわれ,、一、二月は鰯粕干し、三月から五、六月にかけては鰊場へ出稼ぎに行った。
函館市史 銭亀沢編 (相互扶助の制度)

昆布干しや鰯粕運び、畑仕事の手助けはいうにおよばず、葬式、結婚式や建前の手伝いも隣近所の人たちがおこなっていた
恵山町史 (3、幕府直轄以降の箱館六ケ場所)

、一把ニ付直段二三〇文 一 長切昆布 前同断(前に同じ二千把)  但、一把ニ付直段二五〇文 一 鰯粕,、一把ニ付直段 三〇〇文 一 長切昆布 八〇〇〇〆匁 前同断 但、金一両ニ付直段 九〇〆匁 一 鰯粕,(ぶり)産物ニ御座候 一 元揃昆布  四〇〇〇把 去丑年取揚高 但、一把ニ付直段 三〇〇文 一 鰯粕,いわし)」引網漁、古武井・根田内の「鱈(たら)」延縄漁がおこなわれ、製品として「鰯粕」5800貫、金額,また、船揚げや鰯粕絞りなど労力に使う馬牛の頭数が合計で91頭、これも相当な数である。
函館市史 通説編 第二巻 (漁業生産の増大)

20年代における渡島国が北海道のなかで高い割合を占める主な漁業生産物は、生では鰊、鰤、鮪、製造品では鰯粕,、塩鮪、鯣、若布、鰯油である。,このなかで函館区における生産物は、量の多いものでは鰯粕と鯣に限られてくる。,これは、津軽海峡側に鰯の生産があったという点と、鯣については函館港が烏賊(いか)漁船の集結地であったことによる,40 702 666 160 379 357 25 596 581 100     鰯粕
椴法華村史 (椴法華の貨物輸送)

入港中の津軽郡油川村瀬戸松三郎所有松栄丸、十六石五斗積が暴風激浪のため難破し、積荷である塩切鰤十石六斗、鰯粕三石七斗五升
恵山町史 (主な作物、作付け面積と生産量・金額 『函館県統計表式 巻ノ一』より)

これは、この年代、イワシの大漁が続き、その「〆粕づくり」のため作物を栽培する余裕がなかったのではないかと,因みに、この年代の「鰯〆粕」の生産量を見れば、12年510石、13年2,100石、14年8,632石、
恵山町史 ((1)主な漁獲物)

イワシ)・鮭(サケ)・鱈(タラ)・昆布(コンブ)などが主な生産物で60から80パーセントを占め、塩乾物、粕油,魚種別の生産高の割合(北海道)  漁獲物は年により増減はあるが、生産高の割合の大きなものは鰊・鰯・
椴法華村史 (明治十六年)

は鹽切にして昨年は百石四百圓なりしに當年は百五十圓に下落せりと又同郡尾白内・鹿部村の近傍は此ごろまで鰯の,大漁にて〆粕も追々製し上がれりと故に右各村は何れも人気よく大景気なりといふ爰(ここ)に笑ふべき一話あり,函館県    (椴法華村分のみ他は省略) 品目    數量    藏所       引渡期限 鰯〆,粕   三拾五石     渡島國亀田 鹽鮭    四斗貮升   } 郡椴法華村 明治十六年 元揃昆布
恵山町史 (8、漁業組合の形成)

第廿七條 鰛絞粕ハ乾燥及ビ荷造ハ勉メテ帯濕混砂等ナキ様製造スベシ 若シ粗製ノモノヲ発見スルニ於テハ其改良,第三十貮條 鰯ヲ拾イ取ラント欲スル者ハ鰯網ヲ引付海中ニ於テ網袋ノ口ヲ結束シタル後ハ漁網支配人ノ指揮ヲ得,第五十五條 漁業組合ニ於テ産出スル昆布魚粕等売買ニ用イル秤量ハ総テ鉄衡ヲ用イ必ズ組合ニ備置キ此秤ヲ標準,また、第廿七條の鰛絞粕について、その製品化の細則を示す追加規約が出願されている。,斜面ニ出来粘土ニテ堅メ適宜小溝ヲ通鑿(さく)シテ水吐(はけ)ヲ善クシ下敷ニ竹又ハ柴木ノ簀(さく)ヲ用イ鰯魚
函館市史 通説編 第二巻 (運漕社)

70品目のうち鱈、鱒、鮭、鰤、昆布、〆粕、干鰯、干鯣、干鮑、煎海鼠、馬牛、棒鱈に石炭の11品目が函館からの
椴法華村史 (明治初期の商業)

先祖山根吉三司は、明治十年頃から同十九年にかけて、大澗港より米・味噌・塩を積み入れ椴法華に向かい、販売後鰯粕
函館市史 通説編 第二巻 (施設整備と為換業務の開始)

規則第2条には抵当とすべき商品に米穀と並んで北海道産出の〆粕、干鰯があげられており、また事業の目的として
函館市史 銭亀沢編 (工藤福松と樺太)

そして、工藤はこの品評会において、鰊粕で「二等」、胴鰊で「三等」、そして鰊鯑で「褒状」を得ているのである,なお北海道庁が保存する「免許漁業原簿」によれば、工藤は銭亀沢で鰯の地曳網漁をおこなっていた。
函館市史 通説編 第二巻 (商取引の実態と商人の諸相)

〆粕等ノ大坂以西ニ輸送スルハ大抵此方法ニ依ルモノトセシモ、現今ハ皆銀行ノ為換ニ依頼セリ。,4,661 1,6,8,12  明治11年度「函館商況原稿」(北海道立文書館蔵)より  1.魚粕 ,離している田中正右衛門は、旧沖の口問屋商人であり、大津屋田中家は、旧幕時代から箱館付六か場所内で鰊、鰯などの,漁場を開き、やがて東蝦夷地樽前の鰯漁業や厚岸郡の昆布や鰊に経営を拡大した漁業家でもあったので、株仲間問屋,いたが、天保年間には、昆布売買の業を起こすとともに、川汲村の漁民に仕込をなし、村民の生産した昆布、鱈、鰯などの
南茅部町史 下巻 (戸口及諸物品調)

   漬物寡クシテ僅カニ供給ニ足ルノミ 一 魚類    多シ 鮭鮪鱈鮊鯡某他雑魚    絞粕其三千八百拾九石八斗,七拾九石    同上 一 塩鮪  七百三拾九石七斗同上 一 生鮭  八拾九石七斗六升六合同上 一 鰯粕, (小計) 一四・〇〇〇 木綿 八五個 莚類 一三九個 硝子類 二五個 漬物 一四樽 青物 七個 酒粕
函館市史 銭亀沢編 (中宮家の樺太進出)

一方、収入をみると五月末あたりから、どんどん生産物(締粕、塩鰊、鰊油など)の売上金が入ってきている。,地元の銭亀沢でも鰯の曳網を経営しており、渡島水産会副会長の要職にあった。
恵山町史 ([大正期の村財政])

(いわし)、鰈(かれい)、鱈(たら)、目抜(めぬき)魚など主要水産物の収獲高も多く、特に大正5年の鰮粕(,4,079円)と地方水産税(元年2,922円・5年1,540円)の大幅減によるものであり、大正4年の鰯漁
函館市史 銭亀沢編 (目次)

明治期の漁業生産と経済構造………………………………215     漁民戸数と漁民の状態/漁業の種類/鰯漁業,/鰯粕加工/漁網と漁船/漁民の就業事情/     鰯漁業の経営/漁業資本と金融/昆布採取/昆布の採取規約,  一 地域社会の構造………………………………………………267     字/歴史的変遷と現状/鰯漁
恵山町史 ([税の負担])

二割(駄昆布など下等品)一割、○鱈(生、乾、塩とも)二割、○鰊(外割(ミガキ))一割(生)五分、○鰊、鰯(,〆粕)五分、*鰤(ぶり)(生、塩とも)二割、*鮪(生)二割(塩)一割五分、*鮭鱒(生、塩とも)二割、*
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